昨日はいまいち体調が良くなかった
季節の変わり目は毎年何か不具合が出てくる
それ程疲れている感覚はないが、どこか疲れているかのようだ
特に左右の視力に差がある眼は思いの外疲れているようで
それが原因かわからないが目眩がした
29日のサッカーワールドカップアジア予選の最終戦 ベトナム戦は
何が何でも勝たなくてはならない状況から抜け出せていたので
今まで使われなかった選手がアピールの場としてチャンスを与えられた
(結果は日本1−1ベトナム)
だが9人が替えるとなるとやはり上手くいかなかった
個人的にはボランチに守田を残しておいてほしかった
上田、三笘、久保のFW陣はイマイチだった
それは個人アピールに気持ちが入りすぎだったようだ
攻め手が6人も違うと、いくら練習でやっていたとしても本番は
微妙に違ってくるのだろう
ところでドリブルについて気づいたこと
ヌルヌルと抜ける三笘のドリブルだが、ベトナム戦ではさほど効果的ではなかった
相手が彼のプレイスタイルを研究していた面もあるが
欧米人よりアジリティの高いアジア人には、彼のドリブルには対応しやすいのかもしれない
(オリンピック練習試合でも小柄なアルゼンチンの選手には通じなかった)
ドリブルはスピードで抜くタイプと相手の重心の逆を取るような変化で抜くタイプがある
最初のパターンの選手が伊東純也で、オリンピック代表では相馬直樹だ
彼らは単純に走るスピードが早い
三笘もやはりスペースがある方がプレイしやすくても彼らとは違う
ここでドリブルする位置を考えてみる
伊藤も三笘もサイドでドリブルをする
彼らはコートの左右の中央部ではそれほどドリブルをしない
ドリブルは抜くためのドリブル、サイド攻撃のためのドリブル
そしてボールを運ぶためのドリブルがある
このボールを前に運ぶためのドリブルが日本人はなかなかできない
それは途中でボールを取られると危険ということのあるだろうが
基本的にパスでボールを運ぶほうが良しとしている可能性がある
相手のカウンターを防ぐにはボールを取られるにもサイドのほうが
危険は少ないと考えて、サイドからの攻撃が大好きだったのは
前グランパスの監督フィッカデンティだった
だが真ん中がしっかりしないと相手にサイド攻撃させられているような気さえする
やっぱり基本は中央の充実が必要と思う
ボールを前に運ぶドリブルができたのは中田英寿と本田圭佑だった
彼らは華麗ではなかったが推進力があった
伊藤や三苫は中央の位置でドリブルをできるかというと
少し特徴が違う気がする
中央でドリブルできるのは誰か?と考えると久保はできる気がする
いつもボールを足元においてメッシに似たドリブルは
どの場所でもドリブルができる
とういことで、久保を真ん中にした後半はその特徴を出せそうな雰囲気はあった
だからもうすこし時間を与えたかったな
原口はハードワークの献身的な選手だが、パスを交換して生きる選手とは違う
旗手は周囲との経験不足、上田は肝心な時に実力を発揮できない運をどうやって
クリアしていくか、、
日本代表はこれから生き残りの戦いだ
いつも思うのはマスコミの無責任な報道
選手のキャッチフレーズが独り歩きして、それがわかりやすいために選手評価になって
その選手を使わざるを得なくなる、、、なんてことになってほしくない
旬の選手、戦える選手、伸びしろのありそうな選手
そういった選手が選ばれるといいな
あとボールをドリブルで運べる選手を
「ドライブ・マイ・カー」がアカデミー賞の国際長編映画賞を手にした
気の滅入ること多い中で少しばかりいい話だ
「ドライブ・マイ・カー」は村上春樹の小説が元になっているようだが
小説のタイトルは「ドライブ・マイ・カー」ではないらしい
(村上春樹のファンではないのでよく知らない)
村上春樹の作品には「ノルウェーの森」があるが
これはビートルズのアルバム「ラバー・ソウル」の中の一曲が
そのまま小説タイトルになっている
偶然かどうかわからないが「ドライブ・マイ・カー」も
「ラバー・ソウル」の中の一曲だ
ビートルズの影響はこんなところろにもあるのだな、、
と勝手に思ったりしたが、この映画で気になっていたことは別のことだった
テレビでは「ドライブ・マイ・カー」の予告編が流れる
印象的なのは赤い欧州車だ
何だったかな、、、確か北欧の車で、、
