パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

グランパスのマテウスのこと

2022年04月29日 09時45分23秒 | サッカー

たった2分で逆転されたグランパス(1−2)
試合は前半の一点で勝ちきれる雰囲気だったが
ジュビロの途中交代の大津にCKからのヘッドで同点に
そのあと丁度良いところにこぼれてきたボールを
またもや大津の素晴らしいミドルシュートで
あっという間に流れが変わってしまった

こういう試合は割とあることで
一般的に負けには理由があるというものの
その日のラッキーボーイにやられるのは珍しくない
運不運で片付けるのは情けないが「今日は彼(大津)の日」という言い方で
仕方ないと割り切るのも次に引きずらないコツかもしれない

でも敗因はやっぱり得点力不足だ
グランパスには突出した点取り屋がいない
移籍した酒井もいまいちフィットしていないし、金崎もベストの状態から遠い
柿谷はストライカーのタイプではない
昨年チームの得点王の稲垣はボランチのポジションだ

昨年は失点しなければ負けないというコンセプトのもと戦ったが
それでは更に上には行けないというので
守り重視だけの戦い方から少し改めた
確かに昨年より得点の匂いはする
だが匂いがするだけで結果は伴っていない

長谷川監督もいろいろ試行錯誤している
3バックにして守備の安定を図るとか
マテウスを2トップの一人に抜擢したりして

個人的にはマテウスは実は扱いにくい選手だと思っている
彼はみんなで崩していくプレースタイルではない
ドリブル突破とか多彩なキックによるシュートと解説者は説明するが
彼のプレーはチームにリズムを与えるとか機能しているのか?
と思うと、彼のパスは少し雑すぎる
そしてボールを持ちすぎる

マテウスのアシストで得点というのは昨年も多かったようには記憶していない
つまりはアシスト役、パサーとしても役割には物足りない
だがよく走るし、とりあえずキープ力もあるから監督は
使いたい気持ちもわからないではない

使いづらい選手をどのポジションにするか?を考えた時、ストイコヴィッチのことを思い出す
(彼は使いにくいと言うよりは、どこに使ったほうが良いかという問題だが)
彼のポジションは2トップの左側だった
彼には役割を決めて約束通り動くというのは効果でないと考えたベンゲル監督は
どちらかというとフリーなプレーができるトップのポジションにおいた
トップのポジションなら彼が例えうまくかいなくても点がとれないだけだ

それを2列目において彼が機能しない時のほうがリスクは大きい
そう考えるとマテウスもトップのポジションにする方が
被害は大きくないと考えても無理はない

でも問題は彼が本当に機能しているかという問題
走行距離とか闘争心とか体幹の強さとかスタミナとか若さとか
そうしたものがグランパスの中では優れているとしても
チームプレイの中では、、自分の好みには合わない
彼は少し休ませて試合に飢えてる選手にチャンスを与えて欲しい
すぐに結果が出ないとしても、使ううちにフィットするかもしれない
DFの藤井は最近良くなったと思う
やはり使われ続けるのが成長の一番の薬だ

マテウスの個性は今のプレーだから、それを変えるようにするのは
長所を潰すことになるかもしれない
そのあたりが監督のチーム作りの方向性だと思う
不意に監督がやたらと得点はとれたチーム作りの風間さんだったら
彼はマテウスを使ったのだろうか?
あるいは、どのように使ったのか?と考えてしまった

個人的にはマテウス依存のチームづくりは
徐々に変更したほうが良いように思えるが、さて






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長い説明より、ほのめかし

2022年04月28日 09時13分44秒 | あれこれ考えること

自分の言いたいことを長々と訴えるより
何かを借用して表現したほうが洗練されている
と思うことがある

正確な訴えはその長さ故に、回りくどかったり要点がわかりにくなる
(これはヨーロッパ出身の人の本の多い)

読み手(受け手)の知識を前提に、ほのめかすやり方法は和歌の世界では
よく使われる技法らしい

先日、ロシア正教の司祭がプーチンと会って出来レースのような映像をみて
ツイッターで「ゾシマ長老が泣いている!」とつぶやいてみた

ゾシマ長老は「カラマーゾフの兄弟」に登場する人物で
神を信じる三男のアリョーシャが最も敬愛する人物だ
劇的な過去を持つゾシマ長老は、その経験をへて最高位まで上り詰めた人で
その人が泣くというのは、カラマーゾフの兄弟を読んだ人は
どのくらいの意味を持つかわかる

この知ってる人しかわからないツイートに、どのくらいの人が反応するのだろう
と少し興味を持って敢えて意味不明のツイートをしたわけだ

すると、「カラマーゾフの?」と聞いてきた人を含め、反応した人は
現時点で16名
自分のフォロワーはそんなに多くない(252名)が確率からすると
6.3%の人が何らかのアクションを起こしたことになる

最近は長々と説明すると、かえって言葉不足になるような気がして
こうしたほのめかしみたいなものを借用したほうが効果的かもしれない
と思ったりする

あまり好きじゃないニーチェがアフォリズムという形式をとったのは
少しわかる気もする

実際のところ、人と人がわかり合うというのは簡単だったり、難しかったり、、
人間社会は複雑だ

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少女と少年

2022年04月26日 08時51分46秒 | 徒然なるままに

先週の木曜日、外国をルーツに持つ子の勉強の手伝いでの出来事
自分の担当のRくんは、お腹が痛いということで
親に電話をかけて急遽迎えに来てもらうことにした

手持ちぶたさとなったので、他のスタッフの勉強の様子が耳に入る
落ち着きのない男の子にスタッフは
「少女、これってどういう意味かわかる?」
少しして続ける
「女って字があるから、見当はつくよね。小さい女の子って意味
  なら、男の子は何ていうのかな?」
「少男?」
「違う、少年っていうんだよ、男の子は少年」

不意に、なぜ男の子は彼が即断で答えたように少男ではないのだろうか?
と疑問が浮かんだ
確かに、変だ、男だけ少年という年の字を使ってる、なぜだろう?

話は変わって、子どもも大きくなると固有名詞だけでなく
概念的な言葉を覚えるようになる
この説明がなかなか難しい
「事実と意見を区別する」という文字の書き取りが
帰ってしまった男の子の宿題にあった
「この意味わかる?」
「わからない!」

さあ困った、、事実という意味をわかるように説明するには、、、
そこで、一学年上の男の子にポルトガル語でいいから事実の意味を教えてあげて!
と頼んでみた
ところがこのような概念的な言葉は説明が難しい、、
彼は、、うううん、、ええと、、
少し考えていたが諦めた

人が言葉を覚えていくのは、難しいものだ、、と改めて実感する
そのうち何となくわかるようになるのだろうか
若干の不安を覚えながら、そんな風に思ってみる

しかし、なぜ女の子は少女なのに、男は少年なのだろう

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専門家の話

2022年04月24日 09時40分24秒 | あれこれ考えること

どの本だったか忘れてしまったが、とても印象的なエピソードが記憶に残っている

それは、ある人が馴染みのない戦いに関する部署に入った時
そこで話されている仮空の議論(そこに出てくる戦術的な用語とか武器の話)を耳にして
この人たちはなんと世間ずれしたことを話しているのだろうと違和感をもった
ところが一週間そこにいるうちに、自分もその議論に違和感を覚えるどころか
それに染まってしまった、、、というのだ
この「慣れ」というものはとても危険だと思う

人はわからないことは専門家に聞く
これはよく有りがちな当然と思われることだ
だがこの専門家の視点とか思考というのは気をつけないととても危ない
専門家の視点はいつの間にか、理屈が現実よりも優先する世界になり勝ちとなるのではないか

専門家が考え経験し作り上げた体系は、その範囲内では正しいかもしれないが
他の要素がふんだんに入ることの多い世間という社会では、実践的・現実的ではない
のではないかとする考えがある
詳しく知らないので大きなことは言えないが、近代経済学は今や数学の分野になっていて
進むべき方向も数学的に導かれる方向に進むべきとされている世界観があるそうだ
だがその行き過ぎに対し、倫理観とかを元にその呪縛から逃れるべきだとする学派もあるようだ

最近の気の滅入るウクライナの話とかは、この専門家の戦術的な話が多すぎる気がする
そして何よりもプーチンは軍事的な発想以外の他の要素を考えたのだろうか?
と思えてならない
例え現時点である程度の目的を果たしたとしても、世界のロシアを見る目は
もう取り返しのつかないほど不信感に満ちたものになっている
また主権国家を力によって破滅されているウクライナの人々の感情をともなう内面は
残念ながら憎しみの感情を捨て去ることはできないのではないか
(占領地でいくら教育しても他の地区にいる人には)
つまりはトータルな視点からすればとても合理的とは思えないことをしている

ところが、専門家は事情をよく知っているがための落とし穴に入ってしまうう
専門家の陥る罠は「学問的な正確さ」由来のもので、どこか原理主義的な硬直さが見られる
ところが現実社会は多様な要素をもつ集合としての人間社会は、プログラムされたようには動かない
むしろ「適度な正確さ」くらいの結果にしか落ち着かない

専門家の、それはその深さ故に価値あるものとしても、そこに留まるのを良しとしなかったのは
ヘッセの「ガラス玉演技」の名人ヨーゼフ・クネヒトだった
ヘッセが最後に行き着いた場所が、個人の内面だけにとどまらず社会に働きかけるところ
までなったのは、最近の自分の考えが自己完結しているだけでは駄目だと言われているような気がする

例のごとく話は逸れた
ただ、防衛の専門家の方の話をそもまま聞くと、その「学門的な正確さ」故に
どこか切り捨てられた大事な部分があるのではないか、と思ってしまう

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ポール・マッカートニーの「RAM」とその完全カバーアルバム

2022年04月23日 09時26分47秒 | 音楽

やっとかめに(久しぶりに)ポール・マッカートニーのアルバム
「RAM」の完全カバー版「PURE McCARTNEY」を聴いた

デンマークのビートルズフリークのティム・クリステンセンが
ポールの「RAM」を曲順通り完全再現したアルバムだ

「RAM」は発売された当時、批評家からはあまり良い評価は受けていなかった
いわれ勝ちな軽薄とか内容がないとか、、、そんな空気だったと記憶している

だが、自分はそうは思わなかった
音楽的要素がいっぱい詰まっていて圧倒された

とても短いウクレレの伴奏の「ラム・オン」は、「ジャンク」の寂しさを思い起こさせるし
冒頭の「トゥ・メニー・ピープル」のギターのフレーズは印象的
次の「三本足」は途中からリズムが変わってとてもおもしろいし
「ディアボーイ」は主旋律とコーラスの対旋律の掛け合いがとても美しい
「アンクル・アルバート ~ ハルセイ提督」は大声で歌うと気持ちよさそうな
(hands across the water〜)というところは
アビーロードの「キャリー・ザット・ウェイト」を連想させる
しゃがれた声で歌う「モンクベリー・ムーン・デライト」は最後の繰り返しの部分は
ヘイ・ジュードの長いエンディングを連想するし、
そこで行われるヴォーカルのアドリブが、それを聴くだけで価値があるような曲だ
「ロング・ヘアード・レディ」はリンダのコーラスが素人っぽくて、
それは妙に良い味付けになっている
そしてこの曲も対旋律との掛け合いが美しい
最後の「バック・シート・オブ・マイ・カー」も、ものすごい盛り上がり
最後の最後で楽器の音がなくなってコーラスだけになる時の効果は
ベートーヴェンのミサ・ソレムニスのグローリアの最後の部分を思い出させる

つまりは傑作アルバムだと思っていたので、低評価は納得できないし悔しかった

ところが時が経った今は、(ジョンとの比較という)時代背景を除いた
客観的な評価がされるようになって、このアルバムの評価は高いものになっている
「だから、最初からそうだって」
これが自分のいつざわざる気持ちだ
そして自分の直感や好みは間違っていなかったと自慢したくなる気分だ

この完全カバー版のアルバムは、他人がどのように表現するか?
という視点で聴くと面白い
基本的にはオリジナルと同じだが、ところどころ少し違う
声が違うのは仕方ないが、一番物足りなく感じたのは
「モンクベリー・ムーン・デライト」ボーカルのアドリブがなかったとこ
やはりあれはポールしかできないのかもしれない

「RAM」はアビーロードほどの完成度はないが
それでもその雰囲気を継承していると思う(すごく音楽的なところが)
でもそう感じるのは自分だけかな

ところで短いけど名曲と思う「ラム・オン」はこんな曲
Ram On(Remastered 2012)



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出会いは偶然か必然か?

2022年04月22日 09時01分19秒 | 徒然なるままに

中国の占い易経は、陰と陽の選択を6回行い、その64個の組み合わせの中から
合致したものは偶然ではなく、何らかの必然性があるものとして考えているようだ
(ヘッセの小説「ガラス玉演技」では重要な役割を与えられていた)

寝床に置いた本を適当にめくって、偶然出会ったものもそういう意味では
つい何らかの暗示とかを意味していると考えてしまう

今朝、寝起きに手にした本は文庫本の「万葉集」だ
歌は短いので(言い回しがわかりにくいが)適当にめくって楽しむことができる
(気の滅入ることが多いので、こういうものに逃避したくなる)
そこで出会ったのが
「黙(もだ)あらじと言(こと)のなぐさに言ふことを聞きしれらくは悪しくはありけり」1258

どんな意味かと現代語訳を見ると
「黙っていてはまずかろうと相手が口先だけの気休めに言う言葉であるのに
 そうと知りながら聞いているのは何とも気持ちの悪いものだ」

思わずニンマリとしてしまう
よくありそうな光景だ
1000年以上も前の人たちも今と同じような思いをしていたことに、どこかホッとする
と同時に、今この歌に出会ったのはどんな意味があるのか、、とも考えてしまう
それは、人はいつの時代もどこでも同じように感じるものだと訴えているような気がする

良いものに出会ったと、しばらくパラパラとめくっていると、次に気になったのが
「こもりくの泊瀬(はつせ)の山に照る月は満ち欠けしけり人の常なき」1270

現代語訳は
「あの泊瀬の山に照っている月は、満ちたり欠けたりしている
 ああ、人もまた普遍ではありえないのだ」

難しいことはない、わかりやすい、むしろわかり易すぎるほどだ
万葉集は感情にストレートな表現が多い
後の時代の技巧的なところがなく、難しい言葉を除けば素直に楽しむことができる

ということで、時にはこうしたいつの時代も通用しそうなものに触れることは
心の栄養になりそうだ、、という話

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イワンの悪夢

2022年04月21日 10時07分56秒 | あれこれ考えること

ロシア(ソ連)は自分が一番最初に出かけた外国だった
目的地はドイツだったがロシア経由としたのはドストエフスキーの影響だ
「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」「白痴」「悪霊」「未成年」などの
濃厚な世界を生んだ現地(空気)を体験してみたいと思ったからだ

飛行機から見るロシアの大地は圧倒的なスケールで、
川はくねくねと曲がり三日月湖ができる過程のようで、
家も見当たらず人っ子一人いないその広さに百聞は一見に如かず
を実感したものだった

気の滅入るプーチンの戦争だが、プーチンのなにかに取り憑かれているような表情をみて
不意に「カラマーゾフの兄弟」の中でイワンが夢(幻視)で悪魔と会話してるシーンを思い出した
(悪魔は父親殺しの本当の犯人はイワンで、イワンは自覚していたのではないか
 と問い詰める、、実際にヒョードルを殺したのはスメルジャコフだったが)

イワンは有名な大審問官のエピソードの前に、虐げられたかわいそうな子どもの例をあげて
そのあまりの酷さに、それをも許す神の存在は受け入れられないとアリョーシャに告げる
こんな酷いことをする人間に対し、彼はアリョーシャにどうしたら良いか?と尋ねる
アリョーシャは勢いに負けて口にすべきでなない言葉を発してしまう

ロシアは全人類の苦悩を背負って生きるみたいな感覚があるらしい
それはロシアと言うよりドストエフスキーのあり方だったかもしれない
だが、その生真面目な深いところから出てくる思想を生み出すロシアの何かは
信じられるものだと思っていた

今、世界的にロシアの文化が排除されつつある
クラシックの世界では指揮者のゲルギエフの演奏会が中止されたり
チャイコフスキーコンクールが世界のコンクールのカテゴリーから外されたりしている
そして音楽プログラムもロシア作曲家の曲は変更されることが多いようだ

政治と音楽(文化)は違うと言っても、感情的にそんなに簡単に区別できないのが
人という感情を持った存在
こういう時は皆がハイテンションでその時の気分に左右されやすい
いったんこうなると元に戻すのは至難の業となる
だからこそ、このような状況を作らないことが一番肝心なこととなる

世の中が奇妙な好ましくない方向に向かうと感じた時
その兆しが見えるうちに、早めにその悪い兆しを潰さないといけないと思う
ただその兆しを感じ取る人と、そうでない人の間には
分断ができてしまっているのは問題だが、、

どうも気が滅入る(ニュースも見たくない)

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マスク

2022年04月20日 09時03分37秒 | 徒然なるままに

すれ違う車の人物がマスクをしているか気になる時がある
こちらは、したりしなかったり
一人で乗る時は、する必要があるのかなどと思っているが
一人でもちゃんとマスクしている人は少なくない

だが、マスクをするのが少なくなった時期があった
それは暑い夏の時期
確かに暑くなると(最近は暑い)つけているのが鬱陶しくなる

マスクについて日本人は、どちらかと言えばさほど抵抗感もなく着用している
マスクをするしないは自由だ!などと大げさなことを言わなくても
自分も罹りたくないし、自分から移すのも嫌だし
そのためには、ま、良いか!くらいの感覚で着用している

ところが欧米等の国では、まるで目の敵のようにマスクを嫌う様子が見られる
ある時、その理由を紹介したテレビ番組をみて妙に納得した
それは日本人は人の表情を目で読み取るが、欧米人は口で読み取ることが多く
口元が見えないことに不安を感じるからというのだ
顔文字というものが日本にも欧米にもあるが
日本のそれはいろんな感情を(かわいらしく)目で表現していることが多い
ところが欧米人はそれを口の形とか、それに関することで表現しているとのこと
確かにテレビで紹介された欧米の顔文字は口に関するものが多かった

マスクの着用なんて難しく考えないで、皆が良いようにすればいいじゃん!
と思えるが、こうした文化的な背景があるとしたら
これを解消するのは想像以上に難しいのかもしれないと思ったりする

こうした文化的な違いは行動の差につながる
ドイツでは、ウアラウプと言われる日本では信じられないほどの夏の長い休暇を
殆どの企業が許可している
「なぜ、そんなに長い休暇を許しているのか?」
と、あるドイツ人に聞いたところ
「そうしないと、働く人が来てくれないから!」
とあっさりと答えが返ってきた
ドイツでは残業についても日本人の感覚とは随分違う
そしてそれは世間に広まった習慣のようになっている
つまりは常識が違う、、ということだ

でも、正直なところ、マスクくらい妥協して受け入れたもいいのに、、
とは思ってしまう(特にごねる日本人に対しては)

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難しい「怒りの感情」の使い方

2022年04月19日 10時03分47秒 | あれこれ考えること

怒りの感情は使い方によっては効果的だが
一歩間違うと想像もつかない結果をもたらすことになる

怒りはその矛先を収めるための行動のきっかけとなる
(チコちゃんに叱られる!でも扱っていたテーマ)
普通の誰もが感じる怒り、その理不尽さを解消するための行動は
自分自身の経験から思い出すことができる

これまで何度も繰り返しているが、新城市の2015年の住民投票は
議会が決めた選択肢で行われることになった
ところが、その選択肢(の文章)は全くひどいものだった
どちらかを選べと言われても、文章自体の内容がさっぱりわからない
まるで言葉遊びのようなものだった
このひどい選択肢はそれ故にテレビ・新聞でも取り上げられて結果的には
住民投票は53%の投票率となった

ひどい選択肢に怒りを覚えて、自分は今につながる市政チェックの行動に参加すること
になったのだが、これなどは怒りが生産的な行動につながった例(と思いたい)

ところが、怒りは感情的な、つまりはとても人間的な要素が大きく作用する
目の前にある問題に対して純粋に怒りを覚えるよりも
個人的な対立関係にあるというだけで、相手のすることには何にでも怒りを覚える
というのは、残念ながら少なくない出来事のようだ

問題に対する向かい方は問題自体よりは、意見を異ににする相手との関係によって
(好き嫌いとか利益の対立関係で)全否定され、それをしている当人はその危うさに気づかない
むしろ正義感によって行っているとの認識すらあるのかもしれない
そして、全否定の主張は時として威勢のいい断定的なものになり勝ちで
単純化されるために情報通でない人の怒りの感情を刺激する
これは小さなポピュリズムにつながる可能性がある

実際のところテクニカルの問題として、我々が市政チェックした問題の拡散は
人々に怒りの感情を呼び起こすような表現にしたほうが良いのでは!
との意見が会議の席で出たことがある
物事を正確に詳しく、相手の意見も並べて問題点を紹介する方法(印刷物)は
受け手が要旨が直感的にわかりにくいために、読む気にさえならないのではないか
と言うわけだ

根源的なパワーとしての怒りの力、それは確かに魅力的だ
問題解決に結びつけようとする力は、他のどんなきっかけよりも強いかもしれない
だがその危険性を自覚させられることも少なくない

怒りの感情、恐怖の感情、不公平に対する感情は
実はそれを上手く利用する人々によって世間の空気を作られてしまう
特に最近のような、何が正しくて何が正しくないかがわからない情報が錯綜する世の中では
シンプルに感情を刺激したほうが伝達には効果的と考えられそうだ

表現の問題としてキャッチーなフレーズは受けが良いかもしれないが
実はそのキャッチーさ故に気をつけなばならない
物事を単純化して理解する効率的な方法は、実は多くの切り捨てによって
成り立っていることが多い(相手の主張を全く受け入れないとか)

要は囲碁とか将棋で使われる本手を続けていくべきだと思う
奇抜な手は「人間が犬を噛んだらニュースになる」と同じで評判になるかもしれないが
本質的な解決にはつながらない(時として効果があるかもしれないが)

充分考えた末、普通の表現となる洞察力に富んだ文章が
世の中に受け入れられるかどうかの問題は
実は表現の良し悪しの問題と言うよりは、受け手の力量に左右されてしまうのではないか

となると、多様な意見を受け入れるかどうかの問題は、実は民力の問題なのかもしれないと思う
そしてそれは教育の問題につながるような気がずっとしている

いつものようにまとまらない話!


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「永遠のファシズム」を今読む

2022年04月17日 09時17分54秒 | 

本は読まれるべきタイミングがあるようだ
購入したものの積読状態だったウンベルト・エーコの「永遠のファシズム」を
ロシアのウクライナ侵攻で気分的に落ち込んでいる今読み始めた


○戦争を考える
○永遠のファシズム
○新聞について
○他人が登場するとき
○移住、寛容そして堪えがたいもの

この5つの比較的短い章からなる読み物は、1997年に出版されたが
タイトルを見ればわかるように今日的な意味をもつ

「永遠のファシズム」は「帰ってきたヒトラー」(Er ist wieder da)
と似た世界観を(悲観的な)感じさせる
そして今日的な意味は、社会の空気・兆しは過去の歴史とか経験を
踏まえていれば最悪の状態は防げる可能性が高いことを訴えている
(兆しの例が幾つか列挙されているが、危険な兆しはいつの時代も
  どの場所でも似ている)


最近は共通の認識としてあるのは
長期政権は危なっかしい
メディアのぼんやりとした支配の危険性
生まれた場所(国)で全てが肯定される危険性
社会と個人の利益が異なる場合の優先順位の付け方の危うさ

正直なところウクライナのことを考えながら読んだのは事実だ
だが、次第に考えるようになったのはこの国のこと
ここに書かれている兆しはこの国には既に存在していないか?ということ

囲碁でも将棋でもプロの棋士は、ハメ手のような誘いの手には
直感的に違和感を感じて回避する
それは経験と研究の成果でそれに基づく直感は効率的な選択方法だ
だが素人はその手は検討に値しない手とは考えずに、誘いに乗ってしまう
つまりは、知っている人と知らない人は対応が違うということと
直感の働きも大きく違うということだ
社会に対する不安も過去の失敗の歴史を知っている人は
今の日本に対しそれに近い状況を今感じ取ってしまう

この不安を共有化するのは残念ながら非常に難しいようだ
結局のところ、社会は少数者の支配で成り立っているのと同じように
なにかに立ち向かうのも少数者の力に頼るしか手はないのかもしれない
なにかに気づいてしまった人は、多分それなりの責任があるということだろう

さて、ここまできて自分は何をするべきか、、、
それがわからない分、イライラが募ってしまう

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