パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「小林秀雄」再認識!

2010年03月31日 21時06分14秒 | Weblog
昨日話題にした
小林秀雄の「モオツァルト」

確かに自分の耳で聞いた実感から
様々な事が考察されているが
これが昭和22年に書かれた事を思うと
正直なところ不思議な思いにならざるを得ない

彼はどのようにモーツアルトを聴いたのだろう
今の様に録音された媒体が巷にあるわけではない

とすると実演?
東京に住んでいるのなら頻繁に生演奏を聴けたのだろうか?

それでもモーツアルトの音楽をあれこれ考察するには
実演だけでは少なすぎる事はないのか?
それともこれが優秀な人の所以なのか
少し聴いただけで直感的に凄まじい洞察が可能になったのか?

この人のいいところは
本当に自分の言葉で表現しているところ(当たり前?)
誰かからの引用や、常套句の羅列ではなく
確かにそう感じた何かをある種の戦いのごとく
表現しているようだ

そういえば吉田秀和氏も同じ様に
自分の言葉で柔らかく、繊細な感受性と
明晰な頭脳で得たものを表現している

批評なんて個人の趣味みたいなもので
毒にも薬のもならないかもしれないが
それでも何らかの普遍性を持っている様に感じられる

小林秀雄
またなにか探して読んでみよう!




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「分かりやすさ」はつまらない?

2010年03月30日 20時19分30秒 | Weblog
確か読んだはずなのに、全然覚えていない事がある
幸い同じ本を2回買うという経験は
今のところ1回しか経験していないが
内容を覚えていない!
という事実が少し悲しい

小林秀雄「モオツァルト」
本屋の文庫本コーナーのぞいていたとき
確か自分の書棚にもあったはず!
と思い出して何年かぶりに引っ張りだしてみた

覚えていたのは冒頭の部分だけ
モオツァルトの音楽は真似しようとしても誰一人
上手くいかなかった
というゲーテの引用の部分と
40番の楽譜の掲載のあった事だけ

割合抵抗感なくスラスラ読み進めていけたが
覚えていなかったのは
その内容が理解に至っていないからではなかったか?

確かに本は読む時期、タイミングがあるかもしれない
その時の精神状態によって読み取り方は随分違う

ただそれにしても不思議に思う事は
この小林秀雄の本に限らず、ある種の本は
内容がページ数に関係なく詰まっている様に感じられる事

同じ文字数でも
ある本はいくつかのイメージ、考えがそこからと見とれるのに
別の本はただ情景描写で終わっているように感じられる事がある

俳句の場合はもっと極端だ
評価の定まった芭蕉の句等は 
それが17文字の世界だとは思えないほど広がりを持つ
一方素人の作は、ただそれだけ!で終わっている

短いものに様々な思いを込めるのを
技巧とか技術とか言うのだろうか?
しかし、この様々なものを込める為には
また読み取る為には様々な知識が必要となる(例えば古典とか)

つまり内容の濃いモノは必然的に
一種分かりにくいものになる可能性がある


最近読み終えた「天翔ける皇子」 藤ノ木陵
蘇我氏と物部氏の権力闘争の中での
穴穂部王子の生き様を記したものだが
これは最初非常に読みやすかった
風景描写も目の前に容易にイメージしやすかった
しかし、ところが、その先がいけない
急にその分かりやすさが
自分にとってはつまらなくなってしまった

穴穂部王子の表情描写で終わらずに
その感情の説明的なものがつく為に
(テレビの大げさな演技、テロップの説明みたい)
分かりやすいが、想像力を働かす部分がなくなって
つまらなくなった

なにも勿体ぶって物事を難しくする必要はない
まして難しい事が価値あるもの
というわけでもない

しかし、確かに鑑賞側の能力、想像力を当てにして
作られた作品類は
ただ難しいだけではすまされない何かがある

現代音楽にしてもしかり
ヴェーベルンのほんの数小節しかない音楽も
(気合いを入れて聴いてみると)
そこには現代人にしか感じ取れないであろう美とか
孤独感、寂寥感が感じ取れる

この難しそうなものにトライする価値がある
といっても自分にとっては
大江健三郎の小説はイメージが難しく
ほんの数ページから進んだ事はないが、、、
やっぱり苦手はあるもの?
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自分のタイミングでシュートできていない

