パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

日曜の朝にふさわしくない話

2024年02月18日 09時25分16秒 | Weblog

気が滅入ることが多い
パレスチナのこと、ウクライナのこと
それが日本の田舎の自分にどのような影響を与えるか
を考えると、そんなに小さなことではない

未来に対する漠然とした不安を覚えるのだが
その為かどうかはわからないが、日本では大谷翔平のニュースが
場違いなくらい多く報道される
それはニーズとして存在するのだろうが
この経済的ニーズを過度に重要視するのが資本主義社会なのだろう

「資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか」ナンシー・フレイザー著

この本は直近読んだ中では現実認識の捉え方に非常に参考になった
この本を読んだ人と読んでない人の違いは絶望的なほどある気がするが
この本があまり読まれないだろう、、と思えるのも事実だ

とても辛い内容なので救われる本を求めるのは自然の流れ
図書館で借りた「答えを急がない勇気」ネガティブ・ケイパビリティのススメ(枝廣淳子著)
この本は常々思っていたことと近いのでスラスラ読めた


その中で興味深かったのは、自分はすでに現役を引退している立場だが
企業の姿勢としてグーグルとか3M社では社員の勤務時間の15%とか20%を
自分のプロジェクトに当てるルールが存在するというのはためになった
それぞれが各自の直感や嗜好、志向を追求でき、組織的にこのような「遊び」を
作っておくことでレジリエンス(困難をしなやかに乗り越え回復する力)も高まるというのだ

人は何かを感じる
それらのうち幾つかは単に随意筋の反応のようなものではなく
人の内部から発生するものに違いない
社会の中で最近良く見られる「原因探し」ではなくて
「犯人探し」を優先する考え方は、どこか内的な声の未熟さのように思えてしまう
(だからリベラルアーツ教育が必要と思う)

抽象的な話になったので、自分はわかっているが
他人はわかりにくいことになってしまったかもしれない

それにしても、社会体制として独裁は絶対にダメだ!
と我々はもっと強く認識すべきと思う
ロシア、イスラエル、北朝鮮、中国、
残念ながら、もしかして日本も入口に入りかけているかも
との不安も消し去ることはできない



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水分補給

2023年02月14日 09時52分42秒 | Weblog

実感的健康法(?)

夏の終り体重が減って何十年ぶりかの60キロ台になった
その頃は、どうにもお腹が重い感じで食欲もなく
それでも3度の食事は量を減らして無理やり食べていた
どこか悪いのだろうかと胃腸薬を購入した

そのうち胃腸の調子が悪いのは
冷たいものを飲みすぎたせいかもしれないと思うようになった
(もともと夏の必要不可欠のビールと麦茶を飲むといつも下痢気味になり
 麦との相性がよくないのかとも思ったりした)

最近は朝起きると不意に思いついたのだが、白湯を飲むことにしている
温かいものが喉から胃腸へ移動していく感じが
どこか生きている感じがして心地よい

水分を十分に取るように、、
と医者に言われている
今までに2回ほど尿路結石でつらい思いをしている
レントゲンで見ると腎臓にははっきりと石の影が見える
健康診断の腎臓の数字もそのせいかもしれないと勝手に思い込んでいる

ここ最近、寝る前にも(少し多めに)白湯を飲むようにしている
すると良いことがあった(と実感している)
それは唯一同居人から褒められることで
朝のお通じが以前にもまして楽になっていることだ
水分の補給が十分になされて、大きいほうが柔らかくなって
前の硬い状態よりは楽に出てくる

水分が足りないとどんなものが排泄されるか?
山に登っていた頃、山小屋のトイレでは
まるでヤギの糞のような小さな球の排泄物に驚きを覚えたのだった
登山時には帽子とメガネの縁から汗が流れ落ちる
体中の水分を汗として絞り出すように体外に放出するから
体には水分が残っておらず、結果的に大の方はこうなったのだった

その記憶があるから、適度な水分補給は必要だと思いついたのだが
寝る前の白湯の効果は想像以上に好ましいと実感している

ところが良いことばかりでは無いのがこの世界
今度は夜中にトイレに行きたくなってしまう
年齢を重ねるとトイレが近くなると言われるが
補給した分だけ(?)体外に排泄したくなるようだ

幸い夜中に起きてもすぐに寝られるので
これは大して気にせずにいられる

それにしても何事も、良いこと悪いことは裏表で
水分補給は適度にしたほうが良いとしても
冷水は避けたほうが良い!
というのが今にして気づいた実践的な知恵だ

ということで、お気楽な話!

