パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

紅葉が始まり始めていた

2024年09月30日 10時43分11秒 | ダイアリー

彼岸花もいつもの場所でようやく見かけるようになった
朝晩は涼しくなっている
退屈な日曜日、久しぶりに豊川の「本宮の湯」に出かけた

新城市内にあるゆ「うゆうアリーナよ」りも
豊川市の「本宮の湯」のほうが我が家からは近いので時々出かける
同じような人が多いと見えて、近くの駐車場は満杯
一番遠い駐車場になった

駐車場からの道沿いではこんな木々が見られた

なんと、早くも紅葉し始めている
今年はクソ暑かったから、てっきり遅いものと思い込んでいたが
この数日の気温差が激しい分、木は錯覚を起こしたのだろうか

これは今年に限ったことなのか、毎年そうなのか
残念ながら記憶はない
時々、秋に桜が咲いたのを見かけたような記憶があるような、ないような

我が屋の庭の木々も紅葉はしていないが、疲れ果てているような雰囲気だ
少しづつ、葉っぱに傷跡が増えて、そして散っていく
夏にはあれだけ茂っていた葉っぱが落ちて冬木立になっていく
植物の周期的な変化は改めて凄いなと思う

入場料はJAF会員の割り引きで570円
長く入って元を取らねば、、と気合を入れても
どちらかと言えばカラスの行水タイプだから短い入浴時間
特に改修が行われて、大好きな寝湯がなくなってからは入浴時間は短めになっている

我が家で夜にお風呂に入る時は、昼に入ったからということで
カラスの行水に拍車がかかった
(じっくり入らねばもったいない?という頭はまったくなかった)


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早くも世論調査の電話がかかってきた

2024年09月29日 09時09分43秒 | ダイアリー

午後9時、固定電話が音をたてた
その呼び出し音は、登録してあるものや安心できる番号からのものではない
電話機は同居人の用心のために、それらは特別な呼びだし音に設定してあり
その呼び出し音のときだけ、同居人は出ることにしている
だが通常の呼び出し音でも、需要な電話だったり
登録忘れがあるかもしれないので、一応自分が電話に出ることにしている

このときの電話番号表示は0120から始まっていた
出ると、機械音だった
内容は早くも衆議院選挙のための世論調査(投票先調査)だった

我が家は時々、この種の調査が来る
簡単に断らずにいつもちゃんと答えているから調査組織も
毎回調査先候補に入れているのだろうか

聞かれるのはいつもと同じ
内閣を指示しますか?(まだ詳細はわからないのに!)
愛知14区には誰に投票しますか?
比例代表はどこに投票しますか?
その他、少し細かい質問がある

それにしても驚くのは、やることの素早いこと
自民党の新総裁が決まったと思いきやすぐさまの行動だ
そこで気になるのは、この調査の依頼主は誰か?という点
冒頭に調査組織の名前は言わなかったように思う
過去には「世論調査センター」とか通信社とか
メディア関係があったような記憶がある

調査をこんなに早く行って、その結果を知りたい人たちは誰だろう
少なくともメディアとか通信社ではなさそう
彼らは行うにしても、もう少し落ち着いてから行うだろう

知りたい切迫感があるのは多分自民党だろう
解散をして、選挙で勝ち目があるか否かをチェックするために
用心深く行う調査と想像する

それにしても、今回の総裁選は本来ならは
「何を行うか?」と「誰が行うか?」の戦いだった
ところが結局のところ、報道は「誰が」に関心が集まって
その誰かを選ぶ際の、損得や感情のもつれなどを面白おかしく
知ったかぶりに伝えているものが少なくなかった(田崎史郎氏など)

選挙といえば首長選でも、建前はマニフェストと言われる「何をするか?」
が大事とされるが、人間社会の出来事は「誰がそれを行うか?」
にどうしても関心が集まってしまう
それらは結局は同じこと言えないこともないが
「何をするか」で庶民が適切な判断できるようになると良い
と思うが、これは難しいことなんだろう

 

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雑感

2024年09月28日 09時14分55秒 | あれこれ考えること

結局、フランスの選挙のように最後はブレーキが効いたと想像した
昨日の自民党総裁選、石破茂氏と高市早苗氏の上位二人の決選投票は
最初の投票では高市氏が石破氏を離してトップだったが、決戦投票では逆転した

