愛知県は野球の県で、ドラゴンズが2年続けて最下位でも
球場の観客は増えているとのこと
テレビ番組もドラゴンズを扱ったレギュラー番組がある
野球はピッチャー以外は体力的にほとんど毎日でも試合ができるし
攻守交代の時にCMが挟めるから
テレビに都合の良いスポーツと言える
野球はその放送量の圧倒的な多さから日本での一番の
スポーツになっているようだ
近所のちびっこも、男3人兄弟の家はみんな野球愛好者
一番上のお兄ちゃんは甲子園に出られる可能性の名古屋の高校に通っている
お母さんによると二番目も同じ道を選びそうらしい
冬になると全国高校サッカー選手権がある
愛知県は出る度に一回戦で敗退していた
この県は運動神経のいい子はみんな野球に行ってしまうから
サッカーで勝ち残るのは難しいのかな、、とも思っていた
先日、今年も一回戦敗退かなと思いつつ
名古屋高校と日章学園との戦いの中継を見ることにした
見始めたのは途中からでスコアは0−1で名古屋高校が負けていた
愛知県のチームはやっぱりこんなものか?と思っていたが
テレビ解説では名古屋高校のロングスローが注目との声があった
すると、いきなりめったに起きないことが目の前で繰り広げられた
ロングスローから名古屋の選手のヘッドで同点に追いついたのだった
最近の高校サッカーはこのロングスローからの攻撃が多い
コーナーキック並みなチャンスの機会となっている
(より体力のあるJリーグではそうしたシーンが少ないのはなぜだろう)
珍しい、、追いついたか
同点になったのは評価できるが、まだ疑いの目で試合を見ていると
思いのほか守りがしっかりしているように見える
ラインが揃っているし、気持ちも集中しているように見える
時々あった攻撃も徐々に押されて守り一方になってきたが
こういうときの守りを破るのは難しい
守れると思い込んだチームはリズムに乗ってやることなすこと上手くいく
結局、80分では決着つかず
勝敗はPKで決めることとなった
こういうときサッカーの神様は、なぜが今まで頑張ってきた選手とか
中心選手に残酷な結果を経験させることが多い
名古屋学園の選手はみんなPKを決めていたが
注目の日章学園のストライカーが止められた
(やはりこうした運命か?)
確かに試合の途中から攻められてはいたが、運とか勝負の流れは
名古屋の方に傾いていた様な気がした
名古屋学園が思いの外現実的な戦い方をしていたと思うが
愛知県人として喜ばしかったのは、一回戦を突破できたこと
何年間も負けてばっかりだったので、PK戦だったとはいえ
結果オーライで見終わったときは少し高揚感があった
ということで愛知県代表の名古屋高校は、今日大晦日に2回戦がある
(相手は北海道の北海高校)
東三河の自分にとって名古屋は純然たる地元ではないけれど
ハラハラしながら応援できる日が長く続けば良いと思う
交通機関の混雑とかスーパーのチラシの気合を見ると
お正月は日本の一番のイベントと思われる
去年のことは新しい年にチャラにしてはいけないことも多いが
何となく気分が変わるのはわかる
来年は辰年
昔、京都のあだしのまゆ村で購入したものを思い出した
繭で作った辰だ
写真の隣に並ぶのは同居人の大好きなフクロウ
黴とか何かでもう駄目になっているかと思ったが
案外根性で(?)そのままを保っている
柱とか梁はお正月の飾りが賑やかに自己主張をしている
それらはあっという間に片付けられる運命だが
去年と同じことができる幸福を感じることができる
さて今日のお仕事はチラシを比較して、安い店に行って
いつもは遠慮している少し高めの食品を購入すること
でも食べる方も飲む方も少なくなってきたし
正月の来客もそれぞれの家庭の都合ですぐに帰ってしまうから
それほどの量はいらない
昔はお正月は店は休みがほとんどだった
そしてそれでそんなに困ることもなかった(と思う)
日本の一番のお正月(イベント)を家族で一緒に体験できないで
商業的な都合に左右されるのは、自分は以前から反対だった
ライバル店がどう出るからわからないから、自分のところも営業する
資本主義は競うことによってより消費者ニーズを満たしていくとされているが
「競合他社は何を仕掛けてくるかわからない」怖さとか不安が存在する
(シュンペーターの実感では)
無謀な仕掛けはいつかは淘汰されるとしても、その間に犠牲となるものは存在する
それも仕方ないとあっさり受け入れることはどこか違う気がしている
難しいことはさておき、お正月の商業的な営業はなくてもいいかな!