※ネットで白湯を検索すると、体に良い理由や飲み方が紹介されていた
 それらは確かにその通りだと思えるのだった

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1月17日の朝

2023年01月17日 08時48分59秒 | Weblog

1995年、1月17日の朝は何故かいつもより早い目覚めだった
ベッドから抜け出そうとしたその時、地面が揺れた
ガタガタと揺れるいつもの地震とは全く違う
地面全体が大きく揺れているような、ものすごいエネルギーを感じた
これは大きいぞ!
急いでテレビがある部屋に移動して
まだ健在だった祖母と一緒にニュース速報を見た

それがいつの時点の記憶だったか確かではないが
高いところを走る高速道路が無惨に地上に落下していた
街のあちこちで煙が上がっていた
やはり半端ない大きな地震だった

阪神淡路大震災が起きた日の記憶は
足の裏で感じたエネルギーの巨大さだった
関西とは離れているが、あのとき感じた巨大なエネルギーの感覚は
今でも思い出すことができる

地震・雷・火事・親父
怖いものの順番だが、圧倒的に怖いのは地震だ
いつまで経っても地震の予報は難しいようだ

現時点では、大地震が起きませんように!
と祈ることしかできないなら、心を込めて祈りたいと思う

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「神の見えざる手」には前提がある

2021年05月24日 10時55分04秒 | Weblog

有名なアダム・スミスの「神の見えざる手」は、少し誤解されて引用されていることが多いそうだ
需要と供給側が釣り合った時点で適切な価格が決められて、それはまるで人以外のなにかの力が
働いているかのように思えるから「神の見えざる手」と表現したらしいが、、、
よく引用されるのは、市場に任せておけば、適切な自動的な調整弁が働いてうまくいく
という説明に使われる
アダム・スミスが「国富論」の中でこの話をもってきた時、それには前提があるとしている
それは道徳とか共感とか同情とか、、そう言ったものを多くの人がもっているとすれば
と限定条件をつけているらしい
それは「国富論」の前に「道徳感情論」という著作を残していることから、道徳とか共感とかを
彼は欠くことができないものとしている

数値化できないために少しばかり曖昧な概念である共感とか道徳は、客観化できないが故に
効率優先の社会では居場所が見つけられないでいる
こうした傾向に拍車をかけているのが、現在の社会ではないか、、
と薄々感じるようになった人が増えつつあるとすれば、それはなんとなく腑に落ちる

いま日本に住む自分たちが生きているのは資本主義社会、民主主義社会とされている
そしてそれは当たり前に存在しているように思えるが、必然的に生まれてしまう弱者や
頑張れない人たちを見てしまうと、そもそも今の社会は適切なものだろうか
と考えてしまうことが最近の個人的な傾向だ

日本では疑問視されない資本主義がそもそも適切なものか?
現在を享受していても、この問は消し去ることはできない

話は変わって、アメリカのZ世代(1900年後半から2000年代に生まれた世代)の人々は
資本主義に肯定的が45%  社会主義に肯定的51%
と調査結果が出ていて、資本主義の本家のような国でも資本主義が万能だとは思っていないらしい
それはこの世代の人たちが現実に格差等の被害を受けて、明るい未来や展望も見られなくなっているから
と解説されている

それは日本でも同じではないか、、と想像するが、何故か日本はそうではないらしい
日本の社会の格差や不平等がそこまで(アメリカほどには)至ってないからなのか
それとも、見て見ぬ振りをしているのか、いつかは我がことと想像することができないのか
あるいは社会主義が無条件に唾棄すべきものとしての認識しかないからなのか

少し前に反知性主義のことを取り上げたが、よく考えると自然に浮かぶ「そもそもの前提を疑う」
(資本主義を疑う)といった思考法は、この国ではなかなかできにくいのだろうか

昨今のオリンピックに絡む報道を見ていると、現在の社会は資本主義のあるいは商業主義の暴走のもとに
成り立っているのではないか、、と思えてしまう
開催か中止か、この難しい選択を行うのは、自分たちが選挙で選んだ人たちだ(IOCに決定権があるというものの)

だが、その選ばれた人たちは、我々の代弁者か、、
庶民の近視眼的な意志が必ずしも正しいとは思わないが、それでも直感的に感じる不安とか選択の良し悪しは
なんとでも言いようのある説明よりは納得が行くような気もする

そうなると、長所短所を含めて、そもそもの代表制民主主義、直接制民主主義の意義とかあるべき姿を
考え求めなければならないと思うが、この問題は意識高い系の人の専門的な問題になってしまって
万人の問題とならない、、、

一体どうすれば良いのか、、、ストレスが溜まりそう、、、

 

 

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マッカートニーⅢ

2021年04月27日 08時15分29秒 | Weblog

怖くて買いそびれていたCDをやっと手に入れた

大好きなポール・マッカートニーの最新の作品だ(マッカートニーⅢ)
彼が好きなだけに購入を躊躇していた
それは年月という残酷な現実を見たくなかったからとも言える
声が出なくなる(高い声も声量も)
老化による作曲能力の低下
そうなっても仕方ないとは思うものの、どこかで認めたくない気持ちが勝っていた

だが、好きを自認するなら最後まで付き合うか!
と思い直して手に入れた

そうきたか!
際立って優れた曲があるわけではなかったが、一気に聞き終えた
そしてポール・マッカートニーに謝らなくてはいけないかもしれない
との気持ちを覚えた

声が出ないなら楽器演奏で頑張れば良い
聴き終えた印象はこの一言だ
以前のマッカートニーと名付けらたアルバムのように、彼が(すべての)楽器演奏をしている
本当に音楽に関することなら何でもできるな!
と呆れるくらいだが、前作(エジプトステーション)同様にアルバムはメロディアスというより
リズムを強調した曲づくりが多くなっている
言い換えると楽器演奏が主体の音楽になっているように思える

だがさすがポール・マッカートニー、歌ではなく楽器演奏主体の音楽も
そこには音楽的なアイデアが散りばめられている
対旋律、ベースの動き、お得意のリズム、繰り返しの中のちょっとした変化
それはいつも感じることだが、モーツァルトの曲作りを連想する
アルバムの中にはピンク・フロイドを連想するものや、
ジョンレノンが作りそうな(I want youぽい)曲があってそうした聴き方をしていると退屈しない

彼の音楽はメロディアスと言われるが、それは彼が歌うという前提で出来上がっているように思える
高い声、声量も心もとなくなった今、彼は歌うことよりは楽器の演奏による楽しみに
シフトしたように思える
それはクラシック風に言えば、純音楽にシフトしたと言えるのかもしれない

アルバムは際立ってこれという曲は今のところない(聴き込むと違うかもしれないが)
ヒット曲集といいうよりは、コンセプトアルバムとまでは行かないにしても
全体で楽しむ作りになっているように思える

それにしても、やはり凄いな、、、
タレ目のおちゃめな左利きの天才、、参りました!

※一曲一曲の印象についてはもう少し聴き込んでから

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見て見ぬ振り

2021年04月10日 08時43分30秒 | Weblog

アメリカで起きたアジア系の人に対する暴力行為を、見て見ぬ振りをしていたドアボーイが
解雇されたとのニュースがあった
一企業がどのような理由をつけて解雇したのかわからないが
それを企業の姿勢として行わなければならなかったところが少しばかり残念だ

誰かが理不尽な暴力を受けている
それが目に入ったならば無条件に止めに入る
それが人として当たり前の行為と思えるのだが、個人の判断ではそれができなかった
ドアボーイたちは自分には関係のないことだと見過ごした
それは無関心と言うだけでなく結果的にはその行為(暴力行為)を支持したことになる

このようなニュースを見聞きして、ひどい人たちがいるものだくらいにしか
感じないかもしれない
だがよく考えると、見て見ぬ振りをするのは至るところで見られる

驚いたのは、会食時にマスクを外したり付けたりするのは現実的に難しいので
それを補うために団扇を使うことが提案され、それが予算化されたというニュースだ
最初、冗談かと思った
このとんでもない案は一気にSNS上では批判の対象になった
そしてそれは批判されて当然だと自分は思った
直感的に現実的でないと誰もが思うようなこと、それが現実化されようとしていることは
その案に関与していた人たちは問題ないと感じていたということだ
いや、薄々は非現実的だと思ったとしても声に出さなかったということだ
声を出さないことは結果的にその案の推進を果たすことになったので支持したことになる

道徳的、倫理的などと大げさなことを言わなくても、困った人がいたら助けたいとか
普通に考えれば誰が言おうと現実的でない考えに反対するということが
現在はとても難しくなっているのだろうか

どう考えても無理筋という話は至るところにある
自治体の計画にも呆れるほどそれは見られる
我が市では道の駅「もっくる新城」にドッグランが新しく開設された
この計画を聞いた時の一番の違和感はその面積だ
いったい100平米でどんなものができるのか
できたとしてもそれは犬たちにとって(飼い主にとって)魅力的なものか
この計画は1600万円ほどの予算で行われた

腹を立てながら出来上がった現場を見に行くと、その面積の実感は悲惨なくらい狭い
そしてこれにそれほどまでの金額がかかるのだろうか?
と疑いを持つくらいだった

こうした計画は出来上がってみたいと現実の大きさを実感できない場合が多い
図面とか数字だけで話をするだけでは全体の姿をイメージしにくい
だから数字だけが独り歩きして市議会も予算を可決し、事業は進められていく

出来上がってからでないと実感はわからないかもしれないが、予想することはできる
計画を知った時の最初感じたのは上にあげたように面積の少なさだった
自分がこのように感じたということは、関与したスタッフの中にも同じように
感じたひともいるということだ
そこで問題は、そう感じた人たちは何をしたか?という点だ

公務員は上司の業務上の命令に従わなければならない!と決まりでなっている
だがそれは自分が直感的に感じた違和感を押し殺してまでしなければならないことなのか
公務員は公僕として最小の費用で最大の効果をあげるべく行動するように別の法には書かれている
それを考えると、まるっきり反対ができないというのではなさそうな気がするが
(公務員の経験がないのでこれが現実的かどうかはわからないが)
そうしたことを考えるもの面倒でただただ流れに身を任せるだけなのだろうか

そしてそれは一歩間違うとドアボーイの見て見ぬ振りを続ける姿勢につながる
とは言うものの、ひとは全方位に同情や共感をもって接することはできない
自分でもある悲惨な状態には、無関心ではないとしても何ら行動を起こせないでいるのも事実だ

なにやら小難しい話になってしまったが、ドアボーイの一人でも助けに行ってほしかったように
団扇の案にも反対する人がいてほしかったし、職員の中にも小さすぎるドッグランの計画に
反対する人はいてほしかったということ

 

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「政治と報道」(上西充子)を読んで

2021年03月07日 08時46分40秒 | Weblog

通販番組の定番的な表現に「気になるお値段」がある
「気になる」は、まるで「値段」の枕詞のようになっている
このようなあまり考えずに当たり前のように使っているものに
メディアの表現もあるのではないか、、、と問題提起しているのが
上西充子氏の「政治と報道」だ

帯のコピーにもあるような半ば定番化した表現に「野党は反発」「決定打を欠いた」
「与党はかわした」「安全運転に徹した」といった言葉を、この本では
それは実態と違っている言い方ではないか!と丁寧に取り上げている

例えば反発を反論と変えるだけでだいぶイメージが違ってくるし
決定打を欠いたというのも、単に政府が真摯に答えないだけの場合が多く
どちらに責任があるかといえば、圧倒的に答えないほうが悪い
これは国会中継を見ていれば、余程のことがない限りそう感じる

だが国会中継を丁寧に見る時間がなく、編集された報道を見るだけの人は
これらの表現でもたらされる情報を頼りにするしかなくなっている
これらの定番化した表現のもたらす弊害をメディア自身が感じているのか
あるいはある意図をもって行っているのかは大いに問題とされるべきだ

世間ではスッパ抜きを連発する週刊文春の報道を、驚きと怒りをもって知ることになっているが
なぜ週刊文春だけがこれが続けられているのか
なぜ大手のメディアはそうしたネタを報道できないのかといったことは疑問に思える
週刊文春の記者が独自に努力していることはさておいて(大手メディアもひとりひとりは努力している?)
そこには違和感を感じるべきところを感じないままでやり過ごしを常態化した大手メディアの様子が
紹介されている

その例として「桜を見る会」の問題が挙げられている
大手のメディアは「桜を見る会」に費用は、最終的には当初の予算を超えている傾向は気づいていた
またそれに違和感を感じられてはまずいと思ったのか、予算事態を急にアップして提出された事実も
分かっていた
おまけに、桜を見る会の現場には多数の芸能人やら著名人が参加していて
企画した関係者の中には「この会の目的がだんだんわからなくなっている」
との声があったのも耳にしていたようだ
テレビ局、新聞社はその会の様子を風物詩のように報道していた
普通なら違和感を感ずるべきところをルーティンワークとしてこなしていた

これに違和感を感じていろいろな情報を収集して問題提起したのが「赤旗」だった
この会の場合は、参加者が無邪気に参加した様子をSNSにアップしていたので
会の様子がどんな雰囲気のものだったのか、どのような人が招待されているのかが
分かってしまうことになり、それを赤旗の関係者は丁寧に収集し、それが国会での
田村智子氏の質問につながった

この質問は大きな衝撃を与えた(メディア関係者にも)
普通なら大手メディアも後追いをすべき報道と思われたが、当初はそれほど後追いを
する気ではなかったらしい
それがツイッター上で大問題としてトレンド入りする段階になって
メディア人としては恥ずかしい(?)後追いをすることになった

それから先の話は多くの人が知るところとなるが、一番の問題は大手メディアは
違和感を感じていなかった(感じていても何もしなかった)という点だ
メディア人はいつかすっぱ抜きをしたいと思うような人たちの集まり(と勝手に思っているが)
そのためにはオフレコの取材を、対象者と仲良くなってすることになる
このオフレコの取材は記者会見と違って記録に残っていないから
悪意あるいは特別な意図をもった人物は、嘘ではないが勘違いさせるような情報を
そっとお話するなんてことは考えられる

話は飛ぶが最近の例では、例の7万円以上の飲食接待を受けた山田真貴子氏について
田崎史郎氏はテレビ番組の中で、彼女はあの時病み上がりで多く食べられないし
お酒も飲めない状態で3万円分くらいした手を付けていなかった、、と発言した
しかし、この発言には自分は違和感を感じた
まずはこの情報はどこから掴んで、それを公表する意図(目的)はなにかという点だ

これが先程のオフレコの取材につながるのだが、誰も知らないかもしれない情報を
ある人からそっと伝えられる
その情報は、今回の場合は山田氏を少しばかり心情的にかばう効果があると想像される

仮にこれによって多くの人に同情の感覚をもたらしたならば、ぼそっとこの情報をした人は
ほくそ笑むかもしれない

報道はこうしたことが起きる可能性があるので伝えること、伝えないことを
意識的に区別していかなければならないと思う
特に注意を要するのが「〇〇さんはこう言った」と一見事実を報道しているような
ストレートニュースという類だ
その発言内容が事実と違っていても、〇〇さんがそう言ったのは間違いないから
平気で無批判的に報道してしまうのは、少し考えものだ
実際のところこの手の報道で自分たちも困った経験をしたことがある
(新城市の新庁舎建設に関する実務協議の結果を市が発表したとき、行政の言い分が検証なく報道された)

ということで、最近メディアとか報道をいうものの影響力について考えることが多くなってきている
世論調査とか人気投票なども、結局のところ知名度に左右されているような気がしてならない
政治家とか官僚に批判的にもの言いするだけでなく、実はメディアに対してもの言わないと
まずいかもしれないとつくづく思う

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防災無線(新型コロナウィルス感染症に関する情報)

2020年07月25日 08時33分46秒 | Weblog

昨日の午後5時近く、急に防災無線がなった
最近の防災無線といえば、家を出たままわからなくなっている人の
情報提供を求めるものや空き巣狙い、オレオレ詐欺等の注意喚起が多い

ところが昨日は新型コロナウィルス感染者が市内在住の人に見つかった
との市長からのメッセージだった
新城市はこれで二人目
一時期、4人陽性が出たとの報告があったが、これは単なる検査ミスで
すぐに訂正がなされた

ところが今度は日本国中再び感染の勢いが増しているだけに
聞いただけで、新城もか!と緊張感を感じるものとなった
メッセージによると感染経路はおおよそ把握されているらしい
それで即安心、、とまではいかないにしても、ホッとしたものだった

最近は名古屋に行く気にもなれない
宗次ホールも気になるが、名古屋駅とか栄の混雑を思うと
もう少し落ち着いてから、、と思う
同様に京都へも足が遠のいている
FBで昔この時期に何々をしていました、、、とおせっかいな
お知らせが来るが、龍安寺とか上加茂神社とかいってたのはこの時期だった

新城市では保健所も何やら忙しくなっているらしい
どうやら疑わしい、、というだけではPCR検査まではいかないようだ

このPCR検査については、できるだけ多くやったほうが良いとするものと
無闇にすると医療崩壊が起きるので絞って行うべきとの論争があって
世界の潮流は多くすべし、、日本では後者の方を選択しているような印象がある

意見の相違があるのなら、それについて意見の交換をし合えば良いと思うのだが
どうも両陣営が一同に会してそれを行うことはなく、
それぞれが言いっぱなしに終始している印象を持ってしまう

医学的、経済的、結果責任としてどちらが正しいかわからないが
こうしたところにも、日本には討論という文化が育っていないような気がする
それは「論破」という言葉で代表されるような勝ち負けを目指し
一瞬たりとも相手側の言い分を認めたりはしない、、頑なな態度が
首尾一貫しているとか雄弁であるとの理解されているのではないか

話は戻って、陽性者の氏名とか身元は、明らかにされていない
判明するとその人は被害者であるのもかかわらず
犯罪者のような目で見られるのを防ぐためらしい
だが人はどうしてもその先を探りたくなってしまう傾向がある
そして知ると誰かに言いたくなる、、
本当に怖いのはコロナより人間、、というのも少しわかる



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11月は、、、どうしよう、、

2019年05月19日 11時34分27秒 | Weblog

困ったな、、11月は出費が重なりそう
22日には京都太秦の広隆寺へ行って聖徳太子像が黄櫨染御袍を着用するのを見て
ついでに紅葉狩りをしようと頭の中で計画している

それがネットを見ると名古屋にウィーンフィルとベルリン・フィルが来るのがわかった
しかもそのプログラムがどちらとも大好きなブルックナーの8番
指揮はウィーンフィルのほうがティーレマン、ベルリン・フィルのほうががメータ
同じプログラムでオーケストラの違いも、演奏の違いも比較できる

実はティーレマンは、Youtubeで見るとどんくさくて好みじゃないが
実演は素晴らしいという評判で、ウィーンフィルとの組み合わせがちょいと気になる
メータは実はブルックナーの8番をはじめて実演で聴いた指揮者で(イスラエル・フィルだったと記憶しているが)
その時は、一楽章の静かな弦の囁きが聴こえる中、
金管がまるで宇宙空間の中でやり取りしてるようなイメージを喚起したのを覚えている

困るのはこのチケットが半端じゃなく高いこと
2つとも名古屋に来るのはありがたいが、このチケット料金はなんとかならないものか
ベルリン・フィルの一番安い席が18000円、高いものは43000円
ウィーンフィルの方は一番安いのが13000円で高いものが39000円
そしてこの安い価格帯のチケットは枚数が少なくてすぐに無くなってしまう

実は11月はまだ魅力的なコンサートがもう一つある
それは京都交響楽団の定期演奏会の名古屋公園
フォーレとモーツァルトのレクイエムで合唱はスェーデン放送合唱団

オーケストラは若いときから時々聴きに行っていた
音楽は聴ければいいや、、ということで、いつも座席は求めやすいものばかりだった
有名な指揮者、アバド、クライーバー、ショルティ、ラトル、ブロムシュテット、ゲルギエフ
マズア、バーンスタイン、チェリビダッケ、ヴァントなどを体験できたが、
一つだけ有名どころを逃しているのがある
それはベルリン・フィルオーケストラ、それとカラヤンだ
カラヤンに対する興味が薄れていたこともあるが、それ以上にチケット料金が高いので手が出なかった
カラヤンは価格を上げることよってブランド価値を上げたと言うような噂もあって
それに対する反発心もあって意地になって聴こうとしなかった
しかし、今の年齢になるとベルリン・フィルを聞き逃すのはもったいない、、とも思えてくる

ということで、どうしよう、、11月は、、
でも半分くらいは腹を決めてるのだけれど、、、
仕方ない、いるときはいるものだ、、、

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 実写化して欲しい漫画・小説は?「共犯幻想」

2019年04月26日 16時21分04秒 | Weblog

絶対無理だと思うが、自分が映画監督ならこの映画を撮ってみたいと思っていた。
「されど我らが日々」とか「ノルウェイの森」「二十歳の原点」に通じるような
あの時でしか感じられないような焦燥感に満ちた作品

今でもこの漫画に出てきた
「今したいことはなんですか?」
「死ぬと分かっていたらしたいことはなんですか?」
「その2つの答えは同じですか?」
の問いを考えてしまうことがある。
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