パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

3・6・8

2017年03月30日 20時08分05秒 | 徒然なるままに

モーリス・ルブランのルパンシリーズの傑作は「8・1・3」だったが
タイトルの「3・6・8」は一体どんなミステリーか、、、

実はこの数字はなんてことない、小さい印刷物だと判別できない文字というだけのこと
タウン誌のクーポンの小さな文字での日付が、3なのか6なのか8なのか、ぼんやりしていて
老眼と白内障のなりかかりには判別できない 

最近はCDのライナーノーツも字が小さすぎて読む気が起きないし
辞書もやはり小さな文字過ぎて虫眼鏡がないと読めない
(だから机には虫眼鏡がおいてある)

しかし、この歳になって実感するのだが、ここまで目がショボいことになるとは予想外
この分だと、本も読めるうちに読んでおかないとアカンのかも、、
情けない、、、だが、仕方ない、、、 

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同じ釜の飯を食ってはいけない

2017年03月29日 19時59分50秒 | あれこれ考えること

今回の森友学園問題はジャーナリスト・政治評論家という人の
立ち位置がはっきり別れている
安倍さん擁護派とそうでない人たち
メディアもフジサンケイグループと朝日新聞系列大きく違う

そこで少しメディアの役割を考えてみると外国ならば当たり前のこととして、
メディアは権力をもった政府を批判的な目で捉えて報道する
ところが日本は公平・中立にという言葉に縛られて
なかなか思いっきった切り口で報道できないでいる

ところで、メディアの中枢にいる人達や記者が
政府の人々と食事をともにするのは果たしてマトモなことだろうか
担当記者とか、その人を扱った著作を残した人物は食事等を一緒にして
その普段見えない性格や考え方を知ることになり、それでもって独自の報道が出来ると思い込む
しかし、ここに落とし穴はないか
誰でも親しくなった人の批判は書きにくい
同じ釜の飯を食った経験のなせる技だ

こうしたことが容易に想像できるだけに、報道の人間は対象とする人物と
食事等の付き合いをしてはいけないのではないか(イギリスでは当たり前のことらしい)
あくまでも客観的な情報に基づき報道をする
人間性まで踏み込めていないとしても、報道する立場のひとはこうあるべきでなかいか

田崎史郎の著作「安倍官邸の正体」
山口敬之の著作『総理』 
この人達はどの立ち位置にいるか、これで分かる

しかし情けないのはメディア側
どのテレビ局も彼らをその道のオーソリティーとして使う
もう少し違う人物を独自で探せよ!
と言いたくなる 

それにしても今回の騒動は闇試合の様相を呈してきた
自民党は、民進党の辻元清美氏が塚本幼稚園に無断で入ったとか
ゴミを埋め戻せという発言を無理やり引き出した、、、とか
それを東京のど真ん中で、ある議員が演説をぶっている
選挙期間中でもないのにネガティブキャンペーンを行っている訳だ

この様子には違和感を感じる
何をそんなにムキになっているのか
ムキになっていることと言えば籠池氏に対して偽証罪も考慮しているらしい

今回一番異常なのは、不確かな個人の情報にもとづいて
それが どうのこうのと言っているが、一番信用できる公的な資料が破棄されていることだ
実は疑惑の大きなポイントはここにある
何故ないのか!
何か隠しているのではないか!
誰もがそう思ってしまう
だが破棄されたのは法令に則っているし、そうした手続きに瑕疵はないと官僚さんは繰り返す
それが本音か、言わされているか、言わざるをえないか、わからない
しかし一般人はストンと落ちる感覚はどうしても得られない 

「法に則って、、、」
このセリフほど当てにならないことはない、、、というのが最近の実感
この逃げ言葉があるだけに、メディアは批判的な立場でいなければならない
 

 

 

 

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ワールドカップ最終予選 タイ戦

2017年03月29日 09時37分20秒 | サッカー

昨日行われた日本対タイ戦
結果は4-0 だが
得点差ほどの圧勝したゲームではなかった
むしろストレスが溜まるような、課題がいくつも浮き上がったゲームだった

負けることはないと勝手に予想し
タイは自陣で守りを固めてくるに違いない
と思い込んでいた選手がいたのではないか
難しいと思われたUAE戦を切り抜けた後だから
気を緩めてはいけないというものの、ホームだしと
知らず知らず緊張感は薄れていたのではないか

