いつもなら家の中を走り回るモンスターたちも
今年はフェイスタイムの画面のなかで、先日送ったお年玉を
受け取る時の嬉しそうな表情を見るだけになっている
今年は静かな正月だ
昼から天皇杯サッカーを見て、点数以上の差がフロンターレとガンバの中にはあって
当たり前の結果だが強いほうが勝ったという感じ(1−0でフロンターレの勝ち)
テレビは年々見なくなっている
若い歌い手やタレントさんの名前も顔も覚えていない(覚えられない)
あいみょんは昔のフォークみたいだな、、とは思ったりするが
だからといって積極的に彼女を聴こうとは思わないでいる
新しいものへの容器は一杯になっているのかもしれないと不安になるが
その分今まで親しんだものには愛着が増してくる
今年最初に聴く音楽は明るい生命力に満ちたものが良いと思っていた
だがバッハでは少し真面目すぎる
ベートーヴェンと対峙するには気力が要る
そこで選んだのがモーツァルトのK136のディヴェルティメントニ長調だ
(ウィーン8重奏団演奏のレコード)
この曲は新年にふさわしく生き生きとしている
それはヴィヴァルディのような少し機械的なところもなく
本当によどみなく後から後から音楽が溢れてくる
この曲はモーツァルトが16歳の時の作品というから恐れ入る
若さゆえの勢いだけでなく途中で機知に富んだ箇所も見られる
深くは無いとしても身体的・精神的な快感は得られる
この曲の流れで次は同じくモーツァルトのK201の29番の交響曲イ長調
(クリストファー・ホグウッド指揮 エンシェント室内管弦楽団)
この曲の最初の楽章が好きだ
少し前の25番のト短調のような迫力はないが、ポール・マッカートニーの
鼻歌のように抵抗感なく聴いていられる
しかも真面目に聴くとイージーリスニングでは収まらないことがわかる
この曲の作曲の時、モーツァルトは18歳
この男は無邪気な顔をしたモンスターだ
昨年生誕250年だったベートーヴェンは
人間が到達できる境地の高みで圧倒されることがあるし
バッハは職人の作曲技術の凄まじさに驚くことがある
でも、世の中に無いとつまらないというか
絶対欠けてほしくないのがモーツァルトの音楽だ
どの曲がというのではなく、モーツァルトの音楽という全体が
必要不可欠のような気がしている
ということで、今年最初に聴いたのはモーツァルト!
それで正解だったと思っている
生の演奏会ほど集中はできないが、家で録音媒体を聴くのは都合の良いこともある
それは自分勝手に(聴く)プログラムを組むことができることだ
交響曲とかピアノ・ソナタのお気に入の楽章だけとか
歌があったり、ソロ演奏だったり、作曲された時代がバラバラだとか
そうしたものがその時の自分の気分で好き勝手に並べられる
昨日のうちに今日聴こうと決めていた音楽を聴いた
それ以外にも耳慣らしがあったので、今日のプログラムは
スメタナ作曲 「モルダウ」 フルトヴェングラー指揮 ウィーンフィル
ベートーヴェン作曲「弦楽四重奏曲7番」 第三楽章 ゲヴァントハウス弦楽四重奏団
ベートーヴェン作曲「ミサ・ソレムニス」アニュス・デイ クレンペラー指揮 ニューフィルハーモニー管弦楽団
ベートーヴェン作曲「ピアノソナタ32番」ピアノ バックハウス
モルダウとフルトヴェングラーの組み合わせは意外な感じもするが
冒頭のフルートの掛け合いから別世界に誘う
普通の演奏よりは遅い
だが遅くすればあのニュアンスが誰にでも生まれるかと言えばそうではない
何かが確かに違うのだ
音の意味合い、、フルート同士の対話、、聴手に語りかける音色
そしてこのあとあの有名な旋律が弦で奏された時、憧れが胸いっぱいに広がるこの感じ
これは彼の演奏でしか感じられない
聴く度に何が違うだろうと思ってしまう
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲7番は、ラズモフスキー一番とも呼ばれるが
第三楽章が考えるアダージョでとてもこころが落ち着く
アダージョの作曲家はブルックナーが有名だが、ベートーヴェンも負けていない
沈潜した思考は、ブルックナーの自然の中の音とは少し違う
ミサ・ソレムニスのアニュス・デイは、初めて聴いた時は涙が出て止まらなかった
人生の最後の最後においてベートーヴェンが「憐れみ給え」とか「平和を」と
心から訴える音楽は、移行部のヴァイオリンのフレーズのところでこらえきれなくなった
冒頭のバリトンの深い音楽に、徐々にソプラノ等のソロの歌手が加わって
