年令によって読む本の分野は変わってくる
若い時は圧倒的に小説類だった
だが今はそれに変わって社会とか経済とかに関するものが多くなっている
例えば今年読んだ本は(そして印象に残っているのは)
「絶望を希望に変える経済学」(アビジット・∨・バナジー&エステル・デュプロ)
「主権者のいない国」(白井聡)
「社会学的想像力」(C・ライト・ミルズ)
「代表制という思想」(早川誠)
「人新生の資本論」(齋藤幸平)
「レイシズム」(ルース・ベネディクト)
そしていま奮闘中なのが
「国家は何故衰退するのか(上)」(ダロン・アセモグ&ジェイムズ・A・ロビンソン)
歳を重ねると涙もろくなると言われる
それは歳を重ねるといろんな経験をして、目の前にある事態だけでなく
その背景までも想像し感情移入してしまうかららしい
同様なことが、読書にもおきる
もったいぶった言い回しとか、わざわざ難しい表現などと敬遠していた分野の本も
経験を重ねることにより、その言わんとすることがリアリティをもって感じられるようになっている
そして、これこそが重要な現実で、フィクションなどは架空のものに過ぎないとさえ
思えてしまうことさえある
これらの本は読み飛ばせる本ではないので難しい
だが難しい理由は、考え方が理解し難いとか概念がわかりにくいのではなくて
そこで紹介されるエピソードが未知なため、それを記憶するのが難しい場合が多い
現実的に物覚えが悪くなっているので、エピソードで紹介される人物名や出来事は
悲しいくらい頭を素通りしてしまう
だがそれは仕方ない
今はこの手の本が面白いと切実に感じる感覚は、今読むべきものとの認識に至る
と同時に(希望を込めて思うのだが)自分が今リアリティをもって大事な
読むべき本と感じる本が、世の中ではどのくらいの位置を占めているかが気になる
つまり、個人的な感覚からすれば、これらの本こそがベストセラーになるべきと思えてしまう
人とは背景知識が同じでないと話が噛み合わない
自分がこれらの本で得た感覚を人に伝えようとすると、伝わるのは伝えたいことの何分の1
ということになってしまいそうだ
それは説明の上手い下手だけ理由ではなく、圧倒的に背景知識の差によるものだ
おもしろい、おもしろくない、、は圧倒的な個人差が存在する
それなりの経験を積んでいても、どうしても感じ方の個人差は生じる
だからこそ「類は友を呼ぶ」的な集団が生まれることになるのだろうが
それでも、おせっかいなことに思うのは、今の若い人とかそれなりの感じる心を持っている人には
自分が読んだ本を読んでほしいと思う
特に「絶望を希望に変える経済学」(アビジット・∨・バナジー&エステル・デュプロ)は
読後感が良くて圧倒的におすすめ
「社会学的想像力」(C・ライト・ミルズ)も「人新生の資本論」(齋藤幸平)も
「国家は何故衰退するのか」(ダロン・アセモグ&ジェイムズ・A・ロビンソン)も
読む前と読んだ後では、認識が少し変わりそうで読まれるべきと思ったりする
個人崇拝とか長期政権はヤバい!
と他の国を見て感じる人は、この国にも少なからず存在すると思われる
北朝鮮の個人崇拝、ロシア、中国の法の変更によるトップの任期の長期化
そしてベラルーシ、それらは結果的にどのような社会を生み出しているか
少し距離をおいて見ることができる日本なら客観的に見ることができる
歴史(日本に限らず世界中の)を見ていけば
初期にどんな素晴らしいリーダーがいても、長く続けるうちに判断基準が
身の回りの人間にとって都合の良いことが何よりも優先されるようになり
腐敗が広がっていくパターンはあまりにも多く(どこでもいつでも)存在するので
人というものはこうした危険性を伴う存在として考えておくのが人の知恵というものだ
この知恵を発揮する方法として、制度的に無理やり役職の任期(回数制限)
をもたせるというのは現実的と思われる
「人間というものは長く同じポジションにいると駄目になる(腐る)」
これが共通認識としてあれば
「いい人でも、実力がある人でも、期限は期限」として制限をするのは
科学を信じるとか統計を信じるという気持ちに通じる
ところがこの人間がせっかく作り出した制度は簡単に壊される
それは「いい人で、実力があるのなら、その地位にいられないのはむしろ不自然」
というもので、当該人物は無条件に例外的な人物としている
だが100歩譲って例外的な人物が、時間が経過してもいつまでも例外的な人物のままでいられるか
を考えてみると確率的にはそれは難しいと考えるほうが現実的と思われる
性善説と性悪説、よく取り上げられるが時と場合によって使い分けるのが知恵というもので
会計についてのチェックは性悪説を、そして国や地方自治体のトップの任期もやはり性悪説を
もとに考えたほうが良いのではないか
ということで、首相も首長も長期は芳しくないと思う(それを支えるスタッフの仕事上の任期も)
ところが、日本では庶民の共通の知恵としての「個人崇拝とか長期政権はヤバい!」は
案外、身についていないのではないかと思えてくる
(庶民の知恵として定着するほど痛い思いをしていないからなのか)
今年10月までには衆議院選挙が行われる
投票する人物選ぶにあたっては地元の都合で選択することは、果たして国全体にとっても最適か
(部分最適は全体最適か?)
