アメリカの若者が左派あるいはリベラル志向なのに対して
日本の若者が反対の傾向があるのは何故だろうというのは
新聞社の中でも、その原因を検討すべきと考えられているようだ(毎日新聞)
だがこれは若者に限ったことなのか、そもそも日本人に最初からそういう傾向が
あるのではないか、、、とも思ったりする
最近、流し読みした「歴史の終わり」(下)【フランシス・フクヤマ】には
日本のことについて興味深い著述があった
抜粋してみると
ほとんどのアジア諸国では政治的権威の起源が欧米の場合と異なっており、リベラルな民主主義についての解釈も歴史的にそれが誕生してきた国々とはかなり違っている。儒教的な社会においては集団と言うものが労働倫理を維持する上で重要なばかりでなく、政治的権威の基盤 としての決定的な意味を持つ。ある一個人が地位を得るのは、当人の持っている個人的な能力や価値のおかげと言うより、もっぱら彼が数珠つなぎになった1連の諸集団のその一つに属しているためだ。例えば、日本の憲法や法体系はアメリカと同様に個人の諸権利を認めているかもしれないが、一方で 日本の社会は先ずもって集団を認めようとする傾向がある。
このような社会における個人は、当人が既存の集団の一員であってその規則を遵守する限りにおいて尊厳を持つ。しかし彼がその集団に対して自己の尊厳や権利を主張するやいなや伝統的な専制支配の公然たる暴政に劣らないほどのひどい社会的村八分にあい、地位を失う羽目になる。 このことが協調性を要求するための計り知れない圧力を生み出し、そのような社会に暮らすものは幼い子供の家から協調性を植え付けられていく。言い換えればアジア社会における個人はトクヴィルの の言う「多数者の専制」、あるいはむしろ大小問わず個人の生活と関わりのあるあらゆる社会的集団の中の多数者の専制の餌食となっているのである。
なんだか思い当たる節が多い
この先少し省略した後、こんなふうに続く
アメリカでも子供たちは、幼いうちは両親の権威への服従を要求される。だが成長するにつれて彼らは親に反抗して自分自身のアイデンティティーを主張し始める。 親の価値観や希望に子供が公然とそむく10代の反逆という行為は、1人の大人の人間としての個性を作り上げていく過程でほとんど欠かせないものなのだ。なぜなら反逆という行為によってのみ子供は自立と自活への精神的心構えを養っていく。同時に 自分を守ってくれる家庭という傘を捨てる能力、そしてのちには1人の大人としての人格を支える能力に基づいた、一個の人間としての「気概」に満ちた自己価値観を磨いていくのだ。この反逆の時間をくぐり抜けて初めて彼は両親と互いに尊敬し合う関係に戻れるが、それはもうかつてのような 従属関係ではなく対等な付き合いなのである。
これに対して日本は異なる。幼い頃の年長者への服従は、成人してからも一生続いていくのが当然とされる。人の「気概」は、個人の資質に誇りを抱く自分自身にではなく、むしろ、個々の構成員以上に全体としての評判を優先する家族その他の集団へと結びついていく。 怒りが生じるのは他人が自分自身の価値を認めてくれなかった時ではなく、こうした集団が軽視される時である。逆に最大の羞恥心は、個人の失敗からではなく自分の属する集団が被った不名誉から生じる。
どちらが良い悪いではなく、どうも根本的なところが違うようだ
でもどちらかと言えば(自分は)個の確立をベースとした西欧的な方向性に共感を覚える
(ただ問題は、日本人の多くはどう感じるかという点 )
興味深い著述は更に続く
今度は観念的というよりは現実の報告のようだ
日本での集団意識のあらわれの第2番目のものは、従来からの西欧流の民主主義的な「政治」というものが沈黙しているところにある。というのも西欧の民主主義は善悪についての「気概」にもとづいた対立意見のぶつかり合いの上に成り立ち、その対立はマスコミでの論戦となって現れ、最終的には各種レベルの選挙によって利害や主張の異なる 政党が政権交代を繰り返していくのである。この対立意見のぶつかり合いは当然至極で、民主主義の正常な機能にとって不可欠な付随物であると考えられている。 対照的に日本では、社会全体が単一かつ安定した権威の源泉を持っているただ1つの大集団とみなされがちだ。そして集団の調和を強調することによって、開かれた対立は政治の外縁部と追いやられてしまう傾向にある。 だから日本には「政治問題」での衝突による政権交代は皆無で、むしろ自由民主党の支配が数十年にわたって続いているのである。
もちろん、自由民主党と野党の社会党や共産党とのあいだにはあからさまな論争もあるが、これらの野党は、主張が急進すぎるために時流から取り残されているのが現状だ。そしてまともな意味での政治の駆け引きは、おおざっぱに言えば中央官僚制度の内部や自民党の密室などの大衆の目が届かない場所で執り行われているのである。 自民党の中では、政治は個人的な親分・子分の関係に基づいた派閥の絶え間ない奸策の周りをぐるぐるめぐっており、西欧なら誰もが政治の中身として理解しているものがそこには全く欠けているのだ。
日本の民主主義は、欧米の基準からすればどこか権威主義的に見える。この国で1番の実力者は高級官僚や自民党の派閥の領袖たちだが、彼らは民衆の選択によってその地位に出したのではなく、学歴か、さもなくば個人的なコネを通じてそこまでのし上がってきた。
こういう連中が、選挙結果や大衆からの各種の圧力にはさほど耳も貸さずに、共同体の福利に影響及ぼす重大な決定を行っているのである。 とはいえこのような体制は根底では民主主義の枠内にとどまっている。なぜならそれは定期的な複数政党選挙や基本的諸権利の保障などリベラルな民主主義の基準を満たしていると言う意味で形式的には民主主義であるからだ。
日本では若者が保守的っぽい(政権支持が多い)のは、
昔、棒を振って暴れた連中は結局何もなし得なかったという冷めた見方から来るのでもなく
若者は経験が少なくて自分自身の考えに自信が持たないので、多数派(政権)に従っていれば間違いはないだろう
とするのでもなく、上に挙げた「歴史の終わり」で解説されたような日本人が当たり前にように感じている社会(もしかして権威に弱い)
の反映なのではないだろうか
いずれにせよ、外国からは日本人の実態はこのように見られていて、実感としてそれは否定できない部分も多い
要は個の確立からスタートする一つの人格の選択によるものが、真の(西欧流)民主主義行動と言われそうだが
果たして日本は形式的民主主義から脱皮でるか
若者の政権よりの問題は、単に若さだけの問題ではなさそうな気もしてきた