知り合いには高市氏を推す人もいたが
タカ派の行動と発言の多い彼女が国のトップとなれば
日韓、日中の関係はどうなるのだろうか?
と個人的には不安を感じていた

仮に高市氏が決選投票で勝てば、現実的に総選挙では
野党は彼女がタカ派故に攻めやすいだろうな、、とも感じていた

総合的に考えれば、、、危険回避で消去法で石破さんになったということだろう
と、テレビの解説を聞くまでもなく想像した

高市氏は日本会議の支持を受け、右寄りの人からも期待された人物
だが彼女を表す言葉は、一部では右翼ではなく保守と表現される
マスコミは右翼と保守をどのように使い分けているのだろう
西部邁氏ならきっと「あんなのは保守ではない」の一言で片付けられそうだ

テレビ局が偏向放送をしていると時々苦情があがる
一時期の報道ステーション、サンデーモーニング等がリベラル的な
(人によっては左翼的な)発言が多すぎるとして批判されるわけだが
フジテレビの番組に不思議なほど登場するのは、橋下徹氏と櫻井よしこ氏
想像されるように特に後者は思いっきり右だ
右側の発言で偏向報道と言われることはなくて、リベラル的な発言が
左に偏っていると批判される傾向の多いの現実のような気がする

ところで公安の監視対象は、共産党もあるが右翼団体もその一つになっている
オウム真理教絡みの団体もそうなっているが、報告書によると
一番危険性のない活動をしているのが共産党で(中国共産党に文句を言っている)
やばいのは右翼とかオウム真理教絡みだ

つまりは思いのほかイメージと実態は違うということ
だが染み付いたイメージを変えるのは至難の技だ
良し悪しや好き嫌いは、ほとんどがイメージとか知っているか否かで決まってしまう
人が人を選ぶというのは本当に難しいものだと実感する

ところで、個人的な自民党総裁はあの中では、「仁」の言葉を掲げた林さん
立憲民主党では枝野さんが代表に好ましいと思ったが、
どうも自分の判断は一般的ではないようだ(いつもそうかも知れない)



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モーツァルトとクレヨンしんちゃん

2024年09月27日 08時44分48秒 | 徒然なるままに

覚えているのは、おかしなことばかりというのはよくあることだ
先日の中村哲さんのイベント「医師中村哲の仕事・働くということ」の上映会のあとの
カメラマンとジャーナリストの対談で覚えている変なことは、こんなこと

中村哲さんが馬に乗って地域の診療に出かけたときイヤホンをつけていた
聴いていたのはモーツァルトの音楽だった!と対談の一人が口にした
たったそれだけで、対談全体に意味あることとは思えなかったが
自分は一気に中村哲さんにシンパシーを覚えた
彼もモーツァルトを聴いたときに感じるあの感覚を楽しんでいるのか?
と、どこか仲間のような気がしたのだった

もう一つ覚えている変なことは、対談者のカメラマンが中村哲さんの
部屋に出かけた際に見かけた本棚のこと
医学書、土木関係の本は必要な類で想像がつくが、その他に
「クレヨンしんちゃん」の漫画が10冊くらい並んでいたというのだ

クレヨンしんちゃんは馴染みがなくて共にする感覚を覚えることができなかったが
漫画を楽しむという感覚はわかる
北杜夫も漫画をずっと読んでいたようだったし
自分もいい歳になっても立ち読みで少年漫画を見ていた

人には当たり前だがいろんな側面がある
そういう側面がたくさんある人のほうが、面白いように感じてしまう
人への理解は、実はそうした些細なことから始まるのかもしれない

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物欲が無くなるのは年齢のせい?

2024年09月26日 09時07分40秒 | ダイアリー

現在スマホはiPhoneを使っているが、機種はもっとも安価なSE
ホームボタンのあるやつだ
毎年のように新機種が発売されるが、かつては新らしいもの好きだった
かもしれないいが、今は一向にそんなことはない

使えるものに不便がなくて、安ければそれでいい
電話はもちろんメールができて、調べ物ができて、SNS投稿ができて
写真、動画が撮れて、天気予報が見れて、電車の乗り換えが見れれば
それ以上の機能はそれほど必要ではない
最近、頻繁に使うようになったPayPayもSEで充分だ
クイックペイもできるから、本当にそれ以上使うものはない
Zoomはパソコンの方で行う

自分の生活には必要不可欠の音楽は、今流行りのネットワークオーディオではなくて
昔ながらのレコード、CDで満足していて、それ以上新しいものを求める気はない
音楽は便利さよりも、時として真剣に向かい合える環境さえあればそれで充分だ

なんだか年齢を重ねると物欲がなくなるようだ
物欲が無くなるというよりは気力がなくなっているのかもしれない
車もそんなにいい車に乗りたいとも思わない

今フト思ったが、一番無関心なのはファッションかもしれない
衣服で今年購入したものは、ユニクロで手に入れたTシャツくらいなもの
普段は以前に購入したものを繰り返し着ている

だが、これは少し注意がいるかも知れない
あまりにも気を使わなさすぎると、おじいさんおじいさん風になってしまいそうだ
今でも他人から見ればおじいさんにしか見えないかもしれない
実際のところ、同じくらいの年の男性を見て
自分もこんな風に見えるのかとがっかりすることが多い

ということで、現役を退いた人間の気持ちなんてこんなものだ
何かが欲しい、何かを経験したい、何かを食べたい
それらが無くなってきているが、まだ少しだけホッとするのは
読みたい本がまだまだ見つかるという事実
ただ、これも記憶力と目がショボショボするのと
集中力が続かないのが足を引っ張る
どんな年齢のときも、満足できるということは無いようだ


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リモコン

2024年09月25日 07時35分20秒 | ダイアリー

「もう、このテレビ嫌い!」
新しいテレビに向かって同居人が声を荒げる
彼女はリモコンを持って四苦八苦している
新しいテレビに向かって「変なのばっかり出て、全然番組が見られない」

そんなことはないだろう  
と一旦消したテレビをつける
すると普通の放送ではない画面が映る
テレビ局のボタンを押しても反応がない

そこでいろいろ試行錯誤して、やっと普通に戻った
最近のテレビは多機能になっていて、はじめからネット接続を前提に
YoutubeとかDAZNとかその他いろいろなネットサービスのアプリが入っている
これらのアプリ起動のボタンのせいで、リモコンもやたらと大きくなっている
だが、このリモコンの字は小さくて見にくい
上下左右のボタンも黒の背景に黒の矢印でよく見ないとわからない

新しいテレビは、パソコンと同じように、使用したいアプリを選択しないと前に進まないようだ
理屈はわかったが、これを年寄りに伝えるのは難しい
一旦教えても、見慣れない画面が出てきたら対処できるかは大いに疑わしい
(とりあえず、理屈は伝えた)

多機能というのは果たして便利なのだろうか!と、つい考えてしまう
いろんなことができるということは、いろんな設定や使い方を覚えなければならない
今年はエアコンも買い替えたが、同じメーカーの同じ製品を手に入れたが
リモコンはこれもまた大きくなっていた
つまりは前回になかった機能が入っているのだが、年寄には使いこなすのは難しい

年寄は、テレビ番組が見たいだけ
録画もしない 必要なのは音量を上げる機能くらいなもの
エアコンは涼しくなりたいだけ
そうした使い方をする人に大きな多機能のリモコンは使いにくい

本当は覚えるのが一番だが、無理そうなので結局、テレビ局を選択でき
音量調整ができるだけのシンプルな機能のリモコンを購入することした
それは文字も大きく、触るところも難しいものはない

それにしても、世の中の電気製品は便利になっているのだろうか?
少なくとも、年寄には優しいとは思えない
電気機器メーカーはお年寄りを対象に製品づくりをしていないように思えてしまう

尤も、こうして困る人のためにシンプルなリモコンをつくる企業もあるのだが


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「医師中村哲の仕事・働くということ」上映会

2024年09月24日 11時22分14秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

世の中は時々気まぐれのように、とんでもない人が現れる
万物の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチ
一度聴いただけで何声もの音楽を譜面に残すことができたり
訓練もしていないのにヴァイオリンを演奏できたり
すごいスピードで作曲できたりしたモーツァルト
多数の言語を話すことができ、日本人でも読みこなすことの難しい
古文の源氏物語を読みこなして、英語に翻訳を行ったウェイリー

マザー・テレサもその中の一人で、とんでもなく良い人で
彼女がいたという事実は「まだ人間は信用できる」とも思いを強くする
同じようにとんでもなく良い人が日本人の中にいた
中村哲さんがその人だ
彼の名前、業績等はなんとなく知っていたが、昨日、新城文化会館で
ドキュメンタリー映画「医師中村哲の仕事・働くということ」が上映され
上映後は彼を知る人二人による対談が行われた

すごいなあ、、と圧倒されるが、ひょうひょうとした雰囲気は
使命感といった覚悟とかそういったものはあまり感じられない
現実的にできることをコツコツとこなしていく姿がいたるところで見られる
「一隅を照らす」身の回りの些細な場所でも良くしていく  
その連続が、いつか良い生活を可能にする
人はそれぞれの立場で自分のできることをし続けていけば良いのだと教えられる

医師としてアフガニスタンに出かけた彼は、現実問題として医療所が少なすぎる
ことに気づき、まずは診療所を増やすべく行動を起こす
物理的な家屋だけでなく、診療できる人物を増やす
それでも、診療所までなかなか来れない人達がいるので、巡回診療と言う手段を試みる

そうした行動を淡々とこなしていくが、現実に直面する彼はその時に
どのような絶望感に日々苛まれたかを思うと、心が辛くなる

対処療法のような試みをするうちに、医療と同じような、いやそれよりも現実的に
病人を作らないことに効果のある方法に気づく
それは灌漑施設をつくることだ
干ばつしがちな地域だが、大きな川は存在する
そこから用水として取り込むことができれば、農業が可能となり人は栄養確保もできる
そうすれば医療行為以上の効果が得られる

この土木事業は壮大な事業で、言い出したのは良いものの知識や技術が彼にあるわけではない
そこで本で色々学ぶ
その中には江戸時代の技術も含まれており、たまりすぎた水を堰から逃す現実的な方法もあり
それは実際の工事にも使われた

アフガニスタン人は勇敢であることが尊敬されるとのこと
ただし、無鉄砲の勇気と正しく勇敢とは違う
根本に自然法的な正しさが必要となる

用水路は直線であることが望ましい
だがアフガニスタンは隣同士の地区が仲が良い訳では無い
ときに争いもある
その地区の親分的な人物は大きな土地を所有している
その親分に、真っ直ぐな用水路をつくるためには土地を提供してもらはねばならない
そこで中村さんは、その親分のところに出向いて話をつける
無防備で説得に出かけることは正しい勇敢そのもの
親分は納得する

このエピソードは上映後の対談で紹介された
この灌漑施設については政府的な発想ではODAで援助していけば
もっと効率よく早くできるだろう、、との考えがあったらしい
だが、結果的には中村さんが総指揮をとり、アフガニスタン人が我がことのために
自ら壮大な事業を行ったという経験を積むことになったのは
アフガニスタン人の財産になったと思われる
自分たちで自分たちのことを行う
それが成功し、成功体験は経験と自信になる
こうした連鎖は、中村さん抜きでは達成しなかっただろう

すごい人だな、、と思うと、彼の生まれが気になる
子供の頃はどういう育ち方だったのか、、
興味は自然とこうしたことに繋がる

中村さんは祖父母の影響が大きかったそうだ
その祖父母というのが驚くことに、映画でも何回か繰り返し撮影された
「花と龍」の主人公たちというのだ(対談のなかで紹介された)
この話を聞くまでは「花と龍」は(反社会的な)例の人たちの話かと思っていたが
全くそうではなくて、搾取しがちな人々に対して正しい勇敢さを
行動で示した人たちだったそうだ

「花と龍」はメモしておいたから、近々本を読んでみるつもり
それにしても、偉い人っているものだ
そういう人と接した人は、きっと良い人になっていくと思われる
人が会うべきは、人物は利益をもたらす人ではなくて良い人であるべきだと
つくづく思う

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「古典の日」と「葵の上」を連想した

2024年09月23日 09時29分20秒 | 徒然なるままに

「そういえば、このあたりに若紫の姫君はいらっしゃるのでは?」
と藤原公任が紫式部に語りかけたことが
寛弘5年11月1日の紫式部日記に書かれている
この記述が源氏物語が読まれていることを示す歴史上最初の記録で
それにちなんで、この日を「古典の日」となったようだ

このセリフは昨日の「光る君へ」で使われていた
脚本家は、この有名なセリフを使うチャンスを虎視眈々と狙っていたに違いない
ついに出たか!が第一印象だった

脚本家はドラマにいろんな仕掛けを入れ込んでいる
ここでそう来たか、、と、解読しながらドラマを見るのは
源氏物語をとりあえず読んだことのある人は、より楽しめるに違いない

