パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

今年の紅葉狩りは

2011年10月28日 20時39分50秒 | Weblog

やっぱり京都

人ごみであろうと、写真を撮ろうにも

人間様の頭ばっかりであろうとも

京都の紅葉は、それでも行く価値がある

 

で今年はどこに?

 

iPadのアプリに京都紅葉&スイーツ

というものがあって、そこで見つけた

宝厳院と祇王寺が候補

どちらも嵐山の一角

JRで往復すれば混んでるといっても

我慢できる範囲内だろうし、、、

 

問題はどのタイミングで行くか!

 

話は変わって桂離宮、修学院離宮

こちらもいつか行かなくては!

 

京都、呆れるほど深い

今高校生だったら大学は京都にある大学を

狙ったかも!

(さすがに京大は無理としても!)

 

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ヴァイオリン アマティの音色

2011年10月26日 21時10分38秒 | 音楽

何度目の挑戦なのだろうか

通勤時間の車の中、最近、何を思い立ったか

聴くにはしんどい新ウィーン楽派の弦楽四重奏曲 

ラサールカルテットのものに時間を費やしている

 

シェーンベルク・ヴェーベルン・ベルク

実演ではベルクはヴォツェクのコンサート形式のものとヴァイオリン協奏曲

ヴェーベルンはラトルのコンサートのアンコールで

8小節くらいの短い曲

(凝縮した美が、コンサートで火照った感覚には心地よかった)

 

この二人は現代音楽といっても

聴いた感じは、こんなのもアリかな!と

それ程違和感を感じなかったが

まだ聴いたことのないシェーンベルクは

CDやレコードに頼るわけなのだけれど

少なくともこの通勤時間で聴く範囲内では

少しきつい!

 

集中して聴こうとしても

しばらくするとよそ事を考えている自分がいる

どうも感情移入が難しい

 

で、今日の本題なのだけれど

この新ウィーン楽派の弦楽四重奏曲のセット

以前聴いた時から印象に残っているのがその響き

現代音楽としての響きではなく

アマティーという楽器のヴァイオリンの音

 

そう、この音色は好きな音

アルバン・ベルク四重奏団の音色よりはずっと好きな感じ

ヴァイオリンの音は実は比較して分かるくらいのものだとは思うけれど

それでも初めて聴いた時から

ライナーノーツにあったアマティと楽器名を覚えるくらいだから

以前からお気に入りだったのには間違いない

 

ヴァイオリンと言えばストラディバリウスが有名だけれど

名前が有名でも音色は記憶に残ってはいない

(音色と言うよりは演奏者が表に出ているせいかもしれないが)

 

それにしても、シェーンベルクはやっぱりキツイ

バルトークも自分にはしんどい

彼らよりはメシアンのほうがまだ抵抗感がない

 

しかし、せっかくだからもう少しシェーンベルクを聞き流してみようか

そうすれば慣れ親しめるかもしれない

 

それともやっぱり無理かな?

 

 

 

 

 

 

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新城に残る、武田信玄に関する言い伝え

2011年10月25日 19時07分03秒 | Weblog

日曜出勤の代休 

自分のペースで時間をこなせる一日となった今日

少し前から気になっていた市内のある場所を訪れてみた

飯田線に野田城駅があるが、その駅と東上駅の中間辺りにあるのが野田城址

行ってみると城址とは名ばかりで辺りは鬱蒼と木に囲まれた荒れ果てたところ

芭蕉の「兵どもが夢の跡」をフト思い出す

 

実はここを訪れたのは

上の画像にあるように武田信玄が銃で撃たれたと言う伝説の場所であるため

もっとも野田城址ではなく、その近くの法性寺の境内の小高いところに

その旨を記した古い看板が立っている

ここも訪れる人は殆どいない様子 荒れ果てている

 

次に尋ねたのは

新城市の宮ノ前にある宗堅寺

上記の話の続きで

武田信玄を撃った銃が残されている

ということだったけれど

お寺さんで剪定、片付けをしている方に聞くと

現在その銃は設楽原決戦資料館に保存されているとのこと

見られず、少し残念

 

こうしてのんびりと歴史の跡を訪ねてみると思いの外

この新城市には様々な魅力ある場所が多い

長篠の戦いの決戦場などは最たるもの

 

他にも富永神社のお能

太田白雪と芭蕉の関係

まだまだ探れば色々出てきそう

 

自分は新城市民なのだが

よく有りがちなパターンで、地元のことは当たり前すぎて

良く知らない典型

 

もう少し郷土の歴史を知らなくては!

