パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

不完全な書類と疑いの残る事業

2018年01月30日 20時03分28秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

幸か不幸か、税金の一部を使う補助金の仕事(申請)をしたことがある
慣れていない身としては、とんでもなく面倒くさい手続きで
同じようなことを申請書に何度となく書かされたり、お金に関することを
幾つかの視点からの用紙(書類)があって、後になってみればそれなりに理屈はわかるが
その当時は二度とこんなことは経験したくないと思ったものだ

この経験を踏まえて、ある地方都市のある地域の税金を使う事業のチェックをすることにしたが
(情報開示請求によって)
残念ながらそこからわかることは、かなり不自然な書類が多いことに気づく
ここで問題は2つに分かれる
ひとつは、申請・報告なりの書類自体(事業自体)に対する疑い
もうひとつは、疑いを持たれるにも関わらず粛々と進められていく現実(チェックの見落とし?)
これらはそれぞれ独立しているのか、それとも何らかの関連があるのかわからないが
いずれにせよ、とてもスッキリした状態でないことは違いない

税金を使う事業は、まずは事業に要した金額を支払って、その後関係役所から支払われることが多い 
その際の必要書類は通常、見積書、納品書、請求書、領収書がセットになっている
見積もりは相見積もりが原則で、相見積もりが出来ない場合はその理由を提出することになっている
そして、相見積もりの際は、見積り依頼業者に対して、これこれの条件で見積もって欲しい旨の
見積り依頼書を届ける事になっている
さて本題に移って、今回チェックした書類にはこの点で、不完全な書類となっている
まずは相見積もりについて、これは2社によって行われたが、不思議なのは価格が安い方ではなく
(僅かだが)高い方に依頼することになっていた(3年継続した事業の一年目)
高い方を選んだのなら、その理由説明はどこかで必要と思われるが、それを書いたものは見当たらなかった
そしてこの相見積もりは、書式が(書いてある内容)が業者により全然違う
片方は対象作業の量を根拠に計算されているのに対し(何人かかるとか書かれていない)
もう片方はかかる人員と日数、つまり人件費をもとに計算されている
口頭で説明したのかもしれないが、同じ量の仕事の見積もりを依頼したのかこれではハッキリしない
この様な疑いを持たれてはいけないので、同じ見積依頼書を双方に届けるようにとされている 

先に、見積書・納品書・請求書・領収書がセットになっているのが普通と説明したが
今回の場合は、この納品書がない
見積もりでは4人で5日間作業をしたことになっているが、何月何日から何月何日まで行ったかわからない
普通ならば業者の方が納品書は作成するはず
まして税金を使うことになっているとすれば、作業する前の状態と終えた後の状態の写真が添えて提出されるのが普通だが
どうもその写真がない
事業報告書には確かに数枚の写真があるが、それがいつの作業のものかわからない 
(この事業は業者依頼だけでなくメンバーが集って行った作業もあるので、その時の写真ではないかということ)
また見積もりからすれば、4人の人間のうちチェーンソーが1人、他の3人はそのお手伝いのようだが
作業は川沿い25メートルで、倒した木が20本位との話で、果たして本当にこんなに人数がかかったのか疑わしい
それに、見積もりでは軽トラを使用することになっていたので、伐採されたりした木や竹はどこかに運ばれた
ということだが、事業計画は、作業が終わったひと月後にメンバーで後片付けをすることになっている
普通なら業者がやってるのと同時に、危なくない場所でメンバーが自分たちでできることをやって
早く作業を終えてしまいたいと思うのが自然の感情だと思う
いつからいつまで業者が作業を行ったかわからないとしたが、これもとても不自然で
仮に業者任せにしたとしても普通の感覚からすれば、メンバーの1人くらいは現地に行って作業の確認をする
そして写真を撮る(後々のためにも)というのが当たり前の様に思われる

二年目の事業の見積もりも少しばかり疑いがかかる
まずは見積書の書式が、今度は2社とも同じだった
見積依頼書が届けられた!と判断するのは間違いなのはあとで明らかになるが
その書式は前年落札しなかった方の見積書の書き方で、項目やこまかな記述は全く同じものだ
項目ごとの金額は違うが肝心な合計金額は、ドンピシャの同じ金額
そこで見積もりの日付を見ると落札しなかった方の企業が2日ほど前の日付
(これから人は何を想像するか、、、)
これも普通ならの感覚で行けば少し奇妙
同じような依頼の見積もりとなれば、コンピュータ時代の昨今、書式は前年のものを少し手直しして
というのが普通とおもわれるが、片方は前年と全く同じ書式、片方は変わっている

