パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

びわ湖ホールの「神々の黄昏」中止、それより気になるのは、、、

2020年02月28日 16時53分06秒 | 徒然なるままに

やはり、そうなったか!
予想はしていたが残念なのがびわ湖ホールでの「神々の黄昏」
前の3作は見ていないがポスターで見ると舞台がきれいで
見なくて損した気分
それで最後は締めようと気張ったのだが、、、

コロナウィルスによる中止
延期ではなく中止?
毎日のようにびわ湖ホールのHPを見て確認していたが
いつか中止のメッセージがアップされると思っていた

それで電車賃とホテルを予約していたのをキャンセルした
チケットは後日払い戻しの手続きの連絡があるらしい
自分の住む地域は幸いコロナウィルスにかかっている人はいないが
こうしてイベント中止の当事者になるとリアリティを感じる

先程、あいさつ推進運動で一緒に校門まで歩く小学生に
「月曜から休み?」
と聞いてみると、あっさり、
「春休みが終わりまで休み!」

親御さんたちの都合も気になるが、すぐに思い浮かべたのは
ボランティアで行っている外国にルーツを持つ子どもたちの勉強の手伝いのこと
彼らとはお別れのあいさつもなしに離ればなれになるのか、、
もっと何か伝えたいことがあった気がする(聞いてもらえるかどうかは別として)

仕方ないとはいえ、政治の現場はもう少し場当たり的な対応ではなく
ちゃんとして欲しい、、、との不満が出てしまうのは多くの国民の思うことだろう

 

 

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何故おとなしかったのだろう?

2020年02月27日 16時10分13秒 | 子どもたちのこと

いつもと違うと、どこか物足りなかったり、気持ち悪いということがある
外国にルーツのある子たちの勉強の手伝い(高学年の部)
いつもならこちらが口酸っぱくして何度も「集中して!」
叫びっぱなしになるのだが、今日は全く違っていた

席につくと6年のみんな(3人)は宿題に取り掛かった
会話もなく静かな時間
珍しいこともあるものだ、、、でもそのうち、、、
そんなふうに思っていると、おとなしいまま宿題の漢字の書き取りをしている
せっかくだから黙って見続ける
何分集中できるか時間を測ろうとしたが、今日はスマホを家に忘れてきてしまった

彼らにとっては長い時間、大人にとっては大した事の無い時間が過ぎると
少しづつゴソゴソしだす
せっかく今日はここまでできているのにもったいない、、
そこで「あと少し、頑張れ!」
と声を掛ける
いつもなら無視してマイペースで自分のしたいことをするが、それも程々で
何故か今日は宿題に向かう

一人が宿題を終えたので、プリントされた日本語の読みができるかチェックを行う
残念ながらイマイチ
そのうち、もうひとりも終えた
彼は席を立って別の席の子たちにちょっかいをかけに行く
彼がいなくなってより集中できるようになった女の子のAちゃん

先に済ませた二人は気楽にしている
ただ助かるのは以前の様に大声を出して騒ぐことはない

一番最初に宿題を終えたGくん
退屈そうなので、ちょっと聞いてみた
「1+2+3+4、、、、+99+100 このように足していくといくつかわかる?」
これは昨年、出来のいい賢そうな子にも聞いた問題だ
Gくんには無理かな、、、と思っていると
「これ知ってる、最初と最後を足すと101になるじゃん、だから、、」
「おっ、賢い!」(でもなんだかその先は怪しい)

自分で気づいたのか、、と聞いてみると
「Youtubeで見た」
なるほどと思いつつ感心したのは6年の彼が
このことを扱っているYoutubeを見て面白いと感じたこと

3人のうち日本語能力が少し遅れ気味のGくんだが
彼の関心事は可能性を秘めているかもしれない
それでいつもの言葉を繰り返す
「勉強してるとある時急に伸びるから、、我慢して頑張りなよ!」

