以前、兵庫県議会の野々村議員の恥ずかしい号泣したシーンが
しつこいくらいにテレビ画面で流されたことがあった
そのシーンが映ったテレビ画面に向かって、
幼い子どもがハンカチをもって涙を拭いてあげようとしている画像も
ツイッター上にアップされたことがあった
それを見た時なんとなく救われるような気がしたものだった
週刊新潮の記事からスタートした最近の豊田真由子議員の暴言騒動
確かに、群を抜いて酷いものだ
それは法的な問題だけでなく、そもそも議員として以前の人間性を
疑わせる様な気分にもさせられ、それに反論の余地はない
しかし、それでも、あの暴言の音を何度もしつこく、面白おかしく
テレビ画面上で放送することは良いことなのだろうか
あの音声を流すことによって視聴率が上がるという理屈からすれば
意味のないことではないかもしれないが、はたして本当にそれで良いのだろうか
少し考えてしまったのは、豊田真由子議員には子供がいるとのこと
その子どもたちは、お母さんのあの姿を見せつけらて嫌な気分になったり
周りの子供も大人の見る画面を見て、つい彼女の子供に
悪気のない意地悪をしてしまわないか、、
暴言が酷いことは認める
でも、テレビのその扱いは限度を超していないか
メディアは人を批判する時にその凶暴性、暴力性を発揮する
果たしてその自覚がメディアにあるのだろうか
メディアは第4の権力と言われる
そのメディアは今まともに機能しているのだろうか
前川前文科省事務次官の記者会見の時、発言に上がったメディアに対する懸念
それは、自らの問題として検討されているのだろうか
記者クラブ、あるいは番記者と言われる人々によって行われる予定調和のような質問
自ら調査をすることなく、仲良くなったことで得られる情報を
価値ある情報と勝手に理解し、発表報道をする(報道の基本は調査報道であるべきなのに)
普通の市民感覚からすれば誰もが持つ疑問の声の質問すら出来ない
(幸い東京新聞の望月記者だけは真っ当な質問をしてくれたが)
議員さんたちに倫理観とか「選良」という意識が必要とするなら
大きな力を持つメディアの人たちにも同様に必要なのではないのか
この程度の話題を流しておけば庶民は喜び、視聴率は上がる
と判断する、その感覚自体が、どこか身内の理屈に麻痺していないか
メディアが本来すべきことは、
メディア自身もしっかり勉強したうえでの施政者に対する鋭い質問、
曖昧に答えるであろうその答えに対するさらなる追求テクニック
そして、メディア自身も品格をもった姿勢の維持
メディアの最前線にいる方々は、それなりの責任がある
どうか、そこのところをしっかり自覚して、取り組んでもらいたいものだ
(直近では稲田防衛省の事、下村博文氏のどうにも苦しい言い訳などにもっと突っ込むべき)
田舎のおっさんが愚痴ったところで、どうにもならないが
やっぱり、どこか変だと言わざるをえないのが残念だ
この程度のことを放送すれば庶民は喜ぶと勝手に思われているとしたら
馬鹿にされているのは、庶民であることに気づくべきと思うのだが、、
(一部の人は、もう見ないようにする!という手段を選んでいるかもしれない)