パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

いつもと同じ毎日

2024年12月31日 09時50分36秒 | ダイアリー

今年は読んだ本が少なかった
旅に出ることもなかった
新しいCDも(多くは)買わなかった
旅はちょっとした理由があって出かけられなかったのだが
総体的に活力に欠けているのかもしれない

でも出費は多かった
家電の故障リレーが続いたからで
井戸の水が出なくなったことから始まって
車のクーラント液の漏れ、オートマの不具合で大金が出ていった
エアコンも新しくした
テレビの寿命により買い替え、汚くなった塀の塗装

お金が出ていくのは喜ばしいことではないが
何にでも寿命があるものだとと深く実感した
そして時間の経過ということは
こうしたことなのだと思い知らされた気分だ

同居人は近くの店のポイントが貯まる日、曜日をしっかり覚えている
キャッシュレスではないが、セルフレジも一応対応できている
ポイントにシビアなのに見習って、自分もPayPayのキャッシュレス決済で
ポイントが貯まるのを楽しみにするようになった

年を重ねると社会との接点が少なくなる
現役のころは仕事を通じて社会と何か関わり合いを持っていた
だがそこから開放されると自ら働きかけないと社会との接点が見つけられない
社会との接点が少なくなってくると、損得からは離れられるようになるので
こうあってほしいということが、割と公平な目で見られると思う

ボケ防止のこれも今日で今年はおしまい
なにか気の利いたことを取り上げようとしたがネタはない
去年の大晦日はどんなことを取り上げたのか気になって調べてみると
大したことはなかった
つまりは、いつもと同じ毎日なのかもしれない
それは多分良いことなのだろう


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怖いのは大衆(民意)

2024年12月30日 09時14分23秒 | あれこれ考えること

なぜドイツ国民の多数はナチスを支持しあのような結果を招いてしまったのか
なぜドイツ国民はユダヤ人の虐殺をしてしまったのか
これらの事件に対してその根本的な原因を探るべく力を注いだのが
フロムの「自由からの逃走」とハンナ・アーレントの「全体主義の起源」
両者ともすぐに理解できるような著作ではなく理解には一苦労する
だがその著作の動機は必死さに溢れているかのように見える

今のうちに原因究明等に真剣に取り組んだほうが良いと思われることは
現在の日本にもありそうだ
今年自分的には一番ショックだったのは
都知事選、兵庫県知事選における大衆の動きだった
それは安易にオールドメディア対SNSの覇権争いという言葉で
説明できるほど簡単ではないと思う

少し客観的に見ればとても信じられないようなことが
何故か熱気を持って受け入れられ、それが民意の結果だとされてしまった2つの出来事
それは大衆は必ずしも理性的ではないことを証明してしまったかのように見える

ただ多数としての民意(石丸支持、斎藤支持)をこのように批判すると
頭ごなしにオールドメディアの洗脳されていると断定的に言い切る人の多いこと多いこと
それは自分にはとても恐ろしいことのように思えて仕方ない

自分が一番恐れるのは石丸氏でも齋藤氏でもない
自分好みの情報に頼って、自らは正義をなしているように思い込んでいる人たちの存在
それが不気味で仕方ない

そしてそれらはかつて日本が戦争へと進んだ過程を何処か思い起こさせる
昔読んだ「戦争と新聞」だったか「太平洋戦争と新聞」のどちらだったか忘れたが
ショックだったのは、国際連盟を脱退した松岡洋右が帰国したときの
日本国内の歓迎ぶりとそれを伝える新聞の興奮気味の記事
それは今から見ると異様としか思えない

今年の出来事を振り返ることのできる未来の人々は
なぜ、あんなモノに振り回されてしまったのだろうか?
と思うのではないだろうか

年の終わりのこの時期に、こんなことが頭に浮かんで不安を感じるのは
きっと良いことではない思う
でも、気づいてしまったのは仕方ない
なにかすべきことをする、、それが気づいてしまった人間の責任かもしれない



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身にしみて実感する和歌

2024年12月29日 09時46分31秒 | ダイアリー

大河ドラマ「光る君へ」は月が象徴的に何度も登場した
同じ月を二人が違う場所で眺めているといった簡単な意味合いではなく
ライトモチーフのように使われるには何か意味があるのだろうと想像した

これは教科書にも載っている道長の有名な
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」
を物語の一つの頂点として扱うための伏線かと想像したが
実は紫式部の歌にも月を取り上げているものがあった
百人一首の
「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半(よは)の月かな」
がそうで、紫式部の自信作だったとも説もあるそうだ
演出家は二人にとって象徴的な意味を持つ月を
通奏低音のように意味ありげに使ったのかもしれない

今とは違いもっと暗い夜に、昔の人が月を眺めるのは
月に何かを祈るような気持ちになったのかもしれないと思う

ところで今年は1月に妹が雲隠れした
そのせいか死について少し敏感になっていて
自分にもやがてくるその時を思うことも多くなった

在原業平はこんな歌を詠んでいる
「つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」
現代文にしなくても言わんとすることはわかる
きっとそうなんだろうな、、と思う

源氏物語では光源氏が紫の上の死後、時の流れに身を任せて
暮らしているだけ(生きているだけ)の状態で詠んだ歌は
「もの思ふと 過ぐる月日も 知らぬまに 年もわが世も 今日や尽きぬる」

何となくわかるというのは、良いことか良くないことか

大河ドラマでは道長が亡くなった同じ日に
F4の一人藤原行成も亡くなったとされている(歴史的事実?)
まるで殉死のような出来事で、如何に行成が道長を慕っていたかを
想像させる出来事として扱われている

仲の良かったF4の残った二人は、行成の死に際しこんな歌を詠っている
藤原公任「見し人の亡くなりゆくを聞くままに いとど深山ぞさびしかりける」
藤原斉信「消え残るかしらの雪を払いつつ さびしき山を思いやるかな」

なんか良いなあ、、と、しみじみ思えてしまう




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宣誓内容と黙秘権 

2024年12月28日 08時50分00秒 | あれこれ考えること

裁判の証人尋問も百条委員会の証人喚問も、それが行われる前に
宣誓を行うことになっている
兵庫県の百条委員会でも前副知事の片山さんが用意された文章を
読み上げ署名捺印した
宣誓した内容は
「良心に従って真実を述べ,何事も隠さず,また何事も付け加えないことを誓います」

嘘を言ったり証言を拒んだりすると刑事罰に問われることも
委員長から示されている

ぼんやりとYoutubeを見ていただけなので自信を持って言い切れないが
片山氏とは違う県職員の人証人喚問のときに、(彼も宣誓したのだろうと思っているが)
彼は宣誓文に反する行いをした
その質問は、県の内部文書が漏れたことついて、そのデータを持っているのは
証人との声があるが、そのような行為をしたのかどうかを聞いたとき彼は
答えることを拒んだ
訴追される可能性のあることだから話せない、、というのだ
これは宣誓文の「何事も隠さず」の部分と相反している

多分これは黙秘権というものだろうが、こうした尋問・喚問が行われるときに
片方はちゃんと話さないと法的な罰を受けると言い
片方は不利となることは話さなくても良いとしている
法的なことに明るくない自分は、いったいどっちが優先するのか?
と単純に思ってしまい頭が混乱してしまう

想像するに、百条委員会等の法的罰を受ける云々の法体系と
黙秘権の法体系はそれぞれが独立して出来上がっていて
その両者を一緒にして考えられてはいないのではないか

国会の政治倫理審査会でも「言わない」と心に決めている人に
いくら本当のことを話すように説いても無駄に終わり
残るのはモヤモヤ感だけとなる

宣誓はしても、その通りに行われるとは限らないのが人間社会の常で
世の中は残念ながらこうした例は多い
だからこそ法的には問題はないとされているが
倫理的には違和感が多いことが頻発する

何かがおかしいと思えて仕方ないが、残念ながら何がおかしいくて
どうすればいいかはわからない
それ故にストレスが溜まりそうだ

ところで同じように一体どっちが本当なのだろう?と思えることがある
豊橋市のアリーナ建設に関するゴタゴタで、建設中止を訴えて立候補した新市長は
公約通り当選後に進行中の工事契約解除の手続きに入った
新市長は念の為に、法務に市長権限でそれができるのか?と聞いたようだ
法務の答えはできるということで、契約解除手続きにはいったらしい

自分は違約金が発生するから、議会の承認が必要なのでは?と思ったが
市議会議員経験者の方から、工事契約の予算を市議会で可決したということは
契約書内に存在する契約破棄の場合も認めているということで
その契約書にある破棄の手続きで行えば問題ないと解説された

なるほど、だから法務は市長権限でできると答えたのか
と勝手に思っていたら、26日にとんでもないことが起きた

アリーナ推進派、反対派から住人投票案がだされ
問題はその投票日がいつになるかの問題だけと思っていたら
なんと住民投票は実施されないことになった
推進派が住民等法案を取り下げたのだ
そして多数派を占める議会内の推進派は
次には反対派が議案提案した住民投票案を否決した

ことはそれだけで終わらず、26日の夜中まで続いた豊橋議会では
違約金の支払い(承認)には議決が必要とする提案が出され
それが可決したというのだ
(当然ながら議会は違約金の承認はしないと想像できる)

ここで冒頭の「ちゃんと話せ!」と「黙秘権」が重なった時は
どうしたら良いのかとの同じような疑問が浮かんだ
議会は契約解除の方法とかを含めて工事委託会社と結んだ契約を議決した
市長が契約解除の方法に手続きに則って作業を進めようとすると
費用の承認には議決が必要と言い出した
このような場合、法はどういったことになっているのだろう
(議会は以前の議決責任を考えて行動したのだろうか?)

ただ言えることは、法的な問題のように思われるこれらのことは
現実的には政治的な力関係の戦いに見えてしまうことだ
どちらが豊橋市のために良いか?
ではなく、どちらが実態として力を持っているか、、
を問うような流れになっているみたいだ

隣町の豊橋市、
来年もこの混乱が続きそう
お互いが理性的に対応するのは難しいことなのだろうか








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ステレオタイプ

2024年12月26日 16時16分14秒 | あれこれ考えること

女性は理数系に弱い
血液型がB型の人は個性的な人が多い
これらはステレオタイプの例としてよく挙げられる

ステレオタイプはリップマンが「世論」の中で使った言葉で
多くの人に浸透している思い込み、先入観、固定観念のこと
問題はそれを信じる人が多いと、まるで事実のように思われてしまうことだ

現在、一番ステレオタイプの解釈がなされているのが
オールドメディアは嘘とか偏向が蔓延していて
SNSの中にこそ真実があるという考え方ではないだろうか

兵庫県知事選とか石丸氏に関してネット上にアップされるコメント
その中には「オールドメディアだから信用できない」
と無条件に断言しているものが多い

でも、そうだろうか?
冷静に振り返ってみるとそうばかりとは言えないのではないか
そもそもオールドメディア対SNSとの対立させて考えるのはいかがなものだろうか
ある人が呟いていたが、実は「本当のことと嘘のことの戦い」に過ぎないのではないか

オールドメディアの一つ、例えばテレビは嘘が報じられると
チェックが入りその放送局は謝罪と説明がもとめられる
ところが匿名のSNSは流しっぱなしで誰も責任を負わない
SNSでいちばん大事なのは閲覧数で、その数を稼ぐためには
(その数が収入源となる)
ひとの感情を刺激する負の部分の上手く活用している

比較の上で、どちらのほうが信用するに値するか?
を考えると、SNSの中に真実があるととは無邪気に言えない気がする

それでも現在は、「SNSの中にこそ真実がある」の主張は
かなりの数の支持を得ているようだ
そしてこのセリフは、黄門様の印籠のような使い方をされている

田舎のおっさんが心配するのはこの部分だ
世の中に蔓延するステレオタイプの解釈
その解釈を十分検証することなく安易に信じてしまうだけでなく
それを広めてしまう
そこには熟慮の過程が抜けている気がしてならない

ところでネット検索をしているとステレオタイプの特徴は以下のようだと紹介されている

・過度に単純化されていること
・不確かな情報や知識に基づいて誇張され、しばしばゆがめられた一般化・カテゴリー化であること
・好悪、善悪、正邪、優劣などといった強力な感情を伴っていること
・新たな証拠や経験に出会っても、容易に変容しにくいこと

いちいち頷くことが多く、それだけに不安は増すばかりだ

人は人を信用するのは良いが、適度に疑うことも必要だと思う
半ば常識となっていることも、本当にそうだろうか?
と疑ってみることも今の時代は特に必要と思える

「嘘も100回聞くと真実になる」という有名な言葉は
物事をよく知っている人には通じないそうだ
願わくば、一人ひとりが賢くなっていけば良いのだが





 

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今年読んだ本

2024年12月25日 09時29分45秒 | 

恒例の今年読んだ本を並べてみた
例年と比べて読み終えた本が少ない
年ごとにこうした傾向は続くかもしれない

少し弁解をするなら、今年は必要に迫られて以前読んだ本の一部を
拾い読みしたものが少なくなく、それで時間をとってしまっていた
例えば「全体主義の起源」3、「世界宗教史」「カラマーゾフの兄弟」の大審問官の部分とか
部分を読むだけで集中力を要するような本だ
でも相対的には気力、集中力の低下を身にしみて感じてなんか情けない気分だ

今年の「優」の評価は小説が「ラウリクークスを探して」だけで
最近は小説を読まない傾向がある

経済に関する分野では「資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか」
「堤未果のショック・ドクトリン」「超訳資本論」
優ではないが「資本主義の宿命」
資本主義には内在する問題点があるのでは?
と思い浮かんで、これらの本をそういう視点から読んだのだった

社会的なものでは「詭弁社会」
下山事件絡みで「謀殺下山事件」「葬られた夏」「夢追い人よ」などで
今年のちょっとしたマイブームは下山事件だった

歴史絡みでは「枕草子のたくらみ」が非常に面白かった
「光る君へ」の枕草子誕生の回の直後に手にしたが
ドラマを見た後だったのですんなり理解が進んだ
確かに定子のために書かれたものと納得せざるを得なかった

読んでいると驚きを覚えて、興味が湧いたのが「江戸の憲法構想」
これは明治維新が歴史の必然というより
どこか強引に武力で推し進められていった一種の革命ぽいところがある
と考えるきっかけになった
この本を読んだ影響で、アマゾンで「赤松小三郎ともう一つの明治維新」
を購入することになった

さて振り返ってこれらの本を覚えているか?
と自問すると、その答えはかなりあやしいのが現実だ
でも、それは気にしないことにしている
コンサートに行っても覚えていることは僅かな印象だけということが多い
読書もそれで良いのではないかと思うことにしている

何も残っていないと思えても
読んだ何かはきっとどこかに蓄積していると思うことにしている

年内に読み終えようとした「香子 紫式部物語」5は
今読んでいる「法の精神」モンテスキューが面白いので
そちらに時間をとられて年内に終えられそうにない
ま、それも仕方ない(かな)



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ブルックナー生誕200年の年に思うこと

2024年12月24日 09時14分59秒 | 音楽

今年は大好きな作曲家のアントン・ブルックナー生誕200年で記念の年
でも、CDで交響曲のオルガン編曲版を購入した以外には何もしていない
理由あって家を長く空けることはできないので
名古屋でのコンサートにはいけないでいる
オルガン編曲版はオーディオで聴くとダイナミックレンジの差がありすぎて
弱音がとても聴きづらいので、勢い込んで購入したものの
そのままになっているものが多い
でも記念の年の終わりに近づいているので彼に関することを考えてみる

よく耳にしたブルックナーの音楽は男にしかウケないとか
コンサート会場のトイレには男ばかりが並ぶという噂は
もはや都市伝説で客観的なデータはないそうだ

でも自分は直感的にそう思っていた(男しかウケないだろうなと)
そしてそれは自分以外にも少なからずの男が感じているような気がしていた

なぜそう思ってしまうのか?

反対の状況を思い浮かべてみる
音楽が女の感性にどっぷり浸かっていて男としては聴き続けるのが辛い
と言う音楽が自分にはある
例えば中島みゆきとか竹内まりあのCDが一曲聴くだけなら問題はないが
CD全部を聴くとなると何故か嫌になってまうのだ
その時感じることは、女の感覚には男にはついていけない思いで
上手く言語化できないが、とにかく根本的なところが違うという
信念に近い思いを覚えてしまう
これは歌だけでなく、マルタ・アルゲリッチのピアノ演奏を聴く時も
感じることで、直感でバリバリ突き進む音楽には
迫力があるがどこかついていけない気がしてしまうのだった

尤もこれは自分がどう感じるだけなので一般化することはできない
でも、、、、
そう、でもという言葉がついでてしまう

ブルックナーには一般受けする美味しいメロディがないとする声があるかもしれない
だが8番のアダージョ楽章の第2主題とか、9番アダージョ楽章の主題は
自分にとってはこの上なく美しいというか感動的なのだが
女性はきっとそう感じないだろうという確信に近いものを感じてしまう

ブルックナーもわかりやすい感傷的な音楽をピアノ曲残している
「秋の夕べの静かな思い」など
この路線で行けば彼はもっとポピュラーになった気がするが
彼の一番表現したいものは、拘ったものはこの路線ではなかった
彼が一番表現したかったもの
それは男の支配する感覚の抽象的な部分のような気がする

ということで、ただ根拠もなく自分がそう思った
というだけの話(でも本当に信じ込んでいるのだが)

ブルックナーの感傷的な音楽はこれ
ブルックナー:秋の夕べの静かな思い(1863)白神 典子 2000


自分が大好きな音楽はこれ
ブルックナー 交響曲第8番ハ短調 第3楽章 ヴァント NDR

 

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多数派の中にいることで自信を持ってはいけない

2024年12月22日 09時41分43秒 | あれこれ考えること

何かの本で日本人の行動傾向を他国と比べたものがあった
それは行動の動機づけに関することで
イギリス人はその行動をすると勇敢だと思われるから行動し
ドイツ人はその行動は法的に定められているから行動するのに対し
日本人はみんながそうしているから同じようにする
と自虐的に紹介したものだった

日本人は確かにみんながやっているというものに弱い
流行りの食べ物とか写真映えのするスポットに行くとか
その他探せばもっといろいろ出てきそうだ

それはちょいと真剣な政治的な部分でも同様で
今では103万円の壁というキャッチーなことを取り上げた
国民民主党が評判になっている
そこから更に深い議論とか政策に結びつけば良いのだが
庶民にはあちこちに影響する話は難しいために
理解は初期段階に留まっている
そしてイメージとしてのみんなが理解しているとか
行動していることに従ってしまう

みんながそう思っているというのは悪用されやすい
例の問題が多い兵庫県知事選についてある新聞記事が話題になっていた


選挙後半になると多くの人が集まり異様な熱気を帯びた斎藤さんの街宣活動
その中には県外の40代の男性が多くきていたという調査の紹介だ
スマホの位置データからどんな人がどんな演説を聞いていたかを調べたものだが
記事タイトルにあるように県外の京都、大阪から40歳以上の男の人が来ていたらしい
気になるのは斎藤さんの街宣が終わっても集団はその場所から立ち去らなかったそうだ
それは斎藤さんの後は立花孝志氏が続いて街宣をおこなったからで
この立花さんの街宣は奇妙なほど斎藤さんのすぐ後同じ場所で行われることになっていた

ここで怖いのは、日本人のみんながやっていること思っていることに弱い傾向を
戦略として利用することがありうることだ
自分自身は確固たる自信はないが、みんながやっている(思っている)というだけで
自分に自信が持てるようんな気になってしまう
それはある意味プロパガンダに載せられていることだが
深刻なのはそれをそう感じない人が大半ということだ

数が多い方に流れる(従う)というのは
オルテガの「大衆の反逆」によれば、実は日本人だけでなく
そもそも大衆というのはそういうものだと説いている

だからこそ「民意」というものは危なっかしいものだと思う
最近「民意は正しい」と無邪気に思い込む人がいるが
「民意は正しいとは限らない」という事実は
過去の歴史から学ぶことができる
(例えばヒトラーを選挙で選んでしまったドイツなど)

昨今はオールドメディア対SNSとの戦いと一括りで語られることが多いが
すでに何人かの人が説いているようにオールドメディア対SNSとか
左派対右派の対立ではなくて、本当のこととデマとの戦いなのだと思う
問題は、感情を刺激するデマは、理解に時間を要する本当のことより
伝わりやすく、結果的に多数派を生じやすいといういこと
そして多いというだけで信じてしまう結果となること

さて、こうした現状をどうして解決していけば良いのだろう
一人ひとりが賢くなるに越したことはないが
それも現実的には難しそうだし、、、

ところで、兵庫県知事選で県外から訪れた人たちはその行動が
自発的だったのか、それとも何らかの動員があったのかが
気になるところだが、これを分析する方法はあるのなら
ぜひ調べてほしいものだ
(一部では動員が図られたと言う噂がある)











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負けるかもしれない」勝負にでること

2024年12月21日 09時44分23秒 | あれこれ考えること

昔、愛知県2番目の都市だった豊橋市は
近くの浜松市といろんなところで競っていた
ところがいつの間にか大きな差がついてしまった
差がついた理由にそれぞれの都市の住民の気風があるとされていた
「やらまいか」と「やめまいか」
前者が浜松市で、とにかく良いと思うことはやってみようとする精神
後者が豊橋市で、新しいことをするのはリスクがあるのでやめておこうとする精神
これが本当かどうかはわからないが、風評として広がっていたのは事実だ

愛知県の東三河の中心都市豊橋市
ここが揉めている
豊橋公園に建設予定のアリーナについて
計画には基本的に反対で当選したら進んでいる工事は契約解除する
と公約で謳った長坂氏が新市長に選ばれたので公約通りの作業に入ったところ
議会に対する新市長の説明がないということで議会が不満の意を表しているのだ

今年いろんなところで多く見られるのが首長に対する不信任案
一歩間違えると豊橋市もそういう状態になりそうな空気があったようだ
市長選が終わったばかりで議会が市長不信任案をだす
これは法的には可能でもどこか政争的で違和感を覚えてしまう

この事態を避けるためにアリーナ建設反対派からと賛成派の議員から
住民投票の実施を議員提案があるそうだ
これは部外者だがいい方法だと思う
特に評価したいのは双方が「負けるかもしれない」と思えても
とりあえず民意を聞いてみようとする姿勢だ

アリーナ反対派はすでに二回、地方自治法に定められた手順で
署名活動を行い住民投票の実施を訴えた
署名は規定数に達したが議会は住民投票の実施は否決した
建設を進める立場の人たちは住民投票でNOの結果がでると面倒なことになる
から否決したと想像できる
だが今回、二度住民投票の実施を否定した人たち(議員)も
直近の民意を聞いてみようということで
あれだけ嫌った住民投票を行う判断をしたようだ

今は立場が前回と違うことになっている
作業は反対派の望む方針で進めらようとしている
本来なら新市長の方針だから傍観していれば良い反対派も
「負けるかもしれない」住民投票の実施を訴えている
それは政治的な混乱と分断を避けるためらしいが
双方が「負けるかもしれない」住民投票を行おうとしたことは
少し感心した

他市の住民投票が気になるのは実は新城市でも2015年に
新庁舎建設について住民投票があったからだ
今でも腹が立って仕方ないのが「負けるかもしれない」
と恐れた(と思われる)人が奇妙な保険をかけた
その保険とは議会提案で行われた住民投票の選択肢が
誰でもすぐに分かるシンプルなものではなく
いかようにも解釈可能なへんてこな選択肢だったことだ
結果的にわかりにくいまま住民投票は行われ、わかりにくい選択肢の
都合の良い解釈によってその後の計画は進められていった
住民投票の選択肢がシンプルなものだったら
その後の混乱(リコール運動など)はなかったと思われる

最近気になるのは社会が「法的には問題がないが倫理的、常識的にはどうだろう」
と思われることが、平気でまかり通っていることだ
東京都知事選のポスターの掲示についても、法の不備というよりは
今まで社会がなんとなく築いてきた秩序を土足で踏みにじるようにしている
としか思えない

住民投票でも潔くシンプルな選択肢にすればいいものを
とにかく実施したことだけに価値を置いて
あとは有耶無耶にしてしまった我が市のことがあるから
豊橋市はシンプルな選択肢で実施され
そこででた民意を組んでほしいと思う


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久しぶりに交響曲を通して聴いた

2024年12月20日 09時34分02秒 | 音楽

久しぶりに交響曲を一曲通して聴いた
CDではなくてレコードの方で(不調だったレコード再生は先日直った)
良い音悪い音というより自分は圧倒的にレコードの音のほうが好きだ
CDの音は録音スタジオできっちり余分な音は省かれている感じ
レコードの音はライブ会場で聴いている感じ
レコード再生は大音量も騒がしいというより音圧が違う

久しぶりに聴いたのはショスタコーヴィチの5番の交響曲(バーンスタイン指揮)


最近はオーケストラ曲より小編成の室内楽を聴くことが多くなっていた
まるで私小説とか独り言を聴くような感じで
大げさな人生観を語るような交響曲より
こうした音楽のほうが今の気分にフィットしていた

だが急にあれ(特に第3楽章)を聴いてみようかと言う気分になって
バーンスタイン指揮のニューヨークフィルのレコードを引っ張り出した

ロシアのウクライナ軍事侵攻以来ロシアの音楽家は
作曲家も演奏家も可愛そうな立場にある(知らず知らず避けているような)
彼らには罪はないが(ゲルギエフはプーチン支持で問題ありとされ
いろんなところで演奏拒否がなされている)
それで曲の良いものは良いと思い、久しぶりに手にしたのだった

この5番の生演奏はゲルギエフ指揮のマリインスキー劇場管弦楽団で
名古屋で聴いたが、これはなかなか良かった
音色が繊細で第1楽章では雪がどんどん積もっていくようなイメージのところ
第3楽章の静謐な木管同士の会話
そして圧倒的なフィナーレ
爪楊枝のような指揮棒を駆使して丁寧に指揮したゲルギエフ
なんか質感が普通の演奏と違うな、、と感じたことを覚えている

ところでこの5番は聴きどころがたくさんある
一番有名なのは第4楽章だが、マーラーの5番の第4楽章に匹敵すると思われる
第3楽章もとてもいい
寒々とした静かで内的な会話は、次の楽章との対比が際立っている

最近イライラすることの多いが、こうして音楽に向かい合うと
音楽は良いなあと素直に思う
そしてそれは自分の心を平安にしてくれるような気さえする

ところで聴き方の年齢による変化は
今のほうがモチーフ変形とか旋律の展開が聞き取れるようになっていて
その技術的なところが面白いと思うようにもなってきている


お気に入りのショスタコーヴィッチの5番の第3楽章はこんな音楽

ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調作品47 第3楽章 チョン・ミョンフン指揮

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