パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

もったいない、、、

2018年02月28日 08時36分52秒 | 

大学生の一日の読書時間がゼロの割合が5割を超えたというニュースがあった
分別くさく、そうした彼らの未来を憂いたり嘆いたりはしない
そのかわり、もったいないとか損してるのに、、とは思う
お酒を飲まない人や、囲碁を知らない人は人生の楽しみを知らない人だといわれるが
読書の楽しみを知らないのはそれらに匹敵する

本を読むと、勝手に頭の中に浮かんでくるイメージ
実体験をしなくてもしたような気分になれる経験
知らなかったことを身につけていく充実感
何をいわんとしているか、なんとなくわかってくる感覚
それらは、一度手にしたら離したくない楽しみだ

大学時代にこの本と出会った

コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」」だ
今、翻訳者の名前をみると福田恆存の名前があって驚いたが、
この本に載っている作家の本をまるでリレーのバトンタッチのように読んだ
その中で、ヘッセと出会ったのは本当に幸運だったと今でも思う

この読書時間について、読まない人の数は増えてるようだが読む人の読書時間は伸びているらしい
おせっかいながら、一言「知らない間に差がついてしまうぞ、、」
でもその前に、本を読まないなんてもったいない

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予算に反対は可能か

2018年02月27日 09時39分04秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

世の中には知っていない事が多い
いい歳をしてそんなことも知らないのか!といわれそうなことでも
知らないのだから仕方ない(少し恥ずかしいが)

そんな中に市議会の進め方がある
何回か市議会の傍聴に出かけているのでだいたいの流れはわかってきた
わかってくると、なんだこんなことか!
とがっかりするというか呆れるのが議決だ
議員さんの最大の仕事の議決だが、この大半は審議するまでもない内容
例えば国の法律が変わったのでそれに合わせて市の条例も変えたりとか
住所の表示が変わったりするのを認めるとか
こんなのは誰が議員さんになっても同じ選択をするしかない
ただそういう過程を踏まないとダメだから踏んでいる儀式のようなものだ

誰でも同じ結論を出さざるをえない議案を議決する
そんなことだけが議員さんの仕事ならば、市議会選挙で地元の声を聞きますとか
市民のために、、とか威勢よくアナウンスされたことが虚しく響く
しかし、議員さんが議員さんの働きをしっかり発揮すべき機会がある
それは予算に関する議決だ
市民の税金の使い方に対して適切かどうかをチェックし、審議し、議決するというのだが
現実を見ていくと、これがなかなか文字通りの機能を果たしていないように見える
予算は、議員さんの所属する委員会からも要望という形である部署で予算計上されるが
大半は行政(市長の予算提案権)となっている
そして3月に行われる予算の決議は「一括で」賛否が問われる
予算の内容を詳しく見ていくと、どうも腑に落ちない部分があるが、その他は問題ないという状況は容易に考えつく
そしてこの腑に落ちない部分が予算のかなりの金額を要する場合は、提案された予算を認めたくないという状況が起きてくる
抽象的な話ではなく、新城市の具体的な例をあげると、新城市は新東名高速道路経由で名古屋直行バス(長久手)事業がある
この事業は新城市の定住人口確保と交流人口を増やすために行われているが
始まる前からこの計画の優位性や効果、他の交通機関との競争力が不安視されていた
それでも最初の年は良かった
というのはこの事業に関しては市はお金を使っていなかったからで
最初の年の7月から次の年の3月までのバス会社に対する業務委託料金や、バス購入費は
国からの補助金(交付金?)6000万円から賄われていたからだ
それでも、想定した乗客数に達せず結局市はバス会社から不足分の800万円を請求されることになった
そして2年目の去年、この年は国の補助は業務委託費の半分の1700万円となり
残り半分は市が支払うことになった
この新東名高速道路経由のバス事業については利用者数が少なく
本当にこのまま事業を続けて良いものか、、との声が昨年の議会報告会の各会場でも聞かれた
そして来年度、今度は国の補填はほとんどなしで3700万円のほとんどが市の負担となる
問題はここで、既に予算案としてこの数字は出されている
議会報告会でも問題視され、一部の市民からはよく考えたほうがいいとの声が出ているこの事業を
この予算案が出るまでとくに議員間で審議されることなく今に至っている

