パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

自滅

2010年04月30日 21時16分36秒 | Weblog
民主党も、以前の自民党も、そして多くの企業にも
見られる共通の事柄は、その未来に対して
ほとんど自滅の道を選択しているように思えること

内内の理屈が優先し、外の客観的な空気を読めないでいる

たとえば民主党
国民の大半が小沢さんが嫌いと判断している
それはマスコミが作り上げたイメージの所為かもしれないし
例のお金の問題にしても起訴できるほどの証拠は
またもやあげられないかもしれず
単なる国民のヒステリックな反応かもしれない
しかし、厳密な証拠がないと言って、
仕方ない!と思わせないところが小沢さんの限界

国民は確かにすべてを知るわけにはいかない
テレビ、新聞で知るだけだが
その直感は論理を尽くしたものよりも強い力を持つ
いわゆる「顔に生きざまが出る」というやつだ

小沢さんの顔はハンサムではないからとか
ぶすっとしているから嫌われるというのではない
あの年齢になって生き方が表情に表れるとき
多くの国民はそれに対してなにやら胸騒ぎを覚える

顔、表情の問題は小沢さんに責任がない
とは残念ながら言えないのではないか?
一番ごまかしが効かないのは
実はこうした雰囲気の問題で、
国民の判断は当たらずといえども遠からず
で終わることが多い

しかしながら、国民の大多数の空気にもかかわらず
党内の評価は(人気は)なぜか国民とは反対の結果となっている

党内の評価基準は国民の評価基準と
違っているようにしか思えない

これは大きな会社でも見られる傾向かもしれない
市場の意見、雰囲気よりは直属の上司の顔色
もしくは幹部の何となく暗示される方向へ盲従すること
それが結果的に自分たちを自滅の道に導くとしても
現在の自分を守るためにはストレスをためながら
その道を進むしかないと思っている

ものには寿命がある
しかし、寿命をまっとうするよりは
こうして自滅の道を歩むことのほうが多いように見えるのは
一体何故なのだろう

民主党、自滅の道を回避する方法を発見し
実行できるだろうか?
それともやっぱり自滅だろうか?


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彼らも必死なんだろうけれども

2010年04月29日 22時16分02秒 | Weblog
この時期、からっと晴れた空に映えるのが新緑
本当にきれい
なんでこんなに心をいやしてくれるのか
不思議な気さえする

新緑は言わば葉っぱの赤ちゃん
人は赤ちゃん、幼いもの、弱いものをみると自動的に
どこかかまいたくなるというか
無関心ではいられないようだ

この楽しみの新緑
我が家の庭、株立ちのアズキナシが前から少し変だった
4本中3本が新しい芽が出ているような、出てないような
枯れたような状態に
枝を折ってみるとパキッと粘りもない

そこで庭師さんに来てもらうと
残念!やっぱり枯れていた
外出していて戻った時には株立ちの木は
一本だけになっていた

説明によれば、カミキリムシのせいで
栄養分が上のほうまで回らなかったのだそうだ
確かに切り倒された木の断面には
カミキリムシの幼虫の丸々太った姿が!
これが根っこ、茎の中で全部養分を横取りしていたのだ

アズキナシ、結構好きな木だったので
少しショック
それにしてもカミキリムシの奴め
そちらも生きるのに必死なのはわかるけれど
できることなら、ここではおとなしくしてくれ!

結局消毒をして様子を見ることに

のんびり見えても自然はいたるところで戦いが
繰り返されている
この当たり前の現実がとても深いものに思えてくる

でも、虫たちはここでは頑張らないでほしいものだ


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ブルックナーの音楽

2010年04月28日 21時46分45秒 | 音楽
長い長いブルックナーの交響曲
どこに向かっていくのかさっぱりわからないような音楽

ところが慣れてしまうと、長いどころか短いように感じてしまう
(コリン・ウィルソンだったかが、ブルックナーの音楽は自然の一部を
 切り取っているので実は短すぎる と述べていた)
どこに向かっているかについても、
むしろ見通しの良い直感に支配されて
むしろすっきりしているような気にさえさせられる
不思議な音楽だ そしてこの音楽が自分は好きだ

ところで、しばしば、特に後期のものとなると
いったいこれらはメロディーと呼べるものなのだろうか?
と考え込んでしまうことがある
メロディーというよりは音、自然の音響にすぎないような
(つまり風の音や木々のこすれる音と同類のような)
気がしてならない