彼は「賢い」と言われたことが嬉しくて迎えに来た母親に
「今言ったこと(賢い!ってこと)伝えて」
と催促をする
そうだな、今日はみんないい子だったからご褒美で
お母さんにも言ってあげようかなと運転席の女性に伝えたが
どうもお母さんのほうが日本語はしっかり理解できていない感じ

ということで、今日はとても不思議な日だった
何故、いつものように集中できない日ではなかったのだろう

こうして子どもたちとの戦いは毎日違ってくる、、
(時にしんどいけど、飽きる暇は無いな、、、)

大人の立場からすると、今日はいい子で比較的楽だったが
なんだか物足りないような、気持ち悪いような、、、
どこか居心地の悪さと充実感をもったまま家路につくことになった

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奇妙なできごとだが、フィクションではない怖さ

2020年02月25日 09時00分31秒 | あれこれ考えること

毎日毎日、新型コロナウィルスのニュース
更新される度に状況は悪化の一途
個人的にはチケット購入済みの3月8日のびわ湖ホールの「神々の黄昏」が
中止になってしまわないか少し心配
中止になってしまっても、それは仕方ないけれど、、

ところで悪意としか思えないのだが、このような奇妙なツイートが出回っている

アカウントが違っていても、言葉の一字一句が全く同じだ
普通は、同意見の場合はリツイートで済ませる
それをわざわざ別のアカウントで投稿している

上の画像は4つのアカウントだが、更に(誰かが)調べると
こんなに同じものがある

しかもほとんど同じタイミングで投稿されている
これらの投稿者を調べた人は、更に奇妙な点を指摘している
それがこの投稿をした人は、ツイート数が少ない(20とか30)にもかかわらず
フォロー数が異常に多いというのだ

そこで、これらのツィートは組織的に何らかの目的をもって行われて
いるのではないか!との想像が成り立つ

これは映画「新聞記者」で、薄暗い部屋のなかでパソコン画面に向かって
何人かがツイッターらしきものを投稿していたシーンを思い出させる
(映画ではそれとなく内調の関連組織を匂わせている)

世の中は知らないところで(ツイッターを利用していない人は全然知らない情報)
このような変な、というより異常なことが起きている
そしてそれは007のようなフィクションの世界ではないという現実

最近のなんでも閣議決定で済まされる風潮
世論調査の内閣支持率への疑念(説明に納得していないのに何故か支持率はそれを反映していない)
法解釈や定義の勝手な変更
親しみやすさを演出する芸能人の安易な活用
これらの政府の行動を支持する立場が上記のツィートのアカウントの人たちだ

これらがプロパガンダとか宣伝という範疇で考えると
ぼんやり受動的に過ごしているだけでは、人の世の中は
マズイところに向かってしまっているのでないか、、、
という不安を抑えることができない

全体主義の起源、自発的隷従論、群集心理、戦争と新聞などの
過去の失敗を振り返った本を読んでいる身には
これら取り上げられた問題点が、現在は何も生かされていない
ことに問題を感じてしまう(メディアも知識人とされる人々にも)

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ヴォルフの「メーリケ歌曲集」(フィッシャー・ディースカウとバレンボイム)

2020年02月23日 18時33分59秒 | 音楽

先日シューマンの「詩人の恋」を聴いていたところ
そのピアノパートがとても魅力的だったので
そういえばヴォルフの歌曲のピアノも良かったぞ!
と思いだして、長いこと放ったらかしにしていたレコードを引っ張り出した
フィッシャー・ディースカウとバレンボイムの組み合わせの「メーリケ歌曲集」だ

ヴォルフの歌曲は感傷的な美味しいメロディがあるわけではない
詩の表現するところを的確に効果的に表現すべく作られている
このレコード、気張って引っ張り出したものの、最近は目がしょぼくなっているので
解説書の詩を読むのも面倒になって、結局のところ歌声とピアノだけを聴いた

詩を読まなくてもミツバチが飛んでいるようなところとか
嵐がやってきているような様子はわかる
でもそのような描写的な音楽よりはもう少し別の心理的なニュアンスを
表現しようとした音楽が多い
そしてその歌のピアノの雄弁なこと
伴奏という範囲を超えて声と一体となって一つの世界を作り上げている
その音色、その音の強弱、あるときは寄り添うように、あるときは競うように
ピアノの音は楽器の音というよりは自分の体の中の何かが鳴っているような気がする

ヴォルフの歌曲でフィッシャー・ディースカウとバレンボイムの組み合わせは
このレコードのあとゲーテ歌曲集、アイヒェンドルフ歌曲集と続くが
ゲーテ歌曲集でもやはりピアノが凄い
ピアノが凄いのはもともとピアノパートの作曲が優れているのか
それともバレンボイムの解釈とか演奏が凄いのかわからない
でも、詩はわからなくても声とピアノだけで充分楽しめる

レコード解説書には詩の日本語訳のほか作曲の日付が記されているが
そのおかげでヴォルフが毎日のように別の曲を作曲している事がわかる
と同時に、ヴォルフは連続して作曲している場合はある固定観念、
気分、音楽的なイメージに囚われているのではないか、、、と思うこともある
連続して作曲された歌はどこか似ているところがあると思えるし
それは人にはありがちな傾向のように思える

ということで、久々に聴いたこの二人の共演による3枚組のレコード
次に聴くのはまたずっとあとになるかもしれない
今回は、何かは理解出来ないとしても、感じる事はできた、、、というところ

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「通訳になりたい」とあの子が言うとは、、

2020年02月21日 08時25分36秒 | 子どもたちのこと

木曜日恒例の日本語ボランティア
一回一回がどう進んでいくかわからない状態
昨日もどうもやる気は見えず

それでも一人はノートに漢字の書き取りを始める
(縦にではなく横に書いていく)
もうひとりは授業でやり残した感想文(テーマは違法薬物使用に関するもの)
を書き始めた
そしてこの中では一番日本語の堪能な子は、勉強をしようとしている彼らに話しかける

感想文を見せてもらうと「子どもはアルコールを飲んではいけないけど、、、」
との記述があったので、どうも集中できていない彼らに
「なんで子どもはアルコール(お酒)を飲んじゃいけないのかな?」

するとAちゃんが答える
「肺が真っ黒になって、体がグチャグチャになってしまうから」
Nくんも
「体にいい影響がないから、、」

そこで一緒にボランティアしてるSさんが
「食べたり飲んだりすると、それらは体のどこに行くのかな?」

「???」
そのうち誰かが
「胃!」と答える

「だよね、食べたものは肺には普通はいかないよね」
「Aちゃんはタバコの場合と勘違いしてるね、きっと
 真っ黒になるというのはニコチンのことだな」

すると「ニコチン」の音で子どもたちは大喜び
「〇〇チン」
この言葉で連想される、ちょいと秘密っぽいものが気になって仕方ないらしい

とこんなふうに集中力を欠いて時間だけが過ぎていく

彼らにとってこうした時間はどんな意味があるのか
彼らはこれらの時間をどうすごしたいのか
(ボランティアの立場は少しでも日本語がうまくなればいいと思う)
そんなことをつい考えてしまう
彼らの落ち着きの無さは、小学校という規則の中の生活、よくわからない
日本語の暮らしの中で暮らさざるを得ない状況を終えて
この場所に来ると、言葉(ポルトガル語)が自由に使えるし
同じような仲間がいるから知らず知らずストレスの発散を
してるかもしれないと甘く考えたりもする

集中力の無かったNくんが急に腕立て伏せを始めた
「先生、連続で何回できる?」
「そうだな、若い時は2.30回くらいかな」
「嘘、そんなの全然できない」
そう言ってまた腕立てをする
「もっと腕を深く曲げて鼻が下につくぐらいにしてみな」
「今度は手の上に手を合わせて、その状態で腕立てをしてみな」
体にエネルギーが溜まっている感じのNくんは勉強よりもやる気があるようだ

そのうち勉強が一段落した子たちも集まってきたので
「空気椅子の競争をしようか」
と試しに言ってみると、みんな大乗り気
それぞれが壁に背をつけて、膝を曲げて空気の椅子に座っているような格好をして
「よーい、スタート」

これが思いの外楽しかったようで、いつも気分屋のJさんも必死に頑張っている
ブルブルする脚を我慢しながら、みんな大きな声を挙げて(低学年の豆まきのときのように)
興奮気味におこなう

「もう一回」
「もう一回」
別の場所で勉強をしてる子達には迷惑な騒ぎ方になってしまった

この行動がこの時間の使い方としてよかったのか、悪かったのか正直なところわからない
でも、子どもたちが生き生きした表情をしていたのは事実で
次はこうしようと自発的に遊びを提案し合ったのは、子供らしくて少し安心した

大騒ぎしすぎて少し怒られて時間が終了
みんなが帰って残ったGくんに
「大人になったら何になりたい?」
と聞いてみると
「ええとね、通訳」
「それはいい考えだ、今はもしかしたらバカにされてるかもしれないけど
 君は2つの言葉がわかる、、絶対、有利だし、、」
「ポルトガル語だけじゃなく英語も、、」

これらの言葉に驚いた
彼のことを見るようになった昨年は、彼はふてくされていた
時間を適当に適当に過ごして、自己責任というものの捨て置かれて
将来は工場のラインのなかで働くだけ  が想像できるようだった彼が
「通訳になりたい」と言い出したことは、それができるかどうかは別として
こちらはとても嬉しかった
彼には前に言ったように
「ものごとは段々と進歩して行くとは限らない
 ちゃんとやってても伸びないときがある、でもある時、急にグィーンと
 伸びることがある  その時のために我慢して頑張りなよ」
彼は理解していると目で応えた

本当に自分らは何ができて何をしたら良いのか
敗北感のような気持ちを持ちながらの帰り道がいつものこと
でも、ちょっとだけ良いことがあった昨日のこと

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楽しそうなのはボランティアの人たちも

2020年02月18日 10時46分14秒 | 徒然なるままに

昨年から月に一度、好きな時間に来て、好きな時間に帰ることができる
「〇〇喫茶店 平井支店」のような集いが地元の公民館で行われている
対象となるのはお年寄りで、話すこと、活動することの少なくなった人たちに
気晴らしの時間を提供しようとするものだ

ひょんなことからこの集いに協力している
といっても男は(自分は)ダメだな、、結局のところ何もしていないかもしれない
中心人物の男性は甲斐甲斐しく動いているが、自分は受付と後の掃除くらいしかしていない

昨日(17日)2月の会が行われた
ダラダラと始めてダラダラと帰っていいコンセプトというものの
何かがないと時間が潰せないと思ってしまう日本人の傾向を反映して
毎回この会ではいろんな催しが行われる

今回は歌とギター、手品ショーが行われたが、その前に「ボケ防止」のための
「脳トレ」が行われた

右手と左手を使って、グー・チョキ・パーをそれぞれの手で違えて行うとか
指折りを片手は一本指を立てたところから、片方は握ったところからスタートしていくとか
右腕で空間に丸を描いて左腕は三角を描くとか
歩きながら二文字尻取りをするとか、、
どれもこれもつい笑ってしまうような、悔しいがなかなかできないことばかりだ

いつも思うのは、参加している人も楽しそうだが
それをボランティアでやってくれてる人の楽しそうで明るいこと
昨日だけでなく、違う日にボランティアで来てくれる人も同様に明るい

そう言えば、これらの会を運営してくれてる人たちも
「〜〜しなければならない」といった悲壮な覚悟というより
自分のできることをするだけ、、といったような緩やかな感覚で
メンバーになっているみたいどこか楽しそう(?)

できることは少ししかないが、ちょっとでも人のためになることをするのは
人は楽しんでできるのかもしれない
「今だけ、自分だけ、お金だけ」といわれる世の中だが
単純にみんなが喜ぶと嬉しいと感じる人達がこのように存在するのも事実だ
そしてその人達のイキイキしてることも、、(見習わねば)

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理解はできないが、感じることはできた「処罰社会」(ミシェル・フーコー)

2020年02月16日 16時17分18秒 | 

ウィーンフィルのコンサートマスターだったライナー・キュッヘルさんは
「音楽を理解することは難しいが、感じることはできる」
と述べている

その言葉を読書に置き換えて
「本を理解することは難しいが、感じることはできた」のが
フーコーの「処罰社会」


読書は音楽のように感覚的で味わっているだけでは意味がないかもしれないが
読み手としてのこちらの力量不足なので、ただ感じるしかできないのは仕方ない

この本は齋藤孝氏の講演の際に紹介された「監獄の誕生」を購入するつもりで
書店(精文館書店本店)入ったが、あいにく目的の本はなかったので
代わりにこの講義集を手に入れた

面白かった
講義集なので延々と続く長い論文ではなくて、その日の講義のポイントが冒頭に
ピックアップされていて、それに沿っての話なので、途中で頭が混乱するようになっても
とりあえず大枠を外すことなくページを進めることができた

でも、残念ながらこれを他人にアウトプットできるほどの読み方はできていない
読んでいる最中は、よくわからないが凄いことが書かれている
これが実感だった
この感覚はハンナ・アーレントの「全体主義の起源」を読んでいた時の感覚に似ている

よくわからないにもかかわらず、興味はどんどん深まって
後半の部分はまるでミステリーを読んでいるかのように先へ先へと
気が急いて仕方なかった

刑罰、処罰、監獄等のキーワードから、現在の規律社会、権力構造まで講義は続いていくが
社会の構造なり理解の仕方はこのような視点からもあるのかと
この人の仮説なり、考えていることをで感じることは
その内容のいかんを問わずスリリングだった(感じることができたのはそのこと)

ただ世界の理解の仕方として、少しばかり悲観的(?)な見方、把握の仕方かもしれない
とも感じた
世の中(社会)は試行錯誤で変化していく、その過程でフーコーは規律社会の少しばかり
負の部分を紹介しているが、そこで思い出したのが数年前読んだ「サピエンス全史」
「サピエンス全史」も試行錯誤で、人間だけでなく社会も変化していくとしている
だがこちらの方はもう少し楽観的な視点で、変化は進化に近いニュアンスで述べられている

ところで、何かを理解するのは同じような本を三冊読めばいいとされる
折角の機会、近くの書店に無かった「監獄の誕生」
ほしい物リストから昇格させようかな、、

 

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曲を聴くか、演奏の違いを聴くか

2020年02月15日 08時48分07秒 | 音楽

NHKラジオの「まいにちドイツ語」応用編では、3人のウィーンの音楽家の
インタビューが題材として扱われている
ウィーンフィルのコンサートマスターだったライナー・キュッヘルさん
若手のオペラ歌手の方(名前が聞き取れなかった)、ピアニストの
パウル・バドゥラ・スコダさんがその3人だ

一週間遅れでネットで聞いているが、最初のキュッヘルさんはなかなか興味深い話があった
それはカラヤンとのエピソードで、怖い人のイメージがあったカラヤンだが
キュッヘルさんが親知らずの痛みをこらえてリハーサルに臨んできたのを見て
リハーサル終了後に彼を一人呼び出して
「何かあったのか?」(家族に不幸でもあったのか?)と心配気味に聞いてくれたことが
あったという(イメージと違う)
また、カラヤンといえば目を閉じて指揮するシーンが思い出されるが、晩年になって
ウィーンフィルを演奏するようになった頃は目をしっかり開けて
ブルックナーの8番を指揮している時は涙を浮かべていた
と当事者でしかわからない話が紹介された
カラヤンにそんな一面があったとは少し驚きがあり
この応用編のシリーズを聴き続けようという気になった
(関心はドイツ語よりも音楽に関することで)

インタビューは、この話の後でウィーンらしさとかコンサートマスターの資質・役割
作曲家と演奏家等の話題に広がっていったが、興味を持ったのはこの人の最後の
2回のインタビューの内容
ウィーンフィルと他のオーケストラとの違いを尋ねたところ、キュッヘルさんは
そのことではなく、現代は「演奏の比較」の時代になっていると答えていた

ベートーヴェンの時代はどのように演奏されるかよりも
できたての音楽のその内容や質、訴えるものが(つまりは曲自体が)興味の対象であったのが
現在では、演奏家がどの様に演奏するか、解釈するか、
つまりは演奏家間の比較が音楽の聴き方になってしまった!というのだ
これはまさに実感する
録音媒体の発達のおかげで、我々は一つの曲を多くの人の演奏で聴くことができるようになった
そうすることによって分かってきたのは
楽譜に残された音楽は演奏家によってかなり印象が異なるという事実
そしてそれは好きな曲、嫌いな曲が存在するように
演奏にも好きな演奏、嫌いな演奏というものが存在する
(何故好きか嫌いかを言語化できるとは限らないが、とにかくそういうことはある)

音楽(曲)を聞いているのか、演奏の違いを聴いているのか
そのどちらのほうが良いのかは難しい問題で
たくさんの演奏を聴いててしまっていると、どうしても記憶の中の演奏(の印象)が
ナマの演奏会の最中でも頭に浮かんでしまう
これは楽しみ方の一つでもあるし、時間をかけて身につけた技術でもあると思う

でも自分は基本的・個人的には曲が要求する内容・効果をしっかり伝えてくれる演奏
つまりは作曲家の意図が聴けると感じるような演奏が好きかな
だからこそ聴きにいきたい演奏会は「プログラム」次第で、つまりは曲が聴きたいということ

ただし、自分が田舎にいなくて、いつでもナマの演奏会が聴ける状態だったら
この選択基準は演奏家中心になっているかもしれない、、

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思い通りにはいかない、、、

2020年02月13日 18時05分08秒 | 子どもたちのこと

木曜日午後三時からは、外国人にルーツをもつ子どもたちの
勉強の手伝いボランティアで自分の担当は6年生の3人
毎回、勉強モードになるのが難しいが
今日はちょっとしたアイデアを持って
少し期待して子どもたちが来るのを待った

用意したのはA4用紙に、好きなものいろいろ(思いついたものを書いてください)
と但し書きをして、場所、お菓子(和洋)、食べ物(お菓子以外)本(マンガ)
タレントさん、映画、キャラクター、ゲーム、音楽(曲)を書き込めるようにした

「いくつでも良いから、思いついたものを書き入れて!」
まさかここでつまずくとは思わなかったが、子どもたちの関心は思い切り低い
女の子のAちゃんは直ぐに色々思い浮かべながら書き始めたが
男の二人組、GくんもNくんも全く気乗りしない様子
でも書いてもらわないと予定している事ができない
「さ、早く書いて!」と催促をするとGくんは
お菓子、本(マンガ)キャラクター、ゲーム、音楽の欄に一つだけ書いた
Nくんは全く気乗りしないで映画の欄に3つばかり書き込んだ

とりあえず書き終わった時点で、これからすることを説明した
「これから二人に自分が選んだものがどんなに良いか説明してもらう
 例えばお菓子、それぞれがどんなに美味しいかとかを説明してもらう
 言葉だけでも良いし、ジェスチャーを使っても良い(ジェスチャーって何?の声)
 説明が終わった後、どちらのほうが食べたいと思ったかを判定する
 審判役は僕とそれから手伝ってくれてるSさん、それに余っている君たち
 3人いるから必ずどちらかが勝ちか結論が出るよ」
(つまりはプレゼンの戦いだ)

ここからスタートするまでが一悶着、なかなか始まらない
しびれを切らしてAちゃんとNくんの好きな映画のいいところを
説明してもらうことから始まった
最初はAちゃん
「オタ恋はオタクの男の子と女の子の話で、会うとそれぞれのオタクの話ばっかりしていて
 会話が成立しない、そういう中での恋愛の話、最後はハッピーエンドになるみたい」
「出演者は?」(審判役のSさんから質問がでる)
「◯◯!」(自分は知らない人だった)

