パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

乗り越えるのではなく、変わる

2009年12月31日 19時34分09秒 | Weblog
今の経済、民主党に戦略がないとか言われているが
自民党がやっていても大して変わらないと思う
どっちがいいとか悪いとかの問題ではなく
どちらがやっても同じことに落ち着くのでは

多くの人が、現実論としての政策を論じているが
それも今出されている民主党の案に対してのコメントであり
そのベースとなる判断の立脚点は以前の価値判断

しかし、問題なのはその過去の判断が役立つか?
ということ
猛烈な勢いで老齢化が進み、少子化が当たり前になっている
国内で生産するのは正直なところ無理な状況
そしてバカでかい中国と比べ経済でその規模を(数字を)
張りあうのも現実的ではない

にもかかわらず比較対象の努力目標は以前と変わらないで
世界に名だたる日本!
みたいなものに設定されている

だがこれが無理なのは若い世代では
実感として感じているのではないだろうか?

若い世代は、草食系、車も所有欲がなく
内々で縮こまってコミュニケーションを作り
貯金にも勤しんでいるらしい
これを覇気がないと判断するのは旧来の価値判断からで
彼ら若者には余計なお世話!となるだろう

時代は変わりつつある
時代は乗り越えられるものではなく
横に変わるだけだ

バッハを乗り越えてモーツァルトがあり
モーツァルトを乗り越えてベートーヴェンがあるのではない
またベートーヴェンを乗り越えてベルリオーズ達があるのではない
ただ時代の求められる何かが変わってしまって
知らない間に過去は乗り越えられてしまっているように錯覚している

新しい時代
それは正直分からない
ただ従来の発想がそのままでは行き詰るのは目に見えている

理性で考えることは
考えれば考えるほど袋小路に入ってしまう

こんなとき役立つのは
生命としての本能とか感情とか
いわゆるアテにならないもの
そんな風に考えるのはすこしばかり無責任な気がしないではないが
妥当なところに落ち着いているのではないだろうか

しかし、2009年 ひどい年でした
来年も楽観的に予想できないのがツライが
それに慣れて対応していくしかないか

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今年の3冊

2009年12月30日 19時14分19秒 | 
良い本だったかどうかの評価は
その本をもう一度読みたいかどうか
で決まるとしたならば、今年の3冊は
最近読んだばかりの
「ピアノ・ノート」チャールズ・ローゼン
それからトルコの小説家オルハン・パムクの
「雪」
そして少し迷うが
「幕末史」半藤一利
あるいは「人間は進歩してきたのか」「20世紀とはなんだったのか」の
佐伯啓思の現代文明論

必ずしも読む本は新刊ばかりではなく
書店で何かしら気になったものを購入することにしている

「ピアノ・ノート」
身体と心の関係、ピアノの弾き方、音楽学校の教育とコンクール
さらにレコーディング、コンサートまで
様々な分野を大変な知性で明瞭に書き記している
それは知っていることを再確認するだけでなく
知らないことを知る喜びに繋がっている
度々読み返したいくらいだ

「雪」
これは正直何度も読み返したくはないかもしれない
細密画のようなエピソードと人物表現
雪で閉ざされた暗い田舎の町での出来事
それぞれが一生懸命生きているのだが、、、
この作者の技量や苦悩の深さは
確かにノーベル賞に値する(なんて偉そうに言ってみたりして)

世の中には物事をうまく説明できる才能を持った人がいるもので
「幕末史」「人間は進歩してきたのか」「20世紀とはなんだったのか」
の3冊はそういった人によって書かれた本

ある意味物事を割りきって単純化しているので
それが全てというわけではないが
わかりやすいことこの上ない

読書はバイオリズムが低下していると
思いっきりブレーキがかかる
せっかくの正月休み、
自分にとってヒット作の本に巡り会えるといいのだけれど、、、
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比較は不幸の始まり

2009年12月29日 18時35分11秒 | Weblog
最近本当にCDを聴いていない
聞くのは専らレコードばかり

昨年EAR 834P-5 のフォノイコライザーに
C&R Woodham 2.0 300B 真空管アンプにしてから
レコードの良さを再確認して
いやそれどころかCDの音が嫌になってしまって
どうせならレコードの音を自分の範囲内で行けるところまで
追求しようとプレーヤーもノッティンガムに替えてしまって今に至っている

電源はCDプレーヤーも入れるけれど
どうしても触手が動かない

しかし、これではまずい!と思い直して
CDも聴いてみた
久々なためか「あれっ!割にいいかも!」
と感じたのは意外だった
スッキリ、綺麗な音だ、濁りの無い、、

しかしその後でレコードをかけると
「やっぱり!だめだ!」
音の暖かさ、柔らかさ、音色、密度が違う

どうも比較するものがある事自体が
不幸の始まりのようだ
便利なCDの世界しか知らなかったら
それで良かったのかもしれないが
レコードの音を知ってしまったがために
なにか物足りなく思えるようになってしまう

3週間ほど前、名古屋に出かけて百貨店をぶらついた時
自分の着ている服が周りにいる多くの客の人達と比べて
やたらと古臭く野暮ったいと(最近少しも買っていなかったので)
すこしばかり恥ずかしくなったが
これも比較するからそんな風に思うだけで
人と比べることをしなかったら
別に不安感など感じずに済んだの違いない

物事は残念ながら絶対的というより相対的!
比較するものがあって、そこから様々な判断が始まる
確かに、比較することによって進歩すること、変化することも促される
しかし、不幸の始まりになりうるのも、これまた事実

というわけで最近の自分のスタンスは
人と比べない!
開き直りではないが、それでいいのでは
と思うことにしている

こんなはずではなかった!
と思うようなことは、ないことはないが
他人と比較して自分の生活がよくなるわけでもないし
ある種の諦めもできるようになっている

しかし、そうはいうものの
時に比較の魔力は人を強く惑わす
自分をコントロールするのは難しい



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久々の優勝(少年サッカー)

2009年12月27日 19時12分51秒 | サッカー
今日は年3回地元で行われる少年サッカーの試合日
1.2年が担当なだけに、さほど勝ち負けにはこだわらないが
それでも自分たちのチームが勝ち進んでいくのは悪い気はしない

今年の2年生は多くて23人
一人インフルエンザにかかって欠席
もう一人はずっと練習にも来ない(辞めるという連絡はないけれど)
8人ずつのチーム分けをするのだが
優勝狙いの突出したチーム分けはしないで
なるべく均等なチームというか
一人ひとりが無理して頑張らなければ勝てないようにしている

こうすると誰が頑張れるか
性格を見ることができる
ひたむきに頑張るか?横着か?戦えるか?怯むか?

どの学年にも何人かは走るのが早かったり
何でも器用にこなす、いわゆる運動神経の良い子がいる
我々もその例外にもれない
しかし、このところそうした子以外の伸びが目立ってきた
(そういう練習をしているのだけど)

つまり試合に出ても足手まといにはならず
ちゃんと役に立っているし
そのことを本人も自覚して
それ故にサッカーが楽しくなってきている

結局、我々の3チームが勝ち進み決勝に至ったわけだが
準決勝の引き分けで無理やり勝ち負けを
決めたジャンケン大会
そこで負けて悔しくて泣いた子が二人いた
確かにこの二人は人一倍頑張っていた
夢中になった分悔しさは募るのだろう

だが、こちらとすれば「ヤッタ!」
という思いが強い
負けて泣く子の出現
それが多くのコーチ陣の望みでもある

泣かすのが好きなのではなく
それくらい夢中にさせることができたということ

これはある意味少し羨ましい気さえする
大人たちはこんな風に悔し涙を流すことはできない
子どもたちには悔し涙を乗り越える十分な時間や機会がある

さて優勝戦
これも時間内は引き分け
しかしここでまたもやジャンケンはかわいそう
それで3分の延長を

3分でも入るときは入るもので
立て続けに2点
結局2-0で、
最初から今日のベストチームと思われたところが優勝

それにしても同学年のチームの中では
我々のチームは今のところたくましさにおいて
そして走力において他より秀でている

決して走れ走れとスパルタ的に言っているのではなく
彼らが勝手に走るように練習メニューを考えているだけなのだけれど

ということで、しばらくはこの練習方法でイケそうな感じ

次の春の大会は意図的に運動神経の良い子を集めて
上の学年と戦わせてみようか!
との案も浮かんできた
ちょっと天狗になりつつあるところに
ショック療法も必要かも?

いずれにせよさえない今年の締めくくりとしては
この久々の優勝は自分への良い贈り物になった


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グレン・グールドは孤独すぎて、、、

2009年12月26日 19時57分25秒 | 音楽
演奏は自分のため
小さな仲間内のお楽しみのため
そして大きな会場での聴衆のため

先日読み終えた「ピアノ・ノート」の中にある一節
それぞれ目的が違うために自ずと表現されるもの
表現方法も違ってくる

そこで思い出したのがグレン・グールドのこと
高校時代に初めてバッハの平均律を彼の演奏で聞いたとき
ピアノなのにチェンバロのような響き、
音が一つ一つ、声部がそれぞれ際立って
ちょっとした衝撃を受けた
(もっと衝撃を受けたのはレコードに
 彼の唸り声が入っていたことだけれど)

それで彼に興味を持ったので
グレン・グールドのアルバムを集めようとしたのだけれど、、、

なんだか気が進まなくて結局ゴールドベルクを買ったくらい

なんでかな?

その答えが冒頭の演奏に向かう環境にあるように思えてならない

彼は自分の為に演奏している
聞き手という介在を必要としなくて
自分とバッハと音だけに向かい合って
それ以外のものは意図的に省いている

孤独にコツコツと音を紡いでいく
作曲当時は単なる職人とされていた(?)バッハも
やはり同じように誰に理解されようがされまいが
自分の世界を創り上げて良く

この部分が自分には少しきつい!
音楽や芸術が心に心地よいものだけとは限らないのは理解できる
しかし、グレン・グールドの音楽は孤独すぎる

ある時期ビートルズも人前の演奏活動を中止し
レコード録音活動だけになり
グレン・グールドも同様に録音だけの存在になったけれど
同じことをしていても態度は全く違う
片方は新たな音楽の可能性を探るため
片方は音楽以外の不要なものを取り去るため、、

結局ビートルズは音楽家、演奏家の本能みたいなものから
聴衆を必要としたが
グールドはそうでなかった

グレン・グールドは寂しすぎる

アンドラーシュ・シフ
クラウディオ・アラウのバッハはなんと優しく
心温まる演奏なのだろう
深くはないとしても(?)
自分はどうしてもこちらを求めてしまう
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ハッピー・クリスマス(ジョン・レノン)

2009年12月25日 21時01分31秒 | 音楽
今日はイブではなく、本当のクリスマス
この時期流れる音楽といえば山下達郎の「クリスマス・イブ」
もう24年も100位にランクインしているとか

ところで結構好きなクリスマスソングはジョン・レノンの
「ハッピー・クリスマス」
おおらかなメロディーラインが歌いやすくて
それに子どもたちのコーラスとの掛け合いが
とても美しく気持ちいい
(ドレミの歌みたい)

ジョン・レノンと言えば「イマジン」が代表曲
でも個人的には
「ジェネラス・ガイ」の方が好き
個人の生活、しかも単なる恋愛模様を歌っているだけだけれど
それゆえに肩肘張ったところがなく
むしろ普遍性がありそう

もう一つ好きなのは
「God」
なかなか意味深で。これまた個人的なことかもしれないけれど
繰り返されるうちに盛り上がっていく感じ
そして行き着く先の開放感がとても効果的

ジョンは思想家みたいな評価されているけれど
甘えん坊な繊細な、それでいて怒りん坊みたいなところがあって
むしろその辺りが自分は好きかな

ところが、音楽自体は深くないかもしれなくても
ライバルの左利きのベーシストの方が好き
でもウイングス時代はちょっと、、、

それにしてジョン彼が亡くなって30年
時がたつのは早い
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教える!と、育てる!

2009年12月23日 21時59分14秒 | サッカー
少年サッカー
子どもたちは褒められるのが好き
そしてゲームが大好き

確かに一番真剣になる練習はゲームだし
現実的に身につく可能性の高いのもゲームだ

しかし、だからと言ってゲームばかりをしていると
いつも同じところでつまずいてしまうし
プレーの幅もワンパターン化する

だから子どもたちの練習には
現実にゲームに役立つプレーの技術の習得に
多くの時間を掛けることになる
特に最初の休憩までの練習は割合真剣に取り組むので大事にしている

といっても小学1年や2年のこと
そんなに大げさなことではなく
右利きの子は方向転換が右足のインサイドで行うので
いつも蹴りにくい左側の方にボールを持っていきがちになるの
どうしても右足を使いたいならアウトサイドという手もあることを
練習させたり、左足でのとっさの方向転換ができるように
練習することになる

だが集中力、持続力のない子どもたち
そして多分練習の意味もわかっていない子どもたちに
ずっと真剣に向かわせるのは大変なことだ

そんな中で改めて感じることは
得意なプレーは人それぞれだということ
このくらいの学年だと走るのが早い子が
圧倒的な存在感を示すことが多いけれど
よく見ていくと、教えてもいないのに引き技がうまかったり
ボールを取られないような体の使い方をしたり
また体のフェイントで相手の逆をとるのがうまい子などがいたりする

こうした子はその都度
「うまい!」
と褒めてあげる、ともう有頂天になって
ウルトラマンの制限時間3分くらいは真剣に取り組むことが多い

自分は子どもたちに教えるのではなく
もともと子どもたちの持っている個々の良い点を見つけ出し
それを育てることが大事と思っている
そのためには一人ひとりをよく見なければならないし(性格も含めて)
また一人ひとりに与えるアドバイスも考えなくてはならない

そうすることによって子どもたちは
自分を認めてもらっていると感じ
仲間がいるからサッカークラブが楽しいのではなく
なにやら気づかないうちに自分に自信が持てるようになっていき
そこでちょっとやそっとの失敗を恐れない
たくましい子になっていくようだ

少年サッカー
教えるのではなく、育てていく
時間はかかるかもしれないが、この方向でずっとやってきたし
これからもやっていくつもり

褒められた時の子どもたちの得意そうな顔
それだけでこちらも幸せな気分になれる

今度の日曜は公式戦
果たしてみんな真剣に取り組むことが出来るか、、、
楽しみだ



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好きか嫌いか?

2009年12月21日 21時54分25秒 | Weblog
小沢さんが好きか嫌いか?
中国が好きか嫌いか?

残念ながら人は完全に客観的に物事を判断することはできない
一見すべての話を聞いて判断しているようでも
どこか最初に直感的に好き嫌いを感じて
あとから自分に都合のよい理由を探し出ているのが現実だ

天皇の政治的利用
ここでも専門家ですら意見が分かれているようだが
庶民感覚からすれば冒頭の2行に集約されそうな気がしてならない

話は変わって
アメリカとの対等な関係
これを見直したり定義しなおす件についても
アメリカが好きか嫌いかで
論ずる人の態度は決まってしまう

困るのはこの直感的なるものは(好きか嫌いかは)
理屈でなく感情だから結局まともな話し合いにならないことが多い

多くの可能性を残す意味で、生命に多様な価値観を
感じさせるようにしているシステムが働いているだけのことかも知れないが、
みんなが納得できるような落としどころは難しい

好きか嫌いか?
この根本となる判断材料はいったい何なのだろう

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ピアノ・ノート

2009年12月17日 22時12分05秒 | 
まだ読みかけなのだけれど本当に興味深い

面白い本はどんどんページが進むのではなくて
むしろ反対に停滞してしまうこともあるが
この本「ピアノ・ノート」チャールズ・ローゼン著
朝倉和子訳 みすず書房もそうしたものの一つ

あまりにも面白くて、その時間が終わってしまうのが惜しかったり、
そのうちに面白くなくなるページが現われやしないか?
などと不安になったりで、とにかくもったいぶって読み進めている

この本はピアノに関するさまざまな事が書かれている
プレリュード
第1章 体と心
第2章 ピアノの音を聞く
第3章 ピアノという楽器と、その欠点
第4章 音楽学校とコンクール
第5章 コンサート
このあたりまで読んでいるが
続いて
第6章 レコーディング
第7章 演奏スタイルと音楽様式
ポストリュード

まるでスポーツのような体との係わり合い
調律師たちの名人芸、とんでもない耳の持ち主たち
音楽学校の先生たちのあるべき姿と現実などなど
知っていることやら知らないことやら
わかりやすく、しかし幼稚ではなく的確に説明されている
この文章だけでチャールズ・ローゼンは
単にピアニストだけでなく
たいした知性の持ち主であることが明らかになる

本当に残り少なくなるのが残念なくらいだ
今年読んだ中では
オルハン・パムクの「雪」(新刊ではないが)
と双璧で面白い



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卵が先か?鶏が先か?

2009年12月14日 22時03分06秒 | Weblog
タイガーウッズの不倫騒動
その数が半端じゃない状況で、おもしろおかしく扱われているけれど
そこで思い出した言葉が
「英雄色を好む」

確かに名をなした人たちは、そうした傾向がある
ただ、それが名をなして、経済的にも社会的にも
認められる様になった所為で好き勝手に走り出したのか
それともハチャメチャな行動をするような
パワフルな人間だったからこそ
経済的にも社会的にも成功したのかは
判断は難しいのでは?

話は変わって
政治家と金
いつまで経っても消え去る事のない問題だけれど
そもそも金に対して執着心が人一倍強かったりする人だったからこそ
政治家になれた、なんて事はないだろうか?

一歩譲ったとしても清廉潔白な人よりも現実的には
政治家になりうるチャンスは多いのでは?

つまりお金にまつわる問題の多い人が
政治家になりやすいし、だからこそいつまで経っても
この問題は終わりがない

潔白な人には感心はしても最終的には
周りに人は少ないような気がするのは悲観的に考え過ぎ?

だいたいにおいて、人の良すぎるタイプは
その人に人生の中ではどのような結論を自分で下すかは
分からないが、一般的には(見た目的には)
平凡以上の何者でもなく終わる事が多そうだ
(本当はそれで充分なのだろうけれど)

人は人に聖人的な姿を期待するけれど
実際のところ残念ながら、そうはなれないのが人間

そして完全な模範的な人物よりも
どこか抜けていたり欠点のある人物の方が
親近感が湧くのは何故なのだろう?




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