パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「決算!忠臣蔵」を見に行った

2019年11月30日 14時52分08秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

母方の祖母は自分の娘(叔母)に「生まれたのは討ち入りの日」
と、ことある事に話していた(らしい)
最近ではあまり騒がれなくなったが、一時期「忠臣」の鑑として
あまり良くない方向に利用された感のある「忠臣蔵」
個人的には歌舞伎のストーリーは上手くできているというものの
仕返しのような内容は、関係ない人(吉良さんを守ってる人)も傷つけることになるので
共感しかねるものだった

最近読んだ江戸時代の歴史書には、赤穂事件のきっかけとなった松の廊下の刃傷沙汰の原因は
浅野内匠頭の家系の病気とか切れやすい性格だったとか、吉良さんが悪いばかりでもなさそうな
一次資料が存在するらしい

映画「決算!忠臣蔵」を見に行った
原作の「忠臣蔵の決算書」は何年か前に読んだ
例のごとくあまり覚えていないが、かすかに覚えているのは江戸までの交通費・宿泊費が
事細かに書かれていたこと
藩の取り潰しの際の退職金は下に厚くなるような気配りがされていたこと
京都での遊興は大石内蔵助の自腹で行ったこと
瑤泉院にキチンと会計報告をして、この会計報告が忠臣蔵を研究する人たちの貴重な資料となっていること
などだ

最後のキチンと会計報告をしているところなどは、大石内蔵助は単なる「忠臣」だけでなく
実務的な行政マンなのだな、、と実感したものだった

映画はいろんな見方ができる
吉本興業のスタッフがメインなのでお笑いの視点はもちろんのこと
番方(武官の系統)の勝手なお金の使い方は役方(文官・事務の系統)にとって
理解できない乱費で、これを怒る様子は現在の騒ぎになっている「桜を見る会」の
身内に甘い浪費を連想させる
まさか吉本興業はそこまで考えていなかっただろうが、結果的には皮肉な作品として
見ることができる

岡村隆史の登場シーンに「ないない!」
とあったのは、少し笑えた

番方と役方、平和な時代になって番型の役割は低下していき、徐々に役方が実権を持つようになる
その実態にイライラする番型は、感情的な勢いだけで「討ち入り」を目指す
ところが財政的な裏付けが全然ない
ここで登場するのが大石内蔵助と友人の下級武士で役方の岡村隆史の演ずる役
何かのために!とへそくりとか財政調整基金みたいなものを溜め込んでおき
当時の常識となっていた吉良さんへの賄賂(みたいなもの)も用意していた

こうした現実的な思考が役方の大事なところだが、ここで不意に思い出したのは
先の戦争のときの軍部と文官の認識の違い
戦争を始める前から戦力の差は歴然としていた
この映画に出てきた山鹿流の戦術(1対1で戦うのではなく、1対多の状況を作る)は
既にその当時でも発表されていたランチェスターの法則にとそっくりで
それほど難しく考えなくても常識的にも戦力が多いほうが有利なのはわかる
その戦力を支えるのが経済で、それをよく考えていたかといえば、、、

時には清水の舞台から飛び降りることも必要だ、、とか、
日本人は精神力が優れていうるので戦力差のハンディはなんとかなると
無責任な言動で戦いに導いた人物
そしてその結果は、、、
不安なのは、それと似通った人たちが今もいるような気がしている

このような視点から見ると、この映画はエンタメでありながら極めて政治色の強いものとなる
でも、残念ながらそう思う人は少ないだろうな
(自分が感じたのだから何人かは同じ様に感じるだろう)

※安倍さんが吉本興業に各種補助金を出しているようだが
 その吉本興業がこのような皮肉が効いた映画を作るところは
 さすが関西!と褒めておこう


 

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新城総合公園の紅葉

2019年11月29日 10時44分59秒 | 徒然なるままに

京都の紅葉ほどではないが、近くて行きやすい紅葉スポットが新城総合公園
剪定をしている方から、今は見頃との情報を得たのでちょいと出かけてみた

人並みに写真を撮ってみる
画面の中にトイレや案内看板やその他写ってほしくないようなものが入る
あとで撮った写真を見ると、絵心が無いことを実感し落ち込みそうになる

昔は週に一度、サッカーの練習で出かけていた総合公園
よく見たのはこの光景

グランドを囲んでいたのが

邪魔者が入って撮影に困ったのが

そして、家に帰ってきれいだなと感じたのが

写真の上手な人は光の位置とか加減、構図を考えるのだろうが、こちらは
ただシュッターを押しているだけ
(何を撮りたいか絞り込んでいない?)

