パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

本部と現場の綱引き

2009年06月30日 20時12分42秒 | Weblog
このところずっと昨年対比で売り上げを下げているスーパー業界
そこで目を付けられるのが経費のカット
3K(交際費、交通費、広告費)

そのカットの仕方もいろいろ
個店単位で発注していたチラシも本部一括で印刷し
一部あたりの単価を下げトータルコストを下げる方法が
至る所で見られる

だが問題となるのはそのチラシに掲載される商品の価格
本部が作り上げるものは地域の競合状態や特性はおかまいなし

食品などは買い物のプロ、主婦はほとんどの価格を覚えており
その日一番安い店で買うようにしているようだが
自分たちのグループ店の範囲内では安いと思われる商品も
いざその地区の競合店と比較すると、そうではないことが珍しくない

この状態ではせっかくの広告が、
「自分たちの店の商品は高い!」と言っているようなもの

もちろん店にとって一番大事なのは利益
高く売れるものは高く売った方がいい
しかし、世の中そんなに甘くない

結局、一番問題なのは売り上げを上げるべく
日々神経をすり減らしている現場の意見が通用していないということ

競合店の価格調査をしても、その店に価格決定権はなく
本部の価格設定に従うだけ
出先の店長以下の人々は本部のコントロールによってのみ
行動できるシステムのようだ

これは先頃、公正取引委員会から独占禁止法に基づく排除措置命令を受けた
セブンイレブンの話とよく似ている
つまり本部の強力な強制力のこと

残った弁当がもったいないとかもったいなくない
という問題ではなくて、
販売の現場としての立場を(面白さややりがいも含めて)
少しも考えていなくて、労働生産性だけに注目したり
法律が許す範囲内をぎりぎりまで拡大解釈して
人をこき使うシステムになっているのが問題だ

C契約のコンビニ契約者は本部の単なる出先に過ぎないとか
週刊誌には出ていた

で、こんなことを考えているとまだまだ出てきたことがある
それは国と地方とのこと
国の直轄事業の地方割り当て云々のことなど

なんだかどこでも同じようなことが起きているようだ
結局極論すれば、本部と現場との綱引きの問題

いままでは全部本部が管理していた方が効率的であったり
より無駄が無いとされていたが
どっこい現場のことは現場が一番よく知っている
そこから導きだされた知恵こそが現実的で有用ではないのか!

こんな風な考え方が、世の中の至る所で出始めたのではないのだろうか
世を動かしているのは中枢というより実は現場!
(これは少しはありそうな話と思うのだが)

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マイケル・ジャクソンは、、、

2009年06月29日 22時02分07秒 | Weblog
マイケル・ジャクソンが亡くなった

各界の人のコメントをテレビで流していたが
少しかわいそうだったのが麻生首相
通り一遍のことをもっともらしく話していたが
全然リアリティーがないし感情もこもっていない
世代も趣味も違うだろうから、麻生首相が必ずしも
適切な言葉を言えなくても、それはそれで仕方ない

一方、橋下大阪府知事のコメントは
流行の音楽として思い切り受け入れ、それを満喫した人だから
しっくりくるものがあった

こんな時、なにも好みのジャンルの違う麻生首相にコメントを求めたり
放映してしまうのは麻生さんの肩を持つわけではないが
どんなものかな?
(もっとも小泉さんなら気の利いたことを言ったかもしれないが)

さてかくいう自分は?

正直なところ自分はマイケル・ジャクソンには関心が無かった
確かにプロモーションビデオのダンスはカッコいいし
リズム感も切れがいい
でも、音楽が好みじゃないし
深く心を打つものは自分には無かった
スリラー、ビート イット、ブラック オア ホワイト
これらの有名な曲も自慢じゃないが聞き分けがつかないし
それについてなんら引け目を感じることは無い
結局、好みではないの一言で済んでしまう

もっとも自分の好みはいつも本流に流れるわけではなくて
太宰が嫌いだったり
小室哲哉が(あの時代でも)嫌いだったり
つまりは、へそ曲がりの部類?

