パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

年の終わりに

2017年12月31日 09時31分04秒 | 徒然なるままに

年の終わりに少しばかりホッとする文章を見つけた
オルテガの「個人と社会」
そのなかに その文章は出てくる
それは本質とは全く関係なさそうだが、いまの気分を考えると
まるでちょっとしたプレゼント(ヒント)のような気さえするものだ

「われわれの求めようとするものは、わずかな光である。
もちろん大それた期待をいだいてもらっては困る。
私は自分のできる範囲のことしかできないのだ。
私のすることはわずかなことだが、それ以上のことは、もっと能力のある人に任せようと思う。」

何かを成し遂げたように思えるオルテガさえこの様に感じることがあるのだ
ならば小市民の典型のような自分らは、、、
当たり前といえば当たり前の、、できることをするしかない(国政も市政に関することも)

それにしても今更ながらいい歳をして知らないことが多すぎる、、、
年の終わりのちょっとした反省 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孤独な音楽

2017年12月29日 09時12分43秒 | 音楽

年の最後(の方)に聞く音楽として最適かどうかはどうかは疑問だが
季節的にふさわしいクリスマス・オラトリオよりも聴きたくなったのが

バッハの「フーガの技法」
タイトルどおりバッハの作曲技術の対位法のフーガの集大成の音楽だ
この音楽は楽器の指定がされていないのでどんな編成の演奏もあるが
自分が持っていたのは、この写真のCDの他にヘルムート・ヴァルヒャの演奏するオルガンによるものがある
最近の気分はこちらの室内楽版に触手が動いた

CDの一枚目は弦楽器による演奏
2枚めになって木管楽器が入って少し音色が豊かになる
しかしなあ、、そこで連想とかいろいろ思いついたが、それは以前から感じていたことでもあった

この音楽はとても孤独感を感じる
テーマはどちらかと言えば同じように対位法の技術を発揮するバッハの「音楽の贈り物」のような
魅力的なメロディではなく、のちのちの発展の可能性を考えて作られたような旋律で
これをちょっと聴いただけでは良い(一般受けする)音楽とは思えない

そして、本当に久しぶりにこのCDを聴いて改めて感じるのが、バッハはこの曲を聴いてもらうことを考えて
作曲したのだろうかということ
これらの音楽を聴いて実感するのは、闇に向かって、または何もない空間に向かって1人でとても整然とした
秩序だった音楽空間を作り上げているということ
とんでもなく頭の良い人が、ありとあらゆる可能性やら秩序を考えながら、頭の中で思索したことを表現したものだが
これは一歩間違うとプロの人にしか理解されないような現代音楽に似ている
わかりやすい音楽だけが良いのではないし、人間の作り上げたものの技術的な完成度を考えるとこの音楽は
空前絶後のものかもしれないが、そして時には非常に魅力的に感じるが、それでも自分は時にこの孤独に耐えられなくなる
だからというわけでないが、バッハが一時期人々から忘れられていたとか支持されなくなったというのはわかる気がする

聴く人がいないかもしれない、でも、その中で孤独の作曲の作業をコツコツと続ける
この行為と似ているのがグレン・グールドの演奏するバッハの音楽だ
その集中力のすさまじい個性的な音楽は、解釈の多様性と言うよりは、演奏が呼び起こす孤独な心の風景が
聴く方にとって辛くて、安易に聴く気になれないでいる
グレン・グールドも聴く人という存在を考慮に入れず自分の為に、自分の思いついたことを、表現する(録音で)
彼が残した(ビートルズと同じような)録音としての作品群は、このメンタリティをより強調することになっている

何かしらすごいな、、と感じながら、少しつらいので聴けない孤独の音楽がバッハの一部の音楽とグレングールドの音楽
今は年齢を重ねたから以前よりも彼らの孤独感を理解できるような気がしないでもないが
それでも、かなり気分が安定していないと聴けない、、かな

でも、よく考えるとこの投稿も誰も見るとは限らずに好き勝手なことを書いているのだから
同じようなものか、、、


 


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サッカーの思い出

2017年12月23日 19時20分25秒 | 徒然なるままに

大掃除をしていて昔の写真を見出した
少年サッカーのコーチをしていた時の写真だ
確か東海市の方面に遠征に出かけた時に集合写真をカレンダーにする業者の人がいて
その見本としてくれたものだ
なかなか進んでやる気にはなれない大掃除でも、こうした収穫があると少しは気分がいい

この写真のなかに今は「教師」という立場になっている人物がいる
彼はそれこそサッカー狂いそのもので、中学にはサッカー部がなかったのでテニス部に入ったが
その理由というのが中学の部活動とは別に活動していた我々が勝手にやっていた
中学のサッカークラブの練習に来やすいクラブだったからという
つまりあまり練習熱心な部活でないから土日の練習はなくて、自分の好きなサッカーの練習にこれる
というのが理由だそうだ
しかし彼は人徳があって乗り気でないテニス部でもキャプテンを任されることになった
そんな彼だがサッカーの思いはとても強く、ある時テニスの試合とサッカーの練習日が重なる時があった
その時彼の選んだのは、、いや選ぼうとしたのは、、サッカーの練習の方
でも流石にこれは親御さんから怒られた
「今回サッカーの練習にいくなら行っても良い。でも以後は絶対サッカーをしてはいけない」
この条件を出されて、かれは渋々テニスの試合の方にでかけた(こちらもホッとした)
そんな彼は高校を選ぶ時も地元でサッカーが強い高校を選んだ 

そう言えば、この写真ではないがサッカー大好き人間は毎年いるもので
やたらとシュートが上手いすばしっこい子がいたが、彼の中学の部活は野球
これもある土曜日、我々のサッカーの練習日と野球部の練習日が重なった
しかも同じグランドの向こうとこちらで、、
少しばかりストライカーの性格をもった彼は野球部の練習をほったらかしてこちらの方に来た(そこには先生もいたのに)
おいおい大丈夫か、、、こちらが心配したが、彼はあっさり「大丈夫」

これらは懐かしい、とても幸せな思い出
彼らも楽しかったかもしれないが自分らもとても楽しかった

ところで、自分はこのサッカーの練習で体罰をしたことがある
コーチ時代の最後の数年は小学校1・2年を担当していたが、この時期の子どもは全く宇宙人だ
全く日本語が通じない、集中力が続かない、直ぐ疲れる、直ぐに喧嘩する、、(でも本当にかわいい)
自分が「ウルトラマン」(3分しかもたないので)と名付けたこの子どもたちに
「なになにしてると、お尻ペンペンしちゃうぞ」と脅した
そして実際にちょっとばかりふざけて他の子に悪影響を与えそうな子に「コラ!」と言って
みんなの目の前でお尻をぺんぺん!とした(もちろん痛くないように)
すると、今度は別の子が「僕もお尻ペンペンして、、」「僕も、、」

そんなこんなで、体罰(?)は全く効果なし
結局のところ子どもたちのお遊びの一つになってしまった
あまり怒ることはなかった自分だが(子どもたちもそう理解していた)それでも時には目一杯怒った
(普段怒らない人間が怒ると恐いらしい)
すると子どもたちは気前悪そうに沈んだ様子でほんの短い時間だけ、でも直ぐに忘れて
(こちらも怒ったふりをしただけだが)

そうだ、こんなことも思い出した
「1.2.3.、、」アントニオ猪木ならこれに続くのが「ダーッ!」となるのだが
1.2年の練習時出てきたのは「1.2.3.こら~!」の掛け声
皆が集中力が欠けてきたと見るや「1.2.3」と数え始めると子どもたちは
2のあたりから声を合わせて、最後に皆で「こら~」と大声で叫ぶ
これも効果があったかどうかはわからないが、なにかとても楽しかったという記憶だけが残っている

最近、駅で大きくなった彼ら(中学・高校生)を見かけるが、なんとなく面影があるが名前が出てこない
だが、もっと困るのは彼らのお母さんのことだ
自分らは子どもたちは見ていたけど、お母さんがどんな人だったのかは全然見ていない
お母さんがたは自分のことを子どものコーチとして覚えているようだがこちらは全然記憶にない 
だから、まちなかで(知らない人から)ちょっと挨拶をしてもらうことがあると、きっと誰かのお母さんだろう
と思いこむことにして、ちょっとばかり笑顔を向けることにしている

一枚の写真から引き起こされた、昔のサッカー絡みの思い出
あるとき社会人になった子どもが「あの時、なんか楽しかった」と練習してた頃のことを思い出して言った
そんな発言をするタイプの人間ではないと思っていたのでこの発言は意外だったが
もしかしたら自分らにとっては最高の褒め言葉だったのかもしれない
(こちらも楽しかった)