そしてコンビニの24時間営業もなくていいかな!
と田舎のおっさんは思う
大阪は変わってるな、、と他所から見ると思う
阪神への愛情はマゾっぽいようなところも含めて異様だし
維新に対する支持も、あれだけいろんな問題を起こしているところを
見るにつけ、メディアが後押ししているとはいえ理解できないのが本音だ
以前は大阪の代表的な存在の吉本新喜劇が好きだった
でも今は見ていない
以前と比べて安心して見ていられる様なところがない
つい昔を思い出すと時間の経過を感じてしまう
数ヶ月前の新聞記事にはおばあさん役の桑原さんの死亡記事が片隅に載っていた
数年前に亡くなった島木譲二さんを自分は大好きで
舞台ではいつも同じことをするのだが分かっていても笑ったし
とてもほっこりした気分になれのだった
人相とは違って、やさしそうな彼の人柄が滲み出ているようで
この人、本当にいい人なんだろうな、、と勝手に思っていた
吉本の笑いは変質した、、と根拠もなく思う
いつもヤクザが出てきた新喜劇
そのヤクザもどこか抜けていて、それらの人々が暮らしていける大阪は
懐が深いというか、ある意味世間を反映しているような気がしていた
でも、自分が年令を重ねたせいか今の吉本新喜劇の笑いについていけない
(松本人志のような笑いにも)
何かキツイのだ(攻撃的な感じがしてしまう)
そして、フト吉本は関東(東京)の影響を受けているのではないか?
と思ったりする
自分はお笑いはほっこりする様なお笑いが好きだ
落語の「文七元結」「芝浜」「井戸の茶碗」などは
時代劇の勧善懲悪のような予定調和の世界で(安心して聴き終えられる)
この話を見聞きした人ならきっと感じる「人の善性」は
安心感と社会としての調和を体験することになるだろう
仏教の和尚さんが人に向けて生き方を語る場所を高座といって
落語の高座というのは、そこから来ているらしい(?)
つまりは笑う場所だけでなく、教育的な要素もあったらしい
ということで、お話は、特に年末年始に体験するそれらは
明るい希望に満ちた話が良い(教育的にも)
ドイツではこの季節にモーツァルトの「魔笛」が上演されるのが定番だそうだ
確かに魔笛の肯定的な「それで良いのだ!」と思わせる内容は
ドイツ人でなくても適切な出し物だと思う
ちょいとネタ切れ気味のこの頃、やっとやっとで日課終了
大好きな落語「井戸の茶碗」はこんな話↓↓
古今亭志ん朝「井戸の茶碗」<有頂天落語>
昨日、やっと重い腰をあげた
年末恒例の大掃除だ
いつも電気掃除機をかけて、それなりの掃除はしているが
梁などの高いところはやっていない
夏休みの宿題は最後の日まで残しておくタイプで
ようやく取り掛かったが、早めに片付けたい同居人は待ち遠しかっただろう
2階から脚立を出して高い場所から煤払いを行う
今年もこの季節が来たか!と、思いながらも調子が出てくるまで時間がかかる
天板には乗らないでください!と脚立の仕様書には書かれているが
そこに登らないと届かない場所があるので
近くの固定された何かを掴みながら作業を行う
フト、感じ方の変化を感じる
脚立に登るのが少しづつ怖くなっているようだ
大した高さではないが、えらく慎重に上り下りする
そういえば、塀の上に立って伸びすぎた庭の木を剪定するときも
大した高さではないのに塀の上に立つのが、どことなく怖い気もしている
昔なら塀から地面に飛び降りることもできたのが
今は膝の力を信じることはできず、元気よく飛び降りるなんてことはしない
歳のせいかなと思われたのはこれだけではなく
昨年はもっと丁寧にやっていたと思われる大掃除も
今回は少し大雑把になっている
気合を入れて一年のホコリを払う掃除!というのが去年まで
今年は、ざっと一通り払うだけで良いや!と横着している
そしてそれは自分だけでなく、きれい好きで口うるさい(?)同居人も同じだ
だんだん横着になるね!
