パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

根っこは皆同じ

2017年11月30日 08時23分22秒 | あれこれ考えること

日本の企業のモラルや信用が低下しているとされる不祥事
神戸製鋼・東レ・日産・富士重工・東芝、、、
これらはたまたま該当する企業が、たまたまいい加減な人物たちの起こした
稀有な事件かといえば、実はそうでは良いのではないか
企業風土とか伝統とか、そういったものから起きてしまったと解釈するほうが
わかりやすいかもしれないが、実はこれらは誰もが行ってしまう可能性のあることで
そう考えるほうがこの怖さが際立つ

自分がそのように感じるのは国会における官僚さんたちの答弁と被るからで
官僚さんは連続性が大事なので、前任者が口にしたことを簡単に翻すことが出来ない
少しばかり無理筋でも、それを自覚していても、公には同じことを繰り返し
自分たちの仕事の無謬性を (プロセスの)訴える
それは傍目にはどう見ても納得出来ないものであっても、自らの世界(判断基準が常識ではなく法の解釈)に
おいては 、そして自分たちの組織のためには当然とされる
(この様に行政も企業も間違いは継続される) 

そうは言うものの、人には表情に人間性がにじみ出る
無理やりこじつけている様子が感じられる人もいる(今度の理財局長は鉄面皮のようではなさそうに見える)
結局のところ可哀想なのは後任の人たち、彼らはいつも前任者の尻拭いをしなければならない
これは国政だけでなく自分の住む新城市でも見られ、現在裁判沙汰になっている案件も
後任の建設部長は経緯をあまり知らないまま人事異動でこの立場に就き、納得出来ないまま(?)
連続性のある答弁をしなければならなくなっている
これらは傍目から見るとかわいそうだ 

間違っているかもしれない、、ということに個人の判断で「NO」という
これは想像以上に難しいことなのではないか
企業内の空気、自分の立場、そして世間の空気、、それらが重くのしかかってきた場合
果たして人は傍観者のように客観的な判断が可能だろうか

強制収容所に多くのユダヤ人を送り込んだアイヒマン
彼がしたことを、その時の当事者でない人間が果たして裁くことができるのか
(彼がそれ以外の方法を取ることが果たして出来たのか、、) 
これについては、結果責任だけでなくその立場を踏まえた上での考察も行われていて
それこそ丁寧な裁判が行われたが、このような丁寧な手続きが今の日本で可能なんだろうか

組織の中での個人の判断の発露
それが容易であったならこんなに似たような事件は起きなかった
これは日本だけでなくフォルクスワーゲンやベンツでも起きている
いやもっと詳しく調べていけばもっと出来くるに違いない

となると日本だけの問題ではなくて、世界中の組織に属する人たちの
もしかしたら拒みようのない傾向なのかもしれない
こうした場合、肝心なのはその立場にいたら自分も弱い人間の1人で
間違った(あとで不利益を被ることになる)判断をしてしまうかもしれない
と想像する力なのではないか
あるところまで行ってしまうと、もうどうにも引き帰ることの出来ない状態になってしまう
だから、そうなる前にまだ気軽に(?)ものが言える状態の時に物を申す
できるだけ、様々な意見が言える状態をつくり、それを維持する、、
そういうことが肝心なのではないか

だがこの言いたい時にものが言える世界が少しづつ侵されつつある
些細なことだが直近の例では日馬富士の引退について、マスコミはまったく同じトーンで
結局は引退への道筋を作り上げて、その中で、それ以外の考えを述べることは
とても難しい空気を作り上げた

そして空気を作り上げるのは、見る人が少なくなって来たとは言うものの
依然として大きな力を持つテレビや新聞のマスメディアの力で
この報道の方向性が最近はどうも怪しい
取り上げるべき問題は取り上げられず、「パンとスキャンダル」が視聴率を確保するものとして
繰り返される、、それは愚民化政策、、そのもの

確かに馬鹿馬鹿しいニュースが広まるのは、現在が幸せな状態を反映しているかもしれないが
徐々にマグマのように広がりつつある不安の種に注目し報道しないのは、想像力の欠如だ 
そのうちに言いたいことが言えなくなる、、
人はみんなが尊敬されるほど強い存在(どんなときも正論を発言できるような)ではないこと
一人ひとりが情けない存在でしかないとしたら、今のうちにできることは、、 
多様な意見の存在自体を認めること、、しかしこれが日本ではかなり難しそう、、

ということで、最近のこの国が心配ってこと
田舎のおっさんができることって、こうやって愚痴をこぼす事くらいかもしれないが、、
ほんと、不安の正体はなんだろう(北朝鮮よりも別の事のほうが不安を感じる) 

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京都をぶらり

2017年11月27日 08時56分06秒 | 旅・旅行

勤労感謝の日の「アッシジの聖フランチェスコ」を聴いたあとでは
自宅に帰る電車がないと思われたので、その日は京都に宿泊して
今は見頃の紅葉狩りを楽しむことにした

翌日の朝食はいつもの時間と同じくらいに済ませて、
さっそく出かけたのはホテルから直ぐ近くの東寺
入り口のポスターには、この時期は夜間照明が行われているとあった
(しまった、知っていたなら先日に出かけたのに)
 

東寺は以前来たことがあって、五重塔の立体曼荼羅も訳がわからないが
見たことには間違いなく、それ自体にはあまり興味がなかったので結局境内を
さらっと見ただけでこの場所をあとにした
(変なことが浮かぶのは毎度のことだが、東寺を囲む塀は東本願寺や御所の塀とおんなじで
 これらはきれいだな!と再確認した) 

この日は、まずは1日乗車券を手に入れた
バスと地下鉄のセットで1200円のやつだ
そこから向かう先は、京都国立博物館の国宝展
比較的早い時間だから大丈夫、、と思ったが、甘かった

チケット購入から入場まで手書きで50分のメッセージ
チケットを手にしても、こんな風にしっかり並んでいる
普通なら、こんなに並ぶのはかなわん、、とスタコラと避けてしまうのだが
今回は特別何かが見たいわけでもなかったが、覚悟を決めて並ぶことにした
徐々に入り口に近づいて来た時、後ろにずっと並んでいる人たちを見ると
何やら自分が得したような、、ついご苦労さん、、と声をかけたくなるような気になったのは何故だろう

国宝展は、正直、しっかり見られたとはいえない
入場まで時間がかかりすぎて、少しばかり体力を失い、それにともなって気力も低下 
おまけに陳列された壁近くに多くの人がへばりつくように作品を凝視して列は少しも動かない 
もったいないことだが、こういうときはいつもざっと見るだけにしている
そのなかで幾つか印象に残って記憶に刻まれればそれで良しとしている

あたり前のことだが最初に見るものが印象に残る
それは仏像で、これは単純にきれいだと感じた
仏像の衣装や頭の装飾、その細かな細工の面倒そうなこと
作者の表現意欲 ってのはどこから湧き出てくるのだろう、、と
誰かに命じられて作ることになったとしても、この面倒な作業を喜々として行う人物がいる
喜々として行うこと自体が一種の才能とも思われるが、人の表現意欲の不思議さを感じてしまう
また巻物のところではお経に合わせて文字の横に、仏画を小さく、しかも表情は変えて書かれたものがあった
いろんなことを考える人がいるものだ、、ということと、つい「美は細部に宿る」ということがを思い出した

細部までこだわり、おそるべき集中力で完成する人たち
その当時は芸術家というより職人といわれる人たちの扱いだっただろうけど
改めて人ってのは、いろんな能力のある人が いるものだと呆れてしまった

せっかく入ってざっと見ただけのもったいない国宝展
記憶に残ったものは、円山応挙の松の木に雪が積もった大作
これは何故か良くわからないが迫力があった
有名な神護寺の源頼朝の肖像画はこんなに大きなものか、、とおもったが
細部は人が多すぎて近くで見れなかった
陶器の油滴天目は、確かに綺麗と言うか神秘的な雰囲気まるで宇宙を想像させる 
志野の茶碗よりも井戸の茶碗が自分は気に入った(落語の井戸の茶碗のせいかも?)
字の上手な人の残した巻物の中で、うっすら書かれた文字の上に無作為に(?)
左下に斜めの文字で何かが書かれて、それは文字がうまいと言うのではなく
全体としてビジュアル的にきれいな印象を受けた

結局のところ細かなものは人が多すぎて、大きな作品しか見れなかったが
その他に興味深く感じたのは衣装
白とか黒の絹の衣装かと思えば、よく見ると柄が織り込んである
目立たないけど見る人が見ればわかるというこのおしゃれな感覚、、
衣装には関心がないが、これらのことは女性にとってはごく普通のものかもしれない
ここでも「美は細部に宿る」が生きている

この国宝展は期間中、展示物の入れ替えがあって見られないものがたくさんあったが
この国宝展での自分の発見は「円山応挙」が良かったという点
それを感じただけで、まずは良しとしなければ

この後、将軍塚の大舞台を見に行こうとしたが、交通の便が悪そうなので今回はパスして
むかし紅葉狩りで出かけて、とても良い印象がある「真如堂」へ出かけた
確か金戒光明寺の近くのはず、、で1日乗車券をフルに活用した
金戒光明寺は幕末に会津藩の松平容保が滞在したところ
ひところ土方歳三(新撰組ではなく)に凝った時に、ここを訪れたが
思いの外何もなくてガッカリしたような記憶があるが、
そのあと訪れた真如堂の紅葉は何枚も写真にとってあり、その時は興奮したのだろうと思われた
だが残念、今回は雨には降られなかったが太陽が顔をだす時間が少なかった
紅葉の色は太陽が出てるときとでていない時は随分印象が違う
木々や葉っぱを太陽の光を通して見ると、赤・黄・緑が何とも言えない
写真を撮ることに気を回すと紅葉自体を楽しめないが、それでももったいないということで
光が出た瞬間スマホで撮影したのが

 
この写真ではわからないが、光の下では本当にきれいだった
この場所以外にも赤・緑のグラデーションが見られるところが何箇所かあり
つくづく京都の紅葉は別格の思いを強くした
(その紅葉自体の葉っぱの色と形、枝ぶりは、自然そのものというより
 どこか洗練された緊張感を感じ、その感覚は京都以外ではなかなか感じられない)

