パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

最後はパルジファル

2013年12月31日 19時45分00秒 | 音楽
今年はベルディとヴァーグナーの生誕200年の年
(ヴァーグナーはワーグナーと発音するとドイツ人には通じない)
それでというわけでもないが、今年の音楽聴き納めは
レコードでクナッパーツブッシュ指揮の
パルジファルの第一幕の最後の部分
男性コーラスと少年の合唱が入っるところ
ここのところ好きなんだな
何となく演出っぽい音楽ではあるけれど
わかっていてもつい聞き惚れてしまう

第2幕の花の乙女の誘惑もいいし
第3幕の有名な聖金曜日の奇跡もいいけど
今日のところはこれで満足

1976年
バイロイト音楽祭100周年の年
このパルジファルを祝祭歌劇場で聴いた
偶然とはいえ今思うととても贅沢な経験だった

パルジファルが聴けなかった日は
劇場の外に音楽が流れるようになっているので
そこで辛抱強く音楽を聴いた

同じようにチケットを持たない色の非常に白い
ベルギーの女性がやっぱり外で耳を澄ませており
音楽が聖金曜日の奇跡の部分になると
顔を見合わせてお互い頷いたのを
何故か覚えている

トリスタンも見たけれど
音楽とは別のことも不思議と覚えている
それはチケット管理の手伝いをしていた
学生の女性が正式の席ではなく(?)
階段みたいなところに座って聴いていて
終わった後彼女を見る機会があったが
目にいっぱいの涙を流していた
ドイツ語が母国語で理解できると
こんなにも感動するものなのか
と、少しうらやましい感じがした

次のドイツ旅行はバイロイト音楽祭
を狙いたいところだが
どうもチケットを手に入れるのが半端じゃなく難しいらしい

さて明日は新年
朝の気分次第だけれど
最初聴く音楽は何になるのだろう?


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2013年(平成25年)のメモリー

2013年12月30日 20時25分00秒 | 徒然なるままに
今でしょ
じぇじぇじぇ
倍返し
おもてなし

今年の流行語大賞の内
2番目のじぇじぇじぇは何のことかわからなかった
NHKを見ていないからだし
特に知らなくても気にはならなかった
(これが歳をとるということか)

さて自分にとっての2013年
一番大きな出来事は
やっぱり37年ぶりに出かけたドイツ・オーストリア旅行
コースは一部を除いて昔行ったところを訪れた
ハイデルベルクのフルトヴェングラーのお墓
ミュンヘンのノイエ・ピナコテーク
リンツのザンクトフローリアンの修道院
ウィーンのベートーヴェンのお墓、モーツァルトのお墓
シェーンブルン宮殿

その同じ場所に立って今感じることの再確認
のための旅だったが不思議なことに旅の間は
自分の年齢を忘れてすっかり何十年前の自分がいた

しかし、やはり感受性の劣化(?)は致し方ない
現実しか見られない頭の構造になっているようだ
つくづく若い時はいろんなことを感じるものだと思う
それだけに若い人は消化不良となっても
いろんな経験はすべきだろう

時間が経って今この旅を振り返ると
フルトヴェングラーのお墓の前で過ごした20分位の間
ずっと聞こえていた鳥達の声が何故か記憶の中に残っている

ザンクトフローリアン修道院は、近くのおばあさんが
神は「上へ、上へ」を表していると天井画を説明してくれたのだが
そこから連想してブルックナーの9番の第3楽章の上昇する
メロディーが何度も頭を繰り返し流れた

ウイーンでは昔入ったカフェが今も存在していて
やたら懐かしいというか感動した

その他は、、、、
実は本当に今年行ったのか?
夢の中のことではないのか
などと時々思うことがある

そして、ヨーロッパはそんなに遠くない
もう一度、
いやもう数度、、、
などと空想する自分がいる

旅行以外の今年は
ポールマッカートニーの東京ドーム公演を聴いたことが大きい
ビートルズの曲を多くやるからではなくて
自分はポール・マッカートニーという同時代の天才と
同じ場所にいたという感覚を味わいたかった

フルトヴェングラーの指揮する音楽を聴けなかったのが
残念だけど、ポールを聴けたのは後の世代の人に
こんなふうだったと説明できるのが少し自慢
過去の人がフルトヴェングラーの指揮はこうだったと
話すように

今年の本は少し不作だったかもしれない
(自分の選択が冴えていなかった?)
それでも「重力の話」は面白かった

「ホテルロイヤル」は上手いなと思いつつ
特に印象とまでは行かず

戸谷学の「三種の神器」は昨年から続く
古事記がらみの興味の補充的な意味でまずまず興味深かった

あとは、、、、
やばいな、ホント覚えていない

覚えていられないくらいの作品だったのか
自分がぼけてきたのか、、
しかしここ数年の中では依然としてオルハン・パムクの「雪」が
圧倒的な印象で記憶に残っている

これと比べると村上春樹さんは(ノーベル賞は)
ちょっときついかな
と思ったりしてしまう

と、勝手なことを並べて
2013年は過ぎていく

総じてまずまずの年だったというべきか


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中古のレコードを購入(ワーグナー、モーツァルト、バッハ)

2013年12月27日 19時34分56秒 | 徒然なるままに
穂の国百貨店でそんなセールをしているとは知らなかった
エレベーターの横に貼ってあるポスターには
「中古レコード・CD市」8階のイベント会場で開催とある

早速、大した期待もしないで出かけた
というのは以前名豊ビルで行われた同様なセールは
イマイチ欲しいものがなかったから

ところが今回は期待を裏切って
ずっと腰を落ち着けて探してみたい
量と質だった
クラシック・ジャズ・ロック・歌謡曲 それらが
古いだけじゃなくきれいに管理されていた

しかし、相変わらず段ボール箱に入ったレコードのタイトル
中身を読み取るのには苦労する
そしてジャズは値段の低下の率が少ないみたい

ということで、ジャズは今回はおあずけ
格別に安いクラシックのセット物を4点購入

クナッパーツブッシュとバイロイト祝祭管弦楽団の「パルジファル」(5枚組)
ショルティとヴィーン・フィルの「タンホイザー」(4枚組)
ベームとシュターツカペレ・ドレスデンの「後宮からの誘拐」(3枚組)
そしてアルヒーフのバッハのカンタータ集(2)
カール・リヒターとミュンヘン・バッハ管弦楽団と合唱団と
クルト・トーマスとライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏のもの(10枚組)

バッハのカンタータ(2)は2500円だったが、他の3枚~5枚のセットは
380円とか580円
なんという安さ
ありがたいの一言

パルジファルは同じものを持っているが4枚目が反ってしまって
聴ける状態ではないのでこの価格ならということで購入

タンホイザーは好きな曲、オペラの実演も2回見た
ショルティのワーグナーは嫌いじゃない

ベームはあまりすきじゃないけど
モーツアルトの有名過ぎない曲に注目したわけだ

バッハのカンタータはCDより楽器の音、人間の声がより生っぽい
レコードで聞いたほうがずっと楽しめそうだし
あの時代のノッているリヒターの演奏も興味深い

でもセット物はついつい最後まで行かない事にもなりそう
もったいないから、頑張って最後まで聴かなくては

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手もとに置きたい本

2013年12月26日 20時17分38秒 | あれこれ考えること
最近図書館で本を借りている
お金がかからないし、期限が区切られているので
読むのに拍車がかかる

ただ図書館に何時までも自分の読みたい本が
見つけられるかが少し心配だ
この町の図書館の本は圧倒的に小説類が多い
(自分の読みたいものは必ずしも小説ばかりではない)
多分大概の町でも同じだろう

それで、というわけでもないが
自分の持っている読み終わった本を寄贈することを思い立った
自分の本棚がいっぱいになって散らかっていることもあるけど
自分が何らかの印象を受けた本を(おすすめできる本を)
多くの人に読んでもらえるのはいいことかもしれない
などと単純に考えた