 

 


 



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

防人の歌(正直な感情の発露)

2017年12月21日 08時26分06秒 | あれこれ考えること

大相撲のニュースをどこのテレビ局もほとんど同じ時刻に同じように扱っている
その異常と思える騒ぎっぷりに辟易して、そのニュースが始まると切ってしまう
人格者ぶるつもりは無いけれど、もっと大事な伝えるべきニュースはあるだろう(と言いたくなる)

ローマ時代は「パンとサーカス」で肝心なことへの目くらましを意図した人物がいたようだが
現在の日本は「パンとスキャンダル」で世の中を操っているかのようだ
しょうもないスキャンダルはある意味平和の象徴かもしれないが、これらは表立って扱われる題材ではなくて
もう少しおとなしめにアンダーグラウンドのところで扱われるべきで
今回のように大手メディアが揃って扱うのは、現在の日本人が全体的に品格が低下しているのではないかと不安になる 

ところでいきなり話題は変わって、ネトウヨという人たちのこと
日本人は素晴らしい、、を相対的ではなくて、そう思いこもうとしているようだが
彼らの言う日本人とか日本の文化ってのは、一体どのことを言うのか、少し疑問に思う
どことなく勇ましい、勢いのある行動や発言が好まれそうなネトウヨのかたがた
でも大昔、日本の国を守るように国から命令された人々(防人)は、皆が皆 好き好んで現地に赴いたのではなかった
万葉集には防人の歌が幾つか載っている
先日本を読んでたら(地図とあらすじでわかる万葉集 坂本勝監修)こんなのを見つけたが、それはとても正直な感情の発露だ

唐衣(からごろも)すそに取り付き 泣く子らを 置きてぞ来(き)のや  母(おも)なしにして
(他田舎人大島 巻20.4401) 

古文の知識がなくても意味はなんとなくわかる
子どもたちが衣の裾にすがって泣くのを、置き去りにしてしまう悲しさを歌っていて
本当は行きたくない思いが見て取れる

離れたくないのは子どもたちばかりではなく、妻や恋人に対しても同じこと

我が妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さえ見えて よに忘られず
(若倭部身麻呂 巻20.4322)
(うちの妻はたいそう俺を恋しがっているらしい 飲む水の上に影まで映って見えて 片時も忘れられはしない)

日本が世界に誇るものがあるとすれば、万葉集の存在があるかもしれない(ネトウヨの方々はこれらの歌をどのように評価するのだろう)
天上人だけでなく庶民の歌も納められていて、社会全体とまではいかないとしても多くの人が歌を詠むという文化が
そこにあったらしいという事実
そしてそれは誰もが納得できるような正直な感情の発露が多く、当時の政権には不都合なものまで組み込まれている
この社会全体のメンタリティこそが、どこか余裕があり誇るべきものと思えるのだが、それと比べて今の世は、、、 

そう言えば、子ども(中学生)のころ、授業で習った万葉集の歌でとても嬉しかったのがあった
山上憶良の作で
瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ いづくより来りしものそ目交にもとなかかりて安眠しなさぬ
反歌
銀も金も玉も何せむに優れる宝子にしかめやも

これは大人が子どもが可愛くてしかたない気持ちを表したものだが、大人ががそう思ってくれているのを知って
ホッとしてあったかい気持ちになれたのを今でも覚えている

文化とか教養は直接生活に役立たないかもしれないが、それらがないと世の中は余りにもギスギスしすぎる
保守主義の元祖 バークは「崇高と美の観念の起源」で判断の元になるものとして「美しいもの」を評価している
また数学者や物理学者、その理論が「美しい」という感覚がもてたときは、直感的にそれらは正しいと感じるらしい
どことなく根拠のなさそうな「美しいもの」を感じる気持ちってのが、今の世の中に欠けてやしないか 
特に、我が国のお偉いさんに、この教養とか心の余裕を感じられないのがとても不安
相変わらず、まとまりのないお話、、 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年の漢字は「本」

2017年12月20日 08時39分22秒 | 

清水寺で発表された今年の漢字は「北」
そうかと思いつつ、なにかストンと落ちてこない気分がするのも事実
余りにも北朝鮮色が強すぎ、不必要に煽られているような気がして、、 
(北九州の、、も含まれると言っているが連想するのはあの国のこと)

