パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

こんな内容だったとは(源氏物語)

2019年01月31日 08時49分25秒 | 

先日、梅原猛さんが亡くなった
彼の著作では柿本人麻呂の死の秘密を推理し、井沢元彦の「猿丸幻視行」のネタ元となった
「水底の歌」をざっと読んだ記憶があるが、大胆な仮説は素人には興味深かった
他には京都探訪のシリーズを読んだだけだが、この機会に彼の出世作「地獄の思想」を
読む気になって図書館から借りた

何時もながら本筋とは関係ないところに関心が向かう
今回は日本における地獄の扱いの変遷よりも、エピソードとして扱われた「源氏物語」そのものに
すごく興味が湧いた
なんとなく聞いたことのある六条御息所の名前
彼女はとても嫉妬深く、その恨みが怨霊となって登場し夕顔の死を招くことになるとあった
他にもまだ2.3笑えない話があるが、、正直、源氏物語はこんな話なのか、、と驚いた

そこで今度は瀬戸内寂聴さんの現代語訳の「源氏物語」を借りてきた

現代語訳は円地文子や林望さんのがあったが、以前テレビで瀬戸内寂聴さんが
源氏物語はまずは漫画でもいいから読んでみると良いと言ってたのが記憶に残っていたので
彼女のを選んだ

読み始めると、、正直なところ驚いた
こんな内容だったとは
高校の教科書に出てきた「桐壷」のあたりは、桐壷に対する女御のやっかみ・嫉妬は
実際にはあるんだろうな、、くらいと感じていたが、話が進んで2番目の「箒木」となると
男同士の「いい女の評価」の話題で盛り上がる(これは有名で「雨夜の品定め」と称されるそうだ)
その一つ一つの言い分は、言いたい放題というものの現代でも通じるものがありそうだ
後ろに書かれた解説によればこの無責任な男同士の話も、後のいくつかのストーリーに
つながっているそうだが、これを読んだ時点では、割合本音が見えて面白いぞ、、と言う感覚

それにしても光源氏は困った人物だ
ドン・ジョヴァンニと比較されることが多いが、なるほどすぐにドン・ジョヴァンニを連想した
浮気のし放題で悪気れたところがない(一部の人を除いて)
女性の方もハンサムで立ち振舞も美しい光源氏を、今で言うタレントさんを無条件に受け入れる
ような様子で半ば黙認してるようなところがあるようで、男も女もどっちもどっち、、と言う感じ

この時代の通婚、そこに至るまで何度かの歌の交換とか、なかなか面倒だが
この壁を越えないと到達できないのは、自分の相手として選ぶチェック機能としては案外有効かもしれない

ということで、まだ読み始めたばかりの「源氏物語」
中断したところから読み始めると記憶が曖昧なのは情けないし困ったものだが、これは仕方ない
果たして最後の巻まで興味が持続するか、、、(ムリかな、、)

それそろアマゾンのほしいものリストでは西部邁さんの「大衆への反逆」が頭にチラチラしたり
自分の本棚にあるとは思わなかったトーマス・マンの「ファウスト博士」
(ベートーヴェンの32番のピアノソナタは何故第二楽章までしかないのか、、という講義の章が面白い)
などが読みたくなってくる
同時進行でいくつかの本を読むタイプでは無いので、先に読みたい本があると落ち着かないが
今は勢いで頑張ってみるか「源氏物語」
それにしてもこんな内容だったとは、、、



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ひと頑張りしなきゃならないほうが面白い(アジアカップ イラン戦)

2019年01月29日 08時41分42秒 | サッカー

小学生のサッカーコーチをしていたときのこと
大好きな試合形式の練習でチーム分けをする時、大半の子どもは
キーとなる上手くて強い選手がいる方を望んだ
同等の力のある子は敢えて別々にして競わせるようした
彼らは何故同じチームにしてくれないのか、、、と不平を言った

小さな学年では、とにかく勝ちたい、、という気持ちが強い
自分が大して活躍しなくても勝利の味を占めたいようだ
ところがもう少し大きくなると、この気持は少し変わってくる
楽して勝てるチームと戦うのは面白くない、と感じるようになってくる
勝つだけより、どちらに転ぶか必死になって戦わなければならないほうが
楽しめる気持ちになってくる

