先週の土曜日、26日に新城文化会館の大会議室で市民まちづくり集会が行われた
条例で年一回以上開催されることになっていて、自分は最近は
(文句を言うためには実態を知らなければと)参加している
毎年その年のテーマが決められて、それについて話し合う事になっている
数回参加して思うことは
参加している人といない人の認識は大きく違うという当たり前の事実
参加していない人は世の中はいつもと同じ毎日が続いていると思っている
面倒なことは他人に任せておけば大丈夫(本当にそうかな?)とか
今の自分の生活にはあまり影響しない、、、とか
一方参加した人はとりあえずいろいろな問題があるものだと実感を得ることができる
それは継続して考えなければいけない問題かもしれないと考える
だが現実的なところ参加した人たちも会場を出たらすぐに忘れてしまうかもしれないのも事実
そこで参加した人の一部は、この時間が無駄にならないためには、
このイベントの効果・成果を求めたくなってしまう
数回経験した上で強く感じるのは、この集会はなんの目的で行われていて
それは効果を上げているのだろうかという点
毎回いくつかのテーブルの分かれ、その年のテーマに沿って話し合いが行われ
最後にはそのテーブルでの結論じみたものが発表される
時間を費やした総括がここで示されるわけだが、毎回感じるのは自分に参加した達成感が全然ないこと
総括として発表されることは、自分の思いとかそのテーブルで話された人の思いとどこか違うような気がしている
各テーブルで代表して総括をする方の表現力とか、まとめ方の稚拙が大きく影響しているかもしれないが
そもそも慣れないことを素人にさせる(?)形になっているのが少し運営上に問題がありそうな気がしている
市民の共通認識を得られればそれで会の目的の1つは果たされている
と主催者側は発言する
でもこの会の評価は本当にそれで良いのだろうか
行政は自分たちの行うことに対する評価は少しばかり甘いのではないのか
と思ってしまう(これは常々思う)
評価で一番わかり易いのは数字だが参加した人の数、
昨年は準備したテーブルが埋まらない寂しい参加者数だった
今年は昨年と比べれば多いようだったが、この動員のために市は無作為の抽出したデータで
2000人の案内のDMを送っている
また見渡すところ市関係者がいたるところで見受けられた
つまり参加者という点でこのイベントは成功しているか?
が問われなければならないと思うのだが、これについてどの様な総括がなされているのだろうか
少し意味合いは違うが新城市には議会報告会がある
これも参加者数は褒められたものではない状況が続いている
ところが岐阜県の可児市の議会報告会は結構な人が集まるらしい
(これは可児市の市議会議員の方のパワポの写真にその様子があった)
そこで何故可児市の議会報告会はそれほど幅広い年齢層のひとが集まるのか?
と尋ねると、
「それは発言した人の意見が現実に形として現れるからです
会場で出た意見を持ち帰って、その中で優先順位をつけて、
具体的に予算をつけて目に見える形としているにしているからです
これで参加している人たちは達成感があるからです
議会報告会で出た意見に予算をつけるシステムが出来上がっているからです」
自分たちが物申したことが形となって現れる
このまちづくり集会にもこうした要素は必要なのではないのだろうか
漠然とした市民の共通認識という言葉で済まされて
参加した人の達成感のない実感で終わってしまって良いものだろうか
(グループワークで言いたいこと言えてスッキリしたという人もいるだろうが)
結局のところ、意見を聞くということは、目に見える形で何か実行に移す
ということでなないのかな、、と思ったりする
ところで、このイベントに参加していない人たち
(多分この人たちが普通の人と思われるが)
かつては自分も全くその立場だったので、その気持わかるが、あれこれ経験した上で感じたことは
(民主主義のシステムとして)人にお任せして自分の代わりに何かを判断・決めてもらうことは
残念ながら無条件にそれほど良いことではないという事実だ
議員さんに対しても行政に対しても、時々少しばかり疑いの目を持って
監視するという行為が一般の人の間にも必要なのではないか、、、と思ったりする
※まちづくり集会の細かなことは、いつか取り上げるかも