次にNくんの説明する番、記入したのはアベンジャーズだったが好きな映画として
プレゼンしたのは「ハクソー・リッジ」だった
子供の頃喧嘩をして友達に大怪我させた主人公は金輪際人を傷つけることはしたくない
と思っていたが、かれは第二次世界大戦の沖縄戦に招集された
人を傷つけたくない彼は救護班の役割をしたが、アメリカ人だけでなく
傷ついた日本人も助けた  そういう彼は仲間から批難を浴びたが、、って話

「さ、今まで聞いてどっちが見てみたい映画だと思った?Gくん、さあどっち?」
するとGくんは判断が突きかねているようで、いつまでも悩むばかり
「じゃあ、僕からね、僕はハクソー・リッジのNくん、僕はこの映画を見ていないけど
 見てみたいと思ったよ。次にSさんに聞いてみるね」
「わたしはオタ恋のAちゃん方」
Dくんが「どうして?」と聞く
「出演しているタレントさんが私も好きな人なので見たいと思った」

「さあ、こうなると決めるのはGくんの一言、、さあどっち?」
このときのGくんの表情が面白かった  本当に困っているかのよう
彼の頭の中にはいろんな思いが浮かんでは消えていたのだろう
「さあ、どっち?君が決めれば結果が出るよ」
彼は悩む(何に?)
何か言いかけようとしても思い切ることができない

そんなことが数回続いた後、彼が絞り出した答えは
その知恵に驚くものだった
「面白そうなのはNくんのハクソー・リッジだったけど、
 見たいと思ったのはAちゃんのオタ恋」

何だ、それでは結論が出ないじゃないかと不満よりも、Gくんの二人を
傷つけない気配りが、、少しうれしくなって、「Gくん偉い!」
と言って無理やり結論を出すのは止めた

次はAちゃんとGくんの好きな歌のプレゼン競争
Gくんが「絆」を取り上げて
「子供の声じゃなくて、、大人の歌で、聞いてると元気だ出るみたいで、、」
と少しばかりたどたどしく言う
Aちゃんは「三代目」(?)を推薦して、「声も姿もめちゃかっこいい」
と少し興奮気味に話す

「さあ、どっち?僕から言うね。僕はGくんの方、前向きになれるってとこが気に入った」
次は子どもの審判役のNくん
もったいぶっていたが答える
「俺はAちゃん」
「さあこれで、今度ははっきり結論が出るよ、Sさんはどうかな?」
Sさんが答える
「私はGくん」

Gくんは驚いたようで、そこからでてきた言葉がまたもや面白いものだった
GくんはSさんに向かって
「本当のこと言って!本当のこと言って!」
と繰り返す
「Gくん、そういうことを聞くとは自分では負けたと思っていたのかい?」
「うん」
Sさんがフォローする
「本当にそう思ったよ、子どもじゃなくて進歩した大人の歌と
 言ったところが良かったよ」

でもGくんは自分では納得していない様子だった

と、こんな風に進んだが、決して順調に進んだわけではない
話はあちこちにそれて落ち着かず、予定した企画は
むしろ失敗に近い試みだったと言えるかもしれない

でも個人的には収穫はあったと感じている
それはGくんの性格、穏やかな人を傷つけたくない心持ち、変に同情されるのが嫌い
と言ったものが垣間見れたからだ(話しっぷりは勇ましいが)
この子は子供らしい、いい子だ、、態度に表すことはできなかったり
下手だったりするけど、根っこのところは愛すべき人物だ、、ということが見えた
こういう姿を見ると、少しでも彼らの役に立てれれば、、と思ったりするが
現実の彼らの落ち着きの無さを見ると、、、、
う~~ん、世の中甘くないとも感じたりする

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小木曽真&児玉桃 スペシャル・コンサート

2020年02月12日 08時49分18秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

「小曽根真」
その名前を知ったのはある年のラ・フォル・ジュルネだった
何かの都合で予定された出演者が出られなくなり、そのかわりに代役として登場したのが彼だった
チケットの払い戻しは可能だったが、面倒なのでそのまま替わりのプログラムを聴くことになったが
チケットの払い戻しをしなくて大正解だった
とても面白かった
何という曲を演奏したのか(そもそも曲名があるのか?)わからなかったが
聞き覚えのあるクラシックのメロディが流れたり、圧倒的なリズム感のなかで
即興的に演奏されたりして、その瞬間瞬間は確かに興奮して聴いていたことを今でも覚えている
またクラシック音楽が、今の時代感覚とか空気感と少しばかり離れているなかでは
彼の音楽は確かに「今の音楽」で、忙しいこの世の中の感覚にフィットしていた

「児玉桃」
彼女の演奏を初めて聞いたのもラ・フォル・ジュルネだった
お姉さんの児玉麻里との二人の演奏でメシアンの「アーメンの幻影」のプログラムを聴いた
メシアンは好きな作曲家だが滅多に演奏されることがないので、この機会を逃すわけには
いかず、難解な音楽を全身で浴びるように体験した

この二人、小曽根真と児玉桃の二人のピアニストによる演奏会が昨日、豊橋のプラットで行われた

プログラムは

最初はオーソドックスなクラシックの音楽
次はジャズ
後半は変則的な編成のバルトークの音楽で意欲的なプログラムだ

最初のうちは調子が出ないな
児玉桃さんの演奏を聴いていてそう感じた
マズルカはショパンの曲の中で好きな方だが、この聴きやすさの元となっている感情の流れに従った(?)
曲の構成は、少しばかりつまらないかもしれないと頭に浮かんでしまった
それは次の有名な幻想即興曲にも言えることで、もっと音と音が構築的な方が楽しめるな、、と
演奏ではなく曲自体に不満を持ってしまった
だがスケルツォになると曲が長くなった分、構成も緻密になってきて
おまけに児玉さんも調子が出てきて、感情の高ぶりと演奏が一体化した感じで
やっと楽しんで聴けた気分になった

次は小木曽真さんが登場
座って演奏しだしたのはショパンの前奏曲のなかから葬送風の音楽
でもそれは直ぐに雰囲気を変えて今の人間に直接訴えるものの多い音楽に変わった
4曲演奏したけれど、クラシック音楽のときほど演奏曲の題名には気にならない
同じ曲でもその時その時で演奏が変わりそうだから、そもそも比較の対象にならない
演奏の合間にマイクをもって話す場面があったが、彼がいみじくも発したように
「同じピアノでも奏者によって音がずいぶん違う」ことはそこで大いに実感した

児玉さんの音は憂いをもった音、しかもうちにエネルギーを秘めたような雰囲気
小木曽さんの音は自由な明るい軽やかな音
演奏するジャンルの違いが大きいが、それだけでなく個人の資質によるものなのかもしれない

昔、ドイツとオーストリアを放浪した時、教会でオルガンコンサートを聴いたことがあった
曲目は定番のバッハとかブクステフーデが多かったが、その中にインプロビゼーション(即興演奏)が
いつも組み込まれていた
これが古典を聴いているよりも感情にフィットして印象に残ったが、小木曽さんの演奏を聴いていて
不意にこのことを思い出した
あと小木曽さんの演奏の途中で、セロニアス・モンクならリズムがゴツゴツした
演奏をするだろうな、、などと想像してしまった(集中して聴いていない?)

20分の休憩を挟み、今度は変則的な編成によるバルトークの音楽
現代音楽は通常の録音媒体で聴くのは辛い
ナマの現場でしか20分以上の集中は続かない
特に苦手なバルトークではなおさらのこと
予想したとおり予想がつかない初めて聴くだけでは頭が混乱しそうな音楽
でも生だから集中して聴いていられる
作曲家は個性とか癖があるようで、曲の途中でピアノ協奏曲とか弦チェレを
思い出させるような部分があって、この音楽はバルトークだ!と実感

ということで、田舎の豊橋にはふさわしくないような凝ったプログラムの
個性的な二人の演奏会は、それなりに楽しめた、、というところ

 

 

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