パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

タンホイザーと浮舟

2019年03月29日 08時26分25秒 | あれこれ考えること

ヴァーグナーの歌劇「タンホイザー」はヴェーヌスとの官能の生活から抜け出して
一般社会に復帰しようとするが、そこで語られる官能の世界をあまりにも無視した精神至上主義の
嘘っぽいところに嫌気を覚えてしまい、再び自堕落な(?)ヴェーヌスとの世界に戻ろうとする
だがタンホイザーの恋人のエリーザベトは神に自分の死との引き換えにタンホイザーの罪の許しを願った
そしてエリーザベトは亡くなりタンホイザーも許された上で安らかな死を迎える
というのが大筋の話

この話を源氏物語の後半「浮舟」の登場する場面を読んでいて急に思い出した
浮舟は理性的な(どんくさいと女性の評価があるみたいな)薫と
情熱的で性的欲望のブレーキが効かない匂宮との間で悩む
「浮舟」と名前がつけられることになった船で匂宮と秘密の家に行くシーンは印象的だし
そこでの二日間の情熱的な時間はあえてしっかり描写されていなくても、どんなだったかは想像がつく
浮舟は言いよってくるふたりの男の間で悩む
理性的な判断か、フラッシュバックのように浮かぶ濃厚な時間の記憶の振り回されるか

精神が突き詰めようとする世界は一見秩序だっていて理想的と思えるが、それ故に切り捨てるものが多い
その中に肉体的な欲望があるが、官能の記憶は簡単に捨て去ることができない
ここの難しさを上記の2つの作品は扱っている

人の判断の大きな要素は多分理性よりも感情・記憶を含めた経験
悩みの多い、理屈で割り切れない行動や判断をしてきた自分を振り返って
そうしたことを他人も同様にしていることを見て
人に過度に期待することもなく、しかしこうあってほしいとも願う
(どうしても流されてしまう人をあるときは仕方ないとも思い)

人には作話機能が備わっているというのがベルクソン
自ら作話することはなくても、作話されたものを別人が体験することによって
人には経験の量が増える
作話はきっと作者の自己表現欲求を満たすだけでなく、どういうわけか
それがあることによって世の中が上手く回らせる機能があるような気さえする
つまりは物語を誰かが創造するということは、、そしてそれを味わうということは
きっと何かの役にたっているのだろう
(漱石の草枕の冒頭にそのようなことが書かれていたような、、、)

と、ここまで来てなんの話だったかわからなくなってしまった
いつものこと、ま、いいか、、お気楽な話だし、、




 

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難しくて面倒くさい問題

2019年03月28日 08時57分03秒 | あれこれ考えること

今国会、野党が追求した統計問題は「難しすぎた」との評価があるようだ
地方に戻って支援者の声を聞いても統計問題はちんぷんかんぷんの理解で
それ故に関心がない状況が現実と実感しているようだ

これは統計そのものの技術的な理解が、なれていない人には直ぐにストンと
わかるわけではないことと、数字的な意味が現在・将来にどのように影響するかを
直感的に想像することができないためと思われる

このように専門家や少しばかり想像力のはたらく人にとっては重要な問題
と思われることが、一般には「わからなくて面倒なこと」とされることが少なくない
この傾向は市でも時々見られる
ある事柄を考え判断するのついては、その前提となるかなりの情報と知識が必要となる
その知識を一般の人が得るのは(そもそも知識・情報を得ようとするかどうかが不明だが)
正直なところある程度の自発的な努力が必要となる
これが当事者の場合は必要に迫られてリアルに感じられることかもしれないが
当事者以外の人間にとっては「想像する世界」の出来事で、自分がそれほど真剣にならなくても
誰かに任せておけば上手く回っていくと思い込んでいる節がある

その誰かが首長であったり議員さんであったりするわけだが、一般人は彼らを自分たちを代表して
というよりは、面倒くさい細かなことをちゃんと理解して正しい判断をしてくれる存在として見ている

