パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

今年読んだ本(今のところ)

2018年08月31日 08時49分25秒 | 

再読を含め今年最後のページまでたどり着いた本たち。
覚えているかどうかは怪しいところだが、読んだ本で自分はできている(味の素のCMコピーみたいだが)はなんとなく納得する。
時間をおいてみると「失われた時を求めて」は今になって良い本(内容)だったと感じる。

最近読み終えたばかりの「民主主義のつくり方」「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?」「ゲッベルスと私」
「白バラは散らず」は、刺激を受けてまだ頭の中で落ち着く場所を得ていない感じ。
こうして並べてみると、自己満足でニンマリしたい気分になってしまう。

雑食系の選択となっているが、難しそうな本は馬力と気力と視力があるうちに読まないとダメだろうな。
今後読みたい本の候補にあがっているのは
「ファウスト」(再読)「嘔吐」(再読)「源氏物語」(現代語訳)などだが、
これらは気分が乗らないとトライできない

その前に今は、現在の日本との比較をする意味でナチス関連の本が気になる
ドイツは何故あんなことをしでかしてしまったのか
大衆はその時何を感じて何をなしたのか、なさなかったのか
その時の空気はどうだったのか
それは今の日本と似ていないか
似ているとしたら、どうすればあのような状況にならずにすることができるか、、

多分、危険を避ける方法の一つは、過去を知ることだろう
直ぐに反日とか、嫌韓・嫌中の言葉を使用し、民族の違いだけで区別しようとするある種の人々は
ヒトラーが推し進めた方向とそっくりということは、過去を学べばわかる

とにかく、言いようのない不安が押し寄せてくる
何かを言えるうち、批判できるうちに、できることをしていかないと
また馬鹿なことを繰り返してしまいそうで、、
(ドイツはいつの間にか何も言えなくなってしまった、、、あのときの日本も、、)

「繰り返しません」が言葉の上だけに終わらないようにしなければ、、、

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今日も長かった「政治倫理審査会」

2018年08月29日 20時49分08秒 | 市政、市議会に関することなど

先日の新城市の政倫審の続き

とんでもなく長かった先週金曜日の山崎市議の事情聴取に続いて
定例的に行われる政治倫理審査会が今日9時半から行われた
山場となる前回の該当議員からの事情聴取も終わり
ようやく終幕に向かって纏めの段階となった

まずは先日の事情聴取を終えての委員間の共通認識の確認
(委員は全員出席)
最初に話し合われたのは、山崎市議がこの交付金活動にどの程度関与したと考えられるかという点

先日の事情聴取では、山崎市議は議員という立場からごく控えめにしており、会長から写真撮影の依頼があれば現地に赴き、
現場での草刈り等の作業は行わず、確かに見積もり依頼とか領収書等の発行を依頼、受け取りはしたが、中心的な行動はしていないと発言した
しかし、これは山崎市議があの事情聴取の場でそのように発言したということに過ぎない
事業において中心的な活動をしたかどうかの判断は、この委員会の方々の判断による

その結果は、山崎市議は決して些細な役割の存在ではなかったと判断される(のが適切)というもの
何故ならば、問題となった活動交付金の活動をしようと声がけをしたのが山崎市議で、川田区村有林管理組合の会長時代に杉川ではなく、
杉川につながる村有林の整備を行いたい(行う)との記録がある
それを最初は普通に土木科にでかけ村有林の整備を願ったが、残念ながら了解してもらえなかった
そんな時に始まったばかりの地域自治区の活動交付金の募集を知った
そこで、地域振興課に相談に行ったが、村有林の整備では申請は通らないが杉川の整備事業を絡めればなんとかなるかもしれないとの答えをもらい、
急遽、活動交付金事業の団体を作り、申請書類を作り、地域協議会のプレゼンに参加し、了解を得られることになった
この手続き、申請書、プレゼン等の場面では山崎市議は中心的な役割を果たしている
それに見積の依頼とか領収書の受け取りなどは事業の肝となる部分で、けっして部分的な仕事とは言えず、
むしろ重要な役割を果たしていたと考えるほうが良いのではないか、、
つまりは、中心的な役割を果たしていたと考える方が自然だ、、これが委員会のメンバーの共通認識

ところで、山崎市議と補助人の谷氏は、事業の期間延長を認めなかったのは法的に問題があると発言した
確かに、市の補助金等、、、云々の規則には事業終了後20日以内、または3月31日までの記述がある
しかし、その前にこの活動交付金にエントリーする条件に2月28日までに事業を終えることが条件になっている
それを了解した上で応募したのだから、契約を結んだ後でいろいろ言われても行政も困るというもの

この日、実は一番気になったのは、このような問題の整理の部分ではなくて、もう少し別のところ
山崎市議の事情聴取の日程と補助人についての経緯を聞いて、少しばかり驚いた
委員長は最初、17日だけ指定して山崎市議に出席を依頼した
しかし山崎市議はどこからか聞いたのか予備の24日を指定し、更に補助人の同席の同意を求めた
委員長は補助人の氏名・職業・役割等がすぐさま連絡されないので、少し判断を保留状態にした(らしい)
すると、それが許可されないならば、事情聴取に応じるのは3ヶ月後、文書で返事を送ることになる、、
そんな発言をしたらしい(何という傲慢な、、、)

これは前回、山崎市議の政治倫理審査会の対象議員となったとき、審査会の事情聴取の要請に応じなかったことを思い起こさせた
このようなことは、とても誠実な態度とはとても思えない
まして先日の事情聴取では委員長の議事進行権を無視したり、進め方を批判するような発言を大きな声でしている
政治倫理審査会の検討事項は確かに市民が出した申請書に基づいて行われるものだが、あの場所でもあの態度は、心象というものを極めて悪くするものと思われる
(それは反省の態度が全然見られないものに通じると思われても仕方ないと思う)

ところで、活動は議員(公人)か私人の立場かといった、まるで安倍昭恵さんのような話になったが
本人は私人のつもりでも、それに応対する人(市職員・委託業者)は議員さんとしての存在を抜きにしては考えられない
関係する人が忖度するしないは別にして、議員さんになってしまった以上はそのような見方をされるということの自覚がなかったとも思われる

このあと、行政や業者に圧力があったか、偽造領収書を書かせたか、、という点の検討に入ったが
ここでのやり取りはなかなか難しい
確かに行政は圧力はなかったとの発言をしている
しかし、不自然と思えるほどの多くの書類の不備が通ってしまってることの不思議さは、「圧力はなかった」とすんなりそのまま信じて良いのかは
問題だから、どこかにそれを書き込むことが必要なのでは、、、とか
偽造というのは業者がその時点で自覚しているか、通常の取引の変形パターンとして理解していたのではないか、、
との意見もあリ、委員の一人ひとりのこの手の取引への経験知がそれぞれ違うために、なかなかすんなり合意とはいかなかった
少しばかりまどろっこしいいが、とても丁寧な検討だったかもしれない

委託業者が通常取引の特殊パターンの一つだとして、偽造を自覚していないばあいでも、本来の領収書ではないのは事実
問題は、それを本物の領収書ではないと知っていてそれを利用したことにある
それを使って、お金を得る行為をした、、これは明らかに問題だ

政倫審の結論は9月議会までにとされたが、この分では少し遅れそう
今日の審査会は、自説にこだわり、他の人の意見を素直に聞けないようなやり取りがところどころあって
(それも人間だからある程度仕方ないが)会の出来としては、、今回はあまり良くなかったかもしれない

この手の問題は(法的な)正確さを求めるあまり、結果的に市民感情と乖離した結果になってしまわないか
というのが少し心配
今回の倫理の問題については、普通の人がすんなり納得できるということ、、
自分は、なによりもその視点が必要と思われるが、、さて

実は今日も長かった
9時半から始まって、昼の休憩なしで、終わったのは午後2時くらい
メンバーも傍聴者もご苦労さまというところだった

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ジークフリート

2018年08月29日 20時28分36秒 | 音楽

9月2日 日曜日には名古屋の御園座で演奏会形式による「ジークフリート」がある
アマチュア・オーケストラ(愛知祝祭管弦楽団)による気合の入った企画で
一昨年の「ラインの黄金」昨年の「ワルキューレ」に続いての三番目

昨年東京の新国際劇場で楽劇の方のジークフリートを見た
1幕、2幕は面白かったが、3幕になってなかなか終わりにならず
いつまでも行きつ戻りつみたいなで飽きてしまったが
今度はどうかな、、楽しみ

いつもは少しは予習のつもりでレコードやらCDを聴くが
オーディオセットのある二階はエアコンがなくて、とても聴ける状態じゃなかった
それに段々生でないと集中が続かなくなっている

ただ心配なのは、ずっと座ってられるかなということ
腰と股関節の状態が良くなってきたとはいえ、イマイチなので!
座り心地という点では東京の新国際劇場の椅子よりはびわ湖ホールの椅子のほうが
ずっと良かった

時々練習風景がツイートされているが、それに涙ポロリというところがあるみたいなことが書かれていた
とにかく楽しみ、、
前の演奏会では幕の前にバイロイトみたいにファンファーレがあったが、今度もやるのかな
道中、変な天気になりませんように、、

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「おどるポンポコリン」の思い出

2018年08月28日 07時59分29秒 | 徒然なるままに

「ちびまる子ちゃん」の漫画家さくらももこさんが乳がんで亡くなった
そのアニメは見る習慣はなかったが、エンディングの音楽「おどるポンポコリン」はR&B風で好きだった
この「おどるポンポコリン」に関わるちょっとした思い出

それは小学生のサッカーのコーチをしていたときのこと
その日は試合で、数台の車に分かれて子どもたちを試合会場まで(多分豊橋)載せていくことになった
助手席と後ろの席に3人、男のくせに(?)よく喋る元気なメンバーが自分の車に乗った
「コーチこれかけて!」
チームの得点源になる存在の子がカセットテープを手渡してきた
「なにこれ?」
「おどるポンポコリン」
「いいよ、この曲は大人にも耐えられる曲で結構好きだから」

車の中はみんなの歌声も聞こえて陽気な(試合前とは思えない)雰囲気に包まれていた
「もう一度、かけて」
「はいよ!」

でもこの甘いところが失敗だった
続いたのは「もう一度、もう一度」の連続(テープは同じものが両面録音されていた)
最初は快適でも、流石に数回聞き続けると少し辛くなってくる
そこで他のにすれば良いのだが、子どたちは声を合わせて「もう一度!」を繰り返す

