パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

秋の夜長はブラームス?

2006年10月31日 20時32分22秒 | Weblog
秋にはブラームスがよく似合う?
と、太宰治は言わなかったが
なんとなくこの季節はブラームスが聞きたくなってくる

クラリネット五重奏曲なんかは雰囲気がぴったりだ
シンフォニーなら4番のホ短調なんかがよさそうだ

しかし今日の朝、NHKのFMで流れていた
ブルックナーのピアノ曲
「秋の夕べの静かな思い」
「幻想曲 ト長調」
「思い出」等は(ピアノ)白神 典子
なんかは案外いけるかもしれない
まるでショパンのノクターン的だったり
シューベルトを思わせるところがあったりして
あのブルックナーがこんなにチャーミングなのか
と意外な感じがすること請け合いだ
(このCDは自分も持っているが
7番のシンフォニーの2楽章のピアノ版も結構好きだな)

さてブラームスに戻るが
かわいそうなブラームス!

クラリネット五重奏曲はモーツァルトのものと
一緒にカップリングされることが多いが
並べて聞いてしまうとモーツァルトの
品のある透明な雑味のないたたずまいに比べ
感情的、情緒的で、ちょっと、と思えてならない
(あくまでも比較の上でのことだが)

自分は、ブラームスは男性的で構成的と言われているが
違和感を感じてしまう
彼は案外(性格的に)ナヨナヨとしているのではないのかな

しかし、だからといって嫌いじゃない
時々やたらと聞きたくなるのは何故だろう
(心が疲れた時が多いかも知れないが)


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報道により自殺が連鎖的に続かなければいいのだが!

2006年10月30日 21時02分38秒 | Weblog
必修科目の履修漏れと、いじめによる自殺が
毎日のニュースを賑わしている。

残念な事だが、ニュースを報道するたびに
自殺者は多くなってしまうのではないだろうか

危うい精神状態にいる子供たちは深く考える事もなく
つい衝動的に「真似」してしまわないか

20年程前、岡田有希子がビルから飛び降り自殺をした時
後から後から同様な自殺が続いたことがあった

仮にマスコミの報道がなかったとしたら
それらは続いていただろうか?
そして今度も?

マスコミ報道は確かに必要なニュースを報道するが
ある面、悪い事を結果として
「教えてしまう」ことがありはしないだろうか

そうか、こうすれば楽に~~出来るのか、とか
ムシャクシャはこうやって解消する手もあるのか、とか
情報の受け手の取り方は千差万別だから
どのような反応をするか分らない

といって報道をしない訳にはいかないから困ったものだ

しかし、報道陣はマスコミによる報道が
こうしたよくない事を連鎖的に起こしうる可能性について
もう少し考えるようにする事が必要なのではないか



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911同時テロは、やっぱり変な事件だ!

2006年10月28日 13時07分05秒 | Weblog
先週の土曜日、久しぶりに名古屋に出かけた
駅前の高層トヨタビルが、その姿をわりとスリムに見せていたが
対面のJR高島屋から眺めた時、不意に911のビルの崩壊は
絶対変だと実感した

ビルを仰ぎ見て、あの辺りにぶつかったとして、と想像したら
ぶつかって火災がおきただけであんな風に崩壊するのだろうか
しかも、左右に傾くこともなく、
ぶつかった階よりも上の階も跡形もなく崩壊するなんて
それに、3棟ともまるっきり同じように崩壊しているのは
どう見ても不自然のように思えてならない

しかし、あの時のニュース番組で、
ビルの崩壊の理由を説明した学者さんは
今では恥ずかしいと思っていないだろうか?
それとも、自信を持って今でもそうだといえるのだろうか?

誰が何のためにあんなことを起こしたのかは
単純にテロだとは思えず、
もっと別の理由があるような
気がしてならない

そういえばあの頃の炭疽菌の事件は
いったい何だったのだろうか?

メディアは騒ぐだけ騒いで、賞味期限が過ぎたら
次々に別の話題を追っかけていく
それは意図的か自然の流れかわからないが
結果的に一般人が白痴のように
気分をコントロールされている

怖いな!
なんだか大事なことが見えなくされているようで!
もっともこんな風に思うのも、少しは変かもしれないけれど!

今は情報の洪水の中にいるのだが
なにが正しいかとか、どう考えるべきかを
考える癖をつけないとまずそうだ
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「感動をありがとう」って嘘っぽい!

2006年10月27日 21時22分14秒 | Weblog
野球にはあまり関心がなくて、日本シリーズは
テレビをほとんど見なかったし
ラジオを聴きもしなかったが
気になるのは、いつもの決まり文句
負けた側のドラゴンズの地元の
「感動をありがとう」

本来はムカムカしていているのに
商業的な意味合いで、マスコミが無理矢理使用しているのを
一般の人までも同調して、やさしく(?)
よく頑張った、と言っている

このことに自分は違和感を感じて仕方ない
夏のワールドカップの時もそうだ
惨敗だったにもかかわらず
「感動を、、、』なんて

いったい本当なのかな
誰かに当たったり、
戦犯を捜したり
少し冷静になって、敗因の分析をするくらいの方が
実はまともな気がする

一番危険に思えるのは、戦犯を攻撃しようとする事を
いけない事のように感じさせる世の中の雰囲気

彼らはプロなのだから、いいときは賞賛され
ダメなときは、ケチョンケチョンに言われても
仕方ないのではないのだろうか

しかし、マスコミの雰囲気やトーンは
絶対にそんな事を言わさない感じだ
そして、一般の人も知らず知らず
自分もそんな風でないといけない、と思うようになってしまう

人は簡単にテレビに左右されてしまっているのを知らずにいる
試合の翌日、人に語る感想は、実は自分の意見ではない事が多いのだ
その証拠に、テレビの野球中継を音を消して、
翌日の新聞を読まずに見ていたら
その人の試合に関する感想は、随分違うものになるだろう

勿論、詳しく見る癖がある人や、
仕事としている人では、同じように感じるかもしれないが

どうも日本人は「個性的であらねば」と言う割には
みんなと一緒がよくて
皆と違う事が恐ろしいと思うらしい

これは農耕民族で、刈り入れなど
みんな一緒に協力してやってきたDNAの
なせる技なのだろうか
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必修科目の履修漏れ

2006年10月26日 20時57分18秒 | Weblog
進学校の必修科目の履修漏れが、後から後からと報告されている

この場合は学校の方で授業をしなかったらしいが
自分が高校時代のときは、生徒が履修しなかった事が頻繁にあった

つまり、ある者にとって受験科目と関係ない授業のとき
授業を全然聞いてなくて、別の教科書を開いて暗記とか
演習に励んでいたのだ

現実的には、出席が足りない事がなければ
たいがい卒業できるのだから
関係ない授業は受けずにいても平気だったのだろう

平気で授業を無視できるのもすごいと思ったが
無視されても授業を続けている教師もどうかなと思った

自分は無駄な事と簡単に割り切れず
きっとなにかのためになるだろう、と
全ての授業を受けていた

果たして、ためになったかどうかは分らないが
無視して別の勉強をしている人たちを
何かが違うと思ったのも事実だ

いったい何のために勉強するのか
大学入試の為に勉強するのか?
いや、そんなはずはない
何度も自問したものだった

全てはここにあるようだ
高校の教育は、豊かな人間性を育てるためではなく
大学入試のための予備校化しているのが現実で
みんなが、それを仕方ないと思っているようだ

こんな事をしていると外国の人材に
総合力で負けてしまいそうな気がするのだが、
どうなのだろう?

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思い込みは大事!

2006年10月25日 20時24分35秒 | Weblog
友達に音楽家がいて(ベース奏者)
彼が若くて、まだメインとなる仕事に就けないでいたとき
「スポーツ選手はいいなあ、結果がはっきりでるから
 ダメだとしたら諦められる。
 しかし、我々みたいな者は評価は漠然としていて
 いいのか、悪いのか分からず、
 まるで蛇の半殺しにあってるみたい」
と嘆いていたことがあった

やけに気になって覚えている言葉なのだが
思えば上には上がいた

例えば哲学者といわれる人々
彼らは果たして書いたものを
何人が読んでくれるのだろうか?
現代音楽の作曲家もそうだ
演奏される機会はあるのだろうか
それに聴衆は存在するのだろうか?

そのような状態下で、彼らは何故
自分の仕事を続けられるのだろう
根拠のない自信?
思い込み?

いずれにしても、損得ではとても理解できない世界だ
しかし、何故だかとても憧れてしまう
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サッカーの上手な子を育てるには!

2006年10月24日 21時20分03秒 | Weblog
結果的には、サッカーが大好きな子を育てることが
サッカーの上手な子を育てることになるようだ

第一、サッカーの好きな子は勝手に努力する
多分毎日のようにボールに触っている

今までの自分の経験では
センスのある子と、ひたすら好きなのだが上手くない子では
どうも好きな子の方が、ものになっていることが多い

ただサッカーが好きといっても
勝負に勝つのが好きなのか
ゲームをする時のチームの一体感がなんとなく好きなのか
それともサッカー自体のプレイが楽しいのか
夢中になれるから好きなのか
仲間がいるから好きなのか
人それぞれだ

だから我々は子供たちの一人ひとりが
何を楽しく思っているかを観察しなければいけない
それにサッカーがうまいといっても
得意なプレイは一人ひとりが違い
また、上達のテンポも個人差がある

自分は子供たちの可能性を見つけ出すことを
重要視している
教えるのではなく、可能性を掘り起こして
育てるようにしているつもりだ
それというのも、自分の可能性を指摘され
自信を持ち始めるときの子供のうれしそうな顔が
なんとも可愛くて、こちらも幸せを感じさせてもらえるからだ

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答えは自分たちで考えるようにさせる!

2006年10月23日 21時34分22秒 | Weblog
ぎっくり腰から一週間
なんとか普通に歩けるようになってきたようで
昨日は毎週のお楽しみの小学生のサッカー練習

自分の担当は3、4年生
この学年はここ数年やってきているので慣れてきて
何が出来て、何が出来ないかわかってきたつもりだ
(これはサッカーに関することだけではなくて
社会生活に関することも含まれる)

彼らと付き合う上で一番大事なことは
彼らは言われた事を忘れてしまうことが
多いということを意識することだ

普通の大人なら一度言われたら忘れないようにすることも
子供たちは切実感がないせいか、簡単に忘れてしまう
だからこちらは根気よく同じことを繰り返し伝えるしかない

それにかれらは自分で考える癖がついていない

昨日も20人あまりの連中に準備体操をかねて
馬とびをやらせてみた
一列に数メートルおきに並んで、手を膝にして背を丸めて
その背中を手をそえて次々に飛び越すというやつだ

この体操を黙ってやらせてみると
子供たちはいつまでたっても出来ないでいる
馬とびを知らない子がいるのも事実だが
知っている子も、さてどうしようかと
ぼーっとしているだけだ

こんな時は2つのチームに分けて
競争をさせてみると
一気にバタバタ焦り始める
今まで出来なかったことがとりあえず形になっていく

しかし、これからが問題で
どんどん飛んでいくうちに必ずどこかで詰まってしまう
なのに子供たちはそんなことお構いなしに
どんどん飛んで、ある馬と馬の間がぎゅうぎゅうになってしまう

その時自分はやっと声をかける
「さあ、どうしたらいいのかな」
すると少し冷静なタイプの子は
いったん渋滞が解消するまで待つように声をかける
「そう、そうやってどうしたらいいか考えてごらん」

子供たちはまたもや問題を起こす
馬と馬の間が狭すぎて、着地する場所がなくなっているのに
平気で馬をつくる
今度もやっぱり困ったままで上手くいかない状態が続く
しかし、さっきと同じで
「おい。間を空けろよ」
と声が出るようになる

だが、これは自分が何回か馬とびをやらせているので
出来るようになったのであって
最初はほんとに上手くいかなかった

自分は敢えて、こうしなさいと、指示はしなかった
言ったことといえば
「どうしたらいいか考えて」と
「そう、そうやってみんなに聞こえるように言うのは
いいことだよ」の二つくらい

今の子は言われたことはするけれど
自分では考えないと言われるが
実は大人が我慢が出来ずに
子供たちが考える機会を与えてないのではないのか

大人が知っていることを子供に
結論として(知恵として)理屈も分からず
早く伝えてしまうのは
実はあまりよい方法ではないのでは?
そんな風に思えてならない



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悪いのはどっち?

2006年10月21日 22時06分01秒 | Weblog
昔は自分らの町では、家に鍵なんてかけなかった
誰もいなくても盗まれることなどは少なく
反対に誰か近所の人が野菜やら
作り過ぎたおはぎやお寿司を置いていったりしていた

ところが今は鍵をかけないと
危険でしょうがない状態になっている
かけ忘れて盗難にあったときには
かけなかったから悪いのだ
と被害にあった人が責められてしまう

しかし、本当に悪いのはかけ忘れた人ではなく
人の物を勝手に持っていく人のほうだ

こうした当たり前のことが案外軽く考えられてないだろうか
防犯や被害防止のための方法論を
現実的に行うことが最善と思っているらしいけれど
実は、悪いことをしてはいけないとか
悪いことをすると、どこか気持ち悪くなるように
教育することのほうがより現実的なのではないだろうか

武器を持って戦いの抑止力とするより
戦い自体が悪いものだと教えるほうが
夢想家のジョン・レノンじゃないけれど
より賢い方法ではないだろうか

対処療法より予防
このほうがコスト的にも少なくてすむと思うのだが
さすがにこれでは少しばかり甘すぎるかな?
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最高裁判所裁判官、国民審査は無駄じゃないのかな?

2006年10月20日 21時00分20秒 | Weblog
いつもその時になると思うのだが、すぐに忘れてしまうこと
思い出したので、忘れないうちに愚痴っておこう

最高裁判所裁判官の国民審査
これっていったい意味があるのだろうか

やることの意味ではなく
やり方の問題

ある日突然、審査してください等と言われても
その人がどんな人か知らないから審査のしようがない

それならと、彼らが裁判した主な例を記した物を与えられて
それから判断してくださいと要求されても
書いてあることの意味が専門用語の羅列で
さっぱり分からない

多少、想像力で補って分かるようになったとしても
主な裁判の例が、全員一致の場合では
その人の力量や考えの方向性は、はかりようがない

いったい国は本気になってこのシステムを
運用しようとしているのだろうか

聞くところによると×は
左から何番目が多くうたれるらしいとかで
裁判官の名前の順序を変えたものを
数種類揃えておくとか?

その紙の印刷費はどのくらいになるのだろう
それと、集計する人のコストはどのくらいなんだろう

いくら基本的には、いい考え方でも
実際的には、なんら機能していないこの方法
どうして誰も何にも言わないのだろう?

自分は正直もったいないと思う
どうしても裁判官の国民審査を行いたいなら
別の現実的な方法を考えるべきではないのか
少なくともそんな議論が持ち上がっていいと思うのだが

ちゃんとすべきことはしてますよ
分からないのは、あなたたちが勉強しないからですよ
もし国が(役所が)そんな風に言うなら
それは初めから人を誤魔化そうとしているに違いない

人はみんながみんな、あらゆる分野に
詳しくなったり、興味を持つことは出来ないのだ

こうした現実を踏まえた上で
もっともコストが低く、分かりやすく、
みんなに納得できる方法を考えるべきではないのか

暴論かもしれないが
今のままでは国民審査をしようがしまいが
同じ結果ではないのか
だったら、しないほうがお金がかからないだけ
よいのでないのか
どうなんだろう?
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