パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

してきたこと、しなかったこと

2017年09月29日 09時32分48秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

今、直接会って、第一印象からどんな印象を持つか確かめたい人がいる
人というのは年齢を重ねるとどういう訳かその生き様が表に出る
歌舞伎の悪人の隈取までしていなくても、「なんとなく」警戒しなければならない人はわかる
その道ふうのわかりやすいファッションをしているひとは、その衣装をしていなくても
眼光の鋭さ、暗さ、雰囲気が普通の人と違う

この第一勘の間違いはあるかもしれない
自分の見たものが全て、、という偏りの危険性はある
でも年令を重ねて多くの人を見てきた人は、何故かそれほど間違いのないということを
経験から知っている
その人のことを知りたい、でも会って自らは確かめることは出来ない場合
解決方法は会ったことのある人に「第一印象のイメージ」を聞くことだ
話の内容よりは全体的な印象としてどうだったか、、を聞くことは無駄ではないかもしれない
もう一つはその人の周りの人間、親友がどんな人たちか見ることも(聞くことも)有効かもしれない
(「類は友を呼ぶ」この諺は、本当にその通りだ、、というのが自分の生きてきたなかでの実感)
これらの方法が取れない場合はどうするか
当たり前だが、今までしてきたこと、しなかったことを確かめることだ
ところが、このしてきたことの情報を得ることが意外に難しい

公にされるものは、どこか丁寧な作文がなされている
森友、加計学園でもハッキリしたように公式文書なるものと
ひっそりと交わされていた内部文書とは受け取る側の印象は随分異なる
歴史家の方々は、一次資料というオリジナルな情報を重要視し、一次資料をもとに
書かれた二次資料を慎重に扱うように気をつけている
(例えば坂本龍馬について司馬遼太郎のは二次資料、本物の手紙は一次資料)
しかし現実的な話、二次資料のほうがわかりやすく面白いし
結果的に多くの人がこれによって共通認識を持つようになる

公的なものが全部が全部作文ではないかもしれないが、
一次資料では重要なある部分が変形されている
してきたこと、しなかったこと
大事な判断の根拠に関することが、今 この町では選挙を前に評価が割れている
一般的には表に出たもので判断するのは当たり前だが、
そこには本来は大事なそれこそ人間性を如実に表すようなエピソードが
表現されていなかったり無視されている
それは、一部の人にとっては(聞きたくない、無視したい)噂話
でも別の一部の人たちにとっては実際に被った被害

してきたこと、しなかったこと
自分は自分が経験した公になっていないこの2つの事柄ゆえに
ある人を支持できないでいる

公になっていない、してきたことは何か
しなかったことは何か、、
しなかったことは、この地区の人なら容易に思いつくかもしれないが
自分の頭にあるのは少し別のこと、、

何をゴチャゴチャと訳のわからないことを、、(だろうな)
でも、その人のしてきたこと、しなかったことに対する怒りが
いつまでも消えないでいるし、多分消えることはないだろう

ところで、冒頭の人となりを実感してみたい人物とは
新城市の南部工業団地のあの会社のあの人


 






 


 

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聖人、政治家、吉本の芸人

2017年09月28日 17時20分40秒 | 徒然なるままに

グスタフ・マーラーの歌曲「少年の不思議な角笛」の中に
「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」というものがある
どんな曲(メロディ・歌詞)だったか忘れてしまっているが、奇妙なタイトルなので
曲名だけは覚えている

似たような事を連想させる話に、「小鳥に説教する聖フランチェスコ」がある
これは有名な話らしくてググると、
フランチェスコは、動物たちを兄弟と呼び、話しかけて心がよく通じ合ったといわれ、伝説としては、オオカミを回心させた話、小鳥に説教した話は有名で、14世紀に完成した伝記『聖フランチェスコの小さい花』の中にも、説教を聞く者がいないときは小鳥を相手に説教したという逸話がある、と紹介されている

どちらも常識的には話しかけても反応しない生き物に話しかけている
普通の人は端っから会話が成立するとは思わないから、やってみようなどという気は起きない
ところが「聖」 などの言葉がつかない人でも、反応しない生き物に話しかけられる人達がいる
それは「政治家」と言われる人たち(国会議員だけでなく市議会議員でも)
この人達はカエルに向かって演説ができる
この時期、政治家さんたちは街頭演説に近いことをする(法に触れないように)
聞く人がものすごく少なくて、白けてしまいそうでも、田舎のあぜ道でカエルしか聴いていない状態でも
何事もないかのように話すことができる
これは現場を見ると、本当にすごいと圧倒される(何故できるんだ、、、)
そしてそれは訓練の賜物とは言え、才能としか思えないような気さえする 

そう言えば、反応のない中でおしゃべりをしなければならない人たちがまだ他にいた
それは吉本の若い芸人さん
昔、花月劇場に早くから出かけた時(たしか京都花月)観客は自分を含めて数名だった
(その中の1人は何か弁当みたいなものを食べていた)
時間が来れば予定通りプログラムは進んでいく
観客もいない中で登場した若い芸人さん、素人目にも話しにくそうなことは想像できた
なにしろ観客が少ないから反応が感じられない
かわいそうに、、大変だな、、、でもこうして鍛えられていくんだな、、、
芸とかパフォーマンスには関係なく、今まで記憶に残っていることはこんな事

世の中には、そうせざるを得ないとしても、この様にすごいことをやりきれてしまう人達がいるのだ
先程、才能と決めつけてしまったが、普通の人でも訓練でできるようになるんだろうか
自分はそんな訓練なんてする気なんてサラサラないし、そんな状況にも出会いたくないけど 

 

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女性の演奏するヴィターリのシャコンヌ

2017年09月28日 09時45分40秒 | 音楽

シャコンヌといえばまず第一番に頭にうかぶのがバッハの
無伴奏ヴァイオリン パルティータ2番 ニ短調の終曲のそれ
バッハの作品が仮にこれしか残されていなかったとしても(幸いそんなことはないが)
バッハの天才性を物語るものだとされている
一台のヴァイオリンから紡ぎ出される圧倒的な幻想感、そのなかには
極めて専門的な作曲技術が駆使されているが、それが頭でっかちにならず
感情の赴くままのような気さえする
この曲は実演でもいつも圧倒される

ところで、今日のテーマはもう一つのシャコンヌ
小泉純一郎氏が本に書いたこともある「ヴィターリのシャコンヌ」
この曲も、大好きだ
濃厚な感情、熱気、そうしたものが心のなかで眠っていたものを呼び起こす 

ところで、Youtubeで「ヴィターリ シャコンヌ」と検索すると女性の演奏家の動画が多い
自分の好きな(きっかけとなった)オイストラフ、有名なハイフェッツなどの男性陣もあるが
目につくのはやはり女性のほう
プロでなくても素人の方が発表会で演奏しているのもYoutubeにはあるが、ここでも女性の方が多い

そこで、ふとNHKの調査では人気のない作曲家ナンバーワンのブルックナーの事を思い出した
ブルックナーは何故か本質的なところは間違いなく男しか理解し得ないと根拠のない自信を持ってしまうのだが
このヴィターリのシャコンヌは女性の方がその本質を何の抵抗感もなく掴んでしまうのではないか
と勝手な想像をしてしまう
濃厚な感情  それは演奏に没入することによって醸し出されるが、その感情移入がこの曲に関しては
女性の方が難なく出来ているのではないか
(もっとも感情移入しすぎるのと良い演奏とは違うかもしれないが)
ピアニストのアルゲリッチの直感に満ちた把握や演奏が、どこか「中島みゆき」みたいな
女性特有の迫力を感じさせると同じように、女性の演奏するヴィターリのシャコンヌは
みんなどこか迫力がある

もっとも、全然根拠のある話ではなく、聴いててそう感じたというだけのこと
秋になると聴きたくなるのはブラームスのクラリネット5重奏曲だが
このヴィターリのシャコンヌも聴きたくなる
(眠っていた感情を開放させてあげたいように)

Youtubeにあがっていたヴィターリのシャコンヌ、ちょいとピックアップするとこんなのがありました
 

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実感する諺は?

2017年09月27日 11時10分20秒 | あれこれ考えること

祖母の最期のとき、いやその前の父、祖父のときも
一番気になったのは「人生は幸せだったか?」ということ
本当のところは分からないが、できることなら
家族としては「幸せだった」と思っていて欲しい
若干ニュアンスは違うかもしれないが、似たような話にカミュのシーシュポスの神話があって
そこでは「人生は自殺しないで生きるに値するか?」以上の大切な問はないとあった

ところで、年齢を重ねると先人たち残した含蓄のある諺が心に響く
果たして実感として、人はどんな言葉に共感を覚えるのだろう 
おせっかいな話だが、選んで欲しくない諺がある
それは、「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれろ」「出る杭は打たれる」「雉も鳴かずば撃たれまい」
これらの諺は生活する上での知恵としての役割はあるかもしれない
でも、ずっと生きてきた結果がこの結論に至るとしたら、あまりにも悲しい(余計なお世話だが)
これらの諺に共通する自分のことを自分で決められないということ、、これで本当に幸せか、、 

絵本に「100万回生きた猫」がある
この猫が真に幸せだったのは、、
絵本と言いながら、深い内容でずっと長い間支持され続けているのがよく分かる

もっとも最近読んだ本(選択の科学)ではアジア系の人たちは欧米人たちと比較して
自ら選択をするのを嫌がる傾向があるとあった
自由と責任、思うほど簡単な問題ではないかもしれない
でも他人任せばっかりの生き方なんて、、



 

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100分de名著 ハンナ・アーレント「全体主義の起源」

2017年09月26日 09時03分14秒 | あれこれ考えること

早寝早起きのおっさんは夜にテレビを見るなんてことはない
運良くいい番組がある場合は、録画してみることになるが
テレビを見続けていないとその情報を得ることは難しい

見逃した番組があった
NHK『100分de名著」
時々思い出したように気になる番組だが9月はハンナ・アーレントの「全体主義の起源」だった
しまった、見過ごした、、、
ということで早速地元の書店に出かけ本を手に入れた
 

全体主義の起源は3冊に分かれた大作で、しかも内容が濃い
一つのセンテンスがとても長くて、よほど集中していかないと途中で何が何だかわからなくなる
このなかで最後の一冊(3)だけをしんどい思いをして読んだ(正確には最後のページまでたどり着いた)
圧倒的に多い参考資料とそれから導かれる洞察力に満ちた考察
1ページ進むのにとても時間がかかる(まるでカラマーゾフの兄弟を読むみたいに)
読み終えたあとは、もう一度じっくり読まなければならない、、と感じる
(だが、これがなかなか出来ない  ついつい別の本に手が出て、、)

「全体主義の起源」というだけに全体主義の典型であるナチス・スターリニズム・ファシズムの
成り立ちが解説されている
特に著者の関係するナチスについては、何故こんなこと(ユダヤ人の大虐殺)をしでかしてしまったのか
その時人の心を支配した思想(気分や思い)、社会の雰囲気、社会制度の変化、、
これが「哲学」という視点で語られる

ところが、「100分de名著」の この本は、何故か自分が読み終わった時と印象が違う
プロの先生の書いたことだから、うまく時系列にわかりやすくまとまっている
でも、なにか違う もっと大事なところが抜けてるような、、
よくありがちなことだが、本の内容を紹介するよりは、人(ハンナ・アーレント)の
考えの紹介しているように思えてしまった

西欧人は徹底的に思索する  
淡白な日本人とすれば考えてもしょうがないような答えのない問題も延々と考える
「なんでこんなことをしでかしてしまったのか、、」
この疑問はハンナ・アーレントだけでなくエーリッヒ・フロムが「自由からの逃走」を書くきっかけにもなっている
この本には、この圧倒的な思考の深さが欠けているみたい(ページ数に制限があるから仕方ない?) 

少しばかり文句をつけてしまったこの本だが、このテーマを取り上げた必然性と言うか
今の日本のなかに漂う危険な兆しに対する注意喚起は納得できる

そこで、フイに連想したのが図書館で借りて雑な読み方をしたにもかかわらず印象に残っている「天皇機関説事件」
なぜこの本を連想したのかは、天皇機関説を否定する一部の反知性主義的な人たちの勢いがいつのまにか
日本を戦争への道へ導いてしまったこと、その流れがナチスへの流れを連想したからだ
考えもなく天皇機関説を否定した人は、天皇機関説を法人格のシステムとして捉えようとした西欧の発想を
「彼らは  空論をもてあそび、、」とあっさり切り捨てる
西欧人は確かに、ある種どうでもいいこと(彼らにとっては切実な問題かもしれないが)を考える
「神が存在するのなら、何故神は悪の存在を許すのか
 そもそも人間に神の意図を知ることができるのか
 悪の存在はは何か意味があるはずだ、、
 人間社会の悪は社会的な規則にすぎない、、、」
確かに直接生活に直結した考えではなく、この思索が日本人には有効とは思えないのも事実だ
しかし、このしつこいくらいの思考自体が、人と他の生物との大きな差を生み出し
西欧が今の世界のスタンダードをつくっているのも事実だ(サピエンス全史のもこの様なことが書かれていた)

空論をもてあそぶと言った人たちの
自分で考えることへの軽視
自分の居場所を同類の仲間うちのみに求める思考
他の文化を認めることもなく自分たちだけが優れているとするエスノセントリズム
不安な時に単純な過激なメッセージに頼り勝ちになる傾向
これこそが、二度と繰り返したくない大きな間違いへと繋がった 

日本で天皇機関説事件を起こした人物は、戦後自殺した

よく考えること、自分自身の頭で考えること
答えは出なくとも、考えるという行為のなかで生まれる何かに期待すること
そうしないと、凡庸な悪にとらわれてしまう
多くの哲学書はこのことを繰り返し述べる(この全体主義の起源も) 

ところで、安倍さんに仕切られているNHKが
この時期に暗に安倍さんの姿勢を批判する様な「全体主義の起源」をテーマに取り上げたというのは
良識的なNHKの職員が、頑張って紹介してくれたのかもしれない、、
と期待を込めて想像してしまったが、さて本当のところは、、、

相変わらずのまとまらない話、、

 

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真面目な生活への反動かもしれない

2017年09月25日 08時45分27秒 | 徒然なるままに

時々、無性にその世界にどっぷり浸かっていたい世界(本)がある
このところ少しばかり真面目っぽい本ばかり読んでいた反動のせいかもしれないが
脱力系の、しかし時を重ねたものには実感として大いに納得できる内容の
飲ん兵衛の詩「ルバイヤート」がそれだ

短い詩が書き連ねられているが冒頭は、こんなだ(ルバイヤートから抜粋)


  1

チューリップのおもて、糸杉のあで姿よ、
わが面影のいかばかり麗うるわしかろうと、
なんのためにこうしてわれを久遠の絵師は
土のうてなになんか飾ったものだろう?

  2

もともと無理やりつれ出された世界なんだ、
生きてなやみのほか得るところ何があったか?
今は、何のために来きたり住みそして去るのやら
わかりもしないで、しぶしぶ世を去るのだ!

  3

自分が来て宇宙になんの益があったか?
また行けばとて格別変化があったか?
いったい何のためにこうして来り去るのか、
この耳に説きあかしてくれた人があったか?

  4

魂よ、謎なぞを解くことはお前には出来ない。
さかしい知者*の立場になることは出来ない。
せめては酒と盃さかずきでこの世に楽土をひらこう。
あの世でお前が楽土に行けるときまってはいない。

  5

生きてこの世の理を知りつくした魂なら、
死してあの世の謎も解けたであろうか。
今おのが身にいて何もわからないお前に、
あした身をはなれて何がわかろうか?

  (6)

いつまで水の上に瓦かわらを積んで*おれようや!
仏教徒や拝火教徒の説にはもう飽あきはてた。
またの世に地獄があるなどと言うのは誰か?
誰か地獄から帰って来たとでも言うのか?

  7

創世の神秘は君もわれも知らない。
その謎は君やわれには解けない。
何を言い合おうと幕の外のこと、
その幕がおりたらわれらは形もない。

  8

この万象ばんしょうの海ほど不思議なものはない、
誰ひとりそのみなもとをつきとめた人はない。
あてずっぽうにめいめい勝手なことは言ったが、
真相を明らかにすることは誰にも出来ない。

  9

このたかどのを宿とするかの天体の群
こそは博士らの心になやみのたね
だが、心して見ればそれほどの天体でさえ
揺られてはしきりに頭を振る身の上。

  10

われらが来たり行ったりするこの世の中、
それはおしまいもなし、はじめもなかった。
答えようとて誰にはっきり答えられよう――
 われらはどこから来てどこへ行くやら? 

中略

 16

今日こそわが青春はめぐって来た!
酒をのもうよ、それがこの身の幸だ。
たとえ苦くても、君、とがめるな。
苦いのが道理、それが自分の命だ。

  17

思いどおりになったなら来はしなかった。
思いどおりになるものなら誰たが行くものか?
この荒家あばらやに来ず、行かず、住まずだったら、
ああ、それこそどんなによかったろうか!


