パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

独り言(あるいは愚痴)

2020年09月30日 09時16分04秒 | あれこれ考えること

先のことはわからない
当たり前のことだ
日本でよく言われるように、目の前には洋々とした未来というのは
ある国では違和感を覚えるそうだ
その国(地域)では、未来は目の前にあるのではなく背後にあり
眼の前にあるのは過去という考え方が一般化しているのだそうだ
というのは、過去は見ることができるが未来は見えない
だから見える過去は目前にあって見えない未来は背後にあるというのだ

未来は予想するしかない、あるいは計画するとか
社会のあるべき姿の未来はある種の判断によって決められる
その判断は現時点での総合的な判断によって決められる
大半は良かれ!と判断するのだが、人の知恵の限界でそれはいつもうまくいくとは限らない
「結果責任」という言葉があるが、最終的には時が決める結果に委ねるしかない

ただ、時とか運命に任せるというのは少しうまく行く可能性が少ない(頼りない)ので
限るある中で未来を予想し、よくなるべく判断を行い、その計画を実行する

それを行う立場の人が政治とか首長ということになる
誰も正確にはわからない未来を予想して、良かれと思うことに対しお金を使う判断を行う
だがこの良かれ!と思う判断を如何にして間違いのないものにするか
判断を行うためには基礎資料としての現状分析やら未来予想が届けられる
その中には肯定的なものや否定的なものがある
そのどちらに重きを置くか、、判断に悩ましい場合があるだろう
このときの判断基準は一体何になるのだろうか

先のことはわからない、いい面も悪い面もある、
しかし限られた時間の中ではどちらかを選ばなけれなならない
こういう時、判断の責任がある人は最終的に何を拠り所にするか
それは多分、思いつきだが「勘」ではないだろうか
「勘」という言葉が悪ければ「全人格的な何か」と言えるかもしれない

その人が生まれて経験してきたすべての事が体に染み込んでいると自覚して
その染み込んだ何かが伝える「こうしたほうが良い!」という声を聴く
それができれば、楽観的に見れば割合うまくいくのではないか、、と思いたい

ただ現実は、その判断を任された個人の損得や感情の居場所によって
大事な判断はうまくなされない可能性があること
いや人間社会では半ばそれが当たり前になっているかもしれない

システムとしての合議とか結論を出すための多数決
それらが正常に機能するには、参加する人々がちゃんとした人物(人間性)である
ことが前提になっている

システムとしてはまともに見えるが、それが機能しないのが人間社会
というのは、最近いたるところで見られる
悲観的に見ればやりきれないが、それでも何処か人を信用している(したい)と
考える楽観的な自分もいる
それにしても、もう少しなにかうまくいかないかな、、市も国も、、、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今回の高評価の決め台詞は(半沢直樹)

2020年09月29日 08時27分19秒 | 徒然なるままに

 最終回の視聴率は32%ほどで、関東、関西、中部などどの地区でも高かったらしい
水戸黄門のような勧善懲悪のドラマ「半沢直樹」で、スッキリしたひとも多かったらしいが
最近はストーリーを楽しむよりは、役者さんの表現技術や意欲の方に関心が行く
人間の複雑な感情を顔という表に出るもので、如何に見ている人の想像力を掻き立てるか
その工夫が役者さんそれぞれで、なかなか面白い
今回はみんなが競って大げさな演技をしていて、現実社会ではあんなに大きな声で話すことはないので
作り物だな、、とは感じるものの、それで良し、楽しもうと思えば十分楽しめる

最終回は予定調和のような勧善懲悪が果たされて、視聴者にスッキリした感情を与えることになったが
今の時代、、もうネット上では「あのセリフが良かった」とのランク付けが起きているようだ
その中には、柄本明演ずる箕部幹事長の「記憶にございません」の言葉に対して
「記憶にないですむのは国会答弁だけの話です」世間では全然通用しないと言い切ったところが
スッキリした、と思った人が多かったらしい