ところが、どういう訳か後で見積もりが元に戻った書式で提出されることになった
というのは、報告書を見ると見積もり予定と実際に業者に支払った金額に違いがあって
現実の方が多く払っている
その確認のための少し総金額が増えた見積もりが提出されたのだが、これが先に出された
新しい書き方ではなくて、先祖返りして一年目の書式になっている
これでは金額がどこが(なぜ)増えたのか確認のしようがない

以上のように問題となっている事業は、地域のための事業とお題目通りには素直に受け取れないのが現実
実は疑問点はまだあるが、今回はここまでとして、問題は自分が奇妙に感じたことをチェックする立場の人は
何も感じなかったのだろうか?ということ
冒頭に述べたように、その世界に慣れていない人はお役所の仕事はとても面倒くさく感じる
よくわからない書類がいくつもあって、それぞれになんとなくもっともらしいことが(数字が)書かれているとすれば
まさか悪いことはしているとは考えない普通の人は、ただ単にチェックという作業をしただけと思っているかもしれない
チェックをしたのは素人か、専門家か、、そもそも疑いの目で見たか、深く考えずに見たか、、、

ところで、上にあげたちょいと疑問の残る事業は何のことか、、、
残念ながら、遠い国や地方のことではなく、、とっても近い町のこと、、
わかる人にはわかるだろうから、その人たちへのメッセージとして
そして自分自身が忘れてしまわないために、書き起こしてみた
 

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同じような夢を3日続けてみた

2018年01月29日 08時38分09秒 | 徒然なるままに

フロイトならどのような夢判断をするのだろう
この3日、似たような夢を見ている
夢は忘れてしまうのが普通だが、ちょいと気にかかって覚えている

一日目は、電車に乗っていた(新幹線だか名鉄だか、あるいはドイツの鉄道だか不明)
もう少しで到着ということで、荷物を忘れないように、、と念を押すように頭に入れたつもりだった
しかし、降りてみると手元にその荷物がない
しまった、置き忘れた、確かあの棚に置いたはず、、
しかし自分は駅から降りて御油の松並木みたいなところを歩いている
電話しなくては、とスマホを取り出す
豊橋駅の電話番号は、、、
わからないので「SIRI」に頼ろうとする
「豊橋駅」そう言ってみるのだが、何故かスマホは後半の音しか認識していない(はしえき、、だけ)
これは何度やっても音の認識がうまくいかない
それで、今度は手による入力に変えてみる
しかし、今度も文字入力がうまくいかない
スマホが敏感に反応せず、文章の途中からしか文字が入力出来ない
だんだん焦ってきて、電車はもう遠くに行ってしまっているのではないかと不安になるが
急に、あれっ、自分はどこに旅に行ったのだったかな
10日間ぐらい行ったつもりだが、どこに行ったっけ、、全然記憶がないぞ、、、
そんなところで目が覚めた

二日目は、地元の桜淵公園に車で出かけていた
豊川右岸の駐車場に車を止めておいた
駐車場は大きくなく、停めておいた場所を忘れるほどではない
何かのイベントが有ったが、急に雲行きが怪しくなって雨が降りそうな雰囲気になったので
降られる前に帰ろうと決めて駐車場に戻ると、あれれ、車がない
見つけられないだけかと思い、キーの解除ボタンを押してみる
普通ならウインカーが反応して車の存在を認識できる
しかし、反応はうんともすんともせず
それで改めて歩い止めたはずの場所を確認するが、やっぱりない
おかしいな、、こんなはずは、、
これを繰り返していると不意に、これは「夢」かなと頭に浮かんだ
そうだ、夢に違いない、、 
そんなふう思うと目が覚めた

そして今日に三日目
今は教師になっているサッカーのコーチ時代の教え子がいるが、彼は正義感が強くて突っ走るので、
そこでの不必要な摩擦を恐れた親御さんが 自分(コーチ)の話なら聞いてくれるかもしれないので
説教して欲しいと頼まれて、何故か近くの彼と話すことになった
ありきたりの心配してる人がいるってことは幸せなこと、、、みたいな話をしてたが彼をよく見ると
どうも背中とか首の形がおかしい
そこでシャツを脱いでもらうと首の付根のあたりがコブ状に異様に後ろに飛び出している
どうした?と聞くと先程怪我をしたかもしれないとの答え
それでかかりつけの医者を聞いてみると、なんと自分と同じところ
そこでスマホを取り出してアドレス帳にあるはずの医者の番号を探し出し電話しようとする
ここで起きたのが、やろうとしても全然前に進まないいつものパターン
アドレス帳は何故か目的のものが見つけだせず、音声入力もうまくいかない
それでただただ焦るだけ、、、、

この様に似たような話が3日も続くと、いったい何が、知らず知らずのうちに心のなかに潜むようになったのか
少々不安になる
しかし、全くその原因となりそうなものは思い浮かばない
時々、あのことが頭に残っていたから夢に見たんだと感じることはあるが
今回は全く思い浮かばない

でもそれがどうした、、ってわけじゃない
夢なんてこんなもんだ
しかし、やっぱりどこかストレスが溜まっているのかな、、、
 

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「適材適所」と「適切に」

2018年01月27日 09時19分05秒 | あれこれ考えること

おそらくそれを聞いた人が共産党の小池さんでなくても
思わず「ええーっ!」と出てしまったのが、あの佐川国税長官についての安倍さんの答弁 
森友学園問題では国会でも、今となってはとても怪しい金額の打ち合わせもなかったとか
肝心な書類もOBさんの感覚や常識的には存在していると思われても、法令に則って破棄したとか
(本当にそれで良いのか)
とても真摯に答えているとは思えないのが佐川さんに対する庶民の見方だが
その前財務省理財局長の彼が、国税長官というポジショにつくことになり常識的には
信じられない抜擢となるので、野党は彼の更迭を要求したのだが、彼の処遇は「適材適所」だった
などと安倍さんは答えたものだから 、少し呆れてモノが言えない

こんなことでは今後、「適材適所」という言葉の意味が変わってくるかもしれない
と嫌味のひとつも言いたくなる

「適材適所」と判断したのは、少なくとも常識的な人たちはではない
残念ながら常識がないと思われても仕方ないひとだ(庶民の感覚的には)
ところで、最近良く聞くのが、あるポジションにいる人にとって都合がいいのが「適切に」という言葉
どんなに庶民がおかしいと思っていても「適切に処理したとか、行った、行う」の一言で
済ませてしまってその先は追求できないでいる
しかし「適切に」と判断した根拠は客観的なものではなく、ただ単に当人がそう思っただけにすぎないのではないのか
ある人からみれば「適切でもなんでもないこと」が平然と「適切に」という言葉が使われる

これは官僚言葉らしく、市議会でも市職員の答弁で度々出てくる言葉だ
「適切に、、、」 
でも本当に適切なんだろうか、、
この言葉を聞く度に疑問を感じてしまう

土曜の朝というのに、つい愚痴ってしまった
昼は豊川で「哲学カフェ」なんぞというものがあるので、ちょいと顔を出して気分転換しないと、、、 

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短い文章

2018年01月26日 20時48分31秒 | あれこれ考えること

この間購入した「論語」
パラパラと適当に開いて、そのページに縁があるものだ、、と思い込むことにして
読むことにしている(もちろん現代文のほうを)
ところで「論語」は短い文章が多い
最近、西欧系のくどいくらいに長ったらしい読み物を読むことが多くなっているので
これに比べると非常に楽だ

短いということは、想像を膨らませたり前提となる知識がないとダメだ
俳句は575でとても短い詩だが、楽しむにはそれなりの知恵と経験が必要なように
短い文章は実はそれなりに手強いのかもしれない 

物事を説明しようとする、なるべく正確にしようとする
その場合は説明がどうしても長くなる
長くなると説明文のなかに出てきた言葉や概念も説明しなければならなくて
それがために話がややこしくなる

短い文章は読み手・受け手の能力・想像力を前提として言いっぱなしにする
これはどこか音楽に似ている(歌でない音楽)
音楽は言語で何かを正確に伝えてるわけではない
聴いた人の感受性・想像力を刺激するだけでその結果は相手任せ
でも何故か同じような感情を持つことが多いのが人の不思議なところ

ということで、得意の(?)毒にも薬にもならないお話
しかし、今読んでる「失われた時を求めて」は、とんでもなくワンセンテンスが長い
放り出したくなるが、まだそれも忌々しいので粘ってるが、、、最後まで行けるかな 

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誰の責任か(地域自治区のお金の使い方について)

2018年01月25日 09時06分16秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

新城市には地域自治区という制度があって、地元のことは地元の住民が中心となって解決する段取りになっていて、
それに予算をつけて実施する事になっている
地域自治区に与えられる予算は面積、人口等から計算されているようだが、この使いみちは、交付金と自治区予算の2つがある
そのうち交付金の方は、地域の有志が実施したい事業を書面と面前で(?)プレゼンを行い
それを地域協議会のメンバー(だいたいは区長さんが多い)が評価・判定しゴーサインをだして実行に至るもの
そしてもう一つの自治区予算は、地域協議会のメンバーが話し合って行うべき事業を決定し
それを市長に建議し、市長は定められた段取りをとって実行にいたるものだ
(今まで地域自治区から建議されたもので否決されたものはないらしい) 

この地域自治区のシステムを当の新城市民がどの位理解しているかは、昨年行われた市長立候補予定者による
公開討論会でこの話題が出た時の聴衆の反応から判断するに、かなり疑わしい雰囲気だ
それでも、地域自治区制度が取り入れられて数年経過、慣れていけばそれなりに機能するのかもと思っていた

この地域自治区の予算の使い方(交付金の方)について、問題ありと異を唱える人が何人かいた
自分の地区ではないが話を聞いてみると、3年に渡るホタル再生整備事業というものの実行したのは
地域の人たちのボランティアによる土地の整備で、お金を払ったことになっている(払うことになっている)企業の
仕事ぶりはどこか不透明なところがあるらしい

この話を聞いた時は、問題はあるかもしれないが、単純にその地区の交付金事業を認めた地域協議会のメンバーの
責任ではないか、いくら怪しかろうと地域協議会のメンバーが認めているならどうしようもない面もあるだろうし
そもそも、事業のチェックもしただろうに、、、と思っていた(だから解決するのは当事者間ですべき、、、と)
ところが、どうもそうではないらしい
まずは交付金事業の実際に行われたことへのチェックがかなり杜撰らしい
それはメンバーが横着と言うよりは、そもそものチェックという項目の内容自体が現実に即していないというか
ただチェックという過程を経たというだけのものになっているらしい
チェックをするのは地域協議会のメンバーだけでなく、(メンバーは大半が一年交代で変わるのでどうしてもゆるくなりそう)
地域自治区を見守る事務所長もするのだが、このチェックというのがこれまた本質的なことではなく
書類上の数字(金額の)があっているかどうかだけで、その内容まで突っ込んでいないらしい

らしい、らしいで話を進めていくのは少し無責任かもしれないが、これはあとで役所へ行って確認を取ることにして
なんだか少し呆れてしまったというのが現実だ
これが現実ならば、以前から地域自治区予算の使い方に文句ばかり言ってるように思えた人の気持ちも分からないではない
確かにその地区だけの、地域協議会のメンバーだけの責任ではなく、市の方にもまたシステムにも問題はありそうだ

言葉の上では、市民自治というものの現実的に行われていることを眺めると、市民自治の概念が何であるかはちょいと横において
普通の感覚からして、なんかおかしいぞ、、という気分になってくる
この何やら奇妙だぞ、、という感覚は、千郷地区のこども園の建て替え事業の話も聞いた限りではそうだ
自分は千郷地区ではないので今までの経過は知らないし、関心もなかった
(何年間も当事者の間では議論がかわされたということで、そこではなんとなく今ある場所で建て替えという雰囲気に落ち着いたような)
当事者である地区の人達の希望が優先されることが良いだろうと単純に思っていた
ところが、雲行きは、、どうもそうではなさそうな雰囲気
これは千郷地区だけの問題ではなく、税金の使い方としての新城市全体の問題かもしれない
それにしても、なんだかな、、またか、、って気分

 



 

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「ま、いいか!」

2018年01月23日 09時34分45秒 | 徒然なるままに

何故か頭の中に残っている事柄で、忘れないうちにアップした別の投稿からのコピペ

先日の日曜日(21日)新城文化会館の大会議室で行われた「健康・医療に関するシンポジウム」に出かけた
この日のテーマは「認知症」
連れ合いの方が若年性認知症になられた女性の生々しい奮闘ぶりとそれを乗り切ったきっかけや心構え
(詩集「感語詩」著者 小田尚代 氏 「あなたと行きたい、活きたい、生きたい」)
新城地区で行われている「認知症カフェ」取り組みとその現実的な効果
(グループホーム好日庵 管理者 山本恵子氏  「認知症カフェ」)
などが現実感をもって紹介された

幸い身の回りにはそういう人物がいない
だから恥ずかしながら何も知らないでいる、、というのが現実
(ほんとに何にも知らない、、)
ただ、祖母が寝込んで最後を迎えるようになった数ヶ月間のことを思い出すと
何時まで続くか分からない、報われることのない行為の家族の苦労やストレスはよくわかる
そしてそれが一瞬なりとも軽減されるのは物理的な協力と言うよりは
他人の共感とか寄り添う気持ちを感じられた時、というのもなんとなくわかる
人が人を理解するというのは言葉による説得などではなく、どういう訳か伝わる
「よく分かるよ、その気持」みたいな感情のことではないか、、

相変わらず本筋と関係ないことに関心が行ってしまうが
この日一番記憶に残ったのは講演で紹介された「注文をまちがえる料理店」という本のこと
奇妙なタイトルだが、間違えるのはそのレストランで働くのが認知症の方々であるためで
でも、間違ってもおいしいから、ま、いいか!と寛容になるひとびとのことが書かれているらしい

Amazonで調べてみると内容紹介には

「注文をまちがえるなんて、変なレストランだな」
きっとあなたはそう思うでしょう。

私たちのホールで働く従業員は、
みんな認知症の方々です。
ときどき注文をまちがえるかもしれないことを、
どうかご承知ください。

その代わり、
どのメニューもここでしか味わえない、
特別においしいものだけをそろえました。

「こっちもおいしそうだし、ま、いいか」
そんなあなたの一言が聞けたら、
そしてそのおおらかな気分が、
日本中に広がることを心から願っています。

「ま、いいか!」
このゆるい感じが自分はとても好きだ
そう言えば、作手でおばあちゃんたちがやってたレストランで自然薯料理をいただいた時も
段取りがよろしくなくて、あたふたとして時間がかかっていたことがあったが、その時も
「おばあちゃんたちも頑張っているから、ま、いいか!」と思ったことがあった

こんなのばかりでは世の中は困るかもしれないが、それでもちょっとした「ま、いいか!」の
余裕のある気持ちがいろんなところで見られるといいな

※でも、実はまだこの本注文していない、、ゆるいな、、 

 

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名フィル定期演奏会(春の祭典など)

2018年01月21日 08時38分04秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

そのプログラムに魅せられて昨日出かけたのが名古屋フィルの定期演奏会
金・土曜の2日連続で行われたようだが、田舎から出かけて普通に帰ることのできる土曜日の方を選んだ
会場は日本特殊陶業市民会館フォレストホール
最近は芸術劇場コンサートホールではないことが多いので疑問に思っていが、コンサートホールは
現在改修工事中とのこと
 

自分が興味をそそられたプログラム、前半は
ベルリオーズ 序曲「海賊」作品21
グリーグ ピアノ協奏曲イ短調 作品16

そして後半は
ストラヴィンスキー バレー「春の祭典」

全て生では聴いたことがない
聴きやすそうでロマンティックなグリーグ、少しばかり刺激的なストラヴィンスキー
今年はじめての生演奏会に期待は募る
チケットは当日券を求めた
以前、JRが人身事故のため蒲郡付近で立ち往生して予定されていた行事に間に合わないことがあったので
座席には余裕があるのを確認して、現地で購入する安全策をとった
嬉しいのか嬉しくないのか微妙なところだが、チケットはシニア割引があって20%ほど安くなった席がある
せっかくなのでそれを利用させてもらって、ちょいと良さそうな席を選んだ
(やっぱり素直に嬉しいとすべきなのかな、、)
でも席につくと、しまった、もう少し後ろのほうが良かったかもしれない、、とも感じた
前から11列目でめったに経験できるような席ではなく、座席表では良さそうな気がしていたのだが
どうもイメージとはだいぶ異なる この席だと音がブレンドされてなくて生々しすぎるかな、、などと少し不安も

生では初めての曲ということだから、まずは音楽を楽しむことに専念
関心は演奏の善し悪しと言うよりは、曲自体に向かう

ベルリオーズは結構好きな作曲家だ
ウジウジしていなくて、おおっぴらな開放感が好きだ
それにとても神秘的なロマンティックな「ロメオとジュリエット」の夜のシーン(だったかな)音楽も書き上げているし、、
このプログラムの「海賊」は確かレコードを所有していて聴いたことがあるはずだが全然記憶にない

音楽が始まるといきなり、、らしいな、、の印象
個性というのは自ずと現れるようだ
今まで聞いたことがなくて、途中から聞いてもショスタコーヴィッチの作品はなんとなくわかるように
ベルリオーズはベルリオーズはらしい
聴いてて幻想交響曲の舞踏会の楽章やら、冒頭の楽章、最終楽章を連想させるところがあって思わずニヤリとしてしまう
そんなに難しい音楽ではなく、まずは食前酒みたいな感じで聞き終えた

グリーグのピアノ協奏曲 今回のピアニストは小川範子さん
印象的な冒頭からスタートするこの曲は一般的には聞きやすい音楽だ
レコードでも度々聴いたりしている
しかし、それが却って悪い方に作用したのかもしれない
始まって直ぐに、あれっ、、と演奏に乗れないでいる自分を感じた
音が、、ピアノの音が、、いやオーケストラの音が、なにか遠くで聞こえるような、、(音量はあるのに)
なんと言って良いのだろう、曲がぐいっと直感的に把握されている気がしなかった
いやいや演奏のせいではないかもしれないとも考えた
ロマンティックな聴きやすい音楽故に、今の気分と合わないのかもしれない
例えば忠臣蔵がよく出来た物語だとしても、その世界に浸りきるまでは現代人にはフィットしないみたいに

この現代人にフィットするという感覚を実感したのが後半の「春の祭典」だ
冒頭の管楽器が何やら不思議な雰囲気を醸し出す
しばらくすると暴力的なリズムの饗宴があるのを知っているので、期待感も高まる
今でこそ期待してしまうこの部分だがパリで行われた初演の時には
聞きなれない騒音に近いリズムの連続に聴衆が退席してしまったというエピソードも
わからないではないな、、と思う
だが、この印象深い音楽、これをすんなり受け入れてしまっているのが現代人の耳
現代人はロックなどで同じような強烈なリズムとか音量に慣らされている
そしてそれが知らずしらすのうちに受け入れやすい気分とか標準になっている
だから、今これらの音響を聴いてもさほど驚きはない
ただこの騒音に近い音響は心地よい
この音楽は時間の経過をもとにした(ベートーヴェンのような)起承転結、まとまり、秩序という世界からなるものではなくて
ひたすら音響と言うものが中心となった音楽だと感じる
それはこの音楽がバレー音楽であって、本体は単独に演奏されるのではなくて
バレーのパフォーマンスを効果的に演出する音楽であったことに由来するかもしれない
そんなことを考えながらバレーしているシーンを思い浮かべると、この音楽はぐんとリアリティを持ってくる
人類がまだ動物に近かったような時期、まだ本能に左右され、自然に振り回されながらも
たくましく生き抜く姿を象徴するバレーの場面 
確かにバレーがあったほうがより効果的だし引き立つ気はする

今年最初の生の演奏会は「春の祭典」のおかげでいろんな連想が出来て大正解!
と言ったところ
次は宗次ホールでの「冬の旅」に触手が動くが、会場近くのポスター掲示板には
マーラーの5番のプログラムが、こちらも忘れないで、、というようにつぶやいているような、、、

 




 

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小室哲哉の報道に思うこと

2018年01月20日 08時49分54秒 | あれこれ考えること

全盛期も好きではなかった小室哲哉
好きでなかったというより関心がなかった
やたらと無機質な繰り返しの多いような音楽が好みではなかった
同じ繰り返しでもサザンオールスターズの「勝手にシンドバット」の繰り返しは
嫌いではないので、繰り返しだけの問題ではないのかも知れない
とにかく生理的に合わない、、って感じだった

関心のない小室哲哉だが、それでも今回の文春砲により大騒ぎになっている「不倫疑惑」
それから「引退」に至るまでのテレビ報道は、少しばかり怒りを覚えるほど違和感がある 
彼の肩を持つわけではないが、彼の複雑な事情も想像できるし、家族の問題だからそっとしておいてやれ、、
たとえ知ってても何もしないのが人の道、、みたいに思っているものだから
何でもかんでも日の下のさらけ出して、反論のしようのないことだからみんなでバッシングするようなところは
正直とても気分が悪い
(だからこの話題になるとチャンネルを変えたりスイッチを切ったりする) 

ただ救われるのは、ツイッターなどではこのテレビ報道などに対してかなり批判的な意見が上がっていることだ
その人達の矛先はメディアの姿勢に向かう
人の不幸を食いものにして、一歩間違えればその人の人生まで大きな影響をあたえることでも「市場価値がある情報」
との(ある特別な地位の人の)判断で知りたくもない人の間にも届けられる
こんなことに単純に「おかしい」と感じているのだ
メディアが報道すべきものはまだ他にもたくさんあるだろう
そちらをほったらかしにして、この様な話題ばかりを追っかけて、、一体、この国は大丈夫なのか、、と少なからずの人が危惧している
そしてそれは、とてもマトモなことだと思われる