それぞれが絡み合うさまは「美しい」としか言いようがない(自分にとっては)
最後のピアノ・ソナタはベートーヴェンの全作品の中でも好きなものの一つ
特に第2楽章の変奏曲は信じられない別世界の音楽だ
ハ長調で肩の力を抜いて奏される旋律はとても美しい
美しいと言っても感傷的とか聴きやすいというのではない
それは何度も検討され、無駄なところは削りとられた、純度の高い旋律だ
ただこの旋律を美しいと感じるには、聴く方の経験が(人生体験が)必要だ(と思う)
渋い音楽というのでもない、、ただ時間を経たものにしかわからない音楽のようだ
好きな曲だけにこの音楽のレコードやCDは何人かのピアニストのものを持っている
その中でバリバリと坦々と弾ききってしまうバックハウスが、全体をガチッと把握した上で
演奏されているようで、名人芸と言うよりも、その把握の仕方に参ってしまっている
バックハウスはピアニストのコンクールでバルトークを破って一等賞になった人物で
なるほど、バルトークなみの音楽家だといつも実感する
昨晩は、あれこれ言われながらも大掃除も済んで、炬燵に入ってのんびりモードとなりたかったのだが
相変わらず夜のテレビは面白くないものが全局オンパレード
そこで逃げ出して、(大掃除のおかげで)少しだけスッキリした部屋でレコードを聴くことにした
年も迫ってくると聴く音楽に神経質になる
年の始めに聴く音楽を慎重に選ぶのと同様に、大トリも縁起担ぎであれこれ考えてしまう
だが今年は何と言っても生誕250年のベートーヴェン
そこで、怖くて聴けないフルトヴェングラーの指揮する第九をメインに引っ張り出した
(怖くて聴けないのは、初めて聴いた時の感動や印象が薄れてしまわないかと思うため)
いきなり第九に行くのは聴く方のコンディションも整っていないので
コンサートのプログラムのように最初は協奏曲を聴くことにした
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲だ
フルトヴェングラーとメニーイン、ベルリン・フィルの組み合わせのこのレコード
よくわからないが好きだ
同じ曲の同じ指揮者、他の演奏家の組み合わせのレコードもあるがこの演奏が心地よい
曲自体がとても充実した作品のように聴こえてくる
(同様に感じるのにピアノ協奏曲5番の皇帝、フルトヴェングラーとフィッシャーの組み合わせがある)
第三楽章に2回ほど出てくる、転調して切ないフレーズところは昨晩寝床に入っても
頭の中で何度も繰り返された
いよいよ第九
もう少し録音状態の良いレコードもあったが、昨日は敢えてこの有名なジャケットのこれを選んだ
聴き終えた後は、やはり「すげー!」と声が出た
音楽を聴くという行為は、向こうからやってくる情報を味わうのではなくて
こちらも参加している行為のように思えてしまう
フルトヴェングラーの演奏は読書の時の感じに似ているのかもしれない
本を集中して読んでいる時は明らかにその世界を体験している
書き手の考えていること体験が、読み手自身の体験とまで感じられるような、、
怖くて聴けないこのレコードは、最初の印象が壊れてしまうのが怖いためだが
考えようによっては自分の変化も知ることができる
録音媒体として残っているものを時間が経って聴き直す
変わっているのは聴き手の時間経過だけだから、
聴いた時の感じ方の変化は自身の変化ということになる
(しかし、あの場面の音楽表現はこうだったという記憶は
どうしても拭い去ることはできず、ついつい比較ということになってしまう)
何か巨大なものを感じるとか、大きな体験をした、、という印象が残る
そしてこれが生で聴けたなら、どれだけ貴重な体験になっただろう、、とも思える
音楽記号としてのフェルマータは音を伸ばす印だが、その伸ばす時間は人によって違う
このバイロイトの演奏はこのフェルマータがいつまでも続くのではないか
合唱の息が続くのだろうか、、と不安になるほどの永遠の時間のよう
そして静寂
ピアニッシモで聴こえるか聴こえないくらいの音量でトルコ風の音楽が始まる
この効果の壮絶なこと
それはフルトヴェングラー個人のアイデアであったとしても
そう演奏するのが必然のように思えてしまう
やっぱり「すげーな!」と今回も感じられたのにはホッとしたが
第九を味わう人間は自分らの世代から現役の若い人たちに移っている
彼らはこのような全体的にドカンと何かが残る演奏よりは、
もっとスッキリした合奏能力とか楽器の分離の良い演奏を好むかもしれない