試合をする前に勝ち負けを自分たちで決めてしまう
いつも戦ってい負けたことのない相手について、
試合前に今回も勝てるに違いないと思い込むこと
これは良くないことだが、誰もがやりがちなことだ
そしてこの気の緩みはゲームに入って修正しようとしてもなかなか修正できない

タイは思いの外攻撃的に来ていた
最初の数分間でプレスの速さを感じた
それに対し日本はバタついていたので、タイはそれで自信をもって
この方法でいけることを確信したに違いない

ただラッキーだったのは早い時間に香川が得点したこと
落ち着いた良いシュートだった
しかしある面これがまた緊張感を奪ったのかもしれない
これで今日は勝ちだ!と勝手に決めて

後ろのつなぎがバタバタしていた時は香川が中継役として
降りてきて、ボールを前に運ぶ役をしていたが
得点したことによって香川がその特徴を活かせる前目でプレーするようになると
中盤の構成力というか前にボールを運ぶ選手がいなくなって
パスミスや判断ミスが続出してリズムを失ってしまった 

スタメンを見たときには走力のある選手を並べた印象はあったが
ボールを前に運ぶという点では少し不安を覚えた
ボールを前に運ぶのはドリブルだけではないが
それほどパス供給力がある人達がいるわけではなさそうだったからだ

結局、この試合の前のUAE戦と比べると今野の不在が大きかった気がする
酒井高徳は運動量はあったかもしれないが、
残念ながらあのポジションに必要な力は現時点では無い

本当にみんなできが悪かった、長友も森重も酒井宏樹も山口も
それでも結果が残せたのは久保と川島のおかげ
日の当たるところでは久保さま、さまというところ
香川の得点につながるパスも普通の選手なら誰かに引っかかうところを
きちんとパスになっていたし、岡崎へのアシストとなるクロスも正確なものだった
簡単にやっているようだがものごとを普通に正確に出来ているのは
あまり目立たないかもしれないが実は才能がすごいうということ

川島は良かった
この人は時々大きなミスもするが、良い時はこういうプレーをするタイプ
つまり波が大きなタイプだが、今回は良い方に結果が出た

しかし、本当に面白くない試合だった
印象として勝った気がしない
課題が見つかったとして良いと考えるか、日本の現在の力はこんなもの
としてガッカリするかといえば、後者の気分に近い

監督さんの選手の好き嫌いはどうしてもあるようで
ハリルホジッチの好きな選手は、あまり賛成できないけど酒井高徳、宇佐美、原口
それに対して個人的に昨日交代で使ってほしかったのはボランチの遠藤航
クラブワールドカップで大活躍した鹿島の昌子も見てみたかった
(守りを替えるのは度胸がいるが)

何かと話題となる本田はまずまず
それほど出来不出来の波が大きい選手ではなく
与えられた役割はこなしていたのではないか

この試合、結果だけが良かったというところ
今後アジアで抜け出すのは徐々に簡単ではなくなっていく
そんなことを感じさせる試合だった
 

 

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地域力シンポジウム行ってきた(忘れないうちの感想)

2017年03月28日 08時09分02秒 | あれこれ考えること

参加者は75名ほどとの報告があった「地域力シンポジウム」

前半は可児市の川上市議、新城市の穂積市長、牧之原市の西原市長の事例紹介
後半はパネルディスカッション形式で13時から16時まで行われた

流石に喋り慣れている方ばかりで、皆自信に満ちてテンポよく話が進んでいく
話が具体的な分野まで及んだので大いに参考になったが
ここ(このブログ)ではシンポジウムが終わった時、川上氏・西原氏の帰りがけに
質問した事を、忘れてしまわないうちに記録としてと残すために取り上げることとする

最初に川上市議に質問した
事例紹介で使われたパワーポイントの資料の写真には、いろんな会議とかイベントに
活気のある多くの人々が見受けられたが
この類の少し小難しいテーマでは人が集まらないのが普通で、集まったとしてもいつも同じ人が
来るのではないか、、その点はどうか

