パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

ホワイト・アルバム

2018年09月30日 15時53分24秒 | 音楽

台風24号はまだこの地区には来ていない
午後9時位から雨風ともに注意が必要になるらしいが
今のところ安全ということで晴耕雨読に勤しもうとしたが
気分に乗れず、音楽の方に切り替えた

ポール・マッカートニーの購入したばかりの「エジプト・ステーション」
を聴き始めたが、このCD録音が良いのか音圧が高い
最近はクラシック音源ばかり聴いてるので、ロックの音源はこのくらいなのかもしれないが
妙に馬力のある、中身が詰まった音という感じ

ポールの声は低くなってきている
前回「エジプト・ステーション」を通して聴いたあと「オフ・ザ・グランド」を聴いたら
その声の違いにびっくりした
やはり年々声が低くなるのは仕方ない
今度のライブは5年前みたいに歌えないだろうな、、それも仕方ない

エジプト・ステーションから数曲抜き出して聴いたあと引っ張り出したのが

レコードの「ホワイトアルバム」
どうやらこの2枚組のアルバムが出てから50周年ということで、他の音源が入った記念盤が発売されるらしい
(今のところ購入予定なし)

レコードの4面あるうちでよく聞くのはやはり最初の方
2面以降にも「セクシーセディ」「マーサ・マイ・ディア」「ブラックバード」「マザー・ネイチャーズ・サン」「ロッキー・ラクーン」
「ヘルタースケルター」「アイウィル」などの小品(?)も好きだけど
この一面のできはさすがというところ

特に「ザ・コンティニューイング・ストーリー・オブ・バンガロー・ビル」から「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」
そして「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」への繋ぎ、流れがとても好きだ
スペインギターの音から始まる「ザ・コンティニューイング・ストーリー・オブ・バンガロー・ビル」は
歌いやすそうだし、繰り返すコーラスは歌う快感に酔えそうだし、このコーラスの終わりに次の曲のスタート合図が入って
ピアノの音が鳴ったと思ったらジョージ・ハリスンの名曲が始まる
この繋ぎがとても音楽的でここだけでもゾクゾクする
この曲の泣くようなギターを演奏しているのはエリック・クラプトン
ギターも良いけど、ポールのベースも好きだな(ジョージ・ハリスンの歌も良い)

この熱気のある曲が終わって静寂が訪れると、ジョンの孤独な音色の声で
シンプルなギターの伴奏で歌い始める
この効果も好き
単なる曲の連続なのだけれど、必然性とか効果とか、彼らは本当に才人の集合だったと感じる

ビートルズが解散した時、ポールは28歳
ジョンはもう少し年上だったが、この年齢であのような音楽的なことをなしえていることに
今更ながら驚く

でもさすがのビートルズも今の若い人たちには懐メロ
感覚的、肉体的欲求にはフィットしないのかもしれない
こちらは今のラップの音楽には興味がなかったり、ついていけないでいる
徐々に感性が鈍くなって新しいものを受け付けなくなっているようだが
これは仕方ない、、
ヘッセの言うように、年令を重ねたものは振り返って過去を楽しむ権利があるのだから




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大詰め?新城市の政治倫理審査会

2018年09月28日 10時13分35秒 | 市政、市議会に関することなど

あまり誇らしい話ではないが、ここでも時々取り上げている新城市の議員が関わる地域自治区の活動交付金疑惑
現在は、市民からの署名による請求で議会内に政治倫理審査会が開かれている
委員会のメンバーは、
審査会委員長:柴田賢治郎、副委員長:山口洋一、委員:佐宗龍俊、鈴木長良、浅尾洋平、小野田直美
すでに申請者(市民)、行政、該当議員からの事情聴取が終了している
以下は自分の別のブログからのコピペ(他の地区の方は事情がよくわからないと思われけれど、これも備忘録用かな)

いよいよ大詰めになってきた新城市の山崎議員に対する政治倫理審査会
昨日(9月27日)で15回にもなった
約12時間も要した山崎議員の事情聴取を始め、じっくりと事実確認の作業が行わた
傍聴している方はもっとスピーディーに進めてもらえないかとの思いをもったが
この丁寧な事実確認のおかげで各委員の共通認識は得られているようだ

今回の政治倫理審査会は前回の非公開とは異なり傍聴ができ
実際に毎回数人の傍聴者がいる中で行われたので
委員の方々は少しは緊張感をもたれたかもしれない

委員の共通認識、それはどういうものか?
人の心の中まではわからないが現場でなされた会話などからは
傍聴者も感じたのと同じ印象と思われる
一言で言ってしまえば、「ありえないひどい話だ!」(倫理違反)という認識

今後の段取りとしては、委員会は報告書(事実認定など)を作成
遵守すべき基準をおこたった事実があると認められた場合(今回はこれに当たる)
報告書の中に条例で定められたいずれかの措置を講じるように意見書を添付する
というステップがあり、現在(14回目・15回目)はこの措置をどうするかが
議論されている

ちなみに、新城市議会議員政治倫理条例によれば、その措置は
(1) この条例の規定を遵守させるための報告書の発行
(2) 議会内での役職辞任の勧告
(3) 議員辞職の勧告
(4) その他必要と認める措置
となっており、このうちのどれを選択するのかが議論となっている