流石にこの時期、総合公園はウォーキングしている方をチラホラ見かける

総合公園の紅葉を見ると改めて感じるのが京都の紅葉の見事さ
京都の紅葉は人の頭を見ることになっても見に行く価値がある!
と思っている
来年も行かないわけにはいかない

でも、とりあえず近場でも楽してきれいな紅葉を拝めるのはありがたい

 

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知らない人と知ってる人

2019年11月28日 10時53分23秒 | あれこれ考えること

新城市の話題

新城市議会は任期の半分が過ぎ、新しい委員会メンバーの構成となり
各委員長、副委員長が決められた
その中で、今は一応解決しているとはいうものの奇妙な出来事があった

それは経済建設委員会の副委員長を選ぶ際のできごとで
最初市議会のホームページにはありえない人物の名前が副委員長としてアップされていた
その人物は、支払い実績がない領収書を用いて市からの交付金を受け取ったことで
市民から要求された「政治倫理審査会」において「議員辞職勧告」の措置を受けている

その「辞職勧告」を受けた人物が副委員長として選ばれていたのだ
政治倫理条例では誰が読んでも、辞職勧告をうけたものは任期中は役職につけない
と解釈されるのだが、それが無視されてしまったいた

流石にこれはおかしいということで、様々な動きがあり
結果的には「一身上の理由」で該当議員は辞任し新しく副委員長が決定した

今回はこのゴタゴタぶりがテーマではない
そうではなくて、このことを知っている市民が多分ほとんどいないということ
そして知っているひとは、行動するゆえに浮いてしまった存在になってしまいそう、、という点だ

先日、友人の音楽家のライブがあって同級生が何人か集まった
この話題を振ってみるとほとんどの人は知らないでいた
それどころか、多分該当人物が辞職勧告を受けている事実や
そもそも何故そのような状況になってしまったのか
などは全く情報として頭に入っていないようだった

同級生の市政に対する意識の低さを嘆いたり批判するのではなく
むしろこうしたことは、よくありうることだと
少しばかり残念と思いながら、ならばどうすれば良いのだろうと考えてしまう

たまたま市政のいろんなことに頭を突っ込むようになってしまい
時間が経つに連れて市政の問題点(こちら側の視点での)が気になるようになってきた
その中の多くは、一般市民が知ったなら、きっと怒りを覚えるに違いないとか
疑問を覚えるに違いない  と思われることが数多くある
知ったならこう思うに違いない、、、
これが知らないから、そう思うに至らない
これは知っている側の人間としてはまどろっこしいところがある

これらの知ってる人と知らない人の違いは国のことでも同様にある
国会中継をしっかり見ている人は、
編集されたニュースや芸能人のスキャンダルを見ている人たちと感じ方が違う
国会を見ている人は見ていない人に、せめて今の国会を(特に政府の答弁の様子を)
見てほしいと願う(そうすればなにか気づくはずだ、、と)

しかし現実はこのようなことがとても難しい
現在は情報がいたるところに流れていると言われるが
肝心な情報は実は伝わっていないのではないか、、、と思ったりする

さて知ってしまった人は、何をすべきか、、、



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上に立つものに必要なもの

2019年11月26日 09時11分06秒 | あれこれ考えること

来日中のローマ教皇が質素で世間に目を配る様を報道で知るにつけ
思い出すのはヘッセの小説「ガラス玉演技」のなかの名人のこと
名人は精神的に高度な秩序が保たれた世界に留まることを良しとせず
矛盾の多い世間に足を踏み出す決心をしている
世間との関わり、人間性への洞察、そして受容、そうしたものが名人とか
教皇となるような人には不可欠な要素と思われる

天皇が変わったこの年、いい機会だから天皇の歴史絡みの本を図書館から借りてきている
前回は「江戸時代の天皇」今は「昭和天皇と戦争の世紀」(加藤陽子)を読んでいるが
この中に気になるところを見つけた

それは昭和天皇が子供の頃の成長を見続けた方の記録だ

身体、感覚、想像力、理解度、推理力、恐怖、注意力、忍耐力、勇気、規律、ことば、
快活さ、沈着性、寛大さ、仁慈、謙徳、友愛、技術、気性等が細かく観察されたようだ

年齢が上になると人として要求されるものが増えてきている様子も明らかにされている

上に立つものの資格・要素はギリシアではリベラルアーツのもととなる「自由7科」
文法学・修辞学・論理学の3学、および算術・幾何(幾何学、図形の学問)・天文学・音楽の4科を
修めていることが必要とされた

ところが、これらの上に立つ人の条件を今の日本のあの人(指さしてやじは飛ばすは、質問にはまともに答えないあの人)
に当てはめるとそれらが、「全く欠けている」と思わざるを得ないし、その現実に絶望感すら覚えてしまう

彼の頭にあるのは「今だけ、自分だけ、お金だけ」のように見えてしまう

しかし、世間は自分のように感じる人間場ばかりではない
それもまた一つの現実
しかし、この現実は不安を覚えるばかりだ

 

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ベースとドラム、二人だけで奏でる音楽

2019年11月25日 09時33分22秒 | 音楽

何かと(遊ぶ方で)忙しかった11月も昨日の友だちのライブで一旦終了
(会場は新城市内で音響装置のしっかり揃ったフィールドエスコート)
あとはちょっとした恒例の行事が残るだけとなった

地元出身のため同級生に声がけをしたが、みんないろいろ予定・都合があるようで
会場にどのくらい集まるか不安だったが、まずまずの入で一安心

大学を中退して音楽の道に飛びこんだ彼に、親御さんは当たり前のように
不安定な生活を心配する
期限を切ってその時までにものにならなかったら止めると約束させたり
占い師に見てもらうとか、その手の話をいろいろ聞いている

昨日の5時半から始まったライブは友人のベースとドラムの二人だけの組み合わせ

メロディを奏でる楽器ではない二人でどうなるか、、と思われるところだが
今回はブルースハープを用いて主だったメロディを奏でている
数年前のこの二人の演奏は時々ブルースハープを用いるくらいで、大半はベースとドラムだけで
メロディも奏でるようなアクロバティックなことをしていた
ふたりだけで何故こんなことができるのかと実演を聴くたびに思ったものだ

ベースとドラムだけでメロディも奏でる方式は、それを可能にする編曲
演奏を身につける練習、そしてその技術を維持する日々の訓練が大変で
それに時間を費やすので結果的に新しいレパートリーが増えない状況になってしまった
そこで彼らはやはり同時にいろんなことをするならばメロディをブルースハープで奏でる方法を選んだ

プログラムはラテン(コーヒールンバ・テキーラ・キャラバン)や
ビートルズナンバー(イン・マイ・ライフ、ノルウェーの森、エリナー・リグビー、ガール、オー・ダーリン、ヘイ・ジュード)
変わったところでは演歌の与作、クラシックの楽曲からはアルビノーニのアダージョ
面白かったのはバッハのカンタータ147番を最初に奏でていてコラールのメロディーが
流れると思いきや、流れてきたのはテネシーワルツとつながってこれは面白かった
(昔メリークリスマショーというクリスマスイブの特別番組で、鈴木雅之が「ブラック・マジック・ウーマン」
 を歌っっていたら、途中でアルフィーの桜井賢が急に「別れても好きな人」を歌いだしたシーンを思い出した)
二人でできる音楽を演奏上だけでで追い求めるのではなくて、こうしたちょっとした遊びみたいなものも面白かった

それにしてもプロ(この二人はプロ)は凄いな
熱気が違う
演奏による会場の盛り上げ方もコントロールしているかのよう

その他、聴いてる最中は、そうかこの手があったかとか
原曲よりブルース色が強いな、、とか
弾き込んでいるのはこの曲だなとか
いろんな気づくことがあった

会場は同級生が多く集まったが、実は名前が出てこない人もいた(女性の中に)
顔は見覚えがあるが、聞くチャンスをのがして、そのままにした(誰だったかな?)

それにしても今月11月は、本当にいろいろ感じるという経験をした
考えるのではなく感じる
秋は何かと感じやすい季節だから、それが拍車をかけているかもしれないが

※ところで、メリークリスマスショーの笑える動画は
Black Magic Woman & 別れても好きな人/MERRY X'MAS SHOW 1986

※アルフィーの桜井賢とすべきを米米CLUBの石井竜也と間違えて記述してしまったので
 途中で訂正しました

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京都日帰り旅行(広隆寺と嵐山)

2019年11月23日 08時57分28秒 | 旅・旅行

スマホのアプリによると昨日歩いた距離は12.9キロだった
最近の体力・気力を思うと、一箇所だけ真面目に見て
あとはダラダラで良いと覚悟していた京都の日帰り旅行

今回の一番の目的は、太秦の広隆寺
11月22日に年に一度だけ聖徳太子像が黄櫨染御袍を着用して
公開されるのを見るためだ

入り口には大きな文字でこう書かれている

前回訪れた時は閉まっていた聖徳太子像が納められている建物は見学者を受け入れている

聖徳太子像と黄櫨染御袍を見る所要時間は後ろが詰まっているので、待つ時間しっかり、肝心な時間は数分
といった病院の場合と似たようなものだった
即位礼で用いられた黄櫨染御袍は代々この寺に納められるようだが
昨日の着用の黄櫨染御袍はつい最近の「即位礼正殿の儀」で着用されたものではなく
現上皇が用いられたものとの説明があった

見る時間は1分ほどで聖徳太子像は想像したよりも大きなものだった
そして奥にあるのでよく判らなかったが、黄櫨染御袍は生地に透かしが入っているようで
繊細かつ品格があり、きれい!との印象をもった

あっという間に済んでしまったので、次は交通の接続の便利な嵐山に行くことにした
嵐山は見どころがありすぎるが、ダラダラと歩けばそれなりに何かがある
とりあえず今年のマイブームの源氏物語絡みの「野宮神社」はよく見ることにしようとした

天龍寺に向かって歩いていると「宝厳院」のきれいな紅葉のポスターが目に入った
ついそれに誘われて入ることにした
宝厳院は何年か前に来たことがあった
その時はまだ紅葉には早くて、苔がきれいだったくらいの記憶しかない
ところが入場券を買う前からチラッと塀越しに見える紅葉は、それだけで期待感をもたせ
入場券を買う時間が待ち遠しいくらいの気持ちになった

天気は太陽の光が弱く、晴れならばもっと素晴らしいのに!と残念なところもあったが
このすさまじい紅葉には興奮した
言葉を失うとはこういうことだろう
決して大きな庭ではないがその紅葉の色の品の良いこと、赤と緑のグラデーションがきれいなこと
こんなに心が動かされたのは東福寺の紅葉以来で、写真に撮っておかねばもったいないとスマホで
立ち止まっては撮影した
しかし撮影することに神経がいくと紅葉を心底楽しめない気もして、庭園を一周してから
今度は撮影無しで回ることにした

気持ちが完全に紅葉を見ることにいってるので、自分は歩いているというよりフワフワと
そのあたりを漂っているような気さえした

今日はこれを見ただけで十分元はとったな!と思いながら、次は野宮神社に向かって歩いた
野宮神社は想像したよりとても小さな神社だった
源氏物語では六条御息所の娘(後の秋好中宮)が斎王となっていく場面が書かれているが
それを説明した看板が出ていた

野宮神社は現在では縁結びのほうが有名らしい
だが気になったのは、木の皮がついたままの鳥居の方

これにも説明の看板があった

京都はゆっくり歩いてみると、いたるところ心にひっっかるようなことがある
鳥居といえば蚕ノ社の木嶋神社には三本鳥居もあった

もう満足したが時間が有ったので前回あまりよく見なかった二尊院に行くことにした
途中、落柿舎の案内看板があったが今回は素通り
不思議だったのは落柿舎の前の畑(原っぱ)は以前と同じずっとそのまま手付かずだったこと
何年か前落柿舎も見に来た時もそうだったし、それよりずっと前に来た時もこの光景だった
今どきならば家が建っていて不思議は無いのだが、、何故なんだろう
落柿舎は残っていても、多くの家々のなかにあるというのは風情が無いのでこのままが良いので
このままでいてほしい

嵐山を歩いていると耳に入る言葉は圧倒的に外国語だった
日本語でやり取りしているのを聞くほうが珍しい
中国語かそれ以外の言葉かわからないが、アジア系の方々が本当に多いと実感
でも彼らは落柿舎とは何か?
マニアックな人しか知らないだろうな
もっとも日本人の中でも知らない(忘れてしまっている)人が多そうだが

少し疲れて訪れたのが二尊院
紅葉は宝厳院で圧倒されたのでもう驚くことはない

山の上に藤原定家の時雨亭跡があるというので、最後のひと踏ん張りで頑張ってみた

彼もここから京都の街を見ていたのかと少し感傷的になる

宝厳院で圧倒的な紅葉を見ていた時、藤原定家の
「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」
を思い出した
西行に比べて深みがなく技巧的すぎると言われるようだが
自分はこの場面転換の効果の凄い歌は結構好きだ

ということで、結局よく歩くことになった京都日帰り旅行は
このあと錦市場でお決まりの店にいって無事終了

次の京都旅行は村山たか絡みの金福寺狙いかな





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案外わかってる!

2019年11月21日 19時50分01秒 | 子どもたちのこと

昨日のこと、近くの小学校の授業風景を見に行った
自分らが面倒見ている外国人を親に持つ子どもたちが普段どの様な態度で
授業に臨み、内容を理解しているかどうか(表情を見て)確認したかったのだが
ちょっとした手違いで日本語教室の様子を見ることになった

そこで少し驚いた
自分らの教室ではとても落ち着きのないわがままな子が
とても大人しく割と集中して勉強ができている
先生も優しく接して、彼女も安心して任せているかのよう

このあと心配なやんちゃな3人の2年生の男の子が気になって
終わりがけに授業(体育の時間)を見に行くと
ここでも僕たちは、、とてもいい子風だった(驚いた)

参観のお礼を言って先生方と話すことになったが
「子どもたちは、自分たちの集まりの時は落ち着きが無くて集中して勉強ができない」
というと
「学童でもそうなんですよ。いつも大騒ぎみたい
 子どもたちは学校では社会的な生活をすることを学んで子供なりに緊張している
 それを一日通して子どもたちが持続できるかといえば、、、
  子どもたちはなれない言葉で感情の発露もできないし」

やはりそうなのか
子どもたちは大人と違う
大人の判断で子どもたちを見てはいけない
我慢や忍耐や集中が大人と同じ様にできると勝手に決めてはいけない
このような、薄々感じていたことが、他の現場でも感じていることなのだと認識した

そこで、不意に子どもたちは何を求めて、自分たちの勉強タイムに参加しようとしているのか
自分たちは勉強を見るだけが正しいことなのか、他にすべきことはないのか
子供は本当はあの時間大人に何をしてほしいと思っているのか
と気になった

そこで、6年生の今日は暇そうな男の子に話しかけた
「Gくん、ちょっと相談、教えくれない
 君たちは、ここに来て勉強をすることになっているけど、本当はもっと別のことしたいんじゃない?
 君たちは小学校で勉強して疲れている、大人はまだ頑張れるけど君たち子どもはもう疲れているかもしれない
 それに学校で面白くないことがあって、なにか発散したい気分になっているんじゃない
 もしそうだったら、僕らは少し考えなくちゃならないけど、、、」

「僕に相談?
 僕たちが勉強するのは大きくなって高校とか大人になったとき、ちゃんと生活が会話ができるように
 してることは、わかってる」

びっくりした、これは彼が初めて自分が彼を担当した時、あまりにもふざけた態度でけなした時
室外に連れ出し、大声で彼に言った言葉だったのだ
「何故自分たち大人が、君たちの面倒を見ているか
 それは君たちが幸せになってほしいから
 君たちが普通の生活ができるようになってほしい
 そのためには、少し努力がいる
 我慢して、勉強してほしい、自分らは君たちが幸せになることがうれしい」
具体的には忘れてしまったが、こんなことを子どもが理解できるかどうかは判らずに話したのだった

確かにそのときから(すごく叱られてから)彼の目は少しづつ変わってきたように感じる

そして今日、彼は頼って相談にきた事は面倒というより、頼ってきてくれたことが嬉しいかのようだった
子どもたちは案外わかってる
ただ子どものこと、それはずっと持続しない、、気まぐれで、自分勝手で
でも、肝心なことはどうやらわかってる
やはり真剣に彼らのことを考えていれば、それはなんとなく通じるものだ
と思ったりする(たとえそれが錯覚だとしてもそれは良い錯覚)


 

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喧嘩が日本語でできるようになってほしい

2019年11月19日 18時58分22秒 | 子どもたちのこと

毎週火曜日の3時からは外国人を親に持つ子供の勉強のお手伝い
木曜日は3年生以上だが、火曜日は2年以下

男の子3人を受け持つことになった
宿題は音読で、一人一人読ませてみるとみんなたどたどしい
日本人がどのくらい読めているかわからないので
一概に駄目判定をするのはためらう

男の子3人は、騒がしい
力・エネルギーが有り余っているのか、ストレスが溜まっているのか
それとも勉強などする気がないのか(でも毎回ここに来ている)
何しろ落ち着きがない
喉をからして注意しても効いているのは数分間だけ

この3人の男の子が喧嘩をした
耳に入った言葉は「友達になってあげない!」
それで、そう言われた男の子は多分ポルトガル語でなにか言い返した
すると、今度は同じ様にポルトガル語で言い返した
こちらはポルトガル語ができないので、何を言い合っているのかわからない
でも感情的になって言葉がポンポン出てくるのは、変な言い方だが
(それがポルトガル語にせよ)少し安心した
彼らはコミュニケーションを取れている
普通に会話できる能力は持っていることがわかったから

それでできることなら、カッカしてすぐ出てくる言葉が日本語だったらな!と思い、
「喧嘩はいけないと言わないから日本語で喧嘩してみな!」
と言ってみたが、残念、それはまだできないようだった
この子たちにはカッカした時、日本語でスラスラ感情の発露ができるようになってほしい
(喧嘩は勧めないけど)

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子どもたちと出会った時の印象が違う!

2019年11月18日 08時38分23秒 | 子どもたちのこと

 新城市の3階建ての商業施設(ピアゴ)に行けばいろんな人に出会う
同級生とか、顔に記憶があるが名前が出てこない人や、サッコーコーチ時代の子供の親御さんとか、、

この中に、現在ボランティアで手伝っている外国出身の子供にも出くわす
ところが出会った時の印象・様子がいつもと違う

勉強の面倒を見ている時は、彼らは落ち着きがない
時には手がつけられないくらいの集中力の無さで
この子たちはもしかしたら多動性障害なんだろうか?
と不安に思ってしまうことがある
低学年の子の場合は、正月にお年玉を貰いに来る我が家のちびっこの実態を見れば
落ち着きのないのは、こんなものか!と想像できるが
高学年(6年)ともなると、ひたすら我儘だけにように思えてならない
宿題になかなか取り組めない、、少し取り組んだら友達と急に会話を始める
女の子は比較的おとなしく勉強に取り組むが、男の子がちょっかいをかけると
すぐに反応してしまう

このような状態がいつもなので、勉強のお手伝いが済む頃は喉が痛くなる
「集中して勉強しなさい」とか「話はやめて!」とか時には「こら!」とか
大声で怒鳴るからだ

ところが、先日商業施設で出くわした時の彼はごく普通の男の子の印象
あっ、と気づいた彼は少し表情が柔らかくなる
こちらも、あれっ!と気づいて、ハイタッチすべく手を挙げると
それに恥ずかしがることもなく応える
そこには我儘な彼の面影はない

週一度の勉強タイムは彼らの中で、どの様な位置づけなんだろう
と不意に考えてしまう
大人は少しでも勉強の手助けになればいいと思っているが
彼らはもしかしたらストレス解消のために来ているのではないのか
とも想像してしまう
彼らは普段、無邪気に暮らせているのだろうか
日本人の生活・授業の中で無理を強いられてはいないだろうか
日本人の仲間に屈託なく溶け込めているのだろうか

この勉強に来る子はみんな同じハンディを背負っていると
意識しないまでも気づいているので、彼らは知らず知らず甘えて
そこでストレスを発散しているのではないか

先日病院で出くわした6年の別の子も、勉強を見る時の様子とぜんぜん違った
一言で言えば、良い子!の雰囲気
そこでは彼も言葉を選んで丁寧な話し方をした

ボランティを終えて帰る時しばしば思うのは
子どもたちは、幸せなんだろうか?
子どもたちは将来幸せになることができるのだろうか?
そうなるためには、自分たちは何をしたら良いのだろうか?

