パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

誰よりも狙われた男(感想)

2014年11月30日 19時23分01秒 | 徒然なるままに

久しぶりに満足した映画
ジョン・ル・カレ原作だから、地味でも
最後に何かあるとは思っていたが
なるほど、そうきたか

タイトルの「誰よりも狙われた男」というのは
誰だったのか?と考えてしまった

ところでこの映画の主演、太ったフィリップ・シーモア
と言う俳優は、今年亡くなって遺作となったしまったとか
007やミッション・インポッシブルのような派手なスパイ映画ではないが
次第に感情移入していくのも不思議ではなかった

それにしてもタバコを吸うシーンの異常に多いこと
これは何かを暗示しているのか
彼の性格、精神状態を表現しているのか

スパイを扱った物語も以前のような東西冷戦の緊張感から離れて
現在は視点が少し変わりつつある
例えば内輪の問題とか、他国の同様な組織との確執とか

エリート組織の全てをコントロールするようなところは
現場の主人公には腹立たしい物だったに違いない
そしてCIAも

話は違うがフリーマントルのチャーリー・マフィンの
屈折した上司に対する気持ちもわからないでもないな
この映画を見てフト思ったりした

さて映画の最後のシーン
仲間の女性がさり気なく写っていたが
それは彼女も上の組織のスパイだったということか?
それとも同様に喪失感に囚われていたのか?

敢えてはっきりしないような終わらせ方
あとは勝手にご想像を
といったところか

しかし、火薬も派手なカーアクションもない
淡々と進んでいく映画だったが
この手のほうが想像力を刺激して楽しめる

ところで気になったところといえば
ドアの開閉の音の大きさ
弁護士に協力を依頼する時に
その部屋から出たり入ったりする時の
その音は異常に大きかった
ヨーロッパのドアの開閉音は頑丈だから大きいかもしれないが
あそこまで大きくはないだろう

ということで評価は
見るべき!とまでは行かないが
行っても損はないと言ったところ

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レッズに優勝の資格はなかった?

2014年11月29日 16時35分32秒 | サッカー

レッズ対サガン

後半PKでレッズが逃げ切るかとおもいきや
ロスタイムにサガンの同点ゴール
これでレッズは首位から転落、
得失点差でガンバに抜かれることになった
(レッズ1-1サガン)

先週からレッズの戦いを見ているが
本当に勝負弱い
今日の試合も得点の匂いがしない
李忠成も一生懸命プレイしているが
肝心な仕事ができていない
海外で評価されなかったのは分かる気がする
岡崎のように割りきって点を取る方に専念したほうが
いいかもしれない

この試合で一番違和感を感じた瞬間は
後半ロスタイムのサガンのゾーンでの時間稼ぎ
この時間稼ぎの淡白なこと
傍目には緊張感、なんとしても勝ち抜くと言う気持ちは
感じられなかった

するとやっぱり、起こるべくして起こった同点シーン

サッカーは相手より多く点をとったほうが勝ちのゲーム
と考えるか
相手より失点しないほうが勝ちと考えるか大きく2つの考え方がある

レッズは昨年を踏まえて後者を選んだようだが
どうも点を取れないと勝てない現実に今ぶち当たっている感じ

反対にガンバは点をとって勝ち進む勢いに乗っている

現時点では試合内容からしても優勝の資格があるのはガンバ
日本のサッカーのためにも良いのはガンバ

レッズはスタートが日本人ばかり
そのための勝負に淡白なところが結果に出てしまったのかもしれない

とはいうもののまだ最終節がある
しかしガンバは降格まっしぐらだった徳島と、
レッズは得意ではないグランパスが相手
ここでサッカーの神様はおちゃめな運命を演出するか?

去年の横浜と言い、今年のレッズといい
勝ち切る強さがなくて首位でいられたのは
Jリーグは不思議なリーグなのかもしれない

 

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平均年収、中央値、モード(昨日の続き)

2014年11月28日 19時31分34秒 | あれこれ考えること

昨日取り上げた問題 気になってので調べてみると
厚生労働省からデータがでていた

(平成23年1月1日から1231日までの1年間の所得 )


データは こちら

2 の所得の分布状況のグラフを見ると
平均年収は 548万2千円
中央値はそれより低くて 432万円
そして最頻値(モード)は 300万~400万円

これを見ると 本当に平均だけを知っただけでは
片手落ちなことがよく分かる

メディアや経済評論家と言う人々は何故
この現実を声を大にして言わないのだろうか?

発表する立場の人は多分平均のずっと上の収入だから
庶民の感覚は関心がないのか 

庶民も少しづつ賢くなって
数字のマジックに惑わされないようにしなければ
いつまでも都合いいように振り回されてしまう 

ところで経済が良くなって
下にお金が回るかと言う問題

経営者と言われる人々はお金が貯まると
(企業にお金が貯まると?)
次の投資よりは節約しやすい傾向にあるとか
あるいは消費に回らずに金融に投資して
金が金を生む世界を活発化させるだけ
と言う意見もある

我々は政治家だけに頼らず、
少しでも賢くなっていかないと
いつまでも逃れられない世界の住民になってしまう

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平均以外の考え方、メジアンと最頻値(モード)

2014年11月27日 19時56分07秒 | あれこれ考えること
昔、高校時代に数学の問題集に
「メジアン」というものがあった

最近気になってこの言葉の意味が気になって調べてみた
メジアンとは中央値

つまり全標本のうちの真ん中にある数値

よく世間では世帯の平均年収がどれだけで
密かに自分は平均かそれ以上かをチェックして
喜んだり悲しんだりしているだろうが
このメジアンは純粋に中央値なので
真ん中よりは上か下かはわかりやすい

しかしこれも完全に実態を表しているとは
言いがたいかもしれない

もう一つ別の概念、指標がある
最頻値 最も頻度の高い値
数値を一定の基準で分けた場合
最も多くの標本が現れる数字
先ほどの年収に関して言うなら
どのくらいの年収の人が一番多いということを
あわらす事になる

この数字は平均より小さくなることがあるかも知れない

つまり、当たり前に使われているわかりやすい平均と言う指標は
実は社会を正確には表していないということ
確かに時系列の変化としては平均の変化は重要な動きといえるかもしれない

しかし、経済の実感を調べたいのなら
最頻値や中央値の方が優れているのではないか
何かで読んだが中央値と平均値の差を何らかの数学的処理を行って
偏りを明確にする方法があるとか

統計は嘘をつかないが、統計の数字を扱う人は
自分の都合の良いように統計の数字を使い分ける

大本営とメディアを全面的に盲目的に信じやすい我々日本人は
もう少し自分たちが賢くならないと
なにか間違った方向に引っ張って行かれそう
と思うのは考え過ぎか?

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1942年のフルトヴェングラーの第9

2014年11月26日 20時23分54秒 | 音楽
とんでもないものを耳にしてしまった
フルトヴェングラーの指揮するベートーヴェンの第9
1942年のベルリン・フィル演奏

フルトヴェングラーの第9といえば
今まではバイロイトの有名な演奏とルッツェルンを聞いていて
それで十分と思っていた
しかし、最近のFBのコミュニティで紹介されたこの演奏を
Youtubeで耳にした途端、釘付けになってしまった
貧弱なパソコンのスピーから流れる音からも只者ではない雰囲気が伝わる




貧弱な音だからこそ想像力で補った音になっている
などといった軽い考えをはるかに越えている
何かが明らかに違う
時代背景がそうさせるのか
それともフルトヴェングラーの天才性がなせる技か

これは音楽体験なのか
それとも何か別の体験と言っていいのか
そんな気さえしてくる

感情を込めた演奏というのとも違う
精神に特化したものとも違う
そこには音と音の必然の流れと構成と効果
演奏者の思いと気持ち
そんなものが深いところでつながっている様に思える
そしてあくまでも音楽という快感を引き起こすモノによる
人間の体験で、まるで全人格的なめったに経験することのできない
ものとさえ思えてくる

この演奏はフルトヴェングラーがバイロイトでの演奏より約十年前
まだ気力があふれている頃の(ナチとも闘うような)時期の演奏
彼が全盛期にどんな演奏をしていたのか
つい勝手に想像してしまう

そしてそれはやはり天職というか、
時々神様が気まぐれに地球上にもたらす特別な使命を持った人の
特別な仕事のようにさえ思えてくる

このような演奏を聴くと
音楽を聴くという行為が何をなすのか
いや音楽は何をなすことができるのか
と考えてしまう

この演奏を聴いて、最初の音を聞いただけで
なにか特別な何かを感じる人もいれば
何も感じない人もいるだろう
しかし、感じる人には確かに感じられる圧倒的に
印象的な演奏だ

しかし、このような演奏はもう体験できないモノになってきているのかもしれない
音楽は全人格的な体験ではなく、耳と体に対する即物的な快感
あるいは消費される家具のような商品となって直ぐに忘れられるものとしか
存在し得ないのかもしれない

だが、この演奏の体験は聞く人の心の奥底まで
動かす可能性があるので、そこから数少ないが何かを感じる人達の
輪を創りだそうと動き出す人たちが出てくるかもしれない

フルトヴェングラー、指揮者以上の音楽家、哲学者
凄い!

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「知と愛」とタンホイザー

2014年11月25日 20時17分23秒 | あれこれ考えること
タンホイザーはヴェーヌスの官能の世界から
抜けだして普通の世界に戻ろうとした
しかし、余りにも現実離れした理性中心の世界だけに
依存する考えを彼は認めることはできなかった
生物・人間として言葉を超えた会話である
肉体の交流はそれもまた愛と呼べるものである

しかし、世間はそんな思想を受け付けない
信仰と純粋な精神的な愛こそが本物であり
それ以外は受け入れられない

それが唯一の真実で、自分が実感として感じてきた世界を
全然認めないとするならば、
自分は再びヴェーヌスの愛の世界に戻ってしまおう

その時、奇跡が起きてタンホイザーを慕うエリーザベート
の死によってタンホイザーの悩める心は救済された

作曲家であり台本をも書き上げたヴァーグナーのタンホイザーは
大雑把にはこんな話だが、最近再読中のヘッセの「知と愛」も
これに似たテーマが扱われている
つまり言葉を必要としない愛の交流は
ある種の人間にとっては
ありきたりの普通の思想以上のものであるということ

現実には脳内の僅かな電流のなせる技
あるいはある物質の働きによるものにすぎないが
この作用になんと多くの人が振り回されるのだろう

ヘッセもヴァーグナーも正直な、洞察力のある
表現意欲のある創作家だったということだが
この様な人物の設定は日本ではあまりないかもしれない

日本なら漱石の「こころ」みたいな精神の悩みに純化されたり
浮気とか三角関係の感情の問題に力点が置かれたりして
真正面に生物としての人間の愛の形を問うことは
どこか現実離れしていると考えるのかも知れない

それにしてもタンホイザーの巡礼の合唱、好きだな
ヘッセの正直な洞察力と想像力を触発する文章も好きだな

ということで、来年のドイツの旅はヴァーグナーのバイロイトと
ヘッセの生誕地カルフに行くつもり
マウルブロンはどうしようかな



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選挙のアンケート(いろいろ考えること)

2014年11月23日 19時59分50秒 | あれこれ考えること
我が家に今度の衆議院選挙の投票についての
アンケートの電話がかかってきた

選挙に行きますか?
投票するのは政党・政策・人柄・知人の薦め?
あなたの地区では誰に投票しますか?
争点は何ですか?
等など

実はこの手の電話アンケートに答えるのは2度目
前回は政権交代があった時だった
さて今度は、答えていくうちに
なかなか困った状態であることを実感した

投票する人がいない
現実的に政治に影響力を持たせるには
そこそこの政党でないと駄目だし
その政党には政治屋としての生き残りの徹しているように
思える人物が鞍替えして候補になっていて
人間的に信用出来ないみたいだし、、、

ここ数週間は真面目なテレビ番組は政治がらみを
多く取り上げ色んな意見が飛び交うだろう
しかし、意見がどうもかみ合わないのは
現状の把握が解釈によって随分違うこと
(もっとも自分たちを正当化するのが常だから
相手の言うことを認めるはずもないが)

そこでマクロ経済のわかりにくさではなく
自分の実感としての景気を考えると
どうも景気が良くなっているようには思えない
しかしいろんな答え方があるものだ

求人数は増えているが非正規が増えている
その非正規は団塊の世代の人たちの退職後の働き方の表れ

世帯収入は減っている
いや株価は上がっている、それが末端に行くまでのタイムラグが有るだけ

景気を立て直すにはまずは企業が良くなることが前提
いや中間層の健全な増加こそが継続的な経済発展を可能にする


その他いろんなやりとりがかわされる

これらの討論は、現実にどの程度社会に影響するかは
普通の人には判断がしにくい
そこでメディアは評論家と言う人物を引っ張りだすわけだが
この評論家の立ち位置でその発言は随分と変わってくる
一見中立なようでその実世論誘導にもなりかねない

そして不思議なのはこの評論家と言われる人々の意見が
どのメディアでも同じことを言っているような気がしてならない
現状分析だから同じになって当たり前と言われそうだが
何故か突っ込み不足の誰か言ったことの後追いの
無責任な発言のように思えて仕方ない

アベノミクスは成功か失敗か
評論家が意見を述べ合うのではなく
庶民が判断しうる材料の羅列でいいような気がする時がある

景気が良くなるためには、まずは企業が儲けなければ
しかし儲かっている企業の内部留保は一体何に使われるか
儲けたお金は本当に社会に還元されるか?
競争の激しい企業はまた新たな企業間競争のための資金と
して使うだけではないのか

非正規から正規社員になっている人も増えている
自分から望んで非正規を選択している人もいる
しかし、企業側から考えるとコストの面が非正規と正規では
全然違うから、非正規を使い続ける誘惑からは抜け出せない
と思うのが自然

今回の選挙で一番の懸念は
大義がなくて、なんとなく選挙になってしまった
だから選挙にはどうも関心がない
と考える人が少なくないような気がすること
すると投票率は上がらず無党派層の影響は小さく
組織票の大きい自民党と公明党が
思惑通りの結果を手にするような予想がされること

本当に政権与党が民意を反映しているのか
選挙で勝ったから、民主主義はそういうものだの一言で
あんな風にやりたい放題では不安でしょうがない

国民は反省の仕方をもう一度考えるのもいいかもしれない
一度自民党から民主党に政権を移したがそれは失敗だった
民主党は酷かった、だからもう一度自民党に戻す
自民党もそれまでの悪いところを直して(?)復活した
失敗を教訓にしたわけだ

ならば民主党も失敗を教訓にしてはいないか
反省すべきは政党ばかりではなく
有権者の自分たちもそうではないのか

結局他人任せの政治システムではあるものの
実際には他人任せにしてしまうと
どうも民意から離れたものになってしまいそう

選挙が皆が選んだ結果だからといって
原発を再稼働したりするのはどうも気が進まないのだが、、、
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勝負弱い浦和レッズ

2014年11月22日 19時13分51秒 | サッカー
今日勝てば優勝のガンバ戦
レッズは終了間近に2失点で
0-2で負け

やっぱりな!
そんな思いが頭に浮かぶ

レッズは人気はあるしサポーターも凄いが
勝負強くない
むしろ勝負弱い
肝心なところで負ける

もちろん相手のあることなので
自分の望むとおりには行かないだろうが
それでも勝負弱いところは変わりない

今日の試合、勝つためには得点が必要だが
どうも得点の香りがしない
李は頑張っていたが結果的に頑張っているだけで終わってしまった

梅崎のシュートもふかしてしまったし
宇賀神もキーパーに阻まれてしまったし

最近本田をチェックするためにあまり好きでないリーグの
セリエAの試合をみることが多いが
そこで見る風景と日本で行われているサッカーの風景が
少し違っているのが気になる

まずはシュートが決定的に違う
枠内シュート、少し遠目からのシュート
つまりはシュート力が全然違う
これは体格差からくるもので日本人は真似できないものか
どうかは分からないが、せめて遠くからはできなくても
シュートをふかすのだけはやめて欲しい

それにしても勝負弱いというのは本質的にはなんだろう
執着心がない?
運が無い?

もっともガンバもそんなに勝負強いほうじゃない
今は勢いに乗っている感じで勝っているが
本当に負けないという感じではない

川崎も面白いサッカーをするが勝負弱い

強いなとか負けないな
と感じたことがあったのは一頃のアントラーズ

しかしそのアントラーズも最近は駄目だし
横浜は昨シーズン土壇場でこけるし

そんな風に拾い出すと日本のどのチームも勝負弱いということになりそう
これが韓国のチームだったらどうなのかと思ってしまう
韓国のほうが勝負師シビアで執着心がありそう

勝負強さはレッズに限らず日本全体で
何とかしなきゃならない問題かもしれない
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「知と愛」を読みながら考えること

2014年11月19日 19時25分47秒 | あれこれ考えること
ヘッセの「知と愛」(ナルチスとゴルトムント)を
先日から読み返している
最初の時は途中からゴルトムントの運命に夢中になって
何故か一刀彫で有名な円空さんを連想したことを覚えている
そして、シッダールタを似たトーンの小説だな
とも思ったりした

そして今回
読み返したのは来年のドイツ旅行に時間があれば
マウルブロン修道院に行こうと思っているが
「知と愛」の前半の舞台はこのマウルブロン修道院
それでなんとなく手にとったのだが
やはり歳を重ねた後に読むのは当たり前のことだが
随分印象は違う

若い時は、一気にうなされたように読んだ気がする
しかし今回は、ヘッセの欠点も、話の持って行きようの傾向も
客観的に眺めていられる

小説はもともとフィクションだが
ヘッセのそれは実在の人間が中心となって活躍する小説というよりは
最初からどこか空想的な主人公が空想的な世界で
しかし明らかに実生活を暗示・象徴するような筋立てと構成になっている
そして、ヘッセの欠点は彼のひたむきさ・テーマへの迫り方の
一途さが割合ストーリーを同じもののようにしているということ
(シッダールタ・知と愛・ガラス玉演戯)

完成度の高い欠点のない作品よりは
ヘッセは自分の求めて得たものを表現したい衝動に駆られたように思う

そしてその御蔭で、自分は救われているような気がする
具体的にどのように救われたかは
そういうものの言葉で表すには難しい
ただ印象としてヘッセの懐の深い肯定感に
どこかホッとしている

人はその人を一生支配するテーマから抜けられないのかも知れない
そのテーマを自覚できているか
あるいは無自覚でそのテーマを追いかけているかは
人それぞれだが、つくづく自分を振り返ると
ずっと同じことを考えている気がする

それは何か?
それはこれを書かせ、ヘッセを読ませ、
ドイツに行かせるもととなるもの

と言ってもあまりにも主観的で
他人にはわからないに違いない
しかし、自分は深くそう感じている
自分はずっと同じテーマを追っかけていると
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同じものを聴いて、同じように感じる不思議さ

2014年11月17日 21時29分00秒 | あれこれ考えること
小林秀雄に「美を求める心」というエッセイがある
いつものごとく内容は忘れてしまったが、冒頭に音楽の話が出てくる
音楽がわかるとは一体どういうことか?
そんな話からスタートしている

今日はその音楽の話
最近、FBの「フルトヴェングラーを聴こう」に承認されて
そこでのやりとりを楽しんでいるが、なによりも不思議なのは
同じように感じている人が多いということ

ある演奏について(レコード)良いというのはもちろんのこと
その感じ方がほとんどいっしょではないのか?と思ったりする

言葉は理性的な部分で説明できるため同じ考え・印象を落つことができるが
音楽の様な非言語の芸術は個々の感性に委ねられそうなのだが
どっこいそれほど個人差で左右されるものでは無いらしい

その共通の印象を持つのは何故なんだろう
同じものを聴いているから同じような印象を持つというのは
当たり前かもしれないが
人が育ってきた環境や経験が違うにもかかわらず
同じような感じ方をしているらしいことは
人は案外理性の部分だけでコミュニケーションをしている
のでは無いということかもしれない

本当に楽しいのは、もしかして音楽会が終わった後
急いで家路に向かわず、ゆっくりとその日の演奏の感想を
交わし合う時間を持つことかも知れない
そこでの交流は理性の部分だけでない分興味深い
この手の会話をすることで演奏会は真に深い体験となり、
音楽の聞き方の進化にも繋がりそうだ

それにしても、つくづく感じるのは
類は友を呼ぶ
これは、本当だ
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