昨日のイラク戦、ついそんなことを思い出した
やっと緊張感とスリルのある面白そうなゲームが見られるだろうと予想した
今までの試合でももしかしたら敗れることはあるかもしれないが、それは負けたというより
慢心から自滅という形をとるだろうと思っていた
結果がわかっているような試合でイマイチ関心が沸かなかった

イランは流石にアジアで一番FIFAランクングが高いチームでフィジカルが少し抜け出てる感じ
日本が苦手とする現実的な競り合いに強い南米系の要素もあるかな、、、と思い
ヒリヒリした緊張感の中で試合が進むと思ったが、その中で日本はよく守っていた
吉田は前の試合のように空中戦で全部勝つとまではいかなかったが、経験の為せる技
心配のポカも目立たず、、まずまず
富安は吉田と上手くコンビが組めていた

柴崎はスペインで試合に出ていないので試合勘が心配だったが
少し慣れてきて良くなった感じ、でも彼がリーガで使われないのが少しわかる気がする
パスばかりだったりとか動いてのボールのもらい方ができていない
ボランチの相棒、遠藤は後半怪我をして交代となったが、この選手はなかなか賢い良い選手
もしかしたら柴崎がいないより遠藤がいないほうがチームとして大変かもしれない

攻め手の4人は、結果を出した大迫は流石
でも昨日良かったのは南野
それまでは肝心なところで決めきれない、やる気はあっても空回りする選手で
今大会にのれないでいる感じだったが、昨日は最初のプレーからノッていけた感じで
この日は期待していいと予想した

堂安は若いのにムラがなく比較的安定したプレーをする
原口はよく頑張るけど守備で目立ってばかりじゃ、物足りないと思っていたら
最後に良い仕事をした

全体的に緊張感のあるなかで中盤の守りはよくまとまっていた感じ
細かな攻撃は大丈夫だろうと思われて、むしろラフなボールが来ると嫌だな
と思ったが、イランの後半のラフなボールとか雑なシュートは
やっぱりアジアのレベルはまだまだなのだと実感

ところで生活の中で面白いと思うのは努力しないと手に入らないようなこと
サッカーの試合でも必死にならねば勝てない試合のほうが、大量得点で勝利するより面白い(多分当人たちも)
これは読書も似ている
簡単に読めて時間つぶしできる本よりは、なんかよくわからんが中身がぎっしり詰まっている
と感じられる本を集中して創造力を駆使して読むほうが面白い
もっとも万度こればかりはしんどいので息抜きのような本も必要だが

ところで、今回のアジアカップ 韓国と戦うことにならなくて良かった
容易に勝てない難しい相手だからというよりは
最近の両国の関係がギクシャクしてるので必要以上に感情がヒートアップしそうで
(特に外野が)
どちらが勝利を収めても国民感情を変な方向に利用されそうな気がしたからだ

Jリーグに来ている韓国の選手はサッカーはスポーツ上の戦いで
同じJリーグのチームの日本の選手もいい奴が多いと感じ
日本の選手も韓国の選手が頼りになるチームメートと感じていて
妙な感情的なしこりは持ちたくないと思うだろうから

隣の国同士はなかなか仲良くなれない現実が各地で見られるが
今回はホント戦わずに済んだことは良かった

ところで、試合結果は日本3-0イラン 得点 大迫 大迫(PK) 原口





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日本語スピーチコンテスト

2019年01月28日 09時22分23秒 | 徒然なるままに

「東三河日本語スピーチコンテスト」を見に行った

会場は新城市の文化会館の少ホール
中学生以下(持ち時間3本以内)と一般(持ち時間5分以内)に分かれて
ブラジル・ペルー・フィリピン・インドネシア・ベトナム・アメリカなどを母国とする方々が
日頃感じていること、考えていることを慣れない日本語で発表する

我が家の近くでも以前は中国の方々、最近は東南アジアのどこかの国の方々を見かける
彼らが日本に滞在していて、どんな思いをしているか、それが気になるところだが
一度、一人で歩いている男の若者に「日本の生活は楽しいですか?」と聞いたことがあった
「楽しいです」と彼は答えて、なんだかホッとしたのを覚えている

