10月31日時点で、今年読んだ本はこんなだ
どうも今年は、これだ!といった印象の本がない
多分、読み方が悪い
じっくり読むより何故か慌てて読んでいる
優の評価の本は
シュンペーターの「社会主義・資本主義・民主主義」(2)
的場昭弘の「マルクスを再読する」
宇野重規他の「自分で始めた人たち」
団藤重光の「法学の基礎」再読
じっくり読まないと味わえない本が多い
最近は評価の高い本が無い
きっと読み方が悪いのだろう
辻邦生の連作は、登場人物の名前を覚えるのが大変で
半分まで行ったので読み終えようと思うが
夢中になった頃の感動はない
こういうスランプ状態はあるもので、
また何かのきっかけでハマるものがでてくると良いのだが
素人は思いつき(アイデア)はしばしばあっても、何かを完成させるのは難しい
仕事のように、しなければならない状態でないので
なんとしても完成させなければ、、という意識は弱い
作家とか作曲家に限らず人は何かしらの強制がないと作品の完成は
難しいのではないか!と思ってしまう
バッハは毎週のようにカンタータを仕上げなければならなかったし
モーツァルトも需要に応じて多くの作品を仕上げた
ミステリー作家は出版社の依頼に応じて職人的な多作を可能にしていた
素人は(子ども以外に)何も残さないで時間を終えることが多いだろう
時々、そのことに焦りを覚えて何か形のあるものを残そうと考える
振り返る時間が多くなってきて、やり残したような後悔が襲ってくる
時々、不意に(空想的な)アイデアが浮かぶ
メルヘンと名付けた「春の夢」「目が見えたモグラ」
「セミと風鈴」「イルカのエリア」などは一気に出来たものと
少し時間をかけたものだが、とりあえず最後まで行った
ところが途中まで行って、なかなか最後まで行き着かないものがある
スタートすればなんとかなる、、と思っていたが、思う通りにならず
ずっとストップしたままだ
話の骨格とか起承転結を予め考えておけば良いのだろうが
ベートーヴェンのように全体の構想を考えたものを仕上げるのには
力不足で、結局は途中までのものが多くなってしまう
完成は出来ないかもしれないが、ずっと気になっているものが一つある
それは一族の悲しい思い出で、一週間しか生きていられなかった女の子の
生まれる前からの意識みたいなものを空想したものだ
そこで、完成は出来ないかもしれないが、備忘録として残すことにする
〇〇ちゃんの思い出のために
お母さんの声が聞こえる。もう一つの声はおそらくお父さんの声。急に大きな笑い声になったからきっと楽しいことを話しているに違いない。お母さんが話しかけてきた。「調子はどう?お母さんはとてもいい気分。お父さんも早く逢いたいって、言ってますよ。」体が暖かくなってきたからお母さんはきっとお腹をさすっている。
お母さんは話しかけてくれているけど、声が届いているって思っていないのかもしれない。ちゃんと届いているのに。
お母さんとは違うけど、よく似た声が聞こえる。「あなたが生まれるときは、~~だったのだよ。」どうやらお母さんに話しかけているらしい。お母さんはいつもの様にお腹を擦りながら聞いている。
「私もそうしよう」今度は別の温かい手をお腹越しに感じる。
「動いてる。ホント不思議。」別の男の人の声が聞こえる。「体を大事にしなきゃダメだよ」ぼつぼつとしか話さないけどお母さんのこととても気にしているのが分かる。この声も私をホッとさせる、何故なんだろう?
そういえばお父さんも近くにいるのだけど今日は大人しくしているみたい。
今日は少し胸が苦しい。お母さんやお父さんの声も聞き取りにくい。自分が苦しい時お母さんも苦しいみたい。いつもなら歩く音も料理の音も聞こえるのにお母さんの呼吸だけが聞こえる。
パタン、車のドアが閉まる音。それから少しの間心地よい振動を感じていたら目的の場所に着いたらしい。たくさんの人の声、足音、車輪と床と擦れる音、様々な種類の音が聞こえる。一体どこなのだろう?少し不安になる。
「残念ですが、状態はあまり良くないようです。」抑揚のない声が聞こえる。私のことを話しているに違いない。手とは違う何か冷たいものがお母さんのお腹の上を移動していた。今日も朝から苦しかったけど、そのことと関連しているのだろうか。以前は時々だったのが最近は毎日のように苦しく感じる時がある。お母さんのがっかりしたような声が聞こえる。でもそれはほんの短い間。お母さんは自分に言い聞かせるように、お父さんに告げた。「一番良いことをしましょう。今も、生まれてからも」
お母さんの心臓の音は機嫌が良い時と元気が無い時と違うのが私には分かる。今日はご機嫌な方だ。お母さんの好きな美味しいものを食べているみたい。「この子のために栄養つけなくっちゃ」私は味を感じることはできないけど、しばらくすると体に力が湧いてくるような気がする。お母さん、頑張って食べて。私のためにも。
また冷たいものをお母さんのお腹を通して感じる。「予定は〇〇ですが、早めに準備はなさったほうがよいでしょう。それから赤ちゃんのことですが、状況は変わっていません。残念ですが生まれてから直ぐに、と言っても一週間以内くらいですが、手術しなければなりません。それで治るかと言えば、確証は持てません。ずっとお世話が必要なのかもしれません。」
「そうですか」お母さんとお父さんのがっかりした声が聞こえる。私も最近頻繁に苦しくなる。
「大おばあちゃんから電話。予定日は何時?って。あわてんぼうの人だからもうお祝いが届いてる。まだあのこと話してないけど、言い難くなっちゃった。」
お父さんと話している。「いつか言わなきゃ。」
お母さんとお父さんは最近毎日話しかけてくる。「調子はどう?お母さんは今日何々をしました。お父さんはあなたのために可愛い、でもちょっと大きすぎるピンクのパジャマを買ってきましたよ。」「早く会いたいな。どんな顔をしているのでしょうね。お父さん似?それとも私に似ているのかな。」「赤ちゃん、あなたがどんな風に生まれても私たちはずっと守ってあげるからね。だから安心して生まれてきてちょうだい」
すごく嬉しいはずなのに涙が出てくる。最近自分でも自分の体のことがわかってきたような気がする。苦しくなる回数がずっと増えてきている。そしてこの症状は残念だけどとても手に負えないもののような予感がする。先日、冷たいものがお腹を擦った後、男の人の声が聴こえた。「今はまだお母さんのお腹の中で頑張れていますが、生まれてしまうと一気に自分で呼吸をしなきゃなりませんので負荷がかかってしまいます。赤ちゃんにはとても過酷な状況です。精一杯のことはしますが、前にも言ったかと思いますが、一生気をつけなければならないかもしれません」
最近お母さんも沈み込んでいる日が多い。毎日のようにお父さんと話をしている。ふたりとも無理やり元気を出そうとしているけど、無理しているのが私には分かる。きっと私のせい。
急に生まれるシーン挿入
時々私は考える。お母さんやお父さんの住んでいる世界はどんなだろうと。それは楽しいところ、悲しいところ。そこは本当に生きていく価値が有るところなのかだろうか。お母さんやお父さんは私に会いたがっている。二人の声は無条件に私の気持ちを穏やかなものにしてくれる。だから私も早く二人に会いたい。お母さん手が私に直接触れたり、お父さんの眼差しがやさしく注がれるその時、私はどんな気持ちがするのだろう。自分で息をして、外の光を感じる時、今とは違った気持ちになれるのだろうか。
