パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

やりきれないこと

2021年11月30日 09時12分47秒 | あれこれ考えること

やりきれないなあ!
と思えることが行政訴訟という出来事には発生する

行政訴訟は市民が損害を受けたと思われることについて
市(首長)がその損害を与えた人に対し、損害額を払う請求をするようにと
市(首長)を被告にした裁判だ

原告側は市の損害を無くそうと真剣に考えて訴訟を起こす
しかし、被告となる市は(首長は)戦いの場である裁判には
勝たねばならないと考える
それは自分たちの行ってきた判断や行動は段取りを適切に踏んだもので
瑕疵はないと証明するためだ

片方は真剣に市の損害を戻そうと意図する
一方被告である市は、訴訟に対し弁護士を使って自らの正当性を証明しようとする
問題はその弁護士費用は税金の中から使われることだ
被告(首長)と問題となっている損害を与えたと思われる人物は違う
実質的な被告は損害を与えた人物なのだが、手続き上は市(首長)が
被告となるために市は(首長は)自らを守るために行政訴訟に立ち向かう

わかりやすく(極端に)言えば、市民が損害を戻すために起こした裁判は
市はその損害を戻さないように!の姿勢で裁判の場に臨むということだ
やりきれないのは実質的な被告(損害を与えた人物)が裁判費用を負担しないで
市が損害請求を否定するために税金から費用を負担することだ

市の損害を戻そうとする行為を、市は税金を使って必死にそれを阻止する構図
なんだかなあ、、
弁護士費用を実質的な損害を与えたという人が支払えば問題はないが
市が払うのは、、、そういう制度になっているとは言え感情的には
モヤモヤが残ったままだ

法の手続きとか考え方というのは、素人にはわからないことが多い

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日本はすごいか?すごかったか?

2021年11月29日 10時44分12秒 | あれこれ考えること

若い時、まだ日本が上り調子の時、そして自分が疾風怒濤の時期
後先考えずヨーロッパ放浪の旅にでかけた
(当時は同じような人間が多くいた)

大げさに日本のことなど考えたことはなかったが、外に出てそこで
ついつい日本と比較することが多くなった
そこで最初に感じたことは「日本は案外すごくないかもしれない」
という思いだった
当時は経済は世界でアメリカについで2位、どこか自慢げだった
確かにドイツの街にはソニーやパナソニック、ホンダの看板が多く見られ
勢いを感じさせるものだった

でも、ヨーロッパの街には電柱がなかった
日曜日は商店が開いていなかった
ユースホステルであった向こうの若者は30歳位でも日本の感覚からすると
フラフラしていて経済的にはどこにも所属していないように思われた

でも、それで人が生活していられる、、という事実は
日本の労働に勤しむ一見真面目な生活スタイルが
本当に人として良いものだろうか?とぼんやりとした疑問が浮かんだ

不便でも日曜は休んでいられる生活
自分の進む道を30歳を越しても探していられる世界
行かなかったがイタリア等の昼食にしっかり時間をかけたり昼寝ができる生活
階級社会だと言われるが、そこには人間らしい尊厳が当たり前のように
実現されているように思えた(勝手な思い込みだったかもしれないが)

中にいるとわからないことは多い
今の時代、自慢だった経済も競争力の低下で、ドイツの街の看板も
サムスンとかLG、その他にも中国系のメーカーの看板が目に入る
だから少し自信喪失気味の日本は「日本はすごい!」と自ら思い込もうとしている

でも本当にすごいか?
ただ言えるのは、日本は相対的に人は優しいとは思う
でもドイツ人でも優しいおばさんにローテンブルクに行く電車を教えてもらってことがある
(電車は線路工事のため変則的な運行をしていて自分は途方にくれていた)
どの国も親切な人、そうでない人がいるもので、ひとくくりでこの国はこうだとは決められない

四季だって日本と同じ緯度なら同じ様に季節の移り変わりはある
日本だけじゃない

話は飛ぶが、昔ドイツで日本人と思われる人に日本語で話しかけた
日本語を全然使わない生活が続いていたのでつい話しかけたのだった
だがその女性は韓国の方だった
「ここはドイツ、ドイツ語で話しましょう」
とやんわり怒られてしまった
彼女はドイツ人のパートナーとくらしているとドイツ語の会話で明らかになった