寄贈できそうな本をピックアップしてみた
つまり手もとから離してしまってもいい本のこと
多少こんな本が喜ばれるかな
と考えて選んだせいもあるけど
やはり小説類が多くなった


旅の仲間(上) トールキン
旅の仲間(下) トールキン
輪違屋糸里(上) 浅田次郎
輪違屋糸里(下) 浅田次郎
男 柳美里
ゴールデンスランバー 伊坂幸太郎
マルセル 高樹のぶ子
天駆けるける皇子 藤木瞭
カラマーゾフの妹 高野史緒
シリウスの道 藤原伊織
さびしい王様 北杜夫
さらば財務省 高橋洋一
寂しい写楽 宇江佐真理
これからの正義の話をしよう マイケル・サンデル
余震 ロバート・B・ライシュ
フリー クリス・アンダーソン
日本式サッカー革命 セバスティアン・モフェット

並べてみると結構バラバラかも知れない

でもこれが自分の好みの反映かといえば
ちょっと違う
自分の好みはもう少し違うところになる

そしてそれらの本はなかなか手放したくない
それらの本が読まれるか、理解できるかはさておき
いつか読む時があると信じて
手もとに置きたいのだ

その本とは
哲学関連の本
全集ではライプニッツがあるし
フッサール、メルロポンティ、キルケゴール、アンリ・ベルクソン
サルトル、パスカル、デカルト、ショーペンハウエルらの本が
ちょこちょこ本棚に並んでいる
少し社会学方面ではリースマン、オルテガなんかは面白そう
アダム・スミス、マルクスも読んでみたい本の一つ

これらの本は、正直読んだわけではない
ちょっと噛じっただけというのが多い
しかし、とてもワクワクするくらい興味を持てたの事実
ただ残念なことに集中が続かない
何かの加減で読む機会が来ることを信じていたい

哲学関連でなくても面白かったのは科学関連の本
自然界における左と右
不思議な数eの物語
πとeの話
エレガントな宇宙
ワープする宇宙
重力の話
ヒッグス粒子

これらも手もとに置きたい本
吉田秀和全集
モーツァルトの脳
ピアノノート
~~の音符
リヒャルト・ワーグナー、ブルックナー、モーツァルト、ベートーヴェンに関する楽譜や本

詩集では
西脇順三郎、萩原朔太郎、立原道造
ヘッセ、サバ、リルケ、芭蕉
万葉集あたりも面白そう

それにしても、読書するには体力・集中力が必要だ
今は目がしょぼくて、記憶力もあてにならないので
結局読みたかった本は「積んどく」で終わりそうだが
それでも手放したくない
これこそが大げさに言えば
自分の目指したもののように思えて

挫折する本(小説)
失われた時を求めて
ユリシーズ

いつかその時は来るのだろうか

ところで自慢じゃないが読み返した本は少ない
シッダールタ(ヘッセ)
カラマーゾフの兄弟(ドストエフスキー)
幽霊・木霊(北杜夫)
再読したのを覚えているのはこれくらい

もう一度読んでもいいかなというのは
ガラス玉演戯(ヘッセ)
嘔吐(サルトル)
夏の砦(辻邦生)
いやもう少しあるかも知れない、、

しかし読める時に読んどかないと、、、
旅が
行ける時に行っておかないと行けずに終わってしまう
と同じように
読書にも何時迄も時間があるわけじゃない

せっかく今は読書のバイオリスムになっているので
頑張って読むことにしようか


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ヘッセの詩(文章)

2013年12月24日 20時11分42秒 | あれこれ考えること
ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」が
あらゆる作品の中で一番好きかも知れない
ドイツ語で読みこなしたら日本語とはもう少し違った印象を
受けるかもしれないが、高橋健二氏の日本語訳は十分すぎるほど
自分の心をうった

最終的にロマンティック過ぎる結末
ヨーロッパ人の仏教解釈
みたいな言われ方をされることがあっても
自分にとってはかけがえのない作品だ

ところでヘッセは優しい
年をとった人に語りかける文章に出会った

***********************************************************************

この詩集を持つ友に(1942年)

もう伝説のようになっている少年のころから
私を動かし喜ばしたことのあるものを、
考えたことや、夢見たことや、
祈りや、求愛や、嘆きなどにちなむ
たまゆらな、色とりどりの落ち穂を、残らず
あなたはこのページの数々に見出します。
それが好ましいものか、無益なものかは、
あまりむきになって問わないことにしましょう
やさしく受け入れて下さい、この古い歌を!
私たち、年とったものにとっては、
過ぎ去ったものの中にたたずむことは、許されており、慰めにもなります。
この数千行の詩句の背後には
一つの命が花咲いているのです。かつてはそれは甘美だったのです。
こんなつまらないものにかまけたことを
追及されたとしても、私たちは、
ゆうべ飛んだ飛行士よりも、
血にまみれた痛ましい大軍よりも、
この世界の偉大な支配者たちよりも、
かるがると自分の荷物を背負っているでしょう。

***********************************************************************

これが正確に何を言おうとしているかは
理解できていないかもしれない
しかし、言わんとすることはとても共感できる

同じように優しいまなざしの詩
詩集「夜の慰め」から

***********************************************************************

慰め

数多くの年々が
過ぎ去り、何の意味も持たなかった。
何ひとつ私の手もとに残っているものはなく、
何ひとつ私を楽しめるものはない。

限り知れぬ姿を
時の流れは私のところへ運んで来た。
私はどれ一つとどめることができなかった。
どれ一つとして私に優しくしてくれなかった。

よしやそれらの姿は私からすべり去ろうと、
私の心は深く神秘的に
あらゆる時をはるかに越して
生の情熱を感じる。

この情熱は意味も目あても持たず、
遠近の一切を知り、
戯れている時の子どものように
瞬間を永遠にする。

***********************************************************************

そんなはずではなかった
多くの人が感じるであろう自分の運命に関する少しの後悔
それは自分の努力不足だったかもしれない
あるいはちょっとばかりの運がなかったためかもしれない

そんな頑張れなかった人にも
毎日の生活はやってきて、いつの間にか
そうしたことさえ忘れてしまう

しかし、そうした人にもいつか振り返る時間が訪れる
長く生きた者の権利として

人生はいつからでも遅くない
などと言わないことにしよう
ただあるがままの事実を受け入れて
かすかな後悔の念に浸ることができた時
人は慰められるし、人に優しなれるのだ

たとえこの解釈が自分勝手でヘッセの言わんとする事とは
違っているとしても、間違いなくヘッセからインスパイアされた
考えであることには違いない

一人の人間の心を救うことのできる
こうした文章・詩
これらは実用的な技術ではないものも
人に生活には必要なのだろう






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年末だから第九を聴いてみた

2013年12月21日 20時52分20秒 | 音楽
名盤の誉れ高いフルトヴェングラーと
バイロイト祝祭管弦楽団の組み合わせのものは
かつて感じた圧倒的な感動が薄れてしまうのが怖くて
気楽に聴けないでいる
体調・精神のコンディションが良い時に
真面目に向かわないとダメな気がしている
今後そんな時が来るかどうか分からないが
たとえ来ないとしても今までにあの演奏で
充分すぎるほど感動を与えてもらったから
不満はない

ということで、今日急に思い立って取り出したのは
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮
オレケストル・レボリュシュネル・ロマンティックのCD

ただ、聴いていて、ついついいろんな箇所で
フルトヴェングラーの演奏と比較していた

この演奏、一言で言えばスポーツカーのような演奏
高性能なDOHCエンジンを積んで車体は軽くして
一気呵成に走り切るみたいな感じ
ずいぶんテンポが早い
音に思いを込めるなんてことはしない
音楽の一瞬一瞬が全て現在の出来事のよう
過ぎ去った音の効果はまるで気にしないかのよう
演奏家はよく訓練されて指揮にしっかりついてきている

スケルツォの楽章の楽器間の出たり入ったりの
受け渡しは印象としてあまり立体的じゃない
(フルトヴェングラーのと比べて)
リズムはちゃんと刻んでいるのだが、、、

第3楽章もサラサラと流れていく
思索的な沈潜よりも音響としての楽しみ方が優先
フルトヴェングラーの演奏では胸をかきむしられるような
あのファンファーレの後の静寂・寂寥感は
この演奏では少しも感じられず
こういう演奏もあるのだ
と思いつつも少し不満

最終楽章も4つのテーマが回帰して否定されて
それから喜びの歌のメロディーが出てくるのだけれど
なんだか無理やりくっつけたような印象
フルトヴェングラーのでは必然と思われたのに、、、

結局、最後まで楽しむというより
比較に終始してしまった

ちょっと不漫が残ったので
もう一枚ラトルとヴィーン・フィルのCDを引っ張りだして
第3楽章を聴いてみた
音楽が始まった瞬間
こっちの方がいい(ガーディナーより)
ホッとした感じに包まれた
そしてなんというヴィーン・フィルの繊細な音であることか

そう、ラトルの演奏はとても繊細な感じ
楽譜を読み込んで解釈されているような演奏

でもこれは集中して聞いていると感じること
不意にまたフルトヴェングラーの演奏と比較することになったが
フルトヴェングラーの演奏も集中して聞いているのだが
途中から音楽があちらの方から自分の方へ働きかけてくる
聴きに行くのではなく饒舌に語りかけてくる
演奏者も何故だか指揮に従うというよりは
音楽の流れに任せて楽器間のやりとり、フレーズの受け渡し、
楽器間の音量のバランスを自由に行っているように思えてくる

音楽の演奏という行為の中で何が出来たのか
単なる時間の流れを楽しむレベルではない
全人格的な体験となる深い演奏
フルトヴェングラーの音楽はそんな感じ

でも残念ながらこんな演奏は出てこないだろう
時代も変わってしまった
この様な演奏も期待されていないのだろう

自分にとっては今年のドイツ旅行の
ハイデルベルクのフルトヴェングラーのお墓参りは
重要なポイントだったが
フルトヴェングラーは
すっかり過去の人になってしまっていた?

ハイデルベルク駅のインフォメーションで
フルトヴェングラーのお墓はどこ?
と尋ねると
フルトヴェングラーって誰?
と返ってきた
ハイデルベルクの彼のお墓は
もはや鳥たちが見守るだけなのだろううか

6月に尋ねたフルトヴェングラーのお墓は
鳥たちの奏でる音楽に満ちていた







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「八重の桜」感想

2013年12月21日 09時05分17秒 | 徒然なるままに
綾瀬はるかが可愛いから
珍しく一年間とおして見た「八重の桜」
視聴率的にはイマイチだったようだったが
自分はまずまずの評価

もっとも自分は視聴率が良いとされる大河ドラマより
イマイチの作品ばかりを見る傾向にあるようだ
それは自分の興味が「少し運の悪い」人たちに偏っている
せいかもしれない

歳を重ねても何時までも若々しい感じの八重さんは
テレビ的には仕方ないとしても少し変だな
とか
最初の時期の冒頭画面に綾瀬はるかが雨の中
スローで思いっきりアップで顔を上げるシーンがあったが
これはドラマとどんな関係があるんだろう
などと考えたことはあったが
(でもこのシーン、すごく魅力的だったのでストーリーとは関係なくても
 自分的には大歓迎だった)
さすがNHK じっくりと進めていくところはご都合主義の民放にはないところか

この大河で得をしたのは
西島秀俊と山本覚馬かもしれない
山本覚馬と言う人物の存在は全然知らなかったが
知識とか知恵で世界を何とかしうるものだというものだと
間接的に証明したし、会津の人々の心情的な復権にも役立った
でもまた文句言ってしまいそうだが
目が見えない山本覚馬を支えて歩く時
あんなに病人ぽく演技する必要はなかったのではなかったか

西島秀俊と言う役者さんは最近CMでも使われるようになった
特徴のある話し方
何でもかんでも器用にこなすタイプじゃなさそう?
だけど単に人気だけの役者さんよりは注目したい

八重さん、八重さんの周囲はあの時代の歴史を
少し会津寄りの視点だがわかりやすく紹介して
歴史がより深いものに感じられる

もっとも会津の視点ばかりではいけないので
NHKは再来年は吉田松陰の娘(?)の話を大河で扱うらしい

会津若松は3年前、真冬に訪れた一泊したが
第一印象は「この街好きだな!」
小さくこじんまりしているけどなんか文化的
新しいものばかりが街を形作っているわけじゃない
昔ながらの雰囲気があちこちの残って
とてもいい感じ
正直、いつかもう一度来ようと思ったほど

八重さんは結局、新島襄の奥さん、日本赤十字社で活躍した人
ハンサムウーマンの走りみたいな人と紹介されることが多いだろうが
よほどしっかりした人だったんだろう
お兄さんの覚馬も大した人物だったから
ご両親も傑出した人だっただろう
風吹ジュンもいいお母さん役だった

戊辰戦争、会津が徹底的にやっつけられこの戦い
本当に戦うしか手はなかったのか
との問は、現在の社会の積極的平和主義の危険性を
暗に批判していないか

現実的な平和主義は必要なのは理解できる
しかし、結果的に庶民に負担をかけることになる施策は
やはり間違い
戦わない覚悟、戦いへの深い反省など
今の日本は一体忘れてしまったのか

それにしてもテレビ番組(ドラマ)は
視聴率を絶対の基準としてつくるのは
やっぱりまずいんじゃないか
山本覚馬みたいな人物に光を当てるこの手の
地味な番組も必要とも考えるが
これができるのはNHKだけか

それにしても、黒目ばっかりの赤ちゃん瞳の
綾瀬はるかさん、可愛かったな
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「美を求める心」小林秀雄全集から

2013年12月18日 20時17分18秒 | 
初めてかもしれない
この人の作品の中で
こんなに無条件に納得できたのは

抵抗感なく読み進むことが出来て
途中からは終わりのページにまだ行きませんように
と思ったりしたのが小林秀雄の全集の中から
「美を求める心」

音楽がわかる、絵画がわかるということは
どういうことか?
の考察から始めていく

同じもの見ても、聴いても
そこから得られる情報量は慣れた者と素人とは全然違う
例えば何でも鑑定団の鑑定家の目は素人の目とは
まずはチェックポイントが違う
作品を一瞥しただけで僅かな差異を見つけ出してしまう
また創作の息吹さえも
音楽にしても同じこと
何かを感じるには多少の訓練が必要で
もちろん訓練しないでも感じることはできるけれど
その感じ方というのはその深さに大きな差がある

つまりは、簡単に鑑賞しているだけの芸術作品を味わうのにも
訓練が必要ということ
いわゆる感性の一言で済まされる問題ではないということ

こうした考察が無理の無い自然な流れ筆致で進められていく

深い意味での美を感じる能力は誰にでも備わり
そういう姿を求める心は誰にでもあるのです。
ただこの能力が私達にとって、どんなに貴重な能力であるか。
また、この能力は養い育てようとしなければ衰弱してしまうことを
知っているひとは少ないのです。

この美を求める心は
今で言うリベラルアーツに通じるものなのかもしれない
技術や知識の急激な進歩は、現在の状態をすぐさま陳腐化してしまう可能性がある
常に最新の姿を追いかけ、ますます専門化していく社会
だがこの方向だけでは限界があるし
専門分野に特化するだけに人間性を欠いた危険な判断に陥りそうな可能性がある

そこで登場するのが、どんな時代にも応用が効く柔軟な判断力を持つ技術
それは時代遅れと言われそうな教養のこと
そしてその教養の中の一分野としての美を求める心

確かに世界に大した役割を果たしているようには思えない
芸術作品がこの世になくて
実用品ばかりが存在していたとしても
人間は暮らしていけるかもしない
しかし、それはなんとつまらない世界だろう

多分、こんなつまらないと言う言葉では片付けられない以上の機能を
芸術・教養・美を求める心は持っているに違いない

だがこの美に通じる世界が
それが人間生活に有用かどうかと言うより
それを対象とした経済活動上で有効かどうかで
進められていってしまうのが現実

それでも、多分、それでも美に殉ずる人間は
きっと生まれ出てくるのだろう
いや、出てきてほしいと切に望んでしまう


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首都機能移転の話は何処に行った

2013年12月17日 19時41分21秒 | あれこれ考えること
何年前だったろうか、各地に首都機能を分散化して
まさかの時のリスクにそなえようといった話で盛り上がったことがあった
しかし今はそんな話があったという影も形もない
それどころかリニア新幹線を始めとしたさらなる交通網の整備で
ますます関東圏の集中化は進むばかり
それに東京オリンピックが拍車をかける

一体どうしてしまったのか
とても冷静な判断をしているようには思えない
これだけ地震の多い国で一都市にすべての機能を持たせることの
危険性を何故想像しないのか

この話を始めとしてどうも日本人は(自分も日本人だが)
物事を忘れやすいし、大勢に押し流されそうだし、冷静な判断や面倒な思索は
苦手みたい

このような考えは自分が田舎にいるから思いつくことに違いない
もし関東地区に住んでいたならば当たり前のように
都市集中を合理的だし無駄がないし大きな流れは今更変えられない
と考えただろう
いや考えたというより、そんな雰囲気に飲み込まれてしまう
といったほうが正確かもしれない

人口は関東圏に集中しているから多数決で何かの方向を決めようとすると
関東の人々の意向が強いものとなる
しかし、こと経済ではなく人の幸せを念頭に考えた結果は
同じような結果になるのだろうか

最近の日本は手段が目的化していないか
経済さえ良ければ全て良いのか?
どこかの雑誌のタイトルにあったが
本当にそう思う
なにか大事なことを忘れていないか

ところで急に話は変わるが(いつものことだが)
東京に行くといつも感じるのは
街を歩いている人が
皆我慢強い人たちばかりのように思えること
何がそうなのかというより何故かそんなふうに感じる
東北の人が多くいて持ち前の粘り強さを発揮しているためか
でもこれはなにか違う気がする

サラリーマンが多い!
もしかしたらこのせいかもしれない
東京はサラリーマンの人口が多いのではないか
サラリーマンは基本的に従順な我慢強い性格を要求され
次第にこの習慣が性格になっていく
悪く言えば長いものには巻かれろみたいになっていく

それにしても、みんなと同じで大勢に流されたり
みんなと同じということに安心感を感じて
長いものには巻かれろみたいなんになってしまうのでは
次の時代を乗りきれない様に思うのは余計なお世話か



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自発的な創造活動を続けることは難しい

2013年12月16日 19時10分31秒 | あれこれ考えること
日本の代表的な批評家小林秀雄
高校の教科書にも「無情ということ」が扱われていたが
残念ながら扱われていたという事実しか記憶には残っていない

最近、図書館で小林秀雄全集の一部を借りてきた
割合短い文章での考察が批評が続く
これらは何かの本の定期的な担当ページだったのか

全集は20数冊に及んでいるから彼は多作だったといえるかもしれない

しかし人の創造活動を考えてみると
創造的な活動というものは自発的というより
何かに強制されて行う方が実は楽なのではないかと思ったりする
いや強制されないと出来ないのかもしれない

自分の思い、思想、感情、技術の発露を自発的に発揮し続けることは
案外難しい
多作なモーツァルトやバッハも大半は依頼された作品が多い
つまり止むに止まれぬ思いの上での作品創造ではない
芸術作品というより依頼主の希望に答える職人的な作業の一部
それによって自分の生活も成り立つのだから
いわゆるそれが普段の仕事になっている
つまりは芸術家というより職人といったほうがいいのかもしれない

それを思うといわゆる哲学者という人々は奇妙な人たちだ
作品の依頼主はいるのだろうか
好き勝手なことを自分の理屈で考えているのではないか

さて正直なところまだ小林秀雄のよさがいまいちわからない
吉田秀和氏の文章は好きだがこの大物のそれは
まだ自分にとっては深い共感にまでは至っていない






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