昨日、そう来たかと感じたもう一つは、彰子の出産シーンで
安産を願う多くの僧侶の読経のなか、生霊が乗り移ったと思われる
女が奇声を発し、狂ったような行動をしていた
別の場所では藤原伊周が呪詛を執念深く行っていた場面

源氏物語の出産のときの生霊のエピソードと言えば
葵の上が光源氏の息子を生む時のそれがまず頭に浮かぶ
六条の御息所が賀茂祭の車争いの屈辱と葵の上の出産を恨んで生霊となって
葵の上を苦しめるシーンで、シチュエーションはそっくりだ
物語では葵の上は子ども(夕霧)を産んで死んでしまう

このシーンは昔も印象に残るものだったようで、能の「葵の上」は
生霊が登場し、横川の祈祷師と戦うストーリーとなっている
能では子どもを産む葵の上は舞台に登場せず
そのかわりに葵の上を想像させる衣装が舞台に置かれているだけだ
生霊は祈祷師に負けて最後は引っ込んでいくが、源氏物語は予定調和では終わらない

ドラマであのように生霊を可視化したのは
源氏物語を読んだことのある人へのサービス精神の現れではないか!と思う
つまりは、あのシーンはほとんどの人が葵の上のエピソードを連想する
それを楽しんでください、、とのメッセージだ

ところで新城市は江戸時代から能が庶民の間でも演じられ
少し前には「薪能」が文化会館で行われた
能の演目は今年の大河ドラマに合わせて「葵の上」だった

それにしても、思いのほか興味深い今年の大河ドラマ
昨日、久しぶりにお茶した彼は
「平安時代のことなのに、こんなにハマるとは思わなかった」
と「光る君へ」を評価していた
視聴率はどうか知らないが、少なくとも自分は高評価している


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立ち止まったのは何故か?

2024年09月22日 09時11分27秒 | 徒然なるままに

前回の「光る君へ」のワンシーン
まひろと道長が少し話し込んで、そのあと道長が部屋に戻る時
少し立ち止まった場面があった
あの立ち止まったシーンはどういう意味があったのか?
を想像した人たちがいた

女性の多くは、まひろが産んだ子が道長の子ではないか?
と気がついたとする考えが多かったようだ
男の自分は、なんで立ち止まっただろう
とは思ったが、そこからの想像は浮かばなかった

確かにその前に不義の子(藤壺と光源氏)の話をしていたから
そこからの連想でそこ賢子が、もしや、、、と気づいたのかもしれない

演出家はどういう意味だったのか?
は、それぞれ想像してください、といったところなのだろうか

含みが多い演出はなかなか面白い

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テレビのない生活

2024年09月22日 08時08分53秒 | ダイアリー

テレビがないと(つけないと)静かだなあ!
ついそんな声が出てしまう

調子が悪くなったテレビは調べてみると10年前購入していた
そろそろ寿命ということで、近くの電気屋さんで画面も性能も
以前より少しだけグレードアップしたものを選んだ
と言ってもほんの少し大きくて4Kが映るだけ
ハードディスクもブルーレイの録画なんぞはない

時々、同居人と確認するのは「安物買いの銭失い」のことわざ
本当にそうだね、、と言いながら、それでも何度でも繰り返してしまう
前回のテレビは安かったけど、いろいろイマイチだった

今回は中くらいの価格帯を選んだつもりだが、その日のうちの納品は叶わず
少しの間待つことになって、惰性のようにつけていたテレビがない生活となった

家には別の部屋に一台、2階に一台あるが、そこに行ってまで見たいとは思えず
メインのテレビが映らないなら、放ったらかしの生活だ

こういうのも、たまには良いかもしれない
静かで、テレビの報道にイライラすることもないし(兵庫県知事や多すぎる大谷報道)
同居人と話すことが多くなっている

食事の時はテレビを消して!
昔はそう言われたものだった
でも今は、食事中でも情報を逃すのはもったいない
そんな気持ちでいるのか、つけっぱなしがほとんどだ

ということで、久しぶりの静かな生活は今日の配達・設置でおしまい
あると便利だが、ないと静かな生活
いったい、どちらが良いのだろう

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