ところがその人達の判断が本当に正しいのだろうか、、、と思えるようなことが起きると
今度は一般人は自分の実生活で得たものから、単純化した白黒の問題として置き換えて
自分たちの意見が正当(常識的)で、選ばれた人たちの判断は間違っていると言いかねない
この状態がオルテガの「大衆の反逆」となるわけだが、現実にはそこまでいかないくて
一般人の感覚と違うからと言って批判することと少なくないと思われるし
それはそれで、ある範囲内で必要なこととも思われる(個人的には)

そこで問題は、話が面倒になってきた時その問題を理解するのに多くの人は
問題点の詳細なことを知りたいと思うか?ということで、冒頭の「難しすぎる問題」は
もう少しわかりやすい単純化された概念に置き換えられることが多くなるのではないか
つまり「誰かが悪い」というシンプルな言葉で代表される概念へ
(安倍さんの何が悪いか、、ではなく、安倍辞めろ  というように)

ところが今度は「誰かが悪い」というのは、穏やかな人々にはそう簡単に受け入れられる考え方ではなくて
ナチスドイツ時代でも、その当時ヒトラーが悪いということは自国(ドイツ)を自ら批判するかのようで
善良な方々も積極的に行動できなかったと言われる

過激な言葉に対して距離を起きたい感情と(若い人は政治的に批判的な言葉・態度は好きでないという調査結果もあるようだ)
難しいことはわからないし面倒で、まだ自分の問題ではないと感じること
仮に難しい問題だとしたら、自分たちが努力しないでもわかるように単純化してわかりやすくして欲しい
といった普通の人がつい犯してしまいそうな行動・考えかたが、最近のあまり好ましくない状況を作り上げる
要因になっていると思えて仕方ない

要は、面倒なことは結局のところ自分に返ってくる問題となるので
自分でできる範囲で賢くならないと、最終的には望ましい結果をもたらさないという実感を
最近つくづく感じる、、ということ
しかし、面倒で無関心でいる人の気持ちもわからないではないから、困ったものだが

 





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無邪気な素敵な絵

2019年03月25日 19時16分35秒 | 子どもたちのこと

夕方少し前、また近所の子(4年生ふたり、小1ひとり)が遊びに誘いに来た
正直なところ、何故こんなに度々来るかわからない
少なくとも子どもたちが自分に対して緊張していないのはわかる
そしてこちらの話を少しも聞いていないのも実感する
彼ら彼女らは自分たちのしたいこと、言いたいことを一方的に言って
それをすれば面白いはずだ、、思い込んでいるかのよう

でも昨日、お祭りの行事で近所の広場で顔を合わせたときは
全く他人行儀であいさつもそっちのけだった(自分たちの関心事でいっぱいのよう)
今朝のこと、同居人は
「あの子たちは、この家に来て大騒ぎして隠れんぼしたなんてことは覚えてるかしらね
大人になった時、あの家で遊んだことがある、、って思い出すかな。
思い出したら、きっと図々しいことを平気でしたと恥ずかしがるんじゃないかな」
と急に思い出したように口にした
きっとそうだと思う
「遊ぼー」と誘ってくれるのもあと何回あることか、、、、

大好きな隠れんぼを数回やって、少し飽きた時、子どもたちは水で地面に絵を書き出した

「おじさん」の文字があるので丸い顔は自分のこと

特徴がどうの、どこか似てるかどうかという前に嬉しかった
それで直ぐにスマホで撮影
調子にノッた小学一年生は「おじさん2号」と言って更に描き足した

これらは直ぐに乾いて薄くなってしまうが、とてももったいなく思えた
それにこの絵はミロのなにかの作品に似ているみたい、、、

これらの写真は最近撮影したなかで一番大切にしたいもの
何も考えていないけれど、どこか幸せそうな、、、
そんな気分が感じられる無邪気な絵
つくづくスマホがあって良かった、、




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判断基準としての理性と感情

2019年03月24日 08時50分34秒 | Weblog

日曜の朝らしくない変な思いつき

「理性は感情の奴隷である」との知る人ぞ知る少しばかり有名な言葉がある
スコットランドの哲学者デイヴィット・ヒュームの評判の良くない言葉だが
ある種の人々には当然の事のように思われていると思われる
(ある種の人々とは?)

ミステリー小説のブラウン神父でお馴染みの作家・批評家・詩人・随筆家のチェスタトンは狂人について、
「狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。
狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」
との言葉を残している

2つの一見関係ないような言葉だが、ある種の人々には同じことを表現していると感じる
それは「理性の限界」について述べていること
(「理性の限界」という高橋昌一郎の本があってとても面白い本だが、少し違うニュアンスの内容)
人が万物の霊長として君臨できているのは「理性」のおかげと考えられることが多く
それ故に人の判断は「理性的」であれとされる
ところが人には厄介な「感情」というものが備わっている
この感情が物事を判断する時に大きな力を発揮しだす
理性では(知恵の集積の結果として)こうすべき出る答えを感情が受け付けなくなってしまうことがある
ここで理性と感情が喧嘩をすると、、勝利をおさめるのは、、多くの場合感情の方

ただ感情は後で分かることだが良いことばかりでなく多くの間違いも起こす(間違いの判断もする)
その最たるものは犯罪とか、より社会的な規模ではポピュリズムが挙げられる
勢いとかその時の雰囲気に感情が飲み込まれてしまった失敗は、人は嫌というほど経験している
それ故により失敗の少ない理性を感情に先立って優先させようとするのは無理からぬ成り行き
しかしここで問題は、人間はなかなかそうあるべき姿に簡単に従えないという現実
それは良いと悪いというのではなく、人にはそういう傾向があるということ

一人ひとり全く違う感情(意識)というのもが人に備わっている理由は何故か
と考えると、その方が生物学的に生き延びる可能性が高いからとも考えられる(個人的には思う)
みんなが同じ方向を持つより、生物が突然変異を起こしてある種の環境変化に対応して
生き延びる可能性を確保していくのと同様に、人の呆れるほどの多くの感情はそれがある方が
生き延びる可能性が高いから、、、と思われるのだ
それは間違いを起こしたとしてもその方が生き伸びる可能性が高いと(誰かが?)判断しているような、、

残念ながら人は抽象化された理想・あるべき姿を求めて生きられるのではない
むしろそうしたことを面倒と思うほうが多い
でも何故かそういうボーッと生きてるような人たち(自分も含めて)が
感情に沿ってなにか変だとか、これが良さそうと判断することは
理性の厳格な定義付けから導かれるものよりはしっくり来ることがあるし
長い間ではその力が社会をつくってきたように思われる
そこには深い洞察力をもった粘り強い感情と理性の関係について考え抜いた人の存在があると思われるが
要は、感情を無視して適切な判断はできないだろうな、、ということ

最近、裁判とかある種の議論に参加する機会があり、因果関係の整合性とか論点整理の単純化で
どこ感情が置いてけぼりにされてるような気がしたので、少しばかりグダグダと愚痴ってみた
相わからずまとまらない話、、

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ふたりの女王 メアリーとエリザベス

2019年03月21日 18時42分00秒 | 徒然なるままに

久しぶりに映画を見に行った
見たのは「ふたりの女王 メアリーとエリザベス」
邦題はこうなっているが原題は「Mary Queen of Scots」で
映画を見た感じでは原題のほうがしっくり来る

日本人はイギリスの歴史を知らないので、よく耳にする「エリザベス」
の名の入っている方が馴染みやすいからつけたタイトルと想像したが、さて、、、

自分もイギリスの歴史を知らない
だから映画を見て想像するしかない
なんとかなるだろう、、と見ていたが困ることがもう一つあった
男優の顔が見分けがつかない 兄なのか、エリザベスの恋人なのか、家臣なのか、、
だから陰謀のところがイマイチよくわからなかった(情けない)

この映画の自分にとって一番印象的なのは風景だった
スコットランドの荒涼とした風景、、
これは以前見た「マクベス」、007の「スカイフォール」でも見かけたぞ
と勝手に決めつけたが、光の少ない寒々としたそれは通奏低音のように全編のイメージを形成していた

物語は王位継承権、権力闘争の話でスコットランドの女王メアリーとイングランドの女王エリザベス
の戦いのように見えるが、実際はその周りの人間達の都合で彼女らは運命に翻弄されていく
彼女たちは従姉妹らしいが、血統的にはメアリーのほうが正当で実質的な意味合いではエリザベスのほうが力を持っている