多くの外国の方々、旅行者ではなくて実際に暮らしている人が、日本の生活をどのように感じているのか
よく言われるように「日本はすごい」がそのまま信じて良いものか
気になるところはいくつもある

発表者の中には、ごく小さいときから日本で育ち日本語も流暢に話すひともいれば
日本人が知らないことわざを発表する人もいたし、まだ少しばかり不安な感じの方がいた
共通していることは、言葉の問題は自分で解決するしか無い、、ということで
運良く楽に覚えられた人もいれば、それこそ頑張って身につけた人もいる
そして、その壁を乗り越えたであろう自信がどこかに感じられた
(バイリンガルはすごい)

それは個々の自己肯定感につながって、特に若い人たちの発言の中に見られる
前向きな姿勢は屈託がなくて、どこか救われる気がしたものだった

外国の方が日本に来て初めて会う日本人
それが学校であろうと企業であろうと、この最初に会う人の対応の印象は
外国の方の生き方・感じ方に大きく影響するだろう
言葉が通じなくても理解しようとしてくれて、親切に接してくれれば単純に
この国は良い国だと思うのではないか
(我々はそのように接したい)

しかし子供は残酷で自分と違っているものに対して警戒感をもち、接したくない傾向があるのも事実で
昨日の発表者の中にはそれで苦労されたかたもいた

発表者の中から各部門の最優秀賞を選ばれた
個人的にはなかなか優劣はつけれなかったけれど、真面目で前向きな姿勢とか発言は必要なのだが
それにプラスしてユーモアが加わると、そこに余裕とか人間性とか思いの深さが加味されるような印象をもった
そこで思い出したのが、ずっと昔、偶然に見たNHKの放送大学講座みたいなもので、
西部邁氏が何か小難しい話をしていた最後に、人間にはユーモアが必要みたいな結論を出していたが
昨日それを実感したような気になった

と言っても全体的にチコちゃんに叱られそうな、ボーッと聞いてただけ
縁あってこの国に来ている人たちが楽しい時間を過ごしていけて、日本人も大切な仲間という実感を
持つことができるなら、最近の国同士ののややこしいことは少しはなくなっていくと思うのだが、、

昔「人間は共感する生き物です」と言う言葉を知った
それが肩に力がはいることなく、ごく普通にできていければ良いのだけれど




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ラッキー!(当たった!)

2019年01月25日 16時03分11秒 | 徒然なるままに

家のチャイムが鳴った
今日は子どもたちの遊びの誘いではなかった
「生もの」と書かれた届け物を同居人が受け取った

「なにか頼んだ?」と聞かれたが最近は頼んだ記憶がない
すぐに浮かんだのは、数ヶ月前、北海道の蟹を安くしておくので
購入してくれないかと勧誘電話があり、断るのに閉口して少し喧嘩腰に
なってしまったので、もしかしたら意地悪く送りつけたのかも
と想像してしまった(第一にこれが浮かぶのは情けない!)

送られてきたのは甘平 せとか  (このブランドは知らなかった)


送り先を見ると、はは~ん!あれか!と思い当たることがあった
昨年9月30日から10月1日にかけて我が家は屋根とカーポートに台風被害がありひどい目にあったが
運良く保険(共済)に入っていたのでその修理は特に出費することなく収まった、
その保険(共済)の対応についてアンケートの依頼が封書で来ていて、2ヶ月ほど前にインターネットで答えたのを思い出した
包みを解いてみると同封された説明書きには、厳正な抽選で当選したとの文言があった

予想していなかかったことや、期待していなかったことが、ひょいと目前に現れるととても得した気になる
我が家はどちらかといえば(妹ほど)運がいいというわけではない(どういうわけかすぐ下の妹は何かによく当たる)
今年の年賀はがきも切手すら当たらなかった(妹のところは当たってシートを送ってきてくれた)

だが、今回は当たった
喜ぶのは良いがそのうち貧乏性家族は、このセットが幾らくらいするのかが気になった
それでおせっかいにもネットで検索してみた
すると、自分では絶対買わない金額だった

ということで、とてもいい気持ち
先日豊川の三河一宮の砥鹿神社で同居人がおみくじを引いたら「中吉」とあった
早速、その現れ、、、だったりして
今年はいい年になるかも、、、

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絶対的な点取り屋がいない日本のサッカー

2019年01月25日 09時04分01秒 | サッカー

アジアのサッカーだな!
今回のアジアカップの戦いを見て全体的に感じたこと
ワールドカップで感じるようなヒリヒリする緊張感はない
攻められっぱなしだったサウジ戦も、少し緊張感が不足してたような昨日のベトナム戦も
アジアのシュート力のレベルの低さに救われて、おまけにこの程度の攻めは経験済みの
多少の余裕もあって、苦戦はしたが負けるまではいかない感じはした

まだまだイラク・韓国・オーストラリアを除けば、アジア地区はサッカー後進国の部類に入る
それらの国でもワールドカップではベスト16に残れなかったが

それにしても日本のチームは頭が重いというか、点が取れないチームだ
今回は全部一点差、しかもPKとかセットプレーとか
渋いとか勝負強いとかの見方もあるが、どちらかといえば得点力不足
国内で行われたキリンチェレンジカップ(親善試合)は興行的・スター発掘にはいいかも
しれないが、現実には厳しい戦いの場ではない(皆が必死になる厳しい試合で結果を出さねば!)

もっとも今回は若手三人組のうち一人で打開できる可能性に満ちた中島翔哉が怪我でいないので
今までのような流動的な前に前にというサッカーができていないということもある

韓国はソンフンミンというトットナムに所属するストライカーがいる
点もそれなりに取っている
大迫もブンデスリーガで活躍してるが、ストライカーというタイプではない
日本ではポストプレーが秀逸で時間が作れるとの評価がある
(確かに昨日の試合でもその長所は日本にとっても効果的だったが)
日本で評価されるのは司令塔と言う名のミッドフィルダーで
エゴイスティックな点取り屋タイプは得点したときは騒がれるが
そちらかといえば良い戦略をとった監督さんとか、うまく試合をコントロールした選手が
メディアで騒がれる

時々、話題にもなるが日本に優秀なストライカーが生まれないのは社会的な環境があるとされる
実際のところストライカーというタイプはちょっと変わり者が多い(世界的にも)
その変わり者を扱いきれない指導者や大人が言うことを聞く従順なタイプを好む傾向があり
社会もその傾向に拍車をかける

一人でなんとかする
確かに一人ではできないかもしれないが
それでもツボにはまれば一人でなんとかする、、、
そんな点取り屋が日本にも出てほしいな(多少の人間性は、、仕方ない、、かもしれないとして)

 











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お笑い(会話)は関西のほうが好き

2019年01月23日 09時13分29秒 | 徒然なるままに

単なるそう思うだけの話

NHKの「チコちゃんに叱られる」は、家族と一緒に見る珍しい番組
普段当たり前に使っている事柄をあえて「なんで?」と聞かれると
実は全然わかっていないその落差に驚くと同時に、タレントさんの戸惑う様が面白い
(悪ノリのドラマも面白いが)

でも面白いと思うのはやっぱり会話のおかげかな
(森田美由紀さんのナレーションも開き直って面白い)
そしてその会話は、、、関西だな、、とつい思ってしまう
この面白さは身近な法律のことを扱った土曜日昼のNHKの「生活笑百科」と似ている
辻本茂雄・山田花子・若井みどり・桂吉弥・桂南光らが問題の答えを茶化しながらの会話が
まさに大阪そのものの会話のようでとても面白い
そしてそれらは彼らはとても自然に身についてやっている

関西とくれば関東とつい比較したくなる
前まではそれなりに面白いと感じていたが、最近見ないのがプレバトの俳句
夏井氏の俳句の添削は相変わらず興味深いが、その時のタレントさんとのやり取りが
喧嘩っぽくてクドくて嫌な気分になって  ついつい見ることが無くなってしまった
このときの笑い(?)というのが、関東だな、、と感じるわけだ

どうも自分は笑いとか会話がツッコミ主体の関東は苦手で
ボケの存在とかオチのある関西のほうが好きだな
市場としては圧倒的に関東のほうが大きい
だから関西出身のタレントさんも関東風になっていくのは仕方ないかもしれないが
なんか少しもったいない

 

 

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職人さんの気持ち

2019年01月22日 09時38分07秒 | あれこれ考えること

写真は豊川稲荷の本殿の右側の廊下の奥にあったもので細かな細工が気になって撮影した
これが美術的に完成度が高いか、それほどでもないのか、定番的なものなのかはわからない
だがこうしたお寺さん(豊川稲荷は寺院)にいっていつも驚くのは、襖絵とか仏像とか
建具とかの意匠が呆れるほどの表現意欲に満ちていること

時には著名な人物の残したものが注目されるが、大半は多分職人と呼ばれる人たちの残したもの
ただ依頼主から要求されたことを粛々とこなしているだけ
写真のような派手っぽいものは少しは誰が作ったか注目されるかもしれない
だが、欄干とか手すりとか実用的だがどこかひと工夫されているようなものは
さほど注目されることはない(だろう)

しかし、その出来上がりは細部に気が行き届いて、どこか自分の思いを表してみたい
とも思いがあるのではないか、、と思ってしまう
出来上がったものを評価するのは依頼主やそこに来る多くの人かもしれないが
その前に徹底的に厳しく評価しているのはおそらく作っている本人
彼は一体どんな気持ちでいたんだろう、名前も知られることもないというのに

大阪城を作ったのは誰か、、という問いに
豊臣秀吉と答えるとブーと鳴って、答えは大工さんとするクイズがある
この時の大工の棟梁の名前は文献に残っているかもしれないが、それでも大半の仕事は
名前も知られていない普通の職人さん
その多くの職人さんがみんなレベルを一定に保ちながら何かを作り上げる
これは当たり前のようでも、よく考えるとすごいことのように思える

先日出かけた京都広隆寺では国宝となっている平安時代の仏像は、国宝の銘はあるが作者のそれはない
誰が作ったか知らないが、そしてそれは多分自発的と言うよりは誰かに依頼されている職人さんと思われるが
そこには細部に拘る表現意欲がここかしこに溢れている

人は何故、こうした面倒くさいものを創るのだろう
それもあるときは嬉々として、、
それがとても不思議な気持ちだ

表現意欲というのは自己実現とか自己承認欲求といったもの
そんなふうに今なら解釈されるのかもしれない
でもそんな難しいことを言わなくても、人は衝動的に、本能的に、何かを表現したいという
思いにあふれる生き物なのだろうか、、、とついつい思ってしまう

それでも出来上がった作品に確かに差があるのは事実
すごい人のははすごい
名もない職人さんも実はどこかわからないところに銘を入れているかもしれない
という気がしないでもない
その方がちょっと救われるような気がする

 

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「遊ぼう!」と声がかかってきた

2019年01月21日 09時14分03秒 | 子どもたちのこと

昨日の午後三時半ごろ、家のチャイムがなった
扉を開けると子供の姿が3.4人(小学4年と一年生)
「遊ぶ時間ある?遊ぼう!」と声をかけてきた
昨年の9月から月曜と木曜はあいさつ推進運動で小学校まで近所の子供たちと歩くことにしているが
最初は怪訝そうな表情をしていたが約半年してだいぶ慣れてきたので屈託なく声をかけてきたのだ
特にしなければならないこともなかったので
「よーし、行くか!」とダウンを着込んで家を出た

「何する?」
「〇〇、、」
「えっ」
「缶けりみたいなもの。だったら、だるまさんがころんだ」
「鬼を決めよう、、じゃんけんね。〇〇の方法で、じゃんけんぽん」
じゃんけんのルールが分からないが、どうやら自分が負けたらしい
それで柱に顔を伏せて「だるまさんがころんだ」と数えると後ろの方で足音がアチラコチラに聞こえる
振り向くと
「ダメだよ、30まで数えて」
「???」
仕方ない、30まで声を出して数える
どうやら隠れんぼみたいに探せば良いらしい
だが隠れるところは、クルマのうしろ、塀のうしろ、大きなコンテナのうしろくらいで
そんなにあるわけじゃない
2.3箇所回ればすぐに見つけることができる
「見つけた!」
「ダメだよ、ちゃんと名前言ってタッチしなきゃ」

小学4年が3人、1年が1人と自分
全員が鬼の役をするまでこれを繰り返す
大人の自分はすぐに飽きてしまったが、子どもたちは一回一回を真剣に取り組んでとても面白いらしい

「今度何をする?」
「あのね、こういうの知ってる?」
昔、子供時代にやった遊びを教えようとした  
遊びの名前は「はじめの一歩」だったかな?
確か「出て入って」の掛け声で始める
大きな縦長の四角形を地面に書いて、手前と向こう側に幅1メートルくらいで線を引いて陣地をつくる
手前の陣地から片足飛びで何歩でたどり着くかを確認して、この遊びの基本となる回数を決める
出て入って、、と声をかけた後、手にもった石を手前に投げる
まずは一歩で届く位置に
それを手前の陣地からピョンとケンケン(片足飛び)で踏むようにして、踏んだらケンケンのままその石を拾う
次に拾った石を向こうの陣地に入るように投げる
入ったら規定の回数で相手の陣地に入る
帰りは規定の数でケンケンで返る(入らなかったら失敗で最初から)
次は2歩目で届くような位置に石を投げる
そして向こう側の陣地に投げる
これを繰り返して行く
片道が済んだら返り道も同じようにする、、、

こんなことを説明したが、残念、地面が固くて印もつかないので目標となる陣地が全然わからない
それで諦めて、ボール遊びに、、
2つのチームに別れてパスを続けて取られないようにするというもの
どこまでも動いて良いものだから、これが案外疲れる
自分のパートナーは一年生
予想に反してボールを受けるのがうまい
登校時のおとなしい感じとは違ってとても元気だ

子どもたちは元気だな、、
つくづく思う
同じことをしてても少しも飽きない
そのうち身体に汗を感じる

「ちょっとこれでおしまい!」
つい音を上げると、
今度は丸くなって、名前を言ってからパスをする、受けるのが失敗した人はその場で片足になって
次に成功するまでいるというお遊びに移った
近所のこの名前は知っているが、昨日は知らない子が一人いた
それを聞いたのは良いが今度は自分の名前
「〇〇だよ」
「??」
「おじさんでいい、おじさんね!」
ということで「おじさんになった」(良かった、おじいさんではなかった)

そのうちに近所の元気な2年生の僕が遊びに参加
予想に反してみんなボールを受けるのがそれなりに上手い

そんなこんなで、日曜の夕方は無邪気なお遊びにお付き合い
何だか楽しかった
いつもの登校時とは違った面が見られて
それに、おじさんを友達みたいな感覚で捉えているんだろうと想像できて、、
何事も近視眼的に夢中になる子どもたち、、
大人の時間経過とは全く違う時間経過をしている子どもたち
近所に甘えていいと思える大人がいるという安心感を少しでも感じてもらえただろうか
でも、救われるような気持ちになれたのはこちらの方だったけれど

 

 

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「草枕」を読んで(グレン・グールドが好きだったらしいが、何となく分かる)

2019年01月20日 09時03分02秒 | あれこれ考えること

本を読んでいて最近特に感じられるのは、その本を書いている人物の総量というか全人格な全体像がなんとなく感じられるということ
これが最終的にその作者への好みにつながる
自分は太宰治が好きではないが、それは彼の文体の中にどこか意地悪な芝居っぽいところが見えかくれてしまうからだし
三島由紀夫も流麗な文体だがそこにもやはり人工的なもの意地悪そうなところが見えてしまうのが生理的に受け付けない感じを持ってしまう
もっともこれは一般化できることではなく、単に好みの問題なのだろうけれど

ところで、最近読んだ夏目漱石の「草枕」
これにはびっくりした(こんな内容だったとは)
冒頭の「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」
この下りが有名だが、実はその後もかなり興味深い
いやむしろこの先のほうが夏目漱石の教養人としての総量を感じてしまう
その先の文章とは
「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。 住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。着想を紙に落さぬとも璆鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺縑なきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、──千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である」

最近はこうした視点より経済価値に換算してその効果が評価されることの多いような「芸術分野」だが
夏目漱石は何を疑うこともなく芸術自体の存在価値を認めている
具体的には何も生産しないような無駄に思えること(芸術)が、人の心を豊かにするということで尊いとしている
これなんかはテレビに出てくる政治家や知識人の人たちに聞かせたい気分だ

繰り替えすが「草枕」はこんな内容だとは思わなかった
それは一種夢の中の出来事のよう(桃源郷の中の出来事のようなとの解説がある)
あるいはトーマス・マンの「魔の山」のサナトリウムでの出来事のよう
内省的な自分を見つめるところなどはサルトルの「嘔吐」やプルーストの「失われた時を求めて」を連想させる
だから本の最後にある解説文の、西欧的な価値観から東洋的な価値観へのシフトを表現したものというのは全く同意できなかった
むしろ、西欧的な小説(教養小説的な)を日本で実現しているのではとさえ思ったからだ

夏目漱石の総量は半端ではない
脚注がないとほとんど意味がわからない語彙の豊富さだけでなく
それを使用する主体としての語り手の全体がとても巨大なものとして感じられる
それを余裕派と言われることもあるらしいが、なんとなく納得する

この本はストーリーを追うものではないので、どこからでも抜き出して読むことができる
それとなく反戦の意図をにじませたり
暴走しそうな文明をちょいと批判的に眺めたり、、
例えば
「文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。一人前何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇かすのが現今の文明である。何坪何合のうちで自由を擅にしたものが、この鉄柵外にも自由を擅にしたくなるのは自然の勢である。憐むべき文明の国民は日夜にこの鉄柵に噛みついて咆哮している。文明は個人に自由を与えて虎のごとく猛からしめたる後、これを檻穽の内に投げ込んで、天下の平和を維持しつつある。この平和は真の平和ではない。動物園の虎が見物人を睨めて、寝転んでいると同様な平和である。檻の鉄棒が一本でも抜けたら──世はめちゃめちゃになる。」

それにしても、夏目漱石の文章が難しく感じられるのは脚注にあるような難しい語彙があるからではなく
そもそもの彼の考えること、感じることが現代人には共感しにくくなっているからではないかと思える
それは世代・時代の違いと言うよりも現代人は人格の総量が少なくなっていて、現状の分析はできるが
それに対する判断は全人格的というよりは狭い範囲のなかに終止する習慣ができていて、それで良しとしているからではないか

ということで日曜の朝にはふさわしくないお話








 

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夜(無理しない生き方)

2019年01月19日 09時11分06秒 | 徒然なるままに

眠いっ!
早くも例の「春眠暁を覚えず」状態になったよう
身体がまだ冬眠から覚めていないような
それでいて節々が背伸びしたがっているような
どこか心地よいような
でも眠いのは多分別の理由

先日のサッカーアジアカップ ウズベキスタン戦が終わったのは零時を超えた時刻
いつもなら夢の中の時間だ
それが、録画ではつまらないからと珍しく遅くまで起きていたんもんだから、、、
早起き早寝を身体が求める年代で、世間の肝心なニュースを伝える報道番組も
物足りない面と、床につきたい欲求で普段は身体の欲求に従ってしまう

それにしても、夜遅くまで起きている人がいるものだ
早く寝るから、そうした人の例にもれず途中で目覚めてしまう
だいたい何時も二時半くらい
近くにおいたタブレットでツイッターの投稿を確認すると
その時間でもタイムラインは刻々と変化する
まずはその事実に驚く
まだ起きているのか
こちらは一眠りしたあとなのに、、

しかしなあ、
夜は寝るもんだ、、とつくづく思う
時々東京に出かけると10時過ぎの電車(地下鉄)もまるで8時位の賑わいのよう
その時間まで仕事をしてるのかお酒を飲んでいるのかわからないが

田舎の夜は暗い
闇が音を吸収して、うっすら明るい街灯もこの時期は寂しげな感じ
良いこと、嬉しいこと、悲しいこと、辛いこと、しんどいこと
その日何があっても寝てしまえばまた新しい1日が始まる

この繰り返しが実感として感じられる生活
それが生物としての人には必要なんだと思うが
今は特に都会では別の何かに振り回されているよう

年齢を重ねると知恵がつく
その一つに、無理はしない、、というのがある
身体が早寝早起きを欲求してるから、それに従うのが無理がない、、
でも、少しばかり怠惰なだけ、、という気がしないでもないが



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