もしかして、あの場が(感情のコントロールができないので)ストレス解消の場であったとしたら
そうさせてあげるのも一つの手かもしれないとも思ったりする

勉強の手伝いのあの場所は一回一回が勝負で、上手くいった!と達成感のある日もあれば
何もできなかった!と落ち込んでしまうような日も少なくない
でも、本当は外で見たようなナイーブな姿が彼らの本当の姿なのだろうと思うことにしている


 

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結果的には少数者の支配

2019年11月17日 09時01分18秒 | あれこれ考えること

時々、現在の人たちが疑いもなく良きものとしている多数決、あるいは選挙
による民主主義が本当に良いものか疑問に思うことがある
最終的には採決によらざるを得ないとしても、それは選挙を終えた時点で
ほとんど勝負ありとなっている

この採決の権利を持っている議員さんを選ぶ能力は、果たして庶民に備わっているのだろうか
また選ばれる人はその自覚を持っているのだろうか
この根本的なところでどうもスッキリした気分になれないでいる

選挙は選挙に夢中になる人と、無関心層に分かれ、最近は投票に出かけない無関心層が多い
ここで選挙に夢中・真剣になれる人を想像してみると、それは「現実的に得をする人たち」と思われる
理念のあるべき姿に共感したというよりは、今日明日の生活に密着した人々の損得が左右している人々だ

ハンナ・アーレントの全体主義の起源(3)にはこのような現実が書かれている

全体主義運動の大衆的成功は、あらゆる民主主義者、とくにヨーロッパ政党制度の信奉者が後生大事にしていた2つの幻想の終わりを意味した。

その第一は、一国の住民はすべて同時に公的問題に積極的な関心を持つ市民であり、全員が必ずいずれかの政党に組織されるというところまではいかなくとも、
それぞれに共感を寄せている政党はあり、たとえ自分では投票したことがなくとも、その政党によって自分を代表されていると感じているという幻想である。

ところが運動が実証してみせたのは、たとえ民主制のもとでも住民の多数派をなしているのが政治的に中立で無関心な大衆であることがあり得ること、
つまり、多数決原理に基づいて機能する民主制国家でありながら、実際には少数者だけが支配しているか、あるいは少数しかおよそ政治的な代表者を持っていないという国がある
ということだった。


全体主義運動が叩きつぶした第二の幻想は、大衆が政治的に中立で無関心なら政治的な重要性を持たないわけだし、たとえそういう大衆がいるとしても実際に中立的立場を守り
たかだか国民の政治生活の背景をなすにとどまっている、とする考えである。
全体主義運動は権力を握った国にとどまらずすべての国の政治生活全体に深刻な衝撃を与えたが、
それはつまり民主制という統治原理は住民中の政治的に非積極的な分子が黙って我慢していることで命脈を保っているに過ぎず、
民主制は明確な意思を表示する組織された公的諸機関に依存しているのと全く同じに、意思表示のない統制不可能な大衆の声にも依存している
ということがはっきりと露呈されたからである。

ハンナ・アーレントの文体は息が長くて挿入句が多く一筋縄ではいかない
だがこのような注目すべき部分が少なくない

国会で集中審議をしようにも、数の論理(与党が賛成しない)で行えない現実は、実際には少数者だけが支配している姿そのものだ

この実体を若い人はどう考えるか、、
今の自分の大して影響ないから関心はないとか
野党は対案を出さずに批判ばかりしている、、
という認識をする人も少なくないらしい

自分の若い時のノンポリだったことを思い出すと偉そうなことは言えないが
それでも選挙は「バランスを取る、暴走させない!」を意識して投票だけはしていた

それにしても無関心層が現在の状態を支持していなくても、黙っていることによって
結果的に支持していることになる、、という実態は、若い人は知っといたほうが良いと思われる
(そんなこと、知ってる、、と言われるかも)

 




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