しかし、それでも自分を正当化するために
何らかのもっともらしい嫌いな理由を上げるとすれば
音楽がそれ自体で今後何年も残っていくだけのクォリティを
持っているかが、自分にはおおいに疑問で仕方ない

かれはアメリカのスターで
大消費地で有名になり、その勢いで世界を席巻したのではないだろうか
(その時には本物か、どうかは問題視されなくなっていた)

これはなにやらカラヤンの場合と似ているような気がする
一旦評価が定まってしまうと、
なかなか反論は表に出ない
(評価できないものは鈍い感性の持ち主とか、時代遅れの
 刻印を押されたりして)

結局、正当な評価にはもう少し時間が必要
社会的なムーブメント以外に
マイケル・ジャクソンの音楽は果たしてどうだったのか

その時代を映し出す流行歌(ヒット曲)でいい!
と言いきってしまえばそれまでだが
なにか割り切れないものが残る

ま、毎度のことながら
どうでもいいことだけれど、、、

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間に合うか、間に合わないか、ではなく

2009年06月28日 19時21分04秒 | サッカー
世界で最初にワールドカップ予選を抜けた日本
本番まで後1年

まだ1年ある?
それとも1年しか無い?

岡田監督は現実的な考え方をする方だから
本番でも見苦しいことにはならない(前回のように)
予想はつくが、ベスト4までは
正直なところ難しいのでは

そこで岡田監督がパスのスピードを上げ
精度をより高め、メッシのフェイントのひとつも真似し
フィジカルも何やらの方法で鍛えていく
というようなコメントを残したが
そのことに関して、今更云々の話が出てきていたが
否定的な意見を述べる人の多くが上げるような
日本が強くなる一番の解決方法は戦術の徹底だけじゃない
と思えてならない

第一に現実的にキャンプを張ることができると言っても
時間的には限界があるし
他のチームにしたってキャンプするわけだから
チーム戦術のレベルは上がってくる

それで現実には個々レベルを上げるしか無いことになる
だから岡田監督の言うように普段のJリーグの試合で
少なくとも意識していかなければそれこそ
1年という時間は全く足りないものとなる

パスのスピードを速くしたり精度を高めるのは
もっと若いうち高校までに習得するものにしておいてもらって
大人のサッカーは戦術!が正論ぽく出てくるが
負け試合でいつも感じることは基本技術の差

ドイツ大会でもブラジルとの差は止める、蹴るの丁寧さに
あったのも事実
だからといって今更基本に立ち止まって
そんなことに時間を費やすのは馬鹿げている
と言われるかもしれないが
これは音楽の演奏家の指の訓練やボイストレーニングに似たようなもので
残念ながら毎回丁寧に練習しないと
確実には試合に発揮できないのじゃないのかな

サッカーは90分のうちボールに触る時間は
ほんの数分だといわれる
だからボールの無いところの動きが大切なのは分からないではない
だが、このたった数分しか触れないボールの扱いが
上手くいかなかったらそれまでの努力は全く無駄になってしまう
だからこそ代表の選手には、間に合うか、間に合わないかではなく
普段の試合でも意識して丁寧なプレーに心がけてもらいたい

実はこの問題
本当は日本代表の話ではなく、
自分らの少年サッカーの練習にも当てはまること!
というより本当はこっちの方が本論だったりして

サッカーはチームプレーという考え方
それは不足分をみんなで補うのではなく
一人一人が自分の独自の力を発揮して
結果的にみんなのためになる
というのがあるべき姿だと思うけれど
これが案外簡単には肯定されない

みんなで不足分はカバーしよう
それがチームプレー
それでは、まるで責任の所在をはっきりさせない公務員の姿みたい

またまた話がそれてしまった(いつものことだが)
とにかく残り1年、無駄に時間を費やしてもらいたくない
そしてマスコミは安易なスターづくりには走らないでほしいものだ
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もったいない

2009年06月27日 14時58分04秒 | サッカー
先週は練習会場が確保できず、残念ながら休みとなった
少年サッカーの練習

今週は広い会場をとることができたが
心配なのは暑さによる熱中症

この時期、年々自分らもしんどくなってきているが
自分のことが把握できない子供たちが相手だけに
何事も無く練習が終わってくれるのが一番

しかし、30人の1.2年生はいざ練習(お遊び?)を始めても
なかなか全員が真面目に取り組んでくれるわけではない
数人の真面目な子、後ろでおしゃべりして全然練習に参加しない子
やっても気持ちが入って子などいろいろ

そこで今日は練習の始め、まだ気が散らない時に子供たちに
「君たちは自分たちがいいものを持っている
 それはみんな同じじゃない、でもそれは真面目にやらないと
 身に付かない。だからみんな真面目にやろう。
  でないと、本当にもったいないよ!
 この間、試合に負けちゃったけど、今度はもっと上手くなって勝とう!
 真面目に練習しないと、相手に負けるというより自滅しちゃうよ」

割合真面目に聞いていたようだが
果たしてどれだけ分かってくれたことか?