ところで少し視点を変えると、この話題をスクープした人物はどのような人だろうか
少なくともこの手の仕事に関してはやり手なのかもしれない
ネタを探す勘、粘り強い行動とフットワーク、良い意味での功名心、そして運
1人のプロフェッショナルの仕事として評価するならば、彼(彼女?)の仕事は優れたものかもしれない
よくよく聞いてみれば、当人しかしていない努力というものもあるだろう

このもしかしたら優秀かもしれない人の仕事、それを提供する(?)のがメディアだが
週刊誌の場合は、情報を知りたい人がお金を出して自己満足的に知ることになるが
テレビとなると何とまあ横着なことに、週刊誌のネタをそのままパクリ
タダで知りたくもないと思っている人のもとにこれでもかと届ける
「他人の不幸は蜜の味」の諺にあるように残念ながら人のなかにはこうした傾向があるのも事実だ
人の秘密を覗き見したい、、そんな気持ちがあるのも否定しない
しかし、それでも、、、そう「それでも」それをしない、、というとても人間的な(全人格的な)判断が
いつの間にかなくなってしまったか、あったとしてもその判断基準はやたら低次元のものになってしまってはないないか

今度は取材した人物ではなくて、それを取り上げると判断した人のことを想像すると
彼(彼女)はこのネタは視聴者が飛びつく話題だと判断する
もしかしたら、そうは思わなかったかもしれないが、
自分たちが扱わなければ競争相手がきっと扱い、扱わなかったために直属の上司から小言を言われることになる
そもそもテレビを見る人達などは、高尚なことを望んでいるわけではない、、などと考えたかもしれない

自分が判断しているようで実は何かに振り回されている
現実は、自覚しているかいないかわからないが、こんなものではないだろうか

それぞれの人間がそれぞれの立場で判断をする
現場で取材する人はその人の全精力をかけて努力する
他人にはどうでもいいことでも、その人にとっては、またある一部の人にとってはとても需要なことだと思われる
(この取材の仕事をする人には、しょうもない話題を追っかけて、、とは思うものの一概に馬鹿にできない)
週刊誌の取材記者はテレビで扱われることを前提にと言うよりは、週刊誌が売れることを望むし
そもそもこの手の話題は、それで終結すべき話題と思われる
ところが爆発力のあるテレビが後追いでそのネタを扱う
話題を扱うかどうかは、テレビ局の都合だけだ
常にネタを探しているテレビ局は競争相手から出し抜かれることに対する恐怖心がある
扱う話題の判断は「うけるか、うけないか」だけ
でもこの勝手な独りよがりの判断、それは実はテレビを見ているあなた方も実はこのようなしょうもない人間なのですよ
と暗に示唆しているようで、そしてそういったことに少しづつ人は気づき始めて嫌気がさしてきているのではないか

人格者ぶるつもりはないが、最近「品のない」行動や報道が多すぎやしないか、、と少し不安になってくる
ホント、大丈夫かな、このままで、、、 




 


 

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読書とは、文字から喚起されるイメージを追うこと(かな)

2018年01月19日 08時37分51秒 | あれこれ考えること

別にノルマでもなんでもないのだが、投稿をサボるとサボりぐせは直ぐに身について
今日はこれこれの理由で、、ま、いいか、、、ということになってしまう
でも、それが続くとどこか気持ち悪くて無理やりネタを探しながら、とりあえず何でも良いから
エイヤッと書いてしまえ、、ということになる
どこか気持ち悪いというのは、習慣になっていることが出来ていないことへの戒めなんだろうか
何でも良いから、習慣にするということは良いことかもしれない
現在の自分の習慣は朝ごはんを食べた後の掃除機がけ、、(あるデータによるとお風呂の掃除のほうがありがたいらしいが)
これも最初は面倒だな、、と思ったものの、今では当たり前、慣れっこになっていて、通勤の車の運転が
気づかないうちに終わってるようなもので、作業をしたという意識すらなくどうってことなく済んでいる
あとは朝ごはん前の同居人との般若心経を唱えることも習慣になっている
これは般若心経の内容が気に入ってるとか、仏教徒とか、ご先祖様を敬うなんて気持ちではなく
できるだけ同居人と同じ経験をしておきたい、それを記憶にとどめておきたいという理由からだ
(多分ご先祖様は、それでいいとしている、、と思う)
 

さてくだらない本題(?)
とりあえず、途中で投げ出すことはなく、蟻の歩みくらいのんびりと進んでいる読書の二冊
オルテガの「個人と社会」プルーストの「失われた時を求めて」
片方を読んで、少ししんどくなてきたら気分転換に別の方に移ることを繰り返しているが
どちらもそれなりに集中力を要する
文字を追って、その内容を理解しようとすると文字を追うという作業以外に自分の頭の中に
何かしらのイメージを思い浮かべることが必要になる
読みはじめのときはこの作業がなかなかうまくいかない
確かに文字を読んでいる、そしてあるときは黙読する声を頭の中で聞いている
しかし、この声はどの声なんだろうか、自分の話している声の記憶なのか、それとも純粋に頭の中の声なんだろうか
(時々、このことが気になって仕方なくなる)
読んでいて調子が出てくると、この音を伴った文字を追うという作業が、今度は文字面を追ってイメージを喚起する作業に変わる
こうなるとしめたもので、読書のスピードはぐんと上がる
正確な理解はしていないかもしれないが、そんなことは気にならない
これは多分多くの人が経験することで、例えばハリーポッターのアクションシーンなどは文字を追うというよりは、
そこから喚起されるイメージを頭の中で映像として見るようなことになっているのではないか
つまりは本を読むということは、文字が引き起こすイメージにシンクロすることということなんだろう

「失われた時を求めて」はダラダラと長い文章が続く
物語も今まで読んだところまでは劇的なことはない
それこそ書き手の頭に浮かんだことを、聞かされている(読まさせられている)感じだ
こういうときは文字を追うとなかなかしんどい
そこで文字を追うのを諦めて、文字が喚起するイメージに身を委ねることにする
するとこれがなかなか楽しめそうな雰囲気にかわる
コンブレーの街や教会を自分勝手に想像しながら読むと、記憶のなかにたゆたう映像のようで
それこそプルースト独自の世界かのようだ
オルテガの「個人と社会」も似たようなものだ
この本で少しばかり嬉しくなったのが、かつて自分も考えたり疑問に思ったことが、彼も大事な「考えるべきとこ」として扱っていることだ
社会が成り立つ上で自分と他人の関係、自分は明らかに他人ではないが他人も自分と同じように考えているだろうという想定とそのアバウトさ
本とは不思議なもので、結局のところ自分で求めていた考えを確認するもののような気さえする

オルテガの方は最後のページまでたどり着きそうな気がしてるが、プルーストの方は相変わらず自信がない
しかし気分的には、この二冊は今の自分のメンタリティには必然的だった気がしている
似てはいないかもしれないが、自分にとってはこの二冊は個人の有り様をそれぞれの立場で説いたもの
結局のところ自分は「個人」というものの有り様が一番気になっているのだと、改めて自覚する

ということで、いつもの毒にも薬にもならないお話
しかし短くまとめたとは言え「失われた時を求めて」の上下読み終えられるかな、、
途中で投げ出すのは忌々しいし、、、かといってしんどそうだし、、、

 

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やたらと長いテレビ番組が多くなってきた

2018年01月16日 19時27分13秒 | 徒然なるままに

依然としてお年寄りには大切な時間つぶしのお相手「テレビ」
デジタル放送になってから新聞のテレビ番組欄は存在意義を失いつつあるが
番組表ボタンを活用できない人たちにとっては貴重な情報源だ

番組表を見ると、、、なぜなんだろう、ゴールデンタイムと言われる時間に
2時間、3時間と続く長い番組が多い(あまり面白そうじゃない)
昔はお正月とか年末用に取り溜めみたいなスペシャル番組と名付けられた長い番組が多かったが
今は普段から長いようだ
しかも、同じような内容の番組が、曜日を変えて局を変えて登場する(みたいな印象)
(クイズ・健康の話・日本のここがすごい・生活の知恵などなど) 

正直な話、テレビ番組欄を見た時点で見る気は失せている
そしてテレビのない部屋で時間をつぶす
見ないでいると少しは見ておいたほうが良いかもしれない報道番組を見るのも面倒になる
そしてそれで少しも困らない(自分らは)

でもお年寄りには、ちょっと可哀想だ
こんな番組ばかりではつまらないだろうな、、と想像してしまう
お年寄りだけじゃない、子どもたちにとっても同じようなものかもしれない
自分らが子供の頃はもっと心がワクワクするようなモノがあった
今はどうなんだろう
(だが、お正月休みにちびっこモンスターたちは見たこともない番組を探し出していた)

面白くなければテレビじゃない、、というコピーが昔あったが
面白くなければ見ないだけだ、、、ってのが今の姿
でもお年寄りには、、、ちょっとかわいそう、、、 

 

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