この措置を巡っての議論で、なるほど人にはいろんな考え方があるものだ
とつくづく感じるものだが、大きく分けて2つにわかれる
どちらも違反・ありえない話との共通認識がある
その上で
●審査会の討論のもとに粛々と条例にある措置を選択すれば良い
●条例には強制力がない、その事実を踏まえた上で議会が責任を持って該当議員に伝えるべきメッセージは
反省し次は繰り返さないことを保証することにあるのではないか

つまりは、措置の(3)議員辞職の勧告か(4)その他必要と認める措置
(この必要と認める措置がどんなものかといえば、まだはっきりしないが執行猶予的な要素が多いものだ)
のどちらを選択すべきかが熱気を帯びて討論されている

人は熱くなると(自分も含めて)議論での合意点を見つけるより自説の主張を通したがる傾向があるが
この日の議論はこのパターンで、ちょいと収集がつかない雰囲気で時間切れ、次回(10月4日)に結論は持ち越しとなった

ここで、この条例の措置について独断で考えてみた
4つの措置が書かれたその後ろの方の条文には
(3)の議員辞職勧告を受けた場合は(2)の 議会内での役職辞任の勧告も当てはまり
尚且その効力期間は議員の任期中継続するとある
つまりは、この措置の込められた意味は、1種の懲罰的なものなのではないか
要するに、政治倫理審査会で事実確認を丁寧に行い、一定の共通認識を得たならば
そのうえで、何らかの懲罰を課すことによって、本人の反省(と再生)を促すと解釈するのではないか
ということ

このあたりになると、法の解釈はいろいろありすぎて議論しだすと袋小路に入ってしまう
ただ、詳しいことを知らない人たちにとっては「懲らしめ」的なものを求めてしまうのは
仕方ないとも思えてしまう

ところで、この措置が委員会で決まったとすると、次は有識者の方に見てもらい
表現の仕方、法を逸脱していないかのチェックが入り、その上で議長に報告する
議長はそれを受けて了解した上で、次は議会にかける
倫理審査会で達した結論に対して議員は賛成できるか、それとも反対か
本会議で討論を行い採決という段取りとなる

ここで、前回の打桐前議員の政治倫理審査会のことを思い出すと(なんでこんなに何回も開かれることになるのかと情けなくなるが)
議決が行われる前の討論で、現在の該当議員である山崎市議は、政治倫理審査会の結論に対して反対討論を行っている
今も覚えているが、山崎市議は「そもそもこの政治倫理条例のシステムがおかしい」との発言をした
議決を求めるのが他の市にはないことで、それも時間が短い中で進められていくのは変だ、、といった内容だと記憶している

どうやらこの議員さんは、そのように決まっているものに対して文句をいいたがるタイプの方のようだ
今回の活動交付金については「行政が事業完了日の変更を受け入れてくれなかったのはおかしい」とか

でも、もしそれを言うなら、政治倫理条例を変えるように議員活動をすればいいのだし、
活動交付金については、2月末日で事業完了の条件で申請しているのだから、そんなことを議員さんとして発言するほうが恥ずかしい

そして、追い打ちをかけるようだが、山崎市議は政治倫理審査会が開かれているその真っ最中に
自分が発行する広報誌に「不正疑惑はでっち上げ」なるタイトルで、審査会の資料にもないことをあげて
地域(?)に配布している

批判しだすとブレーキが壊れてしまっているのでもう一つ
山崎議員は自身1回目の政治倫理審査会の対象になった時に(今回は2度めということ)事情聴取を求められた時に出席せず、
再度要請があっても応じず、それで結果的に事実認定ができなかったことがある
その時の彼のSNSには「無罪放免です」の表現
事情聴取に協力をしないので調べることに限界が生じ、そのために事実認定ができなかったにもかかわらず
このような言い方をしていて、それで良しとする考え方、、、

今回の政治倫理審査会でもこうしたことは話題にあがっている
それが直接的に結果に反映するか(して良いものか)どうかはわからないが
人は感情の中で生きている面もあるので、他の議員さんが彼に対しマイナスのイメージを持ってしまうのは
致し方ない気もする

今回の政治倫理審査会は公開になっているので、山崎市議に投票されたかたは是非傍聴してほしかった







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行政裁判のこと(備忘録)

2018年09月26日 17時07分28秒 | 庁舎用地外移転補償騒動

今日はとても長い投稿
面白くもなんともないし、果たして読む人がいるかどうかも怪しいが
将来何らかの結果がでて、公式なものが発表されるかもしれないが
歴史上の一次資料として、また自分自身の備忘録としてとりあえず自分のために
残すものとする

現在(平成30年9月)新城市は行政裁判が続いている
その事実を知っている人は少ない
裁判があるのは知っているが、何に対して、誰が訴えられているか、
それを説明できる人は、おそらくこの裁判に関係する人以外は多くいないと思われる

裁判の訴状によれば新城市長に対し、約1200万円を市に返還するように求められている
それは新庁舎建設の用地買収・それに対する移転補償に関することで、
本来ならは適用外の物件であるにもかかわらず移転保証費が支払われているのは税金の不当な支出にあたり、
その無駄に支払った金額の返還を求めるものだ

問題となる物件(長屋)は、新庁舎用地予定地にある移転補償物件と同じ所有者のもので、
小さな道を挟んだところにある(現在は新しく家が建っている)
道を挟んだ離れた場所にある物件は、いくら同じ所有者の建物が庁舎建設予定地にあると言っても
普通は無関係とされ移転補償の対象外となり、移転補償費は支払われなくても良いことになっている
ところが今回はこの対象外と思われた物件にも支払われている

ここで、市長個人に返還を求めているのは、この対象となる物件の持ち主M氏と市長とは知り合いの間柄で、
そこに不適切な力が働いたのではないかと思われる状況があるからだ
裁判の準備書面、及び原告側の証人(K氏)によれば、市長とその物件の持ち主M氏とは、ある酒場で飲み食いをする間柄で、
またM氏の奥さんとは国際交流の海外視察(?)で同行しており、家族ともども見知らぬ関係ではないとされている

また現在M氏の問題となっているところには新しい家が建設されているが、
当初その土地は建築基準法の接道要件を満たしておらず、普通ならば新しく家は建てられない事になっていた
ところがその接道条件を満たすためかのような道路(仮称市道3号線)の設置が市長からいきなり議会に議案提出された

これは議会の賛成を得られず、結果的に廃案となった
この時の前後の議会で原告者の前市会議員K氏と市長の会話のやり取りがK氏側の方から法廷で明らかにされた
それは「何故、こんな道路を作ろうとするのか」と聞くK氏に対し、
市長は「それでなくてはM氏の家が建てられないじゃないか」と答えたとされている
だが市長は証人喚問でこれらの発言とM氏と市長の関係も否定した(付き合いなどはなかった)

二人の証人が話すことが違うのならどちらかが嘘か真実を言っていないことになるが、
(証人は知っていることを正直に包み隠さず話すと宣誓しているが)
法廷ではそこの追求はあまりなかった。
この他にも原告側と被告側の他の証人の発言が異なる場面があったが、
今回はそこについての整合性は問題とされなかったようだ
(宣言しても実際の裁判ではこのような矛盾はよくあることということなのだろうか)

一般的には行政裁判は訴えた側(市民側)が負けることが圧倒的に多いそうだ
そこにはどのような理由が存在しているのかはわからないが、ともかくそういうものらしい
その負ける要素がふんだんの行政裁判に敢えて原告側が踏み切ったのには
驚くべき証拠があったからだ(裁判では甲9号証と名付けられた書類)

新城市は移転補償に関してコンサルタント会社に調査を依頼した。
調査を委託されたコンサルタント会社は、新庁舎用地外の離れた場所にある物件ではあるが、
調べた結果移転補償の対象になりうると結論づけ、その書類(乙第15号証)を市に提出した。
市はそれを元に移転補償費を支払うのは適切と判断した

ところが問題は、その同じコンサルタント会社がその4ヶ月前にこの最終的な結論とは全く反対の意見を市に提出している(甲第9号証)
そこにはその問題となっている物件には人が住んでおらず、移転補償費を払う条件を満たしていないとの内容となっている

それが何故か、4ヶ月の間に結論がまるっきり変わっている
たまたま偶然に甲第9号証の書類を手にすることができた原告側が、この証拠をもって4ヶ月間に何らかの不自然な力が働き、
行政の判断が捻じ曲げられたのではないかと裁判に臨んだというわけだ

原告のうちの一人の前市議K氏は、豊橋市で不動産コンサルタント業を営んでおり、市議会議員の時代には市職員からもそれは知られており
時にはちょっとした不動産の扱いの解釈等の相談もあったようだ
ちょうど、市がコンサルタント会社から最初の書類(甲第9号証)が届いた頃に、
後に被告側の証人となるH氏が何気なくK氏に「この物件、移転保証に該当するのかどうか」と聞いたことがあった
その時K氏は「これは無理だ。仮に人が住んでいればなんとかなるかもしれないが、基本無理だろう」と答えをしている
(その時はこんなことになるとは思わなかった)
その後、H氏はK氏に「住民票があるから住んでいることになる、、、」といった内容の発言を、確認を求めるようにしたとのことだ(K氏の証人喚問)
※H氏の証人喚問ではK氏に相談したことも報告したこともないと言っている

いろんな経緯はあるが、コンサルタント会社が提出した2つの書類、甲第9号証(認めらない)、
乙第15号証(認められる)の違いが一番の大きなポイントで、裁判において証人喚問もこの部分がメインとなった

裁判のハイライトは証人喚問、それまで準備書面の交換であっという間の終了した裁判は、
7月16日には現役の市の職員H氏、元職員Y氏、8月1日の市長の証人喚問で、ようやくテレビドラマで見るような光景となった
(7月16日には原告側からK氏も証人台に立った)

新城市の新庁舎の移転補償等に関することは、本来は土木課・用地課がやるのだがその予算を計上したり、
その他のもろもろの法的な関係から、部や課を横断するような意思決定が迅速でトータルの視野と機能をもった総合政策部がその頃設けられ、
その部で行うことになった
証人に立ったのはこの時期の総合政策部の時の副参事のH氏と参事のY氏だ(Y氏はその後部長に昇格)

被告側は甲第9号証の存在を国会のような怪文書などとは言わず、その存在を認めていた
ここからは、証人喚問での話になるが、総合政策部はそもそも市長の判断で設置された
(意思決定の速さ、他分野に渡る情報の共有のため)、
そしてそのメンバーのうち直接関わっていたのは4人で、4人はそれぞれ別々の仕事に取り組んでいたとされる
この4人の間でそれぞれの仕事に関して情報共有ができていたかが問題となりそうだが常識的にはたった4人(部長・参事・副参事・主事)で
同じ部署の人間が何をしていたか知らなかったというのは理解しがたい、まして現在の進捗状況を参事が上司(部長)に連絡していない
とは普通は考えにくいし、その上司がその上の上司(副市長)にも報告が無いとは考えにくい
H氏の証言では組織で動いていたとあったが組織で動いているということは情報を共有しているということじゃないのかな
(このあたりはどのようにでも解釈できるような曖昧な表現の証言)
ただ一つ明らかになっていることは当時副参事のH氏は用地課よりも土木科よりも地元の人との接触が多く顔なじみで、
この件については中心人物だったということ
ところで総合政策部の重要な情報は、総合政策部自体が市長肝いりの組織であるし、当時において庁舎絡みは重要な案件だったので、
進捗状況は逐次市長に報告されたと思われるが、細かいところは聞いていないとは市長の発言
(どの程度のことが報告されたのか、ニュアンス的には法的なことは知らないので結果報告だけを受けていたような感じの発言)

コンサルタント会社からの最初の書類、甲第9号証の存在をどのように知ったか
と聞かれた庁舎の移転補償の仕事に取り組んでいたH氏は、土木科へのメールで、そこから転送されて知ったと答えている
そしてこの書類を受け取った一二週間後に、H氏は該当物件関係者であるM氏と相談し該当する物件(長屋)に人が住んでいるかを尋ねた
M氏からは、「今はいないが怪我をして病院に入っている」との答えを得て、コンサルタント会社に、住んでいる可能性もあり、なおかつ住民票もあると伝えた
その結果をきいてコンサルタント会社は、先に出した結果を変更し、その物件は庁舎用地内の物件と生活を一体化しており、
物件同士を分けて考えることはできず保証対象にするとの判断の書類を作った

ところが、原告側の調べによるとこのM氏のお母さんはすでに要介護5の認定を受け老人ホームに入っており、
結局一度もその家(長屋)には帰っていないことがわかっていた(老人ホームからの証拠あり)
H氏は住んでいないのに住んでいるとしたが、裁判で「どの病院に入っているのか調べなかったのですか?」と聞かれても、調べなかったと繰り返す
「でもそれ(住民票)だけじゃなく、(コンサルタント会社から得られた)写真にも生活感もあったので住んでいると判断した」
ともH氏は答え、幾つかの写真をその例として挙げた
しかしその同じ写真でコンサルタント会社は「住んでいない」と判断をしている

この判断をH氏一人で行ったのか、それとも総合政策部で共有していたのかが気になるところだが、H氏は組織でとの発言している
ところでH氏の上司のY氏は、とても奇妙なことにコンサルタント会社からの報告書(9号証)の存在を長いこと知らなかったと答えている
それを知ったのは、ほとんど一年後のことで当時議員だったK市から議会での質問に応えるために調べ物をしている時に知ったという
そして、最終的なコンサルタント会社の報告(15号証)は、見た時期も内容もあまり覚えていないとのも答えている
(その時は総合政策部の部長でありながら部下が何をしているか、自分がどのような決済をしたのかわからないと言う不自然な答えをしているということ)
そして、結果的に「住んでいないにもかかわらず、住んでいるとしたことに対してどう思うかと」の裁判所からの質問に
「いつか帰ってきたい希望がある限り住んでいるものとして考えるから適切な判断だった」と答えている

普通に考えれば、9号証にあるように保証はできないとの判断で一件落着とすればよいのに、親切にもM氏に相談に行き、
病院に入っているかどうか嘘かもしれないのに一方的に信用し、その病院の名前・所在地も聞かずにゴーサインにつながる情報を
コンサルタント会社に与えて、その結果、市にとっては損な結論を導いている

コンサルタント会社というのは客観的な第三者的なイメージを持ちやすいが、
現実的なところは依頼主の要望に応えた答えを出すというのが本当のところではないだろうか
依頼主からは継続して仕事をもらわねばならない、とすると、依頼主は何を望んでいるかを洞察・忖度する
そうしてこの一見正当なステップのように思われる過程は、適切なステップを踏んだというアリバイとされる(少し意地悪い見方だと)

H氏、Y氏が7月16日の証人喚問をどのような気持ちで臨んだのかわからない
特に元部長のY氏はすでに市を退職しており、それ故のしがらみはなさそうだが、
退職しているとはいえ自分に不利になることは、まっ正直に話すことは少ないだろうと想像がつく
(裁判官も人とはそんなものだ、と最初から思っているかもしれない)
ただあの裁判ではっきりしたことは、もし彼らの言うことが本当だとしたら、
市は恐るべき雑なステップで大金を払う決断をしているということで、
聞いていて少しばかり市に対して絶望的な気持ちが起きた(誰も責任を取らない、こんなことで市は大丈夫かと)
同時にこれらの答弁を聞いた裁判官の驚いたような、呆れたような顔が印象に残った

8月1日になって時間が取れるようになった市長の証人喚問があった
予め法廷で聞かれることは書面で出されているので、質問には滞ることなく答えた
要約すれば、M氏とは面識がない
移転補償の経緯は細かくは知らない、それらは専門職である担当に任せていた
総合政策部からは報告だけを聞いていた(お母さんは今はいないがいずれ戻ってくるとか)
市長だから何でも知っているわけでない(移転補償費に関する知識はない)
移転保証費の決済は部下の権限で行える事になっている(市長印があるとしても)

この日の市長はいつものように淀みない答弁が続いたが、一箇所だけ首をかしげるところ発生した
市長はある質問に応えて「駐車場のことは、」と突然言い出した
駐車場???? 