その証拠にやはりと言うべきか練習はいつものパターンに
ここでひとつひとつの練習を完璧に!
等と思うと、とてもやっていられない
少しだらしない!と思われる人がいるかもしれないが
二人でこれだけの人数を指導していくのは大変だ
(必要なのは我慢我慢)

子供たちが一番夢中になれるのは、やっぱりゲーム
連取時間の仕上げにゲームを行うがその時に
その日練習したことが直ぐに形に出ることがある
「えらい!さっき練習したことができたね」
そんな風に声をかけると、無意識にそのプレーをした子供も
はっと気づいてなにやら嬉しそうな
そして自信を深めた様子

それでなくても、試合中は本当に子供たちの得意とするプレーの
キャラクターが出てくる
練習は冴えない子でも、いざ本番が強い子もいる
おとなしい子でも2年生等は瞬間、
今までの練習期間が無駄でなかったような
機敏な動き方やボール扱いをする
「だから、君はできるっていただろう!
 今のをもう一回、頑張ってやってみな」
こんな声をかけると、自分でも何か感ずるところがあったのか
急に積極的にゲームに参加するようになる

残念ながら時間内に全ての子供たちに
平等に声をかけられるわけではない
だからこちらで2.3人にしぼって声をかけたり
練習の進展度合いを注目するのだが
こうした地味な積み重ねが着実な個々のレベルアップに
結びついているのは実感できる
(といっても、1.2年生でのことだが)

自分が一番もったいないと思うのは
子供たちが本来持っている自分の能力に気づかなかったり
発揮しようとしないこと

だから、自分が(多分怒り気味の口調で)大声を出すのは
悪いプレーをして叱るよりは、むしろ
できることをしようとしないことに対する怒り
「ほら、できるじゃないか!
 だからできるって言ったろう。
 もっとやってみな、でないともったいないよ」

しかし、練習終了時はやっぱり
「今日の練習はイマイチだったな」と毎回
なにかしらの不満足を感じてしまう

相手は小学1.2年生
仕方ないかな?

それにしても自分のよさを発揮しないのは
本当に「もったいない」
子供たちがそれに気づいてくれればいいのだが。
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モーツァルト、ベートーヴェンの演奏会

2009年06月26日 21時13分13秒 | 音楽
6月5日(金)
モーツァルト
交響曲 第36番 ハ長調K.425「リンツ」
ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466
交響曲 第38番 ニ長調 K.504「プラハ」

アイヴォー・ボルトン指揮
ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団
ピアノ :ラルス・フォークト

6月25日(木)
ベートーヴェン
エグモント序曲
ピアノ協奏曲第3番 ハ短調
交響曲 第7番 イ長調

大植英次指揮
ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニー
ピアノ:小菅 優

生演奏を聴いている時、
自分はいったい曲自体の良し悪しを聴いているのだろうか
それとも演奏の違いを聴いているのだろうか

今月は縁あってオーケストラの生演奏を2回も聴く機会に恵まれた

ここ最近はゴールデンウィークのラ・フォル・ジュルネでしか
生の演奏会の接することが無いのが当たり前になっていたので
久しぶりの演奏会を通ぶって演奏のあら探しをするよりは
曲自体に身を任せ充分楽しむことにした

専門ではなく、ただ好きなだけで素人の自分は
単に思ったことを感覚的に口にするしかできないが
それでも不意に気づくことが多いのは生演奏の良さだろう

オールモーツァルトの演奏会
プログラムは全て好きなもの
最初の「リンツ」序奏で、急に「音とは消え去るもの」
などという事実が頭に浮かんだ
それから何かに発展して考えたわけではなく
ただそう思っただけ