時間は過ぎていく。もう少しでお母さんに会える日が近づいている。でも最近は苦しい時間が多くなってきた。じっとしているのがつらくて、つい動いてしまう。
あれは合図なのだろうか。外の世界に出て良いという。でもそれは私とかお母さんの意志とは関係のないところで進められているみたい。急に廻りが賑やかく動き始めた。私は何かに押されたり、引っ張られているような気がする。私はきっと外の世界に出られるのだ。幸い今は苦しくない。これならお母さんにもお父さんにも元気なまま会えるのかもしれない。廻りの動きが激しくなってきた。お母さんはいつもと違う場所にいる。
冷たい空気を感じる。いままでの温かいところとは違う。少し冷たいけど大きく包まれて広々とした感じ。お母さんの心臓の音が聞こえない。その代わりお多くの人の声が聞こえる。
ここまでは勢いで進んだ
だがここからが難しい、、
ずっと気になっているが、お終いまで行かないともモヤモヤするが
最後までいけるのだろうか
(どうであれ最後まで行くべきか、、)
「権力の座にいる人には本を読む時間がない。しかし、本を読まない人は権力の座に適さない」
イギリスのM.フットの警句
今朝の中日新聞に出ていた
「読書の秋」ということで扱われたのだろう
人は余程の記憶力のある人でない限り、本を読んだ内容は忘れてしまうだろう
自分も例外に漏れず、情けないくらいな記憶力しかない
だが考えてみると、自分の人生をすべて覚えているかと言えば、そんなことはない
覚えているのは断片的なこととか、覚えておかなくても良いことの方が多い
読書の記憶と人生の記憶を考えみれば、読書の記憶のないことくらいは
大した問題では無いような気がする
(人に忘却の能力があるのは、良いことかもしれないと思うときもある)
だが、読書の場合、何かが確かに残っていると思う(信じたい)
それを説明するのは難しいが、人と話していても手応えと
なんとなく感じる深さのようなものは
読書量とか想像力、共感力の大きさといった人間力のようなものと思う
だが、それにしても一旦寝てしまうと
話がどうだったのかチンプンカンプン状態の続く最近は
あまり褒められたものではないのは事実だ
(それも少しづつ慣れてきたような、、、)
昨日取り上げた、昔の一日一句
この時期のものはどんなだったか久しぶりに覗いてみた
やはり何も覚えていない
それどころか随分変なものがあって、意味がわからないものも多い
それでも、なんとなくそうだったな、、と思えるのがあった
○何万年紅葉見続け穂高岳
○涸沢の灯火ゆらゆら蝶に雪
昔、山に登っていた頃の記憶から謳ったものだ
涸沢の紅葉はずっと昔から、、その感慨にふけったところ
もう一つは、蝶ヶ岳から涸沢を眺めるとテントの明かりが
チラチラと見えて、蝶ヶ岳にはうっすら雪が積もっている姿のこと
土方歳三は豊玉発句集でいくつか俳句を詠んでいる
それを真似て、ボケ防止にもなるからと始めたが
実力とか出来は、土方さんと似たようなものか、、
何年か前、ボケ防止のために一日一句にトライしたことがある
一日に一句くらいは簡単に出来る、、と予想してのことだ
確かに最初は簡単だった
ところが、時間を経るにつれてネタが無くなってきて
これが大変な努力を要するものになってきた
確かにものの見方が繊細になったり、季節の移ろいに敏感になった
しかし、自己完結するこの試みはワンパターンの連続のように見えて
その年の12月31日でやめてしまった
このブログもボケ防止と何らかの記録のためにつけているが
リタイアした身の社会と接する機会の減少によってネタもないし
自己に沈潜することはあってもワンパターンで
継続は難しいことを実感している
ということで、ネタが切れたので昔話を
サッカーのコーチをしていたときのこと
(あまり怒らない自分は低学年担当が多くなった)
練習の終わりは子どもたちの大好きなゲームで締めくくる
そのチーム分けは試合が一方的にならないように
同じくらいの力の子同士をじゃんけんさせた
だがこれが評判が悪い
「あの子と一緒のチームになったことがない!」
運動神経の良い二人の片方が文句をいう
「誰々と同じチームになりたい」
みんな図抜けた子どものいるチームの方になりたがった
彼らは試合に勝ちたかった
負けるのが嫌だった
自分が試合にどのように関与しようが(ボールに触らずに試合が終わっても)
勝つ立場でいたかった
子どもたちにとっては勝つということがとても大事なことと思えていたようだ
ところがそのうちに、特に運動神経の良い子たちの中には
簡単に勝ってしまうより競り合って勝つほうが面白いと
感じるようになってきたようだ
5対0よりはギリギリの1対0の方が緊張感があって
夢中になれる、、と思うようになった
つまりは勝ちたいのはいつも同じだが
簡単に勝つより必死にならないと勝てないほうが
やりがいがあると思うようになってきた
それは一種の成長の証のように思われる
子どものサッカーは団子状態になる
とにかくボールを蹴りたくて味方の進路を邪魔することになるのはいつものことだ
身長の低い彼らの視野は目前のボールしか見えない
そしてそれは大人が想像する以上に夢中になれる対象だ
その夢中になる事は興奮状態を作り出す
その興奮状態が子どもにはサッカーの面白さに通じていると思う
試合に入る前、いつも言い続けたのは
「今日はみんな10回以上ボールに触るようにしよう
ちゃんと数えておくんだよ」
参加しなくても勝ってしまうのではなくて
とにかく参加する、夢中になる、そのことを求めた
試合後「今日〇〇回だったよ」
赤い顔をした子どもがうっすら汗をかいて話しかける
その顔には満足感にあふれていた様に思えたのは錯覚ではないと思う
それにしても、何かを継続するってのは難しい
あれとこれとを結びつけて考えるのは、年齢を重ねると増えてくる
それは実体験から身につくことだが、個人的なものなので
万人に説得力があるとは限らない
少し前に読んだ「プロパガンダ」にはこのような文章があった
ああ言えば、こう言う世界のことで、中立公平な機関とみなされているところでも
現実はこのような傾向が見られるようだ
この文章と結びついて思い出したのが
最近読んだ「歴史とは何か」E.H.カーの中の以下の文章だ
カーは、経済学者は計量経済学の、哲学者は論理学や言語学の
文芸批評家は文体的テクニック分析の陰へと身を隠していると指摘する
どのように結びついているかは自分の感覚でしかないが
詳しくなればなるほど専門性の中においての議論に終止し
それは一歩間違うと、人の感情と離れた結果になってしまいそうということ
言葉と言葉の戦い、魂と魂の云々
これは昨日ニュースにもなった出来事の中からの抜き出しだが
ちょいとへそ曲がりな自分は、これに心を動かされなかった
人としてあるべき姿はわかる
上杉謙信が武田信玄に塩を送ったのもその範疇の話だ
だが、人としてこうあるべきを公然と恥ずかしげもなく建前論で言われると
何処かに違和感を覚えてしまう
言葉はそもそも上段にあるようにディベートの技術論によって
確固たる結論を出すことは出来ない可能性がある
その世界の人達だけが理解できる社会や解釈が通用するだけで
一般人には縁遠い理解というのはあるもので
それは一般人の知識不足や理解力不足のせいもあるが
一方で専門性に特化した非現実的な世界のためでもありそうだ
こうした専門家の建前の世界観の中で消化されているだけで良いのだろうか
人は何を言ったかではなくて
何をしたか、あるいは何をしようとしたか!
で判断されるべきだと思う
と、何やら訳のわからないことを愚痴っているが
この内容は、数年後に読み返しても自分は何を言いたかったのかは
覚えていると思う
人がわからなくても、自分はわかる、、
これは自分の備忘録として残しておこう
夏バテかどうかは知らないが、少し前体重が減った
しばらく経験したことのない60キロ台に落ちた
普通ならようやくダイエットに成功か!となるところだが
食欲もなく、お腹もなんかいまいちで
一日中それを気にしている状態が続いた
子どもの頃から病気とは縁のない妹と比べると
いつも何処かが悪い状況が続いて
「男の子は弱い」との認識が家族の中で広がった
急にあることに思い当たった
それは「冷たい飲み物を飲みすぎ」だったのではないかということ
確かに夏の間はペットボトルの2リットルのお茶は
ものすごい勢いで減って、頻繁に一番安い店舗で購入を続けた
ビールと麦茶を飲むとお腹の調子が悪くなる
というのは自分の経験則から身につけた知識だが
暑い日はそんなこと言ってられなくてビールを飲んだ
そうか、ビールや麦茶の麦系の飲み物との相性の悪さのせいではなくて
単に冷たい飲み物のせいかもしれない、、
やっと、今になってそんなことに気づいた
ということで、来年の夏は冷たい飲み物は極力飲まないようにしなければ!
この知恵が来年まで覚えてられるか心もとないが
お腹の調子が悪いのが続いた記憶は忘れそうにないので覚えていられるかも
体重はせっかく落ちたので、それをキープしなければ
(食欲は戻りつつあるのでリバウンドの可能性が高いが)
相対性理論とか量子力学とか、紐理論とかABC予想とか多次元とか
全く手に負えない思考の産物は多い
同様に、ホッブスの「リヴァイアサン」やロールズの「正義論」も
正直なところ読んでもさっぱりだ
世の中にはこうした難解な思考の産物を難なくこなしていける人が
存在していることは、ただただ驚くしかないし、そういう人には
ちょいと羨望の思いが募る
フルスコアを見て頭の中で音のする人も羨ましいし
囲碁将棋の過去の棋譜をスラスラと並べられる棋士も
自分たちの平凡な世界とは違う景色を見ているのだろうと想像する
弁護士さんの世界も同様なものだろう
小室圭さんのニューヨーク州の弁護士試験に受かったとのニュースを知って
人生であまり関わらないほうが幸せな弁護士さんのことを考えた
自分が関わったことに行政訴訟がある(現在進行中が一件)
行政訴訟は段取りとして住民監査請求という手順を踏まなかればならない
住民監査請求は不法行為を示してその対処(措置)をしてもらうのだが
大半は却下となることが多く、そういう時は一ヶ月以内に裁判所に訴えることになる
裁判は現実的には、論点を整理したり意図的にぼかしたりの戦いなので
素人が戦える場ではなく、弁護士に依頼するの普通だ
この弁護士にどの時点で依頼をするのが適切か?
を考えた時、2回経験している行政訴訟の一回目は裁判のスタート時点からで
2回目は住民監査請求の時から参加してもらった
その時に実感したのが、弁護士の能力というのは改めて凄いな、ということで
1回目は素人が作成した住民監査請求の書類は不法行為と思われることに
怒りとか正義感に燃えてその感情が表に出て、怒りはわかるが
付け入るスキは見つけられる様になってしまった
そこで2回目は住民監査請求の書類の作成から手伝ってもらったが
この書類の論点とか不法行為の指摘などは、当事者として読み直すと
「言いたいことはそれだった」ととてもスッキリしている
やはり「餅は餅屋」だなと強く実感した
世の中には自分が理解出来ない世界が存在する
時間をかけてその世界に住み続けようといた人しか理解できない世界だ
素人はそれらの特別な人とどのように関与したら良いのか
を考えると、物理学を始めとする学者の世界は、一般的には接点がないので
それで困ることはない
ところが極めて人間的な裁判という事態では、どの弁護士と付き合うかで
物事は大きく変わる
弁護士を選ぶということは、情報量やら自分自身の審美眼を頼るしかない
現在、継続中の訴訟では世間的な評価の高い頼もしい弁護士さんにお願いしている
一般的には行政訴訟の勝ち負けは原告側の負けが多いらしいが
我が市の訴訟と少し似ている奈良市の火葬場の訴訟では、原告側の勝訴になっている
ということで、これから住民訴訟を前提に住民監査請求を出す人は
その時点から弁護士にお願いしたほうが良いということ
(余計なお世話だし、こんなのはない方が良いが一つの知恵として)
テレビ朝日の玉川さんがモーニングショーで「国葬には電通が絡んでいる」
と思いつきで番組内で口にしたもののだから
彼は10日間の自粛を余儀なくされたと騒いでいる人たちがいる
(それが本当かどうかはわからないが)
オリンピックの賄賂の事件が表に出てから「電通」の評判は
一般社会ではガタ落ちの様に見える
だが、玉川さんのお仕置きが、「電通」という言葉の所為なら
今でも相変わらず電通は力を持っていることになる
今も想像を超える力を持っていると思われる電通のことを
小説として残した人がいる
「朝まで生テレビ」でおなじみの田原総一朗氏だ
これはずっと昔に読んだ
その当時のCMから別名で登場していても、その企業はどこなのかわかった
だが、読後感は強大な力を持ったところには、かなわない、、といった
少しばかり後味の悪いものだった
テレビ番組の美味しいところにCMを入れようとすると、その時間帯は電通が
買い占めているから他の広告会社では入れない、、というものだった
不意に思い出したが、今こそこれは読んで損はないと思う
日本の社会の何かがおかしい、、と思われることの一つにはこの企業の存在がある
そう言えば、閣議決定で私人とされた方は、電通で働いていた経歴がある
社会は独占とか独裁は、よくない、、と今更ながら思う
(大広もADKも結局は圧倒的な電通の力に頼るしかなかった?)
独裁とか独占は知らないうちに進んで、にっちもさっちも行かなくなっている
まずは、きつい現実の把握が必要だろう
この本は、そのきっかけにもなりそうな気がするが、さて
今日はルヴァンカップのサンフレッチェ広島対セレッソ大阪の決勝だった
土曜の午後、それを見て時間をつぶすつもりだったが、すっかり忘れていた
気がついた時は結果がでていた
どうも劇的な結果だったらしい(広島2−1大阪)
後半にセレッソの選手が得点し、広島は天皇杯からの運のない流れのまま
と思ったが、アディショナルタイム9分の中で、相手のハンドを誘い
PKでとりあえず同点に
その後、終了間近にCKから決勝点を挙げて広島は天皇杯の呪縛から逃れられたかのよう
セレッソは2年続けて決勝戦で負けて(去年はグランパスに負け)これも運がないが
サンフレッチェ広島も一週間ほど前の天皇杯のPK戦で負けは、今年一年の活躍を見れば
ちょいと可愛そうだった
でも、結果的には帳尻が合った、、と思えて仕方ない
というか、妥当な結果がようやく広島にプレゼントされたというべきか
セレッソは2年連続の敗戦で、今まで以上にこの戦いにかける思いが強くなりそうだ
帳尻が合ったとと思う出来事は、ドイツ対イングランドのワールドカップの試合で
イングランド大会ではイングランドの選手のシュートがゴールの上のバーにあたり
ボールはゴールを割ったかどうかわからない場所に落ちた
ビデオ判定のない時代で、これはシュートが入ったとされたが
これは入っていた、入っていなかったといつまでも論争になった
ところが、これと全く同じ状況が、何十年後のワールドカップの
イングランド対ドイツの戦いで再現された
前と同じようにイングランドの選手のシュートはゴールのバーに当たり
悩ましい判断が要求された
この時は得点は認められなかった
しかし、ビデオ判定はなかったが放送のカメラでは明らかにゴールを割っていた
この前回は得点で今回は得点にならずの結果は、
実は前回はゴールを割っていなかったのでは!と
根拠のない運命の帳尻合わせを確信してしまった
同じ相手に同じ状況、、それは帳尻を合わせるための「天のはからい」
のように思えて仕方ない
ということで、運とか勝負事は不思議なことが起きるということを感じた次第
運をも超越したえげつない(残酷な)強さってのも、どこか憧れてしまうが
どうも自分は運のない人、チームが気になって仕方ないようだ