庶民は投票しかできないが、それでも自分が選んだ結果が国にどのような影響を与えうるか
を想像できるような庶民になってほしいと思ったりする
庭でトンボを見た
その刹那、蝶ヶ岳から常念岳の縦走をした時に赤トンボが飛んでいた光景を思い出した
まだ腰が今ほど悪くなっていないころ、お盆になると山にでかけていた
山は秋になるのが早い
まだ暑い暑いと言っていても、山は既に秋の準備をしていると実感したものだった
そういえば光の色も少し違う
その光の色は、その場所に行けば感じられる懐かしいものだ
せっかく高いところに登ったのに、常念岳までは一旦降らなければならない
その樹林帯に向かう時、目の前を遠慮せずに飛び交っている
このときの赤とんぼは童謡の赤とんぼのイメージはない
ただひたむきな生き物が自分の生を思い切り満喫しているようだ
もう一度行ってみたいところ、それは山なのかもしれない
何時間か歩けば行けるところなのだが、今は限りなく遠いところに感じられる
常念岳からの槍穂高連峰の光景を満喫した後、下山の一歩を踏み出すのは
まさに後ろ髪を引かれる思いだった
常念岳からの下山の途中の水飲み場の水はうまかった
下るに連れて沢の水の音が大きくなっていく
そして次第に蒸し暑くなっていく
馬の背を分ける天候
とんでもなく壮大で美しいモルゲンロート
そういったものを山ではしっかり見ることもできた
そこに行けば自分の目で何度も見られるのに、今は憧れるだけだ
上高地に行ってみたいとも思う
だが行けば、きっと山に向かう人を見て羨ましく思うに違いなく
それをできない自分にがっかりしそうな気もする
行ける時、行っておく
山も海外も、、たとえ消化不良でも、できる時にやっておく
それは若い人に伝えたい知恵の一つだ
だが、翻って今の自分がやっておくべきことは、、、、、
「怒ってる!」
尾身さんがIOCのバッハ会長が来日して、歓迎パーティに参加してるような状況を見て
珍しく感情をあらわにした
新聞テレビはバッハ会長を批判と報道している
常識があればこの時期、この状況で来ないでしょう
あいさつならリモートでやればいいでしょう
銀座には前回訪れていて、(もう用はないでしょう)
これらはバッハ会長自身の投げかけられたのか、JOCに投げかけられたのかわからないが
言い分が正論かどうかの問題ではなく、彼の気持ちが現れた言い方が印象に残った
怒りは、実はとても大事だと思う(大きなことをなしうると思う)
前回の「チコちゃんに叱られる」では怒りの効用について解説されたようだが
その時間ウトウトして見逃してしまったが、なんとなく怒りは行動へのきっかけとなる
と総括されていたような記憶がある
怒りは理性的ではなく感情的で見苦しいとか、他人を不快な気分にさせる
と傍観者は覚めた目で評価する(政治的に無党派層と区分けされる人々はここにいるかも)
だが、人の心を動かす力は、冷徹な事実よりも熱い感情のほうが大きいのではないか
瞬間的に沸点に達するような怒りは、時として間違いを起こすのも事実だが
内面化され、決して忘れられなくなった理不尽にたいする怒りは実は正当な怒りで、
人を社会を変えるきっかけにもなる
人は作話機能というものを持っていて、歴史は作話、話によってわかりやすくなる
坂本龍馬は本当はどんな人間かわからないが、司馬遼太郎の「竜馬が行く」に感情移入して
理解している人は多いだろう
人を理解するのは感情による共感が大きい
そしてこの感情のもつ大きなものが怒りで、それに対する共感は人が等しく持つ能力のようにさえ思える
とまあ、難しそうな言い方をしているが、要は正当な怒りは必要だということで
怒りという事実だけで無視すべきものとは判断できないということ
個人的には理不尽なものに対する怒り、弱者に対する対応への怒り
そうしたものが、新城市で2015年に行われた住民投票をきっかけに一気に表面化した
今でも思い出すたびにフツフツと怒りを覚えるのは
新庁舎建設見直しに関する住民投票の選択肢のわかりにくさで
「市道東新町桜淵線の路線の変更を伴わない現計画の見直し」
「市道東新町桜淵線の路線の変更を伴う現計画の見直し」
こんな選択肢は一体何を言ってるのかわからない
実際のところ、この住民投票が各メディアで取り上げられ話題になったのは
このわかりにくい選択肢のせいだった
そしてこのわかりにくさの弊害は(どのようにも解釈できる弊害は)後々まで影響した
このようなことがあったので、正当な穏やかな怒りなら、庶民は怒りを持ってほしい
とも思うようになった
しかし、この正当な怒りを覚えてほしい、、ということが、現実はなかなか難しい
知れば怒りを覚えるに違いない、、と目論んでも、普段平穏に過ごしている人は
特に知りたくないようなことは、大事な情報であったとしても、関心は持てず
そして傍観者のようになったままだ
そこで正当な怒りを覚える一部の人は、ついつい声を大きくして、過激な表現方法で
あるいは個人攻撃で怒りを訴える
そうなると、いくら正当と思われる怒りでも、つい引いてしまう人が出てくるのも現実だ
10月に市長、市議会議員選挙が行われる地元新城市
怒りを覚えることはいくらでもあるが(そんなに怒りっぽい方ではないと思うが)
全く怒りを覚えない人が多数いるという現実は、、どう考えたり、どう対応すれば良いのだろう
「古い歌だ。どうしてあんなものに目が覚めたのだろう」
刀傷で重い症状になっている男がベッドで呻く
色彩のない暗い舞台は、冒頭の重い鎮痛な弦を主体とした音楽が
その場の雰囲気を決定づける
後に続くイングリッシュホルンのメロディも、まるで骸骨の歌のようだ
(初めて聴いた時、何故かそう思った)
45年前の昨日の8月23日
バイロイト祝祭劇場で二回目の「トリスタンとイゾルデ」を見た
その当時でもめったに取れないチケットを手にできたのは偶然だったが
初めてナマで見ることになった舞台が本場での「トリスタンとイゾルデ」
だったのは少し変わった部類に入るだろう
ドイツ南部の地方都市、バイロイトでは毎年ヴァーグナーの作品のみを
上演する音楽会が開催される
昨年は新型コロナ感染症の流行のため中止になったようだが
今年はなんとか開かれている
いつか、生きている間にもう一度現場で、、、と、
願いだか夢だかわからないが漠然と思ったりする
確かに、この舞台の印象は強烈だった
「前奏曲と愛の死」だけはレコードで知っていた
だが、パルジファルほど好きなわけではなかった
自分が見たのはホルスト・シュタインが指揮したもので、当時評判となった
カルロス・クライバーの指揮したものではなかった
だが、トリスタンとイゾルデが例の媚薬を飲む寸前の緊張感にあふれる音楽とか
媚薬を飲んだ後、あの有名なトリスタンとイゾルデのメロディーがハープの伴奏を伴い
ヴァイオリンで奏される時の、二人の間の劇的な時間の変化とか
二幕では逢瀬でまったりとした時間経過を過ごす二人に、ブランゲーネが警告をする場面
そして重いにもかかわらず、どこか聞く人を魅了してやまない三幕の前奏曲などは
今でも聴き比べをする時に使う部分だ
この公演が終わった時、劇場入り口でお手伝いをしていた若い女性が
(彼女らはどこかで公演を見ることができたようだが)涙を流しているのが見えた
彼女らにとって外国語ではない物語をじっくりと味わうことは
自分のような意味もわからずただ舞台を見ているだけとはかなり違う感じ方をしたに違いない
少し前、人は食べたものからできている、、と広告コピーがあったが(味の素だったかな)
人は経験したものからできている、、と言えるようだ
経験したものとは仕事の上でしたものだけでなく、本を読んだもの、音楽を聴いたもの
舞台を見たものなども含まれる
そしてその影響の度合いは、直接的な仕事の経験だけが強いだけでなく、何故かある一部の人には
非現実的な経験すらも重要なものとなる
このトリスタンの影響は実生活には役立たっていないかもしれないが、
それでも何かを判断しなければならない時の判断基準の一つにはなっているような気がする
(つまりはリベラルアーツ?)
過去を振り返るのも許されて良いのではないか、、と書いたのはヘッセだった
過去を振り返ると心が諦めと同時に、その時の自分を認めるような気持ちになって
そしてそれはもう繰り返すことができないゆえに切ない気持ちになれる
8月23日、、
実はもう一つこの日には思い出がある
それは小説「利休にたずねよ」と同じ類の少し秘密にしておきたいことだ
これは永久に自分だけの秘密だ
だが不意にトリスタンのように「古い歌だ」と思い出すようなことがあったならば
無理やり思い出さないようにしていた自分には、、美しい過去として現れるのだろうか
大好きなフルトヴェングラー指揮のトリスタンとイゾルデの第三幕の音楽はこちらから
Wagner: Tristan and Isolde (Act 3), Furtwängler (1952) ワーグナー トリスタンとイゾルデ第3幕 フルトヴェングラー
地元新城市の話題
相変わらずの天気
もう2週間以上も続いて、エアコンを使わないで済む電気代は節約できても
なんだか体の調子が悪いような気さえしてくる
祖母はいつも天候が悪いと、どこかが痛いとこぼしていたが、まさにそれを実感する
でも天候と体調はあまり関係ないとする考え方もあるらしい
天候に支配されているようなブルーな気分でいると、どうしても晴れた日のような考えは浮かばない
同じことを何回も繰り返すような、そしてそれはあまり楽しいことではないことが多いが
考えようによっては案外大事なことだったりする
「地域協議会は協議機関で実行機関ではない」
機関の役割を限定されたなんてことない文章だが、これがずっと気になっている
地域協議会とは新城市が採用している自分たちの地域ことは自分で決めるといった
地域自治区制度で法的に必要とされる機関で、それぞれの地域からメンバーが選出され
そこで地域自治区予算とか活動交付金の使用の選定が行われる
この制度が採用されて既に数年の時が経つが、個人的には行政の言うほどそれがうまく機能しているとは思えない
それは活動交付金の事業で市議会議員が関わった案件に、少しばかりみっともない事件が起きたからではなくて
(支払いが済んでいないにも関わらず業者から領収証を発行してもらい、その領収書で市から交付金を受けたという事件)
そもそもこの地域自治区制度が、市民間に十分理解されていないと思えて仕方ないからだ
地域協議会のメンバーはその年の区長さんがなる場合が多い
それなりの知識・経験・人格をもっているとされる区長でも、この地域協議会はメンバーになって
初めて何をするのか知るようになる人が大半だ
ある地域協議会を傍聴したことがあるが、区の仕事と地域協議会の仕事がうまく頭の中で整理されていなかった
(区長さん以外の一般市民のどれだけがこの制度のことを知っているかは大いに疑問)
だが地域協議会は前年のように進められていく
この制度の見直し等は市民自治会議で行われることになっているが、少し前に検討されたが
大して問題点はなかったとされた(と記憶している)
「地域協議会は協議機関で実行機関ではない」に対する個人的な疑問・不満は
新城市にはあまりにも「協議機関」が多すぎるという点だ
市民自治を実現するために新城市にはいくつもの試みがある
(そもそも市民自治という言葉自体が堅苦しくてぱっとイメージしにくい)
若者会議、女性会議、市民まちづくり集会、地域自治区制度、福祉円卓会議等々だ
だが、それらの多くは「協議機関」で「会議ばかりやっている」という印象以上のものはない
(その会議に参加した人には報酬が支払われるが、全部まとめると大きな金額になりそう)
若者会議は若い感覚で市政に必要と思われる提案を行ってもらい、それを市長に建議(?)し
予算化してもらい、議会の承認をえて実行するというものだが、若者議会の役割はそこでおしまい
(若者議会の任期は一年なので)つまり実行という面には責任を負っていないのだ
流石にマズイと考えてメンターという存在で残る人もいるが、基本的には若者議会も協議機関だ
市民まちづくり集会は、もう少し寂しいイベントだ
毎年何らかのテーマを決めて、文化会館に市民が集まっってもらい、集まった人が各テーブルに別れて
テーマにそって2時間ほど意見を出し合って、あとで各テーブルごとに発表してもらうパターンが続いているが、
毎年参加する人数が寂しくなるのと同時に、ちょいと情けないのが
「この場所は何かを実行のために何かを決めるところではなく、情報の共有を図るところです」
との行政の説明だ
確かに1・2時間で思いつきのようなことを、お金を使うまでのこととして決めるのも問題かもしれないが
それでも、多くの市民が集って時間を費やし「情報の共有」ができたでシャンシャンとされるのはどうなのだろう
こうした市民自治の実現のために行われている事業だが、それが上手く行っているかどうかを見極める方法は
実は市民の生活にも関与する首長とか議員の選挙にどれだけの人が関心を持てるか、、と考えるのは飛躍し過ぎだろうか
新城市はこの秋、市長・市議会議員選挙が行われる
4年前は8月の時点でも、いずれの候補者も多くて賑やかだったが、今回はまるで無風だ
市民自治の制度を作っても選挙においては「なりたいひとが立候補して、市民はその中から選ぶしかない」が現実だ
市民自治の制度が上手くいっているならば、もう少し厄介な仕事に立ち上がってくれる人がいればいいと思うのだが
今の段階(噂)では首長も市議会議員も無投票で終わってしまいそうな雰囲気だ
もっとも首長や議会に立候補するのが少ないのは新城市だけでなく、全国の小さな自治体では見られることだ
だが、最近の市政に関する問題点を思うと、これではマズイ、、と思えてならない
人はそれぞれの役割がある
地に足をつけて着実に地元のために活躍している女性を知っていて、その人にこそ表舞台に立ってほしい
声をかけると、自分は自分でできることを精一杯することで地元に奉仕していく、、というか
それに充実感を感じる、、とのこと
この気持ちはよく分かる
結局は人は自分でできることを継続的に行っていくしかできない
彼女も、自分も、、できることをしていくしかない
だが、自分にできていることとは、、、
おそらく新城に住む人は、午後7時45分に防災無線放送の開始のチャイムが鳴ると
気分が落ち込むことになってしまうと思われる
この時間には昨年からずっと市内の新型コロナ感染症の陽性者の確認されたことを伝えている
最近の全国的な感染拡大の流れからは新城市も逃れられず、最近は毎日のように放送がある
昨日は2人、その前は6人、、、今年になって150人以上の陽性者が確認された
こうして数が増えてくると、ワクチンを射ったというものの流石に気をつけないとマズイ!
という気持ちにはなってくる
もともと自分はフットワークの軽い方ではないので、人と接しない巣篭もり生活は
さほどストレスを溜めないでもいられる
ただ、そういう生活をしていると徐々に話題が固定化して(この投稿等でも)
やはり人との交流は程々に必要だと実感する
人には根拠のない自信というものがあるようで(心理学的にも)
自分は陽性者にはならないと思い込み、要求された行動をしない人がいる
自分はならない、なっても軽いから大丈夫と思う人は
単に想像力の欠如とも思えそうだが、この想像力というのが問題で
今回のコロナの場合は割合多くの人が、自分ももしかしたら、なるかもしれない
と想像できている
しかし、それ以外の問題についての想像力は、自分のことではないと問題意識は
頭に浮かんでこない
結局は自分の身に関わってくる(想像すればわかること)新城市の財政の話(予算執行)
などは、情報は与えられても素通りしてしまう人が多い(かつての自分も、そして今の自分も時々)
多くのところで民主主義というものの、実態は少数者の意思で物事が決められている
それは残念だが全体のため、というよりは、ある特定の組織の有利になるようになっていることが多く
容易に想像がつく日本の場合だけでなく、世界中でそのようだ
未来は未来になってみないとわからないが、未来は想像することができるし
その想像した良いものに近づけるようにするのが、人の知恵と思うが
現実は面倒くさいの一言で、思い通りにはいかない
人の世は難しい
小学校が夏休みの今は、外国をルーツに持つ子どもたちの公式の勉強の手伝いも一休み
ただし、例外的に自宅に行ったりzoomで個人的に面倒を見ている子もいる
こうしたボランティアの終わったあとは敗北感を感じたり、気分的に落ち込むことが少なくない
それは彼らと向かい合っている時間、一向に手応えを感じられないことがあるからで
表情を見ればその日のテーマとなる部分(国語も算数も)の理解が進んでいないことはわかる
理解が進まない理由は、日本語の能力に問題がある場合もあるが
それだけではなく現実的には個人の理解の能力差が大きい
直ぐに想像力が働いて、言わんとすることが分かる子がいれば(ブラジルにいる男の子はそういう子)
自ら想像力を働かす癖のない子もいる
後者は直ぐにわからない、、といい、わからないから勉強の時間は面白くない
面白くないから集中力は散漫なる
この個人差はどこから生まれるかが大きな問題だが、親から受け継いだ遺伝的なもの
それ以外に彼らの暮らしている環境に左右されているのは想像がつく
遺伝的なもののような、もともともっている力については正直自分の力ではどうしようもない
運動で早く走れる子がいれば、走れない子がいるようなもので
まずは少しでも早く走ることができるようにするしかない
これは、現実的な対処方法で、それしかない、、というところだ
彼らを取り巻く環境にもだいぶ差がある
学校では日本語を話しているが、家に帰るとそこでは親の使う言語を話す
言葉を覚えるのは言葉に接する絶対量が多いことが肝心だが
残念ながらそれが現実には果たされていない
(テレビを見るようにとアドバイスしてもテレビがなかったりする)
このように分析したところで、目の前にある現実は子どもたちが
今のうちに覚えておかないと将来大変なことになることが身についていないことで
そこで感じるのは彼らが「置いてけぼりにされてしまう」というと焦りと恐怖心だ
個人差がある、家庭環境にも差がある
現場では、それらの分析でわかった気で終わっていられないのだ
彼らをどうするか、、どのようにしたら、最低限の能力をもたせることができるか
それは、まるで戦いのようだ
残念ながら能力のない子がいたとしても、そういう子を見捨てることはできない
先生も匙を投げそうな子でも、、そのまま放ったらかしにされたら
待っているのは悲惨な未来しかないと想像できるから、
なんとしてでもそれは避けたいと焦りを思う
こうした焦りは肝心な子どもたちには伝わらない
多分、親御さんにも伝わっていないだろう
でもそんなことはどうでも良い
自分は今できることを、精一杯するしかないと自ら奮い立たせて行動するしかない
できることなら、この気持ちがずっと続くようでありたい
最近、面倒を見てる子から最後に「ありがとうございました」という言葉が出ているから
わかって無いようでわかっているかもしれないが
夜中にスマホにけたたましい音がなった
何事か?と覗いてみると、この地区に土砂災害警戒情報が出されたとの連絡だった
確かに、外は雨が強く降っていた
まるで台風のような降り方で、時々窓の外で雷が光ったり音がした
不意に山を背負った場所に住んでいる同級生のことを考えた
住民投票、リコール運動のチラシのポスティングに訪れた時
彼はこんな場所に住んでいるのか、、、雨が強く降ったときなど心配だろうな
と思ったものだった
今回の土砂災害警報地区には入らなかったが、同級生の住む場所は素人目には心配なところだ
昔からの地区名は水害とかを想像させたり、その地区の成り立ちを現しているのような場所で
川からも山からも離れて安全な我が家とは随分違う
こうした不安が頭にあるので、この地区の選出の議員(MK議員)が、この地区の災害対策について
今まで議会で何の発言も質問もしないことに違和感を覚えた
広島で起きたようなことが地元で起きたならどうするとか、、それに関わるいろんなことが
行政はどうなっているのか、、を聞くのは、地元議員として至極当然と思われるが
彼は一向に気にならないらしい
最悪なのはこのことだけでなく、彼は一般質問の権利をほとんど行使していない
今回の当選後、2年間は一般質問は行わなかった
流石にヤバいと感じて、その後は3回ほど短めの質問を行ったが
それも申し訳程度の内容で、投票した人が見たなら失望するに違いない内容だった
だが、より凄まじいのは現実の方で、地域の人はそれを知らない
自分が投票した人物がどのような考えで行動し、現在は失態を招いていることも知らない