あまり大きな編成のオーケストラではなかったが
結構な音量で、ベートーヴェン前のかわいい曲というよりは
ちゃんとした交響曲になっている
しかし、残念ながら始めは音が硬い

ニ短調のピアノ協奏曲はよかった!
このピアニスト好きなタイプ
少なくとも昨日の小菅さんよりは好み
第1楽章のカデンツァで音が指一本の部分になった時
長調に行くのか短調に移行するのかわからないような、
形式通りではないモーツァルトの面目躍如のところ
間の取り方、静寂の深さ ゾクゾクしてしまう

「プラハ」は会場の雰囲気にも慣れた所為か
それともこの曲の方が弾き慣れているのか「リンツ」よりは
しっくりしていた
と同時に「プラハ」はただ軽やかなだけでなく
中の音も詰まっていて演奏しがいのある、つまり多様な解釈の可能な曲で
別の演奏も聴いてみたい気持ちがわき上がった

そして昨日のオールベートーヴェンプロ
エグモントは楽団自体が「私らの音楽」みたいな自信を持って
思いっきり演奏していた(様に感じられた)
そこには指揮者の存在はあまり感じられなかった(?)

3番のピアノ協奏曲
第2楽章の始めのあたりは
後期のピアノソナタを思わせる瞬間があって
それに浸ろうとすると、さらっと逃げられてしまって
まだまだ後期の世界には到達していないんだ
と一人で納得してしまった

小菅さん、指は回るし若々しいけれど
なんだかいつも現在進行形みたい
目の前の壁、障害(?)を全力で乗る切るみたいな
ちょっと呼吸する雰囲気や過去を振り返るくらいの余裕があったなら
等と思ったが検討ハズレ?

7番の交響曲は始めの楽章が頑張り過ぎで
最後の楽章のどんちゃん騒ぎの効果がどうなのかな?
と不安になったが、ちょっとばかり的中したみたい
イケイケー!に終始しても熱狂までは至らず
少し残念

それはもしかして指揮ぶりが気になり過ぎた所為かもしれない
途中から指揮が音楽に没頭しているというよりは
ナルシズムに酔っているように自分には感じられてしまって
音楽に集中して聴けなくなったみたいだ

そうだもう一点感じたこと
それは木管の小音量の音は難しいな!
ということ

たった1本や2本でも結構大きな音に聞こえてしまったりして
静かな曲の雰囲気をデリケートなニュアンスよりは
曲がより説明的になってしまうところがあった

ま、そんなこんなで、
あれこれ文句(?)をあげつらっているのは
結局は楽しんだ証拠
(この機会を与えてくれた友人に感謝)

それにしても昨日の演奏会は、女子高校生が多かった
のだめカンタービレでベト7が採り上げられたから?
彼女らの耳には果たしてどんな風に響いて
どんな影響を与えたのだろう?
流行やファッションで終わらないでくれればいいのだが、、、
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他の要素が多すぎる

2009年06月24日 21時57分12秒 | Weblog
めっきり買わなくなったけれど
クラシックのCDジャケットは随分様変わりしている
昔は作曲家の肖像画とか曲をイメージさせるものが多かったけれど
最近は、特に女性の演奏家のものなどは
それこそファッション雑誌みたいな感じで
きれいに化粧して、きれいなドレスを着て
何のジャンルのCDなのか間違えそうになりそうだ

きれいに越したことは無いけれど
こと音楽に関する限りヴィジュアル重視だけでいいのかは
おおいに疑問だ

上原 彩子というピアニストがいる
「第12回チャイコフスキー国際コンクール」ピアノ部門において、
女性として史上初めての第1位を獲得した人だ
そのニュースをテレビで流し、演奏風景も音楽も合わせて放送された
確かにその時、これは音が違う
パリパリと歯切れよく、力強く、若々しく、音色も豊かで、、、
優勝に値するかも 半端な才能じゃなさそう
と思ったものだった

今回の辻井伸行さんの快挙
同じようにテレビで演奏会風景が放送されたが
正直なところテレビの音を聞く限りは
上原 彩子の時ほどの衝撃は受けなかった
もちろんテレビ等では本当の音楽を評価できないかもしれない

だが一方で、きわめてテレビ的というか、ハンディカップがあるために
必要以上にセンセーショナルに(間違って)扱われているような気がする
それはもしかしたら、彼のためにもよくないこと
かも知れない?などとよけいな心配をしてしまう

最初のCDジャケットにしてもそう
売るための要素が、流行をつくりだす仕掛けが
音楽以上に、一人歩きしているようで
ある面、音楽は二の次になっている(?)

