パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「鳴門秘帖」と「下山事件 最後の証言」

2018年04月29日 08時28分49秒 | 

「貸出中!」
ディスプレイに現れた文字に思わずニンマリ!
と同時に同じように考える人ってのはいるもんだとの思いを強くした

図書館に本を借りに行った
いつものようにそこであれこれ探すというのではなく、今回は最初から決めていた
借りる本は二冊「鳴門秘帖」と「下山事件 最後の証言」

「鳴門秘帖」は現在NHKBS時代劇で放送されているが、女スリ役の女性(野々すみ花)が魅力的なのと
民放の雑な作り方ではなく、なんとなくじっくり作られている感じで、おまけに原作が吉川英治と知って興味が湧いた
吉川英治は今まで「宮本武蔵」を読んだだけだがビルドゥングス・ロマン風な味わいのある作品できっと他の作品も読むに値する
と挑戦することに決めた

そこで図書館に備え付けの検索装置で探ってみた結果が冒頭の「貸出中」だったのだ
やっぱりな、、(きっとテレビドラマのせいだろう)
直ぐに諦めず、次のページを表示していくと借りられる本が見つかった

ありがたいことに文字が大きめ、おまけにパラパラとページをめくると挿絵もあるのでとても読みやすそう
ということで、上下の二冊を借りてきた
さっそく読み始めると、ドラマで第二話まで見てるので簡単にストーリーを追っていけると思ったが
鳴門秘帖の存在と、それに関わることは変わりないが人物設定がだいぶ違う
テレビドラマのほうがドラマティックな設定になっているようだ
(女スリの子供時代の思い出、、とか)
まだなんとも言えないが脚本家というのは改めて大したもんだ、、と実感する
また、本の方の女スリのキャラクターの設定は「宮本武蔵」の朱実を彷彿とさせる
結局のところ人は、それほど多くの人の(まして異性の)キャラクターを作り出すことはできないということかもしれない

この作品が完成した時代と今とは、前提となる江戸時代の理解力が違うようだ
今では何のことかわからないこと(着物のこと、風習)が、当たり前のことのように書き連ねられている
(今何かと話題の女相撲の記述もあった)

ということで、ストーリーを追うだけなので気楽に楽しめそうな作品
GWを挟んで貸出期間が長くなっているので、多分上下二冊は読み終えられそう

あともう一冊借りた本が


この本は一度読んでいるが、数ある下山事件関係の中では、個人的にはもっとも面白かった本だ
「シモヤマケース」(森達也)で紹介されたエピソードの人物が出てくる
身内が下山事件の関係者ではないのか、、、との思いから、近親者しか知り得ない情報を次々と紹介していく
そこには普通の下山事件関連本で扱われるのとは違った写真が多く使われている
このあたりは、上質なミステリーをいう感じ
読み終わった時に感動(興奮)して他人に「シモヤマケース」とこの本の二冊を「読むといいよ」と貸して
そのままで、手元には戻っていない
いつか読み返そうと思っており、今回急に読みたくなったので図書館頼み、、ということになった

ということで、ゴールデンウイークはこれらの本とおつきあい
でも5月の3.4日はラ・フォル・ジュルネで音楽三昧
行き帰りの新幹線の中ではしっかり読めるかな、、

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試行錯誤の江戸幕府(官僚制の完成へ)

2018年04月25日 11時14分58秒 | 

明治維新150年ということではないが、この本をアマゾンで手に入れた

まだ最初の徳川幕府の官僚制の成り立ちの部分だが
これがとてもおもしろい
先日無理やり最後のページまで達したマックス・ウェーバーの「権力と支配」を
彷彿とさせる部分がふんだんにある

江戸幕府は「天下人」というカリスマとそれを支える「出頭人」と呼ばれる側近が運営していたが
その側近も将軍の世代交代の際入れ替わることが多くなる
この出頭人の個人の資質に頼る政治は不安定なので、試行錯誤をしながら官僚システムを完成していくのだが
それがとても必然の流れで、すんなり頭に入っていく(直ぐ忘れるが)
システムが完成するのには60年ほどかかっているみたい

