パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

みんなが好きなのは、脱力系の人々(動物)

2007年08月31日 21時32分27秒 | Weblog
実際に近くにそんな人がいたら、まして親戚にいたら困ってしまうのが
フーテンの寅さん。
釣り馬鹿日誌の浜ちゃんも同じ類いかも!
しかし、みんなが好きなのがこういう人たち。
落語の熊さん、はっつあん、固辞付けばかりの大家さん
あのミスターといわれる人もどちらかといえばこっちの世界の人
パパゲーノも愛すべきキャラクターだし
ドクトルまんぼうも、狐狸庵先生も
ジャッキー・チェンの演ずる役も
みんなみんな、ぬけていて、見ていてホッとする人たちだ

そういえばジャイアント・パンダがあんなに人気者なのは
仕草がいかにもドジだからだ
真面目にやっていてもどこか抜けて失敗ばかり
こんなところが親近感を感じさせるのだろう

こんな風に見ていると、どうやら人間というものは
建前としては高尚な人間性を持った人を尊敬するとしながらも
実際には、欠点だらけの、その分人間らしいキャラクターが好きらしい

例えば非常によく教育された小、中学生がいて
朝、会う人みんながみんな、頭を下げて
「おはようございます」と挨拶されたり
夏休みの宿題を、やはりみんながみんな、きっちりやり終えているとしたら
自分は、そんな世界はなんだか気持ちが悪い
中には、いい加減な奴がいて、ふてくされていたり
親に大声で怒られながら泣き顔で、最終日に宿題をしている人間がいる
そんな世の中の方がずっと住みやすい気がしてならない
(もっとも程度次第だが)

さて話は変わって、今の我が国は、子供達にとって
こんな風なことが大目に許される余裕のある国なのだろうか?
あまりにも理性的な判断だけが優先した
感情の発露を抑えられた、ギスギスした国になっていないだろうか?

最近のサッカークラブに来る子供達は
年々孤独になってきている気がしてならない
おおらかに、欠点も含めて人として認めてあげる様な
世の中になってほしいものだが
難しいかな?
せめて自分らの周りの子供達にはそうやって接する事にしよう!
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虫の声を味わえる昔の人は余裕があった

2007年08月29日 21時42分15秒 | Weblog
一昨日くらいから急に庭の虫の声が大きくなってきている
昼間は暑い日が続いていても、光は真夏のそれから秋の
穏やかな味わいに変っている
そして晩になればすっかり秋の音でいっぱいだ
虫の声は、たくさんいるせいか、それとも拡散して聞こえる(?)せいか
どこにいるのかがわかりにくい
しかし、生き物が身近なところに、ふんだんに存在するというのは
なんとなく落ち着くものだ

生き物はやさしい
それを今は、生き物を生き物として、それだけで価値あるものとしてとらえずに
役に立つか立たないか、金になるかならないかだけの判断基準で
まかり通っている
都会に住んでいると、そんな事を考えたり感じたりする事すら
生活するのに邪魔になってしまうかもしれない(?)
昔は虫の声で哀れを感じたり、風情を楽しむ事ができた世の中だった
いったい、便利になったとはいえ今は昔より
人間は幸せになってきているのだろうか?

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子供たちを泣かせたい大人たち

2007年08月26日 08時04分37秒 | Weblog
「いいなあ、あんな風に子供たちを泣かせてみたいなあ」
サッカーの試合に負けて、悔し涙を流している子供たちを見て
多くのコーチ陣が発する言葉だ

自分たちのチームの子は負けても悔しそうでもなく
淡々と何事もなかったかのように
笑い声さえ聞こえてくることがよくある

勝ちにこだわってチンチンになっていたのは
実は大人であるコーチのほうだったりして
自分たちは悔しいのに、なんで子供たちは悔しくないのだろう
と思ったりするのだ

自分も一度、負けて悔しくて涙を流す
キャプテンを見た経験がある
ゲーム自体は一方的に押していたのだが
何度のチャンスもポストに当たったり
相手のの必死な守りにどうしてもゴールを割れず
たった一回のアンラッキーなシュートが入ってしまって
負けてしまった時のことだ

泣いていたのは一人だけだったが
試合の反省を話している時も涙が止まらない
彼の姿を見ると思わずグッときてしまった

それは悔しいというのとは違う別の感覚で
あんなに頑張ったのにかわいそう
といった同情に近い感情だった

つまりは大人たち、はかわいそうな映画を
見て涙を流したいのと同様に
子供たちの涙から、もらい涙をもらいたいのかもしれない

それにしても、必ずと言っていいほど
悔しい態度をあらわすのは(泣かないまでも)
練習、ゲームに必死な子供だ
その意味では大人たちは、
子供たちに必死に取り組んでもらいたい
と思っているのも事実だ

それにしても
負けず嫌いの小学1年生くらいの子が
負けても平然といられる6年になるのは
なんだか不思議だ
それは成長?妥協?諦め?
我々はどんな子供たちを育てていけばいいのかな?

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足し算が出来ない子供たち

2007年08月25日 06時04分49秒 | Weblog
足し算が出来ないと言っても算数の問題じゃなくて
サッカーの練習のこと

先週までの成果を踏まえて、さて今週はと気張っても
残念なことにすっかり忘れられている
だから復習ではないが、元の状態(前回終了時)になるまで
結構時間を費やしてしまう、というか
前回と同じことの繰り返しをしなければならない

全く個人の成長と言うのはのんびりしたものだ
それこそ傾きが45度の一次関数のグラフみたいにはいかず
まるで踊り場が長ーい階段のように成長する
少しだけ上手くなったかなと思うと
長いスランプ、停滞期間が続いて
ある時ポッとはじけて上手くなって
また停滞期間が続く
こんなことの繰り返しだ

それでも年の初めの状態から比較すると
多分子供たちでもびっくりするくらい進歩している
つくづく継続して練習することは大事だなと
思うことしきりだ

こうした経験からすると
音楽家(演奏家)が毎日指の訓練などをするのは
分かる気がする
彼らも技術は単純な足し算になっていないのだろう
ほとんど状態を維持するためのものだったりしているのかもしれない
仮に技術の進歩なっていたとしても、
それはほんの少しの歩みに過ぎないだろう


時間をかけて身に付けたもの
近頃は年齢のせいもあって
こうしたものがひどく貴重なものに思えてならない
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促成栽培の国

2007年08月24日 06時45分18秒 | Weblog
サッカーの試合
先日の日本代表戦もオリンピック代表戦も
それから高校、中学、小学生まで
負け試合等で、いつも気づく事は「基本技術」の差
ボールを止める、蹴る
これだけの事だが、どこに止め、どの強さで、どのタイミングで
ぶれずにパスできるか
それもプレスのかかった状態でも正確に

それには普段の練習あるのみだろうが
難しいのは、この基本的な事を練習し続けることは
少しばかり退屈になってしまいそうな事

手っ取り早く勝つための方法論としては
チーム戦術等のほうがエレガントで賢そうに思え
実際に低学年から下手をすればU17くらいまで
戦術の熟成したチームの方が勝ち進んでいるし
日本人はその方が好きそうだ

しかし、伸びしろが、、、
厳しい試合になると戦術以前の基本技術の差が
一人一人の累計になって大きな違いになってくる

この国は全てが促成栽培されている様な気がしてならない
読み書き算盤の確実な習得の前に
選別のための変なテストを勝ち抜ける技術を手に入れる

サッカーでも時間がかかり実は一番大切な基本技術をおろそかにして
勝つための方法論を強制する


確かに基本技術の練習は退屈になりそうなので
小学生、中学生レベルではコーチ陣の練習方法
声の掛け方、子供達の意識づけが大事になってくるだろう
もしかすると飽きてしまうのは練習する人たちではなくて
コーチ陣の可能性もある
だから信念を持って、退屈しない様な練習メニューを考えて
時間をかけて育てるしかないのかもしれない

それは何もサッカーに限らず全てに言えるかもしれない
答えを直ぐさま欲しがる最近の世の中の傾向は
教養を始めとする人格生成の前に
何が得で何が損かを教えてしまい
それだけに反応する人間に知らず知らずなってしまう

大相撲の稽古に何年先の稽古があるらしいが
本当は全ての分野に、何年先を見越した稽古、練習、勉強が
あってしかるべきだろう
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キャプテンになりたがる子供達

2007年08月23日 06時24分32秒 | Weblog
子供達の不思議な生態(?)に
やたらとキャプテンになりたがる事がある
(ここで子供と言うのはサッカーを楽しんでいる1.2年生の事だが)
キャプテンと言っても練習メニューを一番最初に行う役割だったり
試合をする時にじゃんけんをするだけのことなのだが
子供達は
「今日のキャプテン誰?」
「僕やりたい」
「僕も!」
「僕も!」
こんな会話が練習開始早々に飛び交う
こんなときは少しサボり気味のタイプの子を抜擢して
真面目にやらせるのがいいのだが
残念な事に飽きっぽい子供達は緊張が続かず
「今日はキャプテンだろう、頑張れ!」と
叱咤する事がしばしばだ
それにしても、こんな風におおらかに
何々したい!と言えるのは、いつ頃までなのだろうか?
かわいい時期は、思い切りその屈託のないかわいい時期を
味あわせてあげたいものだ
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正直な子供たち

2007年08月22日 06時40分36秒 | Weblog
「違うよ、僕が最後に触ったから向こうのボール」
こんな会話が小さな学年のサッカーのゲームでは見られる
こんな時
「大好きだなあ!そんな君たちは正直でエライ!」
と言うことにしている
同じように「僕ハンドしちゃった」とプレーをストップ
してしまう子も多く見かける
本当にこの頃の子は正直だ
ところがいつの間にか自分がコートにボールを出しても
マイボールとアピールするようになってくる
少しばかり残念だが
自分はそれを悪いとは思わない
なんでもありーで勝負に勝つ
というのもゲームの中では許されるだろう
まして間違いを起こす人間が審判をしているのだから
もっとも、意図的に審判をだまそうとするのは許されない

子供たちを見ていると本来の性格はみんな正直で
いいこと、悪いことを直感的に知っていて
自分が悪いことをした時は自覚していて
しかられても仕方ないと思っているのではないかと
思えてならない

そんな子供たちと遊んでもらえる週1回のサッカータイムは、
正直でない(?)大人の世界で少しばかりうんざりしている
自分らには貴重な時間となっている
(それにしても、夏の昼中のサッカーは考えものだが)
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紛らわしい笛の音

2007年08月21日 06時26分00秒 | Weblog
先日の少年サッカー大会での困ったこと
それはとんでもない暑さの他に
審判の笛の音がある
少年サッカーはコートが隣同士で
同時にゲームを行うのだが
そこでの審判の笛が非常に紛らわしい
その笛がこちらのものなのか
隣のものなのか
時々子供たちはプレーをストップしてしまい
「違う違う!それは隣の笛」と
ベンチのコーチ陣が大声で指示する始末
審判の笛、事前に出来ることならば
高さの違うものを準備し
確認しなければいけない
(またその時まで忘れてしまっているが)
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911.倒壊したビルは3棟

2007年08月19日 10時17分07秒 | Weblog
今でも、どうしても気になって仕方ない事がある
そこで知り合いの数人に聞いてみた
「911のテロで倒壊したビルは幾つ?」
すると正確に、3棟と答えた人はいなかった
飛行機が突入したのが2つだから、2棟
これが大半の人の答え
実は第7ビルという47階建ての、直接攻撃も受けなかったビルも倒壊している
その事実を伝えると、多くの人は
「なんで?」と普通に疑問を持つ
そう、なんで?が一番自然な考えなのだ
しかし、倒壊の理由はハッキリしない
ツインタワーの周りの火災の影響で倒壊したとの
一応の説明になっているらしいが
ならばもっと近くのビルは何故倒壊しなかったのか

しかし、今一番問題なのは、人々の記憶の中には
ビルが倒壊したのは飛行機によるテロのせい
と刷り込まれているように思える事だ
第7ビルの倒壊が胡散臭くても、
それ以上の追求はもはや関心の外にあり
今更あの事件の検証をしないで、単純にアルカイダの無差別テロと
認識して、今のところ歴史上の解釈もそうなりつつある

怖いな、本当にそうなのだろうか

倒壊原因をテレビに出て説明した人は、
今も自信を持って同じ説明ができるのだろうか?

なにも自作自演の陰謀説があったと言うのではない
ただ、どう考えても不自然に思える事が存在していると言う事だ

そういえば、湾岸戦争時の油まみれの水鳥
それはイラク軍が油田に放火し油が流出したと報道されたが
実は全然別のところで撮られた映像を流したものだったが
これも2.3人の人に
「あれはイラクの仕業ではなかった、むりやりこじつけで
 使った映像だった」と言うと
その事を、既に知っていたのは半分以下
大半はイラク軍の仕業だと記憶しているのだ

残念ながら印象というものは最初に受けたものが大きくて
それが正確かどうかは関係なく人々の心に入ってしまう

だから誰かが意図的に間違った事でも
さも本当風に人々に印象を与えさえすれば
もうそれで人々の感情をコントロールできてしまう
まして、マスメディアが流すものだとしたら、、、

いったい真実は報道されているのだろうか?
真実なんてそもそも存在しない
立場ごとにそれぞれの事実があるだけだ、
と思うような人が多いならいい
しかし、マスメディアから流れる報道を疑いもなく
信じてしまうような人のほうが実際には多くいることは
慎重に対処していかないと
またもや誤った方向に進んでいく様な事にならないか心配だ
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木陰は涼しかった

2007年08月18日 06時52分03秒 | Weblog
ここ数日間は気が狂ったように暑かったが
その中で行われた子供のサッカー大会
「サッカーは冬の季語だよ」
と夏の大会に閉口する子供も出てきたが
それよりも大変だったのが
子供の応援、いろんな手伝いに来てくれた親御さん
彼らの待機場所が、、、
いちおうテントを張って日陰を作ったのだが
グランドの照り返し、屋根を通してくる日差し
涼むどころか汗は引かずにじわじわ滲んでくる

ところがさすが地元ホームの連中
彼らは避難場所をちゃんと知っていた
グランドからは少し外れているが木陰がその場所

試しに我々もそこに入ってみるとその涼しいこと涼しいこと
早速テントはほったらかしにしてみんなで木陰に移動

木陰はヒヤーとして、水分の多い空気に包まれて
なにか生き物に守られているような感じ

そこでつい考えてしまった
我々はエアコンなど文明の利器を使って涼んでいるが
もっと自然と共生というか、自然の恩恵を上手に使う
生活をしたほうがいいのではないかと
勿論物理的に不可能なことも多いだろうが
これからの科学的な生活とは
電気製品に囲まれた生活ではなく
むしろやさしい自然に包まれた生活なのではないだろうか

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