なんだかなあ
これでいいのかな?

といって、
売れなきゃ困る人がたくさんいるし、、、



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ブームだろうが、なんだろうが

2009年06月23日 21時56分45秒 | Weblog
太宰治は嫌い!
何度か偏見なしに読もうとしたけれど
いつも途中で嫌になってしまう

なぜだかとても、嫌な気分になる
行間に感じられる作者の意思(?)みたいなモノが
自分には全然合わない

もっとも自分が嫌いだからといって
何も変わるわけでもないし
これだけ多くの読者がいるということは
自分にはその感性を感じ取る能力が欠けているのかもしれない

だからといって全然気にならない
この歳になって嫌いなモノは嫌い!と
開き直って割り切ってしまう

だが少しは何故なのか考えてみてもいいかもしれない

とても嫌な気分になるのは
人間の弱さを描いているからではない(と思う)
同じくあまり肯定的に好きとは言えぬ三島由紀夫と同じく
どこか人工的な(作り物っぽい)感じがしてならない

そんなことを言えば小説なんかは全て作り物
と反論されそうだが(誰に?)
とにかく確信に近い感じでそんな風に思う

残念ながら人は誰とでも相性が合う
というわけにはいかないようだ

現国の時間に、作品よりは
とんでもない生活を繰り返すその生活を
熱弁を持って教えられた太宰治
(なんと言う奴だ)
だがひとつだけ気に入ったモノがある
それは辞世の句(自作ではないらしいが)
「池水は濁りににごり藤なみの影もうつらず雨ふりしきる」
これだけはしっかり覚えている

いつか相性が会う日が来るだろうか?
多分、ない(と思う)

ま、いずれにしても人様には関係ないことだけれど、、、

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ヤナーチェク「シンフォニエッタ」

2009年06月22日 21時58分39秒 | 
欠品が続いていると言う村上春樹の「1Q84」
本屋を覗いたら何のことはない、あるわあるわ
しかしこれだけ噂になったりベストセラーになってしまうと
なんだか照れくさくて買いにくい

おまけに村上春樹の本は、
内容を全然覚えていない「ノルウェーの森」を読んだだけで
なんらかの喪失感は感じたものの
他のものを続けて読もうと言う気にはなれなかった

とはいうものの気になって、(立ち読みで)最初のページをパラッとめくると
そこにヤナーチェク「シンフォニエッタ」の文字
この曲を知ってる人は少ないうんぬんとあったが
自分はその少ないほうの一人
そして知ってるどころか結構好きな曲の一つ

ブラスが祝祭的な雰囲気を盛り上げ
彼のお得意の音形も現れ
短いけれど聞き応えのある曲だ

ヤナーチェクはオペラの「利口な女狐の物語」が圧倒的にいい
まるで魔笛のようなメルヘンぽい内容に
むせ返るような自然の中に居るような感じの音響
奇跡と言っていいほどの一世一代の傑作だが
この曲を聞いてヤナーチェクがお気に入りとなって
「シンフォニエッタ」や弦楽4重奏、
ピアノ曲の「草陰の小径」 「霧の中で」と続いたわけだ

で、読む気があまりなかったかもしれない「1Q84」
このヤナーチェク「シンフォニエッタ」がどんな風に扱われているか
と言う興味で読んでみようかと思い始めたのも事実

そう言えばこの本BOOK1とBOOK2に分けられ
それぞれ24章 語り手が交互に替わるらしいが
それはバッハの平均律の仕組みと似ている(と何かの本に書いてあった)
つまり交互に長調、短調を繰り返し
第1巻、第2巻とあるところなど

ま、そんなことはどうでもいいとして
とりあえずトライしてみるか「1Q84」
コメント (1)
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汗が見られない映画「剣岳」

2009年06月21日 20時57分21秒 | Weblog
いつか登りたいと思っていた剣岳
しかし、持病の腰痛は、重いリュックを背負って
何時間も歩くことを拒否
結局果たせぬ夢になってしまった

ということで登れなかった剣岳の仮想登山体験を求めて
見に行ったのが映画の「剣岳」

だから話の内容よりは、ただただ自然が見られたり
登りのしんどさが感じられればいいと思っていたし
同じように感じた人は隣にもいたようで
上映が始まるまでずっと登山の話を楽しそうにしていた

で映画は?

一番残念だったのが登山の辛さが少しも感じられなかったこと
俳優の人たちの服が汗で全然濡れていなかった
自分が登った時は(穂高や槍など)それこそ汗を絞り出す感じで
眼鏡からも帽子からも縁から顔からの汗が伝わってボトボト落ちた
そしてそれに伴って呼吸も荒くなって
ふうふう、はあはあ言っていたのだが
映画ではその効果音(息づかい)は皆無
代わりにヴィバルディの四季が流れていて
単なるイメージ画像に終始していた

登山の画面になる度にハアハアでは芸がないかもしれないが、
それだけ登山が厳しいモノだということは伝わるだろう

そして汗と顔
辛い登りをした割には汗が服に滲んでいないのは興ざめだ
そして何日も山に居たのだからヒゲも伸びていただろうし
疲労感も何らかの形で現れるだろうに
演技はこざっぱりとした感じに終始
リアリティーが無い

そして自然が厳しいモノとして表現する場合は
猛烈な吹雪、そして風の音を大げさなくらいに扱っていたが
残念なことにその寒さを感じることが全然できなかった
あれだけの風だったら実際は半端じゃない寒さを感じるはずで
そのことに耐えるシーンを映すだけで
厳しい自然をもっと効果的に表現できたのでは?

映画にリアリティー等必要は無く
ただエンターテイメントに徹すればいいのかもしれないが
この、汗もかかない山登り
呼吸も乱れない山登り
顔のむくみの無いような山登りは
正直なところ山登りの大事な点が
抜けているような気がしてならない

もっとも外国の映画でも、
またテレビの登山救援隊絡みのミステリーでも
汗や呼吸の乱れはたいして注目されていない

そういえば完璧主義と言われた黒澤明の「夢」の
雪女でも登山者の歩き方が「やまや」の歩き方ではなく
違和感を持ったことが未だに記憶に残っている

というわけで、話以前にちょっとばかり残念なシーンが多くて
集中できなかったのが本当のところ

ただ宮あおいの奥さんの役は可愛かった(性格的にも)
男だったらあんな奥さんを持ちたい!
と思うだろうが、これもまた男が描いた架空の世界のこと

エンタメかリアリティーか?
上質なエンタメのためにはリアリティは不可欠と思うのだが


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ジャズはノッティンガム、クラシックはトーレンス?

2009年06月20日 16時19分08秒 | Weblog
レコードプレーヤーをトーレンスからノッティンガムに替えて2週間
徐々にこの音に慣れて、前の音を忘れてしまいそう
そこでまだ多少トーレンスの記憶が残っているうちの印象

まずは音は変わったか?
といえば変わったと答えることになる
ただ劇的というわけではない

まず感じるのが静かに回っているという事実
それはまるでCDから得られる印象に似ている

次に低い音がえらくくっきりしてきた
得にジャズのウッドベースなどの響きは圧倒的
そしてトランペット、サックスのニュアンスが以前のものより
鮮明に感じられる
が、総じて音は堅くなった感じ

ジャンルがクラシックになると、
この堅い感じにまだ慣れないでいる
人の声は少しキンキンし過ぎ(?)というか
もう少し柔らかくても良さそう

確かにオーケストラ曲でも
全体の音像がアナログとは思えないほど
分離がいいところは凄いなあと思わせるが
以前のトーレンスのふっくらした深々とした音も捨てがたい
人の声も前の方がいいかも

どちらが実際の音に近いか分からないが好きな音に関しては
どうやらジャンルによって変わってくるかもしれない

つまりジャズはノッティンガム
クラシックはトーレンス
ということになりそうかも

人によってはモノラルレコード用とステレオ用にシステムを
変える人もいるらしいが、何となく気持ちはわかる気がする

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