パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

21世紀の資本、読書中!

2015年01月30日 18時57分28秒 | 

ピケティの「21世紀の資本」

思いの外読みやすいと思ったのは少し前の話
最近は一日に20ページ位のペース
歳のせいで昨日の記憶が怪しくて
それまでの話が何だったのか?といった寂しい状態

それでも半分くらいは読んだとは言わないが
とにかくページを捲った

この本のタイトルが、「21世紀の資本」で
「21世紀の資本論」
つまり「論」の文字がないのはうなずける

確かに数式は出てくるが中心となるのは
膨大な資料・データによる現状や過去の分析
それは論ではなく、報告の部類

この人が格差について関心を持って
この現実を放っておけないのは人として
信用するの値するように感じる

さて今日読んだところは所得と資産の
上位1%、5%とその反対の人々との比較
これはこうして実際に数字に表されなくても
薄々皆が感じていること
それが、はっきりと公言されたことは大きい

そしてこの現実を目の当たりにして
自分に起きた感情は、何か怒りに似ている
スーパーな経営者がとんでもないような所得を確保する
それを自分は羨ましいと感じるよりも
まず先におかしいのではないか
と怒りを感じるということ

もちろん、自分がスーパーな経営者の立場になるようなことがあったら
なにもそんな風には感じないかもしれない
しかし、今は、というより絶対にそんな存在には成れないから
僻みも含めて批判的な感情のほうが先立つ

もともと小市民の自分は、勝ち組になるためのメンタリティは無いし
そのたぐいの人になりたいという意志が無い
そんなことよりももう少し別の方に興味がある
それがなんであったかはさておき、、、

話は急に飛んである時ビル・ゲイツの資産は4兆円
この4桃円と言う数字を具体的にイメージするには
毎日1億円使えば一年で365億円
10年で3650億円ちょっと
そして100年で3兆6500億円と少し
つまり毎日1億円を100年間使い続けられるということ

しかし凄いなと感心するより
なんか馬鹿げてるとしか思えない
国家予算よりも大きな資産を持って
どうするのだろうと考えてしまう

もちろん寄付や慈善団体を作って
社会に有益な活動をしているとされているが
それでも、膨大な金額が少数に集約するのは
どこかまともでない気がしてならない

富める者の弱者へ実際に行動を起こす
優しい眼差し
そうしたものが今は欠如していないか
勝ち組になることがアメリカンドリームみたいな
幻想に皆がとらわれていないか

スーパーな経営者の報酬は
努力の証、成果の正当な報酬
それを簡単にそんな風に言い切ってはいけない現実がある
今は単純にアメリカンドリームを実現できる世界ではない

それにしても、日本ではこの手の本が出てこないのは
少し残念だ

 

 

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いい話なんだけど、素直に聞けないのは何故だろう

2015年01月29日 19時48分20秒 | あれこれ考えること

むかしから自己啓発の類は好きではなかった
書店でもその手の書籍が人気になった時でも求めなかった
良いことを提案されても素直に聞けない自分を感じていた

最近妙に感じることがある
話を聞いたり書いたものを読んだりすると
確かにまともないいことを言っているのに
どうしても素直に聞けない自分を感じてしまう

物事を成し遂げるには思いが必要
未来の子供のために、何をすべきか、、、
確かに反論の余地がない立派な事柄
しかし、それでも正直なところ
なにかどこか違うと感じてしまっている

これはいかん!
素直に言葉通りに聞かねば
と思い、素直に耳立てている人と比べて
自分はなんとへそ曲がりなんだろうと思ったりする
しかし、どうしても気持ちを訂正することが
できないでいるのが現実

そこで、もう少し何故なんだろうかと考えてみた
この手の良い話、つまり素直に聞くべき話は全て
話す人から直接聞いた
多分人の印象とか評価というものは
話の内容ではなくて、その人の発する雰囲気から判断するもののウエイトが高く
話を聞く前に自らの偏見に左右されそうだ
つまり、なにか妙だと感じた瞬間から素直に聞けないでいる

しかし、その個人的な印象は果たして一般化できるほど
正確?なものかと言えば、それはとても客観的に自慢できるものではない

自分はパパゲーノが好きだったり、パンダのドジぶりや
グデタマのゆるい感じが好きで、
落語でもちょっと憎めないしょうもない人間が好き

立派に努力する人、イチローなどは偉いなと思いつつ
真に共感できないでいる
同じ目標設定組でも本田圭佑は何故か好きだから
目標の立て方や、日々の暮らし方への取り組み方を
遠ざけたい気持ちだけが理由ではなく
やはり第一印象によって心が受け入れるか
受け入れないかを決めているに違いない

と、ここまで、屁理屈を述べても
自分がいい加減で努力しないのは変わらない
それじゃいかんと思いつつも
それでいいのだ!
とも思ってしまう

もっとも、若い人は自分みたいじゃいけないだろうが



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新城市新市庁舎、住民投票について

2015年01月27日 20時16分28秒 | あれこれ考えること

今日の中日新聞に掲載されていた
先日の住民投票を実施しようとするグループの動き
自分はその会合に出席したから
この立場の人間の気持はよく分かる

確かに、そんなに広くて費用のかかる建物が必要か
どうかは疑問だ
ということで、昨日の月曜日、知り合いで頼みやすい人たちの
少し話をしてみた
すると当たり前といえば当たり前だが
実に様々な意見を聴くことができた

ひとつは、今更住民投票をやっても、その結果に拘束力がないし
時間的にももう間に合わないのではないか
もう何をやっても変わらない

声を上げるなら、なぜ今なんだ
もっと前に上げるべき

広すぎるという意見もあるが、JCにも
新市庁舎をどう考えるかという検討会があって
単なる事務処理の場所だけではなく、何かあった時の
避難場所としてのスペースも必要と感じる
と言う意見もあった 

建設費が高いというが建物が高いのではなく
免震が高い
耐震ならもう少し安くなる

議員たちは何をしてるんだ
八名の産廃の問題だって、どんなこと反対をしても
もう進んでしまっているのではないか 
決まったことは、進んでいってしまうしかない

こうして、考えると議員さんがよく考えたのか
が問題となる
そこで、ホームページで
市議会の議事録を新市庁舎の言葉で検索してみると
自分が見かけた議事録は飛び飛びで
そんなに詳しく検討されてはいない様子 

とにかく新市庁舎を建てます
斯く斯く然々の目的のために広さを確保し
交通の便も良いものと考えるとか、、、

探すのが下手だったせいか
中身がある討論というより報告といった感じしか
見つけられない

今になって住民があれこれ言っても
というが、住民なんてそんなもの
自分の問題と感じて初めて動き出す
最初は入船の立退きのなる人々の反対から始まっても
他人事と感じていた人も多かった

そこで場所の検討についても
バイパス、新城駅前、現在地の検討が行われたが
議員の意見で現在地の決定

市会議員は我々市民の代表だから
彼らの意見は我々の意見
と考えるのは、そうかもしれないが
そう簡単にそうだと言い切れないのも事実

誰も建て替えてはいけないとは言っていない
ただ、もう少し実情にあった物を考えてみてはどうか

見積もりも約50億
これが適切かどうかは誰もわからない
積算ができる市の人間はいないのではないか
だとすると、市はこの金額が正しいものかどうかは
どのように判断したのか
施工業者以外の第3者機関に見積もりの妥当性を
チェックしてもらうようなことは行われる(行われた)のだろうか

今の時代は何もかもが専門的に分化してしまって
なかなか全体を把握することが出来ない
だからそのブラックボクスを利用して
いい加減に進めてしまえ!という連中も存在しないとはいえない

そこまで悪く考えないとしても、もう少し識者が
つまり市議会議員が中身のある討論をしてもらいたかったな
が実感

住民が何かを決めるのは、代議員制度の否定につながったり
批判になるかもしれないが、国も市も本当に庶民の気持ちを
反映しているかは大いに疑問

国会議員も市議会議員も、一旦なってしまうと
その行動はよっぽどの人でない限り、その独特な仲間内の
雰囲気に飲み込まれて変わってしまうようだ
そしてそのくらいのことができない人は
政治家にはなれない
つまり当選できない

困ったものだ

ところで、話は変わるが自分が話を持ちかけて
直ぐに諦めてしまったり、どうせ変わらない
と口にだす人の職業を探ってみると
それは公務員的な仕事の人が多い


彼らは知らず知らず、波風をたてない
変化を求めない、自分が苦労をしない行き方を
選択するようになっているとしか思えない

長年の仕事における行動は
自分の生き方までにつながっていることに
自分も含めてどれだけの人が気づいているのだろう

さて話は戻って、結果がどうであれ市民が真剣に
新市庁舎のことを考えたり、市の財政状態を理解することは
面倒だけれど、結果的には良いことだと思う

自分はできることをするだけだ 

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新城市の話題2件、軽トラ市と新市庁舎問題

2015年01月25日 21時41分16秒 | あれこれ考えること

新城市の第4日曜日は市の中心地で軽トラ市が開催される
今日もいつものつもりで、キムチと惣菜と何かを購入の予定で
出かけると、なにか雰囲気が違う

まず駐車場が確保できない
最初近くのピアゴで買い物をしようと思ったが
10時半の時点で駐車場は満杯
何事があるのかと思い、そこは諦めていつもの
市役所東の駐車場に出かけてもやはり満杯

どうなっているのだと、少しイライラしながら
文化館感の駐車場に止めて現地に出かけた

ところが

なんという人出
いつもなら楽々歩ける道が人とぶつかってしまいそうな勢い
店も順番待ちの人が並んでいる
早くも商品が無くなったところもある

一体何があったんだ

のんすけのいる場所で商工会のメンバーにこの人出の理由を聞いて着ると
どうやらテレビでこの軽トラ市の紹介があったせいとのこと
番組はCBCテレビの花咲タイムズ
そういえば先月確かにCBCのテレビが取材しているシーンを見かけた

結局、放送されたのが昨日なのかもっと前なのかは分からないが
テレビの影響ということには間違いがなさそう
改めてテレビの影響力は大きいと実感

しかしmこれで来月はどうかというと
きっと元通りの人出
今日良かったから来月も来てくれる
これが理想だが、テレビで集まった人はフットワークは軽いが
固定客にはならない

本当は着実な人出のアップが望ましいのだが、、
でも、話題になった分だけ主催者としては儲けものか

そして今日の後半は
新城市の新市庁舎の建設の問題

これは従来から少し話題になっていた
最初は新市庁舎の建設場所の問題
立退きになる人々の不満から問題が発生した

現在、視聴者の基本計画の見直しを問う住民投票を行おう
と言う動きがある
彼らの話は極めてわかりやすい

まず、現在計画されている市庁舎の規模
5階建て9000平米 50億
これが果たしてこの市の規模に適切かどうかという点
この計画の見込みでは市の人口は5万人余の予定
しかも、作手と鳳来町の役場が新市庁舎の中に設けられることになっている

しかし、作手と鳳来町の支所はリスク分散やら利便性の理由で
新市庁舎には入らない事が決定
そして人口も数年後の新城市は3万人台に突入
市の収入も所得税から入るものより固定資産全から入るもののほうが多い
相手県内では唯一の消滅都市に上げられている

つまりどう考えてもこの規模は必要ないということ
そして計画の50億も消費税が上がり見積以上は目に見えている

国からの交付金は期待できるのは現実には20億ちょっと
しかもそれは一括ではなく、10数年にわたって少しづつ
だがゼネコンには一括して支払わなければならない
果たしてそのお金が市にはあるのか
今既に多額の借金状態というのに、、

冷静になって身の丈の市庁舎をと唱えても
なかなか一度決めた方針は市長も市も変えようとしない
ところがその計画も該当する地区が都市計画法にひっかった
つまり9000平米の建物は建てられない
用途変更をすれば可能だがそれには時間がかかりすぎる

そこで生み出したのは強引な手法
無理やり敷地を拡大
現在の東庁舎と道路をいっしょにして問題をクリアしようとするもの
しかもその結果できる道というのは全く不便な遠回りを強要される道

なんだかおかしいぞ!
普通の神経ならこんな風に感じるはず

さてまじめに将来の人たちに負担を残さないために
再考を願う人達は、まずは穏健な方法で住民投票の実施を考えた
市の条例でとんでもない数の署名を集めなくても住民投票の実施が
可能になるかもしれない方法

ところがここにも落とし穴が
この住民投票をしてもよいか悪いかを判断する機関が存在し
その相談の結果を市長に挙げて市長の判断を仰ぐというもの

どう考えてもこんなのはまじめに取り扱ってもらえそうにない
文句を言われる本人が文句をいう投票を許すはずがない
こんなのを知ってしまうと一旦権力を持ってしまうことの恐ろしさを感じてしまう

条例で展開しようとした方法の会議は
非公開、そして結論はドロー、つまり判断せず
これはそのまま現状を認めるということ

明らかに全ての前提となる見込みが違っているのだから
計画は見なおしてしかるべきと思うのが
決まったことだからと推し進めていく

これは、この国の政治そのものではないのか
まず市場分析やら見込みの数字なんてものに責任なんてものは存在しない
外れたところで、その時には見込みを正確に読むことは不可抗力だった
の一言で誰も責任をとらない

これが一般の企業なら責任は負債、はては倒産と言う形になり
深刻な責任は負わざるをえない
しかし、これらのシステムは誰も責任がない

そして足りなくなった分は税金でまた取り上げるだけ

正直なところ今までは代議員制度とか
自分で全部できないから人任せにして責任ある行動をとってもらえる
ものだと思っていた(国でも市でも》
ところが実際は全然そうではない
誰かがチェックしないと相当いい加減に進んでいくことがわかった

話は市の問題に戻って
本当にこのまま莫大な費用を使って良いのかと考えてしまう
市長選当時は現行案での新市庁舎の建設は
市議会議員でも賛成反対が半々だったのが
どういうわけか今は見直し派は少数に

この状態を眺めるだけで諦めることは
この国の将来も諦めることになりそうな気がしてならない

この国は秘密保護法案、集団的自衛権、憲法改正への動き
防衛費の増大、歴史問題の解釈再考、積極的平和主義、武器輸出
何処に向かっているかは目に見えている
そして国民には経済さえ良ければ不満はないはずとの態度

これは危なっかしくて仕方ない
これを見過ごすことは出来ないが
この問題と同じことが新城の市庁舎でも言える

ただ黙って成り行きを見過ごすだけでいいのか
大人の責任、気づいた人のなずべきことは何か
人は社会的生物と言う言葉が頭に浮かぶ

社会に対して何かしなければ
つくづく思う
そしてそれにはもう時間がなくなってきている

 

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300Bの音の違い

2015年01月25日 08時35分18秒 | オーディオ

自分は病的なオーディオマニアではない
基本的に一番大事なのは音楽
それが良い状態で聞ければ特に問題はない
と思っている

しかし、時々オーディオの何かを少し替えてみると
その音の違いに驚くことがある 
それで音楽の印象、演奏の良し悪しまでも変わってしまいそう
だからオーディオは過小評価することは出来ない 
しかし無制限にお金をつぎ込むのは
財布との関係でできそうにない

そこでささやかな違いを発見するために
今日は300Bの真空管を昨年購入のフルミュージックのものから
ウエスタン・エレクトリックの復刻版に替えてみた

 (フルミュージック製の300Bを装着したアンプ)

このアンプを購入時はウエスタン・エレクトリックの復刻版を
使っていたが、何年か使っていたのでバック・アップのために
フルミュージックのものを購入して、エージングも兼ねて
我慢しながら聴き続けていた
このフルミュージック製は音はパワフルだが
繊細さとかまろやかさは今ひとつ

ロックなどの音楽は問題は無いかもしれないが
クラシック音楽は少しギンギンしすぎて辛い
でも慣れてくるとこんなものか
慣れなくてはと言う気持ちもあって惰性で聴いていた

ところが今日ウエスタン・エレクトリックのものが寿命が来たら
その時はその時
自分の方が先になんてこともあるかも知れないので
などと開き直って(?)当初の状態に戻した
つまりウエスタン・エレクトリック復刻版に戻した
 

そしたらどうだろう
大正解!
音の品の良さがまるで違う
木管楽器の音色、全体の柔らかさ 
わずかだがなかなかそこまで辿りつけない差のようなものが
感じられる

さて困った
これに慣れてしまうと
再びフルミュージック製に戻るのが怖い

それにしても、オーディオマニアの気持ちも
分からないではないと
改めて感じた次第 

 

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本田、岡崎のいない代表チームを早急につくらねば!

2015年01月23日 22時03分51秒 | サッカー

アジアカップ トーナメント戦初戦は
ベスト4をかけての戦い
結果は1−1の後PK戦でUAEに負け

負けるには必ず理由がある
というのが勝負師の言葉
PKは時の運というものの、考えようによっては
この敗戦は良いきっかけになるかもしれない

まず今までの代表を引っ張ってっきたのが
本田、岡崎、長友、そして遠藤
ところが怪我のせいとかその日の調子のせいで
今日の岡崎のように冴えなかったら攻撃は
一気に手詰まりになってしまう

本田は良い時も悪い時も平均点は確保するが
今日もそんなに良い出来ではなかったが
岡崎に通じるひたむきさは感じられた

遠藤は柴崎に変わったが今後は第一チョイスは
遠藤ではなくなっていくのではないか
この敗戦をきっかけにメンバーが変わりそうな気がする

代表戦はメディア用にも毎試合勝たねばならない状況だが
それに徹すると新しいメンバーを試しにくい
ワールドカップメンバーの質は高くても
今後は本田、岡崎、長友のいない状況を想定して
バックアップ体制を充実させなければならない

さて今日の試合
始まって直ぐの酒井のミス
ボールを取られてカウンターを受けたシーン
あれが今日のゲームの流れを決めてしまった
そのわずか数分後失点したが同じ流れを引きずっていた

酒井はまだまだ経験不足
そしてスキル的にも完璧にボールキープや正確なパスが出来るわけじゃない
そして判断力も疑問が残る
しかし、これは時間を与えることにしよう

乾はどうしても単発になる
積極的なのはいいが、一歩間違うと空回り
武藤はキレはあったがシュートが枠に飛ばず
今年は停滞期になるかもしれない雰囲気

岡崎はなんか元気なかった
ボールが来ないよりも発散するエネルギーがいつもと違ってた

本田は何とかしようという気持ちは見て取れた
足が早くない本田だがこのレベルだと縦でも勝負できていた
物足りない面もあったがまずまず
でも、PKの最初のキッカーは失敗なのでは
それまでに2回PKを蹴っていて、そのコースの癖などはばれている
これじゃ強気の本田もと思った途端、あのキック
PK失敗は一番頑張った選手がすることが多いが今回もそうだった
同じ失敗でも香川はどうも最初から入る気がしなかった
試合中でもそんなに存在感があったわけでもない
なにか体が軽いというか、なんというのだろう復活するには
まだまだ時間がかかりそう
そしてもしかしたら、以前のように代表の中で絶対的な存在では
無くなるかもしれない

今回のチームは確かに他所の国のチームよりは洗練されていたが
前回のように何が何でも勝つというエネルギーにかけていた
それは選手の年齢によるのかもしれない
本田も岡崎も長友、遠藤も前回は4歳若かった

つまり、ベテランが悪いわけではないが
そろそろ選手の世代交代を考えなくてはならないということ
本田が怪我したり、岡崎が風邪ひいたりした時
一気にパワーダウンしそうなチームでは
これからのワールドカップ予選は厳しくなる
早めに若手を育てないと!

しばらくは負けても見守る気持ちを
持たないといけないかもしれない

 

 

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モーツァルトを感じるということ

2015年01月22日 20時08分00秒 | 音楽

吉田秀和氏の「モーツァルトを求めて」と言う著作の中に
ディヴェルティメント3曲と言う章がある
イ・ムジチ弦楽合奏団の演奏会に出かけて
K136のディヴェルティメントニ長調を聴いた時の事が書かれている

それが自分が経験したのとすごく似ていて
しかもあまりにも適切な表現でなされているので
少し驚いてしまった

抜粋

それが始まった時、私は急にめまいがするような感動を覚えた。
それはまるで明るい、と言うより透明な光の風景の中に突然出た時に
感じるめまいに似たようなものだった。
それまでのヴィヴァルディたちの音楽が暗かったというのではない。
だが、モーツァルトの音楽は、その夜きいていた音楽とまるで違う性質の
光を放射するのだった。その上に、音楽の進む、その速さ、それにともなって起こる
微小だが、しかし、歴然たる変転の継起の速さ。そういうものは彼があんななに
嘆賞し、食欲にそこから数えきれないほどたくさんのものを摂取したイタリアの
大家たちの音楽とはまるで類を異にしたものになっている。
イタリアのバロック末期から前古典期の作曲家の音楽には、もっとリズミックな
音形の反復とか、簡単な模続進行とかを基調にした楽想がそのまま続くよう
書かれているのが普通である。それがモーツァルトになると、同じような
手法はふんだんに見られるのもかかわらず、まるで前途を予測させないような
変化があり、いつ不意打ちされるかわからないある戦慄の影によって、脅かされる。
そのくせ音楽は、少しも不安定な印象を与えないのだ。不思議なことに
それは全体としてそういう聴後感を与えるだけにとどまらない。
不安や陰りの起こったその後も、間もなく、それは光によって解消する。、、、、、、

                   

自分がこのK136のディヴェルティメントを生で聴いたには
イタリア弦楽四重奏団で、その日のメインはベートーヴェンの作品132イ短調だったが
何よりも感動したというか驚きを感じたのがこの曲で、たぶんそれは
上に書かれている吉田氏の印象と全く同じだっと思われる

多分、自分に限らすモーツァルトの音楽を好きだとか愛おしく思う人は
この感覚を経験しているに違いない
そしてそんな気持にさせる力を「天才」「完璧」と言う表現を使ってしまう以外に
思いつけないのだ

しかし、その感覚を得るには子供の心を持つか
時間をかけて身に付けるしか無いのかもしれない

こうした感覚は実生活を生きていく上ではさほど重要な事では無いかもしれないが
一度でもこの感覚を知ってしまうと心の栄養としての存在以上に
生きていく上で必要不可欠なものとなってしまう

ショパンだったか誰かが「死とはモーツァルトを聞けなくなること」
と口にしたが、本当に実感としてそう思ってしまう



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8歳(?)の作品 Kv13(フルート・ソナタ ヘ長調)

2015年01月21日 20時11分48秒 | 音楽

天才モーツァルト
多分、彼を説明するのに一番使われる言葉
仕事が休みの今日 昨年中古レコード市で購入した
ランパルの演奏するモーツァルトのフルートソナタ集を聴いてみた

ジャケットの裏面を読むまではこれらの作品がいつ作曲されたか
知らなかったが、解説書を読んでびっくり
なんと10歳にも満たない時の作品
モーツァルトは1756年生まれだから1764年作曲なら8歳(もしくは7歳)

そう思ってKv13のへ長調のフルート・ソナタを聴くとなんと凄いことか
少し意地悪く、子供の作品だからパターン化されているかな
と思いつつ聴いてみると、なんと予想を裏切る展開が既に見られる
モーツァルトの曲を初めて聴く時の楽しみ方は曲の展開を予想すること
多少の違いがあってもこの繰り返しが続くと思うと
あっさりその予想は外れて、もっといきいきと自由に展開していく

この曲もその例に漏れず
ちょっとどう流れるかはわからないような
しかし、まとまった音楽になっている
第2楽章はアンダンテのヘ短調
第3楽章は部分的にニ短調の部分があるが
その表情は10歳に満たない子供の作り得るものではない
表現のコントラスト、センスは大人そのもの
そして曲の一瞬、長調に流れるか短調に流れるか
どっちなんだろうと思わせるモーツァルトならではの
不思議な瞬間が存在する
本当に10歳以下でこんな曲が出来てしまうとは!

本当に不思議だ
モーツァルトの存在も不思議だが
時々こうした奇跡のような存在を生み出す神様(?)の意図も不思議だ

もっともこの不思議な人の存在は
最終的には何処に埋葬されたか具体的にはわからないと言われる
(ウィーンの聖マルクト墓地に一角にお墓はあるが、埋葬の正確な位置は不明)
それは彼の秘密を隠しておこうとする神様の(?)気持ちのように思えてしまう

それにしても、本当に凄い
少なくとも音楽の頭はとうに大人の頭になっているアマデウス
後期の充実した作品もいいけど
これらの初々しい伸びやかな作品も
とても愛おしく思えてくる

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アジアカップ ヨルダン戦

2015年01月20日 20時10分37秒 | サッカー

日本2−0ヨルダン

危なげない勝利
特に前半は完璧と言っていいかもしれない
インタビューで本田が漏らしたが
前回のアジアカップでは予選リーグでも苦労したが
今回はきっちり勝ちきれているので
成長しているかも知れないとのことだが
確かに安定はしている

しかし、海外のリーグ戦、ユーロ予選と見比べると
アジアのレベルは残念ながら低いと言わざるをえない
ワールドカップでアジア勢はあの成績だったのはうなずける

岡崎は相変わらずひたむき
そして効率の悪さも相変わらず
しかし、彼は成長を止めない
サポーターだけでなく、サッカーの神様も
ご褒美をいつか与えてくれそう

一点目、乾の良いパス、岡崎の抜け出しとシュート
そしてよく詰めていた本田
本田は今度はポストにぶつけずホッとしたところか

全体的に皆良かったが
吉田のロングフィードで2本ばかしミスが有ったし
香川もタイミングやコースがずれたパスがあった
香川が以前のようにブンデスリーガで活躍できないのは
どこかずれているのかもしれない

きっかけと言うよりなにか根本的に変わらないとダメかもしれない
あのプレイの感じでは岡崎の効率になっている
もう少し正確にしないと、、、

酒井はまだまだのところがある
早く経験を積んでミスの少ない選手になってほしい

遠藤は相変わらずの落ち着き
しかし今日は自分の評価では長谷部が良かった
インターセプト、早いつぶし、落ち着き
アジアの戦いでは長谷部と遠藤の組み合わせでもいいかもしれないが
もう少し上となると遠藤の守りでは不安が起きるかもしれない
ザッケローニさんもそう感じたからワールドカップでは遠藤の出番は少なかった

幸運なことに今はアジアでの戦い
とりあえずこのままのメンバーで良いかもしれない

それにしても香川の得点は良いきっかけになればいいのだが

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表現の自由?

2015年01月18日 21時04分56秒 | あれこれ考えること

最近続いてこの言葉が話題となった
「表現の自由」
最初は北朝鮮の金正恩の暗殺をコメディタッチで描いた
ザ・インタビューの上映にたいして北朝鮮からとおもわれる
サイバーテロが行われ(アメリカが断言したが)
この攻撃から予想される事態に劇場側が上映を取りやめた時に
「表現の自由」を守れと声が上がった

そして今回はパリの新聞社へのテロ
何人も亡くなって悲惨な事になってしまったが
きっかけはムハンマドの風刺画だったらしい
だがテロに反対と言うよりは
「表現の自由」を守れの声が大きい

どうもこの「表現の自由」は
アメリカが他国に乗り込む時に使う「自由と民主主義」
と似ていて、どこかブレーキがないところが怖い

最初の映画は見てはいないが、とんでもなくB 級映画らしい
暗殺の武器をお尻の穴に隠すような
つまり品のないバカバカしいだけの映画で
表現の自由という言葉を使うことすら恥ずかしいようなもの

自由とか簡単に言葉にするが
それは人として最低限の他者に対する配慮はあってから
存在するものではないか

本当に映画の話は酷い
あんな映画をソニーが制作を許したのが
今のソニーの低迷を表しているかもようだ
ソニーは儲かればなんでもいいのか?
ジョブズが憧れたソニーのものづくりのこだわり、
プライドは何処に行ったのか?

さて風刺画の方
宗教は難しい、そしてやはり一線は超えちゃいけないのでは
自分の家族が茶化されたらいい気はしない
家族が一般市民なら風刺画の題材にされないとしても
ある日急に有名になった時点で茶化されたら
嫌だろうに、、、

フランスではキリスト教からの自由も勝ち得たので
宗教すらも風刺の対象としているらしいが
自国の理屈をどの地域でも通じると思うのは少し配慮が足りない
そんなふうに考えない国もあるのだ
そしてそれは正しい正しくないの問題ではない

フランス人は理論的に自分たちの正当性を主張しても
イスラム教の方々への配慮が欠けているのは事実
このことでイスラムの方々への見方が偏りそうで不安だ

とにかく、北朝鮮もテロを起こした連中も酷いが
映画の製作者、許可した者
風刺画の掲載を大した配慮なく行うのも酷いな

イスラムの肩を持つ気はないが
「表現の自由」なる言葉で簡単に片付けられては困る

 

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