こうなると段々苦しくなってきた
同じことの繰り返し、、これが徐々に拷問のように感じられてきた
(子どもたちは飽きないのだろうか)
それで「この曲、ちょっと休憩」
と言って、他の曲にしたか、それとも子どもたちのお喋りに付き合ったか忘れたが
しばらくすると、子どもたちはまた「おどるポンポコリン」かけてのリクエスト
(勘弁してくれ)

その時は、彼らの要求に応えたが、この苦しかったこと、、、
いくら好印象の曲でも続けて何回も聞くのはしんどい、、
それで帰りの車では「今度はおどるポンポコリンはなしだよ」と先手を打った

これはもうずっと前の話
今思うと、これは苦しい思い出なのか、結局は楽しい思い出なのかわからなくなっている
でも「おどるポンポコリン」を聞く度にこのことを思い出す
きっと、楽しい思い出なんだろうな


 

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「ゲッベルスと私」(映画には行けなかったが書籍で体験)

2018年08月27日 08時26分50秒 | 

見に行くつもりだったが体調不良で行けなかった映画(名古屋シネマテークで上映)
「ゲッベルスと私」ナチ宣伝相秘書の独白
縁がないものと諦めていたら、書籍化されているとのことで
早速アマゾンで購入した

強制収容所に淡々とユダヤ人を送り続けたアイヒマンが、精神的に無慈悲な怪物のような人物ではなく
どこにでも見られるような出世欲に満ち、それなりに家族を思う平凡な人物で、ただ単に
システムに無批判に従うだけの人間だったと明らかにしたのはハンナ・アーレントだったが
この本では、ナチの重要なポストにいた人物(ゲッベルス)の秘書を続けたごく普通の(速記が特技の)人物が
戦前・戦中の思い等を思い出しながら告白していく

今のこの時点で、この本を発行する意味・意図が前書きに暗示されている
心配性な感覚の鋭敏な人たちにとっては現在の世界の状況が、あの大戦前の雰囲気に似ていると感じている
二度と馬鹿なことを繰り返さないためには、世界の大半を占める普通の人々の傾向を自覚し
その危険性を問い直すことが必要だとしている

章の始まりには、秘書(ブルンヒルデ・ポムゼル)のポイントとなる告白が暗示的に掲載されている
例えば、「ヒトラーはともかく、新しかった」の章の前には以下のような文がある
「すべてに小さな矛盾はあったけれど、私はそれをさほど真剣に受け止めていなかった。
その種のものごとには本当に関心がなかったの。当時の私は年若い、恋に夢中な娘にすぎなかった。
そういうことのほうが私には重要だった。それにずっと昔の話だから、今の私は当時どんなふうに考えていたか
わからない。あのころはただもう、気づいたらあそこに入り込んでしまっていた」

これは井上陽水の「傘がない」の世界に通じる
社会の矛盾はなんとなく感じるが、自分にとっての優先順位はそれをどうすることじゃない、、
自分にとって大事なのは目前のこと、、、

このボムゼル氏の精神的傾向は、前書きに端的に記されている
「ブルンヒルデ・ポムゼルは政治に関心がなかった。彼女にとって重要なのは仕事であり、
物質的な安定であり、上司への義務を果たすことであり、何かに所属することだった。」
(これらは最近の我が国の官僚さんを連想させる)

映画「ゲッベルスと私」を見た人は、この秘書に対する断罪の言葉はあまりなかったようだ
それは、見た人が立場を自分に置き換えて、自分もその環境下なら同じことをしてしまうかもしれないと想像できることもあるし
平凡な今の生活を大事にしたい人の思いは、何も特別なことではないと感じるからだ
この映画は彼女の断罪よりは、今生きている自分たちの時代についての問いかけの役割を果たしているとの評価が多かったようだ
暗黒の1930年代は今日また繰り返されてしまうのか、私たちの不安や無知や消極性が究極的には
新しい右翼の勃興を支えることになったのだろうか、、、と

おそらく平凡は普通の人の典型である無関心層、善人の沈黙、、、そうしたものが結果的にどのような世界を生み出していくか
以前読んだハンナ・アーレントの全体主義の起源(3)には、この手の大衆について付箋をつけておいた部分がある

全体主義運動の大衆的成功は、あらゆる民主主義者、とくにヨーロッパ政党制度の信奉者が後生大事にしていた2つの幻想の終わりを意味した。

その第一は、一国の住民はすべて同時に公的問題に積極的な関心を持つ市民であり、全員が必ずいずれかの政党に組織されるというところまではいかなくとも、
それぞれに共感を寄せている政党はあり、たとえ自分では投票したことがなくとも、その政党によって自分を代表されていると感じているという幻想である。

ところが運動が実証してみせたのは、たとえ民主制のもとでも住民の多数派をなしているのが政治的に中立で無関心な大衆であることがあり得ること、
つまり、多数決原理に基づいて機能する民主制国家でありながら、実際には少数者だけが支配しているか、
あるいは少数しかおよそ政治的な代表者を持っていないという国がある、ということだった。

全体主義運動が叩きつぶした第二の幻想は、大衆が政治的に中立で無関心なら政治的な重要性を持たないわけだし、たとえそういう大衆がいるとしても実際に中立的立場を守り、
たかだか国民の政治生活の背景をなすにとどまっている、とする考えである。
全体主義運動は権力を握った国にとどまらずすべての国の政治生活全体に深刻な衝撃を与えたが、それはつまり民主制という統治原理は住民中の政治的に非積極的な分子が
黙って我慢していることで命脈を保っているに過ぎず、民主制は明確な意思を表示する組織された公的諸機関に依存しているのと全く同じに、
意思表示のない統制不可能な大衆の声にも依存している、ということがはっきりと露呈されたからである。

結局のところ、民主的な統治原理というのは、少数者だけが支配していて、それを政治的に非積極的分子が黙っていることによって成り立っている現実があるということ
(これは、支持投票率が低いにもかかわらず、議席は大半を締める党が《しかも特定の人物たちが》仕切っている我が国を思い起こさせる)

政治的に無関心な(中立と思っている)普通の人が、普通の感情でもって普通に暮らしただけなのに、大きな間違いを起こす状態を引き起こしてしまった
そこの何が悪かったのか、、
だから政治に無関心ではいけない、、と頭ごなしに言うのではなく、この「ゲッベルスと私」にあるような(自分たちによく似た)人物が
知らず知らず受け入れたり、悪いことは見ないことにしたがる傾向は、結果的に何をもたらしたか、、、
それを知ることによって、今度は個人個人がどのような思いに至るか、、、
この考えるきっかけになる、今読まれるべき本と言えるだろう(まだ途中までしか読んでいないが)

この本をアマゾンで購入する際に、あのおせっかいなお薦め本を紹介する機能で
「白バラは散らず」ドイツの良心ショル兄弟
ナチズムの嵐の吹き荒れる40年代のドイツで戦争と権力への必死の抵抗を試み、そして処刑されていった学生・教授グループの英雄的闘いの記録
「ヒトラーに抵抗した人々」反ナチ市民の勇気とはなにか
があった
この本を読み終えたら、続けて読むつもり(まだ注文はしていないが)

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終わったのは午後9時20分

2018年08月25日 07時40分43秒 | 市政、市議会に関することなど

自分の住む新城市の少しばかり硬い話

今朝(8月25日)の中日新聞朝刊、東三河版の記事
あっさり書かれているが、この会議は午前9時半から始まって、途中食事・休憩をはさみ延々と行われ
終わったのが午後9時20分頃だった(晩ごはん休憩はなし)

この山崎市議の事情聴取は、整理倫理審査会の申請者(市民)・行政関係者に続く3番目で
事前に審査会のメンバーが入念に質問事項をまとめ書類で渡している
質問事項は10数箇所、ほとんどが申請者・行政関係者に聞いたものと被るもので、
それぞれの立場からの話を聞き、そこから類推される(明らかにされる)事実の把握をしようとするものだ

この日は山崎市議の他に補助者として、事業者体の会長等の委任を受けて谷さんという人物が隣に座っていた
彼は事業主体の会長等からヒアリングを行いその代弁をすることになっていたが、、、

傍聴していてわかりにくかったのは、質問は委員の方々・参考人の手元にある分厚い資料の基づいてなされるのだが
傍聴人は何処のところを議論しているのかわからない
そこで大体の想像をしながら見聞きすることになり、以下の投稿に多少の間違いがあるかもしれない

冒頭に山崎氏の所感表明がなされた
これがこの日長くなった一つの要因で、山崎議員はいきなり今回の政治連理審査会の開催は、不確かな事実に基づく
市民団体のミスリードによって署名がなされ開かれることになっており、この不確かな事実を拡散した現職の議員さんの
行動にことの本質がある(彼の別のところで述べている言葉によれば政治テロ)と述べた
(現職のある議員が関係のある業者のもとに赴き、強引に有りもしない領収書を書かせたというもの)

わかりにくいかもしれないが政治倫理審査会の開催は、議員発議によるものと有権者の100分の1の署名によって開催されるものがあり
今回は後者の市民の署名によるもので有効署名数は1042筆
この1042筆が彼(山崎市議)によるとデマに先導されて書いたものだというのだ
ところが、申請書の趣旨には彼の言うデマの部分は一言も書かれていないし
これまで10回ほど開かれた政治倫理審査会でもそのことが話題に登ったことはない

そもそもことの発端は、市の税金を使う地域自治区の活動交付金の事業が、大金(3年間で約150万円)を投じられているはずなのに
その現場を見ると何かなされたようには感じられず、それで市民が情報開示等の資料請求や関連会社の聞き取りによって調べた結果
業者には支払っていないにもかかわらず50万円近くの領収書を彼(山崎市議)が受け取り、それを使って実績報告書をつくり
市から交付金を受け取ったが、この行いは議員さんの倫理に反するものではないかということから始まった

現時点では市は3年間の活動交付金のうち、最初の2年分は交付取り消し、返還命令を行い、罰則金のようなものを含めて
事業団体は130万円以上を返還している

話は元に戻って、山崎市議の言い分はこれも想像されたことだが、行政の不親切さに話が及んだ
最初の年、活動が終わって、さてお金をもらえる書類全般の打ち合わせをしたところ、事業締切は2月28日で
その日までに所定の書式による実績報告書およびそれに付随する、見積書、領収書、収支決算書が必要なのだが
その時点で業者に依頼した分の領収書がない
2月28日ではなくもう少し締切を伸ばしてもらえないか、、と頼んだが、聞いてもらえなかった
手持ちには50万円もの大金はない
そこで考えたことが、支払っていない50万円近くのお金を、業者に頼んでて払ったことにして領収書を手に入れるという方法
議員であれば、いや普通の社会人であれば少しばかりひるむようなこの行動を山崎市議は行った
あとから考えれば良くないことだが、その時の優先順位はまずは書類等を完成し事業を終えること
それしか頭になかったという(この判断はどうだったのか)

事業に要する金額は50万円以上
事業団体にそのお金は最初からはない
こういう場合は市は概算支払いというシステムを用意している
所定の用紙にしたがって記入し請求すれば、市からは先にお金をもらえるシステムだ
山崎市議はこれも知らなかったという
そして行政がもっと親切ていねいに教えてくれれば、こんなことはしないで済んだ、、
とも言い、実際に6月議会でも山崎市議はこの旨の一般質問をしている(市の不親切さを問うような)

ところが、締切、概算払等については、それを説明した書類が市からの交付決定通知書に同封されている
また市によれば、この説明は度々行っているとのこと(でも彼らは知らなかった)
それに活動交付金の事業を行った他の多くの団体は、何ら問題なく終了している
知らなかったのはこの団体の人たちだけで、反省すべきは行政の不親切ではなく、自分たちの不注意のはずなのだが
それを棚に上げて責任を他にしてしまうメンタリティは、、少しいただけない
この無反省のことから繰り返されたのが二年目
この年も締切ギリギリになっても領収書がなかったために、支払っていない金額の領収の発行をまたもや業者に頼むことになった
(前年のドタバタ・失敗は全く生かされないのか)

補助人の出席はヒアリングした人(事業主体の会長さん等)の代弁をするという条件で、委員長が許可している
ところが、この方は代弁ではなく、時に自分の意見とか解釈を口にした
その中で、一番彼が言いたかったこと(山崎市議も口にしたが)は初年度の締切が2月28日なのは法的におかしい
実績報告書等は事業完了日から20日以内、あるいは3月31日までと(このあたりは少し正確ではないかもしれない)
法律にはあるので、2月28日とする根拠はない
2月28日を移動することができれば今回のことは起きなかった
(市は6月の市議会で、活動交付金の初年度に当たる年は3月に成果報告会があるので、早めにお願いし
  その旨は交付通知書に同封されているとしている)
他の団体が、法的なことは知らないが市がそうして欲しいということを素直に受け止め、協力した
しかし、法的なことをよく知っている人が、そもそもその制限やお願いはおかしいと駄々をこねる
これは、常識的にどうなんだろう
市はお願いする、、それだけの理由はあることだろう、、
そうか締切はこの日までなんだ、ならばそれに合わせてやるしかない、、
普通は余程の変人でない限り、、このような反応をする
そしてこのような協力が得られるものとして世の中はゆるく成り立っている
法律がどうのこうのいう前に、問題がないようなことであれば、従い協力するだけのこと
それを、法律では、、、、と言い切ってしまうメンタリティとかその精神の方向性は
人間社会がどのような合意のものと成り立っているか、、もう少し考えて欲しい

ここまででだいぶ長くなってしまったが、山崎市議の発言は大きくまとめると
●今回の政治倫理審査会は一分の人間のデマ情報によるミスリードから開催されることになり問題だ
●行政はもっと親身になって手続き等の説明をしてほしかった
●見積もりの依頼は自分(山崎市議)が行ったが、見積もりの宛名が申請団体の名前でなかったことは
 郵便で届いた見積書は未開封のまま会長に渡したので、自分はそんなことになっているとは知らなかった
(3年間で何種類かある見積書の宛名はバラバラ、、、どうやって見積もり依頼をしたのか)
●自分の行ったことは、会長から依頼があった日に現場の写真を撮ること、見積もり依頼をしたことなどで重要なことはしていない
●支払い実績のない領収書の依頼を業者に行ったのは自分だ
●社会貢献を目指した活動が、領収書がないだけで無効になるのは虚しい、、優先順位の一番は事業を終える形にすることにした
●該当団体のメンバーには入っている(ただし議員という立場なので目立たぬようにしていた)
●該当団体の総会には出席したことがない(規約の変更等は知らない)
●3年間でこの事業団体のメンバーで知っている人は二人しかいない
●傷害保険の支払いは2月28日だが、保険会社は当日の保険期間は受けれないというので、事業が終わっている3月23日とした
 この年は3月にまだ活動の予定があったので、それに使おうとした(本当かな?)
●飲料と思われる支払いも2月28日に行われているが、飲料はこの日使ったものではなく、数日前に会長が建て替えて使用した分の
 引き換え分 (会長がいくら払ったかは不明?) 現物は会員の家に運んだ
●実績報告書は自分(山崎市議)ではなく会長が行政とやりとししながら作った (それで何故、締切を知らなかったのだろう?)
 自分が協力した部分は、文字で書き渡した
●成果報告書(B紙のもの)は自分(山崎市議)が作った
●実績報告書・収支報告書の金額を入れる欄に数字を入れた記憶はない(山崎氏も会長も、、ならば完全な実績報告書は誰が作ったのか?)

まだまだいろんな事があったが、正直なところ何しろ長丁場で、後半からはいい加減になっているかもしれない
ただ最初は傍聴していて怒りがこみ上げてきたが、後半からは(いけないことだが)笑えてきてしまった
すげーなー、こんな開き直りをするのか、時々委員長の議事進行に異を大声で唱えたり
こんなだから委員会をコントロールしようとしていた(カッカしやすい)委員長もつい腹を立てて、ムキになって
やりあったのは、、好ましいことではないかもしれないが、、気持ちはよくわかった

ところで、不思議な事はいろいろあって、写真を撮りに行く作業を山崎市議がすることになっていたが
一番肝心なお金を使い業者に依頼した事業のほとんどを占める部分の写真がない
あるのはボランティアで行っているときの写真で、初年度は4人×5日の20人が働いている写真がない

そして、これま不思議なのだが、初年度市から交付金として3月に振り込まれた50万円近くお金
頼んで領収書を書いてもらったにもかかわらず、業者に実際に振り込まれたのはなんと8月なのだ
普通はどんな会社も、締めと支払いが決まってて、請求書を送ればたいがい一月以内の支払いを要求する
作業を行ったのなら、直ぐに(その会社の締めで)請求書を送って、集金を急ぐのが常識
それが、何故か、、えらくのんびりしている
(ここでつい疑ってしまうのが、本当に作業は行われたか?)

ということで、とてもとても長かった山崎市議の事情聴取
改めて分かることは、今回のことは例外が多すぎるということ
見積もりの宛名が違うとか、見積もりがFAXで来たものを使用しているとか
傷害保険が事業終了時の保険期間になっているとか、実績報告書に金額の数字を入れた記憶が申請団体の誰もないとか、、
普通なら行政から突っ返され、再提出を要求されるような書類でも、何事もなく交付金の支払いにまで至っている
そしてそれは何故なんだろう、、と考える

そこから導き出される仮定の一つが「議員さんの圧力」だ
これは勝手な想像というのではなく、この市議は2015年の新城市の住民投票が終わった後に開かれた
「庁舎見直しに関する実務競技」で、市民側のまだ公表されていない設計案を市の職員から手に入れ
(職員は市議から言われると仕方なく渡したと口にした)同時期に行われた市長を応援する団体の会議で批判材料として
利用した実績がある

議員さんは議決という判断を行う
その中にはどちらを選んでいいか迷うものもあるだろう
彼らを市民の代表者として送っている市民とすれば、願わくば難しい状況での判断を誤らないで欲しい
そのためには、全人格的な資質が必要
全人格とは倫理も当然含まれる、、
あの委員会の会場の答弁の内容、その話し方、、、それは、残念ながら決して褒められるものではない

傍聴の最後には笑えてきたと書いたが、ここまで来たら怒りが増してきた
土曜の朝からこんなんじゃイケないだろうけど






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知り合いと出会う場所

2018年08月23日 08時01分14秒 | 徒然なるままに

「あれー、久しぶり!変わりないですか」
眼の前には歳を重ねる度に妹がそっくりになっていく叔母さんの顔があった
長椅子の横には1本の松葉杖、、、
変わりないはずはないか、、ここに来てるのだから、、


馬鹿な質問で失敗したかな、、と思ったが、叔母さんは直ぐに
「Nさんはお元気?」と聞いてきた
「おかげさんで元気です、悪いのは自分の方で、情けない限りです
 そうだ、帰り、よかったら車で家まで送りますけど!」
「ありがとう、今日はYと来てるから大丈夫」

そんな話をしてたら従兄弟のYさんが近づいてきて
「あら久しぶり、、Nさんはお元気ですか」
と聞かれたので、同じことを繰り返すことになった

立ったままで話していると肩を叩く人がいた
振り返ると叔父さんと同級生(ということを前に知ったが)の
ある活動を一緒にしている人がいた
「こんなことろで、、ああ、あれか!」
「そう、なんかいつまでも良くならないみたいで、、今日はMRIに」
「こんなところで会うようじゃイケないね。我々の仲間もみんな病人ばかり、、
 まともな人のほうが少ないかもしれない、、」

そう、そこは市民病院の待合室
利用者が少なくなったと言われているが、数分の間に知り合い二人と出くわした
「二度あることは三度ある」とはよく言ったもので、どういうわけか同じようなことが3回続くことが多い
総合受付に見覚えのある後ろ姿があった
振り返ると今度は同級生のAだった
「あれ、久しぶり(今日何回繰り返したことか、、)
 今日は、、、そうかあれか(彼は高血圧かなんかで投薬を受けていた記憶が)」

小さな町だからAコープやピアゴ、バローなどで買い物をすると時々知った顔と出くわす
顔は知ってるが名前は思い浮かばない、、、ということは珍しくなくなって、情けない限りだが
病院で顔を見合わせることになるのは、、お互い、情けない、、
(でも仕方ないか、、そういう年齢になってきているし、、)




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「夏の砦」を再読して、思い出したこと、インスパイアされたこと

2018年08月21日 07時57分46秒 | 

 辻邦生の「夏の砦」

先日、原田マハの「楽園のカンヴァス」「暗幕のゲルニカ」でルソー、ピカソなどの画家を主題にした
小説を読んでいた時に、次に読もうと頭に浮かんだのがこの本

「夏の砦」は自分にとって初めての辻邦生の作品だった
そして読み終えた時、その物語性、文体、思索の深さなどにやたらと圧倒されて、若さに任せて
原稿用紙130枚ほどの小説ごときものを熱にうなされたように書き終えたのだった

それは冒頭から、知らず知らず真似をしている
最初は小さな女の子の子供時代の物語で母と父のこと、聡明な母が地方の冴えない男と何故嫌婚したのか
そのために自分が生まれ、今存在しているのだが、どこか無理があるような気がしてならない思いは消し去ることができない
また兄がいるが彼は絵を描くのが好きで、ある時絵画の新人賞を受賞した
でもそれから兄は絵を描くことを止めてしまった

ある夏の休み、旅にでかけた
その旅の途中で列車で出会ったのは衝動的な行動に身を任せる同年代の女性
深く考えての行動ではないが、どこか生命力がある
自分もどこかそういう姿に憧れているのに気づく
また旅先で一人の男に出会う
彼は話しかける、「〇〇さんの娘さんではないですか?」と(〇〇は母の名前)
彼に言わすれば若いときの母そっくりだたからつい声をかけてみたとのこと
彼は画家でどうやら昔母と付き合いがあったらしい
父のことは好きだが、この人のほうが母とはお似合いと思えるのは何故、、と考えたりする

母の日記が見つかる
そこにはこの画家の男との深い精神的な関係、喜びや充実感に溢れていた様子が克明に記されている
しかし最後の最後で母は平凡な日々の生活感に満ちた生き方を選んだ(父の方を)
精神に生きる人と、当たり前の市民生活をする人、、そのふたりを天秤にかけたとき母の選んだのは
毎日同じことを繰り返すような、、普通の生活の方だった

兄の告白がある
自分は絵を描くのが好きだったがあの賞を受けたときから絵を描くのを止めてしまった
なぜなら受賞した絵は自分が描いたものではなかったからだ
正確にはある絵を模写しただけだった
その元になる絵は、この画家が母に贈ったもので、偶然秘密にしていた隠し場所から見つけた
その絵に魅入られたように必死に模写した、、そしてつい応募した絵が賞を得てしまった
自分の絵ではない、、ただ模写しただけだったのに、、
彼は自責の念に襲われる
自分の作品でないものを応募したことでにではなくて、そもそも自分には本当の画家が必要とする何かが
欠けていたのではないか、、
創作の世界は自分との戦い
そうした戦いに自分は耐えられる人間ではなかった、、と自ら判断して、、、

このあたりまで書いて、話がまとまらなくなって止めてしまったが
こうして思いだすと、「夏の砦」の印象がやたらと大きかったことに気づく

しかし今回「夏の砦」を読み返してびっくりしたこともある
こんな内容の小説だったのか、、というのが本音だ
最初のときは冒頭の支倉冬子の子供時代と、グスターフ侯の十字軍の遠征の話、
それにグスターフ侯のタペストリーが最初見たときは感動したのに、いざ実物を目の前にした時
それは特別でも何でも無く、ただものが目前にあるだけと思うようになっていた、、というところだけを覚えていた
辻邦生の文章は音、香り、雰囲気、、気味悪さ、、そうしたものを感じさせ、慣れないと喚起力に溢れる文章ではないが
その精緻な文体は、ページ全体が文字ばっかりの表現意欲に満ちて、まるで西欧の小説のようで
日本でもこのような小説が生まれるのか、、、と思ったものだった

今回、読み終えてはっきりしたことがある(思い込みかもしれないが)
それは辻邦生も誰かの影響下でこの小説を書いたということ
その小説とはプルーストの「失われた時を求めて」だ
長いセンテンス、修飾の多いイメージを丁寧に記す文章、そして「失われた時」とは「夏の砦」においては
無理やり忘れようとした《?》過去のこと
その中に、自分の求めるものとか感じる基盤となったものが存在している、、という自覚と精神の復活・再生のようなもの
その後の辻邦生の作品に見られるヴァーグナーのライトモチーフのような、時折意識的に用いられる表現
この作品では、樟の木の葉がサワサワと風に揺れて音が聞こえるのをイメージさせるのは
なるほど、効果的なのかもしれない、いつか真似するときがあるかもしれない、、と思ったりした

とにかく、読後、圧倒されたと思い、次々と辻邦生の作品を読むきっかけとなったのに
その内容が肝心なところがすっかり抜け落ちていたのは、正直ショックだった
自分は本を読み返すタイプでは無いが、こうしてみると昔読んだ本を再読するってのは
人生経験を積んだだけ考え方や感じるところも変わって、最初に読んだのと同じくらい新鮮に感じられるかもしれない

ところで、この本を読んでて不意に頭に浮かんだ小説はサルトルの「嘔吐」だった
支倉冬子と同じような孤独な人間(ロカンタン)の頭の中で起こっていること、、
そうした孤独な人間の生き方・感じ方、、その抽象的で実生活には関係のないことに振り回される人間たちに対する興味
それが他人事とは思えず気になって仕方ない

本を語ることは自分を語ること、、と言った人がいた
(吉田拓郎は自分を語れば世間を語ると言ったが)
読む本を選ぶ、、、その時点で、人は自らを語っているに違いない
(だからある地方自治体の市長選の公開討論会ではおすすめの三冊を教えてくださいと聞きたかった)



 

 

 

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胡蝶蘭がまた咲いた

2018年08月19日 08時42分50秒 | 徒然なるままに

今年の1月中旬、ある事務所開きのお祝いの胡蝶蘭が我が家に廻ってきた
4月くらいまでの約3ヶ月間、5連の花たちはそれはそれはとても長持ちして
部屋の中、存在感たっぷりに賑やかに鎮座していた

やがて、花びらから水分が抜けて、薄い茶色になって1つ2つと畳の上に落ちたり
摘み取られて、その役割を終えることになった

この大きな胡蝶蘭の鉢は我が家の後ろ、日陰の多い場所に多少の期待感をもって
移動することになった
すると今年の殺人的な猛暑の中でも、頑張り屋がいるようで少しばかり蕾を見せることになった

それを見つけた優しい同居人は、暑いところはかわいそう、、と茎を切って
エアコンの効いた部屋で小さな花瓶に入れて、蕾が開くのを期待しながら待った

そしたら、

元気満々というわけではないが、蕾が開いた
花には興味がない自分だがこれは少しばかり嬉しかった
きれいだからではなくて、その頑張り、生命力、ひたむきさに何かホッとするものを感じた

生き物が生きている
その目的が何か彼らにはわからないかもしれないが、とにかく生きている、、
そんなことがとても愛おしいような、そしてそれがとても尊いことのように思えてきた
こんな日は、ブーンとうるさい蚊さえも叩き潰すのは控えてしまいそうだ

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42年前の今日の記録(バイロイト)

2018年08月18日 16時35分48秒 | 音楽

現在、ドイツのバイエルン州のバイロイトではヴァーグナーの楽劇・オペラのみを上演する
バイロイト音楽祭が行われている
革新的な演出の先駆けとなることが多かったらしく、世界中のワグネリアンが集い
上演後の食事ではあれこれ自論を戦わす事になっているようだ

42年前の今日、8月18日、自分もバイロイトにいた
この汚い金銭出納帳にその日の出来事が書かれている(こんなものを残していた)

宿泊代、食事代などのこまごまとした金銭の出費の下に数行その日の出来事が書かれている
この日は、祝祭劇場前で指揮者のホルスト・シュタインのサインを貰ったし
トリスタンとイゾルデの23日のチケットを19日と交換できたので運が良かった
としている
その他にも祝祭劇場から流れて来ている音楽を(聴けない人用に流していたのか?)
昨日の演奏よりは良さそうだ、、と偉そうなことも残している

この年、バイロイトで見た(聴いた)演目は、トリスタンとイソルデが2回、パルジファルが1回
シェローの演出、ブーレーズのフランス人のコンビで話題となった指輪は経験していない
実はオペラとか楽劇なんてそれまで生で見たり聴いたりしたことがなかった
田舎に住んでいるからそんなものに接する機会がないためだが、はじめての生の経験が
いきなりバイロイトでトリスタンとパルジファルだったのは特異であっただけでなく、その後にも大きく影響した

翌日19日はトリスタンとイゾルデの実演が16時から
午前中は学者風のおじいさんがピアノでトリスタンのアナリーゼを
一緒に泊まることになったアメリカ(フランスに住んでいる)のおばあさんと聴きにでかけている
ドイツ語でほとんどわからなかったが、ピアノで奏されたトリスタンの音楽の魅力的なこと
これだけは、覚えている

トリスタンの音楽で今でも覚えているのは
一幕ではもうじき船が着くという場面で、トリスタンとイゾルデがあれこれ言い合って
運命のライトモチーフが重い弦で緊張感をもって奏されるところ
秘薬を飲んでしまって、その瞬間にハープと独奏ヴァイオリンで恍惚となってあのテーマが奏されるところ
二幕では有名な愛の二重唱の場面とそれに続くブランゲーネの警告
その後のまったりした感覚の音楽
三幕では冒頭の暗い重い前奏曲とイングリッシュホルンのまるで死者(骸骨)を想像させるような音楽
これらのシーンは、録音媒体で聴く今でも特別な感情が呼び起こされる

最近はバイロイトに行ってるワグネリアンの方のツイートを、現場報告として見てるが羨ましい限りだ
いつか、もう一度、、あの独特な響きの劇場で体験したいものだ

ところで、9月2日には名古屋の御園座で愛知祝祭管弦楽団によるコンサート形式の「ジークフリート」が
上演される
「ラインの黄金」「ワルキューレ」と見てるが、これがとても熱っぽくて良くて、今度も楽しみ
ただ心配なのは自分の腰と股関節の状態
(行き帰りと座り続けられるか心配、、ダメなときは途中でリタイアするしかないかな)

祝祭劇場横でホルスト・シュタインからもらったサイン

 

 

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