言質を取られない「記憶にございません」とか、これに類するその世界にしか通用しない言い回しや理屈が
まかり通っているところは、何も国会の専売特許ではなく、情けないことに地方議会でも同じようなことは見られる
ドラマでは、箕部幹事長の謝罪(土下座)のようなかたちでケリはついたかたちにしているが
実社会ではこの「自らの間違いを認める」ということはほとんど不可能なようで、そのためにいつまで経っても
モノゴトが解決することはない
つくづく、人は自らの間違いを認めるのが嫌いな生き物だと実感する
(だが、そういう自分も自己正当化する傾向は否定できない)

でも不思議なのはこのドラマが高視聴率であって、先にあげたようなセリフが評価されているにもかかわらず
現実世界では「記憶にございません」とか「記録は破棄しました(?)」とか、「それ以上の調査はいたしません」
と一般人の神経を逆なでするようなことをして(世論調査でもこの部分は評価されていなくて)も
いざ内閣の支持率を調査すると、苦労人とかパンケーキが好きとか、、本質と関係ないようなところで
支持率は高止まりしている

庶民の勧善懲悪を求める気持ちと、現状維持で良しとする気持ち
個人の中でどちらを選択すべきか、、と熟慮することなく
あれはあれ、これはこれ、、と反射神経のように、世論調査とか支持率の問に答えている(と思われる)日本人

人は必ずしも理性の部分のみで判断を行うものではないとしても、それでもやはり不思議に思えて仕方ない
この傾向は日本人特有のものかどうかは、メディアの影響力も含めて社会学的な研究対象になりそうなのだが
誰か取り組まないのだろうか

ところで、最終回前に原作本を読んだ

大概の場合、活字のほうが想像力を掻き立てて高評価を得ることが多いのだが
(ハリーポッターは本のほうが面白い)
「半沢直樹」に関しては役者さん熱気とか熱い演技のせいもあって、感情を伴う人間ドラマとして
本よりは良かったかもしれない

あまり好きなタイプではなかったが、上戸彩演ずる花ちゃんは、安らぎを覚えるような役どころで
好印象をもった(彼女はこの役で得した感じ)
あと男が気になるのはどうしても女性となるが、全然知らなかった女優さんで開発投資銀行の責任者を演じた
西田尚美さん、この方最初、阿川佐和子さん?と勘違いしたが、こういうタイプは好きだな、、、
と本質と関係ないところで楽しんだりできた

それにしても「記憶にないですむのは国会答弁だけの話です」と言い切れる社会が当たり前になれば良い
とつくづく思う

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リコール運動のスタッフから声は出なかったのだろうか?

2020年09月27日 08時58分04秒 | あれこれ考えること

新城市でも今日久しぶりに行われる軽トラック市の会場近くで
愛知県知事大村氏のリコール署名が行われるようだ
リコール自体は法的に認められた権利だから別にとやかくいうつもりはない
ただ署名活動が始まってからのドタバタが情けない

リコール運動の中心人物である高須克弥氏は、数人のツイッター投稿者に
「署名した人の個人情報が漏洩する」としたデマを流布したとして刑事告訴したとのこと
刑事告訴された方のツイッターを見ると、彼女は
「直接請求するために集められた署名は、自分の意思に関係なく何者かに勝手に署名された
場合などに異議を申し立てるため、管理委員会による審査のあと、役所で1週間縦覧される」
と伝えただけで、それは法的に行われることでデマでも妨害でもない

ただ現実にはこの縦覧を脅しに使うことは過去に何度もあった
自分は(残念ながら)リコール運動を経験したことがある
それが正しかったかどうかは今でも悩む
しかし、最終的には「クレジットカードを彼に自由に使わせることは良くない」
との思いで、首長のリコールを要求した
(一般的な大義は住民投票結果を守らないため、、とされているが)

リコールは選管の扱う範囲で、署名活動を始めるにあたって普通は選管から
いろんな注意や説明がなされる
署名は申請用紙、受任者確認用紙、署名簿をセットにして本人に書いてもらうとか
選挙と違って自宅訪問は許されるとか
署名が終わりセットして選管に提出された署名簿は一旦住民台帳と照らし合わせて
確認した上で、一定期間縦覧される
それは
「自分の意思に関係なく何者かに勝手に署名された場合などに異議を申し立てるため」
である
他には判読しづらい文字などで選管が無効としたものに異議を唱えることができるため

この縦覧期間がどのように使われるか、、は
何でもありのリコールでは、好き勝手な広報(?)ができる
現実には、日本でいろいろ行われたリコールではこれ(縦覧されて署名したのがわかる)が
リコールにブレーキをかける力となるし、実際自分たちも「リコール反対派」からは
そのような攻撃を受けた

ただ、縦覧は一連のリコールの手続きの1つで法的には何ら問題はない
選管も今回のリコール運動の方々にもこれは伝えてあると思える
そこで問題は、なぜ高須克弥氏はこのことをデマと決めつけて刑事告訴したのかということ
(彼は縦覧自体がいけないこととまで思い込んでいる)

そしてもっと不思議なのは彼のスタッフの中に、こうした手続き(縦覧)には法的な根拠があるのを
彼に伝えなかったのだろうか?ということだ
勢いで威勢の良い言葉を発するのは勝手だが、それが本当かどうかは広く発する場合は注意が必要
慎重になるべきことをスタッフは見過ごして高須氏に自由気ままに行動させていたのだろうか

結局のところ、スタッフの中には「声を上げる人は出にくい」雰囲気があったのではないか
と想像される
この一種の同調圧力とか忖度とか、、こうしたことが、官僚の世界だけでなくこうした場面でも
存在するのだな、、と感じた次第

グループの中にいて大勢を占める考えに異を唱える、、
それは、変人以外にはとても難しいことのようだ
こういう場合、自分は「空気を読まないで悪いけど」と但書をつけて発言している
最近はそういうキャラということも知られているので、何ら問題なく受け入れられてる
(と自分では思っているが)

今は自分の意見を通す以前に、発表することすら難しい世の中なのだろうか

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発表報道か、調査報道か

2020年09月25日 10時12分38秒 | あれこれ考えること

新城から豊橋に出かける時には、信号が少ないので庭野から八名、
そして柿の木街道を経由する事が多い
帰る時も同じコースで、帰ってきたなと感じる場所に待っているのが
道路の真ん中に道を分けてどんと居座ってる大木だ
きっと御神木かなんかで、無闇に伐れないだろう、、と思っていた
ところが、噂も聞いていたが今朝の新聞にこんなふうに出ていた

あの大木は、今川家にまつわる新城市の指定文化財のムクノキだったが
この度指定文化財を解除して伐ってしまうとの記事だ

最近、新城市では街路樹がバッサバッサと伐られている
自分のかかりつけ医院の前の街路樹のイチョウは、少しの間丸太切りの無残な姿を
見せ、その後影形もなくなってしまった
あの丸太切りにされたイチョウを見たときはこころに痛みを覚えた
生きているものをあんなふうに単なるものとして伐ってしまうとは、、、と

そのことがあったので、今回の決断を安易に喜ぶことはできないでいるが
今日気になったのは、この判断のことではなく記事の内容
そこには「地元住民が危険木として市に伐採を要望」の文字があることだ
記者さんは本当に地元住民のそのような声を聞いたのだろうか

他に考えられるのは「地元からこれこれの声があった」という市の発表を
そのまま書いたというものだが、今回はどっちなんだろう

報道は発表報道と調査報道とがあるそうだ
発表報道は文字通り「誰々がこのように発表したという事実」を伝えていて
その内容が本当かそうでないかはわからない

このように些細なことが気になるのは、以前にもこの手の記事で自分たちの
行動が無力化されてしまったことがあるからだ
それは思い出す度に怒りを覚えるが、新庁舎建設についての住民投票後の
実務協議の結果の発表で、このときは市の発表がそのまま記事にされて
あたかもそれが事実であるかのように報道されてしまった
(別の解釈もあったのに)

現在、世の中に出ている報道は圧倒的に「発表報道」が多い
時間がない大衆は、その報道を真に受ける
そして新聞に書いてあるから、テレビで報道しているから事実と思い込んでしまう

でも、そうばかりじゃない
疑い深くなったせいだけでなく、いろいろと情報を得るようにすると
記事とかテレビ報道はある一面を伝えているに過ぎないことがわかる

つまりは人は情報リテラシーを磨かなくてなあかんということ
だが、どうやって磨いていったら良いのやら

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相手の言い分を聞くのに慣れるということ(その上での確信)

2020年09月25日 09時05分19秒 | あれこれ考えること

自分の意見・考えと異なるものを一切受け入れない傾向が最近はあるようだ
人が何人かいれば、家族も生い立ちも教育も違うから、自然発生的な方向性の違いが
生じるのは当たり前のこと
だが、どういうわけかどの地域(アメリカ、日本、韓国)でも一部の人の間では
自分の考えに馴染まない人たちを敵として扱おうとしている
敵と味方、、この単純化された区分けは、正しいかどうか以前に
現実的な区別法で無意識に多くの人の間で使われている(と思う)

自分たちの考え、方向性に自信や確信を持つのは大事だし必要なことと思われる
しかし、それは自分たちと違う意見を一切聞き入れないことではないはず
相手の言い分もしっかり聞いて、それを自分たちの考えと比較して、その上で
やはり自分たちのほうが優れているとか妥当性があると信じるなら良いが
今は、異なる意見を頭ごなしに否定して、一切受け入れないで、しかも
反対の意見の人の人格攻撃を行うのが、多くの支持を受けるようにまでなっている

国会では官僚が質問の答弁をいくつも準備している
出てきそうな質問をいろいろ想定して、それにあう答えを用意しておくのだ

ところがこの「相手の言いそうなことを想定する」ということが
官僚さん以外(一般人)にはどうも難しいように思えるときが少なくない
「相手の言いそうなことを想定する」は討論における技術的なものの1つ
と思われるが、それに慣れていないと「相手の良いそうなことを想定する」こと自体が
屈辱的なこととさえ感じられるのかもしれない

ネット上の見られる「論破」は、何が論破されているのかさっぱりわからない
と言った例が多い
ただ残念なのは、身近な中にも過度に自分たちの正当性だけを訴える傾向があることだ
自分たちの正当性を信じることがエネルギーになっているのは事実だが
それでも相手の言い分を全然聞かない(ように思える)のは少し残念な気持ちだ

「我々は慣れていないのではないか」
そうした結論に最近はなりつつある
人には感じ方や考え方の相違があるのは当たり前で、その上で討論・議論によって妥協点を探していく
それが身についていないのではないか

とすると、慣れはどのように身につけていくかが問われることになりそうだが
そこでいつも思い出すのが「ボイテルスバッハ・コンセンサス」
ドイツの政治教育の基本原則だが、ここに書かれていることを、この国でも(我市でも)
じっくりとやっていけるようになればいい、、とつくづく思う

うまく纏まらないが、ずっと気になっていることなので

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

53歳6ヶ月のサッカー選手

2020年09月24日 08時55分46秒 | サッカー

瞬発力を要求されるサッカーは選手寿命は長くない
大半は30代なかばで選手生命を終える
だが例外が日本にいた
KAZUこと三浦知良選手だ
昨日彼は53歳6ヶ月でリーグ戦(川崎フロンターレ戦)に先発出場した

身をもって年齢に伴う運動能力の低下を感じた者にとっては
この年齢でサッカーというゲームに出ているということ自体が信じがたいことだ

すごいな、、と思いつつ、少し意地悪な思いもあった
人気選手だけに、広告塔のような人集めの役割をしているのではないか
試合に出るとしても最年長記録を更新するために最後に少しだけ出るのではないか
そんな思いが頭をよぎった
そして「それは悪いことか?」といえば、「それでも良いじゃないか!」
と思い込もうとした

でもまずは見てから!ということでDAZNの中継でチェック
彼の所属する横浜FCの対戦相手は首位を独走する川崎フロンターレ
このチームは一時期のジュビロ磐田のような強さをキープしているので
J2から上がってきたばかりのチームでは荷が重い
よくて引き分けに持ち込めれば、、と予想した

この試合に、どちらかといえば守りを固めるべき相手に彼は先発した
(同様にちょいと年嵩がいった中村俊輔、松井大輔も先発出場した)
ゲームはKAZUの動きを追いかけながら見た
首位を走る相手だけに横浜FCは攻撃の形になれない
川崎は攻撃力だけでなく、前線の守りも結構鋭くパスコースを限定するだけでなく
ボール奪取も試みていて、横浜FCはボールを回しても後ろで回すだけ
なかなか前線にボールがいかない
当然KAZUもボールに触れない時間が多い
彼の時間は大半の時間を守りの助けとなる動きに費やされる事になった

走る姿は若い選手のような膝の柔らかさ、粘りが感じられるそれではない
でも右に左に、そして前から後ろまでプレスをかけたりコースの限定をする
ここでまた驚いてしまう
よく走れるな、、疲れるだろうに、、、

でもこのあたりまでは、彼は年齢がいってるから仕方ない、、みたいな思いでみていた
ところが、やっとボールが回ってきて攻撃に絡むシーンがあると2.3良いプレーがあった
ポストプレーだっかた壁パスだったが、周りに相手選手の多い厳しいなかで
とても効果的なパスを送った
ただでさえ横浜FCの攻撃時間は少ないので、この部分は印象に残った
そしてもう一つ、利き足でない左足でパス交換をした時、
普通のタイミングと違うので彼の技術の高さを感じた

そうか、彼を先発に使ったのは話題作りのためとか慰労のためでもなく
勝つためだった、、と感じた瞬間だった

横浜FCは彼と選手契約をしている
それは選手として価値があるものとしてであって、広告塔的な意味だけではない
彼が選手として戦う場にいたいと思うことは勝手だが
それを認めてくれる場所があった、、ということ自体が、今は驚いてしまう

選手を退いて解説で生きる、そんな選択も考えられるが、彼はそれを選ばない
あくまでも現場のプレーが一番、職人をいつまでも続けたいと思っている
彼はチームから必要とされない、、と判断されない限り続けていたいと思うだろう

ここまで来ると、彼の今までの業績のご褒美に「得点」というものをあげたい
とついつい思ってしまう
瞬間的な速さはなくなって今までのようにシュートは決められないだろうから
こぼれ球でごっつあんゴールでも良いから、みんなが喜ぶようなシーンがみたいな


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

賛成・反対討論

2020年09月22日 09時02分33秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

地元新城市の話題

見聞きしていただけなので正確さは保証できないが、ずっと気になっていることがある
それは先日の新城市議会の本会議における議決前の討論のことで
議案は新城市内を走る公共バス(Sバス)の路線の変更を議決によって
認めてほしいというもの

バスの路線の変更とは、具体的には道の駅「もっくる新城」から鳳来寺方面に
走るのを増やすというもので、これは新東名経由の高速バス「山の湊」号には
名古屋からの客が新城に来ても、その後の交通の便が悪いので二次交通の足を
確保する目的らしい
この路線が増えることによって今まで走っていたSバスの発着時刻も変わるようだ

この変更の議案についてはすんなり賛成とならずに反対の意見が出てきた
それは、
1.新たな路線のSバスの委託業者は、議決前に既に入札が行われ決まっており
 それは議会軽視に当たるのではないか
2.公共交通としての利便性と観光のための交通機関はこの案では成立しないのではないか
   今までSバスを利用して、こんたく長篠に買い物に来ていた客は、時間変更のために
 滞在時間が短くならざるをえなくて、不便になっているのではないか
3.観光客のための二次交通というものの、一番利用客が多そうな土日祝は運行していない
4.鳳来寺に遊びに行って、さてバスで帰ろうとすると、適当な時間のバスが存在しない

だいたいこんな内容のことが数人の議員さんによって発表された
この中で一番議員さんの感情にカチンと来たのは
議決前に段取り良く入札も何もかも済ませていることで
それならわざわざ議決をする意味もない、、と言いたくなる気持ちはわかる

実はそれどころか、先日(9月中旬)配布された新城市の広報「ほのか」には
そのバスの変更は記事として掲載されていた
印刷、配布の時間を考えるとその作業はずっと前から進められていたと思われる

ところで、これと似たことが以前にもあった
新東名高速バス「山の湊」号は今年の3月までは実証実験期間で
その後継続するか否かは議決を必要とされるものだったのだが
市議会で議決された二日後(だったと思うが)に新城市内に折り込まれたチラシには
(実証実験から営業路線として)継続して利用を求める内容だった
これは印刷、新聞販売店へのチラシの持ち込みを考えると
議決前にその作業は済まされていたと考えられる
特に折込前には祝日があったので、販売店へのチラシの持ち込みは普段より早かったはず
このような時間的な矛盾を感じた議員さんがいて、議決前に作業を済ませていたのではないか
それならば議会軽視ではないか、、と行政に問い詰めたが、
行政は議決直後に連絡をとって折込可能とした
仮に、否決されたならばバス会社の負担でチラシの回収(折込ストップ)をする手はずになっていた
と答えた(らしい)
しかし、その答えは一見もっともらしいが、現実は折込手配されてしまっているチラシを
取り除くことは、物理的、時間的に不可能だ
ありそうな話としては、議決は通るに違いない、、と進めたということだろう

今回の反対討論に対して賛成討論の内容は
●議会軽視というが、今回は議決を必要としない案件である
●今までもこのような段取りの議決はいくつもあった、今回だけ議会軽視と大騒ぎするのはおかしい
●総論としての考え方には賛成できる、、

こんな内容だったと思う(特に最初の2つは違和感を覚えたので印象に残っている)
議決を必要としない案件ならば、なぜ行政は議決を求めたのだろう
(そもそ議決を必要としないものにはどんなものがあるのだろう)
今までもこのようなことは度々あったとするならば、議会はチェック機関の機能を
今まで果たしてきたのか、、前例に従うのはわかるが、今回問題にされた以上は
真摯に向かうべきではないのか、、、

傍聴していてスッキリしなかったのは、この考えがすぐに浮かんだからだ
でも傍聴者が反対・賛成討論を聞いて、どちらがまともで説得力があるかを判断したところで
傍聴者には議決権はない
議決があるのは当たり前だが議員だけだ
反対賛成討論をしなかった議員は、反対・賛成討論を聞いた上で彼らの賛否の決断をしたのか
を考えると、彼らはどうも討論を聞く前に結論は決めていたと思えてならない

討論の内容で賛否を決めるのではなく、現実的にはなにか別の都合で決められていく
それは一歩間違えると「数の力」に終始してしまうように思われる
「数さえとってしまえば、なんでもできる」
これは国のみならず、こんな小さな地方自治体でも見られるようで
間違いをしないためのシステムとする民主主義も実は随分デリケートなものだと実感する

民主主義を含めた制度は人の試行錯誤で改められていくのだろうが
その試行錯誤に参加する人が一般人の段階まで降りてくるのは
もっと一般人が「痛い目」をしないとダメだろうか
と、少しばかり気が滅入る

ものすごく意識の高い人が増える、、というよりも
ほんのちょっとだけ民度のレベルが上がるようになる
それが良いと思うけれど、、、なかなか難しそう、、、


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

半沢直樹とフルトヴェングラーの指揮する第5交響曲

2020年09月21日 08時40分30秒 | あれこれ考えること

 人気ドラマ「半沢直樹」がコロナ感染症対策のために収録が間に合わなかった時
急遽、スタジオで出演者の裏話を見聞きする番組に変更された
堺雅人、香川照之、片岡愛之助、その他、自分の知らないお笑いのひとが
演技の意図を詳しく説明していて、なかなか興味深いものだった

何年ぶりに憎き相手に会う時にはどんな表情がリアリティがあるか
人にものを頼むときはどうすべきかを、、気に食わない相手に言うにはどうしたら良いか、、、
セリフだけでなく体からにじみ出る仕草はどうしたら効果的か
それらはト書きには詳しく書いてないので、役者さんの感性や即興に任せるらしい

このドラマは顔のアップが多くて、顔芸のオンパレードだが
顔の表情の中にいろんな思いを込め、それを見ている人に想像させるというのは
表現者としての役者さんの力量を楽しめて、それはストーリとは違った面で面白い

時間内に収めるため、カタルシスを感じさせるためにストーリーはちょいとご都合主義な面があるが
それはエンタメはこんなものだ、、と割り切れば、少し文句を言いたくなる面も我慢できる
そして少しオーバーな歌舞伎役者の顔芸も、、一旦その世界に入ってしまえばそれを楽しむことはできる

そこで思い出したのがフルトヴェングラーの指揮するベートーヴェンの5番の交響曲
最近テレビCMで「ジャジャジャジャーン」が使われているのに刺激されてレコードを引っ張り出した
選んだのはベルリン・フィルとウィーンフィルのうち、ベルリン・フィルとの方
頭に残っているのはベルリン・フィルのほうが演奏中の間(休止)の効果がすごい、、ということ
それはライブ録音のせいもあるかもしれない
5番の交響曲は少しばかり押し付けがましくてなかなか聞く気になれない曲だが
フルトヴェングラーの指揮するのもは、押し付けがましさはあまり感じない
(同じくフルトヴェングラーの指揮する皇帝も押しつけがしさは感じない)

今年はベートーヴェン生誕250年で記念の年、本来ならば巷でベートーヴェン関係のコンサートが
行われているところだったが、新型コロナのせいでその話は吹っ飛んでしまったようだ

レコードに針を下ろす
有名な冒頭のテーマが響く
「重い音だ、、こんなに重い音(低い音だったっけ?)」
最初に感じたのはこのことだった(これはベルリン・フィルの音色か)
5番の交響曲の楽譜には、テーマの前に休符がある
急にその意味がわかった気もした
強拍ですんなり始まるより、息を少しためて緊迫感を煽って始める
そのほうが良い
この冒頭は最近の指揮者のと違って遅いし、物々しい
それは先程の顔芸と似たようなもので、少しばかり大げさすぎる、と感じないことはない
だが、始まってしまうとその世界に引き込まれて、全ては必然の流れのように感じられる
テンポの変化がフルトヴェングラーの演奏では特徴と言われるが、
どこがテンポアップしたのか、テンポを落としたのかなどは気づかない
むしろ必然の成り行きのよう
フルトヴェングラーの音でいつも思うのはティンパニの音だ
打楽器なのだが音階楽器のように聞こえる
そしてその効果的なこと

始まったらその世界に引き込まれて、終わると決まって出てくるのは
「すげー」の一言
それ以外の表現のしようがない
何か知らないが、とにかく濃密な時間を体験したという感覚だけは強烈に残る
それはベルリン・フィルの奏者も無我夢中になって音楽にのみ集中しているようで
そこには聴衆の存在すら忘れていそうな熱狂を感じてしまう
そして最後の音になると急にテンポが落ちて、「これでお終い」と
大きな芝居の出し物を終えるような、念を押すような終わり方をする
これは冒頭の音の出し方ととても調和が取れていると感じる

ドラマも音楽も楽しむためには、その世界に浸ることだと思う
だがその浸るものは、できることなら浸る価値のあるものが良いに違いない
今回の「半沢直樹」は価値あるものかどうかは、カタルシスを求めるだけでなく
現政権への抵抗も見て取ると面白いかもしれない

フルトヴェングラーの指揮は、時代がかって古い!
と無視するにはもったいない気がしてならない
(一旦ハマれば抜け出せなくなるに違いない)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「はじめの一声(ひとこえ)」

2020年09月19日 07時49分06秒 | あれこれ考えること

「だるまさんがころんだ」で知られている遊びは、自分が子供のころ
この地区では「はじめの一歩」と呼ばれていた
現在はもうこの地区でも「だるまさんがころんだ」の呼び名のほう一般的かもしれない

「はじめの一歩」ではなく、「はじめの一声」がその後の流れを決めてしまって
いるのではないかと思うことがある
良いか悪いか、美しいか醜いか、得か損か、面白いか面白くないか、格好いいか悪いか、
お洒落かダサイか、おいしいかまずいか、正しいか正しくないか、
世の中にはこうした判断に悩む問題がいくつもある

本来ならば個人の判断でそれらを決めれば良いのだが、モノゴトはそう簡単に進まず
ある人の「最初の一声」に知らず知らず縛られていないかいるのではないか、、と思ったりする

人は自分の関心のあることなら、それなりの覚悟を持って判断できる
しかし自分の興味の外になるものについては、無知なるが故に自分の判断に自信がない
このようなときは、誰かの声を聞く
専門家に聞けば良いのだが、専門家は身の回りに多くいるわけではないので
ついついテレビとか新聞とか雑誌とか、世の中で囁かれている声とか、、そうしたものに頼ることになる

専門家は各自の信念に基づいてぶれない判断と発言を行うのならば問題はないかもしれないが
専門家ももしかしたら、世間(あるいは同業の専門家)で多く言われている判断に惑わされることはないだろうか
ソロモン・アッシュの同調圧力の実験では、人は知らず知らず多く人の声に従ってしまうとされている
専門家も人の子、どうしても人間的な心理傾向からは逃れられないのではないか

ところで、問題は結局は多数の声となるある種の判断は、どのように出来上がるかという点で
それは「一番最初に声を上げた人の考え」に支配されていないだろうか

ちょいと現実にありそうな話に戻して例を挙げると
女性グループの眼の前にヨレヨレの服を着た若い男がいた
それを見たリーダー的な存在の女性が「格好いい」というのと、「ダサイ」というのでは
その後の空気は全然違ってしまう
リーダーの言葉はカリスマ性があるからではなく、単にある方向を決めただけなのだが
自らの判断を下す面倒臭さと、周りとの摩擦を避けるために、リーダーの声に同調する人が増える
これは想像の世界だが、とてもありそうな話と思える

このようなことが、現実の世の中でも起きているのではないか
世論調査では政策への反対とか(マスク)説明責任を果たしていない(森友、加計学園、桜)
首相の決め方に問題がある、、とする意見が多いにもかかわらず、内閣支持率は想像以上に高い
今回の菅内閣の支持率はご祝儀相場で高止まりしている、、とメディアはのんきに伝える
でも、本当にそうなんだろうか
それは誰か言い出しっぺ、しかも発信力がある人(能力ではなく、立場として)が
意図的か無邪気にかどうかはわからないが、内閣支持率を高止まりする発言をしていないか
(もっとも、代わったばかりで期待しない方も偏屈すぎるので、現実問題として
 ある種の期待するところは仕方ないとしても、、)

要は、世の中は、相対立する意見や考えは、公平に目の前に表されるのではなく
ある種の言い出しっぺの「はじめの一言」に左右されているのではないか、、
というのが今朝の独断

はじめの一声、、、
それはあえて相反する意見を並べる、、ってのも必要と思ったりする

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マイナポイント

2020年09月18日 08時37分30秒 | 徒然なるままに

9月の初めにマイナポイントの申請をして以来、交通系のICカードをどんどん使っている
今までは名古屋、京都、東京に出かける時に、少しチャージして使っていたのだが
マイナポイント制度は、累計2万円分チャージした翌月に5000ポイント付与される
というので、早めにポイントを手に入れたくて、交通系のICカードで決済できる店舗でも
使うようにしている

交通系ICカードを使うきっかけは便利だからではなくて、岐阜でバスを利用した時に
自分よりも高齢な女性が交通系のICカードを使いこなしているのを見てショックを覚えたからだ
新しいもの好きではないが、そこそこなんでも使うと自負していたのが、一気に打ちのめされた
感じで、そのあとすぐに利用するようにした

使ってみれば確かに便利だ
わざわざお金を財布から出して払うこともないし
お釣りを受け取ることもない
地下鉄に乗るにもきっぷを買わないで済む
使ってみれば、もっと早く利用してれば良かった、、と思うが
現金支払いの慎重なお金の使い方が、どこかルーズになってしまいそうな気がしないでもない

国からの5000ポイントが早くほしい、、
それだけの理由で、利用回数を増やしているのは、せっかちな自分らしい
同居人からは、いつもは段取りが悪いのに、こういうことだけは早い、、、と笑われる

お上はお金を集める時は、呆れるほどシステマティックにすばやく漏れなく集める
しかしいざ払う段になると、申請主義的な面倒な手続きを要求し、それが終わっても
直ぐ様というより、期間をおいて支払われる
このことを知っているので、ちょいとその仕返しをしたい気分になっている
庶民の抵抗(?)なんて、こんなもの、、(抵抗にもなっていないか!)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする