パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

勇気と覚悟、そして背負っていく気概(日本にいるロシア人の思い)

2022年02月28日 10時19分51秒 | あれこれ考えること

誰もが辛いニュースより明るいニュースのほうが良いと思う
ニュースの中には時として避けて通れないものがある
そんな時の向かい方は人間性が現れる

日本に住むロシア人の女性で山が大好きなユーチューバーがいる
北アルプスなどの登山の様子を流暢な日本語を駆使して
そこで得られる感動を素直に言葉にしている
もう行けなくなった山にそれで行った気になれるので
アップされる度に見ていた

頻繁にアップされる動画がロシアのウクライナ侵攻以後、投稿されなくなった
そんな気分になれないのは想像できる

その彼女が「勇気と覚悟」をもって現在の心境を語る新しい動画をアップした
冒頭の表情からその苦悩が見て取れる
彼女は「戦争反対」と訴え、日本人に合わす顔がないという(世界に対しても)
そしてロシアの行動を恥ずかしいし(多分世界の人々に)謝罪したいという

だが、日本にいても「戦争反対」と表に出すことは、ロシア人の彼女にとっては
いつか政権に対する危険分子として危うい環境に陥るかもしれない
彼女は「勇気」を振り絞って「覚悟」を決めて行動を起こしたようだ

個人と国家とは確かに違う
自分が下した判断ではないが、しかしながら自分がロシア人という現実は大きく
それに対する責任は避けて通れないと自問する
そして、彼女はこれからはそれを「背負って」いくと覚悟する

自分の責任ではないが自分の国の間違いを背負って、その間違いを批判する行動を
勇気と覚悟をもって公にすること
それは想像以上に辛いことと思われる
精神的な重荷が体力を奪うことがあって、彼女は駅の階段から降りるだけで
支えが必要になっている(それは彼女の登山の健脚ぶりからは信じられない)

内的な時間の経過は物理的な時間経過とは違う
内的な濃密な時間経過は人を強くすると思われる
勇気と覚悟を決めるまでの時間
そして自分には責任がないとしながらも、自己として国家の責任を背負う覚悟
その思いに至るまではどれだけの苦悩があったことだろう

自分には責任はないが、ロシア人としてこの行為については批判も背負っていく覚悟は、
今の若者には戦争の責任がない、、と考えたがる日本の一部の人たちに聞かせたいくらいだ
仮に今の若者に責任はないとしても、再び戦争を起こさない責任はあるはずだ

テレビではこの危機を逆手に取って、勇ましい言葉が出るようになっている
おかしいことになっているのはロシアだけでなく、この国も、、とつい思ってしまう

とてもつらいが、見習いたい人間性を感じる動画はこちら↓↓

ロシア国民として、皆様にお伝えしたい。

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技術(ネット)の変化が人に及ばす影響

2022年02月27日 09時55分48秒 | あれこれ考えること

アメリカ大統領選のゴタゴタの時、日本の報道に飽き足らず
アメリカのネットメディアを覗いたりした
残念ながらスラスラと英語が理解できるわけでないので
翻訳機能を使うのだが、グーグルクロムで英語のページを開いて
右クリックで日本語に翻訳を選ぶと、変な日本語だが大体の意味はわかる

最近ではiMacのサファリでもブラウザの上の方に翻訳というマークが付いているので
それを使うと一気に日本語として表示される

最近のロシアによるウクライナ侵攻のニュースをこうした英語サイトで見ると
少しニュアンスが違って感じる
それは日本がまだ他人事として報じているのに対し、もう少し切実感が感じられる
フランスとかドイツのメディアを覗いて、同じ様に翻訳機能があれば便利なのだが
どうもそうは対応していないようだ
ヨーロッパは地続きなので、争いのリアリティは日本と比べられないだろう
(第一次、第二次世界大戦も辛い記憶として残っているし、、)

このように日本にいてそれなりに世界の状況がわかるというのは凄いことだ
この一気に狭くなった世界について、大国の誇りを誇示したい狂ったあの人は
この技術の発展に伴う世界の変化を感じていないのではないか

世界中が一気に反戦の声をあげる
それは他国だけでなく自国からも
テニスの選手、フィギュアスケートの選手、その他の一般市民からもあがっている
最終的には暴力でそれを取り締まることになるだろうが、もうこの流れは止められない
と思う(思いたい)
人の感情に基づく選択とか意志は、法的なあるいは武力・暴力によっても
収めることはできないのではないか

幸いなことに多くの世界の人々は、個人としてのロシア人が悪いというより
政治としてのロシアが悪いと理解しているようだ

ロシアの軍人に向かってウクライナのおばさんが「何しに来た!」
と問い詰める動画を見た
覚悟を決めて開き直って問い詰めるおばさんの度胸が凄い
彼女はロシア兵にひまわりの種を与えようとする
あなたが死んだ時その種からひまわりが咲くように、、と
ひまわりのエピソードはどうやら何らかの意味があるらしいが
それはわからない(映画のひまわりに関連してる?)

この動画でより気になったのはロシア兵の態度だ
彼はおばさんの叱責を全面的に無視したり否定しているようには見えなかった
むしろ彼は「したくないことをしている」かのように思われた

組織の中のひとりとして役目を果たす
自分の意志と違うことをしなければならない
それは一人の抵抗ではなんともならない世界かもしれない
だが、したくないことをしている、、という潜在的な心理は
もしかしたら何かをきっかけに大きな変化をもたらす要因になるのではないか
(そう思いたい)

いずれにせよ、気の滅入るばかりだ



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デモの捉え方(ロシア国内と日本国内について)

2022年02月26日 10時00分31秒 | あれこれ考えること

気の滅入るロシアのウクライナ軍事侵攻
西側諸国が様々な制裁を試みても、覚悟を決めてかかっている人物には
どのくらい効果があるだろうか
少しでも現実的な成果があがることを希望する

もしかしたら一番効果があるのは「ロシア国内の戦争反対の声」ではないだろうか
それが証拠にこのデモをする人を政府側は拘束している
単なる声と行進に過ぎなくても、その数が多いと庶民の意志の表明として
無視できなくなってしまう
そしてそれは国に厭戦気分を醸し出すことになる
これは劇的でなくても徐々に空気を変えるきっかけになる

遠い国からはロシア国内デモを応援したい気分だ
多くの日本人もテレビ報道もこれを支持したい気持ちが見て取れる
そこには「デモは良いことだ」と考えている節がある
(香港のデモもその扱いだった)

ところが実際の日本の社会は「デモは良いこと」と考えているだろうか
極端な例だがNHKスペシャルの「お金をもらってデモに参加している」
と虚偽の字幕を入れた件では、デモはそもそも面倒くさい連中の反政府的な行動で
良からぬものという意識が働いていないだろうか

デモをする人々の切実な思いを、デモをいろんな思いで眺める人々
無関心だから、わざわざデモまでする人の気持がわからないというのはありそうなことだ
分別くさく無関心が悪い!といっても、無関心だから仕方がない
だが、傍観者に無意識に芽生える「良くないこと」の思いは
実はものすごい社会的な行動への高いハードルになっていないだろうか

デモとか庶民の声を表明する何らかの方法を
日本社会(教育界)は今までまともに育ててこなかったのはないか
それはもしかしたら行動とか意志の表明の仕方を教えられていない
以前の「個人で判断する」があまりにも軽視されているのではないか

個人の判断は責任を伴う
失敗した判断の責任は自ら負うしかない
難しい判断は嫌だ!と判断を誰かに委ね、自分はそれに従っただけだとすることで
責任逃れができるとするのは「自由からの逃走」だ

結局のところ、人は最後の時間まで自分と付き合うしかない
どうしても逃れられない自分との付き合いを、誰かに任せるなんてことは
最後の最後で後悔しそう、、と思うのは考えすぎか

土曜日らしくない面倒な話



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日本にいるロシア人、ロシアにいるロシア人、日本にいる日本人

2022年02月25日 19時09分10秒 | あれこれ考えること

悪い予感は当たるもので、ロシアがウクライナに軍事侵攻した
昨日から気の滅入ることで、いくら他のことを考えようとしても
どうしてもこのことが頭の片隅に引っかかる

大国という意識を捨てきれない国は、いつもこうしたことを起こしそうだ
今回のロシア、トランプさんのアメリカ、そして中国
それはまるで個人の自己承認欲求を国が行っているかのようだ

日本には多くのロシア人がいる
そのロシア人が焦りにも似た感情でユーチューブに動画をあげている
(その多くはロシアの行動に対する反対意見と謝罪だ)
だが彼らのもとにはロシア人というだけで批判の言葉が投げつけられているようだ
彼らは甘んじて受け入れる覚悟ができているようだが
なぜ日本人がそんなに短絡的な行動を起こすのか情けなく思う

日本にいるロシア人の動画がこれだ
普段はお気楽な動画をアップしているようだが、今回は切実だ

【緊急】ウクライナ侵攻、ロシア人としてもう我慢できません。許されないことです。

ロシアとウクライナのハーフの人も途方にくれている
自分が育ったところが戦場という驚き
信じられない出来事が夢ではなく現実という恐怖
それを訴える表情だけで心が揺さぶられる

ウクライナ/ロシアハーフが伝える、ウクライナ情勢の今


この非人間的な行いには日本にいるロシア人だけでなく、ロシアにいるロシア人も
反対の声をあげているようだ
そのデモの様子のニュースがこれだ

ロシア国内でも反戦デモ 治安当局は厳しく取り締まり 1700人以上が拘束

このデモは日本の遠くにいる自分らにとっては救いのように思える
だが、ニュースにあるようにこの行為は拘束という事態に陥る可能性がある
彼らは多分、それを知っていて行っていると思う
その行動は自分の信念とか使命感とか責任感による自己判断だ

そこで自分のことを想像してみる
日本でこのような事態が起きてしまったら自分は拘束されることを覚悟で
自分が信じる行動に移せるだろうか

政府に対する反対が日本に対する否定ではないにもかかわらず
何故か安易に反日という言葉を使いたがる人々がいる
戦前には天皇機関説事件というのがあって、
天皇自身が認めていた機関としての天皇制を
「その扱いはけしからん!」と武力をバックにした大きな声で
鎮めようとした人たちがいて、結果的にそれが戦争に導いた事があった

「なぜ、戦争が止められなかったの?」
と戦争を経験していない人(子ども)は、親御さんに聞いた
「そんなことを言える雰囲気ではなかった!」
このシンプルな答えは、まさにそのとおりだった思う

今、戦前と同じようなことが起きるとしたら(起きないほうが良いに決まってるが)
今から自分はどう行動するか決めている
そしてその行為ができたたならば、自分は自分を褒めたいと思うし
そういう人間でありたいと思う

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個人と国の印象

2022年02月24日 09時27分59秒 | あれこれ考えること

戦争は嫌だ!
と、あの時代を知る母はつぶやく
遠い国ところでもウクライナとロシアの緊迫した状況は
どこか沈んだ気持ちになってしまう

おそらく今世論調査をすると、ロシアに関して良いイメージを持つ人は
少ないと思われる
だがそれは国のイメージとしてのロシアで、ロシア人のことではない
ロシア人が悪いか?
といえば、個人的にはドストエフスキーは好きだし
ロシア人のユーチューバーで、とても上手に日本語を駆使する
山好きの女性に好感を持っている

一人ひとりは、きっとどの国も良い人、普通に感情を共有できる人がいるのだと思われる
それがいったん国となるとなかなか面倒くさいことになる

昔ロシアがソ連だった頃、モスクワに行ったことがあって
そこのホテルでの出来事が今も記憶に残っている
自分らが食事を終えてのんびりしていると、あたりが騒がしい
あるグループが大きな声で時間をカウントしているようだ
すると別のグループもカウントし始めた
周りのひとも煽るように数字(秒数)を大声で叫ぶ

どうやら結婚式が終わったばかりの新郎新婦が2つあって
その2つのグループの新郎新婦のキスの時間の競争をしていたようだ
(多分)お互い負けるな!
という掛け声で酔いの回った周りが大騒ぎしていたのだろう

その時代でも東西冷戦でソ連に対する好感度は日本はそれ程高くなかったとと思われるが
そのバカバカしい、しかし極めて庶民ぽい大騒ぎを見て、一気にその印象は変わった
どこでも庶民は些細なことに幸せを感じたり、面白がったりするものだ
ソ連も庶民の感情は日本人のそれと大差はないのではないか
悪いのは国という大きな括りで、それに人々が振る舞わされることは
なんだかなあ、、と感じたのだった

仲の良い人、心を通わせた人たちがそこにいるというだけで
その人達の住む国と争いごとをしたいとは思わないのが人の常だと思う
現実的には個人同士が知り合うことは無理だとしても
自分たちと同じ様に喜び悲しむ人がいると想像することはできるはずだ

大上段に構えた大義名分は、いつもどこか胡散臭い
理解し合える個人の集合が国とならず
国は国という別個の生き物のように存在すると
犠牲を強いられるのは、末端の命令されたり我慢を強いられる人々となる

物事はそんなに単純化できないとしても、
争い事を望まない多くの人の願いは、どんな時も叶って欲しいと思う



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想像力(あるいは人の尊厳を思いやること)

2022年02月23日 10時12分15秒 | あれこれ考えること

誰もがその発言に注目し、その言葉は影響力をもつが
(法的に)自らの思いを自由に発出することのできない人が日本にいる
だから形として出る言葉は短くてもすごく考えられた文章になっている
今朝、目にした文章にこんなのがあった

「他者の置かれた状況にも想像力を働かせ、異なる立場にあったり、異なる考えを持つ人々にも配慮し、
 尊重し合える寛容な社会が築かれていくことを願っております」

祈ることを役目としている特殊な日本一有名な方の言葉だ
これは誰が言おうがその通りだと思う

だが残念なことにこれは実現されていないのが今の世の中だ
(だからこそこの言葉が出てきたのだろう)

想像力の欠如(あるいは他人の尊厳の無視)
最近危機感をもって実感するのがこのことだ
あたり前のことだが人と人の間には言葉を通しての会話がある
ところがその会話が対立する場合、条件反射的な脊髄反応のような類で
瞬間的な鋭さとか過激さしか意味を持ちえないことがある
論破と言ってみたり、一方的な理屈を、あるときは人格攻撃的な要素まで
混じえて攻撃する(ツイッターなどのSNSに多い)
それはもはや会話ではない
それはストレス解消の意味しか持ち得ない

なぜそれらがこんなに多くなってしまったのか?
確かにSNSがその傾向に拍車をかけているのは事実だと思われる
しかし、それだけでなく社会全体にストレスが溜まっているからと自分は思う

その対処として、ストレスに強い人間とか社会を作るのも一つの手だが
個人的には「ゆるい常識が共通項として成り立つ、笑いの絶えない社会」
が住み良さそうと思う

しかし、それをどうやって実現するか、、、
ただ言えるのは、そのための努力を諦めたらダメだということ


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誰がそれをするか!(まずは行動ありき!としても)

2022年02月22日 09時34分03秒 | あれこれ考えること

世の中には知らないことが多い
なんとなく知ってるつもりのSDG’sにしても、直ぐに思いつく企業主体の目標だけでなく
人の生き方とか社会に関する目標があげられていることに今更ながら驚いた
ちなみにSDG’sの目標は

1.貧困をなくそう
2.飢餓をゼロに
3.すべての人に健康と福祉を
4.質の高い教育をみんなに
5.ジェンダー平等を実現しよう
6.安全な水とトイレを世界中に
7.エネルギーをみんなに、そしてクリーンに
8.働きがいも経済成長も
9.産業と技術革新の基盤を作ろう
10.人や国の不平等をなくそう
11.住み続けられるまちづくりを
12.つくる責任 つかう責任
13.気候変動に具体的な対策を
14.海の豊かさを守ろう
15.陸の豊かさも守ろう
16.平和と公正をすべての人に
17.パートナーシップで目標を達成しよう

持続可能な社会は人に優しい社会なのだとする西欧の理想主義的な理念がここには見られる
西欧が歴史の中で身につけた知恵とか理想は、空想ではなくて現実的な手段であると思いたい

ところで知らないことはこうした言葉とか理想だけでなく、社会の具体的な行動もそうだ
一気読みしたこの本の中には、地に足をつけて行動した人たちの話が紹介されている


この本は対談形式なので読みやすい
自分の周囲の社会的な問題に関して、まるで偶然の出会いのようにその行動に突き進んだ例が
いくつか紹介されている(食糧支援とか、里親についてなど)
ところが、いつものことだ内容よりも印象に残ったのは別のことだった

それは行動に移してこの本に紹介されているのは「女性ばかり」ということ
ここに登場する女性たちは大きなことを考えているよりは
身の回りの経験上こうした方が良いと思われることを具体的な行動としている
学者さんの説はもっともらしくてもどこか世間ズレしているのに対し
彼女らの行動とか思いはとてもリアルと感じさせる

企業論理に埋没してしまいそうな男性の価値観とか生活感よりは
女性の方が自由な地に足のついた何かができそうな気がする
だがら、男性は女性の力をもっと借りたほうがうまくいくのではないか
と思ったりする(公平か否かというよりその方が効率的と思う)

気がついたもう一つの本質と関係ない点は、この行動をおこした女性陣は
言い方は悪いかもしれないが、それなりの経済的・社会的立場にいることだ
アメリカ留学で知ることになったシステムとか
幼い頃からデジタルスキルを身につけられる環境にあったとか
みなさんがそれなりのポジション(家庭環境)にいる

人のためとか社会の矛盾をなんとか変えようと思うのは
実は底辺の人たちではできないのではないか?と感じてしまった

あまりにも底辺にいすぎると、そこからの脱出が目標になって
大きな社会の問題点には考えが及ばない可能性がある
現実的にはノブレス・オブリージュに代表されるようにそれなりの立場の人のほうが
社会を広く見て、社会の矛盾にたいして行動していける可能性があるにではないか
(中には強欲な人がいたとしても)

結局のところ、立場立場で個人個人ができることをしていくしかないのだろうが
それなりの立場の人は、、、もう少し頑張らないとアカンかも

例のごとく、まとまらない話!



 

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伝達スピードと変化のスピード

2022年02月21日 10時09分39秒 | あれこれ考えること

方言とかある言葉がどのくらいのスピードで世間に広がるか?
を研究した人がいた(研究は江戸時代だったかな?)
情けないがその結論は覚えていない
覚えているのはそのような研究をした人がいたというだけだが
えらく遅かったような、、(年速10キロとか?)

このような情報の伝達とかそれに伴う心の変化のスピードは
どのくらいなのだろうか?
現代ではテレビとか新聞とかインターネットで瞬時に広がる
と考えられそうだが、実は思いのほか遅いのではないか

特にSNS絡みの情報はどうしても一部の人には広がるが
関心のない人には全く影響を与えない
その情報はとても大事で、みんなが知って一度立ち止まってよく考えるべきだ
と思われるような情報も悲しいくらい伝わらない

その情報が選挙という究極の選択に左右するものでも
いつまで経っても、知る人ぞ知るの状態から抜け出せない
これは情報が肝心なものほどこのような傾向にあるように思える

確かに瞬時に広がる情報もある
誰々が金メダル獲得したという話は感情の高ぶりをもって一気に広がる
その裏話まであっという間に広がる
だが、七面倒臭い真面目な情報はプッシュ型であっても人の心に届かない
格差とか不公平とか不正とか、こうした問題の基礎となる現状認識の把握は
残念ながらすっと理解できるというわけにはいかない
理解するためには背景知識が必要で、その知識を得るには自発的な気づきとか
働きかけが必要だからだが、人はなかなかそうはならない

焦りを感じるのはこうしたことで、例えば市政の予算の使い方とか
(大きく出ると)国政のことでも、明らかにマズイと思われることが出てきた時、
「知ればきっと怒りを覚えるはず!」
と思われることでも、それが知られないために世の中は何事もなく過ぎて行くように思えてしまう
(NHKの字幕問題、維新のヒトラー絡みのイチャモン、自民党京都府連の奇妙なお金の流れ)

「知れば怒りを覚えるはず」が仮にそうでないとしても
それを知ってることと知らないでは大きく違う

残念ながら人が心の持ちようを変えるのは、人から言われた時ではなく
内的な気付きによる時しかない
その気付きのスピードがあまりにものんびりしていると
間に合わないことになってしまうそう、、と不安を覚えるこの頃

ということで、少しイライラが募っている



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成功体験

2022年02月20日 09時41分07秒 | 徒然なるままに

昔の話
出来るときにやっておいて良かった!
と実感するのが小中学生のサッカークラブ(スクール)のコーチ

自慢するもののないなかで、自分には小学一年生のちびっこから
OBの40歳を超えたおじさんまでの知り合いがいることは
少しばかり誇らしかった

体が動かなくなり、だが気が長くなった頃の自分の担当は
小学校1・2年生だった(6年とか中学生は若者の受け持ち)
この時期の子供はたいへんだ
言葉が通じない 集中力が続かない 我儘だ
言えば分かると思い込んでいる若者がコーチ役を受け持つと
カッカしてストレスばかりが募るだろう

時々彼らには「君たちはウルトラマンだ」と言ったことがる
そのこころは、3分間しか集中力が持たないからだが
今どきの彼らはウルトラマンを知っていたかどうかはわからない

今も楽しい思い出がある
「5,4,3,2,1」と最後の方はみんなで声を合わせる
カウントダウンが終わると出てくるのは
「こらーっ!」という叱責
みんなで声を合わせて「こらーっ!」」というのだから
自分たちが怒られていると認識していたかどうかはわからない
ただ真面目にできていない状況の変化を促すには一定の効果はあったようだ

飽きさせないように練習の工夫をするのが面白かった
競わせると彼らは何でも夢中になる傾向がある
その中でキックの感覚を覚えさせるために(足の甲の当てる場所の感覚を覚えるために)
ゴールに向かってパントキックをさせた
それをするだけでは面白くないので、一人ひとりそのトライごとに点数をつけた
「8点」「5点」「10点」
「合計30点になったら休んでいいいよ」
これは盛り上がった
「ねえ、今のは? もっといい点つけてよ」
こうしてムキになって競う
上手な子には利き足出ない方を練習させる

ところが上手くできない子もいる
目の前の子が難なくできているのに、その子はできなかった
目の前に投げたボールが落ちてくる前にキック動作をしてしまうので
ボールに当たらない
そういう子の中には悔しくて、すねて練習から一時的に離れてしまった子もいた

そんなある時、手こずっていた一人の男の子がパーンと
素晴らしいタイミングのキックができた
「できた!」
思わず彼から声が出た
その時の晴れやかな顔、達成感、充実感を感じさせる表情は今もしっかり記憶に残っている
「自分もうまくできた」という感覚と、練習をしていればいつかできるようになるという体験は
その後の彼の生き方にも大きく影響を与えたと思う

上手くできた彼は次のトライは上手くできなかった
「さっき出来たよね、さっきのことを思い出して、一度出来たから絶対できるよ」
彼はうなずく
でも上手くいかない
「できるはずだ、あの感覚をもう一度味わいたい」
彼の心中を大人が想像すればこんなだったと思う

この彼は決して恵まれた運動神経ではなかったが
そのひたむきさゆえに6年にはキャプテンの役を担うことになった
今も思うのは、あの上手くいったときの快感
そして努力すればなんとかなる、、という実感が
彼にとっては最大の経験だったのではないかということで
それはきっと間違いないことだと思う

小さな子でも成功体験は後の生き方(すこし大げさか)に影響する(と思う)
良い成功体験は、勝手に努力する癖をつける
世の中には報われない努力もあるが、ささやかだが内面的に報われる努力もある
何かをなすにはたっぷりの時間のある若者には、良い成功体験味わってほしいし、
その機会を提供出来たらと、おっさんは思う


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笑い声

2022年02月19日 08時53分48秒 | 徒然なるままに

少しばかり意地になってオリンピック放送は見ないでいる
(そもそもオリンピックの現在の姿に違和感をおぼえるので)
だがこれだけどこでも放送されると否応なく目に入ってくる
その中にひどく印象的なものがあった
それは「笑い声」だ

昨日の準決勝スイス戦で勝利したカーリング女子の
どの試合だったかは覚えていないが
みんなが笑っているシーンがあった
記憶に残るのは変なことばかり!というのはよくあることだが
このニュースでは、ある選手のあまりにも屈託のない馬鹿笑いが
ひどく心に残った
(誰の笑い声かは、選手の名前を知らないのでわからない)

大人で、あんな風に子どもの様に、何も気にしないでケラケラと
本当に楽しそうに屈託なく笑う(そう感じさせること)のは珍しく
久しぶりに見たような気がする

笑いは世間とか日常に溢れているが、あの様に笑える人はそう多くはない
こんなふうに笑える人はどういう人だろう?
きっと子どもの心をもった良い人なんだろうな!
と勝手に想像してしまった

感情の発露としての怒りは人間性を現すが
無害な笑いも同様に人間性を現す様に思える

本当にあの馬鹿笑いは人を幸せにする力があった
と思うのは自分だけだったのだろうか?

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