いやいや、そんなことはなく今度も幾つかの組織に別れていたところから
積極的に来る事になっている

何故、そんなに集まるのですか

それは、彼らが望んだことが実現されているから
議会報告会という住民の声を聴く機会で得た意見を持ち帰って
それを議会が審議し予算化して実際の行動に移されていて
その達成感(話したことが実現されていることの)は
これは面白いことだ!との認識につながっているのではないか
と思われる

なるほど、これはよくわかった
言っても何も変わらないなら人は面白くもないし、言うことを諦めてしまう
しかし、少しでも自分が関与したことが実現されていくと自ずと責任と興味を
持つようになるかもしれない

新城市では現在、議会改革検討会議なるものが行われているが
改革評価として「実生活に落とし込む」ことが肝心とされていたが
それはこういう意味なのかと実感した
また議会改革検討会議では川上市議の所属する可児市議会が先進事例として
何度か紹介されたが、傍聴席で聞いていたのとは全然印象が違う
当事者から生の声を聞いたからなのか、先進事例の紹介者(議員さん)の
理解が進んでいないために肝心なところが抜けて紹介されているのか
そのどちらか、また別の理由のせいなのかわからないが
とにかく、この印象の違いはなんだろうと不思議だった

次に牧之原市の西原市長
この方は、前松阪市長の山中氏の様に対話が大事が基本線
大事な問題は最初から市民と話し合っておくことが必要としている
なんでもかんでも市民と話し合うのは現実的でないので
その大事なところを選ぶのは「私」(市長)が決めている
との発言があったので帰りしな聞いてみた

大事なことの判断が、「市長」と「市民」とが違う場合があると思いますが

それはあるだろうな、その時は「ごめん!」と(ジェスチャーを伴って)言うしか無い

きっとこの方のキャラクターなのだろうが、その屈託なさについ納得してしまった
そしてこういう人なら、多分間違いのない判断をし続けるのでは無いか
そしてこの明るい市長を抱く牧之原市を羨ましく思ってしまった

穂積市長については、その話しぶりや内容は地元なのでよく知っていて
この会場でも特に変わった話はなかった
3人が交互に話すと、地元愛みたいなものが自然と湧いてきて
他の二人に負けるな(何がかわからないが)と応援したくなる
と同時に、今までの経過が有るので意地悪をしたくなる気持ちも捨てきれないでいる

結局のところ、雄弁な3人の話を聞くことによって、一般的には雄弁とされる
自分の市の(新城市)長の雄弁さのレベルが、実はそれほどでも無いことがわかった

多分、雄弁さにはその話されている内容だけでなく、語る人の熱意とか本気度が
知らず知らず現れる
本気になって熱を持って話せば話すほど、言葉は丁寧な言葉ではなく
普段使っているような少し荒っぽい話しっぷりとなる
(川上市議も西原市長もそんな部分が何回か見られた)
でもそれは何の妨げにはならなかった(少なくとも自分には)
本気になればなるほど、それが具体的な内容の紹介に繋がる
熱をもった人は政治的な解決法やら手段としての自分の関わったことを
一生懸命話そうとする
それは結果的に迫力のあるものとなる

二人の方々(新城市長以外)と比較すると、
聞き慣れていることと初めて耳にすることの差もあるかもしれないが
我が市のトップのお話ぶりは、あまりにも評論家風に終始していた
新城市の誇る(?)若者会議も制度の設定等は紹介されたが
その活動の具体的な内容にまでは(市民間の評価に至るまでの)言葉に出ていなかった
システムとしては存在していることに評価出来るかもしれない
しかし、当事者としての市民は、「何をしているのか」「何がなされたのか」
わからない現実が目の前にあって、それがために二人の講演者ほどの
迫力は感じられなかった(若者議会のメンバーは真面目に取り組んでいたと思われるが)

ところで、このシンポジウムには市の職員の方も数人来ていた
流行りの言葉で言えば、それは公務? それとも私的な行為?
(どちらでも良いけど、日曜日の午後にご苦労様!) 




 

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籠池理事長の証人喚問

2017年03月26日 08時35分31秒 | あれこれ考えること

先週の籠池氏の国会証人喚問は視聴率が16%超え
国民の関心も高かったようだ
最初予定されていなかったテレビ放映らしいが
自分もネットで知ったNHKのサイトに放送依頼要請のコメントを送った

この証人喚問は思いの外おもしろかった
まずは、質問者がどの直地点を目指してどのように質問を展開していくか
その知的な作業としての行為が結果として目的を果たしているか、、
証人は制限のある中でどのように答えるか、、
この視点から生・録画で観察した 

誰でも予想できるように、与党は籠池氏が
3つの建築費の書類を作成していること、
天皇が来園していないのにホームページにはそのような記載がある事
寄付金振込用紙に安倍晋三記念小学校の本来使ってはならない言葉を使い
寄付金を集めていたこと
などから彼(籠池氏)は、その発言を信頼するに値しない人物というイメージを
与えたかったのだろう
しかし、結果的にそれが成功したかと言えば、確かにそれらの疑問点はあったが
テレビ画面を通して感じる籠池氏の存在感は、それらのことが主となる問題では無いような
印象を与えるに至った
つまり与党の印象操作は失敗し、話は収束どころか更に拡散してしまった 

籠池氏が言ってることは本当か嘘かわからない
ただ偽証罪を問われるあの場所で、何回も慎重に発言するようにアドバイスされた中で
言い切ってしまう度胸は、覚悟を決めた人物の迫力がある
おまけに、少し驚くような証拠の品(FAX)も出てきたし、あまりにも生々しい発言は
単なる虚言癖のある人の発言とは思えないようなリアリティがある
(しかしそれが本当かどうかはわからない)

ここで、与党の方たちは少しミスをしている
西田さんは森友学園の財務状況がそもそも認可申請が出来るほど
良くはなかったのではないか、、、と問い詰め
そこから間違いが起きたのではないか としたが
問題はそのような経営状態を理解し、心配していた審議会が「認可適当」となってしまったことの
不思議さを際だたせることになっている
どうも本人はこの失策をあまり感じていないようだが

また与党の葉梨さんは、前職のこともあってなかなか鋭い質問をしていた
ここでは籠池氏はノックアウト近くで追いつめられたかもしれない
(籠池氏が信頼に足る人物ではないという印象をあたえることは成功している)
しかし、また失策をしているように思える事がある
もっとも失策と感じていないから後日も同じ話を自民党の別の人物からも繰り返し述べられている
それはあの国有地が不当に安い価格で払い下げられたのではなく
豊中市の隣の公園も補助金等で結果的には2000万円程度で手に入れていて
森友学園だけが安いわけではない、、との話を展開している

しかし、この場合補助金等はその申請等は正確に厳しく審査されて、その上で
支払われることになったのだろうと思われるが
今回の問題はそのゴミの埋蔵自体が、第三者ではなく国が行い
適切に処理していると言いながら、ゴミの証拠となる写真は同じ写真が
片方は一部拡大などのミス《?》で信用できるものとは思えない
そして立ち会いのもと確認したというが、それは当事者の発言を信じる
ということにすぎない(本当に49.7%だったのか?地層的にもありえない話の理屈もある)
つまりは、誰もがこの経緯は異常だと感じている(その手続の異様さ、スピード感)
そのことを理解せずに、問題ないと発言していることは
森友学園の問題が何故大騒ぎになっているか理解していないように思えてならない

さて今回のハプニングのFAX
このFAXは「関与があったと思われても仕方ない」という解釈と
「ゼロ回答」で官僚の通常の返事に過ぎないという意見が対立している
そのどちらが説得力があるか
それを判断するのに元官僚の方々の実感としての意見を聞くとなかなか興味深い
この件に対する解釈は当たり前だが、自分の置かれている立場で大きく異なる
そのどちらが説得力をもつか、、、それを判断するのは、テレビを見ている国民
はたして国民はどのような判断を支持するか

ところで午前の参議院の証人喚問で突然明らかにされたこのFAX
籠池氏は持参しているつもりだったが、その時は手元になく
午後の衆議院のときには準備するような流れになった
ところが、衆議院の証人喚問の前にフジテレビはそのFAXを手に入れており
そのFAXに対する解釈も「ゼロ回答」の意見を述べる方を準備していた
随分手回しの良いことだ

このFAXの存在を官邸側は承知しており、この問題の解決法は
「ゼロ回答」の方針でいくと決めたのだろう
そしてフジテレビがその方針の最初のメディアとなったということだが
これは単なる偶然か、フジテレビの取材力が強力なためか、、
最近の産経新聞の論調や記事等から推察するに、ある種の方向性を感じる

記憶にとどめておくことは、フジテレビ・産経新聞はどちらを向いて
報道しているかを認識していくことだ
同様に朝日新聞はどちらを向いて報道しているかを認識することも大事
それぞれが自分たちの都合の良い解釈や証拠を挙げてくる
同じ案件を判断するのは受け手側だから、少しでも賢くならないと
わけが分からなくなってしまう

話は変わって、この森友学園の小学校が仮に気づかれることなく
粛々と進められていったとしたら、果たしてどういうことになったのか
と想像することは無駄ではないと思われる
この学園の心配な経営状態をカバーする「寄付金」
これが案外集まったのではないか、と思えてしまうのだ
教育勅語を良きものとして感じたい人たち、
古い国家感を取り戻したいと考えている人たち
(おそらく憲法改正したい人たちなど)
そういう人たちの集まりは、この瑞穂の国記念小学校を
壮大な計画のひとつ、足がかりとして作り上げたかったのではないのか
この人たちの集まりを一言で言ってしまえば「日本会議」
この日本会議の進めたい方向性を知らず知らずに進められていた
ということではないかと想像してしまう

「日本会議」については国内よりも海外メディアの方が平気(?)で扱われている
知らないのは自分たちだけかもしれない

またまた話は飛んで、ヤフーに「森友学園」と入力して、
リアルタイムで検索するといろんなつぶやきを見ることが出来るが
ここでは政治的な問題(格安払い下げ)の良し悪しよりは
国家観の違いによる意見相違が多く見られる 
そしてそのつぶやきで感情的になっているのは、、、寄付しそうと思われそうな人たち

何れにせよ、証人喚問は自民党の判断ミス(想定外になってしまったこと)は
間違いのないようだ 



 

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新城市、議会改革検討会議 8日目

2017年03月24日 20時14分28秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

新城市議会のあまり面白くない話題

ストレスの溜まる会議だった
それはビデオ撮影ができなくなったせいではなくて
8回も会議を行っているのに何も決まっていないし、何の進展が見られなかったからだ

今までそのうち何か決まるだろうと思っていたが、議会条例の変更や追加に関する話は
今回も奥ゆかしく一切なし
ただただお勉強タイムの時間が過ぎていくだけ
もっともこのお勉強タイムはメンバーの共通認識が必要なため行われていると
説明があったが、そんなことに何時間もかけてどうするのか、、
それが傍聴しての感想

文句ばかり挙げているが、ひとつ良いことがあった
それは傍聴者にも議題となっている資料を配ってもらえたこと
今回で言えば
議会と住民が対話する場とその工夫について(報告担当 鈴木達雄議員)
このパワーポイントの資料のプリントしたものを見ることが出来た
こういう具体的な変化はありがたい

ところで、今日(3/24)のテーマは前回のテーマとよく似ている
前回は「充実」となってい文字が今回は「工夫」となっている
しかし、途中から聞くことになった(会議が早くスタートしてたので)内容は
前回とあまり変わった印象がない
先進事例の紹介が少し違うだけだ

大半の時間は勉強タイム
本当にイライラしてきた
で、何も決まってきていないので今回は自分がノートにメモしたことをあげると
●住民の対話する場というのは議会報告会だけで良いのか
●この会議は勉強のための会議か、それとも何かの実現のための会議か
●市議の議決責任は、市民の声を聞いているという前提があって、それがために議決したことは住民に対する説明責任がある
●住民参加とか参加者の増加を考えているが、あまりにも「市民力」が高いことを前提として考えすぎていないか
●「議会」という抽象的な存在、活動は住民に理解されやすいか

結局のところ、現実の生活者のレベルまで落とし込んだ議論がなされていない気がしてならない
(確か何回目かの会議にそのようなことが必要だとあったように記憶しているが)

ところで、パワーポイントの説明の中で、
議会報告会に関する悩み  という紹介欄があって
その中に議会報告会が「議会の糾弾会になりがち」との記述があった
これは新城市の議会報告会で多くの参加者を記録した
住民投票のあった年の議会報告会で見られた事柄そのものだ
確かに一方的に議会は責められた
しかし、だからと言ってそれをわざわざ避けるような方法をとるとしたら
それは間違なのではないか
(あのあと新城市議会はそのような対応をしているように思えるが)

クレームは宝物という考え方もある
糾弾に近い感情のこもった物言いは住民のストレートな気持ちを表していないか
それを受け止める気概とか読解力・洞察力が必要なのではないか、、
だからこそ貴重な意見として聞く耳を持つべきではないのか

また議会報告会とか市政に関心をもってもらうということは
実は議員さんの普段の活動のバロメーターではないのか
議員さんがこまめに自分たちの生活の関係有ることとして議会で決まったこと
討論されていることをわかりやすく説明されていたら
住民はもう少し関心をもったり議会報告会に出かけようという気になるのではないか

今日の検討会議のメンバーは10名全員出席(鈴木真・丸山・滝川・鈴木達・中西・白井・長田・村田・小野田・柴田市議》
しかしいつものように発言者は偏る
一度も発言しない人がいた
傍聴議員は山口・加藤・浅尾・下江議員が来ていた
(依然として山崎議員だけが来ていない)

傍聴に来ている議員は意見を述べる機会があったが
傍聴している議員さんのほうが適切な指摘をしていたように感じられた
メンバーの方々はしっかりしないと、秋に怖いことになりますぞ、、

 

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大衆とエリート

2017年03月21日 10時56分24秒 | あれこれ考えること

オルテガの「大衆の反逆」は、その内容を人に話すことが出来るほど理解は進んでいないが、
それでも思いのほか自分の感じ方等に大きな影響を与えている

「大衆の反逆」その本そのものではなくて、その引用が多い「官僚の反逆」
の中に、興味深い引用とか解説があって少し抜き出してみた

まずは肝心な「大衆」の定義

大衆とは、みずからを、特別な理由によって、---よいとも悪いとも---評価しようとせず、自分が《みんなと同じだ》と感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。《オルテガ》

 もう少しわかりやすい解説では

彼が批判する「大衆」とはよく誤解されるように特定の階層のことではない。階級や社会的地位とは関係なく、自分の意見を持たずに大勢に流されるような人間たちの事を大衆と呼ぶのである。従って富裕層や支配者層に属していても、空気に左右されやすいような性格を持っているのであれば、その人間は「大衆」の一員なのである。

なんだか、どこにでもいそうな人間ということになってきそうだ
それこそマスコミに踊らされそうな一般大衆は全員そうだ、、、とも言えそうな雰囲気
たしか「大衆の反逆」の中にはもっと辛辣に
大衆は専門的な知識や技術が無いにもかかわらず、正統な判断力を持っていると思い込み
それを実行させようとする、、、
みたいなことが書かれていたような記憶がある

このままではまずいこと(大衆迎合社会)になりそうだと予想される
しかし救いはある、それは「エリート」という人々
その人たちの存在が、無謀な世界になることにブレーキをかける

そこで「エリート」とは

大衆の反対は「エリート」であるが「エリート」もまた、特定の階層や職業を意味するものではない。オルテガによれば、「エリート」すなわち「選ばれた少数派」とは、「自分に多くを要求し、自分の上に困難と義務を背負い込む人」のことである。

エリートは、「自分よりもすぐれた、自分の彼方にある規範にみずから訴えることが必要だと、心底から感ずる性格をもっていて、その規範のために易々として身を捧げる」のである。そのような自らに厳しい規律を課している人間であれば、寿司職人であろうがプロ野球選手であろうが、「エリート」と呼ぶことができる。反対に高級官僚であろうと財界の幹部であろうと、「自分に何ら特別な要求をしない人」であれば、それは大衆的人間にすぎないのである。大衆というのは「社会階級の区分ではなく、人間の区分、であって上層、下層の階層序列とは一致するはずがない」とオルテガは明言している。

つまりは「自分の内なる声」に耳を傾けるひと、それに従う人が「エリート」ということだ
この「内なる声」が果たして正しいか、自己満足に過ぎないかどうかは若干問題があるかもしれないが
この様な「内なる声」を聞くタイプの人間は、おそらく日々精神の訓練をしているタイプで
大枠でそれほど間違った判断をしないのではないか、、、という予想がつく

しかし、残念なことに現在はオルテガの危惧したとおりの世の中になっている
この国の議員さんも、官僚さんも、自分の住む市の議員さんも望まれる
「エリート」で はないような、、、

またもや要領を得ない愚痴(独り言)でした

 


 

 

 

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津軽三味線の音楽

2017年03月20日 09時22分42秒 | 音楽

昨日新城市のお寺さんの本堂で津軽三味線のコンサートが行われた

今まで津軽三味線の生の音は聴いたことがなかった
ところが偶然、昨日は2つ続けてまとめて聴ける機会を得た
この画像のコンサートに遡ること3時間前、新城市設楽原歴史資料館で 
「ふみの蔵コンサート」と題する催しで津軽三味線のコンサートが催された

初めて聞く津軽三味線の音はなかなか迫力があった
まるで打楽器のような印象
豊橋にある雅会という津軽三味線のグループの若いメンバーから(小学生)
お年寄り、そしてこの地区の勉強を始めたばかりのメンバーまで
本格的なものやら昭和歌謡をアレンジしたものやら
聴きに来た人を飽きさせない工夫がされたコンサートだった

そこで少し変なことを考えた
津軽三味線の演奏で盛り上がるのは超絶技巧的なところで
左の指と右のバチのその素早さがアクロバチックで、音もさることながら
見ていてもなかなか動かされるものがある
しかし、音楽の迫力とはスピード感とか音量とかそれだけなものか
もしかしたら津軽三味線で一番難しいのはのんびりしたフレーズを
人が感動するような演奏をするのことではないかと思ったりした

そんなことを思いながら、結果的に予習した状態で夕方のコンサートに臨んだ
夕方は黒澤博幸さん一人で、歌も歌いながら進められた
昼間と違っている点があった
それは音量の点、むやみに大きな音ではなかった
そして楽器のせいかどうかはわからないが、こちらのほうが良い音
(潤いのある艶やかな)音だった

そこで先程の迫力という話に繋がるが、黒澤さんの民謡を歌いながらの演奏は
その伴奏がまとわりつくような、絡むような、雄弁という言葉以外にない
一種の迫力のあるものだった
もともと津軽三味線は慰霊のためにもので、基本的には歌と絡むようだが
強く納得する
そしてこの伴奏の雄弁な絡み具合は、シューマンとかヴォルフの歌曲の
ピアノ伴奏を彷彿とさせる
時代や地域が違っても音楽的な効果の狙い方とか美しさの観点は
似たようなのかもしれないとつくづく感じる

歌のない時の演奏は、もともと目の見えない方の音楽で基本は即興
同じものが二度と無い点でジャズに似ていると演奏の合間に解説された
確かに、ジャズと似た印象を聴いていてもった
そしてそのフレーズは自分が日本人なのでジャズの横に流れるフレーズよりも
予想しやすくしっくりした

だがまた変な事を考えた
この即興はとても自由で何でもありで無限の可能性があるように見えても
実は人間には癖とか傾向があっていつか新鮮と思ったフレーズも
以前やったことの繰り返し、マンネリに落ち着いてしまわないか
もちろん同じようなフレーズや癖も、演奏する場所や時間が違うから
同じものとは言えないが、それでも演奏している本人がマンネリを自覚してしまうのではないか
キース・ジャレットがソロコンサートを行い世界的に評判になった時
しばらくはその溢れ出る発想に驚いたが、徐々に慣れ(世間の)と自分自身へのマンネリ(?)で
スランプになったような気がするが、この人たちも同じようなことはないのだろうか

とまあ、聴きながら頭に浮かんだことの妄想
こうした毒にも薬にもならないどうでも良いことが、ポッと頭に浮かぶ事の楽しさ
これは生ならではの出来事 
やっぱり生は良い、普段続かない集中も出来るし、、、
 

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名フィルのブルックナー8番

2017年03月19日 08時33分21秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

新鮮な気持ちで聴きたいがために敢えて予習をしなかった
名フィルの定期演奏会のブルックナー8番

結局のところ、大好きな曲であるために頭のなかにはたくさんの記憶が残っていて
ついつい比較してしまう事となってしまった
ヴァントならここのところの響きは、もっとフワッとした感じだったとか
メータなら静寂の中の掛け合いはもう少し空間の(広さ)を感じたとか
朝比奈隆ならこの部分は必然性を感じるような繰り返しだったとか
フルトヴェングラーなら速度をあげるとこだったとか、、、