(議会運営委員会の委員長の不信任が可決された)
ずっとこうしたことに無関心だった自分は、我が事の全ては政治に関わってると
偉そうに言える立場にはないが、いざ知ってしまうと、危機感を覚えてしまう
新城市では今年の秋には市長選、市議会選が行われる
既にいろんなところで、いろんな噂話が飛び交っている
庶民が政治(市政)に関わるのは投票のときだけではなく
投票後も続けて関心をもつのが良いことと思われるが
いざそれを実現するのは、どうしたら良いのかと、、悩んでしまう
シチズンシップを実現するのは、とても難しい
もう既に100年ほど前で現代ではないのに、今でも「現代音楽」と呼ばれているのが
シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンの音楽だ
そのジャンル分けは実態を現していないクラシック界の笑い話として
先日あるSNSで取り上げられた
バロックから古典派、それからロマン派への流れは苦労しなくても
なんとなくわかるし、それぞれの音楽に共感を覚えたり感情移入もできる
ところが現代音楽と言われるこの三人の音楽は難解だ
音楽は理解するものではなく感じるものだとしても、なんじゃこれ?
といった気持ちになるのは否定できない
ところがある面では、いつまでもバロックとか古典派とかロマン派の音楽を
ありがたがっているのは、いつまでも定番の歌舞伎のみを楽しんでいるようなもので
少しばかりリアルな時代の空気とは違った浮世離れしているのかもしれない
(ラトルは従来の定番のプログラムばかりじゃいけないと訴えた)
難解な現代音楽だが、美しいとかこれは良い!と感じたことがあった
それはサイモン・ラトル指揮の演奏会のアンコールのときのことで
たった20秒くらいの音楽が演奏されたのだが
これが、緊張感と静けさと音色と、、そういったものが合わさって、
潤沢な音で何かを表現しようとする今までの音楽とは違っていて、とても良かった
そして同時に感じたのは、この静謐な音楽を良いと感じるのは、
きっと現代の人しかいないだろうなということだった
(アンコール曲はヴェーベルンの曲だった)
今の人間なら、なんとなく時代の雰囲気としての現代音楽を感じることができる
(すでに現代ではないが)
だがこの音楽をバロック時代の人が聴いたなら、果たしてどう感じるか、、と想像してみると
頭の中には???の印が浮かんだに違いない
つまりは人は知らずしらずに刺激を受けている社会の雰囲気、複雑な人間関係から生まれる気分に
個人の感受性は左右され、それを刺激する表現に共感を覚えたりするのだ
しかし残念なことに、(実は残念と思っていないが)現代の音楽、特に商業的な分野の音楽は
その表現者と同世代の人には生々しく感じられるとしても、年金生活者のおっさんには何も感じない
いくつかの音楽はみんな同じように聞こえたりする
先日、知人と音楽の話をしていた時、バッハの鍵盤楽器の音楽はみんな同じに聞こえる、、
と笑いながら奥さんの言い分を伝えてくれたが、実はその気持もわからないではない
バッハの時代のような多作を要求された職人としての音楽家は、多作が可能な技術を身につける
そしてその技術故にパターン化した音楽をつくることになる
パターン化した音楽は慣れると、その違いを感じ取ることができるようになるし
その時代の雰囲気をどっぷりと味わうこともできるようになる
ところが慣れていない人は聞き分けができない
今の若い人の音楽を聞き分けができないと嘆く自分は、
バッハの音楽はみんな同じに聞こえるといった言い分に近いのかもしれない
ただ気分として、現代音楽のそれは、そういう美もあるのかとか
ベルクのヴォツェックの気味悪さとか、音が効果音として機能するような音楽は
あえて聴こうとは思わないが、それでも聴けば今の人間しか感じられないだろう
何かを感じることはできる
でも今の商業的な音楽は、、、、、
ということで、若者に嫌われるパターンの一つ、説教がつい出てきそうになってしまった
ということで、今から若者に追いつくのはしんどいので、若者が知らない別の世界
古い今まで親しんだ音楽を更に極めよう(?)と開き直って考えたりする
まとまらない話、、、