2010年03月28日 21時48分50秒 | サッカー
日本のサッカー 相変わらず必要以上にあわててる
特にシュートのシーン
現在のサッカーは時間もスペースもないのだけれど
サッカー先進国と比べると
日本の場合シュートを打てただけで
シュートセンス(FWのセンス)があるとされるけれど、
残念ながら入れるための技術となっていない

つまり自分のタイミングで蹴っていないし
入るための引き出し(イメージ)が少なすぎる
あるのは出会いがしらのハプニングみたいな
そのためにきれいに決まったような錯覚を起こしそうな
シュートが多い

ブラジルのロナウド、ワシントンたちは
より確実に点を取るためのテクニックが
異常な落ち着きのなかで発揮される

どうすれば決定力が上がるか?

今できることは、自分たちの子供サッカーのレベルでも
シュートは必ず自分のタイミング
意図をもってシュートするように練習すること

それはゲーム中に時々見られる
「とにかくどこかに蹴っておけ!」
みたいなシーンをできるだけ減らすようにする
ことから始めなければならないかもしれない

正直なところ決定力がないとかなんとか言われるのは
シュートが技術にまでなっていないからではないのか!
シュートはセンスという言葉で思考停止することなく
シュートは技術の集大成と考えたほうが
日本人には考えやすいように思えるのだが
無理かな?
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マイセンのコーヒーカップ

2010年03月26日 21時05分39秒 | Weblog
なるほど、縁が薄く、磁器のきめが細かくて
そのせいで唇の感触が柔らかく
しっとりと重量感を感じさせるそのカップは
いつもよりもコーヒーをおいしく感じさせ
道具としての性能、機能をしっかりと果たしている

しかもその質感は飽きさせないというか
慣れてくるにしたがって
益々愛着が湧いてきそうな印象を持つ

マイセンのコーヒーカップでコーヒーを飲む機会があった
名前は知っているが高価な為所有していないし
何故そんなに高いのか?
と思ったりもしたが、、、

これがマイセンか!
確かに、マイセンはいいかもしれない!
単純に思い知らされた

メイド・イン・ジャーマニー
この質実剛健な国の作る製品は侮れない
値段は高いが、それに伴う性能、機能、質感がある

今時の、まず低価格ありき!
品質は、どうせ長く持たせないから
そこそこあれば!
という風潮に流されないところがある
(今もそうかどうかは知らないが)

マイセン
確かに所有欲を喚起させるモノの一つだ
(お金があればライカMシリーズも欲しい)


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テレビ局は自滅している

2010年03月25日 20時48分49秒 | Weblog
歳の所為だけではあるまい
最近あまりテレビを見ない
正確に言えば見る気がしない

テレビ番組表を見ても
「これは!」と思わせるものがない
どの局か、何曜日か分からないような
クイズ番組ばかりだったり
タレントさんの内輪話ばかりだったり
少し見ただけでチャンネルを変えてしまうが
結局どれも見るに値せず
見ないという結論に落ち着いてしまう

それはテレビを取り巻く環境の変化のせいだけでなく
(インターネット、動画サイト等の登場により接触メディアの多様化)
また、テレビの可能性が行き着くところまで来ている(成熟期)せい
だけでもない気がする

それはテレビ局の人たちの
「視聴者はこんなものを望んでいる」
という仮説自体がイメージ貧困なせいなのではないか?

もっとも、テレビってこんなもの!
なのかもしれない

最近はブルーレイとかDVDに録画できる様になってきても
そこまでして見ようとは思わない
見られなかったのは運命!
等とあきらめがつく様になっている

それにしても、やっぱりテレビをダメにしているのは
テレビ局の人間の方たちなのでは?
と思えてならない

ホント、良い番組、最近何があったかな?






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日本人はあわて過ぎ?

2010年03月23日 20時36分57秒 | サッカー
ヨーロッパのサッカーを見た後でJリーグを見ると
(この様に見比べた方がその違いがよくわかる)
日本のサッカーは必要以上に慌ただしい

プレーが速いのではなく、あわてすぎ!
正確にやる事よりもスピードを優先して
そのためにミスがちょくちょく見られる

しかし、その割にはパススピードが遅い

それともう一つ、
攻め込まれている時の
バックスからのパスが苦し紛れで、つないでいけない
だからいつまでも攻められっぱなしになる
どこかの監督が日本人はプレッシャーに弱い(精神的な意味ではない)
と批評していたが確かにそういう傾向はあるかもしれない

サッカー好きとこんな事を話していたら、
彼曰く
「なんであんなプレッシャーの中で落ち着いていられるか、それが不思議!」
なるほど、そうかもしれない、
とんでもない連中のプレーと比較するのはまだ時期尚早かも

あるところで日本のサッカーの練習は
野球の方法論がベースになっている事が多い
と紹介されていた
ノック、フリーバッティング等等、練習を細分化して
そのひとつひとつを完全な形に持っていこうとする
この練習をサッカーでもついやってしまうというのだ
パス、キック、シュート、ドリブル
しかし、サッカーは必ず自由にプレーさせない様にする相手が存在する

つまり細分化した、抽象的な練習は
初期の段階ではいいかもしれないが
そこそこできる様になったならば、相手との駆け引き
プレッシャーの中でのプレーを前提にすべき

だが、この相手との一見華麗でないやり取りは
結果的に将来のびる可能性を育むとは言え
答えが早く欲しい日本人には
まどろっこしく思えてくるようだ(?)

ところで岡田監督、
一人が11キロ走れば10キロ走るチームより
一人多くいる事になる
と述べていたけれど、たった数10回タッチするだけの
そのプレーが正確にできないのでは
(クロスの精度、パス、シュートの正確さ)
もっと問題あり!なのでは

もっとも日本代表までなっている人たちは下手!
というのではない、ただ正確にやろうとする
意識が薄い様に思えてならない

冬のオリンピック
ほとんどの競技がたった1回、2回の試技のために何年間も訓練を
重ねて来た
実はサッカーも同じ種類のスポーツなのでは?

つまりゲームは90分あるものの
個人にとっては
そのひとつひとつのプレーを肝心な時にミスしない様に
最高のパフォーマンスを見せれるような
ある意味職人的な要素が必要とされないだろうか

さわやかなスポーツマンたちよりも
職人連合の方が
なんだかたくましい気がしてならない

その意味で、ワールドカップ、その代表には
単にいい選手ではなく
闘える選手たちを選抜してほしいものだ

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「手続き論」に終始するのはどうなんだろう?

2010年03月21日 09時28分30秒 | Weblog
民主党、生方副幹事長解任騒動
手続き上に問題あり、
と、このような結果になったが
手続き論に終始し、内容が討論されないことは
残念ながらいろんなところで見られる

民主党はどうあるべきか?
との思いで発した発言であるならば
緊急動議的な発言、稟議書を回した上でのものと
解釈すればいいのだろうが
組織論の上ではなかなかそうはいかないらしい

実際、世論の上では小沢幹事長は辞職すべき
との答えが8割近あるにもかかわらず
居座っているのは、党内にどんな事情があるとは言え
やはりまともではない、と普通の人なら考える

その、おかしいと言う発言の仕方が
場所や時をわきまえないというだけの判断で
解任にまで至るとは、、、

話すいくらでもあった!
と側近の人は言う
しかし、大概の場合、言葉の上ではそうであっても
現実はそうでない場合が多い
まずは人には「合う合わない」「好き嫌い」が
どうしても存在する

合う人、好きな人にはオープンに話す機会がある様にみえても
そうでない人には必ずしもそうとは思えないと
勘違い(?)してもある面仕方ないことだ

だからといって順番を間違えてはいかん
と言われるが
実際のところ物事を変えるには手続きを踏んで
変わる事は少ないのではないか

変わるのは劇的に変わる
そしてその事の良し悪しは歴史が
後に判断する事であて、それは当面の当事者たちだけが
判断する事の予想を大きく外れるかもしれない

どちらにせよ多くの場合、本質論から手続き論に
話が移行する場合は、手続き論に話を持っていこうとする方に
なんらかの弱みがある場合が多い

それにしても自民党は
小沢さんにはなるべく長く居座ってもらっていたほうが
攻めやすいので、言葉ではあれこれ言っても
現状が好ましいと思っているのは
国民にとっては困った事だ
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教えなくても(指示しなくても)できること

2010年03月16日 22時42分07秒 | サッカー
昨日に引き続いて少年サッカーの話

「固まらないで!」
「君のポジションはここ!」
この二つの言葉、自分のチーム(小2)には言った事がない
(流石にキーパーだけは試合の時には指名したが)
なぜなら、言ったところで効果がない事が一つ

そして、そんなことを言わないでも子供たちは
案外自分の効果的な居場所を見つける事ができるからだ

「固まらないで!」
と言わないのは、この時期の子供たちにとって
団子状態になってしまうのは
固まりから抜け出すスキル、知恵、接触プレーのコツを
身につけるのに必要な通過儀礼だと思うから

2年生でも体が小さいだけで、ほとんど格闘技的な要素を持つ
「男の子!」と言ったサッカーをする事ができる

背の低い彼らは必然的に視野が狭い
更に夢中になっているからボールにしか目はいかない
というわけで、固まるのは半ば当たり前だし
固まる事の利点(将来役立つ為の)もあるし
それほど悪い事ばかりではない

ポジションだって子供たちは
自分たちでメンバーの序列(?)を作って
誰々がFW、MF、DFと性格、特徴にあった
ポジショニングをする様になる

キックオフに時点では
ハーフウェイライン上に並んでいても(昨日の試合)
いざ試合が始まると心配症な子は後ろに行き
攻撃は、それなりの子に任せて
前で起こっている事件を冷静に眺めていたりする

といっていつまでも、後ろにばかりいるわけではない
ここぞ!のタイミングでは前に突っかけて
ボールを自ら運ぶ
同じ様に前目の子もいざピンチになると
俊足を活かして思い切り守りにも貢献する

つまり子供たちは予想以上に柔軟に
現実的な対応を、自らの頭(?)勘でする事ができる様になっている

ホント、子供たちの可能性は想像以上にすばらしい


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2年Aチーム 大活躍 そして、、、

2010年03月15日 22時24分43秒 | サッカー
昨日は待ちに待った今年度最後のサッカー大会
前回 2年生チームは 1.2.3位を独占したので
次にやる時は上のクラスに挑戦させてあげると言っておいて
昨日がその当日

ゲームは8人制
どの学年も運動神経のいい子が何人かいるが
今年は際立った子が二人いる
他に
すばしっこい子が二人
体力のありそうな子が三人
そしてまじめな努力家一人
を選んでAチームとして上のクラスに挑戦させた

大所帯の二年はまだあと二チームができる
大体同じ戦力に分けて
多分同学年とのゲームに臨ませた

他の二チームには少し悪いことをしたかもしれないが
昨日のAチームの活躍はちょっとばかり自慢ものだった

最初の試合、相手にはいろんな体格の子がいて
多分相対的に上の学年の子のチーム
どうかな?
と思ってみていると、先制点を奪われた
やっぱりこの学年での差は大きいかな?
と思っているうちにコーナーキックから同点に
よく追いついた!
と感心してると後半には勝ち越しのゴール
そして突き放す得点

なんと、勝ってしまった
しかし、実は予想の範囲
もしかしたらこのくらいはできるかもしれない
と思っていたのも事実

次は決勝で当たったチームのBチーム
やはり一学年くらい上のように見えて
またもや最初に失点
ようやく追いついたと喜んだら
またもや突き放された
これまでか!と思ったが子供たちのがんばりは予想以上
またもや追いついて結局同点に!

「このチームはいい!気持ちが表に出ている」
これは対戦相手のスタッフの言葉
少しばかりうれしかった

引き分けたチームが
最初我々が勝ったチームに負けたので
二年Aが決勝に

今度の相手はみんな四年
挨拶をするときにも体格がずいぶん違う
肉のつき方も背の高さも

いざ始まってみるとスピードが全然違う
今までは2.3人で取りに行ってどさくさにまぎれて
奪っていたボールが全然取れない
また前に運ぼうとしてもなかなか運ばせてくれない
そして何よりもキック力が段違い
たとえ瞬間的に奪っても余裕を与えてもらえない
蹴ったボールはほとんど相手にあたってうまくいかない

それでクリアしたボールが相手の体にあたって
オウンゴール
それから立て続けに2点だったか3点だったか取られた
仕方ないかな
しかい子どもたちはあきらめていなかった
戦っていた
どういうわけかループ気味に上がったボールが
相手側のゴールにすいこまれたときには
信じられない気持だった

そしてハーフタイム
「どう?速いだろう」
「うん、強い!」
「今のところはよくやっていると思う
 それで、今まではドリブルで仕掛けていって
 ボールを前に運べたけど、今度はなかなかできないよね
 だからできたらの話だけれど、最初だけ、覚えている時間だけでも
 ボールを2タッチ。3タッチで離してごらん
 でも、どうしてもやりにくかったら無理しなくていい
 何が通じて、何が通じないか試しておいで!
 それに、いい、このスピードには慣れるしかない
 体全体で感じて、それで自分たちでどうしたらいいか
 頑張ってみな」
理解したかどうかわからないが子供たちの目は真剣そのもの

後半、体力、キック力に翻弄された失点はあったが
なんと徐々に彼らは試合に慣れていった
押し込まれることはあっても
次の子が次の子がフォロー
そして前に行けると思いきや誰もがトライ
まさに戦っていた
そのご褒美は2点目のきれいなゴールという形で現れた

この試合 サイドでお母さん方が見ていたが
普通ワンサイドになるとシュンとするものだけれど
この試合は得点差ほどゲーム自体はワンサイドではなかった
だから試合には負けてもなんだかとてもうれしそうだった
この子たちが大きくなったら強くなる
ところどころでそんな声が聞こえた

この学年はメンバーがそろっている
恵まれている
それでこんな素晴らしいことが可能になった
と普通には思われるかもしれない
しかし、実は自分が一番自慢したいのは
この学年、みんながそこそこうまくなってきているということ
運動神経のいい子がいるように
反対にひ弱な力のない子もいる
そんな子も2年の現在では走る格好
ボールの方向転換、ボールキープが素晴らしくバランス良く
恰好が良くなっている
つまりないのは力だけみたいな状況

自分はどうしたらうまくなれるか
どうしたら楽しむことができるか?
それを一人一人の処方箋を施したつもり
(性格も含めてうまく伝わるような指示で)

だからみんなレベルが上がってきているし
自分でもその実感を手にして
急にやる気を出すような子も出てきた

本当にこうなると子供たちの指導は止められない
彼らの育っていく姿
成長ぶりを目の当たりにするのは本当に楽しい

来週は1年のサッカー練習の納会
またまた天気 晴れますように!


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待ち遠しかったのは子供たちも同じ

2010年03月13日 22時06分07秒 | サッカー
雨で2週間つぶれてしまった少年サッカーの練習
担当の2年生、今日の出席は21名(24名中)

この学年は全学年の中でも突出して人数が多いが
総じて出席率も高い
友達が多いからつられて出席するのか
それともサッカーが楽しくて来ているのか?

さて練習、相変わらずお遊びのようにふざけて
自己主張をする子もいれば
うまくいかないとすぐに拗ねてしまう子もいて
つまりはいつもの風景になっているわけなのだが
客観的に眺めるとやはり1年という時間は大きい

確かにまじめにやらない子、
話を聞かない子は減ったとはいえない
だが毎回繰り返す練習の成果をチェックすると
それは明らかに進歩している

それは試合に時間に如実に表れる
競り合いの中でのボールコントロール
体の使い方、相手の逆をとる動き
また反対に相手の動きに対応する速さ
そしてわずかな可能性にかける攻撃と守り
走力、スタミナなど

しかし、なによりも個人的にうれしいのが
一人ひとりがたくましい男の子になってくれていること

夢中になるあまり、脚をひっかられて転んですりむいても
また相手のボールが当たって痛い目をしたときでも
1年前は「痛い!」と泣いていたのが
今は「相手もやろうとしてやったわけではない」
と理解して必死に我慢している
そしてまた痛い目をするかもしれないが
勇敢に向かっていく

この姿勢は子供たちが本来持っている
潜在能力、本能を引き出すことができているような実感があって
とても充実感がある

今日は久しぶりの練習ということで
みんなどこか新鮮な気分でいられたようで
いつもよりはいい練習が行えた
ところで明日は先週雨で流れてしまった
1年から6年までみんな参加できるサッカー大会
本番に彼らはどんな頑張りを見せてくれるか楽しみだ
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