パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

なぜ若者は怒らなくなったのだろう?

2007年06月29日 21時44分01秒 | Weblog
社保庁の年金トラブル、
ワーキンブプア問題、ネットカフェ難民
自分たちが直面している問題が目の前にあるというのに
若者達は、何の行動も、怒りの感情さえ見せないのは何故なんだろう?

若い人たちは視野が狭くても純粋で
直感的に何が正しくて何が間違っているのを判断でき、
おかしな事には毅然と立ち向かうと思っていたのは
若者達に対する幻想だったのだろうか?

若者達は社会的な悪には腹を立てず
ごく身近な問題、
例えば友達が返信のメールをくれなかった、とか
その程度の事にしか腹を立てないと言うか
キレてしまうようだが
本当にキレる相手が違ってやしないだろうか?

団塊の世代の連中が棒を振って行動した事は
結果的になんにもならなかったかもしれないが
そこにはエネルギーがあった
ところが今の若者には世渡りの上手さは感じても
パワー、エネルギーを感じられないのが少し不安だ。

どうやら自分もこんな風に、今の若者は、、、と
愚痴を言う年代になってきたようだ


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あまり、お上を信用しすぎないようにしよう!

2007年06月27日 21時37分45秒 | Weblog
山口県光市母子殺害差し戻し控訴審では弁護士が
大量の21人列席したそうだ
そんなに大勢がいるのは「死刑制度反対」を
回り回って訴えるためらしいが
昨日、今日の被告の答弁は一般の人間にとって
あまりにもとってつけたように思えてならない
そして、その答えはどうやら弁護士と充分に話をして
その作戦で行こうと決めて結果の現れのようだ
ここで一番問題は、言葉の上での整合性さえあえば
裁判の勝ち負けが決まってしまいそうな事だ
だが、その根拠となる内容の正確性はどうなのだろう?
今回は多くの人間が被告側の話を疑ってとらえているが
つまり、弁護側の話をねつ造に近いものとしてとらえているが
いままでは、このようなねつ造は検察側でも今回と同じくらいの確率で
行われてきたのではないのか?
袴田事件しかり、富山の検察側の大ちょんぼの事件、ひき逃げしていないのに
強引に証拠まで作ってしまった(?)事件
大前提としてひとは(お上は)間違いをしない、と思っている
だが本当はどんな社会でも同じような確率で
良い人間もいれば、悪い人間もいて
その結果としてどこでも同じような間違い、事件は起こすのではないだろうか

つまり、検察側、警察も単なる上司の成果に対するプレッシャーで
適当な答えをつくり出してしまう可能性があるという事だ
強引なつじつま合わせ、法律ギリギリの取り調べ(?)

だが、こうなるといったい一般庶民は何を信用すればいいのだろう?
わかってきたのは、闇雲にお上を信用してはならないという事だ
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ドストエフスキーは青春の文学?

2007年06月24日 09時46分18秒 | Weblog
最近寝床に入って広げているのが
「21世紀 ドストエフスキーがやってくる」集英社刊 大江健三郎ほか

今落語ブームかどうかわからないのと同じレベルで
ドストエフスキーブームなのかどうかわからないが
確かに今ドストエフスキーにひかれるものがあるのは事実だ

それにしても、つくづくドストエフスキーは青春の文学
あるいは、青春時代に読むべき本であると思えてならない
実際にところ彼の小説は若い時にしか読めないのではないか?
ページ全体に文字が詰まって、極度の集中と時間をを要求する内容
これらはある一部の人間を除いて、いい歳をした人間には結構きつい

馬力はあっても内容が今ひとつ理解できない!
という可能性は若い時代にはあるかもしれない
自分も高校時代に読んだドストエフスキーは充分理解できていたとは言いがたい
しかし、日記にうなされたように(翻訳文ではあるけれど)
彼の文体に似たリズムで書いていたところをみると
随分影響されたと言っていい
いや、それどころか、それまでの考え方等が
ぶっ壊されたような感じがしていた

若いうちにドストエフスキーを読んだ方がいいかも、と思うのは
現実的に読める、読めない、のほかに
読んだ後の時間が長いからだ
若者の特典は彼らが気づいているかどうか知らないが
残された時間がしっかりあるという事
だから、様々な悩み、考え方が坩堝の中に詰まっているような
ドストエフスキーの著作を知る事は
若者が後々の生活、生き方に役立つと思うのだが、、、

それにしても、若者はこの手の本を読むのだろうか?
書店に並ぶのは新書、ゲーム本、ハウツウものばかり
全人格的に本と対峙するようなものが
少なくなっているような気がするけれど
大丈夫なのかな?
若いうちに読んどかないと「もったいない」と思うのだが!
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ガンバは、ひところのジュビロに似ている

2007年06月23日 21時43分06秒 | Weblog
現時点での優勝の資格ありは圧倒的にガンバ
今日、レッズVSエスパルス ガンバVS FC東京をテレビ観戦しての印象

FC東京の最初の2得点にもかかわらず、なんだか偶然上手くいっただけで
そのまま勝つ事はないどころか、
これで勝ってしまってはいけないんじゃないのか
とさえ思ったFC東京の覇気のなさだった
1対1の戦い 出足 ルーズボールの処理 そんな基本的なところが
全然違った
勿論、明神、橋本のボランチが効果的に機能し
遠藤、二川のテクニシャンが相手を翻弄し
マグノ、バレー、播戸がFWらしい活躍を見せ
シジクレーが最終ラインをまとめて
2失点したもののハンディキャップマッチくらいの横綱相撲だった

今のガンバは全盛期のジュビロくらいの強さがある
藤田、名波、服部、中山、田中、鈴木でドンドン勝ち進んだ
あの頃のジュビロに似ている
ボールキープ率もコンビネーションの円滑さも
本当に印象としてはよく似ている

それにしてもガンバは上手い選手が多い
試合中パスのコースが多いというだけでなく
一人一人の足もとの技術が優れている
それは上手く勝ち進んでいるからそのように思えるのか
それとも、そのベースがあるからこそ勝ち進んでいるのか
わからないが、見ていても楽しいサッカーだ

ところで不意に思ったのだが
ガンバにマグノが入って得したのは、得点パターンが豊富になっただけではなく
一緒に練習する事によってボールの持ち方、身体の入れ方を
真似できる機会が多くなった事ではないのか
それは丁度アントラーズにビスマルクが入って、
小笠原が彼の良いところを身につけたのとよく似てる
(残念なのはグランパスはストイコヴィッチは上手すぎて誰も真似ができなかった)

一方レッズとエスパルスの試合はミスの多いゲームだった
上位チーム同士にもかかわらずハイレベルの戦いというより
結果重視の戦いのようだった
エスパルスはいつものパスワークが見られず
レッズも勝ったけれど相変わらず勝っただけのゲーム

それにしても時々思うのだが、
日本のサッカーは早すぎるのではないのか?
言い換えれば、あわて過ぎではないのか
日本人の特徴はアジリティーにあるとしても必要以上に
全てが早くて、そのせいで正確性がないがしろにされている気がしてならない
それは高校選手権でも時に見られるシーンで
もうちょっと早いところ、ゆっくりするところの
メリハリを付けた方がいいのではと思う
これはもしかしたら外国のサッカー中継がヨーロッパに偏っているからかもしれない
(常にハイテンションのイングラド プレミアリーグ
最短距離で得点シーンに結びつけたがるセリエAなど)
ブラジルの、時にはチンタラした、
しかし、一人一人がしっかりした技術を持った細かな見所の多いゲームを
もっと日本人は謙虚に見るべきではないか

またまた話が逸れてしまったが
今のガンバはそう簡単には、(ケガ人が出てくるとかしない限り)
大崩れはしないだろう
彼らと戦うには
今日のように半信半疑で戦ってはダメだ
超攻撃的でくるなら打ち合いに持っていくくらいの気持ちでないと
戦う前から負けてしまうような気がしてしまうが
これは素人の甘い見方かな?

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サイモン・ラトル ブルックナー交響曲第4番

2007年06月21日 21時59分38秒 | Weblog
大好きな作曲家の一人ブルックナー
この人の音楽(交響曲)を聞くとき
(主に指揮者を味わうとき)
自分の中で好き嫌いの基準となるのは
指揮者、演奏家がブルックナーを好きかどうかという事

アイヒホルンやヨッフムやヴァント、そしてカラヤンにさえ
ブルックナーの響きの中に陶酔して、
無条件に曲に身を委ねているような瞬間がある
(フルトヴェングラーにも)
この手の演奏家はブルックナーを演奏している幸福感を
自分も感じる事ができて共感できる
だが分析的な、どちらかと言えばラテン系の
アバド、ブーレーズ
ラテン系ではないけれど
セル等にはどうも一歩ひいてしまう

さて最新のブルックナーディスク
サイモン・ラトル ブルックナー交響曲第4番
何年も前にバーミンガム市響で第7番が出されたが
一般的には注目されなかったけれど自分も評価は
「案外いいじゃん!」
そして今回の人気曲「ロマンティック」はどうか?
残念ながらまともに通して聞くチャンスがないが
(夜にオケの曲を聴くのは、音の漏れ等が気になって少し厳しい)
急いでいれたiPodで聞いた分には
まずその音の柔らかさにびっくりした
決して刺激的にならず、どこまでも響き合って
(ちょっとヴァントの実演「8番」を思い出してしまった)
ベルリンフィルはホント上手いなあ!と
改めて実感した
注意深く聞いてみると、やっぱりラトル
細やかなニュアンスを指示してるところがあって
さすが現代のこの曲の演奏!みたいなところがあったが
最初に述べた基準からすれば
ラトルはブルックナーが好きなんだろう
と思えて、素直に受け入れる事ができる
一般的にはラトルはマーラー指揮者みたいなところがあるが
同じベルリンフィルのマーラーの第5番よりは
今回の方が好ましく思える
(マーラーは神経質すぎて、なんだか浸りきれなかったから)
<マーラーの5番はテンシュテットのが好き>

ラトルのブルックナー
今後まだ予定はあるのだろうか
8番、9番、5番等どんな風になるか楽しみな気がする
そしてこのディスクを聞いて思ったのは
ヴァーグナーのパルジファル、トリスタンも
結構いけそうな音を出しているような気がしたが
予定はどうなのだろう
久々に、次のディスクが期待できそうな
思いをさせてもらった
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少年サッカー、目標を何に設定すべきか?

2007年06月19日 20時56分27秒 | Weblog
先週の土日は少年サッカーの合宿
4年以上の希望者が泊まりでサッカー三昧
梅雨入りしたというのに快晴の二日間は
しっかり日焼けしたけれど大儲けだった

さて指導者が違うとサッカーの質も違い
必然的に練習方法、主に費やす練習の時間が違ってくる

正直、今でも悩んでしまうのは
勝つための練習がいいのか?ということ

一学年10人そこそこの友達でやっていると
ずば抜けて運動神経の良い子や
反対に今イチの子が混在する
その子達をいざ試合に!となると
勝つためには後者はスタメンから外されてしまう
それどころか練習時点でもフォーメーションの練習などには
参加できずにいる
勝たなければ面白くないし、モチベーションも上がらない!
そんな気持ちもわからないではない
しかし、どこか割り切れないものが残る
多分日本中の多くの指導者が同じ悩みを
抱えているのだろう

そして勝つためのシステムの問題
やっぱり日本人は体質的にシステム論が好きそうだ
4バック、3バック、
2ボランチ、3ボランチ
1トップ、2トップ、そしてリベロ等
効率的にゲームを進めるには監督のイメージする形を体現できれば
良いのだろう
しかし、自分はついつい子供達が窮屈そう!と思えて仕方ない
小学生の時点で、大人の縮小系みたいなサッカーはどうしても好きになれない

しばしば、残酷なくらい体力差が存在する事がある
だが身体能力の高いのは彼のせいではない
そうした子供に大人は体力に頼ったサッカーはいけない!と釘を刺す
だが本当にそうなのだろうか
身体能力のある子はその力を発揮したいに違いない
それを、味方にパスして、シュートは撃つな!は大いに疑問だ

自分なら、とにかくいけるところまでいけ
残酷なくらい一人で得点してもいい
ただし、きっと段々に緊張感が薄れて雑になるから
それだけは気をつけなさいと言う

そう、自分はシステム論よりも
選手の個性が生きる方法を考える
ドルブルの好きな子
前でチャンスを狙ってる子
やたらとあちこちに顔を出して上手くはないけど運動量の多い子
心配性でどうしても後ろの方で点を入れられないように待ち構えている子
走るのが速い子
膝が柔らかく左右の動きにも機敏についていける子
早くはないけれど比較的ミスの少ない子
プレーの質に、気性を考えて、
彼らが一番のびのびとサッカーを楽しめる方法を考えたい
そして今イチの運動神経の子も、明らかに上手くなっている事実を感じさせ
サッカーの楽しさを伝えたい
人間は部品やパーツではないのだから
取り替え可能なサッカーになるはずがない(まして小学生は)

自分はまず基本的にその個人の特徴を見つけようとする
次に、上手くできないプレーがあるとその練習方法を考える
必然的にそれらはみんな違うし、違っていいのだ
短い練習時間だからそんな事までできないのも事実だが
教えられたサッカーではなく
自分は自発的なサッカーが楽しい
雨後のタケノコのように、後から後から人が現れるようなサッカー
それは低学年の姿で、高学年には子供っぽいかもしれないが
この方が好きだな
サッカーは相手より点を多くとれば勝てるゲーム、
それとも
相手より失点が少なければ勝てるゲーム

現実的には後者をベースにチームづくりをしているところが多いだろうけれど
皆がFWをしたい素直な感情をいつまで認めてあげる事ができるのだろう

こうしてみると少年サッカーは何を目標に設定すべきなのだろう?
ただ言えるのは自分は勝利至上主義ではない事
自分は結果的にサッカーは楽しいものだと感じてもらいたいし
気づかない自分の個性、能力を発見し伸ばしてあげたいと思う
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庶民感覚と違う、政治家に必要な資質

2007年06月14日 21時01分11秒 | Weblog
最近読んだある小雑誌に「政治家の資質」が記述されていた
まず図太い事(鈍感力?)、上昇志向の強い事(出世主義者)、
強靭な体力を持っている事、そして謀略家の才を有している事
これらは政治家として生きているある人物の実感から出た言葉らしいけれど
なるほどイメージ通り!と思うが、考えてみると
政策立案能力、庶民に対する共感能力など
普通の人が政治家に望む能力は、彼らにはあまり必要ではないらしい
(特に庶民の不満、不公平感、ひがみ、ねたみ、怒りに対する想像力は
 彼らにはリアルなものとして感じられていないような気がしてならない)

政治家は、なりたい欲のある人が周りを引っ掻き回して当選し
庶民的な感覚、体力、スケールの人間は
その才能が不足しているためではなく、
多くの人を引っ掻き回さないために(応援する人に利益を与えそうにないために)
当選しない、なんて事になりそうだ

これは、残念ながらどの国でもそうなのだろうか?
それともこの国だけの事なのだろうか?

政治家が尊敬の対象ではなく、
ずるい奴らの代表みたいなとらえ方をしているところが
多いのを見ると、どの国も似たようなものかな?

それにしても、品も、滲み出る教養もない政治家が多すぎる
情けない!
そんな彼らを選んでいる自分らが悪いのだけれど
それでも、、、何とかならないかなあ。


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メルヘン 目の見えたモグラ

2007年06月13日 20時18分15秒 | 創作したもの
 昨日に引き続いて若い時に作ったものを!
             
  目の見えたモグラ
        
 ある時、ある所で、目の見えるモグラが生まれた。目の見えるモグラは、両親のもとで大切に育てられ、幾年かが過ぎた。
その間、目の見えるモグラは、近所の普通のモグラからは、
「かたわものやーい、かたわものやーい。」
 と、いつもいじめられた。
 そんなある日、目の見えるモグラは、ある決心をして両親にいった。
「お父さん、お母さん、僕は今日『太陽』というものを見に行きます。」
 すると、お母さんのモグラは
「なんてことをおいいだね、この子はそんなものを見たらお前は死んでしまうに決まってるよ。
 いったい、お前は何が不満だというのかね。ともだちがお前の悪口をいうのかい。それなら私が守ってあげるよ。
 だからね、お前、そんなばかな考えは、もうよしておくれ。」
 と、涙を出しながら訴えた。
「お母さん、そんなに心配しないで、僕が居なっくたって弟や妹がいるじゃないか。それにね、僕は何も不満だからこんなことをしたいんじゃないんだ。ここはすごくいい所だよ。お母さんもいて、何もしなくても暮らしていけて、でもね、もし不満があるとすれば、実はそう言うことに対してなんだ。僕の目は見えるけど見えるということを少しも活用していない。ただ、普通に目の見えないモグラと同じ生活をしている。それで、僕は考えたんだ。何故、僕の目が見えるように生まれたのかってね。その結果、目が見えるってことは、何かを見なくっちゃいけないんだって事に気がついたんだ。そこで、僕は、僕に悪口を言ったりする友だちを見たんだ。すると、今まで強そうに見えた彼等は、実はすごく悲しそうに見えたんだ。そして、僕は感じたんだ。彼等も目が見えるようになりたいんだろうって。でも、いったい何が見たいのだろう。土の中のみんなの顔、それとも毎日の食べ物、、、そうやって考えているうちに僕はわかったんだ。『太陽』を見てみたいってね。ほら、あのなんとか言う草が言ってたじゃないか『太陽ってものは、あんた達には鬼のようなものかも知れないけど、そりゃーすばらしいものだ。』って『ある時は、赤く、ある時は黄色く光り輝いてすばらしいって』って
 僕はね、お母さん、どう考えても草に優しい太陽が、僕達に冷たいなんて考えられないんだ。僕達にも、もしかしたら優しんじゃないかって気がするんだ。
 それにね、仮に、又どこかで目の見えるモグラが生まれたら、、彼は又同じように思うんじゃないかって気がしてならないんだ。
 とにかく、何故だか解らないけど、目の見えるモグラは、太陽を見なくっちゃいけないって気がしてならないんだ。
 大丈夫、心配するなよ、お母さん、僕は死にやしないよ。絶対戻ってくるよ。」
 そういって目の見えるモグラは、よく晴れた日の昼頃、地上にもっこりと体を出した
 モグラは自分の真上から、ゆっくりと自分をあたためている優しいものを見上げた。
 目の中に眩しい光が一瞬入った。光が丸い形から四方八方に、公平に拡がっていた。
 するとすぐに、目に痛みを覚えて、モグラの目は見えなくなってしまった。
 モグラは呟いた。
「僕は盲になりに来たんじゃない。僕は今目が見えなくなってしまったけれど確かに見たんだ。あの四方八方に、どこの方向にも、何に対しても公平に光を発している太陽を。僕は目の見えなくなることでみんなと同じになったんじゃない、反対だ。今まで以上に、目が見えるようになったんだ。そして、自分がどうして目が見えるように生まれ、何故、太陽を見なければならなかったかって事もわかったんだ。」
 そしてモグラは、再び土の下の世界に戻って行った。
 それから、目のみえたモグラは、自分の見た太陽について、ほかのモグラたちに述べ始めた。
 どこにも公平で、美しく光を与える太陽の事を。
 やがて、彼が見た太陽は、目の見えないモグラたちの中にも続々と見えるようになった。
 それから、また数年すると、目のみえたモグラは死んだ。 
そのモグラの墓標には、目は見えなかったが、いまでは物事がすっかり見えるようになったほかのモグラたちの手で、「愛を説いたモグラ、ここに眠る。」
と、しっかりとした、モグラの字が刻んであった。
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メルヘン  春の夢

2007年06月12日 22時33分37秒 | 創作したもの
 自分の心がまだ今程疲れてなく、希望に燃えていたころ
 勢いに任せて創った小さな物語
 自分は臆病だったのかもしれない、との自戒の意味を込めて
 今初めて公にするのものです
 読み返すと恥ずかしくなったり、勢いだけの部分もあるけれど
 絶対に戻れない感覚が愛おしかったり、懐かしかったりします
  
    メルヘン            
    春の夢

 青年は久しぶりに山に登ってみた。  
そして、山の中腹から春霞の中にひっそりとたたずむ京の町を見ていた。   
腰をおろした辺りには、淡い赤色をした花がさき乱れ、白や黄色の蝶がまるで笛の旋律のように飛び交っていた。   
ゆらゆらと揺れる京の町は、昼食の用意だろう、煙突から薄青い煙りがたなびき、ずっと向こうの反対側の山からは、白い雲が小さく一つ二つ浮かんでいた。 青年は思わず目を閉じて草の上に横になった。              
 何もかもが久しぶりだった。チク、チクと青年の背中を刺す草も、チ、チ、と鳴く声を発して飛び去る鳥も。    
 いつしか、青年はうたた寝をしていた。   数刻の後、青年は蝶の声を聞いた気がした。                ひら、ひらと飛び交う蝶は「こんにちは、ずいぶん久しぶりですね。でも、こんなに世界は美しいのにあなたは何故そんなに難しい顔をしているのです。」 と、ささやいた。
青年は答えた。「やあ、こんにちは。何故こんな顔をしているかって。それはね、世界が美しいからですよ。美しすぎるからなんです。 私はね、蝶さん、おそらく嫉妬してるんですよ、美しすぎる自然に対してね。ここから見える世界は美しい、あの青い空も、すぐそこの花も、そして、あなた達も美しい。そして私はそれを深く感じているんです。なんて美しいのかってね。でもね、私にできることといったらそれだけではありませんか。歌に歌おうとしても、それはとてもこの美しさを表しきれない、言葉で言おうとすると、それは口から出るなり嘘になってしまう。 蝶さん、私はね、本当は悲しいんです、何故、私が、あなた達のように世界を美しくする自然の一部でないのかってことがね。それで毎年春になると悲しくなるのです。」            それを聞くと蝶たちは悲しそうに飛んでいってしまった。 
すると、次にはウグイスが話し掛けてきた。              
「こんにちは、ずいぶん悲しそうですね。」              
「こんにちはウグイスさん、とってもきれいな声ですね。どうしたらそんなにきれいな声が出るんです。」    
「きれいな声だって、どうもありがとう。でもね、見てごらんなさい、美しいのは声だけではありませんか。私はね、他の鳥のように美しくないでしょう。だから、私はみんなに見られないように物影で歌っているだけなんですよ。それに、私はね、神様はどんなものにも一つはいいものを与えて下さっていて、それが私の場合には、この声だと思っているんです。だから精一杯歌っているだけなんですよ。」
「いえいえ、ウグイスさん、あなたは他の鳥と比べたって美しくないなんてことはありませんよ。だって、あなたの声だって、姿だってあなた自身のものではないですか。」          
「どうもありがとう。でもね、難しいことは解らないけど、あなたはいい人ですね。私が神様にお願いしてあげましょう。早く悲しみが消えるようにね。では、さようなら。」 そう言ってウグイスはとび去ってしまった。             「なんて悲しそうな顔をしているんです。」                
今度は花たちが話し掛けてきた。「さっきから話は聞いていましたよ。そして、私達は、あなたに多くは語ってあげられないけど、一つだけ教えてあげましょう。 それはね、あなたもやっぱり美しいということです。気づいていないかもしれないけど、美しいものを持っているということです。どうか、これからも、ずっと、その美しいものを持ち続けて下さい。何が美しいかって。それは自分で見つけて下さい。 いつか、きっと解ると思いますよ。」         
青年は、急に寒くなって体を起こすと、空はもう暮れかかりカラスが群れをなして夕焼けの中を飛んでいた。    
それから何回となく季節がすぎ、青年も年をとり、老人となった。   
 そんなある日、老人は思い立って山に登ってみた。すべてはあの時と同じだった。花も、鳥も、雲も、そして、人間たちのささやかな営みも。老人はあの時と同じように、草の上に座りぼんやり眺めていた。そして、口の中で何かをつぶやいた。すると、老人の周りには、蝶や鳥が集まってきて、老人の肩にとまりはじめた。 いつしか時が流れてゆき、老人の姿は、幸福そうな石の像の姿になっていた。
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楽ばっかりでは、、、

2007年06月11日 20時51分23秒 | Weblog
毎度の事ながら書店に行くと、本のジャンルの多さに圧倒されてしまうが
それでも最近はつまらなくなってきている
なぜならベストセラー商品とか週刊誌、コミック、ハウツウものが
幅を利かせて、いわゆる変なマニアックな本の陳列が少なくなっているからだ

それにしても、突き詰めていってしまえば
簡単に、、、、できる、という内容のものが多すぎやしないだろうか
簡単に語学を習得できるから始まって、ダイエット、そして金儲けまで
時間がかかる教養分野ですら直ぐさま身に付く、、、と宣伝コピーにはうたっている


人間を半世紀以上生きていた者の身につけた知恵(?)は
実はこのこととは、まるっきり反対の事だ
つまり、世の中に簡単なものなど存在しない
身につけるのに一番確率の高い方法は継続的に努力すること
結局、物事は投資した分しか戻ってこない
というようなことだ
同様に、あまりにも上手い話には必ず裏がある、
と経験は教えてくれる
しかし、そう、やはり、しかしが続く
楽して、、、したい、
この欲望があるからこそ、ある分野の科学が進んだのも事実
人間、実際困ったものだ
だがPOSデータだけで品揃えするような書店ばかりになってしまったら
この国の知性はどうなってしまうのだろうか、と
少しばかり心配になってしまう
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