パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

共時性

2012年04月30日 21時08分53秒 | Weblog

連休中、せめて1冊くらいは読み終えようと
京都駅で購入したのが 高樹のぶ子の[マルセル」

ところが電車の振動は心地よくて
おまけに乗ったら条件反射のように
眠ってしまうのが常で、今日もその例にもれず

目が覚めたのは名古屋駅を過ぎた瞬間
そこで先程買い求めた本を開くと

『すぐ後ろの席で、母親が幼い娘に小声で話している。
 二人は名古屋から乗ってきた。』

この冒頭の文章
なんと、自分の後ろの席も名古屋からの乗客
まるっきり一緒なのではないか!
この本を開いたタイミングと、中の文章と
そして今の自分の状況
何かがあるとしか思えないような偶然の一致

共時性
ここで現れたか!
だったら今日は運がいいはずなのに
行く先々がイマイチの今日の京都の旅は
久々のハズレ

と言うことは、これから運が良くなるのか?
そんな風に自分の都合の良いように考えている

偶然の一致
何かの示唆
いや何かの示唆と思いたがる心理的傾向

それらが本当はどういうものかはわからない
しかし、時々こういうことはある
と言う事実だけは疑いようもない

ユングがまじめに取り上げて研究したのも
分かる気がする
(と言ってユングの著作を読んでいるわけではないが)

 

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スマーフォンに必要な機能は

2012年04月28日 16時13分07秒 | Weblog

アプリが豊富で、いろんな事ができるとか
格好いいデザインで便利この上ない
といったことより

故障が少ない、電話がちゃんと出来るといった
安定性ではないのか

少なくとも最近のスマホ(Android搭載)の不安定ぶり
(電話が途中で切れたり、妙に熱を持ってしまうとか)
を経験している自分にとっては
こうした基本的なことができていないことに
腹がたって仕方ない

このトラブルは最初自分だけかと思ったら
どうやらそうではないらしくて
ネットで調べてもちょくちょくあるようだ
特にAndroidのスマホに

その説明には
Androidは各社それぞれにカスタマイズされたり
アプリもきちんとチェックされたものだけが
ダウンロードできるできるわけではないため
こうしたトラブルが起きやすく
iphoneの方はOSからデバイスまで一社で完結しているし
アプリも審査が厳しいために
トラブルが少ないとあった

ジョブズが自分ところだけで完結させたのは
自分の作品に他人の手が入ることを
嫌ったでけではなく、こうしたことが起きることを
予想していたからか?

本当はiPhoneに変えたいのでけれど
といっても田舎の地方都市
電波の状況を考えるとdocomoにせざるを得ない

docomoがiPhoneを扱ってくれれば問題はないのだが

 

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楽しみな季節

2012年04月26日 20時43分26秒 | Weblog

毎年4月20日過ぎは心がワクワクする
こんなことで間に合うのか?
と心配した新緑が一気に芽吹くから

ちなみに今年は4月15日が

4月24日になると

新緑は葉っぱの赤ちゃんみたいで瑞々しくて
やはり愛おしく感じられるし
また癒されたりする

ところで、今日はまた雨
最近空気が乾燥して晴れる日がない
晴れたとしても妙に蒸し暑いような
まるで夏が一足先に来たような天候

そういえば去年もカラッとした
4月後半から5月がなかったような記憶がある

なんだかんだ言っていても
やはり気候は変わってきている
それがその年の特別なものじゃなく
徐々に変わりつつあるように
思えてしまうのが少し不安

「美しき5月」、今年期待できるか?

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聴く人がいるということ

2012年04月21日 21時09分57秒 | 音楽

少しずつ陽が長くなっている
仕事場から駐車場に向かう途中
豊橋向山大池町でチェロを弾く人を見かけた

弾いていたのは、ジュピター(平原綾香の曲のほう)
気持ちよさそう
しばらく足を止めて聴いていた

たまたまiPadを持っていたので
了解を得て写真と動画を撮った

撮り始めると、撮られていること、聴きく人がいることを意識してか
音楽に急に集中力が出てきた
良い意味で効果を狙った演奏スタイルになった
そして、それは聴いている方でも悪い気がしない

人は相手がいること
聴く人がいる、ということで演奏も(自分自身も)変化するものだ
(と実感した)

それは音楽の演奏に限らないかもしれない
まるで独白のような文章にしても
読む人を前提にすると多少の効果を狙って
デフォルメをすることがある

音楽の場合はその都度その都度の再現芸術で
常に同じ物を再現できる訳ではないし
そもそも再現しないことには始まらないのだから
美術品のように同じ物に対峙する訳にはいかない

楽譜通りの演奏といっても
場所の違い、ニュアンスの違い、解釈の違い、演奏に向かう時の気持ちの違い
などは当然存在するのだから
本当の演奏などというイデア論みたいなものは存在しない

あるのは、その場にあった良い演奏(音楽)合わない悪い演奏(音楽)
しかないのではないのだろうか

こんなふうに考えると、フルトヴェングラーの演奏の
聴衆の存在が不可欠な
そして即興性に満ちた演奏というものは、極めて当然の事の様に思われる

反対にグレン・グールドの音楽はどうなんだろう
録音という聴いてくれる人を前提とした音楽の有り様であっても
なにかしら人を拒絶するような(自分にはそんなふうに思える)
孤独感に満ちた音楽

音楽は楽しいだけではなく、厳しいものでもある
と考え方もあるから一概にグレン・グールドを
どうのこうの言うつもりはないけれど
音楽はやっぱり、目の前の人間を前提とした、そして実際に
目の前に聴いてくれる人がいるほうが自然のような気がする

という訳で、向山大池のチェロを弾く人を見かけたことから
あれこれ考えてみました

この後、彼は星条旗よ永遠なれ、バッハの無伴奏チェロ組曲と
演奏を続けた
なんでも家は向山大池の近所の方で
家では「うるさい!」ということで
ストリートミュージシャンみたいなことをやってるとのこと
でもこの出会いはちょっと儲けもんかな!

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国際人になるには

2012年04月19日 21時15分17秒 | Weblog

外国語ができるに越したことはないが
それができたからと言ってインターナショナルな人間になれるわけではない
おそらく外国に行った人の多くは、外国にいることによって
自分が否応なしに日本人であるということを感じざるを得ないし
また外国の人々も日本人としての扱いを、特に最初はするに違いない

そして国際人というのは、実は自分の国のことを、文化を、特質を
また欠点すらも知った者だと言えるのではないだろうか

しかしながら、残念なことにこの国は日本古来の文化を大切にしようとしない
なにも国粋主義であるべきだというのではない
ただ、昔の人が、たとえ最初は外国のモノマネだったとしても
次第に工夫を重ね完成したものを、あまりにも安易に捨て去りすぎる

建築はどうだ
太い柱、梁による伝統構法の家づくりは
現行法の概念とは違った方向から耐震について考えられている
そして、それは実際に地震に耐えた例も数多く見られる

なのに、
そう、なのにこの国の人(役人は)簡単に
過去の人達が蓄積してきた技術・工夫を何故あっさりと捨ててしまうのだろうか?

伊勢神宮の建築は釘・金物を使わない建築
それは伊勢神宮などの特殊なものだけに許されるものなのだろうか?

自分の国の文化についての愛情が感じられない人々
極端な言い方をすれば、アメリカの文化を無条件によしとする社会
経済成長・消費社会の観点から社会を眺めようとする社会
それらは少しヤバイんじゃないだろうか

できることなら意地になっても
自分の国の固有な文化は守って欲しいくらいなのに
それらの是非すら考える壇上に登らない

どうなんだか!
ブータンがアラブの春、ファイスブック革命の話題で盛り上がっていた時
日本では市川海老蔵のあの事件がテレビを占めていた
それは平和でいいね!
と言ったレベルではなく、国民の知識・興味、それは翻って国民のレベルまで
現しているのではないのか

一年ごとに代わる首相
他人ごとのような原発騒動
相変わらずの天下り
それらは当事者だけの問題ではなく
国民力の欠如に違いない

それはどこか自分の国の文化を大事にしない
ところにも通じているような気がする

それにしても、なぜ国は(役人は)日本固有の文化を
大事にしないのだろう

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色彩感覚

2012年04月17日 21時06分31秒 | Weblog

自分はビジュアル系の人間ではない
容姿のことではなく、絵画的センスに欠けるタイプで
関心は目に見えるものとは違うもの
音とか思考(妄想?)に向かっている
そんな人間が色彩のことを述べるのは
説得力がないかもしれないが
最近の女性(女の子)の服について思うことがある

一言で言ってしまえば
使っている色が多すぎる!
様に感じる

派手だけれど落ち着きが無い
そして幼稚、幼く感じられて仕方ない
このやたらと色の多い傾向は
テレビのアニメからきているのか

BSで見るフランスの女性の服装などは
シンプルでエレガント、気が利いている
そして色使いも、さすがファションの国と思わないこともない
聞くところによると色使い、服の組み合わせは代々
母親が娘に伝えていくものだとか、、

ところがこの国(日本)のファッションはどうだ
なんでもあり!の迫力は認めるとしても
どうしてもインテリジェンスにかけるところは
我慢出来ない

しかし、京都は違う
悔しいくらい小洒落た感覚がいろんな所に見られる
ちょっとしたポイントとなる色彩
すっきりしたデザイン

だがこれすらも以前ほどではなくなりつつあるようだ
などと偉そうな事をいっても
単なる独断と偏見に過ぎないが、、、

それにしても、色が多すぎるのは好きになれないな!


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「意志と表象としての世界」その解説で見つけた、気になる文章

2012年04月15日 19時10分05秒 | Weblog

デカンショー節で有名な
デカルト・カント・ショーペンハウエル
その中のショーペンハウエルの大著
「意志と表象としての世界」

この手の本は慣れと忍耐と集中力が必要
しかし、読んでいると時々、ツボにはまって
興味深いフレーズに巡りあう

現在読み進めているところだが
いやー、正直大変だ
くどいくらいに厳密な思考・定義付け
言わんとすることは分かるようなわからないような、、

何かの解説に仏教に影響を受けたとかあったけど
なるほど、そうかもしれない
と思えないこともない

この人、自分にはニーチェより肌に合いそう
フッサール・メルロ=ポンティ・ベルクソンあたりが
自分には理解してるかどうかは別にして
フィットする人たち

ところで今日は、その本文ではなく
解説書にあった文章で気になった部分を、、、

 

=====================================

現代とは、共有されるべき規範を喪失し、自分以外に
依拠する事のできる価値を持たず、それが自由の名の下に
享楽的消費と孤独な空白感へと分極化してきた時代である
と考えている。

自己中心享楽主義によって人と自然への配慮を忘れた現代は
人間環境、自然環境を加速度的に破壊してきた。

しかしほかならぬこの自己中心的享楽主義が同時に、大衆消費を
活性化する故に許容され、歓迎され、結果的に自然環境と人間環境
への負荷を増大する。    etc

=====================================

上記の文は本論には無関係だけれど、この文章に出会ったことは
この本の購入の元をとったかもしれない

現代は想像以上に生きにくい世界なのかもしれない
今更昔のようにシンプルな生き方はできないかもしれない
しかし、残念ながらここ最近のこの国の政治・メディア等を
眺めていると「他人任せの民主主義」はもう駄目だなと
思わざるをえない

この他人任せの民主主義を乗り超えるためには
個々の力・判断力がアップすることが望ましいが
その手段としてのこの手の哲学本等が役立つかもしれない
と考えるのは楽観的すぎるか?

しかし、ショーペンハウエル、予想外に面白い!

 

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ぎっくり腰

2012年04月10日 22時01分53秒 | Weblog

久々ひどい目にあった
ぎっくり腰
結局2日程休むことになってしまった

ぎっくり腰自体は年中行事で
起きたら安静にしていれば、
それ程大事にならない知恵はあったのだが

起きたのは自分が役員の地域の資源回収の現場
さすがに休むわけにもいかず
このくらいなら大丈夫か!
と頑張ったのがいけなかった
帰る頃には数メートル歩くにもビクビクしながらで
駐車場までの遠いこと

それから家についた後は
横になるだけ
しかし、炎症はこれからが本番
幸い横になっている時は痛くなかったが
トイレにいくときは、歩く時、しゃがむ時
いやー、大変だった

自分の姿を鏡で見ると
「く」の字になっている
かばっているせいで真っ直ぐ立てない

痛みがなくなったらこの体は
真っ直ぐに戻るのか少し不安が残る

そして約二日半
まだ違和感があるがなんとか
前傾姿勢、小さな歩幅、くの字で
歩くことができるようになった

ほんと、参った
ぎっくり腰はやったら直ぐ様
安静にしておくのが一番
そんな事を改めて思い知らされた数日だった

 

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もっと大きな文字を!

2012年04月07日 23時15分52秒 | Weblog

最近モバイルルーターを持ち歩く人が多くなっている
今日もある会議でWi-FiのiPad購入した人が持ってきた

せっかくだから自分のスマホをWi-Fi設定にしようと
keyと記された文字を読もうとしたのだが、、、

読めない
文字が小さすぎて
oだかcだかeだか見分けがつかない
老眼にはとても判別できない

そういえば自宅のルーターも字が小さすぎて
読めなかったことがあった
パソコン類のシリアル番号も小さくて読めない

読めないのはまだまだ他にもある
新聞とかチラシ広告の地図
これも文字が極めて小さい

機械類は安全のためなのか
目の良い若い人向けの設定になっているのか
わからないが、いずれにしても文字は
もっと大きな文字で!

文字は書いてあればいい
というもんじゃないと思うのだが

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京都の桜

2012年04月06日 21時54分49秒 | Weblog

この週末の京都は大変な人出なんだろうな
春の桜
秋の紅葉
この時の人出は半端じゃない
桜のほうが時期が短いだけに混雑した感じがするかも

以前訪れた時、銀閣から南禅寺への哲学の道あたりから
交通大渋滞、バスは全然動かない
帰りの新幹線の時間に間に合わないのではないかと
ヒヤヒヤしたものだった

こういう時はバスはダメだ
地下鉄に乗り換えなくては
しかし、ここでも満員状態
しばらくは仕方ないといったところか

ところで
「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月のころ」
と詠んだ西行
今の暦に当てはめると奇妙な事になるが
旧暦では間に合うかもしれない
と言ったタイミング


そういえばこの歌に限らず年中行事も
旧暦にあてはめたほうがリアリティーがある
もう少し旧暦ベースで考えるようにしたほうが良いかもしれない

「そうだ、京都 行こう」
今年の桜のポスターは龍安寺の石庭だった
京都の桜といえば他にどこなんだろう?

仁和寺、醍醐寺、そのくらいしか思いつかないが

 

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