パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

秋はブラームスじゃなくて

2013年09月30日 19時37分08秒 | 音楽
秋になるとクラシック系の有線でも
ブラームスがかかりがちになる
4番の交響曲やクラリネット五重奏などは
確かに秋の空気・色彩にピッタリ来る

風貌から想像するより、なよなよとしたブラームス
そんなところが却って人間的な気がして
「秋の夕暮」が好きな日本人にはたまらないのかもしれない

ところで、もう一人秋にピッタリの音楽がある
フォーレの室内楽
ピアノ四重奏曲一番・ピアノ五重奏曲一番のアダージョ楽章は
まるで夜想曲のよう
音色の移り変わり微妙な和声の変化
決して大声で訴えないところが
やはりこの季節にふさわしい
(と思っているのは、ブラームスの場合と違って自分だけかも)

フォーレピアノ四重奏曲 第3楽章↓



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偽書は何故存在するか?

2013年09月29日 19時53分17秒 | あれこれ考えること
数年前ブームとなったダ・ヴィンチ・コード
その元となった本が「レンヌ・ル・シャトーの謎」



初めて読んだ時はそれは面白かった
まずはそれほど昔ではない時期に
奇妙な事件が現実に存在したこと

暗号文を発見した
ソニエール神父の突然の浪費
新たな気味悪い教会の建築
突然の死と後継者の秘密を告げぬままの死

これだけでつかみは十分
謎への興味は嫌が負うにも燃え上がる

実際、一気呵成に読んで
この手の関連本を数冊読んだ

ところが今になって再度読んでみると
前提となっているフランスの図書館にあるという文書が
偽造だとのこと
(ピエール・プランタールが、自ら捏造したものであると1993年に告白した)
ちょっとがっかりしてしまう

最初に読んだ時もニュートンやらドビッシー、ジャン・コクトーなどが出てきて
少し怪しいとは思っていたが、、、
それでもエンタメ的な読み方をすればテンプル騎士団の知識も若干増えて
なかなかのものだった

それにしても不思議に思うことはこうした偽の本が何故存在するのか
という点
何かの目的の為か、それとも偽書を作り上げた者の創造意欲によるものか

偽の本・でっち上げの本はフランスだけでもなく日本にも存在する
竹内文書・東日流外三郡誌・先代旧事本紀(大成経)がそれに当たり
古事記ですら偽書との意見もあるらしい

どうも時代とか国を問わず人間というやつは嘘をつきたいものらしい
(偽書を作りたいものらしい)
その創作への衝動とは一体なんだろう
作家が小説でありもしない嘘の話を
をつくり上げるのとは何処が違うのだろう

小説家は小説を書くことによって自分の中の
詐欺師的な部分を抑制しているといったようなことを
何かで読んだことがあるが
この手の偽書もそうなのか
いやこれは最初から騙そうとしている(?)

どうも分からない
それにしてもたかが偽書のために膨大な時間(金額)を費やす
気持ちというのは何なのか?

結局、一番の不思議は事件にあるのではなく
人の心にあるようだ




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美しいメロディ

2013年09月26日 20時03分54秒 | あれこれ考えること
何をもって美しいと判断するか
といったような面倒な定義付けは
一先ず置いておいて
美しいメロディとはなんだろう?

美しいメロディーの代表は?
人それぞれの好みによって違ってくるのは
当然として、世間一般的には
ショパンのノクターン
チャイコフスキーの白鳥の湖
シューベルトの歌曲(アベ・マリア、セレナーデ)
ブラームスの弦楽6重奏の第2楽章
ドヴォルザークの8番の第3楽章
スメタナのモルダウ
などが挙げられるかもしれない

でもこれらに関しては
「美しい」は最適な表現ではない気がする
感傷的なとか感情的なといったほうがふさわしいような
気がしないでもない

それでは、バッハのマタイ受難曲の中の「あわれみ給え」のアルト独唱の
メロディは美しいというのか
感動的で深く沈潜するがなんだか美しいという表現では追いつかない

ブルックナーの8番の第3楽章のチェロの奏でる旋律は
やはり美しいという言葉とは違う気がする

モーツァルトの23番のピアノ協奏曲第2楽章も
美しいと言ってしまうとなにか違うような気もする

ベートーヴェンの32番のピアノソナタの第2楽章のテーマはどうだ
心地よいというのとは明らかに違うが
これは何故か自分中では美しいと言っても良いような気持ちでいる

正直自分が何を基準に決めているか深く考えたこともないし
これからも考えることはないかもしれない
でも言えることは、ベートーヴェンの30番・32番の緩徐楽章のメロディは
美しいと思う
それと作品131の弦楽四重奏曲の最初の楽章
静謐感に満ちた不思議なメロディ
これも美しいと思う

美しいメロディー
多分年齢を重ねると随分その判断基準は違ってくるだろう

それにしても
後期のベートーヴェンのピアノソナタは美しい
というか、飛んじゃっている

これらは気合入れて聴かないと向こうから優しく来てくれない

つまりは今の時点でベートーヴェンの後期のソナタが好きだってこと
好きだから美しいと思い込もうとしているのかもしれない

相変わらず、どうでもいいことだけれど


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血が止まらない

2013年09月23日 19時29分47秒 | Weblog
休日の楽しみと言えば髭剃り
前日にあえて髭剃りは控えて無精髭を伸ばせるだけ伸ばして
顎も頬も雑草の生えかかりみたいになった顔を
お風呂に入ってシェービングジェルをつけて
カミソリでジョリジョリと
削られていく感じを十分味わいながら黙々と

これがなかなか気持ちいい

ところが今日髭剃りを楽しんでいる時、
何か冷たいものが鼻の下に、、、
「しまった!」
傷つけてしまったようだ
これでしばらく血が止まらないかも

昨年心臓カテーテルの治療を受けて
体内にはステントが入っている
それで毎朝血をサラサラにする薬を欠かさず飲まなければ
ならないのだけれど、この薬サラサラにするだけで終わらない
悪いことは血が止まらない
ほんのちょっとの傷でもいつまでもだらしなくタラタラと

前回はドイツのホテルでやっぱり髭剃りで
やってしまった
その時は全然気づかず
朝起きたら何やら大きなかさぶたができていて
擦ったら簡単にとれてまた血が流れだした

今日もなかなか止まらない
バンドエイドで抑えてもさっきの時点ではあまり効果なし
困った

しかし、怪我なんかはちょっとした拍子にやってしまいそう
ホント気をつけなければ、、
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冨賀寺の庭

2013年09月19日 20時12分41秒 | 徒然なるままに
若いうちは遠い国とか大都会に憧れる
だが何かの機会に地元を見つめなおすと
予想以上にそこには豊かな世界がある
歴史・祭り・自然などなど

秋晴れの休日
カメラを持って新城市のコスモス迷路に出かけた
しかし時期が早すぎた
おまけに先日の台風で大分やられたようで
スタッフの方が倒れたコスモスを起こしていた
本格的な公開は29日かららしい

その足で中宇利の冨賀寺に出かけた
ここはちょっといい庭のあるお寺さん

前回来た時は、季節が悪かったのか、それとも手入れされてなくてか
イマイチの印象があったが今日は素直に感動
なるほど池の真ん中は亀みたい
それに沢山の石が厳しい感じで深山渓谷みたい
そういえば山吉田のほうの滿光寺も
同じようなテイストの庭
こんな田舎にも良い庭ってあるものだ

この庭の入口に幾何学的な感じの新しい庭がある

なんだか京都東福寺の重森三玲の庭を思い出す
あれほどの緊張感はないけど穏やかな田舎の庭としては
なかなか良いのでは

せっかくカメラを持って行ったのでお寺の近くの彼岸花を撮影

確かに彼岸の頃決まって登場する花だけれど
今年は少し早いような気がする

しかしこの花、葉っぱがないのでちょっと自分の好みじゃない
というか苦手
子供の頃は棒きれを刀の代わりにして
バッサバッサと切って遊んでもらったのだけれど
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論語と個人プレー(柿谷曜一朗に望むもの)

2013年09月17日 20時28分52秒 | サッカー
情熱大陸で取り上げられたり
そのトラップが注目されたり
若き日の天才ぶりが今になって話題になったり
ふてくされて起こした寝坊事件からの復活ぶりが
サクセスストーリー的に扱われたり
とにかくサッカー界では久々のマスコミの餌食(?)
柿谷曜一朗

だが自分の関心は
あくまでのサッカー選手として現在の、未来の柿谷曜一朗
もう少し言えばセレッソではなく代表の姿に関心がある

正直なところ
セレッソは今の状態では優勝はキツイかな
エジノがセレッソサポーターからは不評らしいが
その気持はよく分かる
雑なパス、予想する力(想像力の)無さ
フィジカルは強くても機能してるとは思えない

さて日本代表の柿谷
いろんな人がいろんなことを言う(当たり前だが)
もっと自分を出すべき(気を使いすぎ)
デフェンスが緩すぎる(もっと戻って守備をせい)
しかし、それらの不評も
柿谷のインタビューをしっかり読むと
案外一方的過ぎる批判なのかな思ってしまう

つまり想像以上(?)に彼は考えてサッカーをしている
2列目に気持ちよくプレーしてもらうために
無理に下がってスペースを潰さない
下がりすぎてゴールから遠くなって
相手側が守りやすくならないようにするとか
その為に実際はボールタッチが少なくて
イライラするけれど我慢してるとか
とりあえずはチームに溶けこむことを(そのスピードを加速させることを)
第一番として考えている

そこで思い出したのが論語
吾 十有五にして学に志し、で始まる文章
その最後の文に注目
七十にして心の欲する所に従いて矩・のり・を踰えず
つまり、自分のやりたいことをしていてもチームプレーの範囲からは
外れないということ
そのためには自分を律しての普段のプレーが必要ということになるのだろうが
本田が言うように最後は個の部分が勝負になるので
個の部分で特異なセンスと技術を持つ柿谷には
早くこの境地になってもらいたい

それにしてもマスコミは持ち上げて落とすか
無関心となるかのどちらか
女の子は今の時代の情報を共有しているかどうかが関心の的で
必ずしもサッカー自体ではない
つまり無責任ということ

この無責任なしかし陥りやすい誘惑
再び天狗になって同じミスをしては欲しくないが
少し変人はセンスあるFWの宿命かもしれないので
(そのくらいのほうが迫力ある)
人間性のその辺りは大目に見るとしてもサッカーの世界では
早く、心の欲する所に従いて矩・のり・を踰えず
の状態になってほしいものだ

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読書の秋の始まり(?)

2013年09月16日 19時11分41秒 | 
一ヶ月前はあれほど何をする気にもなれなかったのが
虫の声が聞こえるようになって
エアコンのない2階の部屋でも寝られるようになると
本を読んでみようという気にもなってくる

最近読んだのは(読んでいるのは)
偶然なのか自分史を綴ったもの


現代音楽作曲家 吉松隆の「作曲は鳥のごとく」
翻訳家(?)大学学長 亀山郁夫「偏愛記」ドストエフスキーをめぐる旅
大学教授 土屋賢二「哲学者にならない方法」

人は誰でも一冊は本を書くことができるという
容易に想像できるように自分のことを書けばいいわけだが
それを書こうとする気になる人はそれほどいる訳ではない
まして人に読んでもらえるような文章となると
それは簡単なことではない

さてこの三冊読んだ順に吉松隆から
といってもそんなに印象に残っているわけでもない
ただNHKFMで声を聞いていた時にそんなに窮乏していたとは
想像できなかった
この本の推薦文にあったピンクフィロイドのことが
もう少し書かれているかと思ったら
案外さらっと流されていて少し拍子抜け

この本の興味深いエピソードは吉松隆氏がギターの
ヴィブラートを人から教えられずに音の響きの美しさを
発見して、すごい発見をしたように興奮気味に伝えようとしたところ

結局は昔からある奏法の一つで単に彼が知らなかっただけのことだけれど
自分が発見したことの喜び(それが最初でないとしても)は
その後の生き方にも影響するのだが
この部分は自分も大いに納得できる
既に誰かが思いついたり発見したことでも
自分の頭で感じたり生み出したように思えるものは価値があるということ
もっとも科学の先端争いの部分ではトップこそが価値あることになるのだろうけれど

亀山郁夫の本は4.5ページくらいで構成される
日記風の文章で、この日記の時間は決して
物理的な順番通りではなく気分の(テーマの)
導くままと言った感じ
この本は面白かった、余韻もあるし
自分がドストエフスキーにハマった時のことをつい思い出してしまった
行間に様々な思い・感情が込められている
これは若い時代には出来ないことかもしれない

3番めは現在読んでいるところ
ある書評に「実業家が地面に落ちているお金を見逃すことが出来ないように
ある種の人間は人生の秘密を知る(といった)とてつもなく
面白いことを見逃しておくことは出来ない」
こんなニュアンスで紹介されていたが
この書評の気持も分かる
多分、自分も何か普遍的なもの(があるとしたら)
言葉で何とか分かることが出来ないか
と考えることしばしだからだ

だが、本半ばだが想像したのとは違う話に
展開していきそう
要は自分で感じること、考える事が大事
みたいなオチになっていきそう(?)
もう少し理屈で攻めることを期待していたのだが、、、

何れにしても、秋はようやく気力が復活する
夏にサボった分挽回しなくては
(何も考えないと馬鹿になりそうな恐怖心がある)
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柿谷のワントップについて

2013年09月11日 19時38分16秒 | サッカー
実際現場で見るのとテレビ画面とでは印象が異なる
練習風景を見れば選手のポテンシャルを見極めやすいので
普段素人が定番的に判断するものと監督の判断が異なることは
ありそうなことだ
(その上で好みもあるけれど)

昨日のキリンチェレンジカップ ガーナ戦
ワントップのスタメンは柿谷だった
前回は大迫だったので、あの時と同じように
後半から変えるかと思ったが
替えづらい試合展開
3点とった時点での交代は仕方ないところ

ワントップは懐の深い
ポストプレーも上手いし
ミドルからのシュートも撃てる大迫の方が優れているのでは
という意見も少なくない

それどころか和製ドログバの異名を持つ豊田の方が
本格的なCFタイプで実績も残しているし
ザッケローニ監督が彼を選ばないのはおかしい
との意見もある
(佐藤寿人が選ばれないことも不思議だけど)

しかし、柿谷がきつい試合では選ばれている
大迫のグアテマラ戦・オーストラリア戦は
ピリピリした緊張感の試合ではない

重要な試合には柿谷が選ばれるのは何故か?
とりあえずザッケローニ監督を救った感のある
東アジア選手権での得点のせいか

昨日のテレビ解説は名波さんと中山さん、それに松木さん三人
松木さんを除けば名波さんも中山さんも
柿谷は好きなタイプの選手ではなさそうな雰囲気のコメントが
少し見られる

その二人が声を合わせて絶賛したプレーがあった
DFを背負ってポストプレーして香川にシュートさせたシーン
シュートが残念ながらキーパーに弾かれてしまったが
その時の二人の言葉は「うまい」(香川の評価ではなく柿谷の評価)
「体は大きくないけれど、タイミングが素晴らしい(だったかな)」

つまりこの言葉に代表されるプレーが
随所に見られる可能性があるということ

体は大きくなくてもすばしっこかったり
妙にうまかったり、奇抜な発想をする選手は
DFにとって厄介な存在ということ

それを思うと大迫も豊田もある程度プレーのピークを
想像できる
しかし、ムラはあるが柿谷は把握しづらい
不気味な感じがする
この何となく感じる何かが
監督や代表選手の肌に感じるところがあるのではないか

昨日シュートも撃たずにまあまあ真面目にプレーしていたが
下手に下がってボールを貰いに行かなかった
(香川・本田のスペースを潰さないためだという)
そのためにCFとしてはボールに触る機会も少なく
ストレスの多い試合になるし消える時間と判断されることになる

しかし、案外いい意味での変人の素質のある柿谷は
そのストレスに耐えられそうだ(イタリアのFWのように)

それにしても問題はやっぱりメディアの事
スターシステムの柿谷の扱い
少し異常

いつも自分は批判的に捉えるけれど
内田もスターシステムに乗ってはいないか
今の内田だったらより可能性のある両酒井に
チャンスを与えてもいいと思ってしまう

内田の話は置いておいて
柿谷は自分が昔同年代のトップだった実績と
その時同世代の外国人の力を肌で感じが体に残っている
その時負けることはないと感じた感覚は案外重要な気がする

いずれにせよ、柿谷には期待しているということ
そして良い青年よりはちょっと変わった人間位の方が
選手として大成するんじゃないか!
と思ったりする(本田とか中田英寿みたいに)

もっとも今度はメディアがどう扱うかが問題だけれど

しかし、そろそろ得点という結果を出さないと
柿谷もその場を奪われるかも?
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ドラマ「半沢直樹」元本

2013年09月08日 14時26分55秒 | 
今年の流行語大賞の候補にあがる「倍返し」で
話題となっているTBS久々のヒット作「半沢直樹」
最近では原作となった書籍の売上も上々らしい

で、人並みに自分も購入の運びに

ただ、この手のベストセラーを買いに行くのは
どこか気恥ずかしい
「ドラマ見てるでしょう!」「評判だから買うんでしょう!」
そんなことは店員さんは思いもしないだろうけれど
勝手にこちらがそんな風に想像してしまって
どうもきまりが悪い

会社で照れ隠しに「こんな本買ってまった」
と公表すると
「自分はもう読み終わったところ、今度は自分のところにある2冊目、3冊目は貸してあげるね」
ありがたいお言葉
ちょっとお金が節約できる

さて読んだ印象は
うーん、ドラマってなかなかうまく出来ているな
が一番の印象
原作とドラマは多くは本の方が良いとされることが多い
しかし、今回はそうでもない
粗筋は当たり前だけれどおおよそはドラマと同じ
しかし、堺雅人の際立った個性が本ではさほど感じられるず
怒りの部分も急にヒステリーを起こしているような
少し不自然は感じがしないではない

それと国税局の扱い方がドラマのほうが圧倒的に効果的
手柄の出し抜きを競う部分は
新たにドラマが加えた部分だろうが
これはテレビ的な大げさなものであるかもしれないが
このアイデアはなかなかのヒット

この本は面白いか、どうかよりは
どのようにドラマ化されているかが興味の対象となってしまった

借りて読むことになる2冊めも同じ視点から読むことになりそう

ただし、正直なところドラマがなくてこの本を読んだら
2冊目は買わなかったと思う自分がいるのも事実だ

それはいずれ別の機会に(?)

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ニュースは足で探していなかったメディア

2013年09月07日 09時33分45秒 | あれこれ考えること
先日のみのもんたの朝ズバで、
東京新聞の解説のなんとか言われる方が
「福島の原発に関する東電や政府の発表することは信じられないので
 あれ以後は自分たちで調べる様になっている」
と口にされた

それは東京新聞だけでなく、他の新聞メディアも同じような雰囲気だったが
ちょっと呆れてしまった
そんなことはあたり前のことじゃないのか!
自分たちの足を使って実感を伴った情報を集め報道する
これができていなかった(?)ことに今更ながらショックを受ける

大本営の発表を批判精神もなく垂れ流しするだけのメディア
それは、東京オリンピック招致インタビューで海外の記者が
福島の汚染について鋭い質問をしていた姿と対極の位置になる

日本音記者はあんな風にズバッと聴けたのだろうか
(えげつない質問なら芸能記者の方が迫力がある?)

批判精神が当たり前だったメディアは
いつ体制側の御用聞きになってしまったのだろうか
(法律的な縛りのせいだけではないだろうに)

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