さて自分に当てはめると今年の漢字は「本」
自分で購入したものやら図書館で借りたものやら割合よく読んだ
数だけなら本読みからするとそんなに大した数ではないかもしれない 
でも手応えがありすぎる本の最後のページまでいった数冊の本
それらの本をちょいと積んで眺めると、なんだかニソニソしてしまいそう
それはまるで縦走した山の地図を見て、此処からここ迄歩いたんだと自己満足している気持ちに似ている 

前にも取り上げたが、圧倒的に面白かったのは
「樹木たちの知られざる生活」ペーター・ヴォールレーベン
そして自分にご褒美を与えたいくらい大作に取り組んで、終わりのページまでいったのが
「サピエンス全史」上下 ユヴァル・ノア・ハラリ
「イスラエルのアイヒマン」「全体主義の起源」(2)帝国主義 ハンナ・アーレント
「孤独な群衆」リースマン
だが終わりのページまでいったが、理解したかと言えば疑問符がつくのは情けない(が、、、仕方ない )

政治的な本も自分の住む地区のこと、何やら不穏な空気を感じて珍しく挑戦した年だ
「戦争まで」「それでも日本人は戦争を選んだ」加藤陽子
「南京事件を調査せよ」清水潔 
「天皇機関説事件」山崎雅弘
「保守主義とは何か」宇野重郎
「ポピュリズムとは何か」水島治郎  他、これらが国政に関わりそうなこと

地元にどことなく関わりそうで読んだのが
「地方議会ズレの構造」吉田利宏
「代議制民主主義」待鳥聡史
「多数決を疑う」坂井豊貴  他
でも、やはりあまり自分の好みの世界とは違うので読んだだけ、、みたいな印象

科学関係の本も気になるので手にしたのが
「入門!進化生物学」小原嘉明
「量子力学で 生命の謎を解く」ジム・アル・カリーリ、ジョンジョー・マクファデン
その他にも、経済学の要素がたっぷりの心理学の本は
「選択の科学」 シーナ・アイエンガー
「ファスト&ロー」ダニエル・カーネマン
「予想通り不合理」ダン・アリエリー
これらは、えげつなく実行される心理学の実験が面白かった

小説類は、、三島由紀夫の豊穣の海の「春の海」「奔馬」
中村文則の「教団X」池澤夏樹の「アトミック・ボックス」
それからカズオ・イシグロの「夜想曲集」 
どうやら今は気分的に小説類に関心が行かない時期のようだ 

あとは気楽なお楽しみのための本を少しだけ
ただ最近つくづく思うのは、本は何時でも読めると思っていたが
実はそうでもないかもしれないという実感
目がしんどくなってきているのと集中力や気力が続かないでいる
結局のところ、何事もできる時にやっておかないと、、 アカンということ

ところで年内に終わるかどうかわからないが再挑戦してるのが
「道徳と宗教の二源泉」アンリ・ベルクソン 
現在半分くらいまできてるが、認知心理学とサピエンス全史の内容が思い浮かんで
前に読んだときと少し違う印象(しかし、以前読んだことはガッカリするほど何も覚えていないな、、、)
目標は、今年中に最後のページまでいくこと、、さて、どうかな 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呆れた試合(男子サッカー 対韓国戦)

2017年12月17日 08時25分25秒 | サッカー

 東アジアE-1 サッカー選手権 男子 対韓国戦 1-4で完敗 久しぶりにひどい試合だった
実力差があったとしても大の男が必死になっている場合これほどの点差になることは少ない
必死になったご褒美にサッカーの神様は時々ちょっとしたプレゼントを用意しておいてくれて
世の中にジャイアントキラーという言葉が存在するのはそのためだが
昨日の日本の選手の戦い方はテレビ画面から見ても戦う意志が全く感じられないものだった
ラモス瑠偉や田島さんがカンカンになるのは無理からぬこと

サッカーの試合には必死にやっていても「今日はその日ではない 」と思えるくらいついてないことが時々ある
何をやってもうまくいかない、シュートがポストに当たったり、相手のたまたまのシュートが入ったり
だがそういうときは悔しさもあるが、昨日の試合は悔しさもなかった
こんな試合ならコテンパタンに負けたほうが良い  とさえ思えたものだった