子どものころの見ればすぐに頭に入った記憶が表に出ようとしている
だが、それがすっと出ない
思い出そうとしても一向に出てくる様子はないし、ヒントさえ浮かばない
こうなるとイラついてくるが、ドツボにハマって全然出てこない
そこでいったん思い出すのを諦める
そうかサーブか
やっとのことでネットの検索からたどり着いたのはこの名前だった
免許など持てるときではなかった子供の頃、この車のデザインは
何となく好きだった
低い車体とお尻がなだらかに流れた特徴あるデザイン
車名も数字だったような(900)
車の名前を思い出したので少しスッキリした
と同時に、もし予告編に出る車がベンツとかBMWとかだったら
多分自分はさほど気に留めなかっただろうと思う
(映画に出る素材ってのは大事だな!とつくづく思う)
新城市で今問題になっている小中学校の給食についていろんな人に聞いてみた
給食の問題とは大きく分けて3つの問題がある
1つ目は、給食は自校式(学校内で作る)かセンター方式(まとめて作る)のどちらが良いか?という問題
2つ目は、その決定プロセス(市はセンター方式と決めた)が適切だったか
自治条例に違反した決定プロセスではないか?という問題
3つ目は、行政のチョンボ(基本設計の参考見積もりの紛失や該当地の県の土地が含まれて
いったん計画がストップしたこと)は何故起きたのか?そこに犯罪性を疑わせるものはなかったか?
大きくこのように分けられる
だが問題と言っても現実は市民の間にそれ程問題となっているとはいい難い
ほとんどの人は行政・議会がこれで騒ぎになっていることを知らない
その現状を踏まえて、知人・顔だけ知ってる人、学校関係者・話したことのない人に聞いたのは
1.自校式とセンター方式と、どちらが良いと思いますか?
2.その決定は教育委員会・校長会・市の幹部が決めましたが、あなたはその決定に関与したいと思いますか?
3.行政の決定の仕方は自治条例に違反していると思いますか?
の問だ(チョンボの問題はありえない話で敢えて問をするまでもない)
1番の問は答えが割合偏っている
「自校式がいい」この声が多い
想像されるように、その方が温かくて美味しいものが食べられるから!がその理由だ
だが、中には「時の流れでセンター方式も仕方ないかもしれない」という人もいる
ここで改めて実感したのは「自校式がいい」というのは圧倒的に女性が多いということ
「センター式も仕方ないかも、、」というのは男性に多い
そして、その仕方ない理由は行政の説明を聞いたからではなくて、
彼らが想像した多分もう続けられないだろうという理由からだ
次に2の決定に関与したいか?
となると、元気に自校式が良いと言っていた人(年配の女性)も急に歯切れ悪くなる
その意見の多くは
「その決定に関われるほど自分たちは現状をよく知らない
だから責任をもって決める判断はできない」
というもので、いざ決定権があるとされると責任を伴うので慎重になって
安易な判断はためらうようだ(PTAの人たちは参加しても良いかも?と口にしたが)
「ちゃんと情報を持っている人たちが妥当な理由で決めたならばそれでいい」
という他人の判断で良いとするのもある
3番目の自治条例に違反するかどうかは、質問自体が伝わらない
自治条例とは何で、どこに違反している可能性があるかをすぐに分かる人がいないからだ
これは予想した通りの結果だった
2つの選択肢があると、それぞれがそれそれを推す理由がある
その一つ一つの理由は相手側には納得できない理由とか言い訳に聞こえる可能性がある
(例えば問題となっている給食婦が集まらないのは、時給が安いからだとか)
実際のところ、このような未来に関することはどちらが正解かはわからない
時の経過だけが半か丁かの答えを出すだけで、今は想像するしかない
わからない未来を無理やり選択するには、不完全なシステムかもしれないが
多数決によるしかないかもしれない
問題はその多数決を誰がするか?ということになる
自分は基本的には事情をよく知っている人に任せるのが妥当だと思う
思いつきのようにひらめく人よりも、ずっとこのことを考えている人
そういう人に任せて、それで間違ったとしてもそれは仕方ないかもしれないと思う
人の説明を真実だと思うか、言い訳と思うか?
