今年は選挙の年と言って良いかもしれない
国内では都知事選、自民党総裁選
ヨーロッパでは欧州議会選挙、フランスで総選挙、
ヨーロッパ以外でもインドでもイランなどがある
その中でもひときわ注目されるのがアメリカ大統領選で
先日バイデンさんとトランプさんの公開討論会が行なわれた
バイデンさんは弱々しく懸念された年齢を感じさせるものだったが
他国の人間である自分は「この二人しかいないのか?」
にアメリカの現代の問題を思い知らされた気がした
一人は老齢不安、もう一人は品のない発言を繰り返す自分勝手な人物
そんな候補者しかいないのか?と思えて仕方ない
この候補者選定は、政策の良し悪しよりは他の要素が働いて決定しているのかもしれない
(勝った負けたは印象的なものの評価のようだった)
ところが、こんな人しかいないのか?
と思われるものは日本でも見られる
幸い都知事選は蓮舫氏が立候補したおかげで、久しぶりに注目されることになったが
秋の自民党総裁選は候補に上がっているのが「こんな人たちなのか?」の顔ぶれだ
茂木さん、石破さん、河野さん、岸田さん
実質的には自民党の総裁が総理大臣になる可能性が高いので、
総裁イコール総理大臣だが、上記の人物は未来が明るくなるような気は起きず
とても積極的には押せない人ばかりで日本も人材不足と言わざるを得ないようだ
ところで、昨日、固定電話に電話がかかってきた
迷惑電話が多いので、ナンバーディスプレイのサービス機能を使って
変な電話は出ないようにしているが、050で始まる電話にとりあえず出てみた
するとそれは世論調査の電話だった
内閣支持率、衆議院選挙があるとすればどの党や人物に投票するのか?
を聞いているもので、我が家はこの手の電話が多くかかってくる
2、3分でそれらは済んだが、いったいこの調査の依頼主は誰だろう?
と気になった
新聞社や放送局、共同通信などのメディア関係ではない
ただ単に世論調査の依頼を受けて行っているだけの調査と思われた
だからこそ、調査を依頼したのは誰か?が気になる
アンケートをとる必要性があるところと言えば自民党と浮かぶので
依頼主は多分自民党と想像した
それにしても、ベルリンの壁が崩壊して新秩序の始まりと思えたあの時の
高揚感やら明るい未来への期待は、今は全くと言っていいほど浮かばない
むしろこれから先どうなるのか?との不安のほうが大きい
この言いようのない不安は、結局は自分たちの力で払拭するしかないが
どのようにしていけば良いのだろう(田舎のおっさんが出来ることは少ないとしても)
源氏物語と新聞
あまり関係のなさそうな両者だが、二つとも紙がないと役目を果たさない
源氏物語が今まで残っているのは作品自体の力によるものだが
その作品を紙に書き写した人たちと豊富な紙があったからだ
紫式部を扱った小説には、道長から優先的に紙の供給があったとする
ストーリーが少なくない
同様に「光る君へ」ではないが、肉体関係もあっと想像する扱いもある
すっかり忘れてしまったが、なにかの小説で紫式部が産んだのは男の子で
顕子が同時期に産んだのは女の子で、道長が二人を取り替えた、、
といったような、とんでもないストーリーのものもある
とにかく、紙は大事なもので先日の「光る君へ」の終わったあとの
短い関連情報トピックスは紙に関するものだった
話は変わって、以前、第二次世界大戦の時、新聞は何をしたのか?
と興味を持ったことがあった
その時知ったのが以下の事実だった
新聞社も営利企業で商業主義のためにあのような雰囲気を作ってしまったが
(それいけドンドン的な話を書けば売れたらしい)
もう一つ間接的に「新聞紙法」というものの存在も軍部の暴走に拍車をかけた
これは政府(軍部)に都合の悪い記事を書くようならば、その新聞社には
新聞紙を供給しないとするものだった
つまりは、批判的な記事は新聞を発行できないということで
今の時代なら民法テレビ局の放映権停止のようなものに値するだろう
各媒体がそれぞれの価値観・倫理観で編集したものが時の政府によって
コントロールされる
それは独裁というものだが、今はそんなことは起きていないと
言い切ることができないところが問題だ
(そしてそれを感じていない人の多いことも)
それにしても、紫式部に紙を提供し続けたのは何故なんだろうとも思う
描写された行事等の優雅さはその空気を味わうのに役立ったと思われるが
若菜の章とか、雨夜の品定めとか、年いった命婦の好きもの具合などは
ちょいっと危なっかしい内容で、あまり表に出したくない内容ではなかったのでは
と思ったりもする
もし、良いも悪いも含めて紫式部のやりたいようにさせていた、、
とするならば、あの時代の上の人間の懐の深さは大したものだったのかもしれない
と思ったりする
折り込み広告を定期的に行っている人は、最近の新聞購読者の減少に驚きを覚えるそうだ
そうした声はよく聞くが当事者からの話はよりリアリティがある
テレビを見ない人も増えているようだ
昔なら一家に一台どころか、一人一台だったテレビ
NHKの受信料を払うのが嫌で、それならテレビ無しの生活を!
と開き直ってテレビを所有しない生き方を選ぶ人も少なくないようだ
そのような人は情報はどのように手にするのか?
と疑問を覚えるが、答えはネットで手に入れるとのこと
ところが、そうした生活スタイルの人と話すとそのネットの情報収集がかなり偏っている
一般的な風潮とか物事の解釈よりは、どこか突飛な主張を受け入れる傾向が多いようだ
例えばディープステイトとか、アメリカ選挙の不正だとか、コロナワクチンの疑惑だとか
ネットの欠点は自分が好む情報を探しやすい点にある
おせっかいなお勧め機能が働いて、まるで自分の指向性が一般的であるかのような
そんな錯覚を覚えさせるようなこともある
もっとも、それを指摘すると、そちらのほうが偏っている、、とも言われそうだが
ネットの世界のせいで、ネガティブキャンペーン的な様相を帯びている都知事選
小池さんは学歴詐称、パーティ券の問題、都庁のプロジェクション・マッピングの入札疑惑
蓮舫さんは二重国籍問題、批判ばかりの姿勢、選挙告示前の運動の公職選挙法違反
そして大勢いるからといって公道を歩きにくくしていて邪魔だとか、一人だけ木陰に入って
または雨の中傘をさして、見聞きしている人は炎天下とか雨の中でかわいそうで
そんな姿勢の人がトップに立とうとして良いのか、、とあったり
石丸さんは、かつての喧嘩腰の姿勢が問題視されたり、、、
つまりは、だれでも探せばでてくる負の部分を異様に強調するネガティブキャンペーンが花盛りだ
そしてこれだけ人の悪いところを指摘するものが多いと
人間には悪口は気持ち良いとする傾向が備わっているような気もする
(普通はそれを品の無い行為として自制するのだが今は、、、)
だが一番の問題は、こうした場外の戦いがあったとしても投票率はどのくらいなのか
という点だと思う
投票する人がいないとか、誰がやっても変わらないとして投票しない人は
結果的にだれに投票していることになっているかを考えてみることが必要だと思われる
つまりは「投票しましょう!」というだけでは人は命令されているようで賛同できないが
「もしかしたら投票しない自分たちは誰かに投票していることと同じかもしれない」
と実感できるような諭し方をしたならば、少しは違ってくるような気もする
それにしても、いろんなところで余裕のない人間性が見られることの多いこと
政策の良し悪し以前の人間性に不安を覚えるような人が多すぎる
それらの人は「清濁併せ持つ懐の深い人物」との評価を受けるかもしれないが
そんなことはない、単に品のない人間に過ぎないと思えてしまう
昨年、豊橋にある時習館高校の130周年記念行事に
卒業生であり現役の裁判官でもある竹内浩史氏の講演会があった
その講演タイトルは「裁判官の良心とはなにか」だった
裁判という言葉にすぐに反応してしまう立場の一人として
また裁判官の良心に期待していた面もあったので
この講演を聞こうと思いエントリーしようとしたが
時すでに遅し!定員はすっかり埋まっていた
チャンスは逃したままだと思っていたら「裁判官の良心とはなにか」
というタイトルの本があることを教えられた
大手の出版社からではないようだが、とにかく手に入れた
この本はいくつかの章に分かれているが、このタイトルの章が最初にあって
時習館高校の130周年記念事業の内容を収めたものだった
そもそも「裁判官の良心」とは憲法76条3項に「裁判官の良心」
という言葉が出てきて、それが引っかかっていて、彼独自の見解を現すために
講演とか本に残したとのことだ
憲法76条3項は以下のような文章
「すべての裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ
この憲法及び法律にのみ拘束される」
不思議なことに良心という言葉が入っている
この良心云々の言葉が入っていなくてもおかしくはないのに
なぜ入っているのだろうと竹内氏は考えた
そして独自の解釈に至った
あまり好ましくないヒラメ裁判官は、自分が担当する事案については
当事者の主張と証拠に基づいて事実認定をする、ここまでは良いのだが
ヒラメ裁判官は、まず過去の類似事案の上級審の判例を検索して探す
うまく見つかったならば、それと同じように判決して一件落着、一丁上がりとして
処理件数を稼いでしまう
こんな進め方で良いのか?
それが良いのなら生成AIのほうがよほど効率的に処理できると考えたからで
彼は良心的裁判官は以下のようなステップを踏むとしている
1 まず、仮に法律が無かったとしたら、どっちを勝たせる事案か、自分の良心で考える
2 その結論を法律に基づいて上手く説明できるか考える 出来るならばそれで判決を書く
3 そのために自分の法律論に反するような最高裁判例が無いかを確認する
つまりは憲法の文章に書かれた順番で、つまり良心で一番最初に判断し
それから法令等のチェックをするというのだ
もちろん、これは言うにやさし、行うに難しの部類で実態は難しい取り組みだ
だが、こうした人がいるという事実は、裁判は信じても良い制度なのかもしれない
と思えたのも事実だ
実は最近は裁判自体に不信感を持っていた
自分が経験した裁判は、裁判官が社会人として普通に感じるであろう違和感を何ら持たずに
雑な判定を行う、、、それはとても許しがたいことのように思えた
だが、それより前は裁判は立派な人格者が行うものと信じていた
それは団等重光氏の「法学の基礎」を読んだからで、この人の裁判に向かう態度とか
姿勢は尊敬に値し、そして裁判に関する法体系は秩序だって素晴らしいものと思っていたのだった
団等重光さんのような人の判決なら仕方ないかな、、と思えるもので
この竹内さんでも似たような感情を覚えるに違いない
ということで読み始めたこの本
裏事情の紹介もあってなかなか面白い
ところで、時習館高校で行われた講演会はYoutubeにアップされている
「裁判官の良心とは」33回生 竹内浩史 時習館高校130周年記念フォーラム 2023.10.29
「衣食住足りて礼節を知る」
出どころは中国の「管子」らしいが、実態はそうなんだろうなと想像できる
まずは社会が最低限の生き方を確保して心に余裕を持てる社会になれば
現代社会のような言ったもん勝ちとか、目立ったもん勝ちとか
強者が弱者をいじめるようなことは少しはなくなると思う(思いたい)
こうしたちょっとしたフレーズは人がある時は痛い思いをして紡いできた言葉だ
「長期政権は腐敗する」
これはどんなにいい人でもその危険性があることを説いている
これらの実感のこもった一種の人類の知恵みたいなものを
今こそ思い出して、生活に選挙に活かしてほしいと思う
ところで日本人がよく使いそうなフレーズに「出る杭は打たれる」があるが
「出過ぎた杭は打たれない」という反対の意味合いの言葉もある
松下幸之助さんが残したものらしいが、彼の実体験を反映しているのだろうか
説得力があって素直に体に染み込む
杭に関しては、「出ない杭は腐る」というのもある
人はあまりにも従順、受動的ばかりではアカンなと先人たちは説いている
選挙において連合とかその他の団体の支持があれば大きな数字が確保できる
でも、ずっと前からその組織の末端の人は、上からの指示に応えるのか疑問だった
上の立場の人は直接的に利害に関係するので自分たちに都合の良い人を応援する
だが、末端の人たちはそこまでのリアリティが無いので無党派層的な判断をする
と考えるほうが自然ではないかと思ったのだ
少なくとも自分は誰に投票するかは自分で決める
仲間から依頼されても、とりあえず自分の価値判断に合わせて
付和雷同的に投票することはない
自分の傾向を一般化することは強引と思われるが
自分の判断というフィルターを通さずに行動してしまうのは
偏屈者の自分には理解できない
映画の「香川一区」に印象的なシーンがあった
投票を終えた人々が投票場の近くのビルに続々と入っていった
ナレーションでは入っていったのは自民党の支持者たちで
ビルの中で行われていたのは「誰に投票したか?」のチェックだそうだ
これは報道メディアの出口調査とは現実的に意味が違う
そこでは裏切り者のチェックがなされている
平気で嘘をついて面従腹背を実践できる人なら良いが
気の弱い人は、バレる不安で上の指示通りに投票する方が精神的に安心できると
指示通りの投票をしてしまうことは容易に想像できる
東京の都知事選も基礎票となるのは組織票だ
だが、その組織票は個々の判断以上に決定的な力をもつものなのかが
自分にはどうもわからない
社会は個人個人の集合体だが、何かを決めるのは個人の判断と言うよりは
集団となったものの判断のようだ
化学では個々の物質の動き方の集合体が全体としての動きを左右するのではなくて
コロイドといわれる状態の集合体の動きがむしろ決定的な影響を与えれるとされる
社会もそれに似ているのかもしれない
自分が一番の不満を持つのは
自分の判断を誰かに任せてしまうということは危険ではないかということ
それが良いことか悪いことかを考えもせずに、安易に任せるということは
少なくともそれなりの時間を生きてきた人間ならば良い方法とは思えない
今回の場合、基礎票となる組織票が、その末端の人々の個々の判断で
思い通りにならないとしたら、これは面白いことになりそうと思ったりする
ところで映画「香川一区」には例のパーティ券のエピソードがあった
A4サイズの用紙にパーティに参加する人の名前、住所等を書く欄があった
それは問題ないが、欄外に書かれていたコメントには実態はこんなものか
と情けなくなった
そこには、出席はここに書かれた全員ではなくて少数精鋭にして欲しい
との内容の言葉が入っていたのだ
つまり、パーティ参加はお金を払った人の一部しか来てほしくない
ということだ
パーティの実態は結局のところお金集めなのだ
こうした実態を知ることの出来るそれなりの大人たちは
時間をかけて自ら鍛えてきた自らの価値観、判断力を
他人に左右されずに活かして欲しいと思う
このときの面授腹背は嘘つきというより、人の知恵と言えるものだと思う
先日は政治家に関する書き残したものを紹介したので
今回は官僚について残したものの紹介!
だが、情けないことにどこから書き残したのかメモされていないので
出典がわからない(「マックス・ウェーバー入門」か「権力と支配」からと思うが)
それはこんな内容
官僚の世界
まず官僚は規則の拘束の下で職務を遂行し、「非人格的な没主観的目的」----つまり「だれかれの区別をせず」----に奉仕する義務を負う。こうした官僚のあり方は、封建社会における主従関係と対比すると、その近代的社会に固有の性格がよりはっきりする。
封建制度では家来が領主などある特定の一支配者との間に主従関係を結んでいたのである。これに対して官僚の忠誠心が向けられるのは、特定の人格ではなく「国家」あるいは「企業」といった非人格的で客観的な対象である。官僚は、特定の人格に仕える家来とは違って、「だれかれの区別をせずに」仕えることができる。したがってもっとも純粋な官僚とは自動化されたマシンのようなものなのである。
規則に従って事務処理をする官僚制の特徴は、その作業の迅速さと精確さである。かつては名望家が行政事務を兼務していたり、会議によって行われていたりしたために、事務処理には時間がかかり、また精確さを欠いていた。しかし近代社会では専門的に訓練された官僚が、一律の規則に従いつつ作業を分割して処理するために、事務処理は効率的で迅速に遂行される。
官僚は没主観的目的に向けて(だれかれの区別をせずに)事務作業を自動処理する。これは「計算可能な規則」に従って事務処理を行うことを意味する。この計算可能性こそ官僚制化現象の重要な特質である。さらには近代社会を支配する価値観としてウェーバーが抽出したものである。
だれかれの区別をせずに、主観的な判断を入れずに迅速に物事を処理するには客観的な判断基準が必要になる。そのためには、判断基準を定量化・数値化することである。物事を数字で判断とするということは官僚個人の主観的価値判断や感情が排除されるということである。なぜなら主観や感情は定量化できず計算可能ではないからだ。まさに官僚の採用自体が、計算可能な規則に従っている。官僚は、属人的なコネや人事担当者の好き嫌いではなく、試験の成績という定量化された中立的な判断基準に従って、公平に作業されているのである。
非人間化こそが美徳
官僚が中立的で公平な判断基準に従っているということは一般的には望ましいものと考えられている。確かに行政が特定の政治家や政治家集団の利益追求に偏向せず国民全体の利益を考慮するという意味での中立性や公平性は、望ましいものである。しかし、もしこの公平性あるいは中立性が、官僚が一切の主観や感情を交えずに、定量的な規則に従って淡々と事務を処理することだと理解された場合には、どうか。それは官僚を「非人間化」するという意味になってしまう。ウェーバーが官僚制を論じた時に問題としたのは、このことだった。
官僚制が「非人間化」されればされるほど、それだけより完全に、官僚制は資本主義に好都合なその独特な特質を発展させることになる。ここでより完全にというのは、官僚制が、愛や憎しみ、およびいっさいの純個人的な、総じて非合理的な、計算できない感情的要素を、公務の処理から締め出すのに成功するということなのであって、それは官僚制の特性として賞賛される固有の特質なのである。まことに近代文化が複雑化と専門家の度をくわえるにつれて、それは個人的な同情、恩寵、恩恵、感謝の念に動かされる古い秩序の首長のかわりに、人間的に中立・公平な、それ故厳密に、「没主観的」な専門家を、それ「近代文化」を支える外部的装置のために必要とするのである。
ウェーバー 権力と支配から
官僚制的行政は、知識による支配を意味する。これこそは、官僚制に特有な合理的根本特徴なのである。
これらを興味深いと思うか、面倒くさいと思うか
さて
今朝は新城市についてのマニアックな話題
日曜日にふさわしくないかもしれないが、気になっていることなので取り上げてみる
新城市には市民自治会議という制度がある
そしてそれを紹介するホームページには以前はこのように紹介されていた
新城市自治基本条例が平成25年4月からスタートし、市民が主役のまちづくりが進められています。
市長は、この条例の実効性を確保し、また、まちづくりの推進について、さまざまな見地から幅広い意見を得るため、市民自治会議を設置しています。(新城市自治基本条例第24条)
ここでいう実効性の確保とは、市民自治会議が、特定の施策を含め、市の全般的な施策について、自治基本条例の目的や基本原則などにのっとって行われているかどうかを調査・検討・協議・提言することをいいます。
なお、市民自治会議は、市の施策や各事業について、実施の可否、善し悪しを検証・評価する機関ではありません。
ところが現在は(6月20日以後は)
新城市自治基本条例が平成25年4月からスタートし、市民が主役のまちづくりが進められています。
市長は、この条例の実効性を確保し、また、まちづくりの推進について、さまざまな見地から幅広い意見を得るため、市民自治会議を設置しています。(新城市自治基本条例第24条)
引き続き、このまちづくりのルールがしっかり守られているかを市民自治会議で審議します。
傍聴を希望される方は、市民自治推進課までお問合せください。
比べてみると最初は同じだが、現行では途中の文章がなくなっている
先の「ここでいう実効性の確保、、、以後の説明」がわかりにくいものだったが
(少し前のこのブログでも指摘した→2024年6月2日のブログ記事一覧-パンセ(みたいなものを目指して) (goo.ne.jp)
そのわかりにくい部分をカットした現行の説明はシンプルでわかりやすいし
明らかにこのほうが良いものと思われる
実はこの変更を求めて数日前に該当部署に出かけたのだった
それはこれを扱う部署の部長さんは能力、人間性も信頼おける方で
この方に言えば変更の意図は理解してもらえるものだと確信していたからだ
訪問した日は部長さんは不在で、部下の女性に依頼したのだが
彼女は今年度この部署に配置が変わったばかりで、
自分の訴えている内容がすんなり理解出来ているとは思えなかった
ただし、部長に伝えますとの言葉をもらうことは出来た
その数日後、議会傍聴の帰り道でその部長さんに合った
そこで、先日部署の女性に「変更依頼をした」ことを告げたら「聞いている」との答えだった
ただしその意図を理解しているとは思えなかったので、再度女性に話したようなことを
例を混じえながら伝えた
その場では自分の依頼は部長さんの体に染み込んでいくような印象を受けた
やはり彼は、理解してくれている、、そんな風に思った
でも、彼の判断で前の人の残した文章を変えることはできないかもしれないな
とも思っていた
その数日後、部長さんが信頼できる人と実感するに至った会議に出ていた女性と
あるところで出会った
彼女も自分の言い分は素直に聞いていただけているし
以前は市民自治会議にも関係していたので、話してみると彼女も素直に話が
吸収されていくような印象を覚えた
何度か頷いて、市民自治会後のホームページを見てみますとの答え
言ったものの、無理かな、、との思いが強く、確認はできずにいたが
一昨日、確認すると冒頭のように変わっていた
一歩間違えると単なるクレームとも思われそうな気がしたが
彼らが対応してくれたことがありがたかった
それは自分の言う通りになったからではなくて
彼らがその方が良いと判断したということが、自分の自信にもなった
実は市に対して「これはおかしいじゃないですか?」
と文章の変更を求めたことが以前にもあった
それは2015年の住民投票の時のこと、市では住民投票を控えて
防災無線で投票の呼びかけをすることになった
だだその初日の防災無線の内容が、「この住民投票は金額を問うものではありません」
とか、とても違和感を覚えるものだったので、それに対し苦情を伝えに出かけたのだった
(今思うと、あの当時は怖いもの無しだったなと赤面しそう)
防災無線はその後内容は変わり、少し不満は残るが許せる範囲内になったので
それで良しとした
言えば変わる、何かが動くことは他の例もある
これらがその例となるかどうかは微妙だが
外国をルーツに持つ子どもたちへの「プレ教育制度」もある機会に訴えたところ
1年後には実行されるようになった
運が良いのかこのように、自分が訴えたことは何らかの変化をもたらしている
問題は、今後もこれらの提案(?)がクレームとして受け止められるか
それとも提案として受け止められるかという点
それにしても、動くことでなにかが変わると実感する
一昨日、変更に応じてくれた部署にお礼を言いにいった
最初に話を聞いてくれた女性と、もうひとりの素直に話を聞いてくれて
「確認します」と口にしてくれた女性には「変更されていた」ことの報告に
でもこれに気づく人は、きっと部外者以外には5人といないだろうな
先だっての衆議院補選では「つばさの党」が対立候補の演説に被せるように
拡声器の大音量で嫌がらせを行ったが、流石に世間の評判は悪く
こうしたことはその時限りと思っていた
ところが、都知事選でも似たようなことがあったと旧ツイッターに投稿されていた
蓮舫氏が最初の演説会をしようとしたその時、マイクを通して大きな声が聞こえたのは
小池さんの宣伝カー「マイクテスト」と言っていたが、つい想像したのは
「つばさの党」のあの行為だった
しかし、そこからの聴衆の返しが素晴らしかった
カッカすることなく「8年間お疲れ様!さようなら」と声を上げたのだ
必要にして充分な品とセンスのある返し技
こういう余裕のある対応ができる世の中になると良いな!
とつくづく思う
学者さんの抽象的な物言いかと思いきや、今となって切実感をもって
響くのがマックス・ウェーバーの「職業としての政治」からの書き残しておいた部分
それは以下のようなもの
職業としての政治 マックス・ウェーバーから
116から117ページ
政治家は毎日、毎時間のように、自分のうちに潜んでいる瑣末で、あまりにも人間臭い〈敵〉と戦い続けねばならないのです。この敵とは、ごくありふれた虚栄心で、これはすべての仕事のへ献身の、そしてすべての距離(この場合には、自分と距離をおく事ですが)の不倶戴天の敵なのです。
虚栄心は、誰にでも見られる特性で、虚栄心のない人はおそらくいないでしょう。そして学者や教養のある人々では、虚栄心はある種の職業病のようなものになっています。しかし学者の虚栄心は、どれほど鼻持ちならないものであっても、比較的無害なものなのです。原則的にこれが学者の仕事を妨げる事は無いからです。 しかし政治家の場合にはそうはいきません。政治は避〈避けられない手段〉として、権力を追い求めるからです。その意味では「権力本能」とよく言われますが、この本能は政治家にとってはごく当たり前の資質なのです。しかし政治家という職業の聖〈聖なる精神〉に対する罪が始まるのは、この権力の追求が仕事への献身とは関わりなく、個人的な自己陶酔の対象となるときです。
政治家という仕事にはいわば2種類の大罪があります。仕事に献身しない姿勢と、無責任さであり、この2つは同一のものではないとしても、しばしば重なって現れるものです。虚栄心とは、自分ができるだけ脚光浴びるようにしたいという欲望のことで、この欲望のために政治家はこの2つの大罪の片方を、ときには両方を犯すよう、強く誘惑されるのです。民衆政治家(デマゴーグ)の場合には、「効果」を考慮に入れなければならないだけに、この誘惑は極めて強いものとなります。 そして俳優のように振る舞い、自分の行為に対する責任を軽く考え、自分の行為が与える「印象」ばかりを気にするようになる危険に、常に脅かされているのです。
なるほどなあ!と頷いてしまう
都知事選、総裁選の報道を見聞きするたびに、この書き残した部分を思い出す