チョット反省

 

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そんなもんだ

2011年10月19日 21時15分20秒 | Weblog

スティーブ・ジョブズについてのいろんな事が

日本の週刊誌にさえ書かれている

独裁者、気まぐれ、完璧主義者、

そして強烈に人を罵倒すると思えば

利用できるものはトコトン利用するなどなど

 

本国では毀誉褒貶の中を生きた人と

伝記も発売される

 

しかし、これら一種の変わった性格は

実はさほど変わったことでもない

 

大きな事を成し遂げた人(成し遂げる人)は往々にしてこのタイプが多い

大きなコトといえばサッカー界ではバロンドールを獲得した人物もその一人

ロナウドも一般的には変な人

マラドーナも然り

 

どうも才能が一分野に突出した人は

全体のバランスが崩れているのが人としてノーマルらしい

その突出した分野がサッカーであったり

経営の分野であったり学問の分野であったり

 

完全な人間という想定自体が無理があるようだ

いろんな統計による平均的な人物というのは

実際には存在しないのと同様に

完璧な人間などは存在しない

 

要はどこまでその人に悪いところを許せるか

だけに落ち着く

 

なのに、この国は聖人君子を何時も求めてしまう

それが窮屈な世界を作ってしまっているかも知れないのに

 

人間は多分欠点のない人間よりも

欠点の多いドジな人間を感情的に受け入れる

それがなぜだかわからないが

とにかくそんな傾向がある

 

欠点の多いこと

それはある面パワーのある証拠かもしれない

できれば若い時期にそれを認めてくれる

良い人に巡り会えれば幸せなことになるだろう

 

で、自分は

どうだったんだろう?

 

 

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秋の夕暮れ

2011年10月17日 21時41分51秒 | Weblog

「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」

ジョン・レノンのような詩人 西行の和歌

自分を語れば世界を語る、その典型的な人で
芭蕉も、その他多くの人も影響を受けた人

しかし、残念ながら自分とは波長が合わないので
それほどいいと思った歌は少ない
何しろリズムが悪いというかサッと流れて行かない

「願わくば花の下にて春死なんその如月の望月の頃」
この歌はリズムはいいし言わんとすることもわかりやすくて
まずまずと偉そうに思ったりして、、、


「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」

これは小林秀雄に言わせれば、西行と住む世界、求める次元が
違うとされた(?)藤原定家の歌

でもこれなんか好きなんだな
京都の凄まじい紅葉の美と桜
そのカラフルなイメージが振り返ると一瞬にしてモノトーンの世界に
これは人工的であるとしても美しいとも思う

芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」
これだって人工的なイメージの詩
ただ色彩感が違う これもモノトーン的

秀吉が黄金の茶室を作った時、
利休はなんと思ったか?
じつはそれなりの美も求めたのではなかったか?

同様に定家の人工的な作り物の世界も
それなりの美を認めても良いのではないか
と思ったりする

ところで秋の夕暮れのもう一つの有名な歌は

「寂しさは その色としも なかりけり 槙立つ山の 秋の夕暮れ 」
(寂蓮法師)だそうだが、残念ながら全然知らなかった

ま、実生活にはどうでもいいことだけれど
こんなことをあれこれ考えることで、
自分が自分らしく、人と違っていられるのは紛れも無い事実
ホント実用的ではないが、、、

 

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ワルター指揮、マーラーの交響曲第5番

2011年10月15日 12時07分47秒 | 音楽

最近めっきり聞くことの少なくなったマーラー

レコード棚から、取り出してくれ!

とメッセージを発しているように

ジャケットが少しはみ出ていたのが

ワルター指揮のマーラーの5番のシンフォニー

 

マーラーの中ではこの曲とさすらう若人の歌が好き

後者はフルトヴェングラーとフィッシャー・ディスカウの名演にノックアウトされ

前者は実演の若杉弘とケルン放送交響楽団の情感あふれる実演が

今も鮮明に記憶に残っている

 

この5番、好きなのは最初の2つの楽章

有名な4楽章はきれいとか美しいのは認めるけれど

感動的な音楽じゃない(自分にとって)

 

だから聴き比べをするときは決まってこの2つの楽章がメイン

 

現時点でお気に入りは、テンシュテットの指揮のもの

旋律の音色が繊細に移り変わっていくさまは何度聴いてもゾクゾクする

バーンスタインはコッテリしすぎ

シノーポリは何故だかいつも途中で聞くのをやめたくなる

ラトルはまだまだ消化不良

 

さてワルターは?

録音はモノラル、それもすこしばかり古い

このハンディはあるとして、他の演奏を思い出しながら聴き始めたが

昔聞いているのだけれどあまり記憶にないから

新鮮に感じた(録音も気にするほど悪くない)

 

この演奏、何よりも音楽が自分のものになって、マーラーの考えたことが

表現されている(ように気がした)

先にあげた指揮者の演奏は、スコアを読み込んで自分なりに想像力を駆使して解釈しているが

ワルターの演奏は、スコアの解釈と言うよりも

友人(?)としてマーラーの人となり、考え方、感じ方を知っている強みで

ひどく説得力のある演奏になっているように思える

 

やっぱり実際に本人自身と会話し同じ時間を経験したものは少し違う

勿論、演奏はいろんな表現があってしかるべきなのだが

作曲家に近い演奏というものはこういうものかもしれない

 

このあとフォーレの室内楽を少し聴いた

ピアノ4重奏曲の第3楽章 

今日は昼に聴いたが、夜中に聞くと本当にぴったり

しかも秋にはたまらない

 

ところで音楽はCDだけ聞いていればそれなりの音で不満はなくても

一旦比べてしまうとレコードの厚みのある音、楽器、

声の実在感のある音には叶わない

 

ということで最近はレコードばっかり

針を下ろす、ひっくり返す、そんな面倒な事も気にならなくなってきている

 

 

 

 

 

 

 

 

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バッハ・グールド・コルトレーン

2011年10月13日 21時50分50秒 | 音楽

初めてグールドの弾く平均率を聴いたとき

エラク乾いた音のするピアノだな!

そして、あのうなり声

人並みに興味を持ったし、続いて彼のレコードを買ったのだが、、、

 

途中から少ししんどくなってきた

あまりにも個人的な閉じた空間の楽しみの様で

聴く人を前提としない音楽の様で

少なくとも自分には合わないかもしれない

と判断して離れてしまった

 

バッハの音楽があの素晴らしい技法にもかかわらず

ある時期忘れられてしまった

というか支持を受けなかったことがあったが

それも分からないではない気がする

 

それはグールドに通じるものがある

あまりにも個人的な独白に走っているような

そして技法的すぎるというか理性に走りすぎて

せつな的な感覚のよろこびに欠ける様で

 

メシアンがリズムの大家はモーツァルトと述べたが

少なくともバッハではないのは事実のようだ

印象的なリズムのバッハの音楽もある

しかし、モーツァルトの様な生き生きする音楽ではなく

どこかかしこまってリズムのお勉強みたいなところがある

 

と言っても、シャコンヌ・パッサカリア・マタイ受難曲なんかは好きだけれど

 

そしてコルトレーン

この人もイマイチ自分のフィーリングに合わない

これもまた個人の世界に入りすぎているようで

確かに聴いてくれる人のためにだけが音楽のすべてとは思わないが

聴いてくれる人のことを考えない音楽もつらい

 

おおらかさの不足?

