日本の企業のモラルや信用が低下しているとされる不祥事
神戸製鋼・東レ・日産・富士重工・東芝、、、
これらはたまたま該当する企業が、たまたまいい加減な人物たちの起こした
稀有な事件かといえば、実はそうでは良いのではないか
企業風土とか伝統とか、そういったものから起きてしまったと解釈するほうが
わかりやすいかもしれないが、実はこれらは誰もが行ってしまう可能性のあることで
そう考えるほうがこの怖さが際立つ
自分がそのように感じるのは国会における官僚さんたちの答弁と被るからで
官僚さんは連続性が大事なので、前任者が口にしたことを簡単に翻すことが出来ない
少しばかり無理筋でも、それを自覚していても、公には同じことを繰り返し
自分たちの仕事の無謬性を (プロセスの)訴える
それは傍目にはどう見ても納得出来ないものであっても、自らの世界(判断基準が常識ではなく法の解釈)に
おいては 、そして自分たちの組織のためには当然とされる
(この様に行政も企業も間違いは継続される)
そうは言うものの、人には表情に人間性がにじみ出る
無理やりこじつけている様子が感じられる人もいる(今度の理財局長は鉄面皮のようではなさそうに見える)
結局のところ可哀想なのは後任の人たち、彼らはいつも前任者の尻拭いをしなければならない
これは国政だけでなく自分の住む新城市でも見られ、現在裁判沙汰になっている案件も
後任の建設部長は経緯をあまり知らないまま人事異動でこの立場に就き、納得出来ないまま(?)
連続性のある答弁をしなければならなくなっている
これらは傍目から見るとかわいそうだ
間違っているかもしれない、、ということに個人の判断で「NO」という
これは想像以上に難しいことなのではないか
企業内の空気、自分の立場、そして世間の空気、、それらが重くのしかかってきた場合
果たして人は傍観者のように客観的な判断が可能だろうか
強制収容所に多くのユダヤ人を送り込んだアイヒマン
彼がしたことを、その時の当事者でない人間が果たして裁くことができるのか
(彼がそれ以外の方法を取ることが果たして出来たのか、、)
これについては、結果責任だけでなくその立場を踏まえた上での考察も行われていて
それこそ丁寧な裁判が行われたが、このような丁寧な手続きが今の日本で可能なんだろうか
組織の中での個人の判断の発露
それが容易であったならこんなに似たような事件は起きなかった
これは日本だけでなくフォルクスワーゲンやベンツでも起きている
いやもっと詳しく調べていけばもっと出来くるに違いない
となると日本だけの問題ではなくて、世界中の組織に属する人たちの
もしかしたら拒みようのない傾向なのかもしれない
こうした場合、肝心なのはその立場にいたら自分も弱い人間の1人で
間違った(あとで不利益を被ることになる)判断をしてしまうかもしれない
と想像する力なのではないか
あるところまで行ってしまうと、もうどうにも引き帰ることの出来ない状態になってしまう
だから、そうなる前にまだ気軽に(?)ものが言える状態の時に物を申す
できるだけ、様々な意見が言える状態をつくり、それを維持する、、
そういうことが肝心なのではないか
だがこの言いたい時にものが言える世界が少しづつ侵されつつある
些細なことだが直近の例では日馬富士の引退について、マスコミはまったく同じトーンで
結局は引退への道筋を作り上げて、その中で、それ以外の考えを述べることは
とても難しい空気を作り上げた
そして空気を作り上げるのは、見る人が少なくなって来たとは言うものの
依然として大きな力を持つテレビや新聞のマスメディアの力で
この報道の方向性が最近はどうも怪しい
取り上げるべき問題は取り上げられず、「パンとスキャンダル」が視聴率を確保するものとして
繰り返される、、それは愚民化政策、、そのもの
確かに馬鹿馬鹿しいニュースが広まるのは、現在が幸せな状態を反映しているかもしれないが
徐々にマグマのように広がりつつある不安の種に注目し報道しないのは、想像力の欠如だ
そのうちに言いたいことが言えなくなる、、
人はみんなが尊敬されるほど強い存在(どんなときも正論を発言できるような)ではないこと
一人ひとりが情けない存在でしかないとしたら、今のうちにできることは、、
多様な意見の存在自体を認めること、、しかしこれが日本ではかなり難しそう、、
ということで、最近のこの国が心配ってこと
田舎のおっさんができることって、こうやって愚痴をこぼす事くらいかもしれないが、、
ほんと、不安の正体はなんだろう(北朝鮮よりも別の事のほうが不安を感じる)