難しい顔をしてあれこれ考えているよりお酒を飲んで楽しんでしまおう
という少しばかり虚無的な飲ん兵衛の詩だ
そう言えばお酒大好きな詩人には李白がいたようだが
マーラーの大地の歌の第一楽章はこの李白の詩を参考とした
「大地の哀愁に寄せる酒の歌」があり「生は暗く、死もまた暗い」のフレーズが繰り返される
この詩の内容はともかく、音楽的には冒頭のホルンの主題はとても魅力的だ

ルバイヤートは後半になっても開き直りの投げやりさが続く

 

 (78)

死んだらおれの屍しかばね野辺のべにすてて、
美酒うまざけを墓場の土にふりそそいで。
白骨が土と化したらその土から
瓦かわらを焼いて、あの酒甕さかがめ蓋ふたにして。

  (79)

死んだら湯灌ゆかんは酒でしてくれ、
野の送りにもかけて欲しい美酒うまざけ
もし復活の日ともなり会いたい人は、
酒場の戸口にやって来ておれを待て。

  (80)

墓の中から酒の香が立ちのぼるほど、
そして墓場へやって来る酒のみがあっても
その香に酔よ痴しれて倒れるほど、
ああ、そんなにも酒をのみたいもの!

おいおい!とチャチャを入れたくなるが、どこかホッとする
真面目もいいけど、こんな本音トークも大好きだ

こうした生産的でないものへの偏愛は、最近の真面目を要求される生活からの反動
と勝手に思っている(本当かな?)
こんなお酒の歌が好きでも現実世界では
「養命酒を飲むくらい、とか梅酒を少し」で笑いをとり、割り勘をすれば絶対勝ちめはない立場
でも、宴席で馬鹿話ができれば、、、いいか


 

 

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2号基準

2017年09月24日 15時02分49秒 | 産廃

久々に新城市の産廃についての投稿(別のものからコピペ)

最近、話題になっている言葉がある
それは「2号基準」
何だそれ?
多分、普通の人はそう思う
しかし、産廃企業の悪臭被害で悩む新城南部地区の人とっては
「何だそれ?」と思うもう一つの言葉「買い戻し特約」と同様に
とても無視できない言葉となっている

臭いというものはとても厄介なもので、その感じ方にかなりの個人差がある
おまけに、こちらの方がより重要と思われるが、臭いは物理量なのだが
その臭いの物理量(かたまり)は見えないので、その漂い方、移動がよくわからない
そこで、工場や企業から出てくる捉えがたい悪臭を防ぐために、基準を設けることにした
それが臭気指数ということになるのだが、新城市ではこの臭気指数が
何度か計測しているが基準値以内だと報告している

しかし、被害の声は続いている
どちらかが嘘を言っている、、ような捉え方もされそうだが
これが、臭いの厄介なところだ
ところで、市の計測し発表しているのは「1号基準」というもので
基準には実は3種類が設定されている(1号・2号・3号基準)

「2号基準」という言葉が出てきたのは9月の新城市議会の一般質問でのこと
そこで、今は便利な世の中でネットで少し調べてみると
「1号基準」とは敷地境界域の規制基準
「2号基準」とは気体排出口の規制基準
「3号基準」とは排出水の規制基準
この様に分かれているとあった
この様に分かれているのは臭いという厄介なものを実態に合うように計測するためだ
臭いは温度差で上昇しやすい、排出口から巻き込まれて下方向へも進む、
周辺建物の影響で遠くに運ばれる可能性あり、それから拡散によって希釈される、、
つまり、「1号基準」の敷地境界線だけを計測していただけでは実態を反映していないことになる

先の一般質問ではこのこの言葉が出るきっかけとなった八王子市の例が浅尾市議から紹介されている
これが新城市とよく似た状況で、住民は悪臭が出ていると訴えていたが、計測すると基準値以内との答え
そんなはずはない、、とその計測のことをよく調べてみると発表されて数字は「1号基準」だった
そこで、計測場所を「排出口」に指定して、つまり「2号基準」で判定をしてもらう事になったら
数字は、、アウトで、結局、住民の望む指導がなされることになった

実は、新城市でもまったく知らなかったが一回だけ「2号基準」で計測されていた
基準値は25以下だが、その時の計測値は18から19で問題はなかったとの判断をしたと
質問では答えていた
ここで問題は、そんな大事なことを肝心な地域住民は知らされてなかったということ
そして、それが行われたのはたった一回だけということ(それも被害届けが連発した時期でなく)

正直なところ、これはダメでしょう
聞かれないことは大事なことでも黙っている
被害の声が出ているのに、より現実的な「2号基準」の測定を一回しか行っていない(なんで?)
これでは森友・加計学園みたいに何かを隠していると思われても仕方ない
決して文句を言いたいわけでない
ただ、当たり前に普通の人が望むこと(2号基準の定期的な計測)をしてほしいだけ
そして、そもそも地元住民との臭気指数の感覚の相違はなんだろう?
(どっちが正しいかというのではなく)と真摯に立ち向かって貰いたい
なんと言おうと、悪臭被害にあっている方々は、それが現実なのだから

 

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知りたくなかったこと

2017年09月24日 09時30分47秒 | あれこれ考えること

知らない方が良かった ということはある
困っている人、緊急を要する事態の人を見かけたら
無条件に救いの手を差し伸べるのが普通だし
多くの人はそうするのもだと思っていた
しかし、残念なが心理学的には必ずしもそういう行動を取るばかりとは言えないようだ 
最近読んだ「ファスト&スロー」のなかに「人助け実験」を紹介したコーナーがあった

独立したブースに入った人たちは順番に2分づつ話すことになっていて
自分の話す番になるとインターコムのマイクがオンになって他の人は
話を聞けるようになっていた
話す内容は自分の近況や悩んでいることなどで、一通り回ったところで
仕込まれていたサクラが急に支離滅裂な事を話し出す
「発作がきた、誰か助けてくれ、死にそうだ、、」喉が詰まるような音のあとで沈黙
この状況で、それを聞いた他の人たちはどのような行動をしたかがチェックされた
随分意地悪な実験をするものだと思うが、それはさておき結果というのが
少しばかり喜べないものとなった
15人の参加者のうち、すぐさま行動を起こして助けを呼んだのはたったの4人
6人はブースに入ったまま何もしなかった
残り5人はサクラが窒息死した頃になってやっと重い腰をあげた

この実験は助けを求める声を聞いた人が他にもいるとわかっている状態では
人は自分の責任を感じないことを示していると結論づけている
ごく普通の真っ当な人間でさえ、発作を起こした人を助けるなどという
あまりゾッとしない仕事を他の人がやってくれそうと思ったら、自分は直ぐに
行動しないというのだ

この実験が15人ではなく、もっと多くの人になされたかどうか知らないし
15人が多いか少ないかも分からない(ひどい実験だからそんなに多く試験台になってほしくない)
ただ、この実験の導いた結論というのは残念ながら、なんとなくわかる
この様なケースに出会ったら自分もそうように行動する(何もしなかった)1人だろうと思う
(直ぐ動けたら自分で自分を褒めてやりたい) 

ここで話はいきなり自分の住む新城市の問題に変わる
新城市の南部工業団地には産廃処理企業が進出していて(本来ならば製造業と物流業に制限されていた)
操業前から懸念された悪臭が少なくない回数確認されており、地域の住民は以前の普通の暮らしを
気持ちよく過ごすことができなくなっている
この状況を聞き知った人がどんな行動を起こすか、、というのが先に上げた実験と被る

そしてその結果も、残念ながら実験結果と似たようなものになっているというしかない
当事者は当たり前だが、声を上げる
ところがこの声を聞いた当事者でない人(特に新城市では豊川右岸左岸で気分的にくっきり分けられ)
南部工業団地の地区ではない右岸の人たちは、この訴えにあまり反応していない
実際に当事者として感じていないこともあるが、そういう話を聞いても
自分の取り組むことではないと決めているかのようだ
それはまるで「自分でなくても誰かがやってくれる、、」 と思っているかのようだ
(当事者でない地区の何人かが地域の人達と行動している)

ただ、他人の苦痛には無関心でほったらかしと考えるのは人間的にも少しつらいので、
何かしなければいけないかもしれないが、誰かがやってくれるだろうから自分からは
行動しない  という考え方の方が救われる気がする 
わかっているけど、ごめん、自分がやらなくても他の人がやってくれるので、、、

これは話を展開すれば沖縄の問題にも通じる
確かに沖縄は遠くて、自分たちは当事者ではない
沖縄の人たちの事を考えると何かしなくてはいけない
でも、自分たちの代わりに今頑張ってくれてる人たちがいる、、
ついついこんな風に考えたくなってしまう

でも行動を起こした人、当事者は、何もしてくれない人たちに
内心怒りを覚えてしまうかもしれない
本当に人に共感し何か行動をおこすというのは、、、、難しい
あれこれ、ごちゃごちゃ言う前に、何かしなければ 、、と反省
(自分で自分が褒められたら良いと思うが、、その時の採点は甘いかな )

 

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楽しみな新国立劇場の「神々の黄昏」

2017年09月22日 08時21分54秒 | 音楽

Hagen,was tust du?(ハーゲン、何をする?)

リヒャルト・ヴァーグナーの大作、ニーベルングの指輪
その最後の「神々の黄昏」を初めてレコードで全曲を聴いた時
記憶に残ったのはこのわかりやすいドイツ語のセリフだった
ヴォータンが期待を込めた恐れを知らない若者は、このハーゲンの一撃で
死の世界に旅立つことになる

それは指輪を持った者にかけられた呪いのせいで、この指輪を持ったものは
みんな不幸になっていく運命を被ることになる
指輪は元々は愛を断念した者に、世界を支配する力を与えるというものだが
ヴォータンの策略によって指輪を奪い取られたアルベリヒが、持つ者に不幸が訪れるように指輪に呪いをかけた
指輪の持ち主は呪い通りに みんな死を迎えることになる
「ニーベルングの指輪」とはアルベリヒの属する「ニーベルング族」の指輪という意味で
ワルキューレやジークフリートが舞台上では主役だが、現実的に物語を裏で支配しているのは
この「愛を断念したのもには世界を支配する力が与えられるが、それには呪いがかけられている」
指輪への欲望で、どの時代、どの世界にも通用しそうな普遍的な物語となっている 

北欧神話とニーベルンゲンの歌を手本にしながら、自分自身でこの物語を作り上げ
作曲したヴァーグナーは、人間の奥に潜む嫌なものへの洞察がすごくて少しばかり
敬遠したくなる面もあるが、どうしようもなく惹かれてしまうのもまた事実
世にいうワグネリアンとは、この魔術的な魅力から逃れられない人たちのこと
(物語というより彼の作り出す響きにぞっこん参る人の方が多いかもしれないが) 

この物語は多様な解釈が可能で、1976年のバイロイト音楽祭で演出家のシェローが
神話の物語を、モーニング姿をしたヴォータンなど現代劇に読み直ししてから
最近では少しついていけない演出まで出回るようになったらしい
(見ていないので分からないが、そういう噂)

10月は、見ることはないと思っていた「神々の黄昏」を見られる
物語は要は権力欲とか復讐に取り憑かれたものたちの物語だが
音楽がライトモチーフという人物・気持ち・自然・運命・魔法などを表したものが
言葉の後ろで奏されて、これがとても効果的で言葉で話されている以上の情報を得ることができる
(このライトモチーフはぞくぞくするほどカッコいい)

ただ困るのは、人間関係が予習しておかないと少しわかりにくいこと
このあたりは予習が必要かもしれない

ということで、前にも書いたが予習より復習が得意な方だが
今回はちょいと予習をしている
それもレコードで(フルトヴェングラーの古い録音)
それは何よりもセリフのやり取りを印刷したものが、圧倒的にCDのものより大きくて
老眼には読みやすいからだ
しかし、古いとはいうもののフルトヴェングラーの演奏は言葉が表に出るように感じられる
これは何故か考えなくては、、と思うが、今のところは物語の顛末を中心に聞くようにしている

しかし、ワグネリアンにはバカにされそうだが、ヴォータンはジークフリートに期待を寄せながら
何故、ワルワラ城に薪をたくさん配置して炎上してしまうようにしたのだろう
神々が黄昏てしまわないように、ジークフリートに期待したと思ったのだが
ここのあたりは現場で確認するしかないし、現地で誰かに聞いてみようかな(幕間に)

ところで、神々の黄昏と言うものの神のヴォータンは今回登場しない
このヴォータンについての、ちょっとしたやり取りが先日あった
小池都知事が最近のある時、眼帯をしていた
それを見たある人が「ヴォータンになっている」とつぶやいた
自分は「何と引き換えにしたのでしょう、、」と続けたら
いいね、だったかのアクションがあった

ヴォータンは片目と引き換えに何かを得た
さて小池さんは、、、
こういう分かる人しかわからない話は、ちょっと面白い
(と思うけど)

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品のないのは不倫報道

2017年09月21日 19時54分03秒 | あれこれ考えること

「人の不幸は蜜の味」ということわざがある
人の不幸を自分のことのように同情し涙を流す(例えば海老蔵さんの奥さんの死)一方で
この諺のように冷たい一面が人には存在するのも残念ながら事実だ

そのどちらが上位を占めるかがその人の人間性となるのだが
最近は、どうも品のない人たち《?》が大手を振っているかのようだ
芸能人、政治家の不倫騒動、これらは自分にとってはほとんど関心のない事柄
確かにモラル的には褒められることではないが、
だからといって、もしかしたら批判する資格のないような、つまりは人間は誰しも
叩けばほこりが出てくるような存在にも関わらず、その自らの立場もわきまえず
公開処刑のようにいじめて、どこか気分がスッキリする(背景にはありそうな気分)という理由で
大騒ぎするのは、、少し呆れてしまう

マスコミが面白おかしく扱うのは、そういう需要があるからで
それは雑誌の売上とか視聴率に反映されるのだろうけれど、この負の部分を
開き直って堂々と商売しているところが、品がない(と思う)

最近読んだファスト&スローでは、心理学的には得するより損する方が嫌だ
と紹介されていたが、実感としてその通りだし、今更という気がしないでもないが
この損する方が気になるのと同じように、他人の良い話よりは悪口の方が
目ざとかったり聞き耳を立てやすいのが人間というやっかいな存在のようだ

「上司の悪口は絶好の酒の肴」は多くの社会人の実感するところ
この傾向は、ニーチェなら何やら理屈をつけて説明しそうだし
心理学的にも誰かがそれなりの理由もくだせそうで
どうやら抜け出せそうもない傾向のようだ

でも、悪口を聞くのは嫌な気がするとか、批判を聞くのは嫌という人(場合)が
存在するのもこれまた事実
要は不安定な人の感情の、良い部分と悪い部分との個人の中での戦い
ということになるのだろうけれど、最近の品のないというのは
この戦いにあっさり土俵を割って安易な否定的な方に流されて
それを実行している理由を商売のためという理由付けにしているところが
ちょいと情けない
(叩けばホコリが出そうで偉そうなことは言えないけど)
ここまでは、分別くさい普通のお話 

ところで、その時は感覚が研ぎ澄まされて、人の表情を見るだけで
その人が何を考えているか間違いなくわかるような気がして
目に見える自然は、葉の色、光の反射は今まで見たこともないように美しく感じたり
肌を過ぎる風の感触、衣擦れの音までも何かを暗示しているような、、
そんな感覚をあるきっかけで経験したことのある人は、
その時の充実感、生きているという実感は圧倒的な印象で
今、そう感じられるようになってしまっていたら、なかなか抜け出せそうになさそうなのも
ちょいと分からないでもないな、、(この状態とは?)

そのあるきっかけ、、、、
とうの昔に経験した切ない 
今となると少し微笑ましいような、誰にでもありそうな、、あの思い出となる感覚
それを今感じてるとしたら、、、
人は感情をコントロール出来ないかも

話は飛んで、昔「男一匹ガキ大将」という漫画があった
自分は変人なので覚えている部分がかなり偏っているが、そのなかに
主人公がある女性にメロメロになって骨抜きに、ぞっこん惚れ込んで
彼女以外のことを考えられなくなったことがあった
その時に、主人公のライバルとなる男が、自分には現在の自分の立場を忘れて
あのように女性に夢中になることは出来ない、、と羨ましげに
あるいは状況も考えずそれをしてしまうスケールの大きさに
嫉妬する場面があって、そんなもんかな、、と思いつつ、今まで何故か覚えている

要するに、人ってのは  しょうもない  存在だなと実感する
結局は自分のコントロールが出来なくて、人を批判する資格のないのに、批判して喜んで

でも、それもあり  かな
願わくば、大事なところでゆるい人間という存在が間違った判断をくださねば良いのだが
(トランプさん・北朝鮮、国内の選挙・市の選挙など)

 
  



 

 




 

 

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