自分が突き詰めた性格でない事もあるのだろうけれど

この三人、好きだという表現はいまのところできそうにない

 

だからと言って、どうなるものでもないけれど

 

 

 

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面白くない試合

2011年10月11日 21時56分53秒 | サッカー

勝ち点3,得失点差におおいにプラスとなる8得点

ワールドカップ予選の

日本対タジキスタン戦は8-0の完勝

 

勝負は結果が全て、確かに大満足に結果なんだけど

面白くなかった試合だった

点が入ったから大喜びと言うより、

タジキスタンの戦う気持ちのない姿勢に

エンタメとしての試合はぶち壊し

 

一人ひとり誰が良かったなどと批評する気にもなれない

大の男が一生懸命になるということは

もう少し違った風景が見られると思ったのに、、

 

香川はセンスあるけど

ハーフナーや岡崎ほどコンスタントに取れないんじゃないか

フトそんな気がしてしまった

 

明日のメディアは香川2得点で大騒ぎか

チョット違う気がしないでもないが、、

 

ストレスが溜まるけどベトナム戦のほうが考える所があって

ためになったのでは、、、

 

ウダウダ言ってるけど

とりあえず、結果が全てだから、まあいいか!

 

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どうやってたどり着いたか?

2011年10月10日 19時24分05秒 | Weblog

朝、庭木に水をやっていたらオトコヨウゾメの葉っぱに

小さな緑色の小さなものが

カエルくんが鎮座したまま、動かず!

寝ているのか?

しかし、一体どうやってこの不安定な葉っぱまで来たんだろう?

 

どうも動物たちは想定外の奇妙な

(自分が勝手にそう思っているだけかもしれないが)

行動をする

 

夏に見かけたのは

井戸のポンプの紐にぶら下がって脱皮するセミくん

これもどうやってこの場所まで来たのか頭を悩ます

 

このカエルくんは昼までずっとそこにいて

少しだけ向きを変えただけ

 

夕方見たときは流石にいなかったが

どうもカエルの考えることは

わからん!

 

 

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101匹目の猿とFacebook

2011年10月06日 20時08分47秒 | Weblog

チュニジアのジャスミン革命は別名Facebook革命

この革命は瞬く間に隣国に飛び火

それどころか世界中の至る所で革命に至らずとも

デモは頻繁に起こっている

 

アメリカでもウォール街へのデモ

日本でも反原発のデモ

 

この一気の広がりがFacebookを通じて行われたことから

こうした名前がついているわけなのだが

確かに媒介としてはFacebookなのだけれど

ちょっと本質はもっと別のところにありはしないか?

というのが今日の独断

 

昔の「生命潮流」と言う本だったと思うけど

芋を洗う猿が、ある地区で何%以上の閾値を越えると

遠く離れた地域でも突然芋を洗う猿が出現する

と言う仮説を述べたと勝手に解釈し、思っているけれど

確かに不思議と同時期に遠く離れた所で同じような発想、

行動を起こすことはあるものだ

 

で、今回のこと

何が共通しているか?を考えると

共通するのは、「お上は当てにならない」ということ

お上、あるいは現在実質的に社会を支配している人々は

当てにならない!ということが

ほとんど全世界的に共通認識として人々の心に芽生えたような気がする

 

つまり、何かの閾値を超えて101匹目の猿が出現したというわけだ

 

今までなんとなく見逃していたようなことが

面倒でも一人ひとりがしっかりしないとダメなんだ

と言って急進的に何かする訳じゃない

柔らかな共通認識

それが今回の本質ではないのか

 

話は変わって、スティーブ・ジョブズ逝ってしまった

まだ56歳なのに

彼の考え方、こだわりが好きだった

デザイン、使い勝手、感触、質感、

そしてトータルなビジネスモデル、

それらはジョブズの価値観がしっかり反映されたもので

今後ここまで未来への洞察力があり美的センスのあるCEOは

生まれないだろうな!

少なくとも自分が生きている間は

 

Googleは賢いと思うけど

美的じゃない

Facebookはどうも商売的すぎるから好きじゃない

 

アップルのその先

見たかったな、残念

 

そしてジョブズさんには

お疲れ様!

の一言を

 

 

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