パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

レコードの後、CDを聴くと、、、

2013年04月30日 18時58分42秒 | オーディオ

連休中は午前中にジムに行ってウォーキング
昼からは音楽聴いたりしているが
レコードを聞いた後、CDを聴くとその音の差が明らかとなる

CDを聴いた後レコードを聴くと
暖かいとか楽器の音がするとか、分厚いエネルギーに満ちた音とか
そんな印象を持つ

CDだけを聴いていれば不満は無いかもしれない
CDの聴き始めは、なかなかの音じゃないか
との思いを持つことも無いではない
しかし、比較するとちょっと物足りない

ところがもっと差を感じてしまうのは
レコードを聴いた後CDを聴く時だ
これはもうがっかりするだけ
ものすごく痩せた音、情報量も足りないし、靄がかかったような
つまり、デジタルは明瞭な音がすると言った定説とは真っ向反対の印象

ほんと、技術は進んでいるのかとさえ思う
便利さも面では進歩しても音、感動を引き起こす音響と言った面では
CDはレコードに全然かなわない

そんな訳で最近はCDの購入に気が進まない
しかし、出てくる新譜はCDとなネット配信
音の充実度には期待できないし、、

ホント、なんとかならないかな

CDプレーヤーをグレードアップすればいいのかな
しかし、いろいろ視聴しても、CDのいい音という
その定義そのものにイマイチ納得出来ない自分がいる

自分にとってのいい音とは
メリハリがあって、歪みがなくて
立ち上がりの素早い音などといった
まるで実験室の中の音ではない

もっと自然な、人間が引っかいて、叩いて
擦って、吹いて、そして鍛えられた声帯を震わす音
それらが感じられる音

もう無いものねだりのにすぎないのだろうか?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロンドイ短調 K511 聴き比べ

2013年04月28日 20時12分33秒 | 音楽

むかし一回聴いて、そんなに深い印象を持たなかったので
その後仕舞いっぱなしになっていたレコードを
昨日、別のレコードを探している時に不意に見つけて聴いてみた

ブレンデル演奏のモーツァルトのロンドイ短調 K511
勿論、レコードにはもっと他の曲が多く入っていたし
アルバムタイトルもこの曲ではない
しかし、この曲だけ取り出して聴いたみた
(この曲がモーツァルトの曲の中で一番好きと感じていた時があった)

ブレンデルのピアノの音は自分は好きな方ではない
なにか表面的な感じで、変に明るく、、、
そんなふうに思っていたが、昨日は
あれっ、こんなだったっけ?
最初感じたのはこの事、相変わらず音自体には共感を
覚えることは出来なかったが、演奏はなかなか面白い
というか、予想に反して興味深かった

ざっと、集中して聴いてみると
様々なニュアンスの表現に神経質になっているように思え
随分楽譜を勉強したんだろうな!
と思ってしまった

すると、そういえばロンドイ短調には他の演奏もあったぞ
とあるレコードを全部引っ張りだしてみた

クラウディオ・アラウ
ダニエル・バレンボイム
ギーゼキング
バックハウス

ひとつかけ終わると次に!と上の順番で聴き比べた
そうして分かったことは、
こんなふうに集中して同じ曲を聴き比べると
随分演奏というものは違うものだという当たり前の事実

クラウディオ・アラウの演奏は、
自分好みの柔らかい深々とした音
(幻想曲ニ短調はこの音の響きが最高)
演奏はブレンデルの後に聴いたせいか
特に何か特別なことをしている感じがしない
でも、音楽を、モーツァルトを信じきってひたすら
真面目に演奏している感じ
モーツァルト特有の声部間のやり取り、音色感も
ごく自然に流れ、まさに大家のパフォーマンス

続いてバレンボイム
最初の音からなんて寂しい悲しい音色なのだろう
(暗いのとは違う)
音色も神経質、だがブレンデルの神経質さとは少し違う
そしてテンポもゆっくりめ
最後までこの感情を聞き続けれのは辛い感じがしたが
なるほど、音楽表現とはこんなに違うものかと
改めて思い知らされた感じ

続いてギーゼキング
今度は反対にテンポも早く
妙な思い入れもなく淡々と弾いている
リズムがくっきり聞き取れるせいで
この曲が三拍子だったのに気付かされる
それでも途中から気が乗ってきたのか
テンポアップしてライブ感のあるような気もしたが
そんなふうに思っただけかもしれない

