ベートーヴェンが生まれたのは1770年で、亡くなったのは1827年
不意にこの時代の日本はどんなだったのか気になった
時代的には江戸時代だが、歴史的な事件よりも
この時代の作家さんが書いた時代の雰囲気とか考え方に興味がある
ベートーヴェンにかぶるのは十返舎一九と滝沢馬琴
名前は知ってるが真面目に読んだことはない
この際、ヨーロッパの歴史とかメンタリティと比較して
読むと面白いかもしれない
アマゾンでは現代語訳の東海道中膝栗毛があるようだ
ポチッとやってみようか
東京に出かけてホテルに泊まると、そこのテレビでニュース番組を見ることがある
いつも家で見ると同じようなニュースでもどこか違って感じる
リアリティがぜんぜん違うのだ
家にいるときはどこか遠いところの話のように思えている
ところが東京で見聞きするニュースは、すぐ近くで起きていることのように思える
それは東京で起きた火事とか交通事故だけでなく、政治の問題とかタレントさんの
どうでもいい報道でも、生々しく感じてしまう
だがこうした感覚も自分がいつも東京にいたならば、同じように生々しく感じるか
といえば、少し違うかもしれない
そんなことに慣れっこになってしまえば、また同じような毎日と感じるのかもしれない
東京の人、あるいは都会の人と田舎の人とは明らかに違う生活をしている
はっきり違うのは生活時間で、田舎に人間は昼行性の生き物らしく
日が昇れば起きて日が沈めば眠るパターンで、田舎にいる自分は
今は早寝早起きを実践している
夜は寝るものだとしているから夜のテレビ番組は知らないし
そこに出ているタレントさんも知らないし、今話題になっていることも知らない
そこで少し変なことを考えてみた
都会の人は「人との関係性」の中で生きていて(社会的生活)
田舎の人は「自分との関係性、あるいは自然との関係性」の中で
生きているのではないかということ
都会は誰か他人と接触、関わって生活せざるを得ない(特に現役世代は)
一方田舎はそれほど人との接触で生きているわけではない
むしろ自然とか植物とのかかわり合い(たとえば農業で)時間を費やす
そしてそんな中では、自分と話す時間が増えてくる
これは東京で生まれる小説とのテーマが、人との関わり合いがメインとなるのと
田舎の人が作り出す想像の産物は、必ずしも人とのかかわり合いだけでなく
もう少し内省的な物が多いの傾向にあるのに通じるかもしれない
この少し内省的な産物は、忙しい都会の人間の今を生きてる感覚からすると
どこかピント外れな時代遅れのような感覚を持ってしまうかもしれない
今思うのは内省的な作品は、今は都会では生まれないのではないか
ということ
内省的な作品が生まれるには、人間的な関わり合いの刺激が多すぎる
政治が政局絡みになったり、スキャンダルになったり、個人攻撃になったりして
常に刺激的で事件の経過を追うだけで、ひとの頭はついていけなくなる
もう少し時間があれば、「そもそも」という原理的なところまで考えが及ぶのだが
現在、テレビに出ている若い学者さんたちは「人との関わり合い」で論評を
展開しているような気がしてならない
一神教の生まれたところが、豊かな自然のあるところではなくて
常に自分との対話が要求されるところ、、であったのは半ば必然で
思索的な何かを生み出すには、沈潜する時間と環境が必要であると思う
その意味で、都会過ぎる東京よりは程々の京都のほうが思索的なものは
生まれやすいのではないか、、、と勝手に思ったりする
日曜の朝にふさわしくない話題、、、
ピカソと聞いて一般人が思い出すのはへんてこな絵
だが展覧会などで初期の作品を見ると驚くのが
その写実的な絵の描写力
ドビッシーのピアノ曲といえば前奏曲とか映像が思い浮かぶが
それらは感情に訴える音響というよりは感覚に驚きを与える音楽で
誰もが無条件に楽しめるような音楽ではない(と思う)
だが初期のアラベスクは、多分誰が聞いても聞きやすく
心地よい感情を呼び起こす(オーケストラに編曲された小組曲も聞きやすい)
嫌いな作曲家のアンケートでは上位を占めるブルックナーは
繰り返しが多く、何が言いたいかさっぱりわからん、、
との判定をくだされそうだが、彼もまた初期のピアノ曲
「秋の夕べの静かな思い」とか「思い出」ではショパンの夜想曲を
思わせるロマンティックな音楽で聞きやすい
これらの3人に通じるのは、その気になれば見やすい絵、聞きやすい音楽を
創造できたに違いないということ
だが彼らはそのように作らなかった
多分彼らは自分の中に湧き上がる衝動に任せて(あるいは意識的に)
自分の進むべき道のみを信じた
そしてそれは時間を経て、彼らの個性と評されるものになった
ピカソはピカソになり、ドビッシーはドビッシーになり、
ブルックナーはブルックナーになった
この自分が自分になるための時間とか努力とか信念とか使命感とか
そうしたものの源泉は一体なんだったんだろう、、と思ってしまう
若い時は晩年の作品に接することが多かったが、
いまは初期の瑞々しい感性の作品に触れたい気がしている
彼らが彼らになった理由も想像しながら、、
(自分も自分になっている、、と思いながら)
昨日は少しサボったが、今朝は頑張ってしっかりウォーキングした
いつも見てる風景なのに新しく気づくこともある
扉のついた金属製の生ゴミ保管場所(かなりの容量のもの)が目に入った
これならカラスも漁ることはできまい
でも彼らは思いのほか賢いから、軽い閉め方だとダメかな、、
などと、思いながら歩く
歩く時間もなにか考えていると時間の経過を忘れる
先日は「来ぬ人を待つ、、、」
と和歌のようなものを作ってみようかと、その先をいろいろ考えて
知らず知らず家に着いた
今朝はその未完だった歌をどのように完成させようか、、と
あれやこれや想像をめぐらした
「来ぬ人を、、」は藤原定家の百人一首の歌
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
をちょいと引用というかパクったもの
蛙の鳴き声が飛び交う田舎道を歩いていると、
廃校になった高校のチャイムが大きな音であたり一面に響いている
「不意に、今は待っても学生も来ないのに、、、」
と思うと、「来ぬ人を待つ、、」までは思いついたというわけだ
そこからが先が平凡人の情けないところで浮かんでこない
あれこれ、ああでもない、こうでもない、、と考える(想像してみる)
結局まとまらず、、どこか気持ちの悪いままほったらかしにしたのが先日のこと
今朝はその続きを、、と歩きながら考えた
(先日のことを忘れていたなら、それはそれで仕方ないと思っていたが覚えていた)
なかなかいい案とか言葉が浮かばない
そのうち面倒になって、とりあえず完成させることが大事!
と無理やりにも文字数を合わせて形だけは揃えた
「来ぬ人を待つ裏山の鐘の音 山影映し時待つ稲田」
「来ぬ人を待つ裏山の鐘の音 聞くや聞かずや蛙鳴く」
でもこれでは鐘が廃校のチャイムじゃなくて、お寺の鐘みたいだな、、
とりあえず意味は通じるかもしれないが、どうも気に入らないなと不満が残る
結局、またもや気持ち悪いまま放ったらかし状態
これはいつか完成するんだろうか
※裏山を廃校にしたらどうなのかと後になって気がついた
来ぬ人を待つ廃校の鐘の音 山影映し時待つ稲田
来ぬ人を待つ廃校の鐘の音 聞く聞かずや蛙鳴く
あまり変わらないか、、、センスないな
この一週間で読み終えた本
キエルケゴールのは再読
再読の割には時間がかかって仕方なかったし、何かよくわからんというのが実感
若い頃、ニーチェよりもキエルケゴールのほうがシンパシーを感じて
どこか面白かったという記憶はあったが、読み直して、それがどこだったかはわからなかった
だが部分的に(本質と関係ないところで?)気になる例があった
(孤独に憧れる精神といった部分、だが全面的にキリストの前での審判は、、よくわからん)
実は「死に至る病」よりは「現代の批判」のほうが今の読むにふさわしい内容だった
冒頭にこのような著述がある
現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代で、たまに感激に燃えたつことがあっても
如才なく、すぐにもとの無感動に落ちついてしまう
この短い文章(の内容)はソナタ形式の第一主題みたいなもので、いろいろ料理されて
何度か繰り返されて、そのたびにリアリティを増していく
本が書かれた時点の「現代」と、現時点での「現代」が全く違ったものではなく
今でも通用する、いや今こそ問題視される内容となっている
年齢を重ねるとつい「今の若いもんは、、、」と文句の一つも言いたくなってしまうが
それに通じる「現代の若者への不満」が、この本にも感じられるということだ
これは近いうちにもう一度読み直したほうが良いかもしれない
(慌てて読みすぎたので)
上下に別れた浅田次郎の「流人道中記」は、少しも苦労しなかった
多少意味がわからないところがあっても気にせずに読み進めることができる
ただただストーリーに身を任せておけばいい
でも最近はストーリーよりは作家の技術的なところが気になる
昨年再読したカラマーゾフの兄弟も内容よりは、ドストエフスキーの
仕掛け(種まき)の部分の方が気になった
この「流人道中記」は時々視点が変わって、同じ事件(事象)を紹介して行くのだが
その同時進行していく技術と、それをまとめる力に関心がいった
ただ、それがうまくいってる場合と、イマイチのエピソードがあって
あまりにも完璧すぎないところがどこかホッとする
純文学のように言いたいことを、難しい表現やエピソードで紹介するのではなく
流人の青山玄蕃はストレートに、武士の世界観や制度を批判し、それを行動にあらわす
それはわかりやすいが、あまりにもストレートすぎて、個人的には少しどうかな、、と
思うところもないではなかった
もっともこの本はストーリーの楽しとか人の優しさを感じるための本を思えば
作者の意図は見事達成してると言えるだろう
無理やり難解な本を読むつもりはないが、最近は苦労する本を読む事が多い
それはついつい読んで得られる刺激が強い本を求めてしまうからだろうか
おせっかいなグーグルアプリ(iPad上)がピンク・フロイド「狂気」の10の秘密
などと誘ってきたので、昨日の日曜日、久しぶりにレコードをかけてみた
評判の「狂気」は個人的にはそれほど感動もしていないし、気に入っていない
でも今聞いてみたら少しは違う印象を持つかもしれない、、
と、とりあえず偏見なしで聴いてみようとした
なんか物足りないな、、
エコーズとか原子心母の焼き直しみたいな、、
B面のマネーあたりから熱気は感じられたが、どうもイマイチの感覚は拭いきれない
それでお口直しにおせっかいを引っ張り出した
お目あてはB面の「エコーズ」
20分を超える大曲で神秘的で宇宙を思わせたり、何故か雅楽を連想させたり
それでいてしっかりロックの要素もある
この曲を聞くと何故かモーツァルトのクリリネット協奏曲を思い出す
それは単に個人的な感想に過ぎないが、「純度の高さ」という点で一致するような気がする
ロックの音楽で「純度の高い」と感じるのはもう一つビートルズの「アビー・ロード」
この音楽も音楽自体で他の力を借りずにその存在価値を誇っている
ところで「エコーズ」を聴いてて最近の音楽のことを考えた
(と言っても最近の音楽は聴いていないのでなんとも言えないが)
今の音楽も、このエコーズが表そうとした何かを求めているのだろうか、、、
エコーズが表そうとした何か(?)
エコーズが表にでたあの時代は、あのジャンルの音楽界は何故かみんな難しいことを考えていた
消化不良になりそうな、、しかし、若さ故に直感的な正しさに満ちているような
そうした熱気がそこにはあった(そして自分も若かった)
その時代にしかわからないものはあるかもしれない
古典として残っているものも、その時代にリアルタイムで感じられたのとは
違う評価基準で捉えられる気がする
フルトヴェングラーのトリスタン全曲の濃厚さは
カラヤンやクライバーの現代的な響きとは少し違うために
耳が慣れていないと単に古いとしか感じないと思われるが
このエコーズも、今の人には何をそんなに大上段に振りかぶって
と思われてしまうかもしれない
でも若い時期に全身で共感した記憶があると
それはなかなか忘れることはできない
「人は食べたものでできている」
と言われるが、自分も聴いたもの、読んだものからできていると
深く実感するこの頃だ
それにしても「エコーズ」は名曲だな
知らないなんてもったいない、、と、おせっかいにも思ってしまう
チコちゃんに叱られそうだが、ボーッとしてるのが好きだ
10年ほど前、東北新幹線で新青森まで行ったときには、
退屈するだろうと本を持参したが、移り変わる景色をみて、
それこそボーッとして飽きることはなかった
思い出にふけったり、あのときこうすればよかったと後悔したり
景色に触発されて連想の輪が繋がったり、、そして多少の諦めも
感じたりして、、、自分との対話をした
朝の散歩も同じコースを歩くと、いつの間にかコースの景色よりは
自分との対話の時間が多くなっている
実はあのときKさんの気持ちは分かっていたんだ、、それなのに、、
結構残酷なことをしてしまったのかも(仕方ない、、時間は戻らない)
自分は自分の望むようにしてきたのか、、
思いのほか振り回されて今に至っているようだが
それでもしぶとく道を外さずに(?)生きられているのは
誰に感謝すれば良いのだろう、、、とか
次々と湧いてくる思いにふけりながら歩くのは、
健康のためのウォーキングというよりは精神の健康のための時間のようだ
田舎の道は退屈だ
しかし、自分との対話の間に不意に気になる景色が目に入る
田んぼに映る山と人家
こうした何気ない風景に何故か心動かされる
また早くも太陽を背に受けて歩いていると、長く伸びた自分の影が目に入った
こんな風に影が長く感じたのは、槍ヶ岳に登ったとき以来かもしれない
夕日に照らされた自分の影は、記憶の中では槍ヶ岳の影より長くなっている
(そんなことはありえないのに)
座禅をしたことはないが、座禅はどんな精神状態になるのだろうと思ったりする
何も考えないようにすると言っても、最初はそんなことは無理に違いない
開き直って連想に身を任せ、、それが尽きる頃になって、初めて座禅の境地なのだろうか
孤独と孤立は違う
ふとそんなことを思う
こうしたボーッとした時間、、好きだな
特技はボーッとした時間を過ごすことができること、、
(電車が好きなのはそのせいだ)
文春砲が炸裂、一気に急展開を見せた検察庁の黒川さんの件
週刊文春を購入したが、この中で気になったのが2つのこと
一つはこのスクープのきっかけとなったのは、産経新聞の関係者から
週刊文春に「賭けマージャンをする」との情報提供がなされたこと
賭けマージャンをしていたのは産経新聞の2人と朝日新聞1人
産経新聞の(別の)方からタレコミがあった(?)と記事にあった
不思議なのは産経新聞は読売新聞と並んで、政権擁護の傾向が強いのに
何故、政権に不利になりそうなことをしたのだろうか、、
産経新聞のなかの良心的な人物が止むにやまれす行った、、との見方とか
もっと深読みをして、黒川さんがやめるキッカケを作るためだとか
とにかくいろいろな妄想がネット上で飛び交っている
この界隈のことは、よくわからん、、、というのが田舎のおっさんの気持ち
気になったもう一つのことは、多くの人があまり注目していないことで
黒川さんが「駐輪禁止」と書かれた看板の近くに自転車を止めたとする写真
その近くには有料駐輪場があったとある
「この人、こういう人なんだ!」
彼を知る人から紹介される人柄とか仕事ぶりよりも、
この一つの写真が物語るほうが多くを語る気がする
このひと、こういう人なんだ
普通の人がどこか後ろめたい、、と感じるようなことも
無神経に(見ていないから)平気で(自分の公的な立場もありながら)破っていく
完璧な人はいない、、叩けばどこかからみんなホコリが出てくる
でも、こうした些細なことにブレーキがかけられない人は
一事が万事ではないが、余人を持って代えがたい人物とはとても思えない
人は公の場所よりも緊張の緩んだときの方が本性を表しやすい
すべてを大げさに拡大解釈をするつもりはないが
「この人、こういう人なんだ」は深く印象に刻まれた
昨年、源氏物語を読んで、あの時代は病気を治すには加持祈祷に頼っていたと知った
確か、枕草子にも病気平癒のための加持祈祷が書かれているところがあったような
(イケメンの祈祷師とか退屈で船を漕いでる人とかいるとか書かれていた記憶)
今なら、科学的でなくバカバカしいと笑い飛ばしてしまうのだが
それでも、頼るものがそれしかないとしたら、、それは無意味と断言できるのだろうか
ドーキンスは祈ったところで効果はない、、と一刀両断している(「神は妄想である」の中で)
しかし科学的に考えうることをしつくした先に
人が頼るのは幸運とか、超自然的な何かに至るのは心情的に理解できる
効果はないとしても、祈った人の気持は、自分ができることをやりきったと
いう実感を持つのではないか
人が何かを理解したり納得するというのは、果たして理性のみに依存するのだろうか
理性に基づく討論・議論は、精緻な分析とか深い見識を生み出す
それはある意味一種の到達点でもある
しかし、議論はまた議論を招いてしまうような気もする
カラマーゾフの兄弟の有名な「大審問官」の章で、圧倒的な大審問官の話の前で
キリストと思われる人物は「何も言わず」ただ大審問官に口づけをして去る
議論による理解以上の何かがそこにはあるとして(?)
確かこのようなシーンは、ゾシマ長老とかアリョーシャにもあったような疎覚え
人に理解とか納得を得たい場合
理屈のみの説得は用をなさない、、、と感じざるを得ない
最近の我が市の市議会で起きている出来事
筋からすればウンもスンもなく正当性は片方にあると思われる
だが、理屈は新たな理屈を生み出して、あるいは感情に障り
素直に受け入れられない状況を作り出してしまう
自分が損になると解っていても、従うべき理屈に従えるか
これは思いの外難しい
そうすべきだと強制されても、素直には従えないのが人の常
とかく人の世は住みにくいってことか
時々、国の問題と市の問題はシンクロしていると思うことがある
最近の出来事では、国の検察庁法改正案と新城市の予算案がそれだ
検察庁法改正案は国家公務員法の改正と一括りにされて(束ね法案というらしい)
法案の良いところ悪いところを含みながら、賛否の議決する手はずになっていた
ところが政権が想像もしなかったツイッターの一気の盛り上がりによって
法案の見送りということになった(昨日から今朝のニュースで明らかになった)
一方、新城市議会では3月の予算決算会議で、令和2年度の予算について
すべての予算をひとまとめにした案(普通はこの方法をとるらしい)ではなく
市民の間に問題意識の多い予算(高速バス事業)については、今回はそれを抜き出して
別個に検討しようとする修正案が一部の議員から提出された
これは国に当てはめると、国家公務員法と検察庁法を区別して個別に検討
しようとする考えに似ている
政府側は分けて考えることのできる法案を、何らかの意図で一括りにした
新城市の一部議員はひとまとめでエイヤッと決めるのは乱暴過ぎるということで
個別に考えようとした
ニュース解説で国の法案の提出意図や経過を知るようになった今
関心のある新城市民は3月の市議会の出来事の意味が
「そういうことだったのかと!」
分かるようになったのではないか
つまりは、分けて考えること、一括して考えることの違いだ
ただ方法論としてどちらが適切か客観的に選択される前に
提案者側は好き勝手に一括してしまうことができる現実がある
この話を同居人に話してみたら、なるほど、、
と理解してもらったが、他の人に伝わったのかは、少し心配