パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

嘘について

2016年11月29日 08時27分28秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

以前「政府は必ず嘘をつく」という本を読んだ
例のごとく内容はすっかり忘れてしまっているが
タイトルが面白くて、それだけは頭に残っている

最近体験したこと
それはこの「嘘」に関すること
日常生活では人は円滑な人間関係を保つために「嘘」を言うことがある
あまり気に入らないプレゼントを貰っても嬉しそうに「素敵!」と言ってみたり
好みでない手料理に「美味しい」と言ってみたり
怪我をしてしんどい状況でも「大丈夫!」と答えるスポーツ選手などは
微笑ましいというかかわいい類

このような場合は「嘘」とわかっていても、
受け取る側も相手の気遣いを感じて悪い気はしない

嘘が簡単にバレるケースは浮気のようだ
女性の鋭い勘であっという間に男はしどろもどろになる
という話を良く聞く
一方、男は鈍感で最後まで女性の秘密に気づかないらしい
(これらは聞いた話で真偽は分からないが通説) 

簡単にわかる嘘 
自分の実体験に照らしあわせて想像しやすい話は
嘘かどうかは直感的にわかる

しかし、嘘かどうかわからないことが 全くわからないことがある
それは政府とか行政の発信する内容
それらの前置きは非常に長くて、概念の説明や法的な根拠などを
クドクドと並べるので、それだけで一般人は面倒になって
その人達の話を受け入れてしまう
なにしろ、それは違う、嘘だと言うまでの知識が受け取る側にないから
全面的に信用するしかない
つまりわからないことは、その人が嘘を言っていないことを前提として
聞かざるをえない

前置きが長くなったが、新城市の住民監査請求の結果が先日報告された
結果の細かな内容は別の機会に取り上げることがあるかもしれないが
ここでは報告を見て(聞いて)感じた「嘘」に繋がりそうな話を

報告書には、監査請求にあったような行政からの指示、介入による
書類の変更等の行為はなかったとしている
その根拠に当事者に直接話を聞いたが、その人たちは声を揃えて
否定しているとしている
しかし、この人達は「嘘」を言っていないという根拠が何処にあるのだろう
裁判のように宣誓をして嘘は言わない(言ったりすると偽証罪になる)
ことを担保しているわけではない 
そんな調査だから、誰もが想像するように都合の悪いことは
口裏を合わせて自分たちに都合の良い話をする
結果報告書は、この人達の言い分を100%信じて書き上がられている

システム上、嘘を言っているかどうかまで
調べられるようになっていないかもしれないが
あまりにも性善説とか現実と離れたところでシステムが動いて
いるような気がしないでもない
もっとも大半の場合は性善説を前提にした運営が行われるのだろうが
今回のようなデリケートな問題についてはこれらのシステムの限界を感じる

ところで、「嘘」を言っているのではないか
と判断するのは単に意地悪なひねくれた考えで想像したり、妄想したりしているのではない
実は行政が指示・介入をしたという話をあるところから手に入れたからだ
(その話が本当か、、、ということになりそうだが)

この話は結局、行くところまで行くことになるが
かわいそうなのは家族の生計を支えている社会人としての職員が
ある意向のもとに「嘘」をつかなければならない状況にあることだ
そんなことはよくある事、かもしれない
しかし、出来ることならそんな余計なことを職員にさせないで
もっと充実感とやりがいを持って仕事に当たってもらえるような環境づくりが
誰かさんのお仕事のはずだが、、 


 

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音楽の聴き方(ながらと集中)

2016年11月28日 09時22分16秒 | 徒然なるままに

同じ音楽を聴いていても、何かをしながら聴いている時と
気合を入れて聴こうとする時と音楽の印象は違う
それは特にクラシック音楽に限らず、ジャズでもポップスでも
つまりあらゆるジャンルの音楽にも言えそうだ 

例えばモーツァルトの音楽、
何かをしながらでも作業の邪魔をしない
特に音楽の方から聴くことを強要するようなことはなく
軽やかで耳障りが良い
ところが、人たび気合を入れて聴くことにすると
耳に入ってくる情報量が随分違ってくる
平凡な普通の進行に思われるお気楽な音楽が急に
思わぬ細かな変化が織り込まれていて
特に知らない曲などを先を予想しながら聴くと
その予想は外れて、本当にいろんな変化があることに気づく

モーツァルトの音楽は会話のようだ
論理的な会話というより、そこにある気分をサラッと表現して
いったん音としてでたものは直ぐに過去のものとなる
その時間は一度しか存在しない
それは普段の人間のくだらない日常の話が、その時一度しかないかのようだ 