しかし、国宝展の立ちっぱなしのダメージは大きくて、この日の集中はあまり続かず
少しもったいない紅葉狩りとなったかもしれない
(昔みたいにあちこち歩きまわって、電車賃分だけは元をとろうなんてことはできなくなっている)
でもつくづく、本当に京都は、京都の紅葉は、、凄い
この紅葉を見ていた時、ふと藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮」が浮かんだ
西行の深い「心なき身にもあはれ知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ」と比べて
小林秀雄の評価は低いようだが、自分は藤原定家のちょっと人工的であっても
凄まじいイメージの展開とその効果が好きだな、、
(これはジョン・レノンの深さとポール・マッカートニーの心地よさと似ているような気がしてる)

ということで、恒例の京都の紅葉狩りは今年も行けた
おみやげは漬物で良いから、、という同居人のリクエストは錦市場でゲット
この日歩いた距離は14キロちょっと、疲れた、、、 

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「アッシジの聖フランチェスコ」(全曲)びわ湖ホール

2017年11月25日 17時59分53秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

11月23日の勤労感謝の日、滋賀県びわ湖ホールに出かけた
目的は、これ

オリヴィエ・メシアンの大作「アッシジの聖フランチェスコ」の全曲日本初演を聴くためだ
(正確には東京で初演は済んでいる)
13時スタートで18時30分が終演予定となっている長い作品だ
実はこの曲の小澤征爾が指揮したCDはもっているが、最後まで聴けずにいる
スピーカーを前にしての数時間は今の自分の集中力からすると、とても無理なので
いっそ現場で聴いてしまえと思い立って出かけたのだ

この曲の楽しみ、というかメシアンの音楽を聴く楽しみは「鳥のさえずり(音楽)」が聴けることだ
メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」も「クロノクロミー」も「峡谷から星たちへ」も「鳥のカタログ」も
鳥が主役になっている部分がとても気持ちがいい
この曲の冒頭もマリンバが鳥たちのおしゃべりを連想させるフレーズを繰り返す
それだけで自分はいい気持ちになるのだが、ちょっと気が進まない部分もあるのも事実
金管の荘重な「メシアントーン」のような部分は、ワンパターン化していて
(それ故にキリスト教の何かを示しているのかもしれないが)これはCDで聴いていても
退屈さを感じてしまう
現代音楽という分野に属するこの音楽技術の面ではリズム・色彩・旋法・クラスターなど
素人にはわかりにくく難しいことに取り組んでいるらしいが、そういう難しい話は横において
今回はひたすら鳥の音楽を聴くつもりで足を運んだ

当然のことながら鳥の鳴き声が出るところは無条件に楽しめた
難しく考えることも、無理やり集中することもなく、ただ浴びるように鳥の音楽を体感するだけ
それだけで十分なのだが、それでも生を聴いていると、それ以外にほっといてもいろんなことが思い浮かぶ 
多分これがフランチェスコのモチーフなんだろうと思われる旋律が何度か現れて、その色彩も表情も
登場する度に変わっているが、これはヴァーグナーのライトモチーフの応用かな、、
だとしたらヴァーグナーのほうがリアルで生々しいな、、とか
メシアンの以前の作品「トゥーランガリラ交響曲」で使われた金管のテーマが出てきたようで、
これは何の意味だったのだったろうかとか、
また一幕の終わり部分では皮膚病患者に口づけをする時に 「トゥーランガリラ交響曲」の「愛のまどろみ」の
絶妙なハーモニーが出てきてうっとりしたり、、、
大編成のオーケストラに大規模のコーラスも舞台上に並んでいるがコーラスは歌詞を歌うというよりは
音楽の陰影とか空気・雰囲気を呼び起こすものとして使われていて効果的だな、、とか

昨日は京都に紅葉狩りで音楽のことは少し頭から離れてしまったが
2日経った今日(11月25日)の時点で忘れずにいるところを抜き出すと
2幕では天使のノックの部分がストラヴィンスキーの「春の祭典 」のように聴こえた
ベートーヴェンの田園の雷のような音楽的というよりは騒音に近い
そして現代の大音量のロックに近い印象で、これがまさしく現代音楽ということを彷彿とさせた
この騒音に近い「春の祭典」のような音楽は三幕でも再現され、この時は「春の祭典」ではなく
ブルックナーの9番の交響曲の第2楽章のスケルツォが頭に浮かんだし、そのことでブルックナーは
現代的な音楽なのかもしれない、、とブルックナー大好き人間は想像してしまった 
この日の圧巻は、鳥の音楽が聴きたかった自分が満足した「鳥に説教する聖フランチェスコ」の部分で
クロノクロミーみたいに数分間にわたって鳥のさえずりが延々と続き
音符で書くと多分とっても複雑な楽譜になっているだろうが、音にしてみると(自分の耳には)心地よく感じられた
この部分はメシアンの鳥に対する告白とか愛みたいなものに違いない、、と頭に浮かんだ
そしてメシアンのもう一つの愛の対象は「キリスト教」
自分は少しばかり教会に通ったことがあるが、結局キリスト教徒になれなかったので
この様に無条件に受け入れることが出来ない
だから聖書の言葉も天使のメッセージも思い込みの世界のひとつ、、なんだろう、、と
一歩引いたところに立場を確保したが、それでもメシアンの真剣さ・ひたむきさにはうたれるものがあった
このオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」はマタイ受難曲よりも切実な「パルジファル」よりも
儀式に近い祭典音楽のように感じられた(音楽体験というよりは儀式・祭典として演奏される方が良いかもしれない)

