昨夜行われた庁舎建設見直しの実務協議
最終日とあって傍聴者は多いものと予想したが
防災無線で呼びかけたものの、それほどいっぱいの人出
とは見えなかった
傍聴者が興味ある市民の集まりかといえば
どうやら実態はそうではなさそうな雰囲気で
住民投票で分かれた選択肢を推す人たちがそれぞれ
興味を持って集まったというのが本当のところのようだ
そんなわけで、実際にはこの実務協議がどのように進められて
何が決められて、どのようになっているかを知っている市民の方は
残念ながら多くないと思われる
そして住民投票が終わって一段落して
なにか話し合いをしているらしい
と少しばかり庁舎の問題から関心がなくなってきた人たちは
それでも、前提として理不尽な話し合いは行われていない
と思い込んでいるに違いない
何をもって理不尽か
と突っ込みをされそうだが、ある視点から見れば
この実務協議はとても不思議なわかり難い意図をもった協議で
ある意味理不尽と言えないこともない
実務協議の大半の時間を費やしたことは
市民案の実現可能性
その一つが大手門側からの進入路の問題であり
もう一つは机・ロッカーの配置等の問題(不足スペースなど)
実現可能性と書けば聞こえはよいが、
実態はこういう問題がありますが市民案ではどうするのですか?
といった問題点を市側は問い詰めるだけで、自分たちも協力して
問題解決の方法を探るといった姿勢ではない
そういった一見市民案が不利になりそうな問に対して
市民側はいろいろな解決策を提案してきた
共通認識・合意内容の大半は市側の解決案ではなく市民側が必死になって絞り出した内容
つまり、市側は正直なところ聞いているだけで
何もやって来なかったと判断されても仕方ない
さて最終日も机・ロッカーが収まるかどうかの討論がなされた
市側は前回の会議で1階はこれだけ、2階はこれだけ、3階はこれだけが
収納しきれませんと説明した
それで市民側はその分の収用が可能なように様々なアイデアを駆使して
収まる案を提出した
(この案の途中段階のものが市長後援会に渡されて市民案否定の材料にされた)
ところが、後出しジャンケンのようなもので
実は、、、、と切り出した市側の説明は
まだお伝えしていなかった収納すべきものがあった
というのも なんでもファイルの相当量を収納しなければならないという
これは、ここに問題があるのでと出された問題に答えたら
今度はもっと別の問題がありましたといったもので
わかっているものならなぜもっと先に言わなかったのかと
不信感を覚える
実はこうしたスペースの問題を素人である市民側が解決策を探し出す
ということ自体が少し変なのではないか
幸か不幸かわからないが、たまたま市民側にCADを使える人がいて
その人が必至に頭を絞って作り上げたが
他の自治体の例を聞けば、新城市の設計と同じ山下設計に
出来上がりのかなりの制限をつけて設計依頼をしている
依頼主と受注者とはそんな関係で
ある制限の中での設計の依頼を行う
金額面・面積面など
その中で設計会社は今まで自分たちが培ってきたノウハウを発揮して
依頼主の希望する案を提出する
ところが今の新城は
設計業者に伝える一番大事な大枠は(つまり規模のこと)
住民投票の結果で支持された市民側ではなく
市長を始めとする行政が行う
そしてその判断基準は多分口頭で後になって説明されるだけ
実務会議の際に何度も繰り返されたが
基本は付替道路なし、東庁舎活用、規模7000平米をもとに
市民案は検討・参考にするという態度
あれだけ市民案に対して時間を費やしたのだから
参考・検討するというものの
まさかないがしろにはしないだろうというのが
普通の人の感想と思うが、どうもそうではないかもしれない
市民案を時間をかけて伺ったのは
実現可能かどうかを確かめるため
と言われてきた
しかし考え方を変えると、あれだけ市民案が様々な
解決法で考えてきたことを実行すれば
市側の提案でささやかれる
7000平米(4階建て?)は必要ないという事がわかる
多少の問題は専門家の設計業者の工夫と、職員の努力で
何とかなりそう
これが正直な実感だ
つまり囁かれつつある4階建て7000平米何となどという面積は
必要ないということになりそう
これは現実に図面から推察される
もし、なんとしても大きな面積を確保したい意志があるなら
どんな理屈をつけてくるかを考えてみると
市庁舎のコンセプトを持ってくる可能性がある
既婚理念
「市民 まち 未来」が見える新城型庁舎
基本方針
●市民が集い、市民自治の拠点となる庁舎
●環境首都新城を先導しアピールする、先進的な環境共生庁舎
●防災拠点としての安全・安心を確保した人にやさしい庁舎
●地域経済活性化に貢献し、新城のまちと共に生きる、まちづくりの拠点庁舎
●後世に負担をかけない、機能的で経済的合理性に優れたスリムな庁舎
これが新庁舎のコンセプトであったと理解している人がどれだけいるだろう
しかし、市長はこのコンセプトの元になされた過程を重視すると発言した
この何を重視するかは、これだけ抽象的な表現だから、結局は良いように使われる可能性がある
また住民投票の結果は選択肢2が支持されており
その結果を最大限に重視したものとするが、選択肢1を選んだ人の意志も
投票に出かけなかった人の意志も反映する案を提出するとも発言
これも抽象的な表現、選択肢1を選んだ人の意志とは?
投票に出かけなかった人の意志とは?
これをどうやって判断するのだろう
判断と言っても、要は自分はこう考えるというだけのこと
完全に客観的な見方などあり得ない
実務協議を踏まえて市側は山下設計に設計の見直しの発注を行う
当たり前のことだが、その時には入るべき機能や面積が条件として
山下設計に提示されるが、
これらの条件ははたして実務協議で展開された討論の内容が反映されるか?
それとも市側が取捨選択した意向を伝えるものになっているのか?
実務協議は公開という形式をとっているものの、その進め方や意義、
そして市民の会の意見の扱い方などに
どこか間違ってやしないか!と不信感をもってしまうのは
何故だろう。
そしてこの不信感は、何故かすぐに忘れるようなものではない
新城市の新庁舎建設に関する実務協議については
実務協議に参加している太田さんが運営する
Facebookページ「新城市の新市庁舎建設を考える会」
に詳しく(自分とは違った視点で)紹介されている
そこでつい先程報告された事柄に驚いた
自分は出来るだけ感情的に好き嫌いから発する混乱は
ないことを望んできたが、今回は少し腹の立つことになってしまって
一言言わなければ収まらない気分になってしまった
この感情は住民投票に訳の分からない選択肢を選んだ
議員(議会)に対する時と似ている
その内容とは、
実務協議で公にされる資料が、実務協議に入る前に
市長を囲んでの討論会に市民案の否定材料として使われている
ということ
具体的には、3回目の実務協議で市側から机・ロッカーが入らないとされた市民側は
知恵を絞って、またいろんな地区の案を参考にして、入らないとされた机・ロッカーが
すっかり入る案を考えだした
それを市民案2と名付ける
この市民案2を実務協議の市側の担当者に事前に提出し
実務協議で円滑に会議が進むようにした
ところが、まだ公にはされていないこの市民案2は
どういうわけか市長の後援会が主催する会議の席に渡っていて
その席で、いろいろ難癖・欠点を挙げる材料とされたとのことが
討論会に出かけた市民側のスタッフから報告されたのだ
実は実務協議の一般にはオープンとなっていない資料 が
(当日配られていない資料)
市長を囲んでの会に利用されたことは以前にもある
それは第2回目の実務協議でなされた体育館前の交差点から
誤侵入した車の 一回転して向きを変える軌跡の図のこと
この日は進入に対して制限がある旨の図は傍聴者に配られた
しかし道路軌跡については会場のプレゼン画面で明らかにされただけで
一般には公にされていない
それは市民案が対応策を考えるかもしれないので
市側としてはこんな問題があります
と提示しただけなのかもしれない
ところが、この大型車両のとんでもなく面積を要する軌跡図が
(市民側には少し頭の痛い問題、しかしよく考えると市側にも都合の悪い問題)
市長を囲む会に市民案を否定する材料として使われた
これもその会場に参加した人から報告を受けた
資料を配っていけないとは言わない
しかしそれは公表資料として明らかにされたものを
実務協議に行けなかった人に示すというもので
実務協議の事前の内容をオープンにしたり
その資料を元に市民案を否定する立場に利用するとは
とんでもないことだ
誤進入の問題は切り返しによる方向転換をすれば
ということで市側も了解、問題解決となったが
今度の市側の攻め手は机・ロッカーは入らないという点
どうしますか?
と市民側に投げかけられたのだから
4回目の実務協議までの間に
先に上げたような努力で、解決できる方法を考え
それを市側の実務協議参加者に提出した(市民案2)
その時に市側との協議で少し調整箇所があるので
再度市民側は新しく提出する予定だったが
このまだ未完の市民案2が市長後援会の手に渡り
難癖をつける道具となってしまった
これはどうやって解釈すればよいのだろうか?
市長は実務協議に立ち会っているが会議には参加していない
実務協議の進展を見守り、市民案の参考にできる点
検討に値する部分の取捨選択に取り組んでいると思ったが
どうやら実態は全然そうではないようだ
市民側の案を聞くということは
市民案の不備・欠点をつくことだけが目的で
市民側と協力してよい見直し案を作成しようという姿勢は
全然ないということが、残念ながら今回のことで
明らかになってしまったのではないか
(市の職員がそうしているということではない
職員は誰かの意図を代弁しているの過ぎない)
これは、本当に問題だ
見直し案の裁量権や選択権は市長にある
実務協議で参考にすべき市民案を聞いているポーズをとって
知らないところでは難癖をつける
これは公人のすることなのだろうか
今日7時から第4回の実務協議がある
問題なく冷静に事が進むか!
少し心配になってきた
竜安寺関連の本を図書館から借りて読んでいると
誰もが感じる感覚について書かれていた
それは、想像したより小さかったと言う感覚
実は自分も初めて見た時はそう思った
こんなものか、と
ところが先日何十年ぶりの対面は全く別の感覚を持った
意外に大きい
特に手前の白い部分が
なぜそんな風に感じたのだろう
普通は二度目は感動が薄くなる
二度目と言ってもずいぶん間隔が開いているから
初めてみたいなものなのかもしれないが
思いの外大きいと言う感覚は
ずっと眺めているとますます大きなものとなるような
幻覚に襲われそうだった
寝転がって読んでいた本の中に
西行のあの有名な歌
「願わくば花の下にて春死なん、その如月の望月のころ」
のことが書かれていたが、その刹那
月の光に照らされた石庭が頭に浮かんだ
何年か前に月光浴と言う写真集があったが、
そこで見られたような神秘的な風景、
特に白い石を月が照らしておぼろげに岩のカタチを浮かびう上がらせている
月は真上から照りつけているが音はしない
なんという迫力のある美しさ、
本物よりも美しいかもしれない
と思ったりした
イメージの中の美しさ それはほかにもある
古池や蛙飛び込む水の音
この俳句は、ポチャンとかわずが飛び込んだ後の静寂は
日本人ならなんとなく分かる感覚だし
西行の
心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ
これはやはり、パタパタと飛び去った後の静寂を想像すると迫力がある
そしてこれらはイメージの中にこそ美しさが存在するように感じてしまいそう
などと、どうでもいいことを(?)
あれこれ頭に浮かべてはいたが、
それにしても月に照らされたイメージの中の竜安寺の石庭
きれいという言葉では追いつかない何かがある
LLサイズとMサイス
卵のサイズのことではない
先日売り出し中の洋品店にTシャツを買いに行った
そこで出た会話が
「LLですよね、多分」
ジロッと見て、
「多分そのほうがよろしいかと思います」
ユニクロで買う時も自分のサイズはXOでないと
窮屈過ぎる
確かに健康診断のBMI値も好ましいものではない
でも、一昨年ドイツのミュンヘンのカールシュタットで
半袖のカッターシャツを買った時は
「あなたのサイズはMですね」
と言われて、ちょうどよいサイズの半袖シャツを手に入れた
ドイツならM
日本ならおデブのLL
元々の骨格が違うということなのだろうが
本当に向こうの人は大きい
トイレも男子用は高いところにあるし
バスタブはデカイし
電車の椅子も一等は横幅ゆったり
それにホテルのベッドも上下左右とも余裕ある
それから食事の量は一皿を日本人では持て余してしまいそう
VWのゴルフが大衆車と言いながら
モデルチェンジする度に大きくなっていくのは
ドイツ人の体格を考えると分からないでもない
と言っても、自分は日本人
ドイツならMといって自分を慰めても仕方ない
少し走るとお腹のあたりに重さを感じてしまう
やっぱり痩せないとダメかな
晩御飯のおかず、何にする?
毎日繰り返される難しい問題
これだけ暑い日が続くと食欲も無くなって
一番嫌われる「なんでもいい」と答えてしまう
そういえば、最近焼き魚を売ってないよね
あったとしても秋刀魚とか時に鯖があるくらいで
ほんとにそう!
もっといろんな焼き魚を出せば売れるのに
なんで出さないのかね
最近は町にさかなやさんが無くなって
魚類はスーパーやJAで購入する
しかしその品揃えはどうもこちらの希望にそえていない
焼き魚の種類が少ないと文句を言ってるうちに
パックされた量まで文句が発展する
新城市なんて年寄りが多くて食も細いし
一人住まいの人も多いのに
小さなパック詰めがない
単価は上がってもちょっとだけ欲しいと言う人が
いるのだからそういうふうにすればいいのに、、、
売り手の都合で売り出しがされているみたいだね
たくさん詰めてお値打ちにすれば購入金額は上がるから
店としてはそうせざるをえないかもしれないけど
買い手の要望に応えているとは言えないね
店は商圏調査とか消費動向、POSなどの分析は
とりあえず行われるみたいだが
さてそれを具体的に実施となると
数字を求められる店の都合に振り回されて
データの持ち腐れになっているのではないか
と少し心配してしまう
と、ここまで文句を言ってきたが
本当にシンプルな食べ飽きない魚、季節の焼き魚を提供してくれる
ところってないかな!
昨日布団に入りながらタブレットでアップしたが
めんどくさくて、それで話を飛ばしてしまったので
少しばかり話が分かりにくいかもしれないので
再度アップすることにする
まず、なぜ新城市長の後援会がこの時期に
10会場も対話集会をもうけたのかが疑問
もしかして囁かれつつあるリコールに対しての防衛策と
推理する人もいるが、それはさておき
表向きは住民投票で混乱を引き起こした理由とその報告会としている
ところが自分が参加した会場ではそういった雰囲気はない
ただ、結果として住民投票に敗れた人たちが、怒っている姿は
見ることができる
しかし、この場所はこうした人のガス抜きの場所ではないはず
ならば、その目的な何か?
それは「選択肢1を選んだ人の意志も反映したプラン」を計画する
という言葉によるアリバイ作りではないかと想像する
選択肢1を選んだ人の意志とは、多分通常考えられる一棟集約のことではない
一棟集約は選択肢2でも、現在行われている実務協議でも反映されているから
あえてそのことを取り上げることはない
この選択肢1を選んだ人の意志とは「議場を新庁舎に設置して欲しい」と言う意見のこと
なのではないか
実際にこの討論会では「議場は新庁舎にあるべき」と声たかだかに話す人がいる
その声を市長は自分の耳で聞いたから、そのような意見を持つ人がいると
公にして、新庁舎に入れるべき機能 と判断する可能性がある
以前から述べているように、見直しの実務協議は市民案に対して
いろいろ質問をしているが、市民案そのものを協議しているわけではない
市民案の実現可能性を確かめて、取り入れられるところは取り入れて
選択肢1を選んだ人の意志も、投票に行かれなかった人の意志も反映できるものを
市長が新たなプランを提出すると言っている
実務協議では市民案が困るようないろんな問題が市側から提出された
進入路の問題(実は明らかになっていない市側の案でも同じ様に困るのだが)
でも、これは切り返しで何とかクリアできそうで解決
次の持ちだしたのが
職員の机・ロッカーの問題
市の職員が図面上でアバウトに並べてみたら幾つかの机・ロッカーが入らないというもの
しかし、これも職員自身が認めているように、かなり大雑把な計画で
実務協議の会場で見かけたその図は、図の上半分にやたらと大きなスペースがあった
それで、今度は市民の会の方も並べなおしてみる
机は今あるものを使うとしてサイズを出し、先ほどのむやみに大きなスペースを
削って机を配置して、、、
その他にまだまだいろんなアイデアを出して書き出してみると
なんてことはない、収まってしまう
これは解釈の問題ではなく、入るかはいらないかの数字の問題だから
ちゃんと説明すれば市側は否定出来ないことになる
(もっともいろいろ言ってくるだろうけれど)
さて実務協議でこれら市側から出された市民案の不備について
すべてクリアしても、最終的な判断は市側にある
問題なのはその時に使う
「選択肢1を選んだ人の意志も反映する」と言う言葉
市民の中には議場を新庁舎に設置してほしいと熱望している人がいる
これを自らの耳で聞いたので、それを反映したプランをつくりました
ということで、出される計画のおおよそのプランは
議場が入ったものになるのではないか
(とすると必然的に面積は大きなものとなる)
つまり机が入ろうが入らまいが関係ないということ
別の切り口から面積が必要と説いてくるのではないか
東庁舎の活用は約束している
しかし議場を使うとは正式に言っていない
(市民側はそう思っているが)
のちのち建てなおすことになるかもしれない
その分の費用は今のうちから計画して置かなければいけない
(でも議場が入っているとは言っていない)
見直し案についてはプラン出しは市長によるが、それを認めていくのは
議会の承認も必要
これは市長も討論会で口にした
となると、新しい議場が欲しい議員、それも選択肢1を勧めた議員が大半なので
この議場は新庁舎にと言うプランは簡単に認められてしまいそう
実務協議で数字的なもの、法律的なものは解決できてしまう
しかし解釈の違いみたいなものは手に負えられない
自分たちはこう考える
そう言ってしまえば、それ以上の話のしようが無くなる可能性がある
まして実際に(言わせているとしても)議場を新庁舎に!の声はある
この議場を新庁舎に追加した案が出ても実務協議は終了しているので
今度は市民側は何も言えない状況になってしまう
これは少し意地悪な発想をしてみると予想できること
実際こんなことをするとなったら、言葉上は問題ないように思えても
市民を馬鹿にしていないか!
(ならないことを望むが)
ところで、机・ロッカーが収納しきれず面積が足りないという話だが
新城市と同じくらいの人口の高浜市は
新城と同じ山下設計がプランを出したとのこと
それも、市側から様々な制限のついた案を要求されて
その範囲内で提出されたとのこと
これはなんら驚くべきことではなくて、普通の社会なら普通の出来事
依頼の条件が厳しすぎてできません!とはなかなか言わないもの
本当はこうした意味で実務協議に山下設計も参加すべきと思ったのは
きっと自分だけでない
それにしても、いろいろありすぎ
もっとシンプルにみんなで納得できるものを
みんなで協力してつくり上げることはできないものか
ついでの話だが、投票に出かけなかった人の意見も考慮して
という市長の言葉があったが
投票に行かなかった人は「多い方の意見に任せます」
というように解釈することはできないだろうか
そうでないのなら投票に言ったはずだし、後でなんやかんや言うのは
ちょっとずるい
もっとも人間はそんなにしっかりした存在ではないので
そこま言い切っていいものかは少しやり過ぎかもしれないが
少なくとも選挙で勝つために必至に努力した人たちが
報われないようではおかしなことになる
つまり一番に聞くべきは多数を占めた人の意見を聞くこと
当たり前のこと
どんな理屈を述べようが、これは守ってもらいたい
どうも今の時点で新城市長が討論会を開催している理由がわからない
それで考えてみた
善意に考えれば混乱を引き起こした事の説明会や報告会となるのだが
しかし多分主眼はそこに無い
問題はやはり庁舎問題
時々市長口から出るのは、選択肢1を選んだ人の意志も
投票に参加しなかった人の意見も考えて
実施案に反映するという言葉
市長後援会主催の討論会で出るのは議場を新庁舎に
という意見
これを市長は市民の声だと言うかもしれない
東庁舎活用は認めて、市民案で机、ロッカーが入る事を明らかにしても
議場を新庁舎に!という声があった
と言い切る可能性がある
最終的な判断は市長と議会と
市長は口にした
議会の言葉が出ただけに
これはありそうな話
(議会は市長派が多数)
でもそれで良いのか!
でも一番の問題は、このように市長のやる事に不信感を持ってしまう事
素直に市長の言い分を聞けない事
好き嫌いの次元を越えて少し問題有り
と思うのは必ずしも独断、偏見ではないと思えるが、、、
この時期の名古屋はとんでもない蒸し暑さ
むかし大相撲の会場に氷柱が陳列されていた事を
今日の新城軽トラ市で思い出した
小さな氷の塊だけど自然と人が集まってくる
ところで2時頃の一番暑い時、コメダ珈琲に避暑に行こうとしたら
入り口には入店待ちの人が、、、
みんな考える事は同じ
それにしても、こんな暑さは始まったばかり!
やれやれ
ひところ落語に凝った時があった
と言っても、間(ま)がどうのとか芸の力がどうの
とか小難しいことはさておき単純に話を楽しんだ
たまたま知り合いが古今亭志ん朝の全集を持っていて
その中からおすすめの作品を貸してくれて
通勤途中、車の中で聞いた
その中にお気に入りの、何度聴いてもホッとする
好きな作品がある
「井戸の茶碗」登場人物は善人ばかり
正直者のくず屋の清兵衛さん、落ちぶれて貧乏な武士の千代田卜斎
この貧乏な武士が先祖代々の仏像を清兵衛さんに一旦買い取ってもらい
それを誰かに売れた時点で、儲かった分だけ分けあいましょうと言う事になったのだが
この仏像を購入したのが高木作左衛門と言う若い、これも真っ正直な人物
仏像を洗っていると仏像の中になにか入っているような音を感じ
腹を開けてみると50両ものお金
仏像は買ったが50両は買っていない、このお金は本の持ち主に返すべきだと
くず屋清兵衛さんに伝え返すように言う
それはいまどき良い話だと清兵衛さんは武士に50両を返そうとする
ところがこの武士は売ったものは売ったもの、売った以上は買い主のもので
たとえ先祖がもしやのために残しておいてくれたものだとしても
安易に売るようなことをした自分には50両を受け取る資格が無い
だから受け取らない
仏像は買ったが50両は買っていない
売ったものは売ったもの50両は買い主のもの
この妙な意地の張り合いで、困ってしまうのはくず屋清兵衛さん
そこで知恵者に相談したところ
千代田卜斎には何か別のものを売ってお金をもらうようにする
ということになった
その何かというのが日頃使っている茶碗
これでお金は若い武士と貧乏な武士そしてくず屋さんと3人で
それぞれお金を分けあってめでたしめでたし
となるはずだった
しかし、、、
この話は本当に後味が良い
落語に定番の見栄っ張りも出ないし
とんでもなく抜けた人物も登場しない
出てくるのは善人ばかり
武士は威張っているものという扱いではなく
武士の中にも尊敬すべき人物もいるという
珍しい捉え方なのかもしれない
自分がいちばん気になるのはテレビがまだ発達していない時代に
庶民がこうした「人情話」をきいて楽しんでいたということ
良い人間をよい人間としておおらかに受け入れている世間の空気が
当たり前の様に存在していたということ
きっと今ならもう少しブラックユーモア的なものが
加味されるに違いない
それを思うとどちらの時代のほうが真に豊かだったのか
と疑問を持たざるをえない
ところで、借りた古今亭志ん朝のなかでは
「文七元結」「大工調べ」「化け物使い」「芝浜」などが好きかな
おやじさんの古今亭志ん生では有名な「火焔太鼓」ではなくて
「抜け雀」とか「しじみ売り」「茶金」が好き
それにしても、豊かさとはなんだろう
市長を囲んでの討論会。昨日は富岡ふるさと会館。
市長後援会の主催で行われるために、一般参加もどうぞというもののトーンは総じて住民投票で選択肢1を選んだ人のための報告会の様相。それは仕方ないとして、少しばかり小言を!
住民投票を終えた時点での報告会かといえば、この集会はそういったたぐいの集会ではなく、まるで住民投票の活動時期の選択肢1を勧める説明会の様だった。今の時点で財政の話とか借金の話とか、そうしたものは住民投票の選挙の活動中、それぞれの立場で話されたこと。現在進行中の新たな見直しについてどうしたらよいものができるか!と言った視点は見られず、単に市民案の否定を感情的に繰り返すだけ。
でもこのくらいは人間は感情の動物だから、それはそれで理解できないことではないのでいいとして、昨日気になった点が2つ。
最初は会場の質問者からでた話の中に、東庁舎の雨漏りがあった。その人は東庁舎の雨漏りが建物の欠陥・老化に基づいていると信じきっているようだった。
ところが市民まちづくり集会で公にされた東庁舎の雨漏りは、その原因が建物の欠陥ではなく、単に落ち葉が溜まったための雨水がオーバーフローしたためで、市の職員が落ち葉を定期的に確認するようになってから雨漏りは発生していない。もちろん雨漏りのための補修費用は発生していない。これは自分が市役所に赴いて確かめたこと。
それで会の終わった時点で、雨漏りの話をした人に実情を説明しようとしたが
その人は「そのように聞いている」の一点張り、こちらの話を聞こうとしない。それでこちらが言っていることが嘘か本当か、市役所へ行って聞いてみたらどうですか!と言ってみたが、どうも行く様子はなさそう。
これはこれで済んでしまったことだが、市は市民まちづくり集会で発表された東庁舎の雨漏りの原因を公式に説明する必要があるかもしれないしその責任もあるのではないか。
そしてこの様にまだ多くの人が勘違いしているとしたら、あのまちづくり集会の説明者の責任は非常に大きなものとなる。(もっとも選択肢1を勧める立場であれば効果的な攻撃だったと言えるが)この人が分かっていて意識的にこの発言をしたのか、それとも何も知らずに無邪気に発言したのか知るすべはないが、あの市民まちづくり集会で、市民側に雨漏りのちゃんとした理由を述べる機会がなかった事はやはり問題で、あのまちづくり集会自体の総括が必要なのかもしれない。
もう一つの問題は、時々話されることのある、「住民投票に行かなかった人の意見も活かす必要がある」という点。
一見なんら問題のなさそうな話だが、その行かなかった人の意見を想像し、そうであったと判断するのは誰か、その意見を実施案に取り入れる権利があるのは誰かが大きな問題となる。
行かなかった人の気持を想像することは、選択肢1を勧めた人と2を勧めた人ではその内容に大きな隔たりがあるのではないかと思えるが、はたしてどのように取り入れるのだろうか?
市民と行政の間で、行かなかった人の思いを想像した結果が同じようなものなら問題はないが、大きく異なるとしたらどのように調整するのだろうか?
帰り際、この点について市長に聞いてみることができた。その解釈について異なることが予想されるが、行政側の判断はこうであると発表し、市民の意見をお伺いすることを考えているが答え、行政の声なき声の解釈は、公表されるのですねと改めて確認。一方的に行かなかった人の意見が解釈されることはないと言うことか。
些細な事だが自分が心配するのは、投票に行かなかった声なき声が勝手に都合よく解釈されてしまわないかということ。これが大した問題にならず、市側も行政側も共通認識で話が進められればいいのだが。
以上は新城市民でない方はわかり難いかもしれませんが
5月31日に新庁舎建設を見直す住民投票が行われたあとの
経過の一つとしてアップしてみました