ここで、この事業予算に反対するということが現実にできるかどうかを想像してみる
まずは現実にやめることに支障はないか、業務委託のバス会社との契約をみると
途中解約(31年度まで行うことになっている)でも、それに伴う費用は発生しないとある
つまり、やめてしまってもバス会社とのトラブルは起きないということだ
ところが、既に出てしまっている予算案に対して「この部分だけ」反対をしたいとしても
予算案は「一括」で議決することになっており、この部分を強行に反対すると
今度は来年度の予算が決まらなくなってしまう
すると、行政は成り立たなくなってしまう
この状態は避けなければならないということで、常識的には結局のところ「一括」のために
このバス事業は認めざるを得なくなる

しかし、何か変だなという思いを捨てることが出来ない
何かが欠けているのではと思い、議員経験者の方に議会のシステム等について聞いてみると
確かに一括審議で予算は議決されるが、個々については付託された委員会で質疑の後、討論というかたちで審議される
もっとも、それも結果的には議員間の力関係の問題で「反対討論を行ったとか議事録に残った」
ということしか抵抗の姿勢は表せないのだそうだ
もしかしたら市民が望んでいるかもしれないことが、結果ではなく「議事録にのった」という形で終わって良いものか
これは少し不満を覚えるが、行政のチェックをすべき議員を選んだのは当事者である市民なのだから
それも仕方ない、反省すべきは市民の方にもある、、の結論は、、少し考えてしまう

行政はバス事業のようにいろんな事業を数年間かけて行う
こういう場合、初年度に計画したものが採算性・効果が見られないとしたら、どこかで見切りをつけることをしないと
いつまでもダラダラと損を重ね続けることにならないか
一般企業なら容易に思いつく事柄が、何故か行政は奇妙な概念や都合のよい数字を使ってその事業の継続を求めたがる
そして、現実にいま出ている赤字の部分の責任の所在や原因は不明となる
そして、いったん決めてしまった事業は、何が何でも継続されるしか手はないように思えてしまう
だが、これにも手段があって議決で予算にゴーサインを出すときでも「付帯決議」をつけることによって
あるいは、その事業の評価を判断し決断を下すという項目を何処かに書き込むことによって
無差別な継続事業は抑えられるかもしれないとの声もあった
だが、これも前提として議員さんの熱意とか知識とかレベルの問題が関係する

でもその議員さんのレベルの向上を促すのは、何なんだろう
市民力の向上?それとも議員さんの自覚?
なんだか鶏が先か卵が先かの問題になりそう
理想はあっても現実は、、、、
(今まで新城市議会ばかり傍聴してたが、他市の議会も傍聴したら何を感じるか気になるので
 明日は豊川市議会の一般質問の傍聴に出かけるつもり)





 

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その人の性格にあったやり方(それには自分を知ること?)

2018年02月26日 09時51分34秒 | あれこれ考えること

平昌オリンピックが終わった
感動の押し売りみたいな、人間ドラマを過剰に演出するテレビは
メダルを日本選手が獲得して嬉しくないはずはないのだが、少し引いてしまう
どの国のどの選手も背負っているものがあり、壮絶な努力があり、それを支えてくれている人たちがいるということ
それでいて勝利の女神が微笑むのはたった数人だけという事実
またの機会というものが存在しない可能性、一回限りの運命のような白黒をつける勝負の厳しさ
それを受け入れる選手自身の気持ちの整理の仕方、、(特に良い成績ではなかった人の)
これはどんなものだろう
一方メダルを獲得した人、多分人生はメダルをとってからのほうが長い
メダルをとったことが人生のピークとならないことを望むしかない、、

ところで、カーリング(またもや)のある選手のメンタルコントロールのことが報道にあった
例えばミスをした時には無表情を装い、平静にしているべきと思っていたが
後悔の念や悔しい、落ち込むといった当たり前の素の感情を受け入れることによって
前に進めるようになるという考え方もあって、それが役立ったという内容だ

話はいきなり飛んで、社会人の仕事上の目標について
目標は高く掲げてそれに向かって計画的にコツコツと積み重ねるべきとの考え方があり
それは自己啓発でも推奨される
サッカーの本田などはこの考え方の典型で、その意志の力には恐れ入る
もう一方、高い目標は余りにも非現実的すぎるように思える人は、
まず目前のちょっと努力すると叶えられるハードルを設定する
そしてそのハードルを超えたならば新たにハードルを設定してそれを繰り返す
その結果、気づいていなかったところまで達することができる

この2つの考え方は、どちらが正しいか、現実的かといえば一概にいえないのではないか
どちらかと言えば、前者の考え方をすべしとの意見が多そうだが、軟弱者の自分は
本当にそうなのだろうか、、と思っていた
まともに議論するととても勝てそうもないけれど、、
でも、なんか違う、、と思いはなくすことが出来ないでいた
グダグダと考えていたが、あるとき浮かんだのが
その人の性格にあった考え方を選択することがベストなのではないかということ
遠い目標を掲げてコツコツするのが得意なタイプのひとはそのやり方で
目の前の課題を一つ一つくなしていくのが得意な人はその方法で
それぞれが取り組めば良いのではないか、、と

ここで話は戻って、自分の素の感情を受け入れることについて
後悔する気持ち、落ち込みそうな気持ち、反対に爆発的に舞い上がる気持ち
そうしたものをいったん受け止めてるというのは、とても素直な感情の持ち方だ
(味方にも相手に対して失礼のないような態度を取るべきとする人には受け入れがたいかもしれないが)
この素の感情を受け入れた人でも実際には表に出る表情は平静となっているとしても
それは単に感情表現の技術上の問題となっている

いつものように変な話になりつつあるが、例えば人は「死」を恐れる
先日も知り合いの方のお母さんのお葬式があって、普段考えたくない「死」を
否応無しに意識することになった
「死」を恐れない考え方を無理やり理屈の上で考える、、
でもそれは無理じゃないか、、と思う
ならば、恐いことは恐いと認めて、そしてその思いの中から発生する感情に委ねる
できることは実はそれくらいしかないのではないか、、
ここで肝心なのは、自分とどのように会話をするか、、という問題
結局のところ「自分探し」をしてからでないと、良い選択は出来ないのではないか、、ということ
自分との対話、、自分探し、、
少しばかりロマンティックな結論(?)だが、これが肝心ということ
大好きなヘッセの「シッダールタ」は内面への道のシリーズで
この小説からおおいに影響を受けた結果かもしれない
ところで、最初のカーリングの話とどう結びつくのだったかな
全然関係のない話になってしまったが、いつものこと、ま、いいか!


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監督のカラー

2018年02月24日 21時07分20秒 | サッカー

久しぶりにグランパスの試合をDAZNで見た
開幕戦の今日はガンバ大阪との戦い(結果はグランパス3−2ガンバ)
風間監督のサッカーは面白いけど、守りがどうかな、、と思ったが
流石開幕戦は集中出来ていたのではないか(2点取られたけど)

それにしても監督のカラーはあるものだ
パスを繋いで、相手を崩して、攻撃中心の試合運び
少しばかり川崎フロンターレを思い出してしまった
グランパスの風間監督は去年に続いて2年目
そのサッカーに選手が慣れてきたのか、今まで慌てていたパスも今日は落ち着いて
繋いでいるように見えた
和泉、青木など走力もあって、元々こんなにいい選手だったのか?と見直すほど
(練習方法がどこか違うのかな)

でも、やっぱりすごいなと感じたのはジョー
何か普通にすごい
身長もあってフィジカルも強く、とっさのパスにも対応、おまけにキープ力があって落ち着いている
ブラジル人の凄さというのを改めて実感
そうだ、シャビエルもいい選手だ
パスの質、ドリブル力、そして守備意識(必死に戻っての守備とか)
この分ではけが人が出なければそれなりの成績は納められるかもしれない
と同時に、今年は生で何試合か見に行こうと決めた
風間さんのサッカーは、面白い
ベンゲルさんとは少し違うけど、またグラウディオラとも違うけど、どこか相通じるところがある感じ
(自分が中学のコーチをしてた時は、点はしっかり取るけど守りがダメだった、なんか昔を思い出すな)
とにかく、前半で波に乗れば降格なんて心配はしないで済むから、まずはスタートダッシュ
次の相手は、、どこだったかな、、

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何かを食べてる光景

2018年02月22日 08時46分00秒 | 徒然なるままに

またもやオリンピックのカーリングの話
競技途中のおやつタイムが話題になっている
真剣勝負の真っ最中とは思えないほどのほっこりした雰囲気
(同じおやつタイムでも男子はそんな雰囲気が感じられない?)
何かを食べてる光景というのはどこか人を安心させる

以前、勝手に「幸せの定義」を考えたことがある
「一日のうち最低一回は家族で食事をすることができる」
これが自分の思いついた幸せの姿
多分いちばん幸せだったのは子供の頃のこと
その時は(自分の家庭では)祖父母、父母、兄弟が一緒になって
その日の出来事や他愛もない話を、何か結論を求めるなんてことはなくて
ただただおしゃべりしていた

恋人同士がまず食事に行くというのは、楽しい時間を共有できるというだけでなく
この食事するという行為のもたらす効能を無意識のうちに感じているからではないか
1人で食事するより誰かと一緒に食事するそのほうが精神的にも良いらしく
それが出来ない人は鏡に写った自分と食事する方法も何かで提案されていた

結局のところ、家族一緒の食事を削る価値のあるほど重要なことはそんなにないかもしれない
でも現実には、一緒に食事するということが出来ない家族は少なくないだろう
単身赴任とか都会の学生生活で離れ離れになっているとか、運命のいたずらで孤独な生活を強いられているとか
でもそんな場合でも、できるだけ誰か一緒に食事するする時間をつくるということはきっと良いことだと思う

この食事の効能を思うと、イタリアとかフランスとかロシアの長い時間をかけた食事というのは何となく分かる
反対に便利この上ないがファストフードという考え方も少し考えなくてはいけない、、と思ったりして
それにしても、パンダもそうだが何かを食べてる光景というのは、緊張感がなくて、、良いな

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集中した表情

2018年02月20日 08時53分15秒 | 徒然なるままに

オリンピックでカーリングが今のところ良い成績を納めているようだ
この競技、真面目に見たことはないのでルールがいまいち分からない
他の競技と同じように結果だけを見て、喜んだりがっかりしたり

テレビの中継画像はストーンを投げる人のアップが多い
投げた瞬間から数秒間投げた人のそれこそ集中しきっている表情を映し出す
画像はそれぞれの国の局が写すものか、オリンピック関係の組織が写すのかわからないが
特に女性のゲームの場合、どの国も美しい方が多いのでじっくり写す
これは男としてそうする気持ちはわかるし、正直言ってありがたい

ところが投げ終わったあとのインタビューとか普段の表情と比べると、競技中の方がきれいに思えてしまう
一心不乱に集中してほかのことは何事も考えていない表情は、テレビ画像の表しうるもっとも良い映像かもしれない
集中しているひとの表情はどこか違う
羽生結弦も、小平奈緒も、リオオリンピックのバドミントン高松ペアも、大相撲の日馬富士・白鵬も
自分の内面だけと会話しているような表情は、それだけで結果をも予想できるかのようだ
(カルガリーのキム・ヨナの集中力もすごかったな)

画像を見てその人の精神状態を想像する
それは見る人の思い込みかもしれないが、案外そうとは言い切れない共通の感覚を人は持つのではないか
その具体的な内容は分からないにしても、通常ではないことは感じ取れる
この感じる、、という感覚
これがなかなか馬鹿にできないコミュニケーションのツールになっている
テレビ画面を見ただけで、説明がなくても悲しみに打ちひしがれている人や
反対に歓喜に溢れているひともなんとなくわかる
それは経験を重ねるということによって身につけるものか、最初から備わっているものかなかなか分からないが

コミュニケーションは、人は言葉という道具を持つだけにそれが優先されそうだが
言葉以外のコミュンケーション、感じる力というのは案外馬鹿にできない
音楽を(言葉のない)多くの人が聴いて、同じような印象を持つというのは当たり前のようだが
実は一人ひとりは経験・生き方も違うので、それでいて同じような捉え方ができるのは少し不思議

でもこんなことは、真面目にごちゃごちゃ考えることじゃなくて
今日は、カーリングの女子のストーンを投げる人がかわいいいとありがたい、、というだけのお話
ホント、男ども(カメラマンは多分男だろうが)しょうがないな
国別・地域別に好みのお顔は違うようだけれど、それでも大半の人がかわいいと思うようなお方は
じっくりアップで映されている

ということで、無責任などうでもいいお話、、

 

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勝負の予想

2018年02月16日 08時17分01秒 | 徒然なるままに

「(オリンピック)なかなか金がとれませんねえ」
ある人が言った
「日本人だけが努力してるわけじゃないし、それぞれに背負ってるものもあるし
挫折を乗り越えてるだろうから、神様のさじ加減ひとつだね、きっと」
「ほんと、そうだよね、風があったりなかったり」

こんな会話をしてたら不意に「柔」という歌の歌詞を思い出した
「勝つと思うな 思えば負けよ 負けてもともと、、、」
昔から変な歌詞だと思っていた
奥ゆかしいかもしれないが、勝負事にこんな態度で臨むのは良くないのではないかと
今の感覚からすれば、勝負は勝つことを自ら信じて気合を入れて臨むというところ
大相撲での仕切りをしている間に集中の度合い・気合がたかまっていくのがよく分かるし
たいがい集中しきったほうが良い結果を引き寄せる
多分外国でも、勝つことを念頭において勝負に望むことは多いだろう
やる前はみんな、勝つ!と言い切る

昔、ラジオで中日ドラゴンズ対読売ジャイアンツの試合の勝敗の予想を聞いたインタビューがあった
答えた人はドラゴンズを応援する人、、でも答えは「きっと巨人」
この様に答えた人は、少なくなかったと記憶している
勝つと信じていて負けるとショックが多いので、その時のために淡い希望しか持たないようにしている
それが精神衛生上に良いと思っているのだろうと勝手に想像した
そして中部地区の人はこういうタイプの人が多いのだろうと

ところが、これを阪神ファンの人に聞いたらどう答えるだろうかと考えた
実際にそうしたインタビューはあったかもしれない
「巨人と阪神と、今回の試合どちらが勝つ?」
毎年Bクラス、優勝の夢などはゴールデン・ウィークであっという間に消え去ったような弱い阪神の時代でも
「そりゃあ、勝つのは阪神に決まってる」
たしかそのような答えが多かったような記憶があるし、なんとなく彼らならそう言いそうなイメージがある
関西人は、中部地区の人のような弱気なことは言わない
実際は地区で人の性格が分かれているなんてことはなく、個々の性格の違いなんだろうが
イメージとしてはこう思い込んでいる方が面白い(本当かどうかは別にして)

さてテレビを見ながら応援してるひと
どんな予想をしながら見てることやら
(自分は人間ドラマを過剰に演出するテレビには辟易するので結果だけ見てる)

 

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マットの有り無しで音は変わるか

2018年02月15日 10時19分17秒 | オーディオ

レコードプレーヤーのターンテーブルマットを購入した
最近はレコードを聴くことが多くなって、CDの音よりは気に入っているが
若干高い音がヒステリックに聞こえ気味なので、なんとかならないかと思っていた

オーディオは凝る人は病気のように凝る
何かを少し変えただけで音が変化するものだから、その音に耳が慣れてしまうまでは
その違いが嬉しくて、ついついもっと何かを、、と求めてしまうのだ
幸い自分はその病気にはかかっていない
一番の理由はお金がないという現実だが、それでも、普通よりはちょいと良い装置の部類かも知れない
レコード絡みの装置はノッティンガムの中古のプレーヤー、
EARのフォノイコライザー、真空管300Bのプリメインアンプ(C&R製)
スピーカーはタンノイのこのタイプでは一番求めやすいスターリング

上も見ればキリがないので、諦めとか我慢というのが身についているが、それでもそんなに高い金額でなくて
音が変わるかもしれないという誘惑からは逃れがたい

というわけで、ささやかな贅沢をした
期待するような、しないような
例え音が変わらないとしてもがっかりするのはやめよう  と小心者は覚悟したが
ありがたい  音は、変わっていた  というかより好みに近い音になった
高い音の刺激的なところがなくなっただけでなく、低い音もどこか余裕のある音に

それで嬉しくなってオリンピックは見ないで何枚かレコードを続けざまにかけた
これで暫くの間は、新鮮な気持ちで楽しめそう

購入したターンテーブルマットは、Orgin Live(という製品名だと思う)

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佐川さんとアイヒマン

2018年02月14日 08時12分05秒 | あれこれ考えること

佐川宣寿国税庁長官(前財務省理財局長)の交渉記録は破棄したとの国会答弁に対する批判が強まっている
中小企業の経営者の、一言嫌味を言ってみたい気持ちもよく分かる
国税庁官の抜擢が適切だったかは、実績だけでなく諸般の実情に合わせて判断すべきだが、おえらいさんは
そんな庶民の感覚はとんとお持ちでないようだ
再度の国会招致を野党が求めても委員長は「後日委員会にて協議します」というが
現実にはその委員会を仕切るのは与党の方々で
形式的にそう答えただけになっている
こうなると佐川さんの罷免を求める署名がとんでもない数字になるとか外部の力がないと
やりたい放題になってしまうかもしれない

ところで、佐川さんの味方をするわけではないが、あれらの国会答弁
もし佐川さんではない官僚のひとがあの立場にいたならどのような答弁をしたのだろう
国家公務員法によれば職務上の上司の命令には従うことになっている
そして官僚さんというのはウェーバーによれば、没個性的に仕事を行うと説明している
ならば、誰であってもあのように答弁したと想像するのはあながち間違いではないだろう
(その答弁における態度とか表情とかは個人的な差は出てくるだろうが)

自分がやらなくても、他の誰かがやっただろう、、
これはユダヤ人を強制収容所に送り続けたアイヒマンの言葉
彼は職務上の命令された仕事をしたにすぎないという
ハンナ・アーレントの「イスラエルのアイヒマン」によればアイヒマンは上昇志向の強い人物で
同僚の出世には嫉妬を覚える人物だとのこと
そんな人物はいつでもどこでも見ることができる
多少問題があるとしても、問題自体に自分が判断するような関わり合い方をするのは避けて
ただ命令されたことをする、そしてそのことが確実に自分のステップアップにつながるとしたら
人は世間が望むような正しそうな判断をすることができるのだろうか

これはとても難しい問題で、どんな意見が出ても「ああ言えばこう言う」
といった議論の応酬になりそうだ
しかし「イスラエルのアイヒマン」最後の以下の文章は(100分de名著のなかから抜粋)は
平凡な自分でも納得できる内容になっている

「君は戦争中ユダヤ民族に対して行われた犯罪が史上最大の罪であることを認め、そのなかで君が演じた役割を認めた。しかし君は、自分は決して賤しい動機から行動したのではない、誰かを殺したくなったこともなかったし、ユダヤ人を憎んだこともなかった、けれどもそうするよりほかはなかったし、自分に罪があるとは感じていないと言った。われわれはそれを信じる事はまったく不可能ではないまでも困難だと思う。(中略)

君が大量虐殺組織の従順な道具となったのはひとえに君の不運だったと仮定してみよう。その場合にもなお、君が大量虐殺の政策を実行し、それ故に積極的に支持したしたという事実は変わらない。というのは、政治は子供の遊び場ではないからだ。政治においては服従と支持は同じだ。そしてまさに、ユダヤ民族および他の多くの国の人民たちとともにこの地球上に生きることを拒むーーあたかも君と君の上官がこの世界に誰が住み誰が住むべきでないかを決定する権利を持っているかのようにーーー政治を君が支持し実行したからこそ、何人からも、すなわち人類に属する何人からも、君と共にこの地球上に生きたいと願うことは期待できないと思う。これが君が絞首されなければならぬ理由、しかもその唯一の理由である。」

ユダヤ人の虐殺と佐川さんの答弁とはその重みとか意味合いは違うかもしれない
しかし、「こんなひとと一緒に生きる世界は、、嫌だな、、 」という感情をもってしまいそうなのも
残念ながら事実
でも本当は佐川さんも、ちょっと上昇志向が強いだけの頭の良い優秀すぎる人物なのかもしれない
彼の上司が、素晴らしい人物だったら、、彼も、彼の家族も、、自慢できる生き方をできるのに、、
何事も、上に立つ人次第ってところ、、
何かと問題の多い新城の市政も
 

 

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「イギリス人の患者」一気読み

2018年02月13日 19時06分12秒 | 

読書はそんなに速い方ではないし、速く読むものでもないと思っているが
昨日から読み始めた「イギリス人の患者」(イングリッシュ・ペイシェント)は一気読みした

速読のせいで細部は勘違いしている面がないとはいえないが、この様に一気読みするのは
まるで映画を見ているかのようで、それなりの楽しみ方かもしれない

この本、実は再読となる
先日「失われた時を求めて」を読んでいた時、今「イギリス人の患者」を読んだら
どんな印象を持つのだろうか?と不意に頭に浮かんで、あの場所にあるはずと本棚から引っ張り出した
しかし、映画にもなって、映画になる前に読んだものだから自分に先見の明があったと自慢したくなるのだが
情けないくらいに記憶に残っていない
記憶に残っているのはヘロドトスの「歴史」からの引用があったぞ、、とか、人の首の下のへこんだところを
何というのだった、、とか、負傷した人物の不倫現場の一シーンくらいなもの
せいぜい僅かに文章が詩的な感じがした、、というくらい

ところが、映画も見たこともあるかもしれないが、今回はテンポよくページが進む
映画だけのせいでもなく「失われた時を求めて」の困難な読書で鍛えられたからかもしれない

読み返して少し驚いたのは、看護婦さんのハナがほとんど中心となって小説が進められていたことだ
記憶の中では負傷したイギリス人の恋愛がメインとなっていた印象があったが、本ではあっさりとした扱いだった
これは映画と原作の違いで、映画ではわかりやすい不倫の恋愛の方を重視したのだろう
映画で中心人物だったハナを演じたのはジュリエット・ビノシュで有名な女優さん
(「存在の耐えられない軽さ」とか「ショコラ」とか「ダメージ」とか出ててなんとなく好きなんだ)

この本はヨーロッパ人の作品だと感じる(作者のM・オンダーチェはセイロン生まれだがイギリスで育ち、カナダに移住した人)
通奏低音のように響く過去の時間への後悔などは、「失われた時を求めて」とかカズオ・イシグロの作品に通じるところがある
そして細かな心理描写によるビルドゥングス・ロマンの伝統とイギリスのスパイ小説を絡めたようなあらすじ
でも今回びっくりしたのが、このヨーロッパ人になりきれないシーク教徒の突然の行動の原因が「広島・長崎」の原爆投下にあったことだ
そして日本についても2箇所くらい嬉しくない取り上げ方をしていることは前回は全然気が付かなかった

人は物事に関する感じ方が変化する
年齢を重ねないと、実際に体験しないとわからないことがある
同時に年齢を重ねることによって失っていく感性もある
残念ながら今の年齢ではいろんなことに新鮮な感覚をもって感じることはできず
何か感じたとしても直ぐに経験した何らかのパターンのなかに納めてしまおうとする
そしてわかった気になって安心する
それは確かに残念なことだが、年齢を重ねてわかるようになったことは、悪いことばかりではない
例えば「人の気持ち」とか「人の弱さ」というものも理想とすべきものとは違うが、「仕方ない」と思えるようになり
それはおそらく、生きるための知恵となっているような気さえする

ということで、「イギリス人の患者」を読んでも結局は自分の感じ方の話になってしまった
もっともそれは好ましいものではないというのではなくて
印象とか内面とはそういうものだ、、とプルーストの「失われた時を求めて」では言ってたから
こんなものかな、、

この本、発行されたのは1996年とある
もう20年以上も前だが、取っといて良かった

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