そうだ、もう一つ思い出した
第一幕の最後の天上のコーラスみたいなところ、まるでパルジファルみたいだった

実は始まる前は、楽しみにしていたものの寝てしまうのではないかと心配していた
鳥の歌以外のレシタティーヴォのような会話の交換
パターン化した金管の荘重な響きは、もしかしたら長いことは耐えられないかもしれないと思ったのだ
だが、さすがライブのなせる技  その心配は無用となった
退屈しなかったことの他にもう一つ気づいたこと、それはびわ湖ホールの椅子は
長いこと座っていてもお尻が痛くならないことだ
10月に「神々の黄昏」を見た(聴いた)新国立劇場は途中でお尻が痛くなって
姿勢を時々変えたくなったが、今回はそんなことはなかった 

それからもう一つ、熱心なキリスト教徒であったメシアンは最後は「神の栄光」を
なんとしてもフォルテで表現したかったに違いないと感じたが
そこから連想は羽ばたいて自分の大好きなブルックナーも最後は「愛する神に」
フォルテで肯定的に終えたいと思ったのだろうと根拠のない連想をしてしまった

ところで、びわ湖ホールで配られたチラシに来年「ワルキューレ」が上演されるとあった
これで味をしめて、足を運ぶ、、ってことになってしまう、、かな
「ワルキューレ」より「トリスタンとイゾルデ」か「パルジファル」の方が良いのだが 

 

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兄妹はよく似てる

2017年11月22日 11時18分03秒 | 徒然なるままに

先日、近くに住む妹が家に来た
カズオ・イシグロの文庫本「夜想曲集」を見せて
少しばかり流行に乗っているところを自慢した
その時、ひょいと「個人的には村上春樹よりも好きかも」とこぼすと
「実は私も村上春樹、苦手じゃんねえ」
「それから東野圭吾、どんなに流行っててもダメ。どうしても読む気がしない」
「なんだ、それって僕も、、一冊だけ読んで、どうしても読む気がしなくて、、」

どうも、親が同じって言うことで、苦手な作家さんも一緒だ 
ところで、苦手な作家さん、太宰治、中原中也、三島由紀夫、
苦手な作曲家、チャイコフスキー、ラベル、バルトーク 、
好きなのは、北杜夫、辻邦生、ヘッセ、モーツァルト、ブルックナー、ベートーヴェン
苦手なのは同じかもしれないが、好きなのは一緒じゃないだろうな、、きっと 

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選挙の後の選挙(議長・副議長選)

2017年11月22日 08時19分53秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

自分の住む新城市の少し面白くない話

新城市では10月に市長・市議会議員の選挙が行われた
選挙が終わったあとで、選ばれたからと言って白紙委任ではないから
選ばれた人たち、ちゃんとしたお仕事、お願いしますよ!
僕らはちゃんと見てますからね
と、あるブログで宣言したが、その宣言を果たすべく昨日新城市の臨時議会に出かけた

新しいメンバーになって初めての議会
その大きな目的は議長と副議長の選出(他にも議題はあったがメインはこれ)

話をすすめる前に、そもそも論を少しばかり
昨日も「市政において市長と議会は車の両輪」とさも当たり前のように話した人がいたが
市長と議員さんはそれぞれ別々に投票によって選ばれている
国政のように議員さんを選んで、その中から行政のトップを決めるシステムではない
だから自ずと市長と議会の果たす役割や市民から要求されるものが違ってくる
市長は未来を見越した計画や方針、円滑な行政運営を担い
議員さんによる議会はそのチェック・監視機能が期待される
こうした意味合いでは「市長と議会は車の両輪ではなく、アクセルとブレーキ」
の役割分担と考えるほうが普通の様に思われる
(チェック・監視機能といってブレーキを踏みっぱなしの状態となるのは必ずしも好ましいとは思わないが)

この役割を持つ議会のトップ、議長さんの選出が行われたのだが
再びそもそも論に戻ると、議長さんの役割とは一体何か?と考えると素人にはなかなかわかりにくい
議長さんは議員報酬の他に議長としての手当が支払われる
一般議員さんよりは多くの仕事・責任を負うものだからなのだろうが、
いったいそれは具体的に何だろう
議長さんの役割といえば議場で前にドンと座って、質問者や答弁者の名前を交互に告げて
時には質問・答弁について注文をつけ議事進行をはかるみたいなところが思い浮かぶし
実際のところ自分もそのくらいしか想像していなかった
確かに議事進行については多少の知識・技術が必要と思われるが
これは特別な能力を要するというより慣れによって身につくものと考えられる
しかし、議事進行だけが議長の役割かと言えば、、実はそれ以外の仕事のほうが重要らしい

議長の議事進行以外の仕事
最近の新城市議会の例では、つくってから手をつけずにいたままの「議会条例」を
見直し検討し、それに伴う議会改革を進めるよう指示したのが議長だったということだ
何回も行われた「議会改革検討会議」は議長の発案によって行われたということ
そして、これはある議員さんから聞いた話だが、議長には年度予算の案が
議会に上る前に提出されるらしく、議長はその案を細かくチェックし、不備なところや
納得し難い部分があれば予算案の再提出を要求することができるし
それが議長の重奏な仕事のひとつであるともされた
この様に予算まで(一般議員よりも)直接関わるとなると、議長というのは
一般人の生活にも直結した立場の人物ということが言える

その重要な職責を担う議長の選挙が行われた
選挙と言っても投票権があるのは議員さんだけ
議員の中から議長・副議長の役に就きたいと希望するものが立候補し
決められた手順を踏んで投票によって決められる
この決められた手順には立候補者の所信表明がある
昨日の場合では議長立候補者、丸山議員・鈴木(達)議員の二人が
副議長立候補者、山口議員、山崎議員、村田議員の3人が投票の前に
制限時間5分以内で、立候補した理由、何を行うか、目指すもの等を熱弁することとなった(はず)

議長や副議長(この役割は何となく分かるが実はよくわからない)が割合市民生活に直結しそうな
だけに、その思いを吐露する内容は、果たして議員さんだけが聞いてて良いものだろうか
一般市民もそれを聞けられる方が良いのではないかとも感じたし(面倒くさいと感じる人の方が多そうなのは想像がつくが)
もし、市民が昨日の所信表明を聞いたならば、そして所信表明で判断するならば、
昨日のような結果にならなかったのではないかと思えてならない

それぞれ5分以内の所信表明
傍聴席にいて、とりあえずメモした
最初に議長立候補者の丸山議員・鈴木(達)議員
詳しい内容は小野田議員のブログに書かれている通りで、個人的には所信表明の優劣というよりは
キャラクターの違いみたいなものを感じた

問題は副議長の所信表明だ
山口議員がトップバッター、ボツボツを話す特有の話っぷり、申し訳ないが思いの外真面目な印象
次に山崎議員、この議員さんは自分は無条件に受け入れられるタイプではないが、
それでも副議長としての役割を果たす気構えは感じられる
最後に村田議員、ここに来てメモしていた手が止まってしまった
一体何を話しているのだろう、、話すべきは副議長としての立候補理由や何を目指し、何をするかであるのに
音として出てきた言葉は、新東名の話やらスマートインタの話やら、まるで市議会議員選挙の演説のよう、、
今はそれとは関係ないだろう、、、
だんだん怒りが湧き上がってきた、、そして立候補したわりには熱意とか説得にかける思いは全然感じなかった

村田議員に対しては厳しい評価かもしれないが、この所信表明を見た人は少なからず同じような思いを持つに違いない

最終的な結果は、議長選は 丸山11票、鈴木(達)7票で丸山議員が議長に
副議長選は、山口5票、山崎3票、村田9票、無効票1票 で村田議員が副議長に選出され
今朝の中日新聞にも掲載されている

へそ曲がりだから、そこでいろんな妄想をしてしまう
議員さんは一体何を根拠に投票したのか、、
明らかに所信表明の内容ではない(それに準ずるならば違う結果となったはず)
今回は5人の新人議員がいる
彼ら彼女らは果たして何を基準に選んだのだろう
彼ら彼女らは立候補者の人間性・実力・方向性を知っているのだろうか
少なくとも数人は議会傍聴席で見かけたことはなかった
もしかしたらティーズで見ていたかもしれないが、まだよく知らないと想像するほうが無理はない
その知らない人を選択するとなった時、その選択の材料は普通は所信表明に頼るほかはない
でも、所信表明が(個人的には)一番ひどかった人物が選ばれている
正直これには大きな違和感を感じる
この副議長選の票数の内訳は、時々傍聴に出かけている人間には当たらずとも遠からずの見当がつく
山口議員への5票、無効票の人物、山崎議員の3票のうちの2票は類推できる

結局は数を持ったものが勝ち
多数決は決断の最終手段に過ぎないが、多数決をもって民主主義の正当な進め方とする昨今の状況
そのためにの数の確保が主要命題となって、市政においては「根回し」といわれる行為が
幅を利かせるようなことになる
日本では当たり前、常套手段とも言える「根回し」だが、名古屋の河村市長の話によれば
姉妹都市のロスアンゼルス市の議会は、党に属していても市の議決に関しては拘束はなく
議員個人の判断を重要視し、「根回し」のようなことは一切行われないのだそうだ
(アメリカで党の拘束を受けるのは大統領選のときだけだそうだ)

このロスアンゼルスで行われような議員個人の判断による選挙が今回行われたか、、、
正直なところ、それはわからない
でも強烈な違和感は、所信表明の迫力が一番なかった人物が選ばれてしまったという事実
そしてこの人物は、当初、副議長の立候補者には入っていなかったのに
ここ数年、議会は討論する場ではなく、採決をする場だけになっている、、
それで良いのか、、この不満がずっとくすぶっている
 
ちゃんと市政を見てるから、、と冒頭に挙げたが、
有志は住民投票以来定期的に情報交換や会議を行っている
昨晩も夜遅くまで会議は行われた
市の財政の話(どうも大幅カットの予算が出てきそう)
土地開発公社の大幅な負債の話
若者議会の図書館リノベーションと図書館を管轄する教育委員会とのすれ違い
市民に上から目線でなく市政に関心をもってもらための方法
今はこれらを適宜、情報として流していく方法を検討しているところ

相変わらずグダグダとまとまりのない話、、
本当はバカ話が好きなのだが、、


 

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常識とは、、、

2017年11月20日 08時32分22秒 | Weblog

最近は新城から豊橋に出かける時は県道81号線を使うことが多い
新城の富岡から和田辻、石巻に至る信号が少ない道で、燃費が伸びるしストレスもたまらない
この時期になると、豊橋よりの地区では道の両側に無人の柿の販売所が設置される
少し見てくれが悪い柿が5〜6個入って一袋200円
家で食べるだけなら見てくれは関係ないからお買い得で、時々利用している
でも、時々フト思ったりする
無人だからお金を払わずに商品だけ持って行ってしまう人はいないだろうか、、と
柿が置かれた台の近くには商品代金を入れる箱、あるいは竹筒が置いてあるだけ
柿を拝借するだけでなくこの集金箱を持って帰る不届き者はいないのか、、
だが、何年もこうして続いているところを見ると、いたとしてもそれほど問題となっていないのかもしれない
この様に無防備に人間を信頼してる姿を見せられると人は悪いことはしにくいのかもしれない

今年読んだ認知心理学の本に、困った状況にある人物が周りの人に手助けを依頼する時
単に助けてほしいと依頼した場合と、お金を払うから手助けしてほしいと依頼した場合の
手伝ってくれた人の数を調べる実験の報告が書かれていた
それによると、圧倒的にお金はもらわないで、タダで人助けをするほうが多かったのだそうだ
人はお金に支配されるところがあるというものの、人はお金だけじゃないってところもあるのだろう
このメンタリティが(違ってるかもしれないが)無人の販売所における料金の支払いとなってるのでは
と勝手に想像した

このお金の支払について、非常に興味深い情報がネット上の投稿にあった
ある人物がスーパーで買物をして、その商品(お菓子だったかジュース)を
レジを通す前にお腹に入れてしまったが、それはどうなのか、、という問だ
レジを通す前に処分しても結局は支払うので問題は無いとする考え方と
どう見てもダメでしょうという考え方があって、この後者の考え方をする人(多分日本人の多く)が
新聞の投書欄にその旨の投稿したのだが、日本人は無条件にそう思うかもしれないが
果たして世界的にはどうなのか、、と世界に住む日本人に各国の実情を質問したら
たくさんの答えが返ってきて、それがとても意外だったのだ
それによると、レジを通す前に食べてしまったり飲んでしまったりすることは結構見られるということだ
アメリカでもフランスでもイタリアでもシンガポールでも、そんなことは当たり前の様に見られるらしい
自分はその行為が美しくない、、という理由であまり賛成できないが
これだけ、そのような行為は問題なしとしている国(人)が多いとなると
日本人だけのモラル感で常識を判断するのは、少しばかりまずいのかもしれない

日本の常識は世界の非常識
とまではいかないとしても、世の中にはいろんな考え方があるものだ

ところで、自分が驚いた外国での経験のひとつはウィーンの地下鉄駅でのこと
ある若い女性が歩きながらバナナの皮を剥き、何の恥ずかしそうな様子もなく
ムシャムシャと食べ始めたのだ
「おいおい、ここでそれをするか、みっともない、、」
でも周辺にいた人たちは何事も無いかのようにやり過ごしている(無関心?)
おせっかいな自分が次に浮かんだのは「バナナの皮はどうやって処分するのだろう、、」
ゴミ箱は近くにあるのだろうか、、家まで皮をもって帰るのだろうか、、
それが気になりだすといつまでも頭から離れない、、どうするのかな、、、
人の記憶というのは不思議なもので、こんな他愛もないことがしっかり頭に残っている
あんなことも彼の地では当たり前(常識)のことだったんだろうか、、


 

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不信感と不安感

2017年11月19日 08時44分35秒 | あれこれ考えること

最近感じること、それは「法に則って」ということが額面通りに信じられないことだ
この場合の法とは、法の中身というよりは、運用する場合の過程が決めた方法に準じているだけで
その法の中身がどうなのかはかなり怪しい

最近の例では森友学園の交渉過程の記録が、ものによっては(それに該当するか問題だが)
一年以内に消去して良いとされて、それでもって「法に則って」行動していると
官僚さんたちは苦しい答弁を繰り返し、その結果本質につながる追求はできなくなっている 

新城市の例で言えば産廃業認可申請のプロセスでこの問題が起きている
そもそも認可申請の書類に記されていることが実効性があるのか(悪臭防止について)
それが地元関係者の方々が独自の調査によれば、かなり怪しいので追求すると
あまり答えになっていない(説得力のない)答えが返ってくるだけ
例えば悪臭防止の肝となるロックウールの性能については、下水汚泥についての実績がなく
また設備の絶対量も不足していると考えられるとしても、返ってくるのは
メーカーからの少し不安げな印象の残る返答で、結果的に操業が始まってからは
悪臭を感じることになって、この性能保証は信用できないものとなっている
悪臭についてはロックウールの問題だけでなく施設の密閉性も問題となっているが
これも事前に不安視されたことなのだが現実に起きてしまっている
「法的に問題はない」と結論が出されたが、これは正確には「手続きに」の言葉が最初につくはずだ
内容については曖昧なところがあるが、手続きには問題がない、それでもって「法的に問題はない」とされた
しかし現実には懸念したとおりの問題が起きている
こうした場合、違っているのは何か、、そもそも法自体がおかしいのではないのか
となるのだが、ここで大きな壁となるのが「行政の無謬性」
つまり「行政は間違いをしない 」という考え方と、もう一つ「誰に責任が有るか不明」なことだ
話がややこしい段階まで来ると、自然と組織防衛の機能が働くようになる
そして責任と言うものがどこにあるのか曖昧にされる
官僚や職員、政治屋さん以外の庶民の普通の感覚からすれば、どう考えても納得出来ないことが
よくわからない抽象化された言葉でもって曖昧にされ、そのお墨付きとして「法に則って」の言葉が添えられる

話は変わって、最近、小難しい本ばかり読んでいたので気分転換に少しばかり生々しいノンフィクションを読んだ
「Black Box」伊藤詩織氏の実体験の勇気ある告発本だ
元TBS社員の山口氏のレイプの内容うんぬんは別にして
(今日の話の関連からすると)ここでも「法」と言うものは随分いい加減なものと感じざるを得ない
密室で起きたこと、その事件の実証性のなんと難しいことか(その際の聞き取りの配慮のなさも問題)
それは「疑わしきは罰せず」の方針とは少し違う印象を受ける
むしろ時代に合わせて変えるべき点も面倒だから変えずにいて、
それでいて「法に則って」と結論づけたいような、、、
「疑わしきは罰せず、、」この理屈が十分に世の中にまかり通っているのなら
なぜ冤罪事件はこんなにも多く存在するのだろう

「法に則って」この一言への不信感
少しばかり知恵がついてくると(?)いろんなことが素直に信じられなくなる
この不信感は「法」だけでなく最近は「メディア」にも向けられる
不信感がまるで通奏低音のように響き、それが漠然とした不安感に結びついている
漠然と感じる不安感、、それは年齢のせいだけではないと思うのだが

 

 

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「孤独な群衆」を再読して連想したこと

2017年11月17日 08時53分25秒 | 

約300ページ、しかも文字がページ全体にびっしり詰まっていて段落もない
その気にならないと読みきれない本の最後のページまで昨日到達した

「孤独な群衆」 リースマンの社会学の本だ
むかし読み終えた時に、いつか再読しなくてはならないと感じていたが、最近の読書モードのおかげで
この小さな文字の本に再挑戦、それなりに楽しむことが出来た
文字が詰まっていても、その前に読んだハンナ・アーレントもそうだったので、多少慣れがあったのと
「全体主義の起源」とか「イスラエルのアイヒマン」ほど集中力を要さないで済むために
そんなに手こずった印象はない
しかし、残念なのは「こんな内容だったのか」と思ってしまったことだ(何という記憶力のなさ!)

むかしは、多少興奮して読み終えた
伝統指向型から内部思考型、それから他人指向型へと人の性格の変化と
それに伴う社会の変化がアメリカの実情を例として取り上げられ、まるでそれが
何十年も前のことではなく現在もそのまま通用しそうだった
今回もやはりその現代性は納得でき、ところどころ付箋をつけようと思ったものの
全体としては「社会の解釈のひとつ」みたいな一歩引いたところからの見方が
年齢のせいかできるようになっていた

確かにところどころは洞察力と現実に沿った記述がある
例えば第2部には
政治スタイルから見た3種類として、(1)無関心派・(2)道徳屋・(3)内幕情報屋などという
少しばかり興味をそそるような言葉が使われている
この分類から続いて、政治的説得ー憤慨と寛容
(1)消費の対象としての政治
(2)寛容の教師としてのメディア
(3)メディアは政治から逃げるか
(4)憤慨の貯水池
へと話は続き、さらに権力のイメージの章には
(1)指導者と被指導者
(2)権力を持っているのは誰か
などがマックス・ウェーバーよりは観念的でなく、リアリティをもってイメージができた
特にメディアの力は(この本ではまだテレビも初期で新聞が大きな影響力をもっていた)
相当なものとして扱われている

ただ最後のページに至ってフト感じたことと言えば、内容に関係なくて少しばかり情けないが
何故この人(リースマン)はこんな量の多い(書くための資料も膨大な)
あまり人が読みそうもないものを、書き終えたのだろうか、、という疑問だ
既に彼は社会学の大家として地位を確立されていたのか、誰もが無条件に耳を傾ける存在
であったかどうかは、自分は知らない
だがこれだけのエネルギーを要する本を書き上げるのは、どこかしら使命感がないとできない
これは最終章に自分の思いとして述べられているが、、こういう人がかつてある国にいた
という事実は、とても羨ましい(今の日本にこのような人はいるか?)

厚い本といえばピケティの「21世紀の資本」も相当な分量だったが、
彼も功名心だけでなく何らかの使命感(格差の存在に対する道徳的不満と、それが引き起こす悪い社会変化を避けるような)
に燃えて書き上げられたと感じたことがあった

これらの多くの人には読まれないかもしれないが、何かしらの使命感に導かれて
結果的に人の為になる(人類の宝となる)作品を残す、、、というのは
そして残されたものを同じだけの熱量を持って体験するというのは
本当はとても大事なことだと思うのだが、、現代の日本の社会はと思いを馳せると少しばかり不安になる

そんなことを連想していると「愚民化政策」という言葉を思い出してしまった
「パンとサーカス」が現代の日本では「スポーツとスキャンダル」になってはいないか
なんだかとても不安だな、、

田舎のおっさんのボヤキ 

 


 

 

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国際親善試合、ベルギー戦

2017年11月15日 19時43分51秒 | サッカー

日本との時間差8時間
現地は夜でも日本では早朝
早寝早起き自慢の自分でも早起きすぎはきつくて結局は録画で確認したのが
日本対ベルギー戦

日本はブラジル戦よりできが良かったというより
あのようなチームはやりやすいのかもしれない 
体格差はあるが真面目にやってくるのは、ブラジルのように即興で何をしてくるか
わからないチームよりは相性が良さそうだ

でも結果的には0-1で負け
この欧州二連戦は個人的にはあまり期待していなかったというか、どこか気乗りしなかった
それでも何か良いところを探さないと淋しい
強いてあげれば、長澤が良かったな ミスが少なく落ち着いて運動量もあって
これは拾い物的な人材かもしれない
井手口は若いけどもう必要不可欠な選手になりつつある
あとは、前目の選手なんだが、どうも日本はこのポジションにいい選手を送り出す事ができない
大迫も原口も、、、どこか物足りない 浅野のほうが可能性を感じる
あと7ヶ月で得点力について何か手があるかと言えば、、、、どうなんだろう

少し楽しみにしていた森岡は時間が少なすぎた
ただ姿勢がピンと立って接触プレイにも耐えられそうなので良いかもしれないが
長澤を使うとすると出番がなくなる、、

吉田はポカが少なくなってきたと思っていたが、相変わらず怖いシーンが時々
酒井高徳はちょっとセンスがない感じ
牧野は闘うという面ではいい選手かもしれない

でも選手間の勝負はこれから、、一体誰が選ばれることやら
ところでベルギーのデ・ブライネはいい選手だな
大きな体をしてミスも少なく正確なパスはベッカムみたい
いつも思うことだが、ホント上には上がいるものだ、、
 

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日馬富士の報道について

2017年11月15日 08時13分23秒 | あれこれ考えること

へそ曲がりを自覚しているので、その名に恥じないつぶやき

少し違和感を感じるのが昨日今日の日馬富士の貴ノ岩への暴力事件の報道
詳しくは知らないし、報道の通りであったとしたら
良くない行為であったことには間違いないし反論のしようがない 

ところが、この反論のしようが無いことに乗じてマスコミは
まるで鬼の首をとったかのように、そして自分たちには彼を攻める権利が
あるかのように徹底的に叩く
それは芸能人の不倫騒動や例の豊田真由子氏の大声事件とそっくりだ

なにか、違うぞ、、、
それが偽らざる気持ち
反論のしようがない、、、でも、これって酒の席のことでもある
責任能力がある中で行われたことなのか(結果として被害届が出ているが)
日馬富士の味方をする気がないが、そこまで人格否定するまでいって良いのだろうか

バカだな、、酒に飲まれてしまって
だから気をつけなければいけないというのに、、
相手も相手、もう少し対応のしかたもあっただろうに
起きてしまった時間は取り戻せない、、、あーあ、、 
横綱の品格とか資格を考慮すると、こんな感じじゃとても許せないようだ

確かに怪我の状況は限度を超えているようだ
しかしなあ、それでもこの一方的に誰かを叩く
それ以外の報道(相手も悪かった)は出来づらいような雰囲気
これにはどこか息苦しさを感じてしまう 

このマスコミの同じ切り口の報道とか、
日本中が同じような考えに染まることを要求するような同調圧力 
これはちょいと恐い
表立って反論できないことに対して、思いっきり正論で徹底的に叩く
それは、どこか違っている、、と思えてならない
表立って反論できないその背後に、人って時にはそんな馬鹿なことをしてしまう存在だ
という視点が・想像力が欠けている
特別な人間ではなく、時と場合によって自分もしてしまうかもしれない
たまたま運良く自分はその場面に遭遇していないだけにすぎないのに、、

でも、こんな思いは簡単に無視されてしまうだろう
検討する価値もまったくないものとして、、

何かな、理屈の上ではそうなんだけど、、どこか違ってる
そんな気持ちを拭い去ることが出来ない
そこで思い出した言葉が「正しい人が恐い」
正論以外の答えを拒否するような社会、、、それは果たして住みやすい社会か
とつい考えてしまう 

 

コメント (2)
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