パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「おぼと」(朝の会話から)

2020年11月30日 08時46分42秒 | 徒然なるままに

この時期らしい冷たい朝だった
最近、子どもたちの集合が遅れ気味になっている
(あいさつ推進運動で校門までの付添)
時々集まる順番が入れ替わる
今朝はいつも遅い子が早く来ていた
(何か変なことがなければいいが、、、)

集まるとみんないろんな服装をしている
短パンの子もいれば、しっかり冬の服装している子も
寒がりのおばあちゃん子は、ついつい厚着させられるらしいが
自分らが見ても短パンの子は寒そうに見えて仕方ない

「短パンと長いのと、好きな方でいいようになってる?」
班長の6年の女の子に聞いてみる
「うん」
「寒いから長いのにしないの?」
「長ズボン、好きじゃないから!」
そうか、女の子はこのくらいからそういう選択をするのか、、
形に拘るのも根性(?)が必要だな、、

バカバカしい会話をしながら校門まで歩く
いつものように1歳数カ月の男の子が、通学するみんなのあとを
なにか良いことがあるので付いていかなきゃ損!
とでも思っているかのように歩いていく
彼は自分がみんなと同じだと思っているかのよう

そんな彼を見て一年生のいつも手をつないで欲しいという子が
「かわいい!」と言う
まだ「かわいい」言われる一年の子が、「かわいい」ということが笑えてくる
(岩崎恭子がバルセロナオリンピックで金メダルを手にした時
「今まで生きてきた中で一番うれしい」言ったが
 14歳でどれだけ生きてきたのかと笑えたことを思い出す)

校門で校長先生がみんなを迎える
いじられやすいタイプの先生のようで子どもたちは遠慮なく
校長先生を叩きにいったりする
(それは低学年の子たちだが)
こういうのを見ると、ホッとする

校門に集まったあいさつ推進運動のメンバーが声をかけてきた
「ごぼうを英語でなんというか知ってる?」
ダジャレかと考えて
「ファイブ、スティックス?」
「違う違う、実はブルドッグ。〇〇さんが教えてくれた
 ブルドッグが、ゴボッゴボッとして、それでブルドッグがごぼうと覚えることができた」
なるほどインパクトのあるエピソードで、これなら忘れないかもしれない
(後で確かめると、正確にはブルドックでグではなかった)

校門では大人も他愛ない話をする
ごぼうがブルドッグと話した方に聞いてみる
「おぼと、って知ってる?」
「おぼと?何それ、聞いたことないな?」
「ほら日なたのあったかいところ、、言わない?」
「聞いたことないなあ、それは〇〇家だけの言葉じゃない?」
それで、他の人にも聞いてみる
「知らないな、、」
「聞いたことないな」

これだけみんなが知らないと少し不安になる
それで家に帰って確かめる
「おぼとって、このあたりで使うよね」
「日なたのことね、使うよ、なんで?」
「今朝、校門のところでそんな話になって、みんな知らないと言うから」

ということで、朝の時間は過ぎていく
良い日になりますように!

 

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ゲルト・ミュラー

2020年11月28日 08時59分31秒 | サッカー

土曜日なのでお気楽な話題を!

先日マラドーナを取り上げた時に、ゲルト・ミュラーも少し変わってると紹介したが
ゲルト・ミュラーのことを知らない人が多くなってきているので、彼のことを少し

彼はドイツ人で、ずんぐりむっくりした体型のフォワード
でもゴールすることだけは異様にうまい選手で、ウキペディアを見ると
西ドイツ代表62試合で68点
ブンデスリーガでも427試合で365点を取っている
驚異的な得点率だ
このゴール職人故に「デア・ボンバー(爆撃機)」とのニックネームがある

彼はメッシとかロナウドとかのように、すごく上手いとかフィジカルが強いというのではない
だから過度に動き回ることはない
でも点はしっかり取る
それは不思議なことに、何故かそこに彼がいるという場面が多いのだ

実はこれを実感したことがある
昔ドイツをフラフラしていた時、バンベルクのユースホステルに泊まった
その時近くのグランドで地元の消防隊員(だったと記憶しているが)と
バイエルン・ミュンヘンのサッカーの親善試合が行われた
最初は地元チームにプレゼントのような得点をあたえたのだが
バイエルン・ミュンヘンはそのあとのキックオフから相手チームに全く触らせずに
あっという間に同点にしてしまった

それからは一方的な試合になったのだが、この時のミューラーがとても印象に残っている
いつも良いところに彼がいるのだ(練習の成果とか決まりというより、何故かそこにいるのだ)
彼はまるで箒で塵取りにゴミを入れるように、ゴールにボールを入れる
今でも覚えているのは「箒で塵取りに入れるような印象」でシュートする
これなら外すわけはない、、と心に刻まれた
40年以上も前のことだが、彼の得点のこのイメージはずっと残っている

話は変わって10年以上前、ドイツ語通訳をしていたある人からミューラーの
13の背番号の入ったユニホームを頂いた
大事にしておけばよかったのだが、嬉しくてサッカーコーチのときに着てしまった
そのユニホームは自分にはブカブカだった

その後ユニホームは、サッカー狂いのような中学生にプレゼントしたので
自分の元から離れてしまった(少し失敗したかな?)




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昔、思い浮かべたこと(シェーンブルン宮殿で)

2020年11月27日 09時22分07秒 | あれこれ考えること

7年前、いろいろ確認したいことがあってドイツ・オーストリアに出かけた
その中に、「今シェーンブルン宮殿を見たらなんと思うだろうか?」
との興味があった

初めてシェーンブルン宮殿に訪れたのは1976年だった
若さに任せた後先を考えない衝動的な旅だったが、今振り返ると
フットワークの重い自分にも若い時があったのだ、、と感慨にふける

初めての時、この広大な庭の高くなったところまで歩いていく最中、突然頭に浮かんだことがあった
「これが自分の所有するものになるのなら、権力者になりたいと思うかもしれない」

小市民で大きなことは考えず、内々でグズグスして、屁理屈をこねてることが当時から多かったが
その時初めて、「お金持ちになりたい」とか「権力者になりたい」という気持ちがわかった気がした
何かを支配する、思い通りになる、、
それは経験したことのないひとには想像できないかもしれないが、とてつもなく魅力的なことかもしれない
と実感したのだ

幸い(本当に幸いかどうかはわからないが)その後、権力欲とかには振り回されることは無かったが
この時覚えた強烈な印象は、今でもはっきりと覚えている

小高いところまで登ってみる
その場所には、想像していたよりも短い時間で着いた
(記憶の中ではすごく歩いた気がしていたのに)
そして歩いている時は、これが本当に悲しいのだが「何も感じなかった」
目の前にあるのは単なる庭園、特に際立つ程のことはないし、どこかでも見た気がする
思ったよりも小さい 
そんなことしか浮かばなかった
 
するとあの時、なんであんなことを思いついたのだろう
との思いが浮かぶ

人は初めて接するのと、二回目以降では感じ方が違うのかもしれない
広隆寺の弥勒菩薩を見た時も、龍安寺の石庭を見た時も
ノイエ・ピナコテークでゴッホのひまわりを見た時も
二回目は悲しいくらい感受性が鈍化していた

眼下にウィーンの街を見る
2回目以降は何も感じないようになっていても、この街は2回目以降でも訪れるとホッとする
(それは新幹線で京都に近づいているときに感じる感覚に似ている)

1976年も、同じ様な写真を撮っていた

絵心がないのは、前と同じだ(情けない!)