モーツァルトの好きな人は多分、聴くときにこの感覚とか
楽器同士の会話を楽しむコツをもっているのだと勝手に思い込んでいる

気合を入れて聴くのが面白いのはクラシックだけではなくて
ジャズでも言える
自分たちが学生時代のジャズ喫茶は煙草の煙がもうもうとして
難しい顔をしてジャズを聞くみたいなのがイメージとしてあるが
そのように音に真正面から気合を入れて聴くと
それなりの良いことがある
多少の慣れが必要だが、気合を入れて聴いたときには奏者の
ニュアンスにかける思いとか音(流れ)の必然性を感じたりする

いやいや、ポップスだって同じこと
自分の歌とするまで、素人なら飽きてしまうほど歌い込んだ人の表現は
思いの外ニュアンスに富んでいることに気づく

ということで音楽は聴き流すのではなくて
気合を入れて聴くとそれなりの楽しみ方ができる

この気合を入れて聴くことを半ば強制するのがクラシックコンサート
息を詰めて聴かなくてはいけないとか、楽章間で拍手をしてはいけないとか
なにやら堅苦しい約束事が鬱陶しいが、それは一度でも気合を入れて聴いて
ある感動を得た者にとっては必然の行為となっている

集中して聴く、気合を入れて聴く
ただそれだけで得られるものは確かにある
聴き流しているだけでは分からない何か特別な世界がある

それを体験したい人は楽章間の拍手で自分の集中が途切れるのを嫌がる
マーラーがそれまで行われていた楽章間の拍手をやめるようにしたらしいが
この気持はよく分かる

車を運転しながら聞くのもいいが
気合を入れて音楽を聴いて楽しむというのは読書と同じで
自らの想像力を駆使することになって、それが楽しい

もっともいつもいつも気合を入れて聴く気分になれるわけではない
だから調子が良くて今日は集中して聞け聴けそうだと感じるような日は
とても大事
音楽を聴いたというのはこのような日のことで
これが多いほうが幸せな時間が多いということ
(あと何十回、何百回経験できるかな?) 





 

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報告書は誰が書くのか?

2016年11月26日 18時18分43秒 | 庁舎用地外移転補償騒動

今朝の中日新聞、東三河版に新城市の記事が2つ載っていた
どちらも明るい話題というよりは少しばかり恥ずかしい話題だ
今年のはじめ春香クリスティーンがテレビの取材で新城に来て
「新城は今ピンチなのですか?」と市長に質問したことがあったが
考えようによっては今は「ピンチです」と答えるべきかもしれない 

その記事とは(東三河に住んでいない人にはわかりにくいが
時々ここでも取り上げているのでそれとなく覚えている人も
いるかもしれないが)政治倫理審査会と住民監査請求の結果報告の記事だ 

政治倫理審査会は打桐議員が議員に当選してから
市の発注する水道工事が急激に増えて、市議本人も経営に参画している事を認めているので
新城市の議会倫理条例に違反しているのではないかということで
開かれることになった経緯がある
ところが、これが不思議な事にやたらと時間がかかっている
(話題とされたときから9ヶ月も経過している)
その結論の出ない間にも何故か市は指名入札を繰り返し打桐議員は
参加し3件落札している

とにかくあまりにも時間のかかりすぎる政治倫理審査会も一応の結果が出たということで
わざわざマスコミを呼んで記者会見をしした
それが記事として扱われた

もう一つは庁舎建設用地以外の物件移転補償に公金を不当支出したとして
補償金の返還を統括責任者である市長に求めた住民監査請求の話題で
監査請求を提出してから60日以内に返事が出ることになっており
期限の少し前の25日に結論が請求者に手渡された旨が記事になっている

今日のここでは、それぞれの内容については言いたいことはあるが
それは取り上げず、別の気になったことについて
それは、政治倫理審査会の報告書も住民監査請求の報告書も
一体誰が書いたのだろうか?ということ
政治倫理審査会は市議の6名がメンバーとなっており、
その中の誰かが書いた?
また住民監査請求も新城市の監査委員は二人いてその2人が書き起こした?
普通ならそう考えるかもしれないが、これが単純にそうだろうと思えないところがある

これらの報告書の記述は法律的にもとても専門的な分野に及んでおり
普通の生活(議会活動や社会生活)をしていただけではとても書けないだろう
と想像される(専門職でないと書けそうにない気がする)
そして議会での質問等を傍聴する範囲内では(議員さんには申し訳ないが)
議員さんではこんな文章は書けないと思えてならない
多分、この文章を書く役割の人がいる
必ずしもメンバーが書かなくてはいけないとか、最終的な責任はメンバーがとる
ということで役割としての人物が存在しても問題はないかもしれない
しかし、その人はそれぞれのメンバーの方の話をまとめるだけの役割なら良いが
メンバーの知識等が頼りない場合は、結果的に実際に文章を書く人に
すべてお任せということにならないか
そしてその文章を書き起こす人にメンバー以外の人の気持が反映されるようなことはないか、、、
それが正しいか正しくないかは、、メンバーも判断しようがなくて、、、
みたいなことは起きていないか  少し心配になった

とにかく、あの手の文章は普通の人では書けない
慣れと知識とテクニックが必要  と感じる
その実務を受け持っている人は誰の意図を受けて書いているか?
少しばかり(ものすごく?)へそ曲がりな自分は
不安を覚えながら考えてしまう 




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心象風景

2016年11月24日 09時48分18秒 | 音楽

先日のMETライブビューイング「トリスタンとイゾルデ」を観て以来
バーンスタイン・カラヤンのレコードを引っ張り出して復習している
(一番大事なフルトヴェングラーのはもったいなくて、また聴き直して
感動が薄まるのが怖くて聴けないでいる)

映画を見た直後にも文句をタラタラと書いたが
やっぱり具体的すぎる舞台や演出は今の自分は好きじゃない
そこでYoutubeをゴソゴソ探してたらこんなのが見つかった

三幕の動画だ
舞台は当たり前のように暗い シンボリックな木があるだけ
しかしその風景は音楽が人の心の中に作り出す心象風景のようだ
音楽(テキストではなく)のその表現するものはMETのものよりは
圧倒的にこちらのほうが無理がない
(ただ自分がこちらの方が好きだけなのかもしれないが)

1976年のシェローの指環以来、読み替えの演出が世間を席巻しているようだが
テキストの読み替えではなく、音楽の表現する何かを想像力をもって
視覚化する演出がもっとメインにならないかな
と思ったりする

1976年 バイロイトで指環のチケットを手にしたが
シェローではなくヴィーラントの演出のを見たかったので 
トリスタンとパルジファルと交換してしまったが
あの伝説的な演出を見逃したことを残念に思うかと言えば
そんなことはない

音楽が描き出す心象風景のような音楽
トリスタンの3幕では孤独とか断絶とかトリスタンの脳内で起きている事件
みたいな風景 そうしたものを才能のある音楽好きな演出家が
やってくれないかな

この動画の最後の部分「愛の死」もMETのそれより好きだな
 


 

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住民投票の投票率(高浜市と新城市)

2016年11月22日 09時03分17秒 | あれこれ考えること

少しばかり気にしていた高浜市の住民投票は先日の日曜日に行われ
(案件は中央公民館の取り壊しに関する内容)
投票率が36.66%で規定の数字に達せず不成立となったようだ 

住民投票をするための署名が13000ほど集まったというが
結果的にその署名数からの上乗せがなかった
とりあえず署名したが、わざわざ投票にまで出かける気がない人が
多かったのかもしれない

アメリカの大統領選ではないが現場の雰囲気・空気を知らないので
何とも言えないが、それでもこのような結果になる(低投票率)のは
なんとなく想像がつく

この2年で愛知県は3つの住民投票が行われた
それぞれの投票率を比較すると
新城市(投票率56.23%)
小牧市(投票率50.38%)
高浜市(投票率36.66%)

自慢して良いのかどうかわからないが、新城市の投票率が高い
これは直前に行われた大阪市の住民投票が影響したのと
ここで何度も繰り返すわかりにくい選択肢のせいでマスコミが
面白おかしく報道したのが大きかったのかもしれない
(本当にひどい選択肢だった)

何にせよ新城市の投票率が高かったのは事実だ
しかしこれでもって新城市の市民が幸せかどうかは別問題
二元代表制とか間接民主主義性の存在意義を脅かす直接民主主義の
雰囲気に弱いシステムの功罪を、一部の識者からは指摘されるだけでなく

問題は、住民投票を実施して高い投票率を示したのは
新城市民の市民力が高いというのではなく
ある意味追い詰められていたのではないかということ

現実に生活をする人は日々の暮らしで考えること・悩むことで汲々としており
大事な問題とは思いつつも、それらにかける時間も気分的な余裕がない
また話の内容によってはごく専門的な知識と判断を要するようなことは
今更それらを手にするのは面倒で、誰か専門的な人にやってもらいたい
と考えるのはごく自然なことだ

誰か信頼できる人にお任せして立派な判断を仰ぎたい
正しい正しくないは誰もわからない、適切であったかどうかは
時間だけが決めうる 多少の間違いは人の行うこと大目に見る必要がある  
とりあえず自分たちは目前の生活を平穏に過ごしていきたい

自分は元々横着な人間だったからこの様な横着な人の気持がよく分かる
その一般的な生活者としての市民が勢いに乗ったとは言え
それなりの投票率を実現したのは、「誰か信頼できる人にお任せして」
の部分に納得できない人が多かったからではないのか

自分たちの普通に感じる感覚と違う判断を、何故か行われていく
その違和感がなんとなくそこに漂う空気としてあったのではないか

こんなときはどうするか?

話は飛んで、
むかし、自分が子供の頃は鍵をかけてる家なんて多くなかった
友達を遊びに呼びに行っても(子どもだから平気で)扉を開けて
入っていった
ところが今は時代が全然違う
防犯のため施錠は当たり前となっている、しかも2重に行うことが推奨されている
自分の家は自分で守るのが当たり前となっている

これと同じで、自分のことは自分でしっかりしなければならない状態に
自分たちの住んでいるところはなっているということ
ただしこの感じ方はある人は危険水域と思うが
ある人は依然として危険を感じていないし心配する必要は
ないと思っているかもしれない

だが空気や雰囲気としては、少しづつ自分達のことは自分たちで
考えて決めて実行していかねば!
と考える傾向が強くなってきなのかもしれない

この本来ならば横着したいが、自分のことは自分でしなくてはならない
(面倒な問題まで首を突っ込まなければならない)
状況は新城市だけでなく、日本全国で見られるのかもしれない

その状況に拍車をかけるのが
地方議員の政務活動費の不正な使用のニュースとか
追認機関となっている議会の役割
そして現実には声が届いていないとされても仕方のないような各種判断
まともなステップを踏んでいるように見えながら市民間には伝わらない情報
などの現状

どこでも一緒なんだ
ニュースを見る度に新城だけが特別ではなくて、日本全国で同じような事が起きている
とつくづく感じる
でも全国と同じだからといって放っていくわけには行かないのが
現実にそこで暮らしている人たちの思い

やっぱり気づいた人が、なるべく独善的な考えに陥らず、
無理なく感情的にストンと落ちるような判断や行動を行う
ということが、家に施錠する事になりそうだ

ところで、住民投票は間接民主主義を補完するシステムで乱発すべきではない
と言われるが、現実的にそれを行おうとすると
乱発できるような簡単なものではない(署名や議決や、その後の投票率など)
だからこそ、住民投票が行われる事態になったことが自体が大変なことで
なってしまったときには何故そのような事態になったのか
深く検証しなければならないはず
ところが、新城市は、、、、

と、ここまでダラダラと来たが
何かよくまとまらなかった(いつものことか、、、)

 

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ヘイ・ジュード

2016年11月20日 19時00分12秒 | 音楽

プロの音楽家(ベースシスト)になった友達が故郷に帰ってきて
ライブ演奏会&生オケで歌うイベントを行った

昼のイベントで明るいうちはなかなか盛り上げるのが難しい
どんなコンサートもそうだが後半が盛り上がる
そして今日のそれも例外ではなかった

最初はバンドの紹介みたいなもので割りと派手っぽい曲
エンジンがかかってきて真ん中の時間帯は生オケで歌おうという試み
生オケはカラオケと比較すると全体的に熱っぽい感じ
歌う人がバンドの音を聞ける余裕があると
もう少し良かったかもしれないが 
歌ってる人が気持ちよさそうだったから、これはこれで良いのかもしれない

生オケが終わって最後にスタンダード・ナンバーをやった
サックス・キーボード・ベース(友達)・ドラムスのセットで
4人だけとは思えない迫力
グレン・ミラーの曲から、月の砂漠、童謡と繋いで
「コーヒールンバ」の辺りから気分は絶好調、曲を知ってるだけに「枯れ葉」も大いに盛り上がる
それから美しい音楽を演奏した
今までの曲とは一味違う純度の曲だ
知っている曲だ
でも一瞬、何だったかなと思ってしまった
少ししてそれが「ヘイ・ジュード」と気づいた 
何故か、本当に美しい音楽だと感じた
知っているからか、大好きなポールの曲だからか 、、
でもこの曲はずっと未来にも残る曲だと実感した

最初のキャッチーなメロディー
中間のブルーノートの部分
そしてライブでやると絶対楽しくなるあのコーラスの繰り返しの部分
今日も声を上げた、そして楽しかった
2013年 ポールの東京ドームの「ヘイ・ジュード」を思い出した 
やはりビートルズはちょっと違うと感じる

でもプロはすごいな
近くで聴くとその実力がまざまざと感じることができる
今日は良い一日だった 

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引き算(やりたいこと、読みたい本)

2016年11月19日 10時06分40秒 | あれこれ考えること

名古屋に行く機会があって、用件を終えたあとアップルストアではなく
MARUZENに立ち寄った

書店を覗くのは大好きだ
書店に行くとトイレに行きたくなる
という人がいるらしいが、幸い自分はそんなことはない

簡単に一時間位は時間つぶしができる(はずだった)
書店でいつも感じることは、なんとまあ人はいろんな事を
考えるものだということ
実際 、ジャンルの多さに呆れてしまう

ぐるぐる回って面白そうなものを探すが
月半ばにして財布が厳しくなってきたので購入は慎重に選ばねば
とブレーキをかける

科学の本 「重力波とは何か」とか「ひも理論」を紹介した本は面白そう
しかし前提となる知識とか、抽象的な思考にはついていけないかもしれない
と諦める

生物学の本も面白そう
ドーキンス関連も読まねばと思うが、本の厚さに今は気力に自信がない

歴史の本
古代史も面白そうで覗いたが
しかしどれも厚くて専門家が見ると面白そうな類
これも今はパス

もっと読みやすい本をと
音楽関係の本へ
モーツァルトやヴァーグナー関連は触手が動くが
本屋にいる割には購入のテンションは上がらずこれもパス
「フルトヴェングラーとトーマス・マン」があれば買ったかも

普通の小説の棚にやっといく
でも最近の本には興味が持てず、へんてこな詩歌の棚に
「藤原定家」の歌を集めた1000円ちょっとの本があった
京都が大好きな身とすれば、御所の北、冷泉家の元祖みたいな人物で
百人一首の選者ともなれば、今日はこれでいいか!
と思ったが、その本の左に「和泉式部」があった
パラパラと拾い読みしたがこれがなかなか良い
女性の方が感情の発露がストレートでわかりやすい気がする
しかし、昨日は妙に慎重でこれらもパス

そのあと面倒くさい、ああでもないこうでもないと抽象的な思考を
本分とする哲学・思想のコーナーへ
最近読んだ「善と悪の経済学」の中でアリストテレスやトマス・アクィナスが
紹介されていたので、手にとって見たが、これらも厚い
最後まで読みきれる自信はないのでそっと元に戻す

でもそのあとベルクソン、ハンナ・アーレント、メルロ・ポンティに
興味が移ったが、どうも昨日は気力がなくて
最終的に購入したのはNHKの語学テキストだけということになった

書店にはあらゆる分野の本がある
それらを眺めるのは楽しい
若いうちは消化不良でも何にでも飛びついて
記憶に残ろうが残らまいが関係なくそれらに挑むことができた
しかし徐々に本を読む(選ぶ)にも限定していかねば時間が
足りなくなる身となった今は、
自分のやりたいことの引き算をしなければならない
本も音楽もむかしのように雑食系ではなくて
ある程度絞った形にしないと時間が足りなくなる

音楽はモーツアルト・ベートーヴェン・ブルックナーがメイン
本はヘッセを中心に、、、
と思ったが、ネットサーフィンの様にあれこれ彷徨ってしまうかもしれない
でも基本的には「引き算」が必要なときになっているのは間違いない 

あと思いの外、目がしょぼくなっているので本が楽しいと
思える時間は想像以上に短いかもしれない
これからは慎重に選ばねば、、 

 

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METライブビューイング「トリスタンとイゾルデ」

2016年11月16日 08時46分14秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

今年は自分にとってヴァーグナーの年だった
9月に名古屋の芸術劇場で演奏会形式で「ラインの黄金」
10月には新国立劇場で飯守泰次郎さんの「ワルキューレ」
そして昨日(11月15日)はMetライブビューイングで「トリスタンとイゾルデ」
 

映画で楽劇(オペラ)を見るのは初めてだ
偶然この出し物を知ったが、オペラなら何で見に行く
ということはなくて、興味があったものだけ行くことにしている
METライブビューイングは10作品あるようだが、興味をそそられるのは
「ドン・ジョバンニ」くらい?
(行けば行ったで「椿姫」も「薔薇の騎士」も良いかもしれないが、、)

音楽会へ行くときの選択の基準はまずはプログラム
田舎から都会に出かけるのはチケット代だけでなく交通費も加算されるので
慎重に考えなくてはならない
その意味では、昨日見た「トリスタンとイゾルデ」は
プログラム、指揮者がサイモン・ラトルということで無条件に飛びついてしまった

「トリスタンとイゾルデ」では自分にとって記念すべき作品で
人生で一番最初にみたオペラ(楽劇)がこれ
しかも、バイロイトで、それも日にちを変えて2回も
偶然とは言えバイロイトで本物を見られたのは、今にして思うと本当にラッキーなことだった

この思い出の作品だから日本でも、東京のNHKホール、名古屋の金山文化会館にも足を運んだ
(しかし、随分前の話で最近は行っていない)
映画形式での楽劇鑑賞 実演ほど価格はかからず、大きく見えるのでそれはそれなりに
興味深い、しかも今回はラトルの指揮だし、、

ということで、これを知ったときから楽しみにしていた
新鮮な気分を保つために「予習」はしないようにした
その場で音楽と向かい合うには妙な予想をするよりは
流れに身を任せたほうが(自分の場合は)良い

本当は昨日ではなく交通費の安い土曜日、つまり映画初日で予定していた
しかしJRにハプニングが起きて最初から見られないことになった
そこで、劇場の方にお願いして昨日の火曜日に日にちを変えていただいたた
(これは本当に助かった、チケット代が無駄になるのが避けられた)

前置きが長くなったが、映画が始まった
有名な前奏曲が奏される ラトルの音楽はどんなか気になる
だが映像があると耳よりも目の情報の方が多いようで
関心は画面に向かう
変な円のようなものが写った
時計の針のようなものがゆっくりと回る
それが何回も  そうか、これはレーダーなのか
と想像した(違っているかもしれないが)
第一幕は船でイゾルデをマルケ王のところまで連れて行くことになっているが
その船を暗示させるものかと気づいたら、その円の中に船が荒海の中を
進んでいく姿が映された
しかし、これは自分には気に入らなかった
トリスタンの一幕を知っている立場からすると、この様な具体的な見せ方は必要ない
むしろ映すんなら甲板から固定した視点で船が海の中を進んでいくほうが
良いような気がする そのほうが冒頭の水夫の音楽に繋がる

ということで、視覚的には今回は期待できないかもと思い
目を閉じて前奏曲を聴くことにした
一幕が始まる  偏見なしに見ようとしたがどうしてもある演出と比較してしまった
ある演出とは 40年も前に見たバイロイトのそれだ
バイロイトの舞台は一幕は船の帆を連想させるものが存在感たっぷりにあった
そしてイゾルデが「空気を、、」というところは 幕だったかドアだったか
を開いて 話の内容と素直に舞台が一致してた
服装も昔のお姫様や貴族のようなもので(これは怪しいかもしれないが)
今回の現代的な服とは違う
今回は(最近は)船も具体的で舞台左手に階段があって、3階建ての大きな船のようだ
しかし、どうも自分はこうした具体的すぎるのは気に入らない
バイロイトの帆があって、さあこれが船です、船の構造や部屋の雰囲気は
各自自分で想像してください、、みたいな方が好き

オペラ(楽劇)は主人公が悲劇のヒーロー・ヒロインであっても
舞台の上で活躍するのは歌手、声を維持するのに大柄な(つまり肥った)人物が
演技する  確かに声はすごい 声もいい  しかし肥った人の演ずる話の中に
集中できるかといえば、そうなるには少しの時間経過が必要
いったん慣れてしまえば気にならなくなるが
その意味でイゾルデ役のニーナ・ステンメさんがめちゃ豊満な体格ということでなくて
少し助かった トリスタン役のスチュワート・スケルトンさんはたっぷりしていたが
これは西洋人にはある体格で 許せる範囲、、

ブランゲーネ役のエカテリーナ・グヴァノヴァさんは「小林幸子」を連想してしまった
何故かは分からないが 

一幕は話の発端となる(発端はもっと前にあるが一応)
イゾルデのイライラした気持ち(恋する気持ちをコントロールできない)は
分からないでもないが、またケチをつける訳ではないがイゾルデは舞台の左右に動きすぎる 
頻繁に動き回って、あれだと気の強いワガママな女性みたいな人物設定で
自分の好みとしてはもう少し動きの少ない、気は強いが内に秘めていた思いに
今まで堪えてきたが、とうとう耐えられなくなった人物という設定のほうがいい
これは自分が日本人だからか、、西洋人の考える女性というのはあんなように
自己主張の強いのが当たり前なのか

一幕の印象的な音楽は船が岸に近づく前に奏される
緊張感に富んだ音楽、そして媚薬を飲んだ後に
バイオリンとハープで静かに奏されるあの有名な旋律
この効果は抜群で、一回聴いただけでこのシーンはいつまでも記憶に残る
このあと船は岸に着くが、あまりにもリアルなのは、、、

