先のことはわからない
当たり前のことだ
日本でよく言われるように、目の前には洋々とした未来というのは
ある国では違和感を覚えるそうだ
その国(地域)では、未来は目の前にあるのではなく背後にあり
眼の前にあるのは過去という考え方が一般化しているのだそうだ
というのは、過去は見ることができるが未来は見えない
だから見える過去は目前にあって見えない未来は背後にあるというのだ
未来は予想するしかない、あるいは計画するとか
社会のあるべき姿の未来はある種の判断によって決められる
その判断は現時点での総合的な判断によって決められる
大半は良かれ!と判断するのだが、人の知恵の限界でそれはいつもうまくいくとは限らない
「結果責任」という言葉があるが、最終的には時が決める結果に委ねるしかない
ただ、時とか運命に任せるというのは少しうまく行く可能性が少ない(頼りない)ので
限るある中で未来を予想し、よくなるべく判断を行い、その計画を実行する
それを行う立場の人が政治とか首長ということになる
誰も正確にはわからない未来を予想して、良かれと思うことに対しお金を使う判断を行う
だがこの良かれ!と思う判断を如何にして間違いのないものにするか
判断を行うためには基礎資料としての現状分析やら未来予想が届けられる
その中には肯定的なものや否定的なものがある
そのどちらに重きを置くか、、判断に悩ましい場合があるだろう
このときの判断基準は一体何になるのだろうか
先のことはわからない、いい面も悪い面もある、
しかし限られた時間の中ではどちらかを選ばなけれなならない
こういう時、判断の責任がある人は最終的に何を拠り所にするか
それは多分、思いつきだが「勘」ではないだろうか
「勘」という言葉が悪ければ「全人格的な何か」と言えるかもしれない
その人が生まれて経験してきたすべての事が体に染み込んでいると自覚して
その染み込んだ何かが伝える「こうしたほうが良い!」という声を聴く
それができれば、楽観的に見れば割合うまくいくのではないか、、と思いたい
ただ現実は、その判断を任された個人の損得や感情の居場所によって
大事な判断はうまくなされない可能性があること
いや人間社会では半ばそれが当たり前になっているかもしれない
システムとしての合議とか結論を出すための多数決
それらが正常に機能するには、参加する人々がちゃんとした人物(人間性)である
ことが前提になっている
システムとしてはまともに見えるが、それが機能しないのが人間社会
というのは、最近いたるところで見られる
悲観的に見ればやりきれないが、それでも何処か人を信用している(したい)と
考える楽観的な自分もいる
それにしても、もう少しなにかうまくいかないかな、、市も国も、、、