それまで「駐車場のこと」は誰も話していなかったし、証人喚問でも話題にも上がらなかった
ところで市長の言う駐車場のこととは、長屋が移転補償物件に該当するかどうかを調べる時に、M氏から長屋だけでなく、
そこから少し離れた駐車場も移転補償に物件に入らないかとの調査依頼があって、これは市からは該当しないとの結論になったことをいう
市長は詳しいことは何も知らない(報告だけだし知識もない)と言っていたが、そんな細かい本質とは関係ないようなことまで知っている(
なんだ、いろいろ知っているじゃないか)
それで総合政策部からは細かなことまで逐一報告を受けていたのではないかと疑いを持つことになったが、
誰でもそのように思ったようで、その発言のあと、原告側の弁護士からその点は追求された

正直なところ、これらの裁判を通じて一番気になったのは、繰り返すことになるが
(結審される結果がどうのこうのと言うよりも)市のあまりにもアバウトないい加減な進め方と、それに対する反省もないところだ
それほど小さくもない金額のことなのに、職員間の理屈だけが通るようなこんないい加減な進め方で物事が進めていって市は大丈夫かと、、

いやいや、本来は命令されたことしか行わない慎重な(臆病な)職員がそのようなことをしたのには何か理由があるはず、、、
そこからは残念ながら今の時点では想像の世界となる

人は嘘をつく
言葉にされたことだけを信じて、その上で判断することの限界を最近特に感じることが多くなっている(国政やわが町の政治倫理審査会)
もう少しおおらかに人を信じてやっていけるようにならないかな、、と切に思う

 

※現時点の年号が当初間違っていました。訂正しました。裁判は約2年続いています。


 










 


 

 

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月のある風景(銀閣寺・金閣寺)

2018年09月25日 19時27分15秒 | 徒然なるままに

昨晩、定例の会議でいつものお宅に伺った
駐車場で車から降りるとうっすら明るい
月が雲の切れ間から覗いていた
昨日は中秋の名月
予報では雲が多くて見られないと思っていたが
気まぐれな天気は少しサービスをしてくれた

見上げながら歩き始めると、その刹那銀閣寺の向月台が頭に浮かんだ
月があの白い砂の山のようなものを照らす
光が反射しその僅かな明るさの向こうに山のシルエットが浮かぶ
それが想像の中ゆえにとても幻想的に思えてきた

もしかしたらイメージの中の光景は、実物よりも美しく感じてしまうかもしれない

昔の趣味人は向月台などという月を楽しむ方法を考え出した
その発想力にはつくづく驚くばかりだ
(趣味の良い発想はなかなか真似られない)

そしたら連想で、今度は金閣寺を照らす月の情景が思い浮かんだ
金閣はまるでスポットライトを浴びたように、そこだけが明るくなる
(本当はどうか知らないが)
あたりは静寂
時折虫の声が聞こえる、、、

イメージの中の姿は銀閣も金閣も、とても幻想的だ

無性に京都に行きたくなった



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高校生のお芝居(新城東高校演劇部 第13回定期公演)

2018年09月23日 19時58分46秒 | 徒然なるままに

午前中は地元の小学校の運動会を見に行って
午後からは新城東高校演劇部の第13回定期講演を見に行った
会場は新城文化会館の小ホール

正直なところ期待していなかった
日曜日の退屈な午後の時間つぶしができればいいや、、
そんな感じだった

入り口で配られたプログラムにはタイトルが「白バラ女学院」とあった
不図、ナチに反抗した「白バラは散らず」を思い出して、こんな深刻な問題を扱うのか
と思ったが、ちらっと読んでみるとどうやら全くそれとは関係のない話

演劇は滅多に見ることはない(最近やたら一人芝居のは見ることになっているが)
ストーリーに入るまでが大変だと思っていたが、何のことはない直ぐに舞台に集中できた
舞台に登場したのは普通の女子高校生と、風紀係の役割の高校生のたった二人だけ
白バラ学園の女生徒が付き合っているとは言えない(ラインで連絡を取り合っているだけ)の
黒くも学園の男子生徒と、どうしても付き合いたい、会いたい、話したいというのを
風紀係の女生徒が規則では禁じられている、、との一点張り
このデフォルメした風紀係のキャラクターがわかりやすく漫画的、定型的で面白かった
ストーリーは、途中から想像できたが、それはさておき、一時間があっという間に過ぎた

退屈な時間つぶしどころか、大儲けの時間だった
たった二人で、こんなにも退屈させずに、笑いをとったり、リズミカルにセリフを畳み込んだり、、

芝居が終わった時感じたのは単純に面白かったというのと
セリフを覚えるのは大変だっただろうな、、自分じゃ絶対無理、、ということ
みんなちょっとそっとじゃできないことをやっている
その事実に頭が下がる思いだった

アンケート用紙には「面白かったです!」と記入しておいた

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逆の順番で読んだ「全体主義の起源」

2018年09月21日 08時47分48秒 | 

ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」(1)反ユダヤ主義の最後のページまでたどり着いた

読んで理解したとはとても言えない
とりあえず、最後のページまでは行ったというのが正直なところ
何しろ独特の文体に慣れるまでが大変
センテンスが長く、途中で挿入も多く、それで意味が把握しにくく
その上自分の知らない歴史上のことがたっぷりとあって、想像力で補うだけではとても追いつかない

だが、それが苦痛だったかといえば決してそうではなく、良くはわからないが濃厚な時間を
実感している満足感はいつでも感じることが出来た
この濃密な読書の後では、軽い本は一気に読めてしまいそうだ
それはドストエフスキーの本を読んだあとでは、筋を追うだけの小説が物足りなくなるのと似ているかもしれない

この大作「全体主義の起源」は3つに分かれているが、書店で立ち見をした時には
とても読み終える(?)ことはできそうにないと思っていた(そのうちの一冊でも)
ところが、どういう理由かよくわからないが読まなければならない気分になって
多分、今のこの国の状態が不安になってだと思うが最後の(3.全体主義)から読み始めた

最後のページまで行ったときは、もうこれとは縁がない、、と思っていたがひょんなことから
二番目の(2.帝国主義)に興味が湧いて、しかも新板になって読みやすくなっていそうで
思い切って購入した
これは最初ほど苦労はしなかった
文体に対する慣れがあったかもしれない
付箋もところどころ挟んで読み返すには便利になっている

そして最近、ナチの時代に関する本を立ち続けに読んでいるものだから
ユダヤ人についての記述がメインの最初の一冊(反ユダヤ主義)にいたったわけだ

つまり読んだ順番は3.2.1と発刊されたのとは反対の順番だった
結果的には、これは良かったかもしれない
ミステリーの犯人がわかっているのを遡って検証していく作業に似ているかもしれない

あの時代ユダヤ人の大量殺害が行われたが、そもそもユダヤ人とはどういう立ち位置の存在だったのか(1)
民族主義の台頭、資本家とモッブの同盟、難民と無国籍者の出現、、、全体主義につながる帝国主義(2)
そしてとんでも無いことをしでかしてしまった社会とは一体どういうもので、どのようにして出来上がってしまったのか(3)
三冊に分かれた本は上のような内容で、膨大な資料から深い思索に満ちている

最後のページに行ったばかりの(1)反ユダヤ主義は、わかりやすところも手に負えないところもあった
西欧人でない自分は、西欧人なら当たり前のように知っているだろうとおもわれる事件やら争いを知らない
そういう事柄は字面を追いかけるだけになってしまう
しかし今年読んだ「失われた時を求めて」では、この本で扱われたドレフェス事件がエピソードとしてあったので
そこの部分は割とすんなり読んでいけた
とすると、この本がやたらと難しいのは、西欧の歴史を、その時代的背景や気分を当事者として実感できていないからかもしれない
いくら物事は想像力によって一般化できるとはいえ、実感を伴わないと読みこなせないかもしれない

反対から読み始めて、絡まった紐を解いていくようなことになったが
今度は、改めて最後の本(全体主義)を再読すべきかもしれないという気になった
最初は気づかなかったが重要な部分を発見できるかもしれない、、と

もっともこの本を読むのは自己満足的に知識の収集ではなくて、あくまでも現在のこの国との比較のためだ
なんとなく戦後の終わりを感じさせるようなこの国の雰囲気
確かに自分たちの投票によって自分たちの代理を選んでいるのだが、実態は一分の少数の人間達の支配(?)によって
世界は動いていく
経済の指標さえ良ければ(本当にそうかどうかはわからないが)他の矛盾する点には見て見ぬふりをする
個人の判断は命令されたことを無批判に行い、それが常識に反しても心の痛みを感じない
彼の国のユダヤ人の対する嫌悪感は、日本における嫌韓、嫌中に似ていて、ヘイトスピートも表現の自由だとかの
屁理屈がまかり通りつつある

つまりは、現在この国で起きていることは、80数年前にドイツで起きたこととすごく似ているということだ

いや現在の政治は変化の激しい世界の中で現実的な対応をしていて、心配はないという考えもあるかもしれない
しかし、このような本でいろいろ知ってしまうと、、どうしてもそんなに気楽には考えられない
もっとも、ハンナ・アーレントは過度に悲観的になるのも、楽観的になるのも止めたほうが良いと言っているが

反ユダヤ主義を読んでいて、ユダヤ人自体に興味を覚えたので昔購入して読んだはずの
「ユダヤ人」神と歴史の狭間で、、マックス・I・ディモントを本棚から引っ張り出した
ついでに「ロスチャイルド家」ユダヤ国際財閥の興亡 横山三四郎も
ハンナを読んだ後だから、きっと理解しやすいだろう
(ちょいとヤバイのは最近購入したばかりの地元の事件が載っている「江戸の裁判」になかなか移れそうにないこと
 このままでは、積読(つんどく)のままになってしまいそう、、、)

 

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嘘について

2018年09月19日 19時30分16秒 | Weblog

「嘘をついたことがない」
を嘘だと思うのは、人生経験を積んだ人間なら誰もが思うこと
いや経験をそんなに積まなくても、子どもでも自分を振り返ると
そんなことはありえないと思うだろう
そして「嘘をついたことがない人はいない」と考えるようになる

嘘を言わないことが前提となっている場面がある
男と女の間でいろいろありすぎて微妙なところだが
裁判の場とか国会だとか、地方都市の議会では正直であってもらわないと困る

最近、嘘、あるいは辻褄の合わないことを裁判の場で経験した
裁判の証人になるとまず宣言をする
「良心に従って、ほんとうのことを申します。
 知っていることをかくしたり、無いことを申したりなど
 決していたしません」
この文章を読み上げて署名捺印を行う

国会の証人喚問も似たような段取りで行われる
そして、この過程を経ることによってその後の発言はすべてほんとうのことを
話していると判断される

しかし、それでも嘘や本当のことを言わないのが人間
直近のある裁判では4人が証人台にたった
一人は原告側の証人、後の3人は被告側の証人だが
ここで誰かが嘘をついているか、意図的になにか隠していると思われる状況が発生した

まずは、原告側の証人(K)は、被告側の証人はふたり(HとY)とも懸念となっているある問題について
その分野の専門家である自分(原告側証人)に相談にきたと証言をした
(具体的な話しぶりを挙げながら)
それに対し、ふたり(HとY)は相談に行ったことはないと否定した
最終的には記憶の限りでは、、という逃げの手段があるかもしれないが
明らかに話の辻褄が合わない

もうひとりの証人について、原告側の証人(K)は
「彼(証人HR)はある時、自分に向かって、そんなことになれば〇〇ができないじゃないか」と大きな声を発した
「彼(証人HR)はそもそも問題となっている人物(M)を早くから知っていて、ある海外旅行(視察)には彼の奥さんが同行している
 また、市内のある酒場で問題となる人物(M)と盛り上がっていたところがあると知り合いの人物から聞いた」
と証言しているが、被告側の証人(HR)は
「そんあ〇〇ができないじゃないか、、と言う発言をしたことはない」
「問題となっている人物(M)とは面識がない。酒場で同席したこともない」

裁判ではこの問題が本質的な問題ではなかったせいか、証人の間の話が違うことに関しては
追求しなかったが、普通に考えると原告側の証人か被告側の証人が(嘘を言わないと宣言したのに)
嘘を言っていることになる

つまりは宣言したところで、嘘をつく人は嘘をつくということ
それが嘘なのか記憶違いなのか失念しているのか、、いろいろだろうが
都合の悪いことは発言しないでいわれるのが、人間の共通認識のようだ

嘘ではないかもしれないが、行政も時々微妙な発言をする
特に行政の話は素人にはわかりにくい
本当に幾多の法律に縛られて、素人の知らない情報を手にして、それを自分たちに都合よく
切り取って、もしかしたら人が勘違いするかもしれない、、というような発言をする

抽象的な話だが、何年か前にこんなことがあった
「大きな道路に面した駐車場が〇〇平米以上ある場合は、法的には右折して出ることが出来ません」
混むことが予想される道路に出るのに、〇〇平米以上のような多くの車が駐車できるところでは
右折を許可すると渋滞がおきて、かつ危険と想像されるからなのだろうと理解したが
この〇〇平米というのが、行政の法的な説明がとても意地が悪かった

その時、この駐車場に関して検討をすることになっていた市民側はこの〇〇平米というのは
純粋な駐車場の総面積だと思っていた
市民が提案した案では、この駐車場の面積では右折が出来ず、
使いづらいものになってしまいますよ、、、とのことばで市民案は批判された

ところが、その後出てきた行政の案というのが驚くことに
なんと市民案そっくりの駐車所をつかっていても、右折できるというものだった
その秘密というのは〇〇平米というのは駐車場全体の面積ではなくて、一台あたり2M×4.5M(だったかな)で
換算した車の全体の駐車スペースのことで、ほんの僅かだけ〇〇平米を下回るような駐車場を提案してきたのだ
(見た感じでは市民案と行政案の駐車場はほとんど違いがないのに)

これは文字で書かれていることは抽象的でイメージしにくいかもしれないが、
とにかく行政は嘘ではないかもしれないが、微妙に本当のことを伝えていない説明があったということ

作ってもらった料理が美味しくなくても「美味しかった」と言う嘘は気遣い
スポーツ選手が怪我をしても「痛くない」といって仲間を安心させようとするのも気遣い
このような嘘は、騙されている方も気持ちがいい
でも、上記のような事柄は、その意図するところの不純なところからあまり嬉しくないものだ
(これってカントが何か言ってたような気がするが、、)

最近は、(嘘も)言ったもん勝ち、、といった傾向が見られるようで
何かが荒んでいる気がしてならない
なんだかな~  

※裁判とはあの行政裁判のこと、市民案というのは新庁舎建設見直しのための実務協議で提出された案のこと







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「エジプト・ステーション」(ポール・イズ・バック)

2018年09月18日 18時32分11秒 | ポール・マッカートニー

5年前のアルバム(NEW)は購入しなかったが、今度は手に入れた
ポール・マッカトニーの新アルバム「エジプト・ステーション」

今度のナゴヤドームのライブでも多分1、2曲演奏するだろうからその予習というわけだ

購入したのはボーナストラックが入ったもの
おまけの2曲は聴かずに、アルバムとしてまとまりがあるところまでとりあえず聴いた
やっぱりこの人(ポール・マッカトニー)は統一感をもたせようとする傾向がある

1曲目のオープニング・ステーションと15曲目のステーションⅡによるテーマの回帰は
サージェント・ペパーズのタイトル曲のリプライとかバンド・オン・ザ・ランのアルバムでは
あの激しい終曲が終わったら「バンド・オン・ザ・ラン」と歌声がはいるのとか
アルバム「ラム」ではラム・オンがアルバム最後の方にはいるのに似てる
アビーロードメドレーでも「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」が効果的に回帰する
ソナタ形式ではないが、テーマの回帰は効果的だ

老眼になって小さな文字を読むのはしんどくなっているので、ライナーノーツはほとんど読まない
ただただ音に耳を傾けるだけ
このアルバムの中では5曲目のストレートなロックの「フー・ケアズ」と13曲目の「シーザー・ロック」が気に入った
どちらの曲も実演でやると盛り上がりそうだ
シングルカットされた「アイ・ドント・ノウ」はどこかで聴いた感じがするメロディとかコードを思い出させるし
ポールマッカートニーのおなじみのリズム(タッグ・オブ・ウォーで聞かれるような)がこのアルバムでも聴かれる

音楽は車の運転時以外は聞き流しはもったいないと思っている
体を振りながらも音は(その変化は)ちゃんと聴かないと、肝心なところが聴き取れない気がしている
よく聴くとポールはバックバンドの音は細かにいろいろ変化させていて、単純な繰り返しみたいなことはない
多分こうなるろうと想像すると、ちょいと味付けをして小さな驚きを与えてくれる
(この期待の裏切り方はモーツァルトに似てる)

実は自分は安室奈美恵とかスピードとか小室哲哉の音楽が苦手なのだが(どうでもいいことだけど)
その理由は無機質な繰り返しにある
いくら美味しそうなメロディでも何度も同じことを繰り返されると、メロディがどこか決まった旋律線から
離れたがっているのに、いつまでも縛られているみたいで、その打ち込みの音楽の味気なさと相まって
自分は聴こうと言う気になれないでいる

ということで、久々のポールのアルバムお買い上げは、まずまずというところ
ポールには願わくば今度は体調を崩さないでほしいものだ
(2014年はチケットを手に入れたのに体調不良で中止になってしまった)

 

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明日は敬老の日

2018年09月16日 19時38分37秒 | 徒然なるままに

昼頃に小包が届いた
差出人は東京に住む姪で、この時期毎年のようにセンスの良いお菓子を贈ってきてくれる
お菓子の箱の中には「体に気をつけて、とか元気で長生きして」の文字の小片が入っている

明日は敬老の日
確かに、母は90歳目前で老人の部類にはいる
でも、自分ら兄弟(姉・妹)にとっては、母は何歳になっても母で「老人」じゃない
だから自分らが「敬老の日」ということで、母に何かをするというのはあまり思い浮かばない
(というかその事実を認めたくないのかも)

母の日とか、母の誕生日は決して忘れてはいけない日だが、
「敬老の日」は孫たちがおばあちゃん、おじいちゃんになにかする日なのだろう

最近、自分の誕生日はお祝いされる方ではなくて
母に生んでくれたことを感謝する日のように思えてきている

いつものように、いつものことがある、、それはとても良いこと

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「朗読者」

2018年09月15日 08時17分32秒 | 

寝転がって読んでいても背中に汗をかくこともなくなって、最近は読書モードになっている
図書館から借りてきたのはゲーテの「ファウスト」池内紀訳、福永武彦「海市」
それからベルンハルト・シュリンクの「朗読者」
この年齢になっても心に痛みを感じることがあることに、ホッとしたり情けなく思ったりする

「朗読者」は最近の自分の関心事、ナチ時代のことが書かれていることを知って読み始めた

一人称の、どこかカズオ・イシグロを感じさせる文体は最初から気に入った
官能的な部分も「海市」よりはこちらのほうが、リアリティがあるような印象をもった

15歳の時、少年は(坊やは)36歳の女性と知り合い、知ってしまえば理性で抜けきれない関係になった
その彼女は坊やに本を読んでもらうことが習慣になり、その前後にことに及んだ
しかしある日突然彼女は彼の元を去った

何年か後に彼は彼女を見つける
しかもとんでもないところで
そこは法廷、大学のゼミで取り上げられ、主人公が研究対象として傍聴した強制収容所をめぐる裁判の被告として
ここからの話はネタバレになるので、ここまで

ナチスに関連するこの手のことは、アイヒマンの例を含め、
あの時の状況下で人はどのような行動を取ることができたかに集約される
命令に従っただけ、感覚は麻痺し、自分はそのようにするしかなかった、、と
裁判の場面で彼女は「あなただったらどうしましたか?」と裁判長に尋ねるシーンがある
それは答えにくい問題で、裁判長の心象を害することになる

小説のタイトル「朗読書」の意味は後半の部分で納得がいくようになる

ある人はこの本を二度読まれること薦めている
すべてを知ってからの彼女(ハンナ)の行動をたどってみると
何故彼女がそのような行動をとったのかがリアルタイムで理解できる

あの時、何ができたか、できなかったかは
アイヒマン、ゲッベルスの秘書、そしてこの本のハンナの立場にならないと
本当はわからないのかもしれない
だがそう言ってしまえば、裁判の(あるいは善悪の)結論は出せなくなってしまうので、
どこかで人間はこうあるべきとの総合判断を下すことにして、安心しようとする人間がいる

その状況になってしまうと、人はまともな判断ができなくなってしまう
残念ながらこれは大半の人が抜けきれない傾向
その上で、これらの歴史から学ぶことがあるとすれば、そのような状況を作らないことが一番と思われる
例えば戦争が始まってしまったら、戦争反対は叫びにくい
公共工事の無駄な事業もいざ始まってしまうと、中止はやはり訴えにくい
だから、その前に、戦争が始まる前に、工事の決定がでる前にとことん議論なり反対活動をしなければならない

ところで、この本は何年か前にベストセラーとなり映画化もされたようだ
その時の邦題が「愛を読むひと」(第81回アカデミー賞でケイト・ウィンスレットが主演女優賞受賞)
だがこの映画は見ていない
正直なところ、自分は「朗読者」のタイトルならば見に行ったかもしれない
何か秘密がありそうな、想像力を刺激されるようで
でも「愛を読むひと」のタイトルでは、触手が動かない(なかった)し、
どこか違うぞと言う感覚が強い(映画の捉え方がどうだったか知らないが)

ということで、いつものようにあっちこっちに話が飛んだが、この「朗読者」は
今年の三冊の中に入るかもしれない

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