女優さんも男優さんも知らない人ばかりなので、その分ストーリーを追うことができた
そこで感じたことは、どの国も王という存在は「血筋」が想像以上に重要視されるということ
命令をするにも誰々の血筋であるというだけで有無を言わさず従わせることができる
(源氏物語でも天皇になるのも、その后になるにも血筋が重要視されていた)
ついでに思い出したのがマックス・ウェーバーの「権力と支配」のなかの伝統的支配という概念
血統・家系・古来からの伝習・しきたりなどに基づいて被支配者を服従させる正当性のことで
これが時を経てカリスマ的支配、合法的支配となっていく
伝統的とカリスマは順番が違うかもしれないが、いずれにせよどの時代もこのような過程を繰り返すものらしい

どうも人は(特に日本人は)信頼の拠り所を血筋にもとめてしまうようだ
現在、実力よりはその出自で評価されてしまいそうなのが政治家の世界
日本では2代、3代と政治家が当たり前のように存在する
政治の世界は確かに専門的な分野でもあるので生まれたときからその空気に触れている人間は
その分野では優れているかもしれない
だが、国会中継をみると政治家としての資質をよく感じるのは政治家の子孫よりも
官僚・弁護士・ジャーナリスト出身の人に多い
これは血筋よりも秩序・制度、地位などの合法性による支配のほうが良しと思えることだろうが
血筋信仰はなかなかしぶとくてなかなかその位置を譲ろうとしない

話は逸れてしまったが、メアリーが陰謀した計画が証拠が存在するということで
結局メアリーは死刑に処されることになった
最後のエリザベスのことば
「このメアリーの署名が偽物であっても私はイングランド女王として死刑執行にサインする」
この割り切りは、これまた勝手な想像が羽ばたいて日本の古代  持統天皇のときの大津皇子の事件を連想させる

天武天皇には鸕野讚良(うののさらら)と大田皇女(おおたのひめみこ)という天智天皇の娘が嫁いでいた
天武天皇が亡くなったあと持統天皇となった鸕野讚良は自分の息子である草壁皇子を天皇としたかったが
天武天皇と姉の大田皇女との子である大津皇子が煙たくなった(大津皇子はとても人望があったらしい)
そこでこの映画のように大津皇子に陰謀があったとの疑いで、あっという間に彼を捉え死刑に処してしまった
この陰謀は後にはでっち上げということになったらしい
このあたりの話はそれとなく万葉集にも載っていて大津皇子の歌は痛切な感じだし
大津皇子と彼のお姉さんの大伯皇女との万葉集に収録されているやり取りは、すでに自分の運命を
予感しているような感じだ

それにしても偉くなると、いろいろ悪いことも考えなきゃならないし、、夢見も良くなさそうだし
そんなことならぼーっと生きてる小市民のほうがずっと幸せかもしれない、、と思ったりする

ところでこの映画の評価は、、、まずまず、、
少なくとも膨大な火薬を使ったり車をぶっ壊すようなシーンがあるものよりは好ましい



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コンビニ営業時間のアンケート

2019年03月20日 08時49分24秒 | あれこれ考えること

チラッとだけ見たTV番組にコンビニの営業時間のアンケートがあった
24時間営業の必要性を調査したもので、それによると20代が毎日・一日中営業して
ほしいとの答えが多く、年齢が上がるにしたがってその必要性は少なくなっていた

ここで直ぐに浮かんだのが若い人の働いている人に対する想像力のこと
このアンケートの具体的な質問内容はわからないが、単純に24時間必要ですか?
と聞かれたならば、若い人は直ぐに自分の生活スタイルからして無くちゃ困る、、
と答えたと想像できる

しかし人生経験をを重ねると知らず知らずいろんなことに考えが及ぶようになって
その中には働いている人のことも想像してしまうこともある
アルバイトが集まらなくなったらオーナーが自分でずっと働き続けなければならない
若いアルバイトであったとしても、連続して夜中に働き続けなければならないのは
少々肉体的・精神的にストレスがかかる
こうしたことは持続可能な状態とは言えないのではないか、、、
そのような考えが、年齢を重ねると徐々に頭の片隅に浮かぶようになる(と思う)

物事が持続可能かどうかは、経済的な要素(売上があるということは社会的ニーズが存在する)
だけでなく、生物としての自然な生き方が可能か、、、も大事な要素と思われる
効率的・便利との視点だけで考えることは結局長く続かないに違いない

話は飛んで、若い人の新鮮な考え方・発想というのは、実はいろんな方面に気が回らないためという点もありそうだ
定義の厳格化・事象の単純化・判断の数値化、、学校で身につけたこれらの技術が全てに応用が効く
と思ってしまうのが若い人の考えで、その割り切りがいろいろ他の要素が頭に浮かぶおっちゃん連中にはできないので
新鮮に思えるのかもしれない(あるいはあまりにも幼稚すぎて、、、)

若者の発想は大事にしなければならない、しかし、若者は視野が狭いのも事実
若者の意見を大事にするということは、年齢を重ねた人の意見を聞かないようにするということではなくて、
キチンと大人の経験上身につけた知恵話も聞いたうえで、彼らの正義感に従った判断を受け入れることだと思う

いい歳をしたおっちゃんは、夜は寝るものと思っているし
店が空いていないことが予め分かっているなら、それなりに対応するから不便でもない
みんなが程々に働いて程々に暮らしていけるのが一番、、、と思うので
コンビニ24時間営業は反対(ずっと前からそうだったが)
同様に大晦日・正月の売上数字稼ぎの営業は賛成できないな







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予算・決算委員会であれこれ思うこと!

2019年03月19日 10時49分19秒 | 市政、市議会に関することなど

少しばかり面倒くさい話

年に4回開かれる新城市議会
3月のそれは来年度の予算を扱う重要な定例会
定例会最終日の本会議で予算案の議決が行われ、承認されると執行できるようになるが
現実的にはその前に開かれる予算・決算委員会の採決で大体が決まる

その予算・決算委員会に昨日出かけた
正直なところ面白くないだろうな、、と思っていたが思いのほか面白かった
でも傍聴者は一般質問のときと比べて少ない
思いの外面白かったとの評価と相反するが、傍聴者が少ない現実も納得できる
少なくともこれを初めて傍聴した人は、次も傍聴にトライしようとするかといえば
正直なところその可能性はかなり低いと思われる

最近わかったきたが議会には、似たようなことをしているが違う役割の言葉がある
「質問」「質疑」「討論」(これらは通告書が必要とされる?)
このうち「質問」は議員さんの晴れ舞台(?)の一般質問で想像される行為
持ち時間があって行政にいろいろ聞いたり、質問との言葉があるが再質問等で
こうした方が良いのではないかなどと議論する場合もあるようだ
「質疑」は行政に確かめるためにただ聞くだけで良し悪しの判断は要求されない
「討論」は採決に際し、案件に賛成か反対かの意見を述べる機会のこと
知ってしまえばなんてことないが、分かる前は頭の中が整理できずになんで同じようなことを
繰り返しているのだろうと思ったものだ
(自分の認識はその程度だったと言うこと、そして多分多くの人も似たようなものだと思われる)

議会の進め方がわかるとそれに沿って傍聴者にも配布された通告書を見ながら
ただただ成り行きを見続けるだけになるが、今回思いのほか面白いと感じたのは
市が行っていること、お金を使っていることが多岐に渡っていて
その一つ一つがぼーっと生きてる身には全然意識になかったが、
実生活には微に入り細に入り必要なことに繋がっていることがわかったこと

農林業に関すること、福祉・教育に関すること、観光に関すること、広報に関することなどなど
呆れるほど細かなところまで気が配られ予算がつけられ何か実行されることになっている
議員さんは議員さんだけに配られる300ページ(?)ほどの分厚い予算の明細の書かれた書類のなかから
不明な点を行政にお尋ねするというのが予算・決算委員会の質疑

ただこうして眺めていると漠然とだが、これらの予算はあまりにも多岐に渡っているので
実際にはこれらの全てを詳細に理解している人はいないのではないか、、
物知りの行政の人間ですら他の分野の事柄については理解していないのではないか
そして、この細かすぎる予算案は、予算の提案権は首長にあるというものの現実には
現場の職員がそれぞれの責任感の上でつくられていて、首長が誰であっても似たような
継続的な予算案が作られるのではないか、、と想像してしまった
言い換えると、首長の予算への意図は目立つ政策に反映されて、
それ以外は現実には職員の真面目な仕事の結果であるような気がしてならない

人間の能力の限界を考えると、予算の全てを理解・把握・判断するのは難しいと思われる
だからそれらは、一人が全てを見るのではなく、一人ひとりは特定の分野を専門的に見る
としたほうが効率的なように思われる
議員さんは市民の代表との言葉があるが、現実には議員さんは分業としてチェック作業を担う機関ではないか
市民一人一人がとんでもなく法的なこと数字的なことを考えるのは社会的に効率が悪く
それならば代わりの人に依頼して方が効率が良い
専門職としての分業としての議員さん、、社会的に尊敬されるべき対象としての議員さんではなく
最近は1つの役割・機能としての議員さんという存在を感じている

そこで要求されるのはチェック機関の専門家・プロフェッショナルとしての仕事ぶり
これが問題なく行われていれば良いのだが、現実の世界に戻ると今回の300ページにもわたる予算書を
じっくり読み込んで前年との比較を行い、なにか疑問を感じることはないか、、、と
自らの仕事に責任をもっておこなう人がどれだけいるかと言えば、、、、少し怪しいのではないか
でもこの否定的なことは、多分自分の住む市だけのことではなくて、きっと確率的にはどの地方でも見られるとも想像される
(仕方ないのかもしれない?)

ところで、昨日の質疑のなかで記憶に残った違和感を感じるものがあった
それはある学校の楽器の修理に要する金額が、学校とか教育で使われる中からではなくて、
地域自治区予算から捻出されるがそれはおかしいのではないか、、との指摘に対する行政の答え
(地域自治区は地元の問題解決のために地元の判断で使用できる自治区予算がある)
学校の備品である楽器が古くなって修理が必要なのだから、学校でなんとかするのは当然、、
と普通の人間は思うが(質疑した議員さんもそう考えた)どうやらそのお金はないので(市の学校に対する予算が小さいので)
しびれを切らした地域の人が自治区予算で賄うことを選択した、、というのだが
それを正当化する行政のかたの理由が少し無理筋っぽくて笑えてしまった
「楽器は学校のものだけでなく、敬老会や各種の地域のイベントで使われることもあり、そこで地域の人は音楽を楽しんでいる
 それゆえに地域の自治区予算で修理を賄うのは不自然ではない、、、」

さすが行政、こじつけが凄まじい、、
これはいろんな申請書を書く時のこじつけを連想されて、国会の答弁でも見られるが「ああ言えばこう言う」類の
一般人には少し理解しづらい理屈だ
学校への予算が少ないと思われることは先日の一般質問でも取り上げられた
それは余りにもありえない話のようで、そのまま信じて良いのかわからないことだったが
ある学校の職員室の蛍光灯が一本消えている、、それを補うために蛍光灯代が必要となるが、学校には
そのお金がなくて困っている、、とある市議さんが指摘した
そんなことあるのか、、、と直感的に思ったが、月木の朝のあいさつ運動で話すことが多くなった
近所の小学校の校長先生に聞いてみると、確かに小学校に対する予算は少なくなっているとのことだ

肝心なところにお金が回っていないのではないか
この視点が議員さんには必要なのだが、ここで思いつくのがこのブログでも時々取り上げる
新東名経由の名古屋直行バスのこと
このバスは平均一台6.8人の乗車客数で、このために市は約3700万円の予算を計上している
これは来年度だけでなく、今年度も昨年度も同様な金額を負担している
学校に蛍光灯を取り替える費用がない、楽器を修理する金額がない、、、
だが、どう考えても乗降客の一発逆転を想像できない事業に3700万円もかけるというお金の使い方
それが果たして正しいものなのか、、疑問に思えて仕方ない

市の職員は、上司の存在する職員であると同時に納税者としての市民でもある(市外からの職員もいるが)
その納税者としての市民の感覚からすると、いくら庶務上の上司の意向とはいうものの
こうした政策(予算)を逡巡もなく計上して良いものだろうかと、、フト考えてしまう
これは、公務員の働き方とか個人の判断とか責任、、というややこしい問題につながるが
こんな面倒なことではなくて、誰もが納得するようなことが粛々と行われないかな、、
とつい無い物ねだりをしてしまう




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やっと思い出した本は「輝く日の宮」だった

2019年03月17日 08時54分51秒 | 

相変わらず気分は源氏物語モード
先日は少しこの世界から離れて、実生活(の政治関連)に興味が移ったと思ったが
ずっと頭の中で気になって仕方なかったことを思い出して、結局のところ
またどっぷりと浸かったままになっているかのよう

それまで思い出そうとして思いだせなかったのは、読んだはずのある小説のことで
確か源氏物語のある章が書かれていたはずなのに、何故か現在まで表に出ていないことが扱われていた
覚えているのは初めて女性と関係したなら、一回目は丁寧に書かれるのが普通なのに
それがない不自然さをごちゃごちゃ言ってた小説だった
(それ以外覚えていることはないのは情けないが)

その対象となった女性が誰だったかもすっかり忘れていた
紫の上の場合は、男(光源氏)は早起きしたが女はぐっすり寝て起きるのが遅かった
との表現だったから、この女性は紫の上ではない

誰だったかな、、、
作者の名前は、、丸がついたような、、
検索して調べようにも適切な検索ワードが見つからない
ということで、ずっとイライラしたままだった

ところが、やっと見つかった
その本は

「輝く日の宮」丸谷才一 だった(図書館で借りてきた)
そして、最初の関係が書かれていない女性は、母に似た義理の母(父の妻)である藤壺と
年上で嫉妬深い六条御息所だった

高校時代に習う源氏物語は「桐壷」で、これは光源氏が生まれた時のこと
「桐壺」の次の「箒木」の巻では、もう藤壺と六条御息所とは関係ができていることになっている
経過を省略して場面転換をしているわけだが、これはあまりにも不自然で「箒木」の前に
その人たちとの最初の関係を記した「輝く日の宮」なる巻が存在したという説が本当にあったらしい

ただ自分としては、最初の関係の濃密なところへの関心はないとは言えないが
それがなくて急激な場面転換の現在の姿になっていても、それほど悪くないな、、とも思う
丁寧な描写が無い分だけ想像力が働いて、それで十分とも感じる
多くの人も似たような考えのようだ

この小説は昨日読み終えたが、記憶に残ったのはやはり源氏物語に関することで
主人公の女性(杉安佐子)の生活に関しては何ヶ月かすれば忘れていまうような話だった

ところで、更に新たに知って驚いたのは、源氏物語は紫式部が一人で書いたものではないとの説があること
光源氏が亡くなるまでは紫式部で、後半は(宇治十帖)は紫式部の娘の大弐三位の作の可能性があるというもの
なるほど、これは少しあるかもしれない、、とも感じる(読んでいて)
確かに文体と言うか描写が宇治十帖は濃厚でその前の巻とは違う印象を受ける
若菜(上・下)も細かな気合の入ったものだが、どこか客観的な視点があるが宇治十帖のは
物語ではなく小説というジャンルと感じさせる
宇治十帖の表現は紫式部の作家としての成長と見るか、別人の作と見るか
結局は答えの出ない話で、それぞれが勝手に想像するのが楽しい

ということで、相変わらず毒にも薬にもならない話
(専門家はものすごく大事なテーマなんだろうが)

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アメリカの宝くじ論争

2019年03月15日 08時45分55秒 | あれこれ考えること

アメリカで宝くじについての論争が起きているそうだ
無職の男が宝くじを購入したら当選確率3億分の1(?)のくじに当たり、なんと300億円を手にすることになった
この男は昨年離婚しており、離婚前の14年間も働いておらず離婚前はもちろんのこと離婚後も
元妻から生活費の補助を受けていたのだそうだ
(これはアメリカの法律に高収入者が低収入者の生活を一定期間面倒を見るといった決まりがあるそうだ)