早すぎる時間に得点してしまって気が緩み、逆に韓国は点を取るしか無いと開き直って気持ちにスイッチが入り
簡単には負けないはずと思い込んだ日本は結局心と身体のバランスを失ったままズルズルいってしまったというところ
もちろん戦術的な面も韓国のほうが優れていたところもあるが、問題は何故あんなにひ弱だったのかという点だ 
(身長の高い韓国に対してヘッドでの競り合いで負け続けていた高いボールを何故あんなに蹴り込んだのだろう
 それにブロックが強固で難しい状況にも関わらず精度の低い縦のパスを繰り返したのだろう)

この様に芳しくない結果を被るのは精神的な安心感と闘志を与えるキャプテンという存在が不在の時によく起こる
昨日は確かにゲームキャプテンはいた しかし、彼が真にキャプテンの役割を果たせたかというと
ただただ時間とか流れに流されただけといわれて仕方ない 
それを含めて経験不足というかもしれないが、いずれにしても昨日は呆れた試合だった
昨日の試合は昔の岡田監督が南アフリカのワールドカップ前に点差以上に完敗した韓国戦を思い出す
あの試合も不甲斐ないものだったが、本戦ではあの状態からよく開き直って持ち直したものだった 

いずれにしても、問題は多そうな、そしてそれはちょっとやそっとでは片付けれらないような問題
かもしれないところが 問題の深刻さを物語る
マスコミや世間は、良い結果には馬鹿騒ぎをして、悪い結果には目をつむりなかったことにしたい
そんな傾向がいつも見られるが、それはどこか「強きをくじき弱きを助ける」精神ではなくて
「弱い者いじめ」を喜々としてやっている社会を連想させる 
真にこの国のサッカーを強くするには、そして社会全体をまともにするには、ダメなものはダメと
少しばかりキツイ言葉をかけられるようにしないとまずいぞ、、思ったりするが
それにしても昨日はひどかったし呆れた 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モーツァルトの偉大さ(ある本からの引用)

2017年12月16日 14時58分14秒 | 音楽

最近手にした「クラシック音楽とは何か」岡田暁生著のなかに偉大な作曲家として別格な3人が紹介されていた
その3人とはバッハ・ベートーヴェン・モーツァルトだが、この中のモーツァルトに ついて書かれた部分がとてもおもしろい

抜き出すと、

モーツアルト。一体彼のどこがそんなに偉大なのかを理解するのは意外に難しい。端的に言ってその理由は、モーツアルトがまさに偉大ということと真逆な方向の表現を目指し、そういう偉大ならざる領域においてこそ、音楽史に比類のない美を達成した点にある。そもそも人が「偉大」という言葉を口にする時、どのようなものを連想するか。偉大なカリスマ性、つまり指導力や行動力。深い苦悩と高き理念(神の希求といったものも、これに含まれよう)これらは文句なしに「偉大」のレッテルにふさわしい。だがこれらの真面目な主題に対して、例えばベートーヴェンと違ってモーツアルトはほとんど関心を示さなかった。

モーツアルトの腕が俄然冴え渡り始めるのは、一体どういう表現においてかはオペラをみるとよくわかる。「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」や「コジ・ファン・トゥッテ」や「魔笛」——これらはすべて喜劇オペラだ。端的に言ってモーツアルトはお笑いの人である。これらのオペラの登場人物に聖人君子はほとんどと言っていいほどいない。みんな「エッチ」なことが大好きで、バカばかりしている。彼女がほしいとため息をつき、浮気をするふりをして初心な彼氏をからかい、別人に化けて狙いを定めた女性を口説きーモーツァルトのオペラの主人公たちはこんなバカばかりしているのだ。そんな下世話な場面に、まるで神様が降りてきたような難しい音楽を書いたという逆説にこそモーツァルトの偉大さはある。そして誰もおおっぴらに口に出さないがいわゆる「下ネタ」こそ、人間が人間である限り不変の関心事でとするならば、モーツァルトこそ人間が人間である限り、誰でもそこに何かを見いだす、そんな音楽を書いた人であった。

これらの解説は多分モーツァルト好きな人間はおおいに納得する
なにも大げさなことを振りかざすわけでもない、ただ普通の人間がフト感じてしまう感情の変化を、本当に必要最低限で
とても効率的にさらっと表現してしまう。そしてそこには感情の変化の機微だけでなく、その瞬間だけの「美しさ」が存在する。
そして明るさの中にある寂しさも、気づく人にしか感じられないような表現の仕方で盛り込まれている。