二幕まで少し休憩があり、その間にインタビューの映像があった
ラトル「二幕のブランゲーネの警告あたりから音楽は一気に流れていく
あのシーンは本当に美しい音楽、、みたいな事を話していた
そのとおりで、二幕の一番の聴きどころはそのところ
トリスタンとイゾルデが不倫の密会をしていて、2人だけの世界にはいっていって
その2人だけの世界がまさに2人だの客観性を欠いた世界に我を忘れている
このところのヴァーグナーの音楽は本当にすごい 
何回聞いてもある部分は毛細血管が広がりそうな、
ヴァイオリンの音に恍惚となりうそうな音楽だ
初めて聞いたバイロイトでもこのシーンは覚えている

ブランゲーネの警告が終わって、ピロートークのような会話が続く
音楽もけだるいようなもの、自分たちの思い込みの熱い世界からなる情熱的な音楽
へと行ったり来たり、、、そしてピークを迎えようとする刹那
不倫現場を抑えられる
少し品がないかもしれないが、彼らが行っているのは不倫なのだから
このところはもう少しリアリスティックな服とか様子のほうが
効果的ではないか、、と思ったりする
舞台がリアリスティックで不満なのは二幕のイゾルデがトリスタンに会うために
駆け回っている(と想像させる)部分
バイロイトでは森の中を走っていることを暗示させるように僅かな光が
右から左へ、左から右へと動いていた(ような気がする)
そして不倫現場も室内ではなくて木の下のような(このあたりは記憶が曖昧)
野外のほうが闇とかを容易に連想しやすい
メロートとの戦いも剣ではなくて今風の銃というところは少し拍子抜け
トリスタンが怪我をして終わるこの二幕の音
劇的なのだがレコードで聴くフルトヴェングラーの全曲録音のそれと比べると
フルトヴェングラーの音色が魔術的に濃厚・ロマン的なのがわかる
取り返しの付かないことが起きてしまった  というようなニュアンスの音
そんな印象は今回はなかった  しかしドラマティックだった

3幕はあの重苦しい前奏曲とそれに続くイングリッシュホルンの印象的な音楽
1幕が最初イゾルデとブランゲーネの掛け合いでスタートし
3幕はトリスタンとクルベナールの掛け合いで始まる
女の声と男の声で、対称的になっているのかな、と昔思った

正直、演出は好きじゃなかった
(素人だから好き嫌いだけで話ができる)
だから、最後は感動できるかなと不安だったが
会場映画館、暗くて良かった
終わる頃には知らず知らず頬を熱いものが流れた
手で何回か拭ったが、人に知られずに良かった

イゾルデの「愛の死」のラストシーン
バイロイトでカテリーナ・リゲンツァが背伸びするように歌っていたのを
急に思い出した
そして、バイロイト祝祭歌劇場前でチケット探してますと自分たちが
ウロウロしてたときに知り合いになっパンフレット売りのバイト(?)の女の子が
(多分今では許されないだろう階段席に座って聞いていたと思われるが)
3幕が終わって明くるなった時、何度も涙を拭っていたのを思い出した
彼女たちには母国語のドイツ語 
外国人の自分よりもっともっと深い理解の仕方をしたのだろう
そんなシーンを40年も前のことだが思い出した

ラトルの音楽の良し悪しは正直なところ分からない
多分生で聴く音は、もう少しうねるような、それでいてニュアンスに富んだ音色だったと思う
これは実演はどうだったのかを想像するしかない
現代的でメリハリがあるというデジタルの音
最近、この手のソフトに(CD)感動したことがない 
レコードはツボにハマってレコードの裏表をひっくり返して
せっかく感じやすくなっているこの機会を逃すともったいない
みたいな気がする時があるが、デジタル音源はほとんどこういう経験がない

やっぱり一番は生といういことになるが
田舎だとなかなか簡単にそれができるわけじゃない
都会に住みたいとは思わないが、唯一、音楽環境は羨ましく思う

さて、METライブビューイング 
それなりに面白かったので、もしかしたらまた行くかもしれない
しかし、音がなあ、、



 

 

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まずは良かったサウジ戦(失点が残念)

2016年11月15日 22時09分12秒 | サッカー

ワールドカップ予選、ホームで年内最終戦の対サウジ戦
結果は2-1で勝利
得失点差でサウジより上にはいけないが、
こちらのゾーンの首位サウジに
ホームとは言え勝ったのは良かった

大迫は検討がついたが久保を右において
真ん中が清武、左がノッてる原口といった
少し思い切ったスタメン

でも、なんとなく点が取れそうな気がしない
前がみんなストライカーじゃない
自分でこじ開けて、自力でなんとかできるタイプじゃない
日本ではそういうタイプは出にくいようだ

しかし、無い物ねだりしても仕方ない
現時点では、こんなものか
失点はしたが、今日はまずまずの守り
相変わらず後ろからのフィードは不正確だし、時間のない時のクリアやパスは
情けないが、それでも今日はよく守れたという感じ

勝てないかもしれないが、相手が勝つには手間がかかる
今日はそういった現実的なチームの印象
やはり戦う気持ちというのが大きいとみえて
大の男が必死になればこんなものだろう

サウジはドリブルで攻めてくるチーム
ドリブルの上手い選手はボールの持ち方がうまい
ボール奪取がしにくい
日本人はもう少しボール奪取力をつけないと
楽させそうと感じることがサウジ戦だけでなく
たびたびある

代表の試合は急遽集まって、少し練習をして本番
能力がある連中と言えども難しいだろうな
そんな状態だから熟成したメンバーでやりたいのはわかるが
徐々に世代交代も必要で、この時期に(移行期に)任される監督は
少しかわいそうだ
でも誰かがやらなくてはならない

とにかく、まずは良かったというところか
サウジ戦は次はアウェイ、もっと現実的な戦いをすることになる
それまでにチームの底上げができればいいが

ところで、今日の原口の得点は、ノッてるというよりひたむきさへの
ご褒美かな 埼玉で得点できたのは彼のためにも良かった
(もう少し前に運んでからシュートすれば良いのに
 と思ったシーンが有った、あれを入れれるようになると実力がついた事になりそう)

 

 

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ブルックナーの初稿版の演奏

2016年11月13日 18時55分22秒 | 音楽

昨日「不機嫌な姫とブルックナー団」という小説を読んでいて
ブルックナー自身の指揮で3番の交響曲の初演の事が書かれていたが
それが面白かったものだから昔購入した初版のレコードを引っ張り出して聴いてみた
 

ヴァーグナーが興味をひいたトランペットの主題が活躍する第一楽章は
自分はそんなに面白くなかった
2楽章も似たようなもので大して感想するまでは至らず
ところが後半の3.4楽章が俄然面白くなった
ブルックナーの馬力が開放されて、何かよく分からなくても中身が詰まっている

そこで勢いにのって4番「ロマンティック」も聴いてみた
日曜の昼間、少しくらい音量が大きくても許されるときだ
これは何回か聴いたことがあるはず
ところが普段演奏されるものとどのように違っているかは記憶に残っていない
そのせいで却って新鮮な気持ちで聴いていられた

曲は全然違う
手直しどころではない
別の曲と言ってもいいくらい
確かに普段聴く版のほうが起承転結がはっきりしていて見通しもスッキリしている
初稿版は行きつ戻りつ、突然の大音量と休止
一体何を考えているのかわからない
いや考えている過程がモロにそこに現れているような気がする
思いついたアイデアをそのまま音にしている感じ
前後関係が全然ないかと言えばそんなことはなくて
それなりに統一感を持つように考えられているような気がしないでもない

それにしても馬力のある若々しい音楽だ
本来のブルックナーはこうした音楽が書きたかったのだろう
でもそれではみんなに受け入れられない と考えた弟子たちの気持ちも分からないではない
金管の咆哮はチャイコフスキーのような鳴らしっぱなしとは違う
(何か大きな音を出して気分良くなる気持ちがブルックナーの場合はある) 

この音楽を聴いていてフイに9番の終楽章を
補筆して録音に取り上げたラトルの演奏を思い出した
あの音楽も捉えどろろのない、何処に向かっているのかさっぱりわからない
ような音楽だ
ところが今日初稿版のロマンティックを聴いて、
これとそんなに離れている世界ではないと気づいた(感じた)

知識人ではない、音楽の才能だけ突出した垢抜けない田舎のおっさん
このおっさんの音楽をわかるには、もしかしたら自分たちのほうが遅れているのかも知れない
時間をおいて彼の一番最初にイメージした音をたどるのは
意味ないことではないかもしれない

初稿版でも演奏会 近くで行われないかな
4番、8番はあったら絶対に行く
9番の終楽章のある演奏会も、かならず行く
昨日の小説によれば、自分も立派なブルックナー団の一員だ

ところで、名古屋で25日には学生オーケストラでブルックナーの5番の演奏会がある
上手い下手は関係なく行くつもり

 

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