は直に接しないとわからないかもしれない
「自校式が良いけど、もう無理かもしれない!」
と答えたのは現場を毎日見ている女性(教頭先生)だった
また「限界にきている」と口にしたのは、知らずに声をかけたら
「自分は教師だったから現場を知っている」と答えた男性だった
無理かもしれないという実感も、努力すればクリアできるはず
と思う人もいるだろう
だが、その実感は重い(と思う)
このように人は時間的に制度的に誰かに判断を委ねざるを得ない社会に生きているが
その一つ一つは知らないなところで決まっていくものだと思うこの頃
(人は何事も関心を持たなければいけないか?誰かにお任せは悪いことか?
なんだかわからなくなってきた)
※ところで1の問に男女の判断に大きな違いが見られたので、
多数決をするには男女比は同じでないとまずいかも、、、
音楽を聴いて涙が止まらなくなったことがある
胸をかきむしられる憧憬とか湧き上がってくる興奮のせいではなく
知らず識らず熱いものが流れてくる、そんな体験を今も覚えている
それはベートーヴェンのミサ・ソレムニスの「アニュス・デイ」を聴いた時だ
第九とほぼ同じ頃の作曲で宗教音楽だが、全体の起承転結が明確でないので
とっつきやすい音楽とは言えない(自分がキリスト教徒でないせいもあるかも)
いつものように歌詞は気にせずに音楽だけに耳を傾けた
暗い(?)落ち着いた内省的な音楽が始まる
まずはバスが歌う コーラスが続いた後、次はアルトとテノールの二人
またコーラスが答えた後、今度はソプラノが主体となってアニュス・デイのメロディを歌う
そしてそれは声の組み合わせ(音色としての)と構造としての組み合わせの見事さを
感じさせるもので、歌詞の意味はわからなくても心打たれるものだった
それでも、どんな意味なのか?
と気になってレコードについている解説書を見ると、こんな内容だった
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi:
miserere nobis
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi:
dona nobis pacem.
神の子羊、世の罪を除きたもう主よ
我らをあわれみたまえ。
神の子羊、世の罪を除きたもう主よ、
我らに平安を与えたまえ。
音楽だけを聴いても感動するが、歌詞がわかるとなおさら感動することはあるもので
ベートーヴェンの晩年の心境が痛いほど胸に迫ってくる
それを思うと泣けて泣けて仕方なかった
そして経過句のヴァイオリンのフレーズがダメ出しのように心に直接響く
今この音楽を思い出したのは、祈ることしかできない戦場の人々を思ったからで
人はどんな残酷なことをなし得てしまうのか!という絶望感と
まだ信じられると!いう希望の入り混じった気持ちが戦っているせいだと思われる
音楽は何をなしうるかわからない
でもこの音楽を聴いた人が何かを感じるのは確かだと思う
できることなら、この音楽の求める姿に早くなりますように
ベートーヴェンのミサ・ソレムニスはクレンペラーの指揮したレコードを持っているが
他の演奏よりずっと心打たれる
以下の動画、1時間4分20秒からがアニュス・デイ
ベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》全曲 クレンペラー指揮
訳あって住所・名前等のラベルを作る必要性が生じた
以前はサッカークラブのメンバーの連絡の郵便のために作った
やり方はエクセルで住所・肩書・名前等のデータを作成し
ワードに紐付けし、確か差し込みヘルパーといった機能を使った記憶がある
あれから時が経っている
それでも大枠の進め方は変化ないだろうと思っていたが、、、
エクセルやワードは新しくなるごとに少しづつ変化する
表示のイメージが変わるのは気分転換で良いが
今までそこにあった機能が別の場所に移動したり
言い方が変わったりすると、それを理解するのが大変だ
昔の記憶を頼りにまずはやってみた
元データを作るのは簡単
次にワードに移ると差し込みヘルパーとか差し込みマネージャーという言葉が
見当たらない
「差し込み文書」というタブがあるのに気づいたのは少し困った後だった
ラベルの用紙の指定をして、紐付けをしようとする
それも不安がありながらどうにかできた
次は「差し込みフィールド」の挿入の工程になるのだが
これに気づくまで時間がかかった
それでも一番最初のラベルに必要項目を入れて、プレビューを見て形を整える
だが、最初のラベルの一つしかできていない
データは20以上あるのでラベルがずっと埋まっていないといけないのに白いままだ
ここで悪戦苦闘が始まる
どこかに何か方法はあるはずだ
あっちをいじったり、やり直したり、結局は同じことの繰り返しが多く
時間をおいて頭を冷やして、再度トライして、、、
ようやく「複数フィールドに反映」というタブがあるのに気づいた
だがこれがグレーになったままで、そのタブの機能は発揮されない
「ネットで調べよう!」と思いついたのはやっとのこと
ただし自分のワードはマック版なので標準的なウインドウズ版と表示が少し違う
それでもなんとか探し出してて、そこにあるようにやってみるとなんとかできた
久しぶりにやってみようと思いたってからここまで、約半日
思いの外時間がかかったのか、それとも早くできたのか
(あとは表示の体裁をきれいにするだけだ)
以前できたことが今できないというのは、どこか自尊心を傷つけられる気がする
ボケを認めることにもなるそうで、どこか悔しい
最後の方は、このラベル作業が役立つかどうかよりも意地になってこの機能を使えることを
身につけつたいと思った(自分自身の自尊心のために)
それにしてもあれこれ変わるのは不便だ
変わる必然性があるものは仕方ないが、必要以上に変わるのは、、、困る
昨日のサッカーワールドカップアジア予選 対オーストラリア戦
自分はDAZNに入っているので生中継を見られたが
結果は日本2−0オーストラリアで、予選突破できることになった
始まる前の状況は、サウジアラビアが1位(勝ち点19)
2位日本(勝ち点18)、3位オーストラリア(勝ち点15)
2位までが予選突破で3位になると別のグループの3位とプレーオフ行って
そこで勝ち残ると大陸間プレーオフで更に闘うことになる
残り1試合を考えると勝てば、もう勝ち点の逆転はできないから
無条件に予選突破となるが、負けたりすると勝ち点は18で一緒になる
同じ勝ち点なら得失点差の大きいほうが上に行くルールで
この試合前の時点ではオーストラリアは9点、日本は6点
最後の対戦相手は日本はベトナム、オーストラリアはサウジアラビア
日本はホームで勝てると思うが、オーストラアも既に予選突破して
緊張感にかけるサウジアラビアには気合で勝つ可能性がある
つまり、負けるとかなり危なっかしい状況に陥る
ただ最終戦のそれぞれの対戦相手を考えると、最悪でも引き分けが要求された
「見てるほうが疲れる!」
と本音を漏らしたのが解説者の岡田さんと内田さん
「見てるより、やってるほうが楽だ」(内田さん)
選手はもう開き直るしかないから、その場で全力を尽くす
ところが見てる方は何もできないから、ハラハラしながら見るしかない
実際、前半のチャンスを逃したあと、相手にもシュートチャンスがあって
まるでどちらに転ぼうかを決めかねているような試合展開は
試合レベルという点ではなく、勝負のアヤという点で不安は消えることがない
チャンスを逃し続けると勝利の女神は去っていく
という経験を何度か経験すると不安は募る
解説者が言ってたように前半は殴り合いのよう試合だった
この日不安はDFに富安がいなかったことだ
最近の富安は本当に頼りになる存在で、彼がいれば容易に負けることはないだろう
と思わせるものだが、今回はいない
その代わり板倉が代わりに入ったが、彼は前回のサウジ戦でそこそこできていたので
不安解消までは行かないが、仕方ないと思うしかない
もう一つ痛かったのは酒井宏樹もいなかったことだ
実はFWの大迫もいなかったが、個人的には大迫はピークを過ぎたか
コンディションが悪いかわからないが、あまり期待できないでいたので
そこは今、勢いのある選手で良い思っていた
(前回のオーストラリア戦のラッキーボーイ浅野が選ばれた)
試合は最悪でも引き分けかな、、ちょんぼとかセットプレーでやられなければいい
と思っていた残り5分くらいで、守田、山根がいい崩しをして折り返しを三笘が決めた
残り時間を思うとオーストラリアは精神的にがっくりきただろう
三笘の2点目は時間稼ぎをすると思ったが勝負に出てトドメとなった
ホント疲れた、、というのが第一印象
まずは良かったよかった
これで最終戦は少しいろんなチャレンジができる
前目の選手に若い久保とか上田とか旗手とかにチャンスを与えて
全体的な底上げをして欲しい
ホント、まずは良かった(疲れたけど)
ところで結果を出した三笘は良かったが、
個人的には守田がいい選手だなと実感した
もしかしたら最後になるかもしれないブラジルにいる子たちとの日本語の勉強
昨年のGWの頃から始まって今朝まで11ヶ月
時には休みもあったが思いのほか順調に続けることができた
彼らは4月1日に日本に向かうとのこと
また長いフライトで飛行機はお姉ちゃんも弟も「怖い!」と
あまり嬉しくないかのよう
zoomでの勉強は、3年の弟くんは日本語を忘れないように初歩的なことを
中1のお姉ちゃんは学ぶこと自体に興味を持てるように努めたが
果たしてその効果は、、、
最近嬉しかったのは画面の向こうから「それ、わからない」
と聞いてくれたこと
「わからないことは聞くように!恥ずかしくても聞くんだよ」
といった指摘がごく自然にできていることが頼もしく思える
日本に来てこれからはどうするか?(zoomの勉強を続けるか?)
はまだ決まっていない
日常生活で日本語に触れる機会が多くなるので、これが必要か?
と思えるが、懐いてきた彼らとおさらばするのも少し寂しい
「この約一年のzoomでの勉強どうだった?」と聞いてみると
「楽しかった!」との返事
それだけで全てが報われた気さえする
(楽しかったのはこちらも同じだった)
今はっきり言えることは、ツイッター(あるいはSNS)を利用している人と、していない人は
情報量が圧倒的に違うので考え方(感じ方)に違いが生じる
同様にオルテガの「大衆の反逆」を読んだことのある人とない人では
大衆についての捉え方(良い悪いを含めて)が大きく違うということだ
つまりは個人の背景知識の差が、物事を一般化できない状況を生み出している
富の分断以上に、知の分断とか情報の分断は恐ろしい状況を生み出してしまう
その漠然とした不安が通奏低音のようにずっと心に響いている
田舎にいて何ができるか?
と、無力感を覚えるだけとしても、それでも何かを発信するということは
無駄ではないと思いたい
毎年同じことをしている
その一つが庭の写真撮影
今年はこれだ
我が家の偉い人は、「花は咲き始めが良い」といつも言う
手前のボケの花が好きな人で、このくらいが一番好きなようだ
向こうのユキヤナギは一気に咲いたので慎ましい姿は見れなかった
庭の木でちょいと困るのは、偉い人との木に対する考え方の違いで
自分は樹皮とか葉っぱとか木漏れ日を作るような、それなりの高さの存在感のある木が好きだが
偉い人は大きくなりすぎるのは好まず(落ち葉が多くなるので?)花が好きなようだ
「あんたは葉っぱが落ちても片付けしないし、草もとらないし、、、」
少し耳の痛い話で、面と向かって「背の高い木が好き」とは言えない雰囲気
これで一月もすればまた同じ様に今度は新緑の写真を撮るだろう
毎年同じ時期に同じことが繰り返される生き物(植物)は
本当に健気だなと歳を重ねる度に思う
誰もがトンネル越しの写真を撮りたがる新城、鳳来のカワヅザクラ今が満開らしい
(桜淵に向かう)「新さくら通りの桜は、咲き始めで良いところだよ!」
と偉い人が言ったから、連休最終日ウォーキングしてみようか
最近のコンサートではプログラムが急遽変更された例が多いようだ
チャイコフスキーの序曲1812年は別の曲に差し替えられたと聞く
先日はバビ・ヤールが攻撃されたと報道されたが、そこで思い出したのが
ショスタコーヴィチの交響曲13番「バビ・ヤール」だ
ロシアの作曲家、ショスタコーヴィチは割合好きな音楽家で、
少しひねくれて癖のあるところが個性となって時々聴いている
(弦楽四重奏曲が思いの外面白い)
思い出したついでに「バビ・ヤール」を聴いてみようかと
CDを棚から取り出してみたが、どうも気が進まない
名曲とされる5番の交響曲も聴く気になれない
それはロシアのウクライナ侵攻のためだと自覚している
ショスタコーヴィチの責任ではないのに、どうも気が進まない
ドストエフスキーの濃密な時間を感じさせる小説も今は敬遠したい気分
人の気持ってのは案外些細なことに支配されるものだ!