パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

達成感を感じるためには何が必要か

2019年10月29日 08時39分31秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

先週の土曜日、26日に新城文化会館の大会議室で市民まちづくり集会が行われた
条例で年一回以上開催されることになっていて、自分は最近は
(文句を言うためには実態を知らなければと)参加している
毎年その年のテーマが決められて、それについて話し合う事になっている

数回参加して思うことは
参加している人といない人の認識は大きく違うという当たり前の事実
参加していない人は世の中はいつもと同じ毎日が続いていると思っている
面倒なことは他人に任せておけば大丈夫(本当にそうかな?)とか
今の自分の生活にはあまり影響しない、、、とか

一方参加した人はとりあえずいろいろな問題があるものだと実感を得ることができる
それは継続して考えなければいけない問題かもしれないと考える
だが現実的なところ参加した人たちも会場を出たらすぐに忘れてしまうかもしれないのも事実
そこで参加した人の一部は、この時間が無駄にならないためには、
このイベントの効果・成果を求めたくなってしまう

数回経験した上で強く感じるのは、この集会はなんの目的で行われていて
それは効果を上げているのだろうかという点
毎回いくつかのテーブルの分かれ、その年のテーマに沿って話し合いが行われ
最後にはそのテーブルでの結論じみたものが発表される
時間を費やした総括がここで示されるわけだが、毎回感じるのは自分に参加した達成感が全然ないこと

総括として発表されることは、自分の思いとかそのテーブルで話された人の思いとどこか違うような気がしている
各テーブルで代表して総括をする方の表現力とか、まとめ方の稚拙が大きく影響しているかもしれないが
そもそも慣れないことを素人にさせる(?)形になっているのが少し運営上に問題がありそうな気がしている

市民の共通認識を得られればそれで会の目的の1つは果たされている
と主催者側は発言する
でもこの会の評価は本当にそれで良いのだろうか

行政は自分たちの行うことに対する評価は少しばかり甘いのではないのか
と思ってしまう(これは常々思う)
評価で一番わかり易いのは数字だが参加した人の数、
昨年は準備したテーブルが埋まらない寂しい参加者数だった
今年は昨年と比べれば多いようだったが、この動員のために市は無作為の抽出したデータで
2000人の案内のDMを送っている
また見渡すところ市関係者がいたるところで見受けられた
つまり参加者という点でこのイベントは成功しているか?
が問われなければならないと思うのだが、これについてどの様な総括がなされているのだろうか

少し意味合いは違うが新城市には議会報告会がある
これも参加者数は褒められたものではない状況が続いている
ところが岐阜県の可児市の議会報告会は結構な人が集まるらしい
(これは可児市の市議会議員の方のパワポの写真にその様子があった)
そこで何故可児市の議会報告会はそれほど幅広い年齢層のひとが集まるのか?
と尋ねると、
「それは発言した人の意見が現実に形として現れるからです
 会場で出た意見を持ち帰って、その中で優先順位をつけて、
 具体的に予算をつけて目に見える形としているにしているからです
 これで参加している人たちは達成感があるからです
 議会報告会で出た意見に予算をつけるシステムが出来上がっているからです」

自分たちが物申したことが形となって現れる
このまちづくり集会にもこうした要素は必要なのではないのだろうか
漠然とした市民の共通認識という言葉で済まされて
参加した人の達成感のない実感で終わってしまって良いものだろうか
(グループワークで言いたいこと言えてスッキリしたという人もいるだろうが)

結局のところ、意見を聞くということは、目に見える形で何か実行に移す
ということでなないのかな、、と思ったりする

ところで、このイベントに参加していない人たち
(多分この人たちが普通の人と思われるが)
かつては自分も全くその立場だったので、その気持わかるが、あれこれ経験した上で感じたことは
(民主主義のシステムとして)人にお任せして自分の代わりに何かを判断・決めてもらうことは
残念ながら無条件にそれほど良いことではないという事実だ

議員さんに対しても行政に対しても、時々少しばかり疑いの目を持って
監視するという行為が一般の人の間にも必要なのではないか、、、と思ったりする

※まちづくり集会の細かなことは、いつか取り上げるかも



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読書も音楽も新鮮な体験のほうが面白い(おさらいよりも)

2019年10月28日 09時08分18秒 | 徒然なるままに

同じ距離を経験しているのに、帰り道の時間のほうが行きの時間より短く感じることがある
心理学的に説明がつきそうでも、その答えを知らないでいるが
本を初めて読んでいる時と二回目以降読んでいる時の違いに似ている気がする

初めて読む本はまさに「体験している」という感じ
先に何が出てくるかわからない
実際の生活の上での対処のようで自動的に処理できるものもあれば
いちいち全力で当たらねばならないことであったり
それらが渾然一体となって襲ってくるようで、それは受動的と言うよりは能動的な体験だ

この体験は一気にいろいろやってくるので、理解をするには(頭の中を整理するには)時間がかかる
実際、読み終えた数日後の方がスッキリとまとめられて理解できていそうな気さえする

その点、二回目以降は体験の記憶を呼び起こし、更に連想を加えるだけの作業になる
問題はどちらのほうが面白いか!という点

何が何だか解らなくても、その場に自分がいて、試行錯誤しているようなナマの体験をしている方が圧倒的に面白い

これは音楽でも一緒
耳が新鮮な体験となるように、現在予習をしないでコンサートに向かうのはこのため
大好きなブルックナーの8番を無理して聞かないでいるのは、コンサートの現場で新鮮に感じたいからだ
もっと解りやすい例では、飲ん兵衛の人がお酒を美味しく感じるために、飲む時間まで水物を取らない
のと同じ、、、

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2019年10月27日 08時28分18秒 | 徒然なるままに

フロイトならこれらの夢をどのように判断しただろう
だがリビドの為せる技ではないぞ
と大御所にツッコミを入れたくなる

最近変な夢を続けて見た
昨日は止めておいた車が見当たらない夢
変な場所の駐車場で、そこに行くのも苦労したが、とりあえず駐車して帰りの段となって
駐車場に戻ると車が見当たらない
アタフタとして自分に自信が無くなりそうになったが、知らない間に車に乗っていた
運転していると交差点に警官が立っていて、此処から先は行けないからUターンをしてくれ
との指示があった
指示に従うと後方の車から声が上がった
これは交通規則違反じゃないのか?
でも、警察がそうせよと言ったのだし、、、

先日の夢は大きな旅行用のトランクをチェッくしていた
どうやら海外旅行でも行くらしい
出発までの時間は一時間しかない、それを今家で持ち物検査している
一時間あれば大丈夫、、と夢の中の自分は思い込んでいた
だが検査しだすと足りないものが出てくる出てくる、、
足りないものを揃えているととてもじゃないが出発の時間に間に合わない
もう頭の中はパニクって、、、どうしよう、、と思うだけの状況に

一見ストレスがたまっているからこんな夢を見たとも思えそうだが
実はこれらは思いつくことがある

駐車場は昨日出かけた大きな駐車場で、どこに止めようかと迷ったときに
わかり易い場所で、事故などでぶつけられない場所にしようと考えたことを思い出した
Uターンのネタは先週の日曜日、ある場所に行くときに目的地の一本手前の道を選んだが
そこは工事中で途中でUターンをせざるを得なくなったことに起因するのだろう
ルール違反じゃないのか、、については千葉県のある村にに自衛隊が水を運んのだが
どれが手続きが正規なもので無かったので、水は村民に渡らずに引き返したニュースを見て
そんなのはルール違反をする勇気が必要だったり、あとで自分が責任を取るといかたちで
現実的な対処をすべきだよな、、、などと妹と話したことが頭に残っているからだ(多分)

トランクのバタバタは、現在組の仕事で集金業務を期日までに終える役を担っている
せっかちで心配性な同居人が早く済ませてしまいなさい、、と口を酸っぱくして言ってるが
まだまだ時間はあるから、、と構えているのが自分で、おそらくこれらのことが頭の何処かに
引っかかって夢として現れたのだろう

記憶は本当に深く残ったものだけが残るのではない不思議さ
こうした無意識の多くの蓄積で人は少しづつ性格が作られていくのだろうか
夢は不思議だが、夢を見る人間も不思議

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繰り返しと一度だけ

2019年10月25日 09時12分43秒 | あれこれ考えること

音楽は繰り返し聴くことが多いが、本は繰り返し読むことは少ない(自分は)
最近は新しい音楽ソフトを購入することは稀(アビー・ロード50年記念は別)で
手元にあるレコードを、それも次第に固定しつつあるが、聴いている
一方、本はコンスタントに購入している
だが新しい話題の本を購入というより、そのとき読んでいた本の関連したものに手が伸びる
その手にする本は感情移入を伴わない難しそうであっり、長そうであったり、
そもそも一般受けしないジャンルであったりする

刺激は徐々に強いものを求めるようになると言われる
一日で読めてしまうような本は(時には必要だが)どうも物足りなく感じて
集中と気力と想像力を駆使しないと味わえない世界をついつい求めてしまう

でも本は何度も読まない
残るのは読んだという記憶と漠然とした印象だけ

なぜ音楽は繰り返し体験したがるのに、本は一度だけで満足した気になるのだろう
音楽を聴くほうが時間的に短くて追体験しやすいことがあるかもしれない
本を読むときのような気合が要らない気安さかもしれない
だが音楽を聴く時も気合を入れたほうが面白いとは常々思っている

でも少しばかりヤバそうなのは、読もうとする本も聴こうとする音楽も
最近の作品でないことが多い点
ベストセラー小説や最新のポップス・ラップはほとんど関心がわかず
購入するもは古典となった本や音楽ばかり

年をとると若いひとの音楽がわからなくなったり、みんな同じように聞こえる
というのは、今痛いほど実感しているところ
これは仕方ないか!

 

 

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予習はしないでおこう(ブルックナー8番)

2019年10月23日 08時46分31秒 | 音楽

11月7日はティーレマン指揮のウィーンフィル
11月13日はメータ指揮のベルリン・フィルで
ブルックナーの8番の交響曲の演奏会がある
場所は名古屋の芸術劇場コンサートホール

自分に言い訳を見つけて両方のチケットを購入したから
家計簿はこの月は赤字になるだろう
(11月22日は黄櫨染御袍を着用した聖徳太子像を見に
 京都太秦の広隆寺までの旅費もあるし)

ところで、最近はコンサートやオペラ前はそのプログラムの予習はしなくなった
予習を兼ねて聴いておく方が普通かもしれないが、それをしないのは
まっさらな状態で聴いたほうが感じることが多そうと思うからだ

できたての音楽を、新鮮な気持ちで偏見なく聴く
そこで不意に感じる印象とかいつまでも残るであろう記憶は
聴き慣れていないほうがより鮮明になるだろう

でも全然予習していないことはない
今は7番の交響曲の第二楽章を聴き比べている
ブルックナーの出世のきっかけになった7番の交響曲は
第2楽章のアダージョがとても魅力的
いきなり音楽に沈潜しそうな音色でスタートする
フルトヴェングラー、カラヤン、ショルティ、ワルター、チェリビダッケの演奏を比較している
この一楽章だけで20分を要する音楽だが、不思議と長く感じない(慣れると)
それには人間的な苦悩とか感情みたいなものは感じない
ただただ音響があるだけだ
そしてこれがとても心地よい

これを聴いてるとブルックナーの語法(やりそうなこと、癖)とかが
なんとなくわかってくる気がする(音楽的な素材がどのように変形されて用いられているかとか)
今まではただ音楽に身を任せていただけ(ブルックナーの聴き方はこれが良い)だが、
作曲技術としての部分も、実はそうだったのか、、といった発見もある

8番は予習はしなくても、両方のコンサートが終わったあとは
余韻を楽しむためとか比較のためにきっと家で復習はするだろう

ところでコンサート当日は、聴く方も如何に集中するかが問題
本番前の気合を入れる方法も考えなくちゃいけないかもしれない
(お腹も満腹は良くなさそう、、、)

 

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法律と生活実感

2019年10月22日 08時29分27秒 | あれこれ考えること

「when I was younger so much younger than today」ではないが
自分が若かった頃、信州斑尾のペンションで東京の方と交わした会話を覚えている
その方は「静かすぎて、怖くて眠れなかった」と言った
普段は車が行き合う賑やかな音の中で寝ているものだから、音が何もない世界、聞こえるのは虫の声
というような生活感のない世界は慣れてていないので眠ることができない、、というのだ

時々東京に出かけて、夜になって自宅に帰るとき、その帰り道で感じるのが
自然が大きな呼吸をしていて何か大きなものに包まれてような感覚
この静寂はとても安心感を覚えるのだが、都会の人は生活感の無さに
不安を感じるのかもしれない

今まで静かだったが急に予想外にストレスを感じるほどやかましくなった場所がある
昨日の新城市の鳳来地区の「地域意見交換会」でのこと
切実感をもって女性は訴えた
新東名高速道路ができて、そこから漏れてくる音がひどい
防音壁がない部分から、防音壁で抑えられた音が一緒になって却って大きな音が漏れてくる
それも夜中に多い
縦列走行をしているバイクの音もやかましい
夏は窓を開けて寝ていたい(お年寄りが多いので)が、それができない
(位置関係がよく解らなかったので正確なことはわからないが、このようなことをいわれた)

最初の予想と実態が外れることはよくある
ましてその最初の予想が、どうしてもやらなければならない事業である場合は、その数字は
お手盛りと言うか、都合の良い数字を書類に残される
(オリンピック開催時の東京の気温は申請段階では運動に快適な気温としていたとか)

この騒音に悩まされている地区も事前の調査とか予想ではここまではなかったようだ
ところが現実はイライラが募り声を上げざるをえない状況にある

このようなとき法律は親切とは言えない
この地区の用途地域(?)の騒音レベルは、住居専用地域とは違うのでこれこれの数字で
現在の数字はその範囲内に収まっている
騒音レベルの調査をしたことがあったが、その場所はカエルや虫の鳴き声がするので
正確な騒音を計測はそれらが活躍しない冬の時期に行ったが平均で50デシベルだった
(騒音とは言えない?)


いつもは法律用語で人間味のない答弁をする環境部長だが、この日は
「とは言うものの、騒音は平均値となっており瞬間的にはかなり大きな音も
 存在したとも思われますし、そうした生活実感とはかけ離れた思いを持っておられるので
 そのところは、苦情として地域の方たちの声を書面として市とかNEXCO中日本に
 届けるというようなことをまずはなされると良いと思われます」
と何時になく親切な物言いをした
(生活実感と異なる測定数字の問題は、新城南部地区の悪臭についても同様なのだが
 何故か、こちらの方の物言いは冷たく突っぱねているように思えてならない)

ここで感じるのは生活実感と法律の乖離
そして世の中というものは(知らないでいるが実際は)法律というもので
事細かく決められているものだということ

生活実感と異なる法律の運用、一般的な倫理観と異なるような判決(強姦事件についての)
これらは「仕方がない」で済まされる問題ではないような気がしている
文書解釈と運用のプロとしての職員や官僚さんは、生活実感に寄り添った判断を
するってことはできないのだろうか
(大岡越前とか遠山の金さんがいたら、、、と思ったりする)




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ドゥイノの悲歌

2019年10月20日 08時45分29秒 | 

見えを張って理解した!とは言えない
むしろほとんど解らなかったという方が正しい
でも、昔読んだときもこのフレーズに触れたときは涙が出そうになった

リルケの「ドゥイノの悲歌」を突然読みたくなって、
あるはずの本棚を探すのが面倒で書店で購入した

第一の悲歌はなんとなく分かる感じ
でもずっと記憶に残っている第9の悲歌の部分は
今度も心揺さぶられた

本は半分ほどのページを割いて各悲歌の解説をしている
先にそれを読んでおいたほうが解りやすいかもしれないが、初めて体験する
印象の方が新鮮に感じられるので、解る解らないは別として、まずは作品に向かう

本は岩波文庫  手塚富雄訳
この本は自分には珍しく何度も読み直すかもしれない

 

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タバコの臭い

2019年10月19日 18時51分26秒 | 徒然なるままに

かき氷が美味しいと評判のその店に出かけたのは夏の時期
その時は定休日だったが、今日はJAまつりで昼時に外出したので
前回のリベンジの意味で(大げさな!)新城市南部の
「何でもありメニュー」のその店にランチに出かけた

店の入口には市会議員さんがいて、先輩と何やら話し込んでいた
あのことかな、、、と想像はついたがわざわざ言うまでのことはない
「私はチキンハートなので、、、」
こちらが言わなくても、相手側から話してきた
この方は人は良いかもしれないが肝心なところで判断ミスをするタイプみたい
(時々、もっと自分の直感を信じれば間違いは少ないだろうに、と思ったりする)

今日は妙に議員さんに出くわす日だった
訳あって朝訪れた市の中心部の喫茶店でも別の議員さんに会った
JAまつりでもすれ違ったのは地元選出だが問題の多い議員さんだった

でも今日の話題は面倒な議員さんの話ではない

お昼少し前で店は7割位の混み様
窓際の空いている席を見つけて座ってメニューを見ていると、何か変な臭いがする
どうもタバコ臭いらしい
そこで見渡すと隣のテーブルに一人の男性がタバコを吸いながらスマホを見ている
しまった、、と思ったが、そのうちやめるだろうと我慢することにした

ところが、料理を注文をして待っている間もやはりまだ臭い
彼はまたタバコに火をつけて吸い続けていた
そこでついに店員さんに「場所替わっていいいですか?」
と了解を得ないうちに、コップとスプーンをもって、問題の席から離れた場所に移動しようとした
店員さんも直ぐ様その理由を理解したようで「すみません!」と言う
おとなしい同行人もホッとした表情

タバコを吸う人は自分では感じないのだろうが、吸わない人間はこのタバコ臭さは気になる
たった一箇所の発生源だが、どこにでも広がっていきそうで
そしてその臭いは食べ物の上に積もってしまいそう

受動喫煙の法律ってどうだったかな、、とフト思ったが、
自分の身の回りにはタバコを吸う人はいないので、細かいところまで記憶できていない

田舎の小さな店ではタバコを吸う人も吸わない人も同席の可能性は高い
朝出かけた喫茶店はきっちり区切られた喫煙室があって、こちらには臭いは漏れてこない
だが喫煙室を作るというのはコストがかかるし、作ったのはいいが利用者が少ない、、ということもありそう
結局タバコを吸う人が気を使って遠慮してくれると良いのと思ったりする(これは吸わない人間の一方的な言い分?)

自分も若い一時期だけタバコを吸っていた
今はなんで吸っていたのかな、、と不思議に思う
宇多田ヒカルの歌じゃないが、タバコの臭いは、良いもんじゃないぞ!



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聴き放題サービスを利用しない理由

2019年10月17日 09時32分40秒 | 音楽

最近は定額で様々な音楽を聴き放題のシステムがある
音楽好きの自分だが、これは利用していない
年齢のせいで最近の音楽への感受性鈍くなったととや
興味が薄れてきたことが主な理由ではない

それよりは、このサービスを受けることによって
音楽はどこにでもあって、いつでも気楽に聴ける
ということに対する反発だ
自分にとっては音楽は聴き流すように体験するより
マジに耳を澄ますほうが得るものが多くて感動する

クラシック音楽は特にその傾向が強いが、ロックにしてもこんな音が入っていたのかとか
触発されてノリノリになっていく様とかが、ちゃんと聞いたほうが想像力を喚起する

ということで、不便を少しも感じていないのでこれらのサービスは自分には無縁だな
音楽が消耗品ではなくて、もう少し高次のものと思いたい 
(というより、聴き流すのはもったいない)

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そうか、嫉妬か

2019年10月16日 15時15分16秒 | 子どもたちのこと

昨日のこと
火曜日は外国出身の1.2年生の勉強の面倒見の日
始まる前にいつものようにEくんが「今日、僕教えて!」
と声をかけてくる
「いいよ、頑張ろうね!」

最近は一人で二人の男の子を見ている
ところがこの二人の日本語能力は少しばかり差がある
料理の好きなRくんはとても落ち着きが無くて、時々大きな声を発するが
こちらが言っていることはほどんどわかる
でも七夕で「もと にほんごが うまくなりたい」と書いたEくんは
正直言って、大丈夫かな、、と心配するほどだ

それで前回からEくんは机に座って宿題をする前に簡単な会話をして
日本語そのものに慣れてもらうようにした
Rくんにはその間、机に座って宿題をやってて、、、と伝えたのだが、、、

畳の部屋でEくんと買い物の話、起きる時間の話、好きなものの話をしていると
机で勉強してるはずのRくんがやってきて、自分の膝の上に載ってくる
「少し待って、後でいくから」
でも不満そうだ
「僕、教えてもらってない」

そうか、嫉妬してるのか!
このとき、なんだか嬉しいような気持ちになった
全然こちらの言うことを聞いていないようでも、彼は構ってもらえることで
どこか安心していたのかもしれない、、

Rくんは一度ひどく叱ったことがあった
彼はその時は自分が悪いと認識したが、少しばかりきつい叱り方だったので
あとで、こちらが心配になって「怒られてどうだった?」
と聞くと、「いいよ、(怒られたこと)忘れるから!」とサラッと答えた

彼は怒られても自分を信用していてくれている
そして「今日教えて!」と言うものの集中できないEくんも頼ってきてくれている

現実的な話をすれば、このお手伝いはストレスがかかる
ほとんど思い通りにならない
しょっちゅう怒鳴りっぱなしで、終了時は喉が痛いなんとこともある

でも、先程のようなほんのちょっとしたふわっとした感覚
甘えていい人に甘える様な、信頼していい人に頼るような、、、
彼らがそう思っているのではないかと感じてしまう瞬間
こういう瞬間は、とても充実感がある

彼らは大きくなって自分らのことを多分忘れてしまうだろう
でも、彼らのことを心配していた人間がいた、、という実感は
彼らを道から外れさせないような効果はあるのではないかと思ってしまう(思いたい)

でも、切に思うのは
「ちびさんが おりこうさんに なりますように」(自分が七夕の短冊に書いた言葉)


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