話は変わって
初期の作品 ピアノ曲などを聞くと
これが本当にブルックナーの曲?
と疑ってもなんら不思議はない印象を持つ

このころのブルックナーは普通に頭のいい
音楽的才能のある若い作曲家の雰囲気がある
しかし、あの深いブルックナーではない

ブルックナーはブルックナーになった
当たり前だけれど
やろうと思えばできたけれど
耳触りのよいわかりやすい音楽をかれは作らなかった

同じような曲を何曲も書いた
一見そう見えるかもしれない
だが7.8.9と深化していく音響は
山が一見同じように見えても一つ一つが違うように
まったく異なる趣をもつ

本当に9番が未完なのは残念至極だ
補筆により完成したものもあるけれど
全部をまとまりあるようにできるのは
本人しかできない技であることを再確認するだけに終わってしまう

ところで最近CD買っていないけれど
マーラーやブルックナーは以前と同じように出ているのだろうか
そしてコンサートのプログラムにも取り上げられているのだろうか

自分にとってはブルックナーは
ブーム以上の存在であると思うのだが
(自分の中では3Bはバッハ、ベートーヴェン、ブルックナー)

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中山雅史の呪縛

2010年04月26日 22時26分57秒 | サッカー
なかなか表だって口に出せないような空気のある発言
それは「無駄なFWのディフェンス、チェーシングは
止めたほうがいい」
「FWは点を取るのが仕事、得点可能な場所まで戻るのに
一苦労するような位置まで下がらなくていい」

「世界が指摘する岡田ジャパンの決定的戦術ミス」
宮崎隆司著 コスミック出版

この時期に出てくる、なかなか刺激的タイトルの本だ
この本の中に実はそう思っていた!
と賛成できるような部分があちこちにある
それが冒頭の2か所
もちろん、そういったプレーをするな!
ではない
時と場合を考えてプレーしよう
そしてする以上は基本にのっとり全体が連動して
いくようにしようがこの本の主旨だ

この本はイタリアの指導者、監督のインタビューをベースに
書かれているのでイタリアの守備の考え方がわかり興味深いが
これはイタリアだけでなく実は全世界で基本となっている
個人戦術とチームとしての守備のあり方と比較して
日本の守備は基本がなってないと警鐘を鳴らすものだ

前線からのハードなプレス
90分もちそうもないプレーは、したたかなチームには
うまくかわされてしまう
また初めはロングボールで対応するなど
1試合を通してのゲームプランを作成されてしまう

数的優位を作るというが、それは部分的なところでのこと
プレーヤーは同数なので数的優位があるということは
どこかが数的不利になっているということ
こんな当たり前のことが、どうも自分に都合のよい論理だけで
相手がどう考えるかはほとんど考えられてないのが日本のサッカー

同数では日本人では守りきれない
だから人数をかけて守る
でも何故同数で守れないのか?
体格、身体能力が違うから?

昨日だったか、スカパーでイタリア人のフェラーラが
どうすれば強くなれるか?の問いに
リーグに世界レベルの優秀なFWを連れてきて
彼らのスキル、スピード、発想に慣れるようにする
みたいなことを答えていたが
本当にそう思う

以前はスキラッチ、ストイコヴィッチ、レオナルド
ストイチコフ、ワシントンなどこの国ではめったに味えないような
とんでもないプレーをする人たちがいて
それでも最初は戸惑ったものの徐々に慣れていって
そこそこ対応できるようにもなった

結局経験とは身にしみた
相手のプレーのイメージの集積
理屈ではなく体に覚えこませたもの

マンツーマンでやれとは言わないが
基本的には日本人はもっと1対1に強くならなければ
これからの伸びはないと思う

そしてこの一人ひとりが1対1に強くなれば
DFに頻繁に手伝うこともなくなり
本来の自分の仕事に集中できるようになる

中山雅史のあの必死なプレー
全力で戦うあの意気込み
それが日本のサッカーとはそういうものだ
と悪い意味でのプロトタイプを作ってしまいはしなかったか

確かにあの表情、頑張りはわかりやすい
しかし、それを評価するのは
効果があった時だけに限定すべきだったのではないか

この意味ではマスコミにも罪がある
わかりやすさだけに安易に乗って
自分の判断ではなく世間の雰囲気に追従しただけではなかったか

中山雅史の呪縛から逃れて
真に効果のあるプレーを評価できるようになるのは
いつのことになるのだろう
(当然のことながら、別に今までの中山のプレーを
 どうこう言うつもりはない)



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1Q84 Book3

2010年04月25日 18時18分30秒 | 
メタボ対策にウォーキングに出かけた
明るい4時 フト空を見上げると月が見えた
月は2つではなく、1つだけだった

1Q84 Book3 読み終えた
流石に最終刊だけあって、様々な出来事が収束に向かった
そのもつれた物語を味わう事は長編を読む楽しみの一つだが
この作者は力技で強引な熱っぽい出来事にはしないようだ
それが文体とかカラーと言ってしまえばそれまでだが
静かな終わり方で、人の心に何かさざ波を起こして
後は個人個人の感じ方に任せる!
そんな類いの小説

しかし、自分に限ってはこの本
時間が経ってしまえば読んだという記憶はあっても
その内容まで、もしくは言わんとする内容まで
記憶できているかどうかは多いに疑問

それはミステリー仕立ての
エンターテインメント仕立ての所為ばかりではない
確かに気の利いたフレーズはあるし
静かな物語、雰囲気、イメージを喚起させる文章力はある
しかし、闘っていない

何と闘う?
具体的に何とかは答えられない
しかし、ヘッセがドストエフスキーが西行が
小林秀雄が(もしかしてジョン・レノンも)闘った何かと彼は闘っていない
そんな風に思えてならない

闘うものは時代、世代によって違う
また感受性の問題で、ある人には充分村上春樹も闘う
小説家の一人と数えられるかもしれない
しかし、残念ながら自分にはそうではない

また昨年の事に戻るけれど
最近の中ではオルハン・パムクの「雪」
これが印象に残っている
もう一度読み返したいとは思わないが
いつまでも後を引く

何と闘う?
ヘッセの「シッダールタ」がよい例かもしれない
多少ロマンティックすぎる面はあるにしても
その闘いの真摯さ、切実さは胸を打つ

賢かった主人公のしなくてもいい経験
「こんなはずではなかった」
と言っていいほどの人生
一方、仏陀に従い仏陀の教義を身につけ
解釈学に終始した友人
だが仏陀が求めたものと同じものを手にしたのは
自分の進むべき物を絶えず求めたシッダールタの方

いつまでも続く闘いの勝利は
おそらく何かを犠牲にしなければ
得られないものではないか?
そして瞬間的に得られたと思っても
また最初にいつに戻ってしまう
それは感傷的なもので片付けられるようなものでは
ないような気がする

この意味で1Q84は踏み込み不足
少しばかり残念!
もっとも自分一人がどう語ったところで
影響があるわけでもないし
単なる個人の感想に過ぎないが



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ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード

2010年04月22日 20時11分13秒 | ポール・マッカートニー
1984年ではなく1976年
ウィーンでウイングスのライブを見た(聴いた)

確かその日は50シリングのシュターツオペラの立ち見席で
タンホイザーを見るつもりだったのに
始まってみると「薔薇の騎士」に演目が変わっていた

まだ「薔薇の騎士」が名作である事を知らなかった自分は
観劇をパスし
急遽、その日ウイーンのどこかの公園で開かれる事になっていた
ウイングスのコンサートにタクシーを走らせた

チケットをどうやって手にしたか覚えていない
だが、間違いなくそのコンサートを体験できた

で今覚えている事と言えば
ヴィーナス&マースからロックショーへと続き
CDと同じ順番だなと思った事と
あの皆が待っていた曲「イエスタデイ」のイントロを
わざと間違えて笑いを取った事
そしてもう一つ、これが今日のポイントだけれど
「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」が
えらくいい曲に思えた事

このザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード
昔ちょっとだけつき合った彼女のお気に入りの曲だったけれど
アルバム「let it be」に入っているものは
オーケストラとコーラスが大げさで
分からないでもないけれど、ちょっとなあ!
と自分の中では評価は高くなかった

ところがあの日のザ・ロング・アンド・ワインディング・ロードの印象は
「あれ、こんなにいい曲だったけ?」

それが何故だったのか分かったのは
ビートルズ アンサーパストとかいう
安っぽい怪しいジャケットのCDに(1000円くらいだった?)
ピアノ伴奏だけ(?)でポールの声が大きく扱われている
テイク・ワンだったかツウーだったか、とにかくそんな類いの
ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロードを聴いたからだ

そう、この曲は、あんなに大げさな編曲で演奏されるべきでなく
もっとシンプルな伴奏で切々と歌われるべきだったのだ

後年、「ゲットバック ネイキッド」の中で
つまり、ちゃんとした公式の録音で
同様なピアノとギター、ベースのシンプルな伴奏のものが
聞ける事になったが
聴いているうちに、ついついあの大げさな伴奏を連想してしまう
傾向はあるものの、やっぱりシンプルな方なヴァージョンの方がいい
これは作曲者のポールの意見と同じというわけだ

もっともポールは後にフィルスペクターの
あの編曲も捨てたもんではない!
と再評価したとかしないとか

それにしてもラジオでかかるザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード
大半がピアノヴァージョンでないのは何故なんだろう
(ちょっと残念だ)
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カラヤンの音、ドイツの音

2010年04月21日 22時29分23秒 | 音楽
CDを買った
おそらく1年ぶり以上
しかも大人買い(といっても自慢できるほどではないが)
ものはカラヤンのシンフォニーセット(38枚組)
アマゾンで

さっそく聴いてみた
まずは「エロイカ」から 
速いなあ!迫力はいまいち!
でも、音ってこんなだったけ?
が第一印象

もっとざらついた音を予想していた
ところが出てくる音はとてもマイルド
例のレガートたっぷりのせいじゃない
そもそも音自体がふくよか
まるでドレスデン シュターツカペレみたい
あるいはギュンターヴァントが醸し出した音に似ている
フルトヴェングラーから引き継いだころの
ベルリンフィルの音に似ているかもしれない

もしかしたらこれがドイツの音なのかもしれない
不意にそんな風に思った
ドイツの音 確かに重心が低い 
その上に刺激的にならないように
ドイツの森のように音色がブレンドされる

結構いいかもしれない
正直なところカラヤンは馬鹿にしていたところが
ないとはいえない(ベームよりはいいと思っていたが)
しかし、こうして聴いてみるとなかなか捨てがたい

この音の違いは何のせいなのだろう?
自分が歳とって耳が、受け取る感性が変わった?
それともレコードばっかり聴いていた耳には
久しぶりのCDが新鮮に聞こえた?
それともシステムがエージングも終わり
300Bの真空管アンプ
MUSICAL FIDERITYが
ご機嫌に作動しているから?
それとも今回購入したCDセットがドイツグラモフォン製で
ドイツ人の耳に(好みに合うように)合わせて
ミキシングされていた?

つまりはいろんな要素がありすぎて
何が何だか分からないのだが
ただ言えることは、音がふくよかで刺激的でなく
合奏能力も高く(多少スケール感には欠けるが)非常に心地よい

エロイカの次はブラームスの4番の1楽章
ブルックナーの8番の1楽章を急いで聴いたが
全体的な印象は変わらず
この分だとしばらくは楽しめそう

カラヤンはこのCDセットにある
1970年代がよかったのかな?
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小さな、頭でっかちのサッカー

2010年04月20日 22時13分11秒 | サッカー
日本人は体力がないからトップバッターは
四球を選ぶかヒットを狙い
運よく出塁したら盗塁で進み
次に犠牲バントで3塁まで
最後は犠牲フライかスクイズで得点

守りに関してはデータを駆使した配給を試み
守備体系もやはりデータに基づき確率の高い
方策を講じる

一見当然と思われるようなこの方法
ところがちょっとしたミスを逃さないスキル
パワーの前に、必死の思いで得た得点は簡単にひっくり返されてしまう

世界はこの方向に進みつつあるし(フルスイング系)
見ていてもスリリングで面白い

ところが島国の日本人は
なぜかデータを駆使しているのは自分たちだけでなく
相手も同じという発想が抜けていたりする

これは実は野球ではなくサッカーの話
岡田監督のしようとしているサッカーは
日本人のベースボールではなく野球に
姿を変えたものに似ている

日本人には日本人の方法がある
確かにその通り
だが一人ひとりが劣ることを前提に対応しようとするのは
どうなのだろう?

岡田監督の場合だけでなく
指導者たちも日本人は劣るから1対1を避けるように
指導してはいないか?

チームプレーの基本としてよく出てくる数的優位
しかし、数的不利をあえて作り出し(相手を引き寄せ)
結果的に数的優位を作り出すバルサの本質を見逃し
数的優位の部分だけに注目し、それが理論的と
試合に生かそうとしている現実は皮相的ではないか

基本は1対1
限界はあるかもしれないが
とことん訓練しなければならないのはここの部分ではないのか?
(特に若いうちは)

助っ人のブラジル人Jリーガーのドリブル
そのキープ力は日本人とはかなり違う
何故違うのか?
どこが違うのか?
どうすればあのようになれるのか?

もちろんドリブルだけではない、守りもそう
相手についていける感覚を身につける
それらは経験というものからしか得られないだろう

頭で考えることも大事
しかし、今はあまりにも狭義の意味で
サッカーが頭でっかちになっていやしないだろうか?
(代表の試合)
だから何となく窮屈で面白くない

といっても今からのスキルアップは間に合わないのも事実
困ったものだ

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牛丼

2010年04月19日 20時28分45秒 | Weblog
ピンチの時に大助かりの牛丼チェーン 
価格競争が厳しいが自分がよく行くのは
よそよりちょっと高い「吉野家」

特においしいとは思わないが、
時々無性に食べたくなる

このクラスの食べ物は価格が圧倒的な判断材料になりそう
以前「すき屋」で牛丼を食べたのだが
自分には少しばかり甘過ぎて、、、
『すき焼きのどんぶり』が味の基本となっているのだろうか?

吉野家はなんにも特別していないようだけれど
卵を溶いてかけると
卵掛けご飯の汁が絡まって
ホントいける!

ふりかけに紅ショウガをたっぷり載せてが
お決まりのコース
もう少し別メニューの冒険をしてもいいのだけれど
毎回この組み合わせだけ
「食は保守的」
誰かが言ったけれど確かにその通り!

ところで吉野家 グループの「はなまるうどん」も
安い割にはなかなか捨てがたい!

しかし、こうして低価格のものを食していると
いったい食べ物の価格とはどういうものなのだろう?
と思わざるをえない

チェーン店が安すぎるのか?
一般の店が高すぎるのか?
持続可能な価格帯とはいったいどちらなのか?

安いのはありがたいけれど
単純にそれだけで喜べなくなってきているのは
多分、人として悪い事ではないだろう

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歴史の勉強中、感じた事など

2010年04月15日 21時52分36秒 | Weblog
どうも江戸時代の鎖国のイメージが強過ぎて
日本は海外との交流が少ない様に思っていたが
豈図らんや、そんなことは全然なくて
もっと昔、遣隋使以前から外国との行き来は結構あったようだ

平城京、遷都1300年がキッカケになっているわけではないが
最近集中して読んでいるのがこの頃の話
万葉集がらみに古事記、日本書紀(思いっきり抜粋したもの)
そして蘇我氏の事を書いたもの、穴穂部の皇子を描いた小説

こうしてまとめて読んだ方が
時代の雰囲気や人物の関係などが頭に入りやすい

ところで外国との関係
遣隋使、遣唐使の乗った船は
30メートル×7~9メートル×?メートル
貧弱で危険がいっぱいだったとか
唐に行って向こうで官僚になった人やら
結婚して子供をもうけた人がいたやら
戻れなかった人がいたとか
外国語が苦手で困った人がいたとか
そうした、こまごまとした事が日本の資料や
かの国の歴史書、文献に記されている

こうした事につけても感心する事は
よくもまあ、そんな事を調べ挙げたものだ!
ということ

どこにそんな事が書かれているか分からないだろうし
たとえ書かれているところが分かっても
判読に随分苦労しただろうし
それに、判読してもそれを評価したり、納得したりするひとは
おそらくそんなにはいないだろう
必然的に彼らは必ずしも経済的に裕福になれる可能性は大きくない(?)

世の中にはいろんな事に興味を持つ人はいるものだが
歴史の教科書に一言二言だけ記述されるために
一生かけたようなこの人たちの苦労は本当に大変!
というより、今はなんだか尊敬してしまう気持ちの方が強い
そして何かに夢中になれている事実が少しばかり羨ましい

それにしても
平城京の頃は日本は外国のものを取り入れるのには
随分柔軟性があったようだ
外国人の技術、法律、人材としての登用
それらは現実的でダイナミックで今の日本の姿よりは迫力がある
(この国を引っ張っていく人々には
 早くなんとかして今のこの閉塞感を打破してほしいものだ)



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