パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

民主主義を直感するために

2016年05月31日 18時37分57秒 | 

先日の中日新聞の書評で扱われたのが「民主主義を直感するために」

数年前の自分なら絶対に守備範囲外の分野で
見過ごすどころか気づきさえもしない分野の本だ

ところが、図書館から借りた本が読みかけにもかかわらず
Amazonで新聞に載った翌日には注文していた 
(同時に注文したのはホッブズのリヴァイアサン1 
 これも読むようになるたぐいの本ではなかったのに)

家に届いたのが昨晩
ざっと読んでみた
この本は國分功一郎氏がいろんなところで投稿したものを
まとめているもので、あのハンナ・アーレントを読んだ時みたいな
集中と想像力を駆使しなければならないということはない
(國分功一郎氏がどんな分野のどんな方かは全然知らなかった)

だが、(最近はじめた)興味深いところ、注目すべき点に付箋を
つける作業は結構多くなっている

この本は新しい概念や、情報、考え方を身に付けるというよりは
どちらかと言えば今まで自分が薄々感じていたことを
上手くまとめてくれているといったたぐいの本

もちろん、うまい説明だけではない
興味深いエピソードやある哲学者の考え方も紹介してくれている
まずはこの本の最初のつかみが良かった

著者がパリに留学していた時、頻繁にデモを見かけたが
このデモというのがシュプレヒコールするとか必死な姿というよりは
ダラダラと歩くだけ、しかも何か物を食べながら
デモが終わった後にはゴミの山があちこちに散乱
それを清掃車が手際よく片付けていくエピソードが紹介されている
日本人がやりそうな真面目なデモは「なんで仕事をするのか」
と感じるらしい

ダラダラと歩くだけのデモは何も主張しないのなら
どんな意味があるかといえば、デモすること、それに多くの人が参加していることが
意味があるとしている
「今は体制に従っているけど、いつどうなるか分からないからな。
お前ら調子に乗るなよ」というメッセージを発しているというのだ

これはなんとなく分かる
昨年8月30日、国会前のデモ、確かに切実なものではあったが
全部が全部必死になってと言うよりは、この「お前ら調子に乗るなよ!」
といったニュアンスを込めた人が少なく無いと現場で実感した
(そのくらい普通の人、初めてデモに参加したと思われる人が多い気がした)

この本、つかみが良かったので共感を持って更に進められそう

機会があれば、もう少し突っ込んだ感想をアップする時があるかもしれない
感想じゃなく、興味深いところを抜き出すだけかもしれないが

ところで、同時に注文したホッブズのリヴァイアサンを読みたいと感じた理由は
書店で立ち読みした目次がこんなで興味をそそられたから

  • 序説
  • 第1部 人間について
    • 第1章 感覚について
    • 第2章 イマジネーションについて
    • 第3章 イマジネーションの継起あるいは連続について
    • 第4章 言語(スピーチ)について
    • 第5章 推論及び学問について
    • 第6章 一般に情念と呼ばれる意志を持った運動の内的発端について、また、その表現としての話法(スピーチ)について
    • 第7章 論及の結末、または解決について
    • 第8章 一般に知的と言われる様々な徳、またそれらとは逆の欠点について
    • 第9章 知識の種々の主題について
    • 第10章 力、価値、位階、名誉、ふさわしさについて
    • 第11章 態度(マナーズ)の相違について
    • 第12章 宗教について
    • 第13章 人間の自然状態、その至福と悲惨について
    • 第14章 第一、第二の自然法と、契約について
    • 第15章 他の自然法について
    • 第16章 人格、本人及び人格化されたものについて

      西欧人らしい精緻な論理の組み立て(?)、でも日本人にはくどいと思われそうな内容だ
      ただ、翻訳があまりうまくなくて直訳っぽくて読みこなすには大変だとAmazonのレビューにあった

      トライして読めないと感じた時は縁がなかったと諦めるしかないが
      まずは、読みかけの「民主主義を直感するために」を読了しなければ、、、 
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シメオネ監督、残念でした

2016年05月29日 08時58分38秒 | サッカー

イングランドでは岡崎の在籍する弱小チームのレスターが
予想を裏切って優勝したものだから
今年のチャンピオンズリーグの優勝は
期待を込めてお金が無い方のチームの
アトレティコ・マドリーを応援したが
延長の末のPKでレアルが勝利
少しばかり残念な結果となった

サッカーはチームプレーと言いたがる人が多いが
現実には個人の能力の優れた選手をどれだけ
チームにいるかが大きなポイントとなる

マドリッドダービーとなったこの決勝戦
選手の総年俸の差は2倍もあるとあるサイトに出ていた

 選手の価格はダブルスコア

もっとも、現在選手年俸の一番高いところはパリ・サンジェルマンらしいが
普段のリーグ・アンが一強状態で、揉まれていないから
チャンピオンズリーグの手強い相手にはいまいち結果を出せていないみたい
(イブラは好きでもっと頑張って欲しかったが)

これはヨーロッパのチームに限ったことではなく日本でも同じことが言える
まだ日本は、際立ってまではいかないとしても、間違いなくこの傾向に有る
それを思うと広島は毎年のように良い選手を引き抜かれても
それなりの結果を出し続けているのは本当にすごいことだ

たまにJ2の試合を見るとJ1の選手の力量の差を感じる
一見同じようなことをしていても、プレーの正確さの違いが際立つ
なんだかんだ言っても、結局はチーム力は選手の差なのかな

ところで、広島みたいに選手を引きぬかれても
毎年それなりの結果を残すアトレティコ・マドリーのシメオネ監督
この人結構好きだな
あのワールド・カップでベッカムを退場に追いやった策士みたいな、
勝負に徹底するところとか
選手時代のセリエAの時もガチンコで戦う表情が好きだった

シメオネ監督には一度は良い思いをさせてあげたい
と思うのだが、チャンピオンになるには選手の力量の差が、、、

と言って愚痴っても仕方ない
シメオネさん、三度目の正直目指して
来年もガチンコの守備力で頑張れ
 

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感情的にノーとなっているが、どうするか?

2016年05月28日 08時13分16秒 | Weblog

後から後から情けないセコい話が出てきて
マスコミ的には美味しい話題の舛添さん 

この話題、「セコい」が共通の認識
難しい政治資金の使い道が合法かどうかと言うより
そのやり口が、庶民にもわかりやすいだけ
失笑を買う

それで、「もうこの人はいや!」 
と感情的に受け付けなくなってしまった人(都民)は 
少なくないのではないか 
感情がノーと言ったらそれを覆すことは難しい
というのは、多くの人が経験すること
 

東京都民はこれから一体どう考えるのだろう
支持母体の自民党や公明党の判断を良しとするのか
それとも、やっぱりやりきれない思いを表に出して
何かするのか、、

ここでの都民の対応は、この国の縮図となるのではないか
と思ったりする
なんとなく人任せの方法をとるか
それとも、苦い体験を乗り越える行動を自ら望むか、、

自分の市も最近こんな思いにされたことがあったので
つい無責任に取り上げてみた 




 

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スピーチの前提となる教養

2016年05月27日 19時30分13秒 | あれこれ考えること

そのスピーチは17分にも及ぶものだったが
長さを感じずに聴いてしまった
オバマ大統領の広島平和公園でのスピーチ 

この内容については、テレビ・新聞が解説を交えて
紹介するだろうから、わざわざ自分がするまでのことはない

だが、聴きながらつくづく感じたことは、知恵とか教養とか
歴史を踏まえての考察というものが、この人には(スピーチを書いた人には)
当たり前のように存在しているということ

この後で聴いた安倍さんのスピーチは比べると、その出来、
洞察力の差は如何ともし難い 
安倍さんは、いつもの、とかやっぱりとか 、美辞麗句の羅列が続いたが
オバマさんは人間のどうしようもない面への懸念や不安、そうしたものまで
踏み込んでおり、その上で為すべきことについて述べている

西欧の教養ということは、職務上のスキルによって確立されているのではなくて
哲学に似た思考訓練からなされているものだと思い知らされる

世界との共有する感覚
それは、もしかしたら日本の教養のあり方では、できていないのではないか
と少しばかり不安になる

かつて世界が日本人のことを「エコノミックアニマル」と称して
少しばかりバカにしたのは、真の教養の欠如のせいではないのか 

最近、よく見られる「日本は世界の中で、こんなにすごいんだ!」
という扱いは、その冷静な考察なしに勝手に日本人が喜んでいる
みたいなところがあって、少し危険な感じを持ってしまうのは
偏屈すぎるだろうか

とにかく、日本人は、特に政治家には真に教養人の
必要性を感じるが、、、 


 

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テレビのニュースの扱い方

2016年05月26日 10時44分34秒 | あれこれ考えること

やっぱりと言うか、そんな扱い方をするのか
と改めて情けないと思ったのが、
小保方さんと瀬戸内寂聴の婦人公論の 対談の扱い

白いドレスの心理学的な意味とか
人相学的な今の心理状態だとか
ドレスのブランドがどうだとか
そしてコメントは、婦人公論を読んだか読まないか分からないが
ある芸能人の「「したたかだし自己陶酔が強いタイプ。(久々のメディアへの)登場の仕方も大胆ですし、
人前に出るのが好きな人だなと思う」
 
といった、本質とは関係のないコメントだったり

テレビなんてそんなもの!と
言ってしまえばそれまでだが、つくづくこんなことをしているテレビは
自滅しているのではないかとさえ思う

朝が来て、夜まで頑張って、、また朝が来る
何か生産的なことをするわけでもなく、ただ生きているだけの生活
永遠にその繰り返しが繰り返されると思わざるをえない小保方さんの状況

昔、祖母も似たような体験していた
多分、死を前にした多くの老人が同じ経験をするだろう

いや年寄りだけではない、職についていない人は
それだけで社会と無関係の存在とも思い込んでしまい
毎日毎日の朝が来ることさえ辛く感じる

こうした人たちへの共感とか想像力
そうしたものが欠けている、いや欠けていることさえ気づかない人たち
それが今のテレビで大きな発言力を持っていると言う事実
それは今の日本人の(大げさな)何かの欠如ではないのか

テレビは攻撃的な時に威力を発揮する
しかしその攻撃は本来すべき権力にではない
その反対の権力のない人、あるいは特定の個人に向けられる事が多い

確かに真面目すぎるのも息が詰まるが 、
それでも今の状況は普通じゃない
(と年寄りは愚痴りたくなる)

 



 

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憧れ

2016年05月25日 20時06分17秒 | 徒然なるままに

Youは何しに日本へ!と言うテレビ番組がある
You(外国人)にインタビューして日本に来た理由を尋ね
許可を得られたら密着してその人の行動を紹介するというもの

インタビューに応じてくれるのは10%くらいとか
何かで見た気がするが、それでもつくづくいろんな人がいるものだ

中には日本人以上に日本のことを知っている人がいる
この番組で初めて知った日本のことも少なくない

遠い国の人たちは、それぞれ個人個人の憧れを持って日本に来ている
そういう自分も実はその人達と同じようなもので
ドイツに憧れて昔も、そしてここ数年のうちに2回でかけたりした

フルトヴェングラーを知らない現代のドイツ人には
彼のお墓参りをしたり、あるいはヘッセの誕生の地を訪ねるという行為は
オタクそのものだろう

だが、日本に来たYouがそのように考えるかどうかは
分からないが、少なくとも自分は向こうに行っている間とか
行ってから、日本のこと(自分の国のこと)を考えることが多くなった 

どうしても日本との違いを感じたり意識してしまうからだ
日本のことを考えるということは、いったん外に出ると良いのかもしれない

同様に、故郷のことを考えるにはいったん外に出たほうが良いのかもしれない
ただ、国内にいると外国に行って感じるほどの違いは感じないかもしれない

室生犀星の抒情小曲集に こんな詩がある

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて 異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや 

(授業で習った)高校時代よりはずっとこの調べがズシンと来る

憧れ、最初にドイツに向かった時
胸をかきむしるような焦燥感を感じさせたのは
井上陽水の「枕詞」「結詞」だった


(オリジナルのユニゾンのヴァージョンのほうが好きかな) 

今は、あの時程のあこがれや焦燥感を持つことはない(?)
少しばかり寂しい、、、、かな
 

 

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瀬戸内寂聴さんと小保方晴子さんの対談記事

2016年05月24日 19時04分20秒 | あれこれ考えること

メディアは今日の少しの扱いで終了するのか
それとも、美味しい話題としてもう少し引っ張るのか
一体どっちなのか興味深いのが 小保方さんのこと

5月24日発売の婦人公論で瀬戸内寂聴さんと小保方晴子さんの
対談記事が掲載され、とりあえず今日はそれがいろんな番組で紹介された
瀬戸内寂聴さんは若いころある作品でバッシングを受けており
同じようにバッシングを受けた小保方さんを他人事とは思えず
声をかけたらしい

人生論的な話があったかどうかは読んでいないので分からないが
部外者にとって、興味があるのはSTAP細胞についてのマスコミの報道

先日の神戸地裁でES細胞の盗難の疑い、訴訟については
そもそもそんな事件があったとすること自体が疑わしいとの判断が出ており
小保方さんを限りなく怪しいと思わせるようなメディアは肩透かしを食った

そして、盗難事件があった事自体が疑わしいと
しぶしぶ(?)メディアは伝えることによって
ようやく冷静な報道をし始めたようだ

そして渡したマウスと違うマウスの遺伝子を持つものが
帰ってきて実験自体が何をしているものかわからないとして
若山さんの論文撤回理由のポイントとなった件については
若山さんの関係者の行った遺伝子解析が信用できず、またその後の詳細な
調査によると、渡したものと違うものが帰ってきたとは言えない可能性があった
ということも、今になってやっとチラチラ報道されるようになってきている
 

理研の再現実験で再現されなかったからSTAP細胞はなかったと
報道している面についても、再現実験では確率は予想より少ないが
いわゆるSTAP現象は見られたとしているが、あまり報道されていない
ただ細胞が存在するかどうかの判定はキメラマウスが必要で
これは当初から若山さんがいないとできないから、あの再現実験で
キメラマウスができないのはある意味必然だ

STAP細胞とSTAP現象 この2つの言葉を多分素人は混同している
そして残念なことに小保方さんは自分はわかっているので良いのだが
他人に伝えるときにこの言葉の使い分けを正確にしていないために
誤解を招くことになっている

メディアは正確なことよりもわかりやすいということを優先する
技術者が正確な事を伝えるために前提や概念の説明・正しい理解の仕方などを
丁寧に説明をすると、それがために素人にはより分かり難くなって
素人であるメディアの人間は自分が理解できないので面倒になって
自分が理解できる範囲内での理解の仕方をしてそれにしたがって報道する

この理解については、メディアの人もそれなりに勉強すれば良いのだが
大半の場合、分かるように説明してくれない学者や技術者が悪いからと
開き直って、わかりやすいかもしれないが間違いを起こしやすい表現の仕方をする

自分がよくわからない場合
その道のオーソリティーと言う人を引っ張ってきて話を聞くことになるが
この時の人選が既に公平なものとなっていない可能性がある
というより、2年前のSTAP細胞騒動では最初から偏った見方しか
存在していなかった
まずは疑いの目、仮にそれは仕方ないとしても、相手の人の言うことを
まずは聞いて確かめるということもなく、ただひたすら疑うばかり
そしてその視点からばかりの報道をする

それが刺激的であればあるほど、メディア自らも興奮して
リリースしていく
しかし、あの時期の情報の元が2ちゃんねるや掲示板で
それをそのまま信じたメディアのリテラシーも情けない限りだ
そしてこのリークをした人、どうも瀬戸内寂聴さんとの対談では
「男の嫉妬」と言う扱いとなっているようだ
この嫉妬していた男が誰なのか、ネットの世界は怖いもので
現実にはそれも明らかになっているようだ

STAP細胞とかSTAP現象
これが本当に存在するかどうか、自分にはわからない
ただ分化した細胞が、もう一度初期化されるかもしれない
ということについては、漠然とあるかもしれないと思ったりする

進化論が突然変異によってうんぬんとする理屈も
生物には何かの加減で初期化して最初からやり直す機能があるとして
それが細胞単位に話を置き換えるとこういうことだったとすると
何かしっくり来るような気がする
(素人だから何を言ってるかわからないかも知れないが)

とにかく、このSTAP細胞の報道は変だった
少なくとも疑わしきは罰せず!と言った態度ではなかった
疑わしいいか、疑わしくないか、それの丁寧な判断をすることなく
一方的に決めつけて思い切り叩いた

でも、多分メディアは反省などしない
今まで自分たちがどのように報道してきたかを忘れて
一旦風がそちらになびいたら徹底的にその風にのる

メディアは批判することが役割のようなところもあるが
メディアを批判する存在も、知恵も、知識も
庶民には必要ということなのかもしれない
 





 

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痛い目にあう前に!

2016年05月24日 10時28分46秒 | あれこれ考えること

少し心配症な人は人口減少やそれに伴う財源不足で
市の将来に不安を感じる
(実は国しても同じことなのだが)
それで自らの生活体験を元に市政でもまずは節約とか
贅沢をしないと考えるのはごく普通のこと
そうすることによって、将来の人たちに不安のない生活の確保が
できるかもしれないと考える

ところがそれを他人に伝えようとすると
同じ感じ方をする人には何の抵抗もなく伝わるが
今の生活に忙しい人、そういうことに関心のない人には
なかなか伝わらない

「痛い目をしないために」こう考えたほうが良い
これはある意味未来を想像するということだが
まるでおせっかいの様に思われたりする

残念ながら、人は
痛い目をしないと分からないのかも知れない 
だが痛い思いをしてからでは遅すぎるということもある
出来る限り、痛い目に遭わないうちに知恵で回避する方法を、、 

そういえば健康法も食事もそうなのかもしれない
わかっちゃいるけど 痛い目にあうのが人間か

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下駄箱の数字

2016年05月23日 21時49分52秒 | 徒然なるままに

時々、豊川市の本宮の湯に行く
比較的近くて、きれいで、何よりも好きなのは寝湯
ウトウトはしないが、とても気持ち良い

この本宮の湯にでは下駄箱に靴を入れるが
このキー付きの下駄箱には番号がふってある
空いている場所を探すが、空いているうちでも番号を見ていろいろ選んでしまう 

小さな番号のうちはサッカー選手の背番号
イニエスタの8番、本田の4番、イブラヒモヴィッチの10番
野球選手も頑張っている
14番は沢村栄治、20番は星野仙一、29番は鈴木孝政
31番は掛布(なんか古いぞ!)

モーツアルトのシンフォニーも連想する
35番はリンツ、38番はプラハ、40番はあのト短調

数字がもっと大きくなるとケッヘル
136はあの軽快な嬉遊曲
219はヴァイオリン協奏曲トルコ風
304はホ短調のヴァイオリン・ソナタ
310はイ短調のピアノ・ソナタ
331はトルコ行進曲のピアノ・ソナタ
それからそれから
466はニ短調のピアノ協奏曲 
488は2楽章が美しいイ長調のピアノ協奏曲
511はロンドイ短調
581はクラリネット5重奏曲、、、

そんなことを思いながら、
今日はどっちかというとこちらの気分かな
などと思いながら選んでいる

最近はしなくなったが無意識に階段の数を数えたり
したものだ
そういえば大好きな田舎者のブルックナーも
やたらと数字にこだわったというか、数えたらしい

ところで自分の好きな数字
意外と4が好きかな、、
高校時代のサッカーの背番号
好きな数字はモーツアルトの好きな曲のケッヘルの場合が多い
ま、どうでもいいことだけれど、、、 

 

 

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音楽の聴き方(聴いているのは曲か演奏か)

2016年05月22日 16時50分33秒 | 徒然なるままに

エレーヌ・グリモーのピアノリサイタルについてはいろんな人が
ブログにアップしている
自分は勝手気ままに取り上げたが、あるピアノ教師のひとは
彼女の演奏は迫力があるが白黒はっきりしていて
もう少し音色を細やかして欲しいといったような感想を述べている

自分にはその音色のうんぬんまで感じ取れる耳はなかった 
ところで、音楽を聞くということは
曲を聴いているのか、それとも演奏を聞いているのか

先日の様に殆ど知らない曲の場合
演奏者の媒介を通じて曲を聴いている
つまり作曲者の意図とか思いを感じようとする事が多い
ところが聴き慣れて曲の細かなところまで記憶に入っていると
演奏の違いを楽しむことになる

現実には音楽は残されたのは楽譜だけで
その楽譜から感じられることは個々様々で
表現することも演奏家の個人差があって、
結局は演奏家の解釈を通じて明らかにされるのであって
本当に作曲家の意図したものは何だったのかは決定することなどできない

しかし、繰り返すが少なくとも自分は、初めて聴く曲は
演奏家のことよりは曲自体の方に関心がいく

先日の例で言えばベリオの気持ち、武満が表現しようとしたもの
そしてブラームスのなんとなく感じられる性格のようなもの
それらを演奏会の最中に理解しようとしたり楽しんだりした 

そしてそこで感じたことは確かに個人的なものなのだが
時として完全に思い込みとか独断とはいえないくらい
一般性を持ちそうな時がある

人が何かを感じるということ
多くの人が同じように感じるということ
言葉ではないだけになにかとても不思議だ

相変わらず毒にも薬にもならないことだが
気になって仕方ない 

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