だからと言って不満だったわけではない
大曲、1時間20分を要する曲を退屈せずに聴くことが出来た
この日強く印象に残ったとと言えば
すべての楽器(多分)で大音量となるところの気持ちよさだ
やかましいとかうるさい、というのではなくて
特に人間の苦悩とか叫びを表現しているのではなく
ただ単に音響として濁りがなくて、子どもが音を出しっぱなしにして
喜ぶような、そんな感じで聴いていて疲れない

大音量のファンファーレ、
それは彼にとっては神に対する姿勢とか彼の作曲の傾向で
この音量の印象はチャイコフスキーなどの生々しい音色とは随分違う

ただこの日少し不満があるとすれば、豪快な演奏は良かったが
もう少しデリケートな部分があっても良かったのではないか
と感じられた部分がところどころあった点
もう少し他の楽器の奏する音楽を聞いて、自分のパートの音量や音色を考えるような
ところがあってもいいのではないかと

多分この曲を名フィルが感動的なものとするのは、あと何回もの演奏経験が必要な気がする
楽譜上を卒なく演奏できるととと、フレーズの持つ意味を感じ取ることとは違って
演歌歌手が歌い込んで自分のものとするように、何回も弾き込んで自分のものとする時間が
必要なように

まったく8番とは関係ないがフィナーレの楽章で、コーダの部分
全部の楽章のテーマが奏されるものすごい効果とかフォルテッシモの心地良さは
9番の未完の交響曲もブルックナーはこうやって終わりたかったんだろうな
と頭に浮かんだ
だからこそブルックナーは未完の場合には、「テ・デウム」を演奏して欲しいと言葉を残した
サイモン・ラトルのブルックナーの9番のアルバムには補作された4楽章が録音されている
一度聴いただけでは、てんでバラバラなよくわからない印象をもつが
慣れてくると、こういう表現をしたかったブルックナーの気持ちを
なんとなく分かるような気がしてくる

この日、予想に反して女性の方々も比較的多く見かけた
「不機嫌な姫とブルックナー団」の小説にもあるようにブルックナーの音楽は
男向け!と思っていたが、この日はそうではなかったのかもしれない

コンサートの前には、同じ建物で行われていたゴッホとゴーギャン展を見て時間を過ごした

大変な人出で落ち着いて見られなかったが、
こうした絵画展もかなりエネルギーを必要とする
それで全部を気合を入れて見ようとするのではなく、フト心に語りかけてきた作品を
じっくり見ようとする

この日一番記憶に残ったのはゴッホの地味な「靴」という作品
何か拡大鏡で(望遠レンズで拡大したような)語りかけるモノがあった
それは「すごいぞ」とか、少し「怖い」と言うものに通じる何かだった
昔、ミュンヘンで見た「ひまわり」を見た時に感じた迫力に通じるものがあるような
そんな感じ
この感じは暗い色調の「自画像」でも少し感じられた
その目が怖い
鋭いというのではなく、何か別世界の何かを見てるような、、、

この様に生に接することは、録音や印刷されたものとは感じる何かが違う
都会に住みたいとは思わないが、こうした機会に容易に触れられる都会人
を少し羨ましいと思ってしまう 

 

 


 

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敢えて「予習なし!」としよう(ブルックナー8番のコンサート)

2017年03月16日 20時43分13秒 | 音楽

今週の土曜日(3月18日)久しぶりにオーケストラを聴きに行く
会場は名古屋芸術劇場コンサートホール
名フィルの444回定期公演でプログラムはブルックナーの交響曲8番 ハ短調の一曲だけ

久しぶりということもあるが、とても楽しみだ
これまでにこの曲はズービン・メータ イスラエル・フィル
ギュンター・ヴァントと北ドイツ放送交響楽団
朝比奈隆と大阪フィルの組み合わせで聞いており
そのどれもが感動している 

その記憶は今でも呼び起こす事ができるが、今のところハズレのないプログラムとなっている
(大好きな曲 特に第3楽章が)

ところで、今までならレコードなりCDを引っ張り出して予習をするところだが
今は無理してでも聴かないようにしている
(聴き込んで他と)比較する楽しみよりは、その時流れている音楽が与える印象を
体全体で新鮮に感じるほうが得なような、そうしないともったいないような気がするからだ
そのためには気持ちとコンディションを整えておかねば、、、

会場はプログラムがブルックナーだから男ばっかりだろうな、きっと

 

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