(それはそれで楽しみかたの一つだが)
ということで、大事なこのレコードはまだまだ同じように感じたり
刺激を受けることができるのが確認できたのでホッとした
さて今日の大晦日
相変わらず見るべきテレビはなさそうなので、本当の大トリに聴く音楽は
これにしようと決めている
やはりベートヴェンのミサ・ソレムニスからのアニュス・デイ
(クレンペラー指揮、ニュー・フィルハーモニー管弦楽団)
そして最後のピアノソナタ32番
(いろいろ持っているが多分バックハウスの演奏)
世の中にはいろんな分野の仕事があって、それぞれが時間をかけて身につけた
知識とか技術を活用することで社会が円滑に動くようになっている
人は自分に関与しないことは身についていないので、その分野は誰かに任せて
知りたいことがあれば彼らから聞くことになる
ところが、それを誰から聞くか?
という選択が果たしていつも適切にできているのだろうか
自分で聞くべき人を探したとしても、個人の好き嫌いの傾向があるので
特に政治的・社会的な分野は偏りがちになる
これなどはある程度自覚しているので問題はないとしても
問題は影響力の大きいとされるメディアがその分野としての専門家を活用している場合だ
この専門家の選択は、どのような判断基準で行われているのだろう
政治評論家とかの肩書がある人物がテレビにで解説をする場合
それはテレビが守るべき中立性を確保できる人物を登場させているのだろうか
ある政治評論家は政権の人物と頻繁に会食をしている
そこで彼しか知り得ない情報を得ることができ
それを披露することによって存在価値を発揮するのだが
そもそもその秘密っぽい情報自体がある意図をもった情報ではないだろうか
彼は政府の広報マンとのあだ名が一部の人から名付けられている
しかし、それはあくまでも一部に過ぎない
自らの生活リズムに忙しい普通のひとは手っ取り早く理解するために
テレビに出ている彼の解説を聞き、わかった気になる
仮に一般人がそれほどお気楽な存在ではないとしても
こうした無意識に働きかけれる力は馬鹿にはできないと思われる
最近ではまるで開き直ったように、テレビ局が特定の人物を頻繁に登場させている
話しだしたら止まらないタイプの人で、あまり彼のことが好きでない自分とすると
何故あんなに多く出演しているのだろう、、と思えて仕方ない
日本には放送法なるものがあって放送の内容は公正・中立でなければならない
とされているが、実態はそれが実現されているのか、、と疑い出すと
とても安心していられる状態にはないと思えてしまう
ということで、最近関心があってアマゾンの欲しい物リストに入っている書籍は
「プロパガンダ」広告・政治宣伝のからくりを見抜く(アンソニー・プラトカニス、エリオット・アロンソン著)
「メディアとプロパガンダ」(ノーム・チョムスキー著)
この手の本に関心が行くこと自体が、あまりよろしくない社会状況のような気もするが、、
ここでの投稿も一旦休むと一気にネタ切れ状態になってしまう
無理矢理にでも何かをアウトプットするのは、ボケ防止にはきっと良いだろう
ボケ防止の話題で今回気になったことは、愛知県知事のリコール
言い出しっぺの高須克弥氏が期間途中で、体調がもたないと署名中止をしたのだが
それ以前に選管には集まった署名簿を渡していた
その署名数はリコール成立に必要な数の半分の43万筆あまり(高須克弥氏によれば)
ところが、今回はここから大騒動が始まった
昨日のニュースでも報じられたがその署名の大半(8割との説がある)が
不正ではないかとの疑いがあるというもの
(同じ筆跡で書かれたものや、本人が書いていないとされたものが署名簿には存在したとか)
実は署名の不正の噂はリコール署名に協力したメンバーからもツイッターの投稿にあった
その中の一人は面識がある真面目な方で、自分とは考え方が違うが
彼のような考え方もあるのでリコール運動自体を否定するものではなかった
ただ、問題は以前にもここに取り上げたが
今回のリコールは本気で取り組んだ真面目なものではなかったと判断せざるを得ないのだ
単に騒ぐのが目的のようにさえ思えてしまう
このリコールの少しばかり関心があったのは、自身がリコール運動の経験者だったからだ
リコール運動をするには覚悟がいる
特に田舎の地域ではこのような過激な物騒な行動は、それだけで白い目で見られてしまう
そこで自分(たち)が行ったのは単に署名集めだけでなく
何故リコールという手段をとらなければならなくなったのか!
の説明を丁寧にすることだった
(ただ現実的には一部の人の中には他の政治的な要素があったことも否定できない)
選挙と違ってリコール運動は個別訪問が禁止されていない
初めて訪問する家も度胸を決めてピンポンするわけだ
そしてその訪問は現実にはとても時間がかかる
何故こうした運動をしているのか
現状はこうなっている(自分たちの解釈によれば)
今後どうすれば良いのかは多少不明なところがあるとしても
現状を変えなければ、、との思いを伝えるのには
最初から断る人を除いて毎回疲れるほどのエネルギーを要した
この効率の悪さから、リコールの可能性の行き先は見当がついた
(お世話になってるので騒ぎを起こしたくない人などの関係者の存在も大きかったが)
だが、あのリコール運動で良いことがあったとすれば
自分たちが不安に思う市の状況を、相手してくれた方に着実に伝えられことだ
それは市の広報誌の内容とは違うし、一部地区の問題とだけにして良いのかとの
重いテーマのものもあった
無関心で人任せだったことを、そのままで良いのですか?
と直接問いかけられたのは、それこそが収穫だったと思う
結果は成立のための13000筆以上に及ばない9000筆強だったが
署名簿の整理は関係者が丁寧に見て、同じ筆跡と思われるものは省いて
署名簿に通し番号をつけて、、、
つまり当たり前のことを時間をかけて行ったのだ
この当たり前の丁寧なチェックすらなされずに、高須克弥氏が
「43万筆以上を集まった」とメディアにリリースするのは
注目を集めやすいキャラクターの力を利用した印象操作としか思えない
コロナがあって個別訪問がしづらかったとしても、真にこのリコール運動に
取り組んだ人がどれだけいたのか大いに疑問だ
他地区からリコール運動の応援にきた方々も
少しばかり問題の多そうな団体の人間であったり
自分たちの主張を大声で繰り返すなど(つまりヘイト)
だから現実には署名を集める出先にも人は疎らだったらしい
今回のことで、自分たちの行ったリコール運動の切実な行動(自分たちにとって)も
変な連中がやってた馬鹿げた運動だった!
との印象を持たれそうな気がして、怒りを覚える
(もっとも多くの人はリコール運動があったことすら覚えていないかもしれないが)
日本を訪れた外国人が、日本的なものとして見たいと思うものの一つに大相撲があるが
それよりはむしろテレビで時代劇を見たら興味を覚えるだろうなと時々思っていた
ちょんまげのヘアスタイルなど、それだけで異国情緒満載だ
時代劇の定番といえば、松下幸之助が生きている間はずっと放送するように!
と言い残したとされる「水戸黄門」がある
勧善懲悪の毎回おなじみの物語が続くが
「この紋所が目に入らぬか」のセリフで、「へへーっ」と
座り込んで頭を下げるあの有名なシーンをみた外国人の中には
あの印籠からなにか光線のようなものが出ていていて
その光の特別な力でそうさせているのかと思う人がいたそうだ
(ウルトラマンのスペシウム光線のように?)
日本人ならそうは思わない
先の副将軍の立場の偉い人が急に現れたので、頭を下げることになったのだが
それは彼の「人としての偉さ」に対して頭を下げているのではない
逆らうようなことをすれば、何か罰のような(実力組織としての)力が
我が身に及ぶことを恐れているのだと思う
つまりは我が身を守るためにひれ伏すのだ
ただ、人は物語としては勧善懲悪のストーリーで気持ちもスッキリするので
実力組織をバックにもった人たちに無条件に従っていることには気づかない
偉い人イコール逆らったら怖い人
それだけで従っているかもしれない状況だが
これは現在にも当てはまりそうで少しばかり不安になる
つまり現在平穏に暮らしている穏やかな人たちは、上の人たちが人格的に偉いからではなくて
「偉い立場」にいるから偉いと思っているだけなのだ
有名な時代劇の定番シーンに暴れん坊将軍のそれがある
ドラマのクライマックスで「この顔を忘れたか?」
と吉宗が悪人たちに問いかける
悪人たちは記憶をたどり、不意にそしてその人物が自分たちの組織の一番上の存在と気づく
そこで悪人たちは「へへーっ!」と一旦は地面に額づく
ここまでは水戸黄門のそれとそっくりだが、この先が違う
悪人は開き直るのだ
「これは上様ではない、狼藉者だ、構わぬ、切り捨ててしまえ!」
組織の上の人間と知っていながら抵抗する、、
(最後は成敗の一言で一件落着する)
この2つの例「水戸黄門」と「暴れん坊将軍」
そのどちらのほうが、より人間的か?を考えると(事の善悪を除くと)
暴れん坊将軍の悪人のほうが人間的のように思えてしまう
人が権威に対して抵抗するのは(開き直りを含めて)普通のことのようにさえ思える
ところが問題は現在、権威に対しての抵抗(政権に対する批判等)は
ごく自然なことと思われるのに、それはなされているか?という点だ
それは充分なされてはいないのではないか
摩擦とか少しばかりの諍いを避けて、ひたすら偉い人(?)を
偉い立場というだけで奉ってしまう
このような日本人の従順さとか権威に弱いのは、アジア人に見られる傾向の一つらしい
権威に従っている理由をこうして(偏屈な視点から)想像するだけで
その権威に無条件に従っていて良いのだろうか?と疑問に思ってしまう
どう考えても、現政権は批判に値する(別の理解の仕方はあるとしても)
それが、世論とならないのは、、、不思議で仕方ない
無条件に従順でいいのか、、、
現在の一人ひとりが根本的に考えたなら、どんな答えが出てくるのだろうか
ステレオタイプ的に「若者は純粋で正義感がある」
とするのは幻想かもしれないと悲観的に思えてしまうこの頃
昔のことを言い出すと嫌われるが、自分らの若い時は
思い込みの激しい青い正義感に燃えた連中が世の中を変えようとした
その方法や根本的なところは問題が無かったとは言えないにしても熱量は確かにあった
そしてそれは三島由紀夫の「諸君の熱情は信じる」との言葉につながる
ところが今はどうなんだろう
若者は自由とか平等を学んできたはずなのに、それが脅かされつつあるなかでも
まるで無反応に、まるで自分とはかけ離れた世界の出来事のように眺めているだけだ
巷にあふれる弱者、それは将来の自分かもしれないと想像することもできないかのようだ
今の若者を見てると、透明なアクリル板で仕切られた魚のエピソード(実験)を思い出す
水槽に小魚を餌とする大きな魚と小魚を入れておく
ただしそこは透明のアクリル板で仕切られている
最初のうちは大きな魚は小魚を食べようとする
しかしアクリル板があるのでいつまで経っても小魚を食べることができない
そんなことを続けていたが、大きな魚が小魚に接近できないことを学習したと思われた時
透明のアクリル板を取り払ってみる
すると大きな魚は今度は餌として食べられるのに、今までのように食べられない、、
と判断して(?)食べようとしないのだそうだ
いつの間にか飼いならされてしまっていて、それに気づかないだけでなく
それに対して反抗さえしようとしない状況は
ハンナ・アーレントは「全体主義の起源」(3)で、数では優るユダヤ人が
収容所を管理するドイツ人に反抗しなかった例をあげている
それは基本的な人間性さえ破壊されているとしている
収容所は劇的に明らかに人間性を破壊している
しかし、今の世なかは、そうした人間性の破壊は知らず知らず行われている
肝心なのは誰かが気づくこと
それも時間がたっぷりあって、間違いを犯してもやり直したり、それを経験として
知恵とする事のできる若い人が、、
教育の影響も大きいだろう
でも、困ったときとかピンチのときには誰かが出てくる(と思いたい)
正義のヒーローみたいに
一番の不安は、こうした活力・生命力が、そもそも若者から欠けつつあるのではないか
と思われること
今の若者は未来のたちに
「あの時、あなた達は何をした!」
と批判的に追求されないことを祈るしか無い
ところで、いま自分たち(おっさん、おばさん)は何をすべきか?
今年はまだ少し日にちがあるが現在は読書モードではないので、読み終える本は増えそうにない
ここ数年続けている恒例の「今年読んだ本」は現在のところ
去年より数は少ない
内容と分量で読むのに苦労するような本が多かったせいもある
一方、一日で読んでしまった本もある
ほんの少し前のことなのだが、もう忘れてしまっているような本もある
これには落ち込んでしまうが、仕方ないと割り切ることにしている
この中から今年の三冊を選んでみると、2つは難なく選ぶことができる
「戦場のピアニストを救ったドイツ国防軍将校」(ヘルマン・フィンケ)と
「帰れない山」(パオロ・コニッティ)だ
前者は映画「戦場のピアニスト」の最後の場面で登場したピアニストを救った(見逃した)
ドイツ国防軍将校のノンフィクションで、彼の日記とか手紙がふんだんに使われたリアリティのある作品だ
トップの立場ではない、命令されたことを行う普通の人の生活感や感情が垣間見られる
そしてそれは、誰でも感じそうなことでそれ故にこうした記録が残っている事自体が
とても意味あることのように思えてくる
彼が休暇で妻のもとに帰ってきて僅かな時間を共にし、また離れていく時のやりきるぬ思いは
時も場所も違う自分にとっても切実なものとして心に残る
いつか、また読み直さねば!と心の中にチェックを入れてある
後者の「帰れない山」は描写が優れていて、目前に景色や行いが現れるような静かな物語
この人の語り口が良い
淡々と出来事を語っているに過ぎないのだが、それは雪のように静かに人のこころに積もっていく
大声で人生とは、、、などと語るのではなく、時間の経過が生み出す変化が、少しばかりの諦めの感情
を伴って人のこころに静かに語りかかける
そこで不思議なことに気がついた
今年は真面目な硬い本に関心がいっていたはずなのに、こうして振り返ってみると
その手の本はどうも印象に残った本としては選ばれていない
「自発的隷従論」「処罰社会」「監獄の歴史」「服従の心理」「歴史の終わり」「近代の虚妄」
「事実はなぜひとの意見を変えられないか」「メディアと感情の政治学」これらの本は確かに参考になった
自分の頭の中を整理する上と、新たな概念を知る上で
そしてまたいつか丁寧に読み直さねば、、とも思った
でも、振り返ってみるとこころに刻まれた量が多いのは、真面目な本というよりは感情を刺激する
タイプの本だった
もしかしたら3冊目は意外に良かったエレーヌ・グリモーの「幸せのレッスン」かもしれない
内省的な物語でヘッセの生真面目さを感じさせるような内容は、またじっくり読もうと感じさせるものだった
結局のところ自分の性格的なものは、左脳を活用する手の書籍よりは
右脳を刺激する書籍の方が好ましいと思っているのかもしれない
だが、もしかしたらそうではないのかもしれない
多く偉人が(物語としての)古典の知識を自らの判断材料としているのを知ってみると
一見空想の物語と思えるようなことも人には大きな影響を与えるものなのかもしれない
人には「作話作用」があると言っのはベルクソンだった(と思う)
この作話作用は案外馬鹿にできないぞ、、と実感するのだが、最近では困ったことに
陰謀論でもその力を発揮しつつある
ところで3冊目はグリモーの作品ではなく、特にこの一冊というより先にあげた真面目な本全体
ということろかもしれない(これらも読み直さねばと感じたので)
子供の頃は寒くても望遠鏡を覗いてた
それが今では、冬は空気が澄んでいて星がきれいに見られるとわかっていても
炬燵にあたってお地蔵さん状態から抜け出せない
でも別の人達がせっせと見たいものを見せてくれる
木星と土星が400年ぶりに大接近で、その天体ショーをテレビのニュースでも放送してくれていた
それで久しぶりにこの星を意識した
屈折式の天体望遠鏡を引っ張り出して、木星とか土星とかプレアデス星団を
寒さをこらえながら見ていたのは中学の頃だった
木星はあの模様が、土星は本当に輪が見えるのか、、
自分の目で確かめたくて外に出かけたのだった
木星のその特徴的な模様よりも関心を持ったのは衛星だった
当時は「天文ガイド」という雑誌を購入していて、そこには木星の衛星の配置が
日毎に掲載されていた
望遠鏡の中で見える衛星は本にある通りの配置で、なんでわかるのだろう?
ととても不思議だった(計算のなせる技とは言え)
土星は自分の望遠鏡では小さくしか見えなくて、ゆらゆら揺れるその像は
瞬間的に確かに輪があると感じさせるものだった
特徴的なかたちの土星よりは、衛星があちこち動く木星のほうが個人的には気に入っていた
だが、もっとお気に入りだったのは(覚えているのは)プレアデス星団だ
日本名で昴と名付けられたこの星の集合は、望遠鏡で覗いてみると
最初は主だった星が見えているだけなのだが、徐々に目が慣れてくると、どんどん見える星が増えてくる
それはまるで深海に潜っていくような感じで、望遠鏡の向こうの世界に吸い込まれそうな気さえした
そしてその時耳に聞こえる音は「シーン」だった
シーンという音はあるのだ
強烈に記憶に残ったのは、そのことだった
それでNHKの「チコちゃんに叱られる」で「なんで静かな時にシーンというのか?」
とテーマに上がった時に、「シーン」という音はあると説明されたときには
(自分の経験と照らして)我が意を得たりと思ったものだ
あの望遠鏡はいつの間にか用無しになってしまった
赤道儀では無かったので時間が経つと星を追いきれなかった
それで飽きてしまったのかもしれない
でも、たまには冬の空を覗いてみよう、、、という気は、、
(寒さには勝てないか、、、)
何故すっかり忘れてしまっていたのだろう
そのもの自体は強烈に覚えているのに
それをどこで見たのかはすっかり忘れていた
蓄音機のスピーカーのような形(法螺貝のような形)をした補聴器
そこにはそれがいくつも並んでいて
彼の音を聴こうとするすさまじい執念みたいなものが感じられた
彼とは、今年生誕250年を迎えたベートーヴェンだ
先日NHKの特番で尾高忠明氏がボンのベートーヴェンの生まれた家に
訪れた映像を見て急に思い出した
ボンのあの家で見たのだった
1976年、大して見るもののない小都市ボンを訪れたのは
ベートーヴェンの生まれた家を見るためだった
そして、そこで見たこれらの補聴器は、耳が聞こえなくなったベートーヴェンの無念さと
なんとしても音を聞こうとする執念が感じられて、悲しい思いをしたのだった
でもすっかり忘れていた
忘れちゃいけないことを忘れていた
あの年、ウィーンの中央墓地でベートーヴェンのお墓の前に立った時は
理由もなく熱いものが頬を伝わったのに、、
記憶は何故か覚えておくべきかたちで覚えていない
まるで夢のように勝手な印象としてのみ残る
そして心のなかに潜んだそれが、ある時ふっと蘇ってくる
思い出してはいけないこと、無理して思い出さなかったこと
そうした記憶もある
でもそれそろそれらを開放してあげても良いのかもしれない
記憶
年配者には振り返る時間が許されているとしたのはヘッセだった
振り返ると(記憶は美化されるので)人は優しい気持ちになれるかもしれない
昔子どもだった大人は、子ども時代を思い出すのはきっと悪くない
(特に政治家は)