問題となっているのはこの宝くじの当選金を(いくらか)元妻に渡すべきか、渡す義務はないか、、という点

直感的、感情的には払うべきだと思う
特に離婚後も生活費の補助も受けていたということだし、14年間も仕事もせずに養ってもらっていたのだから
細かなことを言わずそのいくらかは支払えば良いのに感じる
(当事者でないからお気楽な判断をして、いざ自分がその立場になったら違う行動を選択するかもしれないが)

ここで興味があるのは、法的にはどうなのか、、という点で、
もしかしたら静的な机上論的、あるいは解釈論的な法においては自分の感情とは異なる判断が
当たり前のように出されるのではないかと不安になる(必ずしも自分の感情に基づく判断が一般意志とは思わないが)

例えば法的には払う必要や義務は無いとされたとする
だがその結論に対してはどこかモヤモヤしたもの残る人は少なくないだろう
この場合法というものが実定法主義に依存していると、法の解釈が全てでこのようなことはありうる
一般的には確かなものとされ現在使われている実定法主義だが、それは思いの外不完全なもので
ある時法が改定されたならば以前と違う結論を導き出すかもしれないらしい
法を作成した時点では考えられないようなことが起きた場合は、法の解釈を幅を広げて無理やり結論を導き出すのではなく
その時代に合わせた法に作り直すことが必要とされるということだ
この法の変更が間に合わなかった場合の判断の基準が、単に法の解釈論に終始しないで自然法によって判断をするほうが
良いだろうとするのが多分人の知恵で、どうやらヨーロッパの方では自然法が実定法の上位に存在するとの考えらしい

以上は昨年読んだ「法の起源」団藤 重光を思い出して感じたこと
人と人の生活においては静的な明文化された法だけではなく、生身の感情を伴う判断が必要だと思われる
大岡越前のエピソード(実の子の決め方のエピソードで、子どもの腕を両方から引っ張って勝ったほうが
実の母と認めるとしたが、痛がる子供がかわいそうになって手を話した女性が当初の決まりでは負けだが
実の母ならば当然そうしただろうとの判断で反対の結果になったという話)のような、
どこかほっこりする話が最近聞こえてこないのは、人は感情をもった複雑な生き物としての考えが余りにも
希薄なせいだと思われてならない

大岡越前のエピソードは中国の古典の引用との説があるが、要はこうした感情は地球上のどの地区でも
どの時代でも人がもつある種普遍的なものだということ
その普遍的なものをもう少し大事に扱わないとイカンじゃないか、、ということ

ということで、とりとめのない話、、

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本を読み返すということ(節約になるし、、、)

2019年03月14日 09時36分58秒 | Weblog

行きの道は長く感じるが帰りの道は短く感じられる
誰しもが経験することで、これは心理学的な説明がなされるようだ
これと似た感じなのが本を読み返すときのこと
小難しい本で理解できているかどうか怪しくてもとりあえず進んだページを
時間が経った後読み返すとスラスラと読める
しかも理解していないと思えたことが思いの外頭に入っていたのだとも感じる

昨日、思い立って「自由からの逃走」(エーリッヒ・フロム)を付箋を付けてあるところを読み直した
好みの部分が付箋がつけられているとは言え、その部分の理解がとても容易で
これは想像力を駆使して読んでいると言うよりは明らかに再確認しているような行為に近い

楽に理解できるからこれが面白い
「自由からの逃走」は「から」という部分が肝で、近代人が目指した崇高なもの
せっかく手に入れた「自由」から逃走してしまう傾向がある、、ということを解説した本
この本のきっかけはナチが合法的に躍進したのは何故か、人には個々の判断を超えて
なにか従ってしまう傾向があるのではないか(その方が楽だから)と考える傾向があると思いついたから(らしい)

これは実生活上の様々なところで見られそうだと、読んでいて想像が働くので小難しい話の割にはリアルな話となっている

ということで、「自由からの逃走」「善と悪の経済学」(トーマス・ゼドラチェク)
「経済と人類の一万年史から21世紀を世界を考える」(ダニエル・コーエン)など以前読んで気になっていた本を
を読み返すことにしようかな、、と思う次第
(本を買うお金を節約できるし、理解も深まるし)

 

コメント
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