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マラドーナ

2020年11月26日 09時07分20秒 | サッカー

マラドーナが亡くなった
実生活では欠点の多い人だったが、自分は好きだった
メッシの現実的なプレイ(点とりに特化した)とは違って
いざとなれば一人でなんとかしてしまう凄さがあった
ドリブルでも華麗というよりは、戦車が走るような辺りを蹴散らすような迫力で
それでいてディフェンスの重心の裏を取るようにして抜き去るのは
なんで止められないのか?と思ったものだ
(聞くところによると、マラドーナの走った後の芝生はすごく傷んでいたとか
 それだけ地面を踏ん張って走ったということらしい)

特に有名なメキシコ大会のイングランド戦のハーフウェイライン手前からの
5人抜きのドリブルは、イングランドの選手がスローモーションのように見えて
なんであんなに簡単に抜かれるのか不思議で仕方なかった

テレビ画面で見なれたこのシーンも、Jリーグのスタジアム観戦にでかけた時に
マラドーナはあの辺りからドリブルして得点したのだ
と再確認すると、それはとても信じられない出来事のように思えてくる

サッカーのプレイはすごかった
でも、変人だった(ようだ)

スーパーなプレイをするサッカー選手は紳士というより変な人が少なくない
爆撃機と呼ばれたドイツの点取り屋ゲルト・ミューラーも
日韓大会で活躍した大五郎カットのロナウドも
とんでもない得点シーンで笑うしかないイブラヒモビッチも、どこか普通じゃない印象

とりあえず世界はサッカーの実力でその選手の存在価値を認める
ところが日本はどうなんだろう
変人は嫌われるのではないだろうか
才能というのは英語的な意味合いでは天から授けられたものらしい
特殊な才能を授けられた人は、どこかが人と違っておかしいほうがバランスが取れている
とずっと勝手に思っていたし、今もきっとそうだろうと確信してる
(何故かはわからないが、そういうものだと)

日本のサッカー界には点取り屋が生まれない
点取り屋のメンタリティはエゴイストで変わり者が世界では通説のようだが
日本ではそれだけでは認められない
むしろみんなと一緒になって攻めも守りも行って初めて評価される
でも点を取るという時に肝心なエネルギーを消費してしまっていたら
彼は自分の本来の役目を果たせない

だがこうした意見(特殊な才能はそれを活かせるようにしたほうが良い)は
あっという間に片隅に追いやられる
みんなでワンチームになってひたむきに働く
こうでなきゃ、、と、日本人全体もメデイアも騒ぎ立てる
結局のところ、日本人はこういうの(みんなんで頑張ること)が好きなんだ、、
と思うしかないが、自分は少し変でもすごい選手がその才能を発揮し続けられる
世の中のほうが良いと思ってしまう

ある時、マラドーナが親善試合で披露したお尻でトラップしたシーンがあった
その発想自体が笑えて、この人は一般人の価値観で判断するのはかわいそう
一般人は彼を楽しむしかない、、と思ったものだ

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新しいことを覚えるのは楽しい(しかし、時間がかかりそう)

2020年11月25日 09時15分01秒 | 徒然なるままに

自分の年齢でも、まだ新しいことを会得するのは楽しい
必要に迫られて(外国にルーツを持つ子の勉強の手伝い)ZOOMの使い方を調べている

残念ながらこのボランティアに参加しているのはお歳を召した方が多い
自分もその一人だが、今年のコロナの影響で、こうした勉強もリモート行うことが
推奨され、そのためのタブレットも無料で支給された

ただ、これを使いこなすのが年配者には難しい
年配の女性が多い中で男の出番!
と気張ってみても、リタイアしてからこうしたツールの必要性は実感していないので
イメージ的にはシステムは分かるが実際には戸惑う

それが悔しくて、ネットで使い方を検索する
なるほど、、こういうシステムか
そりゃそうだよな、、
といったなんとなく大枠で使い方が分かってくる

この分かってくるという感じが、久しく忘れていた感覚で
少しづつでも昨日よりは進歩している、、という思いは心ウキウキする

だが問題は、このことをお歳を召した方々に説明すると分かってもらえるかという点

スタッフには多分同じことを何回も説明しなきゃならないだろうな、、
と同時にこうした自分らの実態(なかなか覚えられない)を顧みて、対象となっている子どもたちも
日本語を覚えるということは同じように難しかったり、時間をかけるしかない、、
のかもしれないと思ったりする

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「は」と「を」の違い

2020年11月23日 08時32分27秒 | あれこれ考えること

先日NHKで三島由紀夫の特別番組が放送された
好きな作家ではないが、とりあえず見ておいた
その最後の部分、荒れ狂う学生運動の最中、彼は東大の講堂で
多くの学生の前で討論会を行った
その内容は詳しくは放送されなかったが、
この討論会の企画をした方の言葉が印象に残った

「諸君の熱情は信じます」
がそれだった
ところが、ある発信力のある方(ジャーナリスト)のツイッターでは
「諸君の情熱を信じます」
となっていた
「は」と「を」の違い
たった一言だがそのニュアンスはだいぶ違う

自分は言葉に精通している訳ではないが、それでもこの違いくらいは見当がつく
「は」は熱情は信じるが、他のものは信じないという雰囲気
「を」となると、熱情故に全面的に肯定的な意味合いとなる(気がする)

テレビを見ていた時は、どんな意見の相違があろうとも
その問題に対する取り組む真摯な熱情だけは信じられると理解して
三島由紀夫も(好きじゃないが)良いこと言うじゃん、、と思ったものだ
そして三島由紀夫のこういう態度こそが、今の世の中に欠けているのではないか
とも思ったりした

最近の討論は全否定の戦いだ
相手の言い分を少しでも認めることは敗北のようになっている
そして議論に勝つための戦術として人格否定も入ってくる
でも、議論は相手があって初めて成立するもの
相手の自説を説くための真摯な態度までは否定することはない

川中島の戦いでは、敵同士であっても上杉謙信は武田信玄に対しては
ある種の敬意を持っていたようだし、日清戦争だったか日露戦争だったか忘れたが
日本海軍のある行動に対して敵側もそれなりに評価していたこともあった

ところで、この「は」と「を」の違いに関しては、言葉を専門とする人(ジャーナリスト)は
もう少し敏感であってほしいと思う
「を」では言外の意味を伝えきれない、、と思えてならない

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去年の今日(11月22日)は、、

2020年11月22日 08時50分42秒 | 徒然なるままに

去年の今日(11月22日)は京都に日帰りで出かけていた
去年のブログ→京都日帰り旅行(広隆寺と嵐山)

いつもなら人の頭を見るだけになっても、京都のすさまじい紅葉は
絶対に見る価値があると思いこんで出かけたものだったが
今年は小心者は我慢を決め込んでいる

京都には行くたびに足を運ぶ場所がある
それは「お菓子やさん」で虎屋 京都一条店
抹茶とお菓子のセットを楽しむのが定番になっている
ちょっとだけアクセントのある香りとか味付け、品のいい甘さのお菓子に
こんなに美味しいものだったのか!と感じさせる抹茶

お菓子と抹茶であの価格は安くはないが、久しぶりの旅は少し財布の紐がゆるくなるのは仕方ない
どちらかと言えば甘党の部類に入るかもしれないが、振り返ってみると自分はずっと前から
スイーツは好きだったようだ
昔、ドイツを放浪した時の出納帳に毎日のように「ケーキとコーヒー」という項目があった

あと一箇所、足を運ぶのが錦市場の「杵つき餅や」
ここで寒い時は雑煮、熱い時はかき氷、その他は焼き餅かなにかを頼んでいる
お相撲さんやラグビー選手のルーティンではないが、決まったところで締めるのは
どことなく安心するのでもうずっと続いている

そう言えば、昨年はお土産に「笹屋伊織のどら焼き」を購入した
一月に3日しか販売しないお菓子で、普通の円盤状のどらやきとは全く違う
大あんまき風で、歯ごたえがもちもちして、結構好きなお菓子だ

こんなふうに思い出すと、行きたいな、、という気分になってしまうが、仕方ない
もうしばらく我慢しよう

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「正しいけど、面白くない」と「正しくないけど、面白い」の戦い

2020年11月21日 08時44分49秒 | あれこれ考えること

「正しいけど、面白くない」と「正しくないけど、面白い」を比べると
人を引きつける力があるのは、後者の方になりやすい
困った人物のトランプさんがあれだけの支持を集めるのも
日本国内でもフェイクニュースと思われるものが伝搬するのも
根本は似たようなところに原因があるのかもしれない

残念ながら、人は他人の悪口を言って気分解消をしてしまうところがある
そうすることによって精神的に自己を守ることができるのか、どうかはわからないが
知らず識らずやってしまいそうなのは自分でも経験がある

人の感情を駆り立てる大きな力は「怒り」だ
それが持続するかどうかはさておき、「怒り」は人の心に火をつける

自分たちが僅かに関わっている市政に関する案件でも
人々の間に「怒り」を共有できれば、もっと広がりを持つことが可能と考えることはできる
ただ「怒り」を持つためには、まずは実態を知ることが必要で、真面目すぎる人は
「実態を知れば怒りを覚えるはずだ」と考える
だが、実態を知るには少しばかり長い説明を聞いたり、調べなければならない
そうした行為は、自発的なものなら苦労はないが強制されると極めて面倒なものになり
最初から拒絶となりやすい
そこでテクニックとして、少し過激な表現としての個人攻撃的な要素を入れて
説明することを選択する人が出てくる
こうした表現はある意味「面白い」と感じるかもしれない
理屈よりも感情に直に訴えるからだ

より良いものを求めるためとしながらも、こうした手段が良いのかどうかは、なかなか難しい
これは確かに一部の人には受ける
しかし、反面そのきつい表現(あるいは一方的な主張)のために嫌悪感とか
近寄りたくない、、と感じる人も出てくる

人はどうしても同じ傾向を持つ人同士が集まりやすい
少しきつくても広がりを持つような表現なりメッセージを送るべきだ
と考える人は、それなりの数を確保する(感情的に理解しやすいから)
しかし「正しいけど、面白くない」とか「自己判断をするにはまずは実態の把握が必要」
と考える仲間は、あまり多くない、、というのが実態だ

こうした傾向はツイッター上でも見られる
右も左も、「個人攻撃」が花盛りだ
そこではもう感情の戦いになってしまっている
それは「そのほうが面白い!」と感じてしまうためではないかと思う

本来は目指すべきものは「正しくて面白い」かもしれないが、これは想像以上に難しそう

ところで、「正しいけど面白くない」を好まない風潮は、「反知性主義」あるいは
「反知性者主義」の増加傾向にも繋がりそう、、と考えるのは考えすぎか

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それは嘘つきか?

2020年11月20日 16時05分08秒 | あれこれ考えること

たまたまそういう時期なのだろうか、首長(市長)の交代が多くなっている
近くの自治体では豊橋市が佐原氏から浅井氏に代わった
岡崎市でも中根氏が前職の内田氏に選挙で勝ちをおさめた

ここでマスコミ好みの少しばかり騒がしい事件が発生した
元国政の代議士である中根氏は選挙公約に一人5万円の給付金を訴えた
ところがいざ市長になってみると、その5万円の給付金は議会の反対で
支給が不可能になった

ここで面白おかしく騒いでいるのがメディアで、公約違反とか嘘をついた
との声を集めて、批判する権利があるかのような報道姿勢だ
だが現実の手続きからすれば議会が市長の予算提案に反対して
それが実現されないことだってありうるのだ
予算提案権は市長にあって、彼は今回は給付金のための補正予算案を提出したが
行政のチェック機関としての議会が、市の財政を考えた上で反対の意を唱えたにすぎない

確かに結果責任としての中根氏の公約は情けないし
議会の承認が得られないかもしれない公約は安易に訴えるべきではなかった
と言えるかもしれない
だが問題は有権者の多くは、市長が公約の5万円の支給を言い出せば
そのまま実現されると思い込んでいないか、、という点だ
市長候補が公約を挙げたところで、それは実現されないかもしれないと冷静に考えた人とか、
議会の承認が必要と知っていた人はどのくらいいるだろう

我が新城市は殆どの場合、行政の長である市長が提案した予算案を多くの議員が賛成するから
予算案を出した時点で可決したようなもの
地方知自体にはこのような傾向があるのを知っている中根氏は、補正予算提案をすれば
すんなり決まるとでも思っていたのかもしれない

だが今回は違った
岡崎市民でないから詳しい事情はしらない
新市長に対する議会の存在感を見せつける機会なのか
財政に余裕がないのか
それとも新市長にたいする反発か、、、

いずれにしても、予算の執行には議会の承認が必要で、それはいつもいつも市長の意図が
実現されるのではないということ

行政と議会は、機能的にはアクセルとブレーキだが(選ばれる過程においても)
最近は我が市では車の両輪になっている
世間的にはみっともない(?)岡崎市の話題だが、
考えようによっては、議会が真っ当に機能しているのではないのか、、
とも考えられるので、少しうらやましい感じもしている

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外国人が見た日本の社会(「歴史の終わり」から)

2020年11月19日 18時27分57秒 | あれこれ考えること

アメリカの若者が左派あるいはリベラル志向なのに対して
日本の若者が反対の傾向があるのは何故だろうというのは
新聞社の中でも、その原因を検討すべきと考えられているようだ(毎日新聞)

だがこれは若者に限ったことなのか、そもそも日本人に最初からそういう傾向が
あるのではないか、、、とも思ったりする

最近、流し読みした「歴史の終わり」(下)【フランシス・フクヤマ】には
日本のことについて興味深い著述があった

抜粋してみると

ほとんどのアジア諸国では政治的権威の起源が欧米の場合と異なっており、リベラルな民主主義についての解釈も歴史的にそれが誕生してきた国々とはかなり違っている。儒教的な社会においては集団と言うものが労働倫理を維持する上で重要なばかりでなく、政治的権威の基盤 としての決定的な意味を持つ。ある一個人が地位を得るのは、当人の持っている個人的な能力や価値のおかげと言うより、もっぱら彼が数珠つなぎになった1連の諸集団のその一つに属しているためだ。例えば、日本の憲法や法体系はアメリカと同様に個人の諸権利を認めているかもしれないが、一方で 日本の社会は先ずもって集団を認めようとする傾向がある。
このような社会における個人は、当人が既存の集団の一員であってその規則を遵守する限りにおいて尊厳を持つ。しかし彼がその集団に対して自己の尊厳や権利を主張するやいなや伝統的な専制支配の公然たる暴政に劣らないほどのひどい社会的村八分にあい、地位を失う羽目になる。 このことが協調性を要求するための計り知れない圧力を生み出し、そのような社会に暮らすものは幼い子供の家から協調性を植え付けられていく。言い換えればアジア社会における個人はトクヴィルの の言う「多数者の専制」、あるいはむしろ大小問わず個人の生活と関わりのあるあらゆる社会的集団の中の多数者の専制の餌食となっているのである。

なんだか思い当たる節が多い
この先少し省略した後、こんなふうに続く

アメリカでも子供たちは、幼いうちは両親の権威への服従を要求される。だが成長するにつれて彼らは親に反抗して自分自身のアイデンティティーを主張し始める。 親の価値観や希望に子供が公然とそむく10代の反逆という行為は、1人の大人の人間としての個性を作り上げていく過程でほとんど欠かせないものなのだ。なぜなら反逆という行為によってのみ子供は自立と自活への精神的心構えを養っていく。同時に 自分を守ってくれる家庭という傘を捨てる能力、そしてのちには1人の大人としての人格を支える能力に基づいた、一個の人間としての「気概」に満ちた自己価値観を磨いていくのだ。この反逆の時間をくぐり抜けて初めて彼は両親と互いに尊敬し合う関係に戻れるが、それはもうかつてのような 従属関係ではなく対等な付き合いなのである。

これに対して日本は異なる。幼い頃の年長者への服従は、成人してからも一生続いていくのが当然とされる。人の「気概」は、個人の資質に誇りを抱く自分自身にではなく、むしろ、個々の構成員以上に全体としての評判を優先する家族その他の集団へと結びついていく。 怒りが生じるのは他人が自分自身の価値を認めてくれなかった時ではなく、こうした集団が軽視される時である。逆に最大の羞恥心は、個人の失敗からではなく自分の属する集団が被った不名誉から生じる。

どちらが良い悪いではなく、どうも根本的なところが違うようだ
でもどちらかと言えば(自分は)個の確立をベースとした西欧的な方向性に共感を覚える
(ただ問題は、日本人の多くはどう感じるかという点 )

興味深い著述は更に続く
今度は観念的というよりは現実の報告のようだ

日本での集団意識のあらわれの第2番目のものは、従来からの西欧流の民主主義的な「政治」というものが沈黙しているところにある。というのも西欧の民主主義は善悪についての「気概」にもとづいた対立意見のぶつかり合いの上に成り立ち、その対立はマスコミでの論戦となって現れ、最終的には各種レベルの選挙によって利害や主張の異なる 政党が政権交代を繰り返していくのである。この対立意見のぶつかり合いは当然至極で、民主主義の正常な機能にとって不可欠な付随物であると考えられている。 対照的に日本では、社会全体が単一かつ安定した権威の源泉を持っているただ1つの大集団とみなされがちだ。そして集団の調和を強調することによって、開かれた対立は政治の外縁部と追いやられてしまう傾向にある。 だから日本には「政治問題」での衝突による政権交代は皆無で、むしろ自由民主党の支配が数十年にわたって続いているのである。
もちろん、自由民主党と野党の社会党や共産党とのあいだにはあからさまな論争もあるが、これらの野党は、主張が急進すぎるために時流から取り残されているのが現状だ。そしてまともな意味での政治の駆け引きは、おおざっぱに言えば中央官僚制度の内部や自民党の密室などの大衆の目が届かない場所で執り行われているのである。 自民党の中では、政治は個人的な親分・子分の関係に基づいた派閥の絶え間ない奸策の周りをぐるぐるめぐっており、西欧なら誰もが政治の中身として理解しているものがそこには全く欠けているのだ。

日本の民主主義は、欧米の基準からすればどこか権威主義的に見える。この国で1番の実力者は高級官僚や自民党の派閥の領袖たちだが、彼らは民衆の選択によってその地位に出したのではなく、学歴か、さもなくば個人的なコネを通じてそこまでのし上がってきた。
こういう連中が、選挙結果や大衆からの各種の圧力にはさほど耳も貸さずに、共同体の福利に影響及ぼす重大な決定を行っているのである。 とはいえこのような体制は根底では民主主義の枠内にとどまっている。なぜならそれは定期的な複数政党選挙や基本的諸権利の保障などリベラルな民主主義の基準を満たしていると言う意味で形式的には民主主義であるからだ。

日本では若者が保守的っぽい(政権支持が多い)のは、
昔、棒を振って暴れた連中は結局何もなし得なかったという冷めた見方から来るのでもなく
若者は経験が少なくて自分自身の考えに自信が持たないので、多数派(政権)に従っていれば間違いはないだろう
とするのでもなく、上に挙げた「歴史の終わり」で解説されたような日本人が当たり前にように感じている社会(もしかして権威に弱い)
の反映なのではないだろうか

いずれにせよ、外国からは日本人の実態はこのように見られていて、実感としてそれは否定できない部分も多い
要は個の確立からスタートする一つの人格の選択によるものが、真の(西欧流)民主主義行動と言われそうだが
果たして日本は形式的民主主義から脱皮でるか

若者の政権よりの問題は、単に若さだけの問題ではなさそうな気もしてきた

 

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