実際のところ、向こうにいると日本人も韓国人も見分けがつかない
そんな中で日本は韓国よりも優れているとか、、妙に自慢したい気分になるのは
あまり意味ないな、、と思うのだった

新城市では都市の名前に「新城」とつく世界の自治体との交流を図る
「ニューキャッスルアライアンス」という試みがある
そこで一昨年、新城の高校生の数名がイギリスのニューキャッスルという街に
研修にでかけた
報告会では彼らは初めての海外の旅に興奮気味だったが、自分が気になったのは
外に行って初めて分かる日本のことはどう感じたか!ということ
彼らは日本はすごい!と思ったか
それとも行って楽しかっただけなのか、、、
(若すぎるから過剰な期待は無理かもしれないが)
 

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秋桜、神田川、芭蕉(イメージの世界)

2021年11月28日 09時11分53秒 | 徒然なるままに

休日らしくお気楽な話題を

昨日のこと、ストレスを抱えるや立場だった人が解消のために
大好きな「さだまさし」のCDをかけっぱなしにしたと話してくれた
そこですぐさま、以前から気になっていたことを聞いてみた
「さだまさしの秋桜、あの歌のお母さんは何歳ぐらいと思う?」
自分は歌の意図するイメージも内容も分かるが、それは現実を表しているかと考えると
歌のお母さんの境地になるには嫁に出す現役世代のお母さんでは少し無理があるのではないか
と思ってしまったからだ(あれがおばあさんなら分かる気もする)

そんなことを思うと連想が羽ばたいて
「神田川の歌詞も少し変だよね
 『一緒に出ようねと言ったのに、いつも私が待たされた』
てとこ、長風呂は一般的に女のほうじゃないのかな」
「ほんと、私は情景が浮かんで、そんなことは思わなかったけど、、」

さらに追い打ち(?)をかけるように
「芭蕉の『古池や蛙飛びこむ水の音』も蛙は水の中に入るには
 音を立てて飛び込みというより、すっと入るらしいよ」
「『荒海や佐渡によこたふ天河』も荒海のような天候では
 天の川なんて見えないよね、、、」

イメージの世界は、必ずしも現実を表していないかも知れない
イメージの世界はその世界内で完結しているようだ

これは実はどこの世界でもおきているように思える
物事を一般化するには一種の抽象化という作業が行われる
その一般化された例えば市民自治という世界では
実際にはあまり存在していないと思われる意識高い系の人々が
多数存在していることが前提となって話が組み立てられている

と言ってもある程度の一般化、抽象化は必要だ
要は特別な例(無関心層など)の扱いのバランスのような気がするが
最近は極端に抽象論と底辺の世界論に、くっきり別れすぎてるような気がしてならない

結局は休日らしい話題からそれてしまった
ま、いいか 

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嫌われそうな考え方

2021年11月26日 17時30分45秒 | あれこれ考えること

経営者になったつもりで考えなさい!
と言われることがある
経営者ならどうすれば効率的か、儲かるかを必死に考える
被雇用者も同じ発想をすれば企業は儲かるはずで
その様に考えることは当たり前のように思われているフシがある
ところがこの当たり前のような考えも、本当なのだろうか?と時々考える

依然としてイメージが沸かない政府が掲げる「新しい資本主義」
だが資本主義は飽くなき欲望、利益の追求が必然的だったり
そのもの自体は美しいものではないのに紙幣に美を感じるような
歪な感覚を人にもたらす
企業は利益を追求するなら固定費は低いほうが良い
人件費は固定費に該当するので、経営者になったつもりなら
人件費を低くするように考える
冷血な経営者なら低い料金で効率よく働いてもらうのが一番効率的になる
経営者になったつもりで所属する企業の利益を考えるなら
なんと自己の人件費も低いほうが良いと言った奇妙な結論になる

ただ経営者になったつもりを、被雇用者も個人事業の経営者と考えて
自己の利益を第一に考えるなら、その考え方は問題ないとも思われる
つまりは所属する企業の経営者なのか、それとも自分は個人事業主としての経営者なのか
を区別することは必要だと思われる

これは正確ではないかもしれないが、ヨーロッパとかの国の被雇用者は
基本的に言われたことをやることによりその給与を得て
それ以外の企業にとって必要と思われるアイデアなどは企業から要求されないらしい
そういうアイデアはその立場の人間が考えるべきことしているのかもしれない
一方、日本ではQC活動なる言葉で被雇用側がいろんなアイデアを要求される
(あるいは自発的に考える)
最終的にそのアイデアは被雇用側に返ってくれば良いのだが
現実はそれは被雇用側に反映されているのだろうか

基本的に人は利己的な生き物と考えるなら
そして資本主義は人本来のおおらかさを奪う可能性を持っていると考えるなら
そもそも仕事とはと、一度じっくり考えたほうが良いような気がする

日本と違ってキリスト教徒の国は(ユダヤ教徒の国も)仕事は必ずしも良きもの
とされてはいないのではないか
安息日は休憩の日ではなく、休めと命じられうような日として存在しているのではないか
(現在はそうでなくても、最初はそうだったような)
つまりは仕事は全面的に肯定されるものではなさそうな、、、

本質的に怠惰な自分はいつまで仕事をしているのは、好ましくないと思えるようになっている
(それは知らずしらず雇用主との精神的な上下関係をもたらされるような気がするため)
有り余る時間を自分で考えて、その長さを苦痛と感じるのも、個人に与えられた良き人生経験で
反対に誰かに言われて作業をすることは、充実したような気になれたりして
ある意味ストレスはないかもしれないが、どこか他人任せのような気がしてならない

ということで、偏屈なおっさんの思い込みはこんなものという話
ハンナ・アーレントの人間の条件では「労働、仕事、活動」と分けて
面倒くさいことを考えられている
その内容は読んでないのでわからないが、なんとなく想像するに
労働とか仕事よりは、活動こそが人には必要とされていると勝手に想像した
流行りの言葉を使うと、、、、しらんけど、、、

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行動すること、継続すること

2021年11月25日 18時14分48秒 | 徒然なるままに

行動すること、継続すること
多分、結果的に成功するのに必要なのはこのことだ
行動する前に頭で考えて、うまくいかない理由を探して行動に移せないことは
自分でも数多くの経験があるので、人に偉そうに「行動すべし」と言えない
そして継続も何やらできない理由を探して「仕方ない!」と自分を納得させようとする

自分は行動も継続も2つともできていない
駄目だな、、と落ち込みそうになるが、仕方ない
せめて気がついたときくらいは、瞬間的でも行動したり続けたりするか、、、

それにしても、これを一度休むと、いきなり続けることが苦痛になってしまう
サボるな、、、そう言い聞かせねば

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外からの見方を知って、初めて自分たちのことも分かる

2021年11月23日 09時42分59秒 | あれこれ考えること

その中にいると当たり前のように感じられたり、特に違和感を感じないことはあるものだ
現在の社会の弱い者いじめ的なバッシング(眞子さんのパートナーに対する)や
長いものに巻かれろ的なものは、一部の意識高い系の人には批判されていても
現実にはそれらを喜んで受け入れている大衆の多さから、それは日本社会に内在する問題
かもしれない(と思えたりする)

自分たちの考えや行動が世界的に見てどのように評価されているか?
を知ることは、自分たちの組織の中で想像力を用い自分たちだけで評価するだけで駄目で
客観的に外の評価と比較することによって初めて明らかになるかもしれない

去年読んだ「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ著)の中に日本のことが
書かれていた部分があり、とても気になったので書き残しておいた
それは日本社会のあり方とか優先順位に関することで
この本が書かれた時代と今とは少し変わっているかもしれないが
それでも大枠のところで今でも十分通用しそうな内容だ

以下がその抜粋

ほとんどのアジアの諸国では政治的権威の起源が欧米の場合とは異なっており、リベラルな民主主義についての解釈も、歴史的にそれが誕生してきた国々とはかなり違っている。 儒教的な社会においては集団と言うものが労働倫理を維持する上で重要なばかりでなく、政治的権威の基盤としても決定的な意味を持つ。ある一個人が地位を得るのは、当人の持っている個人的な能力や価値のおかげというより、もっぱら彼が数珠つなぎになった一連の諸集団にその1つに属しているためだ。 例えば、日本の憲法や法体系はアメリカと同様に個人の諸権利を認めているかもしれないが、一方で日本の社会はまずもって集団を認めようとする傾向がある。 
このような社会における個人は、当人が既存の集団の一員であってその規則を遵守する限りにおいて尊厳を持つ。しかし、彼がその集団に対して自己の尊厳や権利を主張するやいなや、伝統的な専制支配の公然たる暴政にも劣らないほどの手ひどい社会的村八分に遭い、地位を失う羽目になる。このことが協調性を要求するための計り知れない圧力を生み出し、そのような社会に暮らすものは幼い子供をうちからこの協調性を植え付けられていく。 言い換えればアジア社会における個人は、トクヴィルの「多数者の専制」―あるいはむしろ、大小問わず個人の生活と関わりのあるあらゆる社会的集団の中の多数者の専制―の餌食となっているのである。
このような専制については日本社会の中から2、3の例を挙げることができるだろうし、東アジアのどの文化にも似たようなところはある。日本において個人がまず第一に敬意を払うべき社会集団は家族であり、 子供に対する父親の慈愛に満ちた権威は、支配者と非支配者との関係を含めて社会全般の力関係の原型であった(ヨーロッパでも家父長的権威が政治的権威のモデルだったが、近代自由主義はその伝統に対して明確な決別を表明した)
アメリカでも子供たちは、 幼いうちは両親の権威への服従を要求される。だが成長するにつれて彼らは親に反抗して自分自身のアイデンティティーを主張し始める。親の価値観や希望に子供が公然とそむく10代の反逆という行為は、1人の大人の人間としての個性を作り上げていく過程でほとんど欠かせないものなのだ。なぜなら反逆という行為によってのみ子供は自立と自活への精神的心構えを養っていく。同時に自分を守ってくれる家庭という傘を捨てる能力、 そしてのちには1人の大人としての人格を支える能力に基づいた、1個の人間としての「気概」に満ちた自己価値観を磨いていくのだ。この反逆の時期をくぐり抜けて初めて彼は両親と互いに尊重し合う関係に戻れるが、それはもうかつてのような従属関係ではなく対等な付き合いなのである。
これに対して日本は異なる。幼い頃の年長者への服従は、成人してからも一生続いていくのが当然とされる。人の「気概」は、個人の資質に誇りを抱く自分自身にではなく、むしろ、個々の構成員以上に全体としての評判を優先する家族その他の集団へと結びついていく。怒りが生じるのは、他人が自分自身の価値を認めてくれなかった時ではなく、こうした集団が軽視される時である。逆に、最大の羞恥心は、 個人的な失敗からではなく自分の属する集団が被った不名誉から生じる。
したがって日本の多くの親たちは、結婚相手を選ぶ子供たちにとって重要な決断に対しても、自尊心のあるアメリカの若者なら誰ひとり許さないようなことをところまで差し出がましく口を挟むのである。
日本での集団意識の表れの第2番目のものは、従来からの西欧流の民主主義的な「政治」と言うものが沈黙しているところにある。というのも西洋の民主主義は善悪についての「気概」にもとづいた対立意見のぶつかり合いの上に成り立ち、その対立はマスコミでの論戦となって現れ、最終的には各種レベルの選挙によって利害や主張の異なる政党が政権交代を繰り返していくのである。この対立意見のぶつかり合いは当然至極で、民主主義の正常な機能にとって不可欠な 付随物であると考えられている。
対照的に日本では、社会全体が単一かつ安定した経営の源泉を持っているただ1つの大集団とみなされがちだ。そして集団の調和を強調することによって、開かれた対立は政治の外縁部へと追いやられてしまう傾向にある。だから日本には政治問題での衝突による政権交代は皆無で、むしろ自由民主党の支配が数十年にわたって続いているのである。
もちろん、自由民主党と野党の社会党や共産党の間にはあからさまな論争もあるが、これらの野党は、主張が急進的すぎるために時流から取り残されているのが実情だ。そしてまともな意味での政治の駆け引きは、おおざっぱに言えば中央官僚制度の内部や自民党の密室など大衆の目が届かないところで取り行われているのである。自民党の中では、政治は個人的な親分子分の関係に基づいた派閥の絶え間ない奸策の周りをぐるぐるめぐっており、西欧なら誰もが政治の中身として理解しているものがそこには全く欠けているのだ。


(これが書かれたのは、社会党が存在していた頃)


西欧と同じ民主主義的な社会を実現しているようでも、他所から見れば日本はこのような見方をされている
個の確立がされれば必然的に起き上がる問題意識も、日本社会では集団的な秩序と相反するものと思われた時点で
感情的に排除されたり無視されたりする
また憲法でも個人間の同意のもとに法的に認められる結婚も、今回の大騒ぎのような外野が小姑の様に
そしてそれは正しいことのように思い込んで批判をし、その行為自体になんの罪悪感も違和感も感じないでいる
そして西欧社会では意見のぶつかり合いは至極当然で、それにより切磋琢磨されると認識されているが
日本では「批判ばかり」と言葉を妙な方向に捻じ曲げられた報道が社会全体の空気をつくる

残念ながら「歴史の終わり」での指摘は、そのとおりだと実感する
だが一番残念なのは、このように実感している人が数多くないと思えてしまうことだ
本来ならば政治家なり教授なりが率先して日本社会の問題点として掲げる問題を
安易な昔からの伝統といったような言葉で認め、それが制度疲労していても
現状を変えようとしないでいること(それどころか過去に戻ろうとさえしている)は大いに不満だ

人の社会の正解は実際には誰もわからない
時が経過してからのみ、その選択が良いものだったかどうかがわかる
だが人にできる確率的に正しいと思われる選択をするには
少しづつ気づいた欠点は修正していくことだと思われる(それは保守の考え方の基本らしい)

今日と同じような明日があるということは、同じことの繰り返しをしていることではなくて
実は微妙な修正のうえに成り立つものだと思う
ただ微妙な修正は誰が指摘して行っていくかは、意識高い系の人に頼らざるを得ないところは
あるかもしれない
この意識高い系の人々の存在とその行動(発言)が社会にうまく認められば良いのだが
これがなかなか難しそう、、

さて、田舎のおっさんはここで何をすべきか







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日本では生まれない本?(ディスタンクシオン)

2021年11月22日 10時22分29秒 | あれこれ考えること

難解だ、だが手がつけられない程ではない
むしろその難解さ故に頭をフル活動せざるを得ない濃密な時間に充実感を感じることがある

100分de名著で紹介された「ディスタンクシオン」プエール・ブルデュー著
果たして読み終えられるか心配で、永らく欲しい物リストのままだったが
先日アマゾンで思い切ってポチッとした

この本は社会学の本というジャンルなのだそうだ
個人と個人の社会的な関係を、豊富なアンケート調査を元に独自の解釈をしていく
不意に最近流行りの「親ガチャ」という言葉を連想した
親の経済的な環境が子供に影響する現実は、今だけでなくブルデューがこれを書いた時代も
そうだったのだと思い知らされる
「結果平等ではなく、機会平等こそが求められるべきもの」とされる最近の一見正しそうな
お題目も、実は社会は個人の判断力を左右する体験の機会も平等ではなく
またそのクラスから脱することには困難が伴うこことも実例として挙げている
(個人の体験の違いは絵画・音楽に接する機会のことだったり
 同じくクラスの人たちが自然に身に付けている感じ方・考え方の違いだったり
 将来就く仕事のポジション・内容だったりする)

文章はフレーズが長くその中にいろんな概念を組み入れているので、
スッキリとわかるわけにはいかない
しばしば現れる()の挿入句のために余計にわかりにくくなっているが
これは大勢に影響がない限り無視して読むことにした

それにしても、、、、
読んでいて感じたのはこの本の内容から派生したのものではなく別のことだった
それは「何故、日本ではこのような本が生まれないのか?」という点だ

何百ページを要して必死に何かを説得しようとする気力とか熱情
書きながら格闘しているようなものを感じるスリリングな高揚感
わからなくても何かとても重要な体験をしていると感じさせる重量感
そうしたものを感じさせる書物は日本にあるだろうか?

もしかしたら単に自分が知らないいだけかもしれない
それなら良いが、そうでないとしたら、、

良い悪いは別として、資本主義とか因果関係を元にした思考方法は
西欧のそれが現在の社会の共通認識のようになっている
ところが、本当に共通認識となっているか?と一旦疑問を掲げててみると
これは思いの外怪しいことのように思えてしまう
認識の解釈や応用は、受け入れる国(地域)独自のアレンジが行われる
日本人の捉えた西欧人の思考方法とか感じ方は、西欧人が感じているものとは
本質的に異なるのではないか
そんな気がしてならない
それは西欧人が極端なまで突き詰めて、その中に秩序を求めようとする思考法は
日本ではもののあわれ風な感覚にもとづく生活感とは少し相容れないものがある
これは自分だけでなく、割合多くの人が実感しているようなことで
「近代の超克」の対話の中にも触れられていた

このとことんまで突き詰める迫力のなさは、物事を簡単に理解しようとすることに繋がる
そして、それは世間にありふれた通説をそのまま受け入れる態度となる

話は飛ぶが「野党は批判ばかり」との評価は、
「何故反対ばかりか?」「本当に反対ばかりか?」「野党の役割は何か?」などを
そもそもの時点から自分の頭で考えることなく、自動的にそういうものだと信じさせられている

少し変人ぽい自分は、そもそもの前提を疑うことも多い
方法論としての多数決は、正しいいか?
民主主義は民意を反映できるか?
そもそも民意は正しいか?(正しいとはなにか?)

こんなふうに連想はあちこちに飛んでプルーストの「失われた時を求めて」状態なのだが
この表現も分かる人しかわからない

話は最初に戻って「ディスタンクシオン」
感覚としては「全体主義の起源」を読んでいる時と似ている
よくわからんが、とても重大なことが書かれているという感じだ
よくわからんのは悔しいが、読み終えられないのも悔しい
ということで、何も蓄積されないかもしれないが、意地でも最後のページまで行きたい
この本は上下2冊だが、今年中を目標に頑張るか、、

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遠くを見ている人(藤井聡太とフルトヴェングラー)

2021年11月20日 09時56分58秒 | あれこれ考えること

大谷翔平がMVPを獲得
野球に関心のない自分でも、喜ばしいことだと思う
テレビでは翔平の名前が連呼されているので、我が家のえらい人は
将棋の藤井聡太のことを、つい藤井翔太と呼んでしまう
「翔太ではなくて聡太だよ」と訂正するが
大相撲好きの彼女は阿武咲、大栄翔と「しょう」と名前についているので
聡太より翔太のほうが言いやすいのかもしれない

将棋の経験のない自分は藤井聡太の凄さが実感として解りにくい
第一人者に勝っていくことがすごいのか、内容がすごいのか
一手一手を興奮気味に解説する棋士の話の半分も理解できない
それでも昼ごはんやデザートの話に食らいつくほど情けなくはない

藤井聡太の風貌から感じるものは、何故か勝ち負けの世界にいる勝負師のそれとは違う印象を持つ
勝ち負けよりも、何かもっと別のものを追いかけているような、、
遠いところを見ているような、、、

不意に、この雰囲気の人が以前にもいたぞ、、と思い浮かんだ
この写真の人だ


この人もなにか遠いところ(頭の中に浮かんでいること)を見ているような雰囲気がある
実際のところ彼の一生は、まるで夢の中とか理想とか、、憧れとか、、
そのようなかたちのないものをずっと追い続けていたような気がする

彼の名はフルトヴェングラー、カラヤン前のベルリン・フィルの主席指揮者だ
彼はナチスがドイツを支配していた時、ドイツのとどまって演奏会を続けた
あるときはヒトラーの誕生日を祝う演奏会で指揮を務めた
いかなる理由があるとしても、この事実は重く、かれは戦犯の疑いをかけられ
裁判にかけられることになった

裁判では、当時彼に助けられたユダヤ人演奏家等の証言によって無実の判決を得るが
やっとベルリン・フィルの演奏をできるようになったのは戦後2.3年過ぎていた

自分が彼フルトヴェングラーに惹かれるのは、この重い生き様故にではなくて
やはり彼の演奏の生み出す圧倒的な印象のせいだ
それは感じやすい若い時に聴いたせいかもしれないが、とにかく何かが違っていた
それは音響という媒体を使って、もっと別の何か、、理想とか秩序とか美しいものとか
とにかく言葉では表現できないようなものを、音楽で伝えているような気がした

彼の戦時中の演奏にベートーヴェンのコリオラン序曲がある
これなどは冒頭の音が緊張感に満ちた凄まじい悲劇的な音響で、
戦時中の彼の苦しい心情を反映している気がして、もう二度と聴くのが辛い
と思わせるものだった

彼の演奏は今の基準からすると時代がかっていたり、主観的過ぎる
といった評価になるのかもしれない
そして、何でもハイテンポで過ぎていく時代には、その深刻さや真面目さは
少しばかりリアルな体験として感じられなくなっているのかもしれない

だが懐メロを繰り返し聴くようになってきた自分らにとっては
彼はいつまでも唯一無二の存在だ

若い時、ドイツを放浪した際、ハイデルベルクにある彼のお墓を訪れて手を合わせた
(そこで、とても不思議な体験をした)
そして約40年後、再び彼のお墓に行くためにドイツ旅行を計画した
40年の時間経過のなせる技は想像以上に大きくて、自分がそこで確かめたかったことは
残念ながら確認できなかった(不思議な体験はおきなかった)

今でも年末になるとベートーヴェンの第九が話題となる
その第九の一番のおすすめ演奏として長らく挙げられているのがフルトヴェングラーの演奏のものだ
これは聴くというより体験するものといった感じのもので、他の演奏と同じ物理的な時間経過を
しているのか、いつも不思議な思いに襲われる

時代は変化し、その時代の好みも、感じるなにかも変わってくる
でも、おせっかいな知ったかぶりをしたい者としての自分は
フルトヴェングラーの何かを感じられることはとても良いこと!
と言いたくなってしまう


藤井聡太とフルトヴェングラーは遠くを見ている
と感じるのは、実は自分もそうありたいと感じているせいかもしれない


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振り返ると「なるほど」と思うこと

2021年11月19日 10時08分44秒 | あれこれ考えること

結局はチャーチルの発言ではないらしいが、いかにも彼が言いそうなそれに
「もしあなたが25歳でリベラルでないのなら、あなたには心がない。
 もしあなたが35歳までに保守的でないなら、あなたには頭脳がない」
がある

彼が発した言葉ではないとしても、自分を振り返ると
まさに実感として頷くところはある

若い時の正義感とか、不公平に対する直情的な怒り、そして行動
だが年令を重ねると、人は(あるいは社会は)そうした要素だけでは生きていられない
現実を知ることになる
人は歳とともに丸くなると言われるが、それは何でもルーズになるというのではなく
経験に基づく緩やかで現実的な対処法を考えうるということだ

だが、これらは歳を重ねた人が実感として分かることで
この生き方を若い人物に対して、それを知恵として伝えるのはあまり好ましくない
これは何よりも実感として感じるべきことで、教えられるものではないと思う

ここからは若者から嫌われる説教風になってしまうが
今の若者は正義感とか不公平、格差に対する情熱はあるのだろうか?

今の若者は何かをする前に、頭で結論を出してしまう(様に見えて仕方ない)
実際は行動すればその行動の周囲で思わぬ波及効果を起こす
そして予想外の事が起きる
これは想像の世界では見越せぬことだ

先日、ある若者とシティズンシップについてざっくりと話す機会があった
(と言ってもこちらからの一方的な説明に過ぎなかったかもしれないが)
その時でてきたのが、おそよ若者らしくない諦めのような言葉だった
「もう自分たちは、今の世の中を見ていると理想とかを持てないでいるかもしれない」
少し驚いたこの発言のあと、次にでてきたのが
「何で〇〇さん(自分のこと)は、まだ希望を持っていられるのですか?」

この質問は不意に考え込んでしまった
何でまだ些細なことも良いと思われることをしようとしているのか
それは全く効果がないかもしれないのに、、、
何でかな、、、

ただ言えるのは、自分はそうした方が良いと考えたとか、思ったという事実だけだ
それは自己満足だけかもしれない
だが、どこかで「それでいいのだ!」と人に対して全肯定的な考え方を
捨てきれないからかもしれない

ということで、いつものようによくわからん独り言、、、

※若者には成功体験を何かでしてもらいたいと思う
 それは自信になって次に繋がるから




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序列

2021年11月18日 09時39分10秒 | あれこれ考えること

サッカーワールドカップのアジア最終予選
危なっかしい状況からやっとのことでオマーンには勝利
オーストラリアが引き分けたために勝ち点1の差で2位浮上
これは少しラッキーな話だが、サッカーを見続けている人たちの間で
問題になっている(不満の声が多い)のは、オマーン戦のスタメンだ

大迫、南野、長友はネームバリューはあるが機能していたかを見ると少しばかり怪しい
(途中からでた三苫、古橋のほうが可能性とか勢いを感じた)
これは試合中にそう感じたのではなく、試合前からある程度の予想がついたので
コアなサッカーファンから文句が出たのだ

上記3人はコンディションが良くないのか、それとも大迫と長友はピークを過ぎたのか
勝負事は結果が全ての世界だから、厳しい判定をしなければならない
と言っても、身近で一番良く見ているのは監督だから、監督を信用するしかない
監督も結果が全てだから、言い訳をしたくても出た結果に責任を取るしかない

サッカーは相手よりも一点多く得点すれば勝つゲームだ
だが日本のメンタリティの多くは多分、点を取られなければ負けないが多いような気がする
これは良い悪いの問題ではなく、そういう傾向がありそうということで
イタリアはまさにこの傾向が強い

富安が成長し遠藤航の守備力で守りの安定感は出てきて、
そんなに攻撃にさらされる不安はなくなったが
不安なのはどうやって点を取るのか!というイメージが湧かないことだ

相変わらず気になるのは日本人のシュートはゴールの上を通過するものが多いことで
チャンピオンズリーグの中継を見ていると、ゴールの上を通過するのもは日本ほど多くない
先日のアウェイの試合でも吹かしたシュートの多かったこと
そして更に気になるのは、自分でシュートに持っていけななかったり、シュートの選択をしないことだ
アジアの一次予選では格下相手故に前目の選手も好き勝手できたが、厳しい同格の相手だと
どうも気合を含めて迫力に欠ける

専門誌でも大迫、長友、については疑問がついている
だがそれは専門誌の評価で、「半端ない」のフレーズで有名になった大迫は
今は彼以上に可能性のありそうな前田大然や古橋亨梧、
そして大化けするかもしれないオナイウ阿道よりも個人的には評価が低い
長友にも同じようなことが言える

つまりは日本社会にある序列の世界が、ここでもあるような気がしている
その序列を決めるのは今の実力ではなく、知名度とか過去の実績
そして変に変えると良くないかもしれないという恐怖
(そもそも序列自体が知名度から来ているのではという不安)

これが外国の監督なら、序列とか知名度ではなく現時点の良さのみで選ぶから
勇気のある采配ができる
勝つためには、今の状況だけの判断で選手を選ぶことができる

日本人の慎重なところ、変に変えるとうまく行かなくなってしまうかもしれない
という不安の大きいところは、実は選挙という行動にも現れているかもしれない
投票者は現状の問題、あるいは不満を認識している
だがその対処法として、今と違う方法に変えることには思いきれない

確かに急激な変化をもたらしたフランス革命はその急激さ故に混乱をもたらした
だが、その結末を知っている人々は、同じような失敗を防ぐ方法も考えうるのではないか
つまり現体制を変えても、そんなに大きな変化は起きない可能性が高い
変わるのは執行体制の長年溜まってきな膿みたいなものをなくすことができるだけで
新たに執行部が変われば、その執行部もいつか良くない膿がたまるだけで
その時はまた執行部の変更をすればいい、、と自分は簡単に思ってしまうが
どうも物事はそう簡単に行かず、固定観念からは抜け出せないようだ

とりあえずは現状維持、、それがいつかは衰退を招く
というのは民間企業の危機感だが、どうもそれが政治の場とか
今の日本代表の選択にはなされていないみたいな気がするのは、拡大解釈し過ぎか

これらは勇気の欠如か、それとも成功体験のないせいか?



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