バックハウス
以前この曲が一番好きと思ったのは
実はこの人のこの演奏を聴いたからだ
何故だか知らないが、すごいと思った
特にクライマックス時の低音部
すごい迫力!そんな印象が残っていた

さて改めて聴き比べてみると
やっぱり淡々と弾いている
ギーゼキングと同じように淡々としているが
三拍子のリズムが際立つわけではない
そして音色はカチッとした粒の揃った濁りのない音
それらが淡々としているが自由に即興的に弾かれているよう
大きな把握の仕方で本質をぎゅっと掴んで
あとは自分の技術と感情に任せて1曲を仕上げる
そんな感じで、安心して聴ける
やっぱり、この演奏が一番好きかな

ところでYoutubeにこの曲がアップされているか
調べたらクラウディオ・アラウのものがアップされていた
一般的には有名な曲ではないけれど
ホント好きだな、ロンドイ短調 K511


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モーツァルトのこと

2013年04月26日 19時59分00秒 | 音楽

自分はモーツァルトの音楽が好きだが
他の人がどのように彼の音楽が好きか
を考えると、
きっと自分と同じような感覚・印象・感動を
持つからに違いないと勝手に思ってしまう

そして、それはあながち外れでもないようで
ラジオのトーク番組などでモーツアルト好きのゲストの
話を耳にすると、やはり同じような印象を持っているのだと
納得したりする

まるで会話のよう、完璧、自由、
そしてその言葉以上の心に訴える何か
いや訴えるのではなく、話しかけるような音楽
それが(自分にとっての)モーツァルトの音楽

昨日、吉田秀和氏の著作の中でモーツァルトに関するところで
こんな文章を見つけた

心が乾燥している時はモーツァルトへの手がかりはない。
音は空しく耳の傍らを駆け抜けていったしまう。
しかし、彼をきく用意が、私の知らない何かの機微によって
心のどこかで整っている時は、こんなに素晴らしい音楽はない。
その《心の耳》が、いつどこでどういうふうに、開かれたり
閉ざされたりするのか。
それは私たち自身にも、よくわからないことだ。

確かに、それはしばしば実感することで
素晴らしいモーツァルトも
いつもいつも幸せな時間を供給してくれる
わけではない
時には、ただ音響が耳を過ぎていくだけ
というのもある
だが聞く耳にスイッチが入ると
唯一無比の音楽のように思えてくる
そんなに難しいことをしなくても
言いたいことは完璧に表現して
そして美しいという言葉しか該当しないような
そんな印象を持つことができる

話はかわって吉田秀和氏のこと
以前は感性だけで書いているような印象を持ったが
読み返すと何と言う深い知識をベースに
平易な言葉で何人も納得できるような
文章を書いているのかと
改めて感動してしまう

定番的な言葉の羅列はなく
自分の感じたことを自分の言葉で表現しているところが
(当たり前のようだが案外できていない人が多い)
自分は気に入っている
そして、氏のモーツァルトに対する考え方・感じ方も
共感できるものが多い

6月にはザルツブルク・ウィーンに行くことになっているが
そこで感じるモーツァルトは日本で感じるものよりは
違ったものになるのだろうか?

それにしても、モーツァルト好きだな!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

努力した人だけが報われる世界は、生き辛い

2013年04月25日 19時44分53秒 | あれこれ考えること

外に出て管理のしようがない営業さんが
案外真面目に仕事をしているのは
サボることに寄って自分が流れてしまうことを恐れるため
と何かの調査を読んだことがあった

もっとも、それぞれの性格にもよるのだろうけれど

最終的には、営業の世界は数字で判断される
サボっていても数字が上がればちゃんと仕事をしていることになり
頑張っていても数字が上がらねば無駄な動きをしているとしか
判断されない

だが長い間隔で考えると地道に活動するタイプは
いつか報われる可能性が高い

ところで、これを一般化して
こうあるべきとマニュアル化してしまうと
なかなか住み辛い世界になる

努力したものが報われる世界は
そうあって欲しいと思う
しかし、努力した者だけが報われる世界は
人間にとって幸せなのかと考えてしまう

努力しなければ幸せになれない
当たり前のようでも、なにか違う気がする
もっとも人間の知恵ではその意図が計り知れない運命を司る方は
どういう訳か一見努力していないように見える人をも
それなりの生活の確保を行なってしまう

それは理不尽に見えるが
実はかなり深い

「働かない蟻には意味がある」と言う本があった
蟻やミツバチの何%はどう考えてもサボっている
としか見えないグループが存在して
そのグループの働くようになるスイッチの入り方が
多くの仲間とは違うことによって
その種の生存率を高めている
と言った論旨の内容だったが
人間の世界でもそうなんだろうと思う

しかし、なまじっか人間には記憶力とか
知識とか感情があるものだからややこしいことになってしまう

ものの調査によれば仕事中にインターネットで
仕事以外のサイトを閲覧する人はかなりの数字になるという
それは当たり前すぎて、ほとんどの人間がするのではと思えるくらい
仕事の効率を挙げるために、仕事中のインターネットの閲覧を監視しようとする
企業やそうしたソフトさえ存在するという

だが、無駄な非効率な作業は実はある程度(ここが難しいのだが)
必要なのではないか
と思ってしまう

世の中は厳しい
皆が勝ち組になるように努力する
だが皆が勝者にはなれず必然的に敗者が生まれてしまう
この敗者が人間らしい生活をおくることができるのが
良い世界と思うのだが、、、

むかし、糸井重里だったかのコピーに
「頑張れなかった人にも、、、」
というのがあった
「頑張った人に、、、」
ではなく、頑張れなかった人に
としたところがすごいし優しい
世の中はこの位のほうがちょうどいいのでは

頑張っても幸せを感じられない不思議な国「日本」
たいがいにいい加減に生きても幸せだったかもしれない(?)江戸時代
経済が何よりも大事と考えるところから少し離れるようにしないと
今の中国を批判することは出来ないのでは

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

疲労と体質の変化

2013年04月22日 20時17分22秒 | あれこれ考えること

老年になった自分の疲れが取れにくいとか
すぐに肥ってしまう
と言う話ではなく、皆が大好きな浅田真央のこと

そんなに真剣に見ているわけでもないので
いい加減な印象みたいなものしか残せないが
ライバルのキム・ヨナと比較すると
残念ながらまだまだレベルに差があるように見える

それは体のキレに現れる
時々見る浅田真央の最近の体はふっくらしつつあるように見える
以前のように飛び回るといった事はできない体格になってきた
ように感じる
それは体質の変化だけでなく、
今までの疲労も抜けきっていないのではないか
といった気持ちもしないではない

キム・ヨナも安藤美姫も上手いこと休息をとっている
体を休めるだけでなく心も休ませることが出来
再び競技に向かう時は新鮮な気持ちで
取り組む事ができたのではないか

一方、真面目な負けず嫌いな、そして商業ベース上
断りの効かないスケジュールの彼女は結局自らの選手生命を
縮めているのでは無いかとさえ思う

練習は裏切らない
しかし、オーバートレーニングは選手は逆効果な面があるのも事実

何が適切な練習で何がオーバートレーニングなのかは
わからない(本人もコーチも?)
結果を残した人は、その面でも適切だったかもしれず
真に運のいいとは、こうしたことを言うのかもしれない

自分も最後は根性!
と思わないこともないが
練習が全てで、それを乗り越えようとするだけの
練習はちょっと考えてしまう

息の抜き方、サボり方もある面必要なのではないのか
いや、息を抜いてもいいとかサボっていいと判断する
その判断力、そして楽な方に流れない意志の強さこそが
人としても選手としても大事なんじゃないかと思う

どっちにしても、結果が全ての世界
責任をとるのは自分
ただ客観的に自分を眺めるのも大事ということ

これは浅田真央のことだけじゃなく
世間一般の社会人にも言えそうな気がしてならない

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホラ吹きと自己主張

2013年04月21日 20時43分32秒 | Weblog

今までの日本ではあまり見らなかったかもしれないが
これからは必要となってくるかもしれない自己主張
別の言葉で言えば自己のプレゼンテーション

多かれ少なかれ皆やっていること
例えば初対面の時にどんな印象を他人に与えたいかと考える時、
ええカッコシーとか自分を大きく見せようとする傾向があるのではないか
もっとも、そこには自分の側からは他人がやたらと大きく見えて仕方ない
なんてことがあるかもしれないが

だが平均してと言うより、こうしたことは性格によることも大きい
必要以上に大きく見せようとか、大人物に見せようとかするのは

実際、そうした人はいるものだ
いわゆるホラ吹きみたいな人
何でそこまで言うのかな?
と思わないでもないが、とにかくそういう人は存在する

香山リカ風に言えばそれをする人は
何か心理的な負い目があるためとかの解説が出てきそう

だがホラ吹きはある面、ある種の人にとっては
必要なことかもしれない
有言実行みたいな意味合いで

ホラ吹きも実現できてしまえば
ホラじゃなくて
実現すべき目標であったといえるかもしれない

でも、正直なところ少し引いてしまうな
あまり自己主張の強い人、ホラを吹く人には

見栄を張る関東人
自分が情けない人物と演ずる関西人
と勝手に思っているが
自分は後者のほうが好きかな

 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あやとり(幸せな子供時代)

2013年04月18日 20時28分04秒 | 徒然なるままに

昨日埼玉に嫁いだ妹が我が家に帰ってきた
1年に1度、もしくは2度 
ほとんど同じような時期に訪れる
今は元気だけれど、高齢の母のことが心配なのだと思う

この妹が帰ってくると近隣に住む姉と妹も
我が家に集まってくる
昨日、今日と賑やかな幸せな時間が過ぎた

とりわけ昨日話題に登ったのがあやとり
新幹線の中が退屈であやとりしながら
時間を潰した妹が母にも下の妹にも
「これできる?」と振ったがはじまり

これがヒット大盛り上がり
二段梯子、4段梯子、ゴム、箒、一人あやとりなどなど
大きな声でああでもない、こうでもないと
先生役になったり生徒役になったり

何年ぶりにやってもやってるうちに
思い出したらしく何やら形になっていく
母もなんか変だが、それらしい指使いをしてる

自分も何かできるかとやってみたが
2段梯子と箒はできた
姉妹に挟まれて育ったせいもあるのだろうか

昔の記憶は忘れないが最近の記憶は定かで無いのが
歳とった者のパターン
妹も母も昔のことだから割合覚えている

だが、その盛り上がったのは
彼女らがおそらく一番幸せだった時を
振り返ることが出来たからではないのか

母も父も祖父母もいて皆優しく見守っている
他愛もない話も聴いてくれて
今思えば安心感に満ちた生活
そんな時代を思い出したのではないか、、

おそらく人生の中で一番幸せな時というのは
岩崎恭子さんのようなエポックメーキングな時ではなく
ありふれた日常の自分を認め見守ってくれた子供時代ではないのか

子供時代
その時代を幸せに愛されて過ごした者は
決して最後に間違った判断をしない
何故か信念に近い感じでそう思う

ところで、今の子供達は幸せなんだろうか
(余計なお世話?)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イブラは歩いている

2013年04月16日 21時03分15秒 | サッカー

ハイレベルの欧州サッカーを見るのは楽しい
Jリーグができて20年
ワールドカップに連続して行けるようになったのは
Jリーグが誕生したのが一番大きい

試合を数多く重ねる事によって
個人的に必要な現実的な技術が身についたり
戦術的なものも大いに進歩した

しかし、相変わらずこの国はストライカーが生まれない

ヨーロッパサッカーはチャンスと見るや
残酷なほど冷静に点を決める
慌てて枠外にシュートする日本とは大きく違う
そしてチャンスがなくても、何が何でも決めようとトライする
そしてそのシュートも枠内に飛び
必然的にキーパーの技術もアップする

見習うところの多いヨーロッパサッカー
しかし、多分日本が真似できないのは「歩く選手の存在」

この間たまたまフランスリーグを見ることがあった
イブラヒモビッチが得点を量産しているので
そこに注目して見たのだが、、

イブラは歩いている
前線からのチェックなんてしない
近くに相手のボールホルダーがいても
真剣にアプローチするわけでもない
そして仲間もそんなことを期待するようでもないみたい

しかし、一旦彼のところにボールが来るとなると
柔軟な発想と正確なキックと圧倒的なフィジカルを活かして
ホントに危険なプレーをする

歩いている
ということに注目して他の試合を見ると
守備の堅いイタリアでもトッティは結構歩いている
それこそ気が向いた時だけ
あるいは危険を察知した時だけ
守備に参加している

プレミアリーグでも前の連中はそんなに
ムキになって守備をするわけでもない
お互いそれぞれの専門の分野で頑張れよ!
そんな感じ

日本はフィジカル的に弱いから
人数をかけて守るのが当たり前のようになっている
そしてフォアチェックも要求される

でも本当は過度な守備面のがんばりは必要ないのではないのか
肝心な時にガソリン切れは本末転倒だ
肝心なのはいつ頑張らねばならないかを正確に判断するインテリジェンス

岡崎のがんばりは確かに心を打つ
でもドイツでは結果が伴わない
技術面のせいだけでなく
もう少しどこで頑張るかを見極め
その時に集中して最高の技術を見せ付けることが出来ればいいのだが

中山雅史の呪縛
とにかく前から頑張って守備して、、、
それが悪い意味で日本のあるべき姿になってしまっている

効果的に守り
効果的に攻める
そして数少ないボールタッチを如何に正確にするか
それを求めないと
折角のJリーグも今後の進歩が見られないのでは
と思ってしまうのは偏見か

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若いサッカー選手

2013年04月13日 21時17分02秒 | サッカー

セレッソ大阪対大宮アルディージャ
不敗記録更新中の大宮アルディージャの充実ぶりを
見ることの出来た試合だった

最初の金沢の超ロングシュート
セレッソに緊張感が無かったかも知れないが
スーパーなゴール

柿谷は入らなかったが最初のシュートもいいシュート
抜けだして、トラップしてかわして直ぐに早いタイミングで
確かに、今までの好調は勢いだけではなく
実力、技術が伴っているって感じ

前半終了寸前の同点ゴールは
抜け出し方、トラップ、シュート素晴らしい
当たり前すぎて難しいことしていないようでも
あのようにできるのは限られた人しかいない
やはり、柿谷は今見ていて面白いし
お金を払って見に行ってもいいかなと思う

試合はありそうなパターンの結末
少ない人数の大宮のズラタンの素晴らしいゴールで
不敗記録を更新(2-1)

茂庭はちょっと肝心なところで弱いな

ところで、この試合の前にグランパスとアルビレックスの試合を見たが
面白い!と言うかいい選手だなと思ったのが田口
地元でもグランパスはイマイチ好きじゃないので
熱心に見ていなかったが久しぶりに見て
若い選手でいいのがいるな
というのが実感

若い選手、
スターじゃなく、次にブレークしそうな選手を見つけるのは楽しい
今は柿谷
田口が目に入ったが、サンフレッチェの高萩も面白い
そういう視点で見るとサッカーも楽しいかも

選手は伸びる時は一気に伸びる
そういう運を持ったものだけが上り詰めることが出来る世界がある

いい選手の発掘

サッカーの見方は勝ち負け、戦術だけじゃない

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トリスタンとパパゲーノ

2013年04月11日 20時41分46秒 | 音楽

自分がバイロイトで初めてトリスタンを見た(聴いた)のが
バイロイト音楽祭の100周年

そしてワーグナーの生誕200年の今年
再びドイツに出かける

特にワグネリアンというわけでもないが
こうして見ると少しは縁があるのかもしれない

それにしても生まれて初めてのオペラ(楽劇)がトリスタンで
しかもバイロイト音楽祭のというのは
少し変わった経験の仕方といえるかもしれない
(残念ながら指揮はカルロス・クライバーではなくてホルスト・シュタインだった)

だからこのトリスタンは日本でも機会があれば
見るようにした
NHKホールで、名古屋の金山の市民会館で

バイロイトで特に印象的だったシーンは
2幕のブランゲーネの警告のところ

ここの部分の聴き比べをいろいろやってみると
どうしても先日も書いたけれど
フルトヴェングラーのまとわりつくような
オーケストラの伴奏が圧倒的で
バーンスタインもクライバーもカラヤンもベームも
どうしても物足りなくなってしまう

フルトヴェングラーのトリスタンの前奏曲と愛の死は
1933年だったか古い時代のシンフォニックな演奏も
なぜだか分からないが心惹かれる

「トリスタンの夢」
ふと思いついた言葉だが
何か詩的な感じがする(?)と思うのは自分だけか

同様に思いついたのが
「パパゲーノの夢」
パパゲーノはモーツアルトのオペラ「魔法の笛」の憎めない奴
誰も見ていないなら手柄も自分のものにしてしまおうとか
努力・忍耐なんて嫌い
恋人か奥さんが欲しいな、、なんていい加減な人物

でも音楽が素晴らしいせいか
パパゲーノが自分は大好きだ
(人間らしくて?)

真面目な突き詰めたトリスタン
活き活きと生活を楽しむパパゲーノ

ある時はトリスタン
またある時はパパゲーノ

多分人はこうした2面を持っているに違いない
そのどちらの部分が大きいかだけの問題

自分は?
どっちかといえばパパゲーノが好きかな

でも今年は生誕200年ということで
トリスタンを贔屓してみようか
(ホント、どうでもいいことだけれど)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする