パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

女性に好まれないブルックナーの音楽(という説は本当か)

2023年04月30日 09時34分11秒 | 音楽

GW中の日曜日なのでお気楽な話を

確信に近い思いでブルックナーの音楽は女性に受け入れられない
と思っているが、それをチャットGPTに聞いてみると
こんな答えが返ってきた

問 ブルックナーの音楽は女性に好かれませんが、その理由は何でしょうか?
 
ChatGPT

ただし、一部の人々がブルックナーの音楽を男性的、重厚かつ煩雑だと感じるかもしれません。
これは、ブルックナーの音楽がしばしば多層的で、緻密で、緊張感のある構造を持ち、
より力強く奥深い音楽的表現を求める男性の傾向に合っていると見なされるためです。

一方、女性は一般的により感性的であるとされ、より簡潔な音楽的表現を好む傾向があります。
したがって、女性がブルックナーの音楽を好まないと感じる場合、
これは好みの問題であり、性別に関する問題ではありません。

ただし、これはあくまでも一般論であり、個人の好みは多様であるため、
女性がブルックナーの音楽を好む場合もあります。

少し聞き方を変えてみた

問 ブルックナーの交響曲の演奏会ではトイレに男性ばかりが並ぶと言われています。
   女性客が少ないのは何故でしょうか?
 
ChatGPT

まず一つ目は、ブルックナーの交響曲が重厚な音楽であることから、男性客が多いということが挙げられます。
ブルックナーの音楽は、多くの場合、堂々とした演奏が求められ、重低音のパワフルな響きが特徴的です。
そのため、男性客がより好む傾向があるかもしれません。

また、ブルックナーの音楽は、一般的には比較的クラシック音楽の愛好家に人気があるため、
男性客が多いという側面もあります。
クラシック音楽は、昔から男性の趣味とされてきたことがあり、その影響が残っているかもしれません。

さらに、交響曲の演奏会においては、一般的に女性客よりも男性客の方が多いという傾向があることも
影響しているかもしれません。
これは、交響曲が比較的重厚な音楽であることや、演奏時間が長いことが理由として挙げられます。

総じて言えることは、ブルックナーの交響曲の演奏会において、トイレに男性ばかりが並ぶ理由は、
その音楽の性格や、クラシック音楽の趣味として男性が多いこと、
また交響曲の演奏会において男性客の方が多いことなどが考えられます。

なるほど、一般的な客観的と思えるような答えだ
だが、どうも不満が残る
実感と違う気がしてならない

女性がブルックナーを苦手と思うのは、自分だけでなく案外多くの人が感じていることで
そのことを扱った小説に「不機嫌な姫とブルックナー団」(高橋英理著)がある
ここでは当然の事実として女性はブルックナーは苦手としている

ブルックナーは女性にウケない!が事実かどうかはわからないとしても
確信的に、直感的にそう思ってしまうのはなぜか?
という疑問が新たに浮かんでくる

女性の音楽、中島みゆきとか竹内まりあなどの音楽が
男にとっては少しばかり生理的に違和感がある(と自分は感じるのだが)のと同じ様に
この反対のことが女性の感情のなかで起きているような気がする

それは小さな子が、女の子はママごととか、人形遊びをしたりおしゃれをして喜ぶ一方
男の子は、消防自動車とか電車とか昆虫とかに夢中になるのと同じで
男と女は最初から出発点が違うという気がしてならない
もちろん、どちらが偉いとかには全く関係ないことで、単に感じ方が違うというだけのことだが

男と女の感じ方とか、感じるものの優先順位が違うことは、生物として良いことではないか
つまりは多様性は生き延びる可能性を増やしていく要素の様に思えてしまう

ということで堂々巡りみたいなお話

ブルックナーは男向けの音楽と思ってしまうことは間違いだ!
と訂正の指摘をされても、受け入れられないと思えてしまうのが実感だが
一体、それは何故なんだろう

ところで、女性にもウケそうなブルックナーの音楽もある
彼の珍しいピアノ曲
ブルックナー:秋の夕べの静かな思い(1863)白神 典子 2000






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グレードダウンは、違いがよく分かる

2023年04月29日 15時36分07秒 | オーディオ

人は食べ物でもオーディオ機器でも、比較して初めてその良さを感じることができる
一つだけ経験して旨いとか良いものだとは言い切ることはできない
自分にとって、つけ麺のラーメンの美味しさの基準は豊橋の東脇にある店で
他店のつけ麺を食べると違いがわかるが、あの店以上の思いをしたことは
今のところない

比較してわかるのと同様に、下からグレードアップするのはわかりにくいが
一旦上のレベルを知ってしまうと、それよりも下のものが物足りなく感じることは多い

CDを聴いた後、レコードを聴くとあまり違いがわからない場合が多いが
その反対にレコードを聞いた後CDを聴くと、その痩せた音にびっくりする
音量を下げた時、CDはガリガリに痩せた人のようで、レコードは音量を下げても
ちゃんと筋肉をもった人のようにイメージできる

覚悟はしていたが、少し残念だったのがレコードプレーヤーのこと
中古品を購入してもそれなりの価格だったノッティンガムのプレーヤー
今年になってカートリッジにつながる線が切れて使えなくなってしまったので
修理にかかる時間が耐えられなかったのと、使いにくさを感じていたので
価格的にグレードダウンしたものに買い替えた
グレードダウンというもののそれなりの価格だったが
いざ記憶の中のノッティンガムのプレーヤーの音と比べると、、、

確かに違う
音の拾い方がノッティンガムのプレーヤー方が多い
低音もどこかぼやけるし楽器間の分離もボーッとした感じだ
何よりも違うのはオーケストラのフォルテの場合で
まるで地響きのように聴こえたのが、今回のはそこまでの感覚は感じることはできない

これは不満といえば不満だが、予め想像していたので我慢するしかない
世の中にオーディオ地獄という言葉があるようだ
違いを感じてしまうと、よりよい音を求めて少しづつ変えていく
だがしばらくするとその音に慣れてしまって、そのうちにまだどこかをいじりたくなる
この無限連鎖を指した言葉だが、現在の自分は幸いながら
その地獄に落ちるほどの金銭的余裕はない(というか、諦めという知恵を知っている)

旅は行ける時に行っといた方が良いと思うが
こうした音の追求も、できる時にやっといたほうが良いのかもしれない
財布と相談する自制心は必要だが

それにしても、グレードダウンはその違いはよく分かるな
と実感する

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グレン・グールドの聴き方の変化

2023年04月28日 09時43分47秒 | 音楽

昨日再放送されたNHKの「ピアニスト・グレン・グールドの世界」は
普段は夜にテレビを見ることはないが、時間も短かったので興味深く見た
このカナダのピアニスト、グレン・グールドはとても変わった人で
Youtubeなどの動画で見ることのできる演奏の姿は低い椅子に座って
猫背になりながら、うなりながら(キース・ジャレットみたい)
指揮するように、あるいは踊るように、そして何かに取り憑かれているように
自分自身の世界に集中しているように見える

彼の弾く音は一つ一つがはっきりと聞こえる
それは彼の好きな対位法がよく聞き取れるように演奏しているからで
彼は対位法の大家バッハが大好きでデビューレコードはバッハの
ゴールドベルク変奏曲だった
この演奏はピアノでこの曲を演奏する意味を問い直すような問題提起をして
一時期、とても話題になった

そんな噂を耳にした頃(高校時代)自分は平均律クラヴィーア曲集(1)を手に入れた
一番驚いたのは、演奏に変な音が混じっていることで
最初はレコードからでていると気づかずに、近くで何かの音がしているのだと思っていた
ところが唸り声が聞こえるのは確かにレコードからで
解説書を読むと彼は演奏中に唸り声を出すと紹介されていた

明らかに普通の演奏とは違うスタイルに短いあいだ彼に夢中になり
レコードだけでなく彼に関する本も手にいれた
彼は夏目漱石の「草枕」が愛読書だったらしい
どこか抽象的な雰囲気のある「草枕」がこの人に好まれるのは
なんとなく納得できる気がした

だが彼に共感を覚える時間は短かった
それは確かに独自の世界観と音楽世界を聞き取ることができたのだが
聴いていると、孤独でとても辛く思えてしまったからだ
モーツァルトのピアノソナタもテンポも独特で
スタッカートの多く声部のはっきりした演奏は、どこか楽しくなかった
ベートーヴェンの後期のピアノソナタも、演奏表現の多様性は認めるとしても
ベートーヴェンの達した世界を表しているようには思えなかった
つまりは、彼の閉じた世界に浸るのは辛いという気持ちが大きくなってしまった

実生活でもグレン・グールドは聴衆のいる演奏会は行わず、表現の機会は
レコード録音だけの閉じた世界に限られた

そうして彼のCDとかレコードから離れていたが、最近ひょんなことから
彼の演奏を聴き直してみる気になった
すると、昔感じた孤独はさほど感じずに
ただただ多様な表現方法があるものだ!なかなか良いではないか!
とだけが心に残った

つまりは自分の年齢を重ねたことによる聴き取り方の変化を自分が感じたということだ

このような自身の年齢の変化による聴き取り方の違いは
演奏ではなくて聴く曲の選択により現れている
今はチャイコフスキーの音楽はほとんど聴かない
マーラーも一部の曲以外聴く気がしない
歳とって許容範囲が狭くなってきているのかもしれない
若いひとのJpopも受け付けないというよりは全く関心がない

そういえば音楽に限らず、読書のジャンルも偏ってきているようだ
それは個性なのか、偏屈になっているのか、わからないが
歳を重ねるというのは、こういうことだと実感する


ところで、グレン・グールドの演奏で思いのほか好きなのは
ヴァーグナーのマイスタジンガーの前奏曲で、声部がよく聴き取れるのが心地よい
動画はこちら
Die Meistersinger von Nürnberg, Act I: Prelude (Piano Transcription) (Remastered)

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自筆譜とか生原稿から感じ取れるもの

2023年04月27日 10時16分34秒 | あれこれ考えること

大谷の使ったバット、マイケル・ジョーダンが履いた靴などは単なるものではなくて
その人の何かが染み込んでいると想像して手に入れたい思う人が少なくない
それは単なる思い込み過ぎないかもしれないが、感覚としてはその気持はわかる

作曲家とか作家の自筆譜とか生原稿は、彼らの創作過程が見えてくるので
思い込みと違う研究的な価値が存在する

昔、あるオーディオショップでモーツァルトの40番の冒頭の自筆譜のコピーを見た
それは額装してあり約30万円位で販売されていた
コピーは限定何枚と制限されていたようで、何分の何と分数が書かれていた

その時のことは今でも覚えている
楽譜を見ると目に入ったのはあの有名なメロディではなくて
第2ヴァイオリンだったかヴィオラだったかが伴奏的に奏でる部分で
それはとても柔らかくて、あの主題を迎えているかのようだった

曲の始まりがいきなりあのメロディではなくて、ほんの僅かな時間だがリズムを刻むような
伴奏音形だったのは、とても効果的に思えて、自筆だからこそ感じ得たものと思えて仕方なかった
だからもう少し低価格なら手に入れたい、、と思ったりした

モーツァルトの自筆譜は他にも、彼の生まれた家とか住んだ家に展示されているのを見たことがあるが
残念ながらあの時の様にモーツァルトの息吹を感じるとまではいかなかった
でも、すごいスピードで書かれていたのはよく分かった
小さな五線譜に、とてもきれいにペンの勢いが感じられるほどで
これは作っているというよりは、書き写していると感じさせるものだった

少し前にモーツァルトに関する本で彼の作曲の様子が書かれた本を読んだ
やはり彼は頭にある音楽を書き写していると多くの人が感じたらしい
段取りとしては、まずは主となるメロディと低音部を書き上げて
その後で既に頭の中にある他のパートを追加したとあった
(この過程はなんだかビートルズの楽曲制作とにている気がした)

モーツァルトのように書き直さないというのが多作の秘訣かもしれない
音楽家とは違う小説家の自筆原稿はあまり見たことはないが
それでも僅かに垣間見たものはあまり訂正がないものが多かった

プロの作家は訂正せずに一気に書けるらしいと言うのが
やはり特殊な才能と思えてしまう
一つ一つ推敲していると時間がどれだけあっても足りない
だから最初から完成しているように文字に起こしているだけと思える

外国の作家(ドストエフスキーとかトーマス・マンとか)の
1ページに文字がいっぱいの文章を読まされる時
彼らはきっと書き直していないに違いない!
と妙な確信をもってしまう

それらと比べてベートーヴェンの自筆譜の汚いこと
これは明らかに彼の試行錯誤の過程が見られる
しかし、それは確かに磨き上げて作り出されたものという感じがする

こうしたどこか作り手の息吹が感じられるものは、感じやすい人には有益で
指揮者は大切に保存されている自筆のスコアを見て
演奏のイメージを作り上げることもあるそうだ

それにしても、やはり自筆譜とか生原稿は
きれいに印刷されたものとは受け取る印象が違うな


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スーダンの内戦から、いろいろ想像した

2023年04月26日 09時53分38秒 | あれこれ考えること

スーダンの在留邦人の退避がなされた
ここ数日はこのニュースが多いが
不意にスーダンの内戦は何故起きているのかと気になった

以前は南スーダンの名を聞いた記憶がある
海外事情に疎いのでそのあたりはわからない
それで、ちょいとネットで調べてみた

もう随分長いこと内戦は続いている
南の地区のキリスト教とアニミズム的な宗教の人々と
北の地区のイスラム教を信じる人達の戦いが根っこにあるようだ

そこに地下資源の権益とヨーロッパ諸国の思惑が絡んで
解決の緒はこじれてしまっているようだ

戦いは長期化すると、戦いだけの理屈で物事は進んでいく
それぞれの陣営は勝つことが正義となって
戦いのプロである軍隊が全ての判断を行うようになる

どの国も軍隊が支配権を持つと、よからぬ結果になっていくようだ
ミャンマーも、かつての日本もそうだったように

巻き添えを食うのはが庶民だが、彼らの望むものと
支配者層の望むものは違っている

日本の戦国時代、地元で長篠の戦いは行われたが
そこに住む普通の人間は戦いに参加してるわけではない
その時の武士ではない地元の人間は傍観者だったのか?

地元の人間がどのように戦いに関与したのか、しなかったのかは
興味のあるところだ
武田方の兵士は農民で、農家の仕事が少なくなる時期を選んで
戦いが行われたという話もあるようだ

新城にはお盆に「火おんどり」という行事がある
設楽原決戦場にある信玄塚で、戦死した武田軍の霊を慰めるために
長さ2、3m直径80cmほどの松明を燃やして、村人がそれを振り回す
結構しんどい踊りだ

地元の人は、どちらかに肩入れしていたとしても
人が亡くなっていくという現実は
やはり悲しい出来事と思っていた(と思いたい)

そんなことをつらつら思い浮かべていると、日本の内戦の戊辰戦争は
海外からはどう見られていたのか?と考えてしまった
海外の国も自国の利益を考えて日本に関与することを考えたに違いない
イギリスは官軍側に、フランスは幕府側に武器を調達した(と記憶している)

これはスーダンの内戦を外から眺めている今の我々と同じ感覚だったのだろうか
戊辰戦争もスーダンと同じ様に、結局は支配権を争う戦いに過ぎなかった気がする
(フランス革命のように庶民が求めた変革ではなくて)

現在は本当に危なっかしい時代になっている
テレビではウクライナとか北朝鮮の問題でも暴力組織である軍隊の(戦術的な)理屈が
解説されて、知らず識らず視聴者もその考えに違和感を覚えなくなっていく

こうした威勢のいい思考は、とても怖いと思う
それにしても、世間のこの余裕の無さはどこから来ているのだろう

例ごとく、まとまらない話、、
でもどこかストレスの溜まりそうな世間の空気を
田舎でも感じるということ

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世論調査の電話がかかってきた

2023年04月25日 09時47分43秒 | あれこれ考えること

統一地方選挙が終わって、結果次第では衆議院の解散があるとも噂されたが
新聞では、岸田さんはまだその時期ではないと報道されている
このように解散総選挙の噂される時、我が家の電話には
調査会社を名乗る組織から政党支持等のアンケート調査を求められることが多い
(既に数回経験をしている)

一般的に日中の固定電話は本当に迷惑な内容が多い
電気代の節約のための切り替え、インターネットプロバイダーの変更
貴金属、宝石、カメラ等の買取、それらがまるでローテーションの様に
代わる代わるかけてくる

電話口に女性が出ると組みやすいが、男が出ると面倒と思うのか
自分が出るとすぐに切られたり、間違い電話でしたと言い訳して
それで電話を終えてしまう(背後に多くのオペレーターの声が聞こえる)

家に自分がいるときは、男の方が良いだろうと電話に出るようにしているが
数日前、選挙絡み、支持率絡みのアンケートの電話がかかってきた

こういう時は、ぶっきらぼうに答えずに質問がどういう内容なのか
どんな意図でそのアンケートが行われるのか等の興味があるので
調査会社の名前をメモしながら案外真面目に答えている

今回は機械による調査ではなくてオペレーターによる調査だった
これは珍しいことで、何故コストのかかるオペレーターを用いた
調査をするのだろうと疑問を覚えた

ただ今回は調査対象が女性の意識の調査だったので自分は該当せず
それで電話は切れることになった

こうしたアンケート調査には割合真面目に答えているので
調査会社には電話をかける価値のある家庭としてのデータでも
残っているのだろうか?(それで何度もかかってくるのだろうか)

今までで経験した中で奇妙だったのは、直前に参議院選があるにも関わらず
調査では参議院ではなくて衆議院選挙の投票先を聞いてきたことだった
この時は同日選が噂されていたときで、そのための事前調査だったのかもしれない

もう一つ奇妙だったのは、質問の途中で切れてしまったことで
確か支持政党絡みの質問で、野党側の答えの番号を押したところ
いきなり電話が切れてしまったことだ
支持率は実は正確な数字ではなく、一部の間には好ましくない数字はカウント
しないように調査が行われるという噂が広がっているが
この時はふとその噂を思い出した

それにしても、メディアの投票先の予測の報道は選挙にとって有益なのだろうか?
と考えてしまう
媒体にとっては視聴率とか販売部数に影響するかもしれないので
意味はあるかもしれないが、一般市民にとってはどんな意味があるのだろう

人は多くの人がいる側に自分がいることで安心する傾向があると思う
自分自身の考えを持つよりは、みんなと同じ方が良いと思考停止して
その方が死票にならないと自己弁護してしまうのではないか

だが当選に至らなくても、決して死票(無駄)ではなくて
反対する人もこれだけの数字があるという証になるので
好き勝手にさせない効果があると考えれば、自分で選ぶ意味は十分にある

外国の一部では選挙の予想を報じることが禁止されているところもあるそうだ
選挙の行動は事前の予想報道とどのような相関関係があるのか
どこかの組織が調べてくれないかなと思う(大学の政治学部とかで)

それにしても、ずっと垣間見られるのは現職が強かったり、家系だよりにしたりで
日本は変化を求めない国民性だな、、と実感する
本当は、急激な変化は好ましくなくても、不断の変化は必要だと思う


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多数派、あるいは権力の側に属したい気持ちについて

2023年04月24日 09時47分30秒 | あれこれ考えること

今朝の新聞も選挙のせいで随分スリムな紙面だった
投票率は相変わらず低い
この国の敗者は、実は庶民なのではないか!
と分別くさく考えてしまった

人は生活する上で何かしらの不満を覚えることがある
その不満は個人的な我儘なのか
それとも解決可能な社会的課題なのかを考えてみると
ある程度は社会的な(政治的な)解決法が見つかることもある
と気づけば、もう少し投票率もあがると思われる

だが現状は、解決法はそこに存在しないと思い込んで
自己責任と受け入れたり、諦めたりして絶望感に陥り
無力感に襲われている人が多いために
この投票率になっているのではないかと想像してみた
(興味や関心がないという以上に、自分たちで何かは変えられる
 と思っていないようだ)

人が現状維持とか、権力をもっている側に寄り添う傾向があるのは
多分その方が現時点でのストレスが少ないからだ
変な喩えだが、ある人がいつも巨大な壁に向かって戦っているとする
(例えば自民党の牙城に立ち向う野党を応援するとか)
その人はいつも負けてばかりだと
負けて学ぶことが多いといったのんびりした思いというよりは
思いは叶えられない!というストレスが溜まるようになってしまう
そのストレスにいつかは慣れてしまってしまう人もいれば
そのストレスに陥らないように自己防衛のため
勝ち組に乗り換える人がでても不思議ではない

これは立候補者のことではなくて、投票する有権者にもいえることではないか
応援する人がいつも負け続けると、自分の存在(価値観等)も不安になって
それらの不安から逃れるには勝ち組に乗り換えて
多数派のなかに自分が存在する感覚を持てるようなるだけで
安心できるのではないかと想像してしまった

多数派に属することの安心感
これは想像以上に大きな力を持つのではないだろうか
ベストセラー本やCDを購入してみたり、話題になっている場所や店に出かけ
写真を撮ったりして、みんなと同じことをする、、
それは、それだけで自己肯定感が感じられるからなのだろうか

日本社会は「世界にひとつだけの花」と歌いながら
多くの人と違うことは極めて恐れている社会のように思えてしまう
そして、大きな錯覚は「多くの人が考えていることは正しい」
と思い込んでいることではないだろうか

みんなの判断は、一人で判断するより間違いの確率は少ないとする事実は
数学的な計算で求められるが(「多数決を疑う」というの中で解説あり)
そこには大前提があって、判断の際には個々が損得に関係ないとか
接する情報に偏りがないとかが必要とされる
だがこれは実社会では現実的に不可能なことで
世の中はある意図のもとの情報なり損得で回っている


ということで、あれこれ考えていると暗くなりそうだが
諦めるのが一番悪い選択になりそうなので
田舎でもできることを腐らずに行うしかないか
(さて何をすれば良いのだろうか)

相変わらずまとまらない話

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「既に権力をもっているから」信じるのは、どうなんだろう

2023年04月23日 16時01分36秒 | あれこれ考えること

今日の中日新聞の「視座」には気になる内容が掲載されていた
今回の担当は内田樹氏で、統一地方選の低投票率を問題視しながら
自らの造語「パワークラシー」(権力支配)なる概念を紹介している

統一教会のことも、防衛費増額のことも、増税のことも
インボイス制度のことも、みんな政府が好きにしていいよ!
オレは興味がないから!
と低投票率を生み出す有権者の姿を想像している

日本は権威主義的と「歴史の終わり」のフランシス・フクヤマには
理解されているが、そもそも権威が信用されるには
王政であれ、貴族政であれ、民主制であれそれなりの理由が必要で
「神から授権された」とか「民意を付託された」とか「賢明だから」
と無理矢理にでも理由付けがなされる
だが内田氏のいう「パワークラシー」は権力者の正当性の根拠は
「既に権力をもっている」という事実に由来するとしている

これは「権力者は正しい政策を掲げたのでその座を得たのであり
その座にある限り何をやってもその政策は正しい」との考え方につながる
それによれば、「選挙に負ける野党は与党のような政策を掲げていないからだ」
との一見現実的な考え方の様に思われる
だがこれは言い換えれば「現状を改変したければ、まずはこのシステム内で成功しろ」とか
「現状を否定したければ、まず現状を肯定せよ」とのディベートに使われそうな理屈が大手を振る

生活実感として現状を否定するからこそ対立候補が生まれ、対立する政策も生まれる
それらは現状のシステム外の考え方となる(あるときは予算の使い方の違いとか)
それを(予算の例で言えば)今討論にあがっている予算の使い方の是非を考えてからにしろ
というのでは、既にその時点で権力者の土俵で戦うことになってしまう

つまりよく言われる「対案を出せ」という理屈は、少なくとも民衆に対しては
求められるべきものではないと思う
民衆としての対案は「現状の否定」ということが一番の肝だ

しかし、権力を持っているが故に権力者を信じてしまう現実は
日本の民主主義が庶民が勝ち取って手にしたものではなく
上から与えられたもので、それ故にいつからか選挙が権利ではなく
義務のようになってしまった流れにつながっている気がする

最近、日本に民主主義は根付いていないな、、
とつくづく実感する








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後のことを知っていると、仕掛けとか意図を想像することができる

2023年04月23日 09時14分08秒 | あれこれ考えること

桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の家系は
「直」という文字がとても大事にされていて
歴史に名を残す「直政」「直虎」その例だ

高校の同級生に井伊直○という人物がいたせいで
数年前の大河ドラマ「おんな城主 直虎」は
通して見ることとなったが、そうだったのか!
と納得したのが徳川家の重要な家臣となった井伊直政の名前のことだ

「おんな城主 直虎」はある意味、高橋一生演ずる小野政次の物語とも言える
家老の職にあった政次は、複雑な状況のなか井伊家を守るために
時には井伊家の意向と違うような行動をする
それは孤独な行いだが、最後の最後になって彼の行いの意図は
理解され、井伊家は一旦家系が途切れたものの
家康に活躍が認められた井伊家直系の若者は
井伊家の「直」の字と、苦労人だった政次の「政」の字をとって
「井伊直政」と名付けられ、井伊家の再興がなされたという結末で
ドラマとしてはは見事な締めだ

このドラマの作者は、最初からこれを念頭に置いてドラマを書いたのだろうか?
と驚きを覚えたのだったが、今年のドラマ「どうする家康」でも
先を見越したと思えるエピソードがあった
少し前の金平糖が出てくる回に、家康の息子(子供時代の)信康と
幼くして結婚した信長の娘(徳姫)との喧嘩(仲が悪い)のシーンが出てくる

時が経過して後に、信康の死という徳川家の悲劇が起きるわけだが
その原因に徳姫が信長に宛てた手紙の中で
信康がよからねことを企てている!との内容があったからで
実は信康と徳姫は仲が悪かった!という説がそこから生まれたようだ

仲が悪かったのは子供時代からだった
と小さなエピソードを早いうちにドラマに入れておき
あの時の話はここにつながっているのか、、と連想できるというわけだ

後のことを知っていると、このように現在系で演じられることの意味が分かってくる
ミステリーなどは再読すると、作者が仕掛けたヒントや仕掛けに気づくかもしれない

実は「カラマーゾフの兄弟」を再読した時にもこれを感じた
長男のミーチャはしきりに胸のポケットを気にしていたと思わせる描写があるが
そこにはみんなに秘密にしていたお金が入っていた、、
という本人にしかわからない事情を説明しているものだ

長編は些細なエピソードが後々効いてくる
源氏物語では、物語の初めに登場する光源氏の藤壺との不倫は
「若菜」の巻でのしっぺ返しにつながっていて
トータルとしての物語の完成度を高めているように感じられる

ということで、後のことを知ってると作者の仕掛けが
いろいろ想像できる!ということ
その想像は違っているかもしれないが、自由に想像することは楽しい

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あまり知られていない2つの話

2023年04月22日 19時25分55秒 | 新城・地元に関すること

新城市の広報誌によれば「どうする家康」におそらく市外の人は
あまり知らない武将の鳥居強右衛門が5月に登場するとあった

新城中心部から国道151号線を飯田方面向かって走ると長篠城のあたりに
褌すがたで磔にされた武将のインパクトのある看板が出てくるが
この武将が鳥居強右衛門で、彼は教科書にも掲載される長篠の戦いで
窮地に陥った長篠を救うために岡崎の徳川家康まで援軍を求めにいった人物だ

鳥居強右衛門と鈴木金七郎の二人で出かけたとの説があるが
鈴木金七郎は役目を果たしたのち農民となり
鳥居強右衛門は城に戻る途中で武田方につかまり
城を明渡すように伝えれば命は助けるとの条件を提示されたが
彼は大声でもうすぐ援軍がくる、、と叫んだために
ふんどし姿で磔になったのだった

この話は新城の人間なら知っている
(授業で聞いた気がする)
鳥居強右衛門は全国区はないがNHKの関係者が新城をロケハンした時に
磔姿の看板を見て、これはエピソードとして扱うことにしたらしい

だが先回の「どうする家康」では、鳥居強右衛門のストーリーと
そっくりの長い距離を走ってお市の方の伝言を伝えた女性の話があって
被るなあ、、、と心配してしまった

ところで、今回の話題は鳥居強右衛門ではなくて
新城市民は知ってるが、市外の人は知らないと思われる話
それはこの写真のエピソードのこと


武田信玄が新城の野田城を攻めた時に、銃で撃たれたという話だ
これは実は映画「影武者」で冒頭のシーンとして使われている
(映画に使われた城は姫路城だったそうだ)
そしてこの銃は「信玄砲」と名付けられて、設楽原歴史資料館に展示されている
この時の傷がきっかけとなって信玄は死に至ったというもので
これらは本当かフィクションかわからないが
フィクションにしても何故こんな話が生まれたのか興味が募る

「影武者」のラストシーンは、新城の設楽原の馬防柵馬のある戦いの場所で
何頭も馬が(ゆっくり)倒れていく光景が記憶に残っているが
つまりは「影武者」は最初と最後は新城市が舞台だったということだ

これらは雑学の部類だが、知ってる人は少しは自慢できるかも

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