結局のところ国を統治するのは官僚システムが必要となるが、遅れていると思われた江戸幕府は
決して遅れていたということはなかったどころか、傑出した官僚を生み出しており
それがために200年以上も際立った戦いのない世界を作り出している

この本は後半の明治維新時代に、幕府のノンキャリがいかに働いたかという点が焦点らしいが
まだそこまで読めていないが、この分では後半も楽しめそう
問題は名前が覚えられないのと、直ぐ忘れてしまうこと、、
でも、ま、いいか
本は一冊で3つくらい得るものがあればいいと言われるし、、、

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市議会場での陳謝・説明は、市民への陳謝・説明となるか

2018年04月25日 10時12分12秒 | 市政、市議会に関することなど

地元新城市の話題
市議会議員(山崎市議)の関係する団体の地域自治区の活動交付金の不適切な行為について、昨日の新聞に市は
平成25年度、26年度の二年分については支払いを取り消す(返却を求める)とあった
その記事の後半の部分には、市民グループが1078名の署名をもって
議会に対して山崎市議の政治倫理審査会の設置を要求したとある

その何かと騒がしい中で、議会報告会が先週から今週にかけて10箇所で行われたが
そんな中で感じたことなど、別のブログからのコピペ

月曜日は新城消防防災センター、火曜日は八名小学校体育館で行われた新城市議会の議会報告会へ行ってきた
でも今回はそのことではなく別のことを!
せっかちな人の血を引き継いでいるので、2日とも開始より少し前に現場についた
そこで話しやすい議員さんに「議員さんの考え方・捉え方」について聞いてみた

新城市議会では残念ながらこのところ、議場で議員さんが議長から「おしかり」を受けたり
それについて陳謝したり、説明をしなければならないことが連続して起きている
懲罰委員会の結果や、議員になった途端に市の発注する水道工事の受注が増えて開かれた政治倫理審査会の結果
また議会での聞くに堪えない暴言の連発、、そして今回の活動交付金の不正の問題など
これらはみんな議会として本人が「市民に」対して陳謝・説明責任があるとしている

該当した人たちは、とりあえず議場で陳謝・説明を行った
それを聞いている市民は議場に傍聴に来ている僅かな人たちだけで、その人たちは
議決した「市民に対する」陳謝・説明は、またいつか別のところで行われるものだと思っていた
ところが、それが何時になっても行われない
それで、それは何時行われるのか、、、と議会に問い合わせた
しかし、あれこれわからない理屈でそれから先は動きがない

となると、もしかしたら議員さんはあの議場の行為で「市民への」陳謝・説明は終了していると
捉えているのか、、との疑問が湧いて、それで月曜日と火曜日に議員さんに次のように聞いた
「議場で陳謝・説明を行ったが、傍聴人は僅か、テレビ中継もないなかで、議員全員がいるから
市民に陳謝・説明したことになるのですか?」
すると答えは、(月曜日も火曜日も)議員さんは「選挙という形で市民から付託されている議員の前で
行われるということは、市民に向かって行われたと解釈できる」とのこと
また別の議員は「議場での発言はそれだけ重いということ」と口にした

傍聴者はほんの僅か、テレビ中継もない、何が語られたか一般市民はわからない
でも市民から選ばれた人としての議員は代わりに聞いているから、市民は聞いたことになる
これはもしかしたら自分が聞いた議員さんの考え方だけかもしれないが、これが議員さんの共通認識としたら
少しばかりどころか、おおいに疑問を感じる

直近の例では、山崎議員は活動交付金の不適切な書類作成について議場で陳謝・説明を確かに行った
しかし、その議場での説明は、後日開かれた全員協議会で澤田議員の指摘により「嘘」との糾弾を受けた
その場にいた山崎議員は、その「嘘」発言に何ら反対意見を発することはなかった
全員協議会と言う名で文字通り議員全員参加しており、共通認識としてあの議場の発言は「嘘」というこになる
その「嘘」だったとされる発言のままで、市民に陳謝・説明をしたことになるのか
これはおおいに疑問

ただ火曜日聞いた議員さんは次のようにも答えている
「議会としてはそう考えるけれども、世間的に受け入れられるかはわからないと言うか問題があるかもしれない」
常識的にはおかしいかもしれないということを自覚している
法律的なことを良く知らない一般人は「市民に対して説明」とあれば、文字通り市民がいる中で説明を連想する
しかしシステム的には「議員に陳謝・説明」すれば市民に行ったこととイコールの考え方・捉え方は庶民感覚と大きなズレがある
このズレの感覚、庶民感覚とのズレは実は大きな問題ではないだろうか
市民が議員さんに求めるものは専門的・法律的知識、行動力もあるが一番は「常識的な判断力」ではないのか
市民が常識的におかしいとか変だと感じることを、肌感覚で感じ取って、それを議決と言うかたちに反映する
まずはそれが求められるのではないか

議場で陳謝・説明を聞いた議員さんたちは、自分が聞いたから市民が聞いたことになるなどと言わずに
仮にそういい切るのなら、地元に戻って、自分が聞いた話をすくなくとも支援者(投票してくれたひとたち)に代弁して伝えるべきでなないのか

ところで、その「嘘」とされた議場での発言は、次の「議会だより」に掲載されることになると思われるが
全文だろうか、それとも要約なのだろうか
何にせよ、議員さんには常識的な判断力を発揮してもらいたいものだ


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ゴールの上を通過するシュートを減らせ!

2018年04月23日 08時59分54秒 | サッカー

なでしこサッカーアジア選手権で優勝 まずは良かった
夜型人間ではないので録画を安心して見てられた
そこで気がついたことを

岩渕真奈が大会MVPを獲得したが、確かに身長は低くてもキープ力はあるし
ボールを運び、仕掛けて抜くこともできるしパスも良い
だが一番気に入ったのはシュートを吹かさないこと
入らなかったシュートもゴールの上にいったのは少ない 

横山久美もいつもあのコースにシュート(準決勝・決勝)できるのは練習の賜物なんだろう
その二人に共通するのはドイツでの経験(シュートの上手さ)

サッカーをするのに何人か集まると、ドイツ人はシュートの練習をし
オランダ人はパスの練習をすると言われる
確かにそうだろうなと思うことはある
ドイツ人のえげつなく冷静なシュートなどはこうした毎日の反映だろう

それと比べて日本は、、、
男も女もシュートがかなりの頻度でゴールの上を通過する
ずっと前からこれが気に入らない
これは代表だけでなくJリーグでもかなり見られる傾向
高校のサッカーでもやはり吹かすシュートは多い

正直これはなんとかならないかと思うし
育成時代から徹底的に指導すべき内容なのではないかとさえ思う(吹かさないように)
日本人はオランダのようにシュート練習よりパスの練習が好きな国民性かもしれない

それからデュエル
世界と戦うにはどうしても避けて通れない部分
しかし代表レベルでその練習をというのは少し残念な状態
これはもっと下の世代で当たり前のように身につけておく技術(心がけ)
ところが、日本は基本的に対人的にゴチャゴチャした状況を嫌い
それを避けるような練習を直ぐにしてしまう
一度に人に対するスキルを徹底的に身につけた後、パスワークで避けるという風にもっていけばいいのに
いつも答えありきの練習をしてしまう 
身体が覚えた感覚とか技術は大事なものと思うのだが、、、

世界標準の考え方で選手をコントロールしようとしたハリルホジッチ
結果的にそれについていけなかった日本人選手
今の時点での監督交代がどうのも大事だが、自分が気になるのは育成時代の将来を見据えた方針が
果たして良いものか、、ということ
何時までたってもゴールの上を通過するシュートを見る度に
少しばかり不安を感じてしまう 

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知ってるつもり「無知の科学」

2018年04月22日 08時31分07秒 | 

面白いのだが、一気に読んでしまうようにならないでいるのがこの本

帯のコピーには「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ激賞とあるが、それもそのはず
この本の内容は「サピエンス全史」に書かれていたこととだいぶ被る

知識(知恵)はどこに保存されるか
脳の機能として医学的な研究の成果をこと細かに紹介しているのではなく
むしろ脳は面倒くさいことは避けて要領よく、自分のわからないところは人任せ(専門家任せ)にしていく
傾向があり、知恵はコミュニティと言うか、そうした漠然としたグループに保存され
人は知ってるつもりで、過不足なく利用するようになっている、、そんな内容だ

鉄腕アトムのお茶の水博士はアトムの生みの親ではないが、(天馬博士が生みの親)
子どもころはお茶の水博士は、アトムに関することならそれこなんでもわかってると思っていた
しかし、今はそれは不可能なことは明らか
アトムの頭脳のコンピュータのプログラムをつくるひと、CPU自体を作る人、
それから身体をつくるひと(表面仕上げから、歩くまでの関節の動きなどを円滑にする人)
エレルギーを管理する人、、、つまり、それぞれ専門家の分野でしかわからないようなことが集まって
アトムは出来上がっていて、お茶の水博士は何でもかんでも知ってるわけではないということ

実際はそうなんだなと実感する
実生活でも、その分野は誰々が詳しいとなれば、自らその分野を勉強することなくその人の知恵を拝借する
コンピュータや車については実はその構造や仕組みが厳密にわからずとも使い方だけはわかり
細かな知識は専門家にお任せしている
これはこうした科学分野のことのみではなく、政治のことも、更に学問においても、、、

結局のところ、人はアバウトなイメージ的なことしか知り得ていないし
(それは何も知っていないことに通じて、ソクラテスの無知の知を思い出させる)
それで、うまくいっているということ、、、ということなんだろう
人はそんなもん、、、というのが明らかにされて、少しホッとする、、感じ

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土曜の朝、聴く音楽は、、

2018年04月21日 08時58分58秒 | 音楽

朝はバロック音楽が気持ちにフィットする
特に感情に訴えることもなく規則的に流れていく、それが朝のリズムに合う気がしている
土曜日の朝、このレコードを引っ張り出した

シフの演奏するバッハのパルティータ
ピアノでのバッハはグレン・グールドが有名で特筆されるものとされている
それは確かに興味深いが、少しばかり集中度が高すぎて楽しむという雰囲気になれないので
気持ちののったときしか聴けないでいる
だがこのシフのバッハはもう少し気楽に聴ける
何よりも歌うようなバッハで優しい感じが良い

でもバッハの基本的に真面目な音楽を聴いていると、次に聴くレコードはモーツァルトにしようと
ついつい思い浮かべてしまう
つい先日もそうだった
シフ、アルゲリッチのパルティータを聴いた後、モーツァルトのK310のイ短調のピアノソナタを引っ張り出した
するとなんと感情の豊かなこと、呼吸しているかのよう、楽譜を見ると機械的と思われるようなフレーズも
歌うように流れる、、、

モーツァルトは音が少ない(当時は多すぎるとされた?)
でもその必要最低限のところで素晴らしい効果を上げる
ピアノ協奏曲22番・23番の第二楽章などは、だんだん音が少なくなって、、ほとんど単音だけになるけど
そのその美しさは、、、

あらら、バッハから始めたが結局モーツァルト礼賛になってしまった
ほんとモーツアルトは良いなあ



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人の醸し出す空気(オーラ)

2018年04月19日 08時37分49秒 | Weblog

そこはまず第一に真面目さ・厳粛さが求められる場所
帽子・外套の着用は許されず、ただ座って聞いているだけの
我々にとってもどこか緊張感を要求されるところ
ましてその人物が部屋に入ってくるだけで、その場の雰囲気は一気に
ひんやりとした張り詰めた空気が漂う

ところが今は人事異動の季節
前回と同じような張り詰めた空気を覚悟していったが
驚くことに後任の新しい人物が入ってくるやいなや空気は
どこかほんわかとした柔らかなものになった

そしてその印象は時間が経って、実際の会話のやり取りにおいても
ますますその印象を強めるばかりで、少しばかり例外的な傍聴席から弁護人へのアドバイスにも
声だてて制止することもなく(それが適切かどうかはわからないが)
しょうがないなあ、、みたいな雰囲気で、いい意味で見逃していた

その場所とは裁判所でその人物は裁判長
1年以上続いている裁判の何回目かの傍聴での出来事
一見理性的で客観的で、専門家なら誰でも同じ様な答えが出そうな裁判システムだが
実際には裁判官の人間性におおいに左右されそうなことが、最近はなんとなくわかってきている

ただ新しい裁判長は、それを人徳と言うのかわからないが、最初から好感を持てる雰囲気、表情を持っていた
正直なところ前の裁判長なら不利な判決が出たら文句を言ってしまいそうな気持ちになっただろうが
今回の人なら「そういう解釈もあるのかな」と少しばかり許せるかもしれない、、みたいな気分になれている

この印象は自分だけでなく一緒に傍聴した数人も同じ印象をもったので
法廷から出るやいなや、今度の裁判長はめちゃ明るい、、との声が出た

引き継ぎの確認をして、論点の整理をして、当たり前のように進むが、ここでも人間の行うことの方向性の違いが少し見られた
前回までの裁判長は重要視していなかったような証拠が、注目すべきものとして扱われるような雰囲気だ
裁判のことはどのあたりまで表に出して良いのかわからないので正確なことはかけないが
要は人の表情とかオーラが醸し出す雰囲気は周りの人に与える印象がだいぶ違うということ

そのことを思うと昨晩、新城市の地元で行われた議会報告会で
怒号が飛び交い誰も聞いていないと思われる状況下で、一方的に自分たちの用意した書類を読んで
強引にその催しを進めようとした人物の表情やオーラは、、、、まったくいただけないものだった

ここで取り上げている裁判とは ⇒新聞各社の裁判の記事

怒号が飛び交うことになっているのは⇒新聞報道のその後

ホント、人間性ってのは表情やオーラに出るものだと強く実感した
(一番困るのは本人は他人からどのような印象で見られているかわからないこと)

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正しいという根拠

2018年04月18日 09時45分25秒 | あれこれ考えること

少し観念的な思い込みのような話
人は自分の考え(思いつき)が正しいと思う時、その根拠は何かといえば
どういう訳か「美しい」から間違いはないと感じるらしい

少しわかりにくいが、頭の中だけで勝負している数学者などは
まだ証明されていない定理も「美しいから正しいに違いない」との実感を持つようだ

もっとも「美しい」と感じるのは個人的な印象で、果たして一般化できるかが
一見疑問に思われそうだが、何故かその境地(レベル)に達した人びとは
皆同じような感じ方をするらしいから、、あながち個人の思い込みとだけは言えないようだ

「崇高と美の観念の起源」という本がある
イギリスの政治家・政治哲学者のエドマンド・バークが残した作品だが
読んでないでわからないが、ここでも自分の判断が正しい根拠としての美意識があげられているらしい

要は美しいものを感じるってことは、正しいってことを知る助けになりそうだということ
絵画とか音楽とかは、それらがもたらす経済学的な効用だけでなく、
こうしたメンタルな効用もありそうなので大事にされて欲しいものだ

ところで「美しい」と個人的に無条件に感じてしまうのはモーツァルトの音楽
短調の曲も感傷的と言うよりは「美しい」というしか表現のしようのない気持ちになる
長調の曲の生命力に満ちた音楽も、、、美しい、、と感じる
モーツァルトの音楽を楽しめる能力があることは、とても幸せなことだといつも実感している

得意の毒にも薬にもならない話、、、

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デモ雑感

2018年04月15日 09時12分40秒 | あれこれ考えること

後悔には2つあって、ひとつは「してしまったこと(失敗)」に対する後悔
もうひとつは「しなかったこと」に対する後悔
どうせ後悔するなら前者を選びべきだ、、というのは若者に向けて時々発せられる
若者には失敗を活かす時間があるからだ

最近、すべきかすべきでないか、、とハムレットのように悩む時(大した問題でないことが多いが)
あれこれ考えることなく、自分の気持ちに素直に従うことが多くなっている
その気持がどこから湧いてくるかわからないが、そうすべきだ、、という内側からの声に従ってしまう
その方が気持ちがスッキリする
これが願わくば論語にあるような境地「心の欲する所に従ひて矩(のり)を踰えず(こえず) 。」
であれば良いのだけれど、(自信はあるような無いような、、)

昨日、東京まで出かけ国会議事堂前のデモに参加した
自分のなかに自然と湧き上がってきた感情に素直に従った行為だ
しかし、だと言って他の参加者には申し訳ないが、「辞めろ」一辺倒は少し抵抗感があって
「真相を解明しろ、、」「ちゃんとやれ」と叫びたいところが自分としての気持ち

テレビ画面で見るのと現場で感じることは随分違う
その場所でしか感じ得ないこともある
「失われた時を求めて」ではないが、心に浮かぶイメージ・感想を
徒然草のように(心にうつりゆくよしなし事を)ダラダラとかきつくれば、、、

地下鉄の国会議事堂駅から地上に出るとこんな風景に出会った

国旗がはためいて、オリンピック等の喜ばしい感情よりは、少しひいてしまう気持ちさせる国旗の使われ方だ
この日国会議事堂前で大規模なデモが行われることを知っている対立する人たちのデモで
スピーチは勢い良いことを言っているが人は少ない感じ
いろんな考え方があるのは否定しないので、少し耳を澄ませて聞いてみたが、、、
正直なところ話が飛躍しすぎて(反日とか直ぐに使い出すので)よくわからなかった

近くに警察の方がいた、デモの方々には警察は評判がよろしくないが、この人達の本音は
どんなんだろうと、、その表情を見てみた、そして話しかけてみた
「この近くにコンビニありますか?」
天気が怪しかったのでビニール傘を買っておこうと思ったのだ
その意図を彼は直ぐに察して
「この近くにはありません、でもその角を曲がって、そのまま歩いて、また左に曲がって、、でも正直、遠いです」
若い方だったが、とても好感が持てる応対だった
この方の印象が良かったので、つい大半の警察の方は、青筋立てて警備をしようとしている様子もない印象をもってしまった
(この人たちも連日のニュースを知っているので、、、?)

デモの方々はそれぞれスローガンを書いたボードを掲げている

その中で気に入ったのは、黄色地の紙に黒で書かれた(この画像にはないが)
「Your silence will not protect you」
本当にそう思う

次に気に入ったのは
「官僚たちよ、(良心の声を上げろ)こんな政権に忖度するな、国民の為に働いて!」
官僚さんを悪者にするのではなく(良心の声)に期待するところが、北風と太陽の太陽の立場
官僚さんには内なる声を聞き、それに従う勇気を持って欲しいとつくづく思う

こういう風刺のきいたのもある

次のもつい撮影してしまった

「ピノキオ」の物語から来ているが、こういうどこか余裕のあるものが真面目一辺倒よりは
個人的には好きだな
そう言えば、少し前ツイッターで英語のスローガンにこういうのを使ったら!と
アップした人がいた

Abe, your time is up!
Your time is up, Abe!
“Properly” explaining means not lying!
Buy a Dictionary!

Dear Ms. Akie Abe, This is an INVITATION
to the Diet
ABE RESIGN NOW!
We want justice!

(言葉に使い方が違ってるから)辞書を買え!とか ダイエットの招待状とか、、
少しニンマリする

「お互いに冷静に、、」
これはバリケードが決壊した時の警察の方の言葉
ここで少しびっくりしたのは、バリケードを乗り越えてあれよあれよと人が道にはみ出した、、ばかりではなかったこと
確かに多くの人は勢いにのって道路に移動した
しかしまだ歩道に残っている人も少なくなかった
道路に進んだほうが一体感を感じられるし、デモの効果も大きそう、そしてその場の雰囲気としては
そういう行動をとったほうが自然と思われたが、、冷静におとなしく歩道にいた人がいる
それは警察が守ろうとしているルールを破る気持ちに抵抗感を覚えているのではないのか
思い込みかもしれないが、その時フトそう感じた
そして勝手な連想は、ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」(3)のある部分を思い出した
それは収容所の人数としては圧倒的に多いユダヤ人が、何故みんなで抵抗してせめて一人でもドイツ人を
やっつけるということをしなかったのか、、ということ
自分もシンドラーのリストとか戦場のピアニストを見た時には、何故、ヤケクソでも抵抗しなかったのだろう
との思いを消すことができなかったが、それが今回も見られたような気がしたのだ

そして、こんなこと(実験結果)も思い出した
二種類のさかなが入った水槽がある
片方が他のさかなを食べてしまう関係だが、その水槽には透明な仕切りがあって
食べられる方のさかなに接近しようとするとその仕切が邪魔になって対象にたどり着けない
さかなにとってはストレスのかかる状態だがこの状態を長いこと経験した後、
その仕切を取るとどういうことが起きるか、、
食べる方のさかなは、食べれるにも関わらず、食べないままでいる、、というのだ

諦めることになれすぎてしまうと、知らないうちに、自分で自分の行動にブレーキをかけてしまう
それは「人間性の破壊」に通じるものとハンナ・アーレントは言ってる(ような印象)
まさか、そこまではいっていないぞ、、であれば良いのだが、なんとなく危惧を覚える次第

ところで、今更ながらやっとのこと東京の地図、位置関係がわかってきた
名前だけはよく聞く地名がどこにあってどことつながっているかとか
東京って、基本的には江戸なんだな、、て感じ、
でも田舎もんには人が多すぎて疲れる、、

疲れるというものの次回の上京は、GWのラ・フォル・ジュルネ(何年ぶりかな)
これは単純に楽しみ、、





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いつもの行事

2018年04月13日 18時59分36秒 | 徒然なるままに

今年もその時がやってきた
横着者の身とすれば面倒なことと思ってしまいがちだが
それでもここ数年は、これも大事な家族の行事かもしれない
と思うようにもなっている

5月人形の飾りつけだ
毎年のことなのに、どのように飾るのかがスラスラいかないところが情けないが
最近は写真を撮っておいて、思い出しながら隠れている土台をいろいろ有り合わせの品物を
引っ張り出して陳列可能なようにあれこれ思い出しながらつくっている

時が過ぎれば当たり前だが仕舞わなくてはならない
2階の納戸から下ろしたものを上げなくてはならない
痛まないように各パーツを紙で包んで箱に入れて、、、(面倒くさい、、、)
ただただ仕切り役の人の言うことを聞くばかり

でも考えてみると、幸せってことは、こんなことかもしれない、、と思ったりもする
毎年行うことを今年もできるというということ
それを行う時に、昔行った時のことを笑いながら話しながら行う
時にはもっとずっと昔の話まで遡る
そして来年もできるといいねと声を掛け合う

この侍大将、それなりに存在感が有るので季節が終わって片付けてしまうと
ぽっかりあいた空間が無性に寂しく感じてしまう
まるで祭りのあとのように、、

年齢のせいか他愛もない一瞬一瞬がとても大切なように感じてくる




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