昔からモーツァルトの音楽は子どものおしゃべりみたいな気がしていた
何を話しているか分からなくても、とても幸せな気分にしてくれる「ハッピーボイス」
バッハでさえ周囲にはきっとモーツァルトの音楽を欲している。 そんな風に勝手に思い込んでいる
バッハやベートーヴェンは偉大だ、それは納得する
でも自分の周りにはモーツァルト音楽が欲しい
本当に最近まずますモーツァルトに惹かれてしまう
そしてこの音楽は聞き流しても、真面目に聴いてもそれなりの楽しみを与えてくれる
モーツァルト、、、ホント、好きだな、、
 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

強いほうが勝った(東アジアE-1 サッカー選手権)

2017年12月16日 11時20分45秒 | サッカー

東アジアE-1 サッカー選手権 女子の日本対北朝鮮は0-2で完敗 
確かに岩渕真奈が交代してバランスが崩れたところもあったかもしれないが
全体的には、強いほうが勝った  という印象

それは試合が始まった直後から感じられた
北朝鮮の素早いプレス、寄せ、デュエルの強さ、ひとりひとりのフィジカルの強さ
ボールキープの旨さ、走力、そしてきれいに並んだ守備の体形
少し時間が経って日本も慣れて攻撃できるようになってきたが、最後のところの強さが
不足していて点が入る気配は感じられなかった

こういう試合は男でも女でも戦える選手が必要だ
うまいだけでなく精神的にもタフな戦える選手
スタメンはなでしこの選手たちをよく知らないので何とも言えないが
わりあい戦える選手がが選ばれていたのではないか

坂口は沢さん、宮間さんの時代から好きな選手
今回も相変わらずの活躍だったが、あと数人しっかりした選手が欲しいな

それにしてもいつも思うのは男子も女子もフィジカルの差と言うか力強さ
単なるテレビ画面からの印象だが、走る姿の力強さというのが日本の選手は何故か軽い 
昔マラドーナがドリブルした後の芝を見たらスパイクで掘ったような跡があった
という話があったが、この走る推進力の馬力 スピードではなくて、ボールを前に運ぶ
その馬力の強さがどうも日本の選手は軽い
今までにボールを前に運ぶ馬力があったと感じたのは中田英と本田くらい
あとはスピードがあってもどこか軽くて最終的には怖さには至らないような気がしている

日本人のサッカー選手の足とブラジル人のサッカー選手の足を比較すると
土踏まずの発達がおおいに違うらしい
ブラジル人のそれは地面をしっかり捉えて力を体に伝えるのに対して
日本人のそれはそこまではいっていないと解説されたことがあった
昨日の試合でも同じような印象をもった
走る姿の力強さ、それが全てのシーンで現れているような気さえした

走る姿の力強さの確保は余りにも初歩的すぎて練習のなかにも組み込まれないうだろうし
問題とされないかもしれないが、自分的には全ての根本がここにありそうな気がしてならない

日本人は海外の選手と闘う場合は個々にフィジカルの問題を解決しなければならなくなる
フィジカル勝負を避ける手段も大事だが、ある程度までは耐える方法を体感として持つことは
もっと大事な気がするのだが、、それを思うと長友は凄いな

ところで、急に思い出したが宮間さんは今どうしてるんだろう?
ブームって本当に恐いものだ
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新城吹奏楽団 第86回定期演奏会

2017年12月10日 16時13分04秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

チケット代金 700円
電車等の交通費もかからず、一時間半しっかり楽しめる新城吹奏楽団の
定期演奏会に行ってきた

昨年初めて聴きに行って、そのときのプログラムはモーツアルトの20番のピアノ協奏曲の第2楽章
同じくモーツアルトのクラリネット協奏曲の第3楽章
そしてショスタコーヴィッチの5番の交響曲の大いに盛り上がる第4楽章、その他でとても感動した
上手い下手というのではなく、音楽してる、音楽に飢えてるみたいな感覚で
その時から次も行こうと決めていた

今年のプログラムは

ベートーヴェンとブラームスの作品を中心にした構成
このプログラムを見ただけで、この演奏会が成功裏に終わると思われた
最後のブラームスの4番の最終楽章は金管が頑張る曲で
演奏者もきっと楽しいに違いなく、それを聴いてるこちらも感動することが予想できたからだ

覚えているうちに感想を
最初の曲「ゆう」は初演の文字がある
昨年も初演された曲があったが、それは調もリズムもハッキリしないような難解なイメージの現代音楽だった
今年の曲も現代音楽の響きだったが、昨年ほど難解な感じはしない
金管が頑張る部分があってもメシアンのような響きではなく、日本人の音色だと感じられた
時折ショスタコーヴィッチを連想させる部分があった
おいしいメロディのない音響・和音中心のこうした現代音楽も実はそれなりに楽しみにしていた
今の人間にしかわからない感覚は実は現代音楽しか表現し切れないかもしれないと思ったから

2番めのA.リードの「ジュビラント序曲」はとても音が良く鳴る音楽だった
最初の曲と比べると前に出てくる音の色彩・賑やかさがぜんぜん違う
どちらのほうが良いというのではなく、曲の個性の違いなんだろうが

2部はベートーヴェンの作品
「エグモント序曲」最初の和音からベートーヴェンの個性がきっちり現れている
真面目な音楽だが、それでも中間部は聴きやすいメロディがある
弦楽器があれば チェロが奏するところで、普通の編成の演奏に慣れていると
少し違った印象を持つが、そういうものと思えば特に違和感までは至らない
最後のほうでテンポは早まるパッセージのがあるが、他人事ながら少し心配してしまった
うまくやりきれるかな、、と(フルトヴェングラーの猛烈なスピードアップの演奏が記憶にあるので)

ピアノ協奏曲は、最初の出だしに部分で、管楽器というのは音程をキープするのと
小さな音で演奏するのは難しいんだなと実感した

第3部はブラームスの作品 
まずはハンガリー舞曲を4曲
1番は流石にフルトヴェングラーの演奏のようにテンポがとてつもない変化があることはなかった
その分安心して聴けた
有名な5番は、ふわっとゆっくり表情豊かに開始された
あっさり楽譜通りスピード感をもって始められる思ってたので少し印象に残った
(なるほど音楽の解釈とはこういうことか、、)

最後の4番の第4楽章
これは最初の音から音色が違った
熱気があるというか、充実しているというか、多分いちばん多く練習しているんだろうな
と勝手に想像した
この楽章はめったに主役になれない低音部を支える楽器群も主役になれる部分がある
フルートも緊張感たっぷりのソロのシーンも有る
弦楽器がないので部分的な音色は違うけれど、その弦楽器の編曲されたパートを
クラリネットが必死に吹く

音楽の感動ってなんだろう、、聴いててそんなことを考えた
クライマックスの冒頭のパッサカリアの主題がフォルテでみんなで奏される時
なんだか理由もなく涙が出そうになった
そこまで行くと後は勢いに任せて、のりにのって音楽は続く
おもいっきり吹いて、やりきって、幸せそうな奏者の方々、、

ということで、今年もおおいに満足
やっぱり生はいいな
来年も行こう、、 

 


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おさらい「アッシジの聖フランチェスコ」

2017年12月09日 09時10分24秒 | 音楽

買っただけで最後まで聴けていなかったCDを最近聴いている

アッシジの聖フランチェスコ  小澤征爾の指揮したものだ
今までに4枚組の最初の1枚までは聴いた
鳥の声を彷彿とさせる音響はとても心地よいが、歌が詠唱ぽくて退屈で
おまけに、歌詞の文字が小さくて読む気になれなず、そのまま聴き続ける気になれないでいた

しかし、先日のライブ(びわ湖ホール)の力は大きく、おさらい(復習)をしてみようという気になった
と言っても覚えているシーンは、
第一幕では皮膚病患者に口づけをする(その後?)柔らかな和音のところ
終わりの天上の音楽を連想させるパルジファルのようなコーラス
第2幕では春の祭典のような音楽と圧倒的な鳥たちの鳴き声の饗宴のところ
第3幕でも春の祭典とかブルックナーの9番の2楽章を連想させるようなところで
それ以外を通して聞くのはスピーカーを前にして聞くのはそんなに容易ではない

でも以前よりは耳が聴きやすくなっている
そう言えば、、と不意に気づいたのが「トゥーランガリラ交響曲」のこと
メシアンの大オーケストラの大作だが、この曲のある部分が「アッシジの聖フランチェスコ」に
使われていたような気がしてならなかった(生で聴いていた時)
それは勘違いかもしれないので、あとで確かめよう、、と思ったが、できないままになっているので
近いうちにラトル指揮の「トゥーランガリラ交響曲」を引っ張り出してこなければ、、
(しかし同じCDに納められた「世の終わりのための四重奏曲 」の方をつい聴いてしまいそう)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする