パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

幸せな時間

2021年09月30日 09時07分35秒 | 子どもたちのこと

ねえねえ、月曜日、どうしてこなかったの?
ちょっと、用事があったからね

ねえねえ、あといくつ寝るとサンタさん?
80回よりも少し多いかな

ねえ、これ持って!(重い水筒)
いいよ

ねえねえ、いま何歳?
何歳かな!
100歳?
えーっ、ちょっと多すぎるな
だったら、88歳?

小学一年生の女の子と小学校までの楽しい会話
去年までお姉ちゃんがみんなと一緒に楽しそうに小学校に行くのを
羨ましそうに眺めていた女の子だ

お姉ちゃんは今年から中学生
あいさつ推進運動で、あいさつができる子どもを育てる目的で
地区の老人が子どもを見守っている(自分は小学校までウオーキングを兼ねての付添)
最初は素直に屈託なくあいさつできていた子どもも、少しするとできなくなってくる
徐々にあいさつができるようになるというの幻想だと思う
子どもは大きくなると恥ずかしさを覚える様になって、急にあいさつができなくなる
それは正常な成長の証のような気がする

今は無邪気な会話ができているこの子も、もう少しすると煙たい存在として
見られるようになってしまうかもしれない
でも、それは仕方ない、それも成長の一過程だ

今は、話しているだけで幸せになれる時間が
少しでも長く続くようにと思う

Hくん、靴ちゃんと履いて
Tくん、忘れ物ない!

彼らには子供時代の記憶として、なにか残るのだろうか?

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ある実験

2021年09月29日 17時01分47秒 | あれこれ考えること

こんな実験が行われた(よくもまあ、こんな実験をしたものだと思ったりするが)

10歳から11歳くらいの20人の男の子がある孤島に連れてこられた
男の子たちは10人づつのグループに分けられた後
綱引きなどのグループで戦う競技をすることになった

その時の男の子たちの行動や気持ちを観察するのが実験の目的で
そこでは敵対心に燃えた感情が芽生え、相手を批判する言動が飛びだし
険悪な状況になることもあった

その後で実験の主催者は、島にある水道施設が壊れてしまった状況を
作り出して、彼らの行動を観察した

すると先程まで感情的にまずい状況にあった男の子たちは
水を確保するために力を合わせて協力するようになった

この結果は、なんとなくそうだろうなと想像がつくし
この結果にホッとする

つまり人は偶然でもグループ分けをされてしまったならば
自らのグループを守るために
相手の悪いところを見つけては批判をする傾向があるということだ

グループの結束力を高めるために相手を罵るというのは
戦術的に現実的な方法なのかもしれない
だが、それは真に必要とされる物事の解決には役立たないということだ

この実験のようなグループ分けによる批判合戦が、至るところで起きていないか
フトそんなことを考える

国でも市でも、感情をむき出しにして批判し合うことは珍しくない
確かにのんびりと、おっとりと構えてなどいられない状況かもしれない
多くの人が、こうしたほうが良いと漠然と行っていること
多分それは、倫理とか正義とかに通じる自然法的な解釈による行動が
当たり前のように行われていないことを示している

誰かが緻密に考えて、こうこうすべき!と考える方法より
みんながふんわりとこうすればいいと考える方法のほうが
世の中はうまくいくのではないかと、つい思ってしまう

もう少しすると、新城から豊橋向かう道路には柿の販売所が登場する
少し形の悪いものや傷んだものが袋詰され、とんでもない安さで売られている
大半は無人で、料金の入れる箱とか竹筒があって、無防備に柿が並べられている
お金も、柿も、大丈夫か?
と思うが、案ずるより生むが易しで、大半の人は常識的な判断でこのシステムの
ありがたさを味わっている

世の中がこのようなそれぞれの善意を前提に回って行けばいいのに!
とつくづく思う
(一人の悪い例が出てしまうと、このシステムは壊滅してしまうかもしれないが)

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「駅」と「乳母車」そして、時間経過の変えたもの

2021年09月28日 09時29分51秒 | 徒然なるままに

人は考えるより感じることで生活をしている
根拠もなく、ただそう感じるというだけで
確信もった判断をしてしまいそうになる

先日、4年ぶりに思い切って覚悟を決めた人物に会った
その覚悟は家族への説得、そして何よりも自分への納得を
要するもので傍目ほどには簡単ではなかったと思われる

彼とは時々会っているが、時間をかけて話ということはなかった
それが久々に話し込んでみると、彼はこの4年で少し変化していた
以前の彼は良く言えば信念がある、悪く言えば一人よがりの傾向があった
それはジョブスのような完璧主義にちかく、些細な表現の違いも
自分の意見を押し通して、そこまで我を通さなくても良いのでは、、
と思えることがあった

ところが、先日はあれっ、素直に人の話を聞いている!との印象をもった
以前も人の話を聞かなかった訳ではない
ただそれは、自分を正当化するための材料集めのようだった
それが今回は自分の内面に落とし込むための(人にはいろんな考えかたがあるのだ)
聞き方のように思われた

不意に、彼の4年間の時間経過がなし得たものを考えた
人は誰でも(?)歳を重ねると丸くなると言われる
経験すればするほど人は弱くていい加減で、
あるべき姿を実現できないことがわかってくる
若者が正義感で突っ走るのは尊いことだとしても、それが現実的かと考えると
その方法では世の中は解決しないこともわかるようになる

もちろん流されてはいけないが(草枕の冒頭にあるように)
基本のところは信念、固い意志が必要だ
だがベースに人間性にたいする理解があるとないでは全然違う
彼の目ざすところは、多くの人の力を必要とする
人が動くということは、必ずしも理屈で動くのでないという現実
(それは否定的な意味も含まれるが)
そういう時は全人格的な要素が、彼の欲する立場には
方針以上に必要とされるのではないか

と、まあ極めて抽象的な話をしているが、これは多少仕方ないところがある
地元の人にはあのことか、、とわかるかもしれない

ここからはわかりやすい話
それは時間の経過で人が変わり、
感じ方も変わるという話で男と女の感じ方の違い

竹内まりあに「駅」がある
この歌の歌詞に「2年の月日が変えたもの」というフレーズがある
今は別れてしまった二人が、2年の月日のあとフト駅で見かけたときの
シーンを女性目線で歌っている
切ないとか、喪失感に満ちた歌だ
だが、どこか抵抗感とか違和感がある、、
それは時に中島みゆきの歌にも感じる女性目線への
男からの違和感かもしれない

一方、男性目線から時間経過の残酷さをさらっと歌ったものが
森田公一とトップギャランの「乳母車」だ
ここでは別れた二人が(何故か)一緒に歩いている
女性は乳母車を押している
「三年の年月がそこにある  埋められぬ年月がそこにある」
男目線からの喪失感を表現したものだ

3年で別れた男女が何ごともないように会えるか?
とか言ったツッコミは、この際横において(ドラマは愉しめば良いのだ)
この2つは似たような状況を表しているが、
自分は女の感じ方と男の感じ方の違いを感じてしまう

そして自分は男だから「乳母車」の方にシンパシーを感じてしまう
いつまでも未練たらしいのは男の方、、というのは本当の話と思う

ということで、これらはただそう感じるというだけの話
人は感じることを蓄積し、その上で考える過程に移っていくと思われる
何かを感じることは、その意味では大事なことと思われる

ところで竹内まりあの「駅」は↓

駅 - 竹内まりや


森田公一とトップギャランの「乳母車」は↓

乳母車 森田公一とトップギャラン 2018

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選挙前に思うこと

2021年09月25日 09時26分52秒 | あれこれ考えること

新城市は来月の市長選、市議会議員選挙を控えて何やら騒がしくなってきた
最初は市長選は立候補者が一人、市議会議員選も立候補者が定数きっかりで
無投票で終わってしまう雰囲気っだったが、ここに来て市長立候補は2人
市議会議員は定員18人のところ21人が予定されている(事前説明会では)ようで
とりあえず、無投票の最悪事態は避けられたようだ

無責任に最悪事態は避けられたとしているが、当人、あるいは家族にとっては
生きるか死ぬかのような気持ちでいるから、その心労は察するが
客観的に選挙があることは良いことしたい
(中には落選運動をしたいくらいの候補者がいるので)

先日、ある現職の議員が、近所の人を伴ってやってきた
もちろん公選法の戸別訪問の違反はしないようにしている
「あれ!」
玄関先でお互い声が出た
「ここが彼の家か!」
時々話したことのある議員はそう思った違いない
その様子を見た近所の付添は
「あれ、知り合い?」
と不思議そうな様子だった
知っている間柄なら話は簡単ということで、話は大してすることなく
名刺だけ置いて帰っていった

昨日のこと、現職の別の議員を隣の家で見かけた
一緒にいて話しかけて来たのは姉の同級生だった
(手伝う羽目になっていると)

人と人の結びつきは、不思議なものだと感じる
というのは諺では「類は友を呼ぶ」とあるが
自分の知っている姉の同級生はイメージ的に
その議員を応援するタイプではなさそうだったからだ

前回も同級生がある議員の応援をしていたが
イメージ的に組み合わせが意外だったので
どういう繋がりがあるのだろう、、と不思議に思えたものだ

自分の知っている彼らは自分からの見方でしかない
彼には彼らなりの生き方や生活があり、その生活のなかで多くの人と接して
総合評価をされることになる
その中で一番大きそうなのは仕事の関係だろう

仕事の関係で知っている人物を、それだけで全人格的な判断力を要される
任務を全うできる人物として思い込んで良いのだろうか、、と思ったりするが
現実はそのくらいの知識でも、判断材料を多く持っている方に入るかもしれない

せめて最悪の事態にならにようにと、多くの人が判断する選挙という機会
それが国も市も、なんだか危ういことになっていると感じてしまう

面倒くさいが、より良い選択をするための要素は間違いなく情報だ
その情報は向こうから勝手にやって来る垂れ流しの報道と
こちらから探っていく、それ故に自分好みを集めやすい情報がある
ただ現実を見れば、向こうから勝手にやって来る情報が圧倒的に多い
そしてそれは空気を作る
その空気は感染する

今月の100分de名著は「群集心理」で、見逃してしまったと思ったが
危うく見た3回目には、群衆をコントロールする方法が紹介されていた
それは「断言、反復、感染」
このうち断言は、根拠やエビデンスなどは関係なしのシンプルな言い切り
そのほうが感情を煽り効果的とされる
反復の効果は現実社会でも実感する(現在の総裁選の報道がそれ)

報道の量で群衆は支配される
これは残念ながら多分事実だ
これは良くないとわかっても、すぐさま制度的に変更はできないだろう
となると、少なくとも大量の勝手にやってくる情報に振り回されないようにする
と自覚することが、せめてもの抵抗のように思えてしまうが
それで間に合うのか、、も心配だ

新城市でも勝手にやって来る情報は行政の報告で、問題点を指摘する内容は
その気になった人にしか届いていない
(市民が記者クラブに情報をリリースしても取り上げてもらえない)

とまあ、不安が多いが、人の世は少しずつ良くなっていく、、とする
考え方が、果たしてそうなのか、、と思うこの頃
(仕方ない、できることをやってくしかない)




 

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「24」という数字

2021年09月24日 08時27分10秒 | 徒然なるままに

お気楽な話

今日は9月24日
お彼岸のお墓参りも済んで、おはぎも頂いて
今年は彼岸花が咲くのが早いな、、などとぼんやり思うことも済んで
新城市の昼の長さと夜の長さを調べてみると
日の出は5時39分、日の入りは5時44分だった
まだ少しだけ昼のほうが長い

それでも光の色はだいぶ違う
虫の声も夜になると耳に入ってくる
それはとても心地よい(外国人には騒音と感じられるとか)

でも今朝、気になったのは今日の24という数字で
直ぐに思い出したのがモーツアルトのピアノ協奏曲24番ハ短調K491だ
長調の多いモーツアルトの音楽で、20番のニ短調と並んで評価の高い曲だ

数字は連想が働く
公共施設の靴箱の数字は、ケッヘルとか、(ベートーヴェンの)作品番号とか
交響曲の番号とか、、つまりは、思いつくままに任せて、
その時の気分次第で選んでいる

歳を取ると保守的になると言われるが、普段聴く音楽も最近は固定化しつつある
圧倒的にモーツアルトが多くなっている
時にはモーツアルト以外の作曲家でフル音量で開放的な気分になりたいときもあるが
大半はヴォルフガングの楽器同士の会話のような室内楽が楽しい

ということで、24はハ短調のピアノ協奏曲を連想したということ
その曲のyoutube動画は
Mozart - Piano Concerto No. 24 in C minor, K. 491 (Mitsuko Uchida)

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ブラジルは広い!

2021年09月22日 17時07分13秒 | 子どもたちのこと

一週間お休みしたブラジルにいる子たち(お姉ちゃんと弟)とのzoomでの日本語の勉強
今朝はいつもの時刻なると始まった
勉強と言っても日本語を忘れないようにするくらいのことしかできないが
それでも週イチで5ヶ月になる
先週は旅行でお休みだったが、二人のお母さんのFBと投稿で
旅行中みんなが楽しそうにしていることがわかった

だが疑問に思ったことがあった
南半球のブラジルは今は冬のはず
なのに弟は海で遊んでいる
彼はしばらく見ないうちに少し身長が伸びたようだ
「ブラジルは冬のはず、寒くはないのですか?」
とFBに投稿すると
「今、32度です」のお母さんからの返事
冬は寒いが、南北に長ければ温かいところもあるということなのか

お姉ちゃんにはzoomでは旅行のお話を1分以上してもらう約束をしてにおいたので
彼女は書いた原稿を見ながら、旅行の様子を報告する
自ら話すことは、読んだり聞かれたことに答えるより難しい
まずは日本語で考えなければならない
話す時にこそ、自分の外国語の能力の未熟さを感じる
(それは自分がドイツに行った時実感したことだった)

海へ行って弟と遊んで、エビの串焼きとアサリを食べた
美味しかった
そのあとスイカのシュースを飲んで、これも美味しかった
翌日、朝の海を歩いていたら子ガメが何匹か歩いていた
海にはプラスティックやビニールがあった

まだ自分の思いを入れるまではいかなくて事実の報告だけだ
でも約束を覚えていて、ちゃんと原稿を書いておいてくれたのが少しうれしい

スイカは丸いのかな?それとも少し細長いのかな?
あっ、ジュースか、それならわからないか
細長い方!

お姉ちゃんに気になっていたことを聞いた
海まで車で行ったと思うけど、どのくらい時間がかかった?
7時間位、、

そうか、ブラジルを日本のスケールで想像してはいけないってことだな
ちょっと出かけるのも、日本では考えられない距離の場合がある
そういえば彼らが帰国の時、お父さんはサン・パウロに着いてからも
それから4時間も車に乗らなければならないと言っていた

それから準備しておいた内容を少しだけ行って弟に交代
そこは、やったよ、、
彼は自分より遥かに記憶力が良い
難しい漢字(画数の多いもの)の書き順がわからないというので
画面共有で、〇〇の書き順とインターネットで調べたものを見せる
かれはそれを書き写す

とても勉強とまではいかないが、彼らは今のところ自分になついて
この時間を楽しんでいてくれている

先生見て!彼らはお姉ちゃんが描いた絵を見せる
日本のアニメの絵だ
これが驚くほどうまい
前回見せてもらったのは単なるモノマネぽかったが、今朝のは
どんな方法で描いたのか不思議に思えるくらい完成度が高かった
知らず知らず声が出た、うまい!また描いたら見せてね

時間が来て、二人はバイバイ!と手をふる
また来週ね、
しばらくして画面から彼らが消える

それぞれの都合で、いつまで続けられるかわからないが
少なくともこの時間を楽しみにしている自分がいる

それにしても、ブラジルは広い、、


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時の経過と実感

2021年09月22日 09時36分10秒 | 徒然なるままに

いつの間にか「母の日」「父の日」と「敬老の日」のどちらがふさわしいのか?
と思えるようになってきた
その3つは以前は自分が何かをする日だったのが、いつのまにかされる側になりつつある

生きていれば当たり前のようにやってくるこうした出来事も振り返ると
情けないが「(人生は)こんなものか?」と思えてしまう

きっとそんな感じは自分だけでなく、多くの故人も覚えたに違いない
なにか強烈な目的と達成意欲に駆られた人は、その実績をもって自己評価できるかもしれない
だが、毎日を歳とともに「昨日あったことが今日もある」ことの大切さを覚えるようになると
大きな変化は好ましくないように思えることもある

年齢を重ねると保守的になると言われるが、それがこの意味なら理解できる
しかし、年齢を重ねると他人への共感・同情の意識も強くなり、涙もろくもなる
そのために、現在進行系で進む不公平に対しては怒りも覚える
変わらぬことが良い、不公平は早急に変えるべきだの2つの思い
この2つは個人の意識の意識の中で知らずしらず戦う
あるときは正義感が表に出て、あるときは怠惰な面も出て

多分、人はみんなその両面を持っているに違いない
問題は肝心な時にそのどちらの面が表に出るか、、ということで
個人的には流される人にはなりたくない、、という意識が今のところは強い
しかしその分、面倒くさいやつ、、ということになりそうだが、それは仕方ない
おそらく、最後の最後まで迷うだろうな
時よ止まれ、お前は美しい  などという境地にはなれないと思う

ま、いいか
ちょっとした個人的な思い(いつものことだが)



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清少納言を求めて  フィンランドから京都へ

2021年09月20日 16時31分51秒 | 

今朝、急に京都のことに思いを馳せたのは実はこの本がきっかけだった

少し前の中日新聞の書評にあった本で、フィンランドの女性が
清少納言の暮らした日本(京都)での生活や感じたことを
枕草子風(随筆風、ブログ風)に書いたものだ

彼女は清少納言にシンパシーを感じている
帯にあるように似ていると感じている
そのように感じることは珍しいことではなくて、割合よくあることのように思われる
(自分でもそんな気になる人がいる)

本がアマゾンなら届いて二三日、まだ途中だが、なかなか面白い
例えば京都の嫌になるほどの暑さが、目の前に起きていることのように描写される
それは精緻な描写というよりは、喚起力の強い文体で、簡潔で過不足ない文体は
少し憧れる

これは通してみればビルドゥングス・ロマン風な成長の記録かもしれない
だが、この感じ、前にもあったっぞ、、と思い浮かんだ
それはフランスのピアニスト、エレーヌ・グリモーの「幸せのレッスン」だ
「幸せのレッスン」はタイトルとして軽すぎる感じだが、
内容はピアニストの片手間仕事ではない切実感と幻想的な雰囲気に満ちた
読みでがある本だった

欧米の女性の感覚は、共通してこんな感じなのだろうか
ふとそんなことを考えた
確かに男が書くような文体とか感じ方ではない気がする
そして昔の日本においては、女性が物書きとして足跡を残しているのは
単なる偶然ではなく、洋の東西を問わず女性は作話能力の優れているせい
とも思うのだった

彼女が廻る京都を思い浮かべながら読むのは、YOUTUBEで京都の動画を
見るような感じで、懐かしさも感じることができる
(その分、京都に行きたくなる)

それにしても、彼女は一年の休暇期間を取ることができたとサラッと書いているが
そのようなことが可能なフィンランドの社会に驚く
日本では少し考えにくいことだ
日本では歳をとってもずっと働けることが幸せのような
あるいは働かなければ暮らしていけないような雰囲気があるが
つい、幸せって何だっけ?と考えてしまいそうになる


 

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京都

2021年09月20日 09時50分55秒 | 徒然なるままに

遠出しての帰路、見慣れた景色が目に入ると「帰ってきた」とじんわり感じるものだ
京都に向かう新幹線の中では、山科のトンネルを抜ける辺りから「京都に来た」
と感じ、メンタルは京都を楽しむ臨戦態勢になる

大好きな京都、年に3回位は訪れて「そうだ、京都。行こう」
で紹介された場所もほとんど足を運んでいる

最近好きなのは侘び寂びの京都より、雅(みやび)の京都の方で
お公家さんの趣味の良いものに心動かされる
仁和寺、上賀茂神社、下鴨神社、大覚寺、嵐山辺りが最近は好み
以前は、銀閣寺とか南禅寺あたりの渋めがに惹かれたが、
歳取ると派手なものを着たがると言われる傾向を反映しているのだろうか

でもアイツのせいで最近は行けてない
錦市場の杵つき餅やで食べることも、とらや茶寮でちょいと高いが
時を過ごす楽しみもこともできない

今度行けるようになって、あのトンネルを過ぎる辺りになると
「帰ってきた」と思うだろうな、きっと

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決算認定が否決された場合はどうなるのだろう?

2021年09月19日 12時20分32秒 | あれこれ考えること

面倒くさい話

不意に、「市議会で決算が認定されなかったならば、具体的にはどうなるのだろう?」と頭に浮かんだ
年に4回開かれる市議会で肝心なのは3月の次年度の予算を扱う会議と
9月の中間決算を扱う定例会とされている
このうち予算案が議会で否決されたならば、予算執行が一部を除いてできなくなるので
困った状態になるのは想像できる
だが、9月に議案として提出された決算認定が否定されたならば、具体的に困ることあるのだろうか?

そこで「決算認定否決」とぐぐってみると、地方自治法には否決された場合のことがこう書かれている

地方自治法233条 7
普通地方公共団体の長は、第三項の規定による決算の認定に関する議案が否決された場合において(議会が否決した場合のこと)
当該議決を踏まえて必要と認める措置を講じたときは、速やかに、当該措置の内容を議会に報告するとともに、
これを公表しなければならない。

法律文は素人には直感的にわかりにくい表現が多いが、要は自治体のトップが「必要と認める措置を講じたとき」は
その措置の内容を議会に報告し、一般に公表しなければならないとしている
ところが、引っかかるのは「必要と認める措置を講じたとき」のフレーズで、仮にトップが必要と認めなかったならば
(様々な理由で)、何もしなくても良いということなのだろうか、、と想像してしまった

どうも決算は認定されても、されなくても大した違いは無いような印象を(素人は)覚えてしまう

そこで具体的な例として我が市の出来事を挙げてみる
9月の市議会では法に従って、決算認定を行うことになった
その決算認定は24の案件について、お金が効率的、公平に使われているかを「一括して」
イエスかノーかを採決で決めることになった
24個もの案件があると、その中には少し問題の有りそうな案件(高速バス、小中学校の給食共同調理場)もでてくる
今回の決算認定に反対の意思を示した議員は、
「決算の全部を反対するものではないが、問題のある〇〇のために反対する」と反対討論を行った
一方、賛成の議員は
「予算執行の目的は素晴らしいし、行政は適切に行なっているので賛成する」
と討論を行い、最終的には採決を行い認定されることになった

そこで認定されなかったときの「必要と認める措置を講じたとき」の一文を思い出すと
行政の対処は、「問題のあった〇〇について、今後はこうする」と答えることになって
決算認定が否決されることはむしろ現実的にその後のためになるのではないか、、とさえ思ってしまった

これは正しい理解の仕方かどうかわからない
ただ、文章だけを読むとそんなふうに思えると言うだけのこと

問題は決算認定について真剣に討論されるべき決算委員会において
分厚い資料を読み込んで質疑を行ったのは、一部の議員に限られていたという事実だ
読み込んだ議員は疑問を感じて質問し、様々な面に思いを馳せ、部分的に納得できないために反対をする
だが、疑問を覚えない議員は(質問しないから何を考えたり感じているかわからない)
行政の予算意図の意義故に賛成としているようだ
(だが決算の目的は予算の意義ではなくて、使い方の正当性のチェックのはず)

こうして自分の住む市議会の愚痴を言ってもしょうがないことかもしれない
現実にはどの自治体でも決算認定が否決されるような事態は起きておらず
これらのステップは儀式のようなものに過ぎないのかもしれない

いくら大事なこと(例えば市政)としても、全てに問題意識をもつことは現実的には不可能だ
結局は効率的な方法として誰かに委任することになるのだが、この委任された方々は
ちゃんとその責任を果たしているか、、、少し不安になる
(もっともパーフェクトな人間を求めるのは現実的でないので、最終的な判断が間違えなければ
 良いかなと思っているが)





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