そんな声がお互いの口から出る
大掃除も、5月人形を飾ることも、お盆の提灯を飾ることも
また来年!が当たり前に思われていたが、お互いの残された時間を考えると
もしかしたら最後の機会かもしれないと思うようになってくる
生活の上のこうした面倒くさいこと、それを共同して行う
それは実は生活を愛するということかもしれない
毎日繰り返す家事や日課
それが疑いもなく明日も続くというのはきっと幸せなことだ
毎日が非日常のガザ地区やウクライナの人々を思うと
本当になんとかならないものか!と思う
おそらく今年読んだ最後の本になるのが
「平安人の心で源氏物語を読む」山本淳子
来年の大河ドラマの予習を兼ねて手に入れた
多くの人が死ぬ戦いのシーンでは落ち込みそうになった今年の「どうする家康」よりは
紫式部がヒロインの来年の大河ドラマ「光る君へ」は安心して見られそうだ
今でも思うが、読んでおいてよかったと実感するのが「源氏物語」
(現代語訳で瀬戸内寂聴さんのもの)
ストーリーは浮気者の光源氏の話と思いきや、女の品定めとか嫉妬とか悪霊が出たり
年増の女性をものにできるか、、などというとんでもない話もあれば
父として息子にかける思いとか、母の子どもに対する思い
恋愛の上では結果的に光源氏がしっぺ返しを受けるようになる話やら
まるでトレンディードラマのような宇治十帖など、、
そしてその時代のしきたりや趣味などがとても面白くて、
なるほど、これが後世に残るのは十分理解できると思ったものだ
この本は解説本だが、読む前にこの本に接するよりは一通り物語を読んだあとに
読む方が良いと思われる
自分は源氏物語を雑な読み方をしたと思っていたが、この本を読んでみると
思いの外いろんなことを覚えていたことに驚く
これはゲームを解説本の力を借りずに試行錯誤でクリアしたほうが
覚えているのと似ているかもしれない
そして予想外に覚えていたことは、ちょいと誇らしい気もした
それにしても深読みとか味わい読みというのはあるもので
ずっとこの分野に関わっていた専門家の解説は興味深い
タイトルの「平安人の心で」というのは、源氏物語が「あの話か、、、」
と当時の人は想像できただろうという思いのもと解説されている
あの時代の人達には冒頭の光源氏のお母さんの桐壺の存在は、当時の一条天皇の定子
(清少納言が女御として務めていた)に対する思いを想像させるものだったようだ
そしてそれは定子の辞世の和歌
「知る人もなき別れ路に今はとて 心細くも急ぎたつかな」
(知る人もない世界への旅たち この世と別れた今はもう
心細いけれど急いでいかなくてはなりません)
と、桐壺の辞世の歌
「限りとて別るる路の悲しきに いかまほしきは命なりけり」
(もうおしまい。悲しいけれど、この世とは分かれて旅立たなければなりません
私が行きたいのはこんな死出の道ではない、生きたいのは命なのに)
がどこか似ているテイストなのは、著者によれば偶然ではないらしい
ところで、ゆっくり味わうべきかもしれないこの本だが
今年の傾向で焦って読んでしまいそうなのが不安
何かに追われている訳ではないのに、何故焦っているのだろう
それなりの人生経験を積んだ人は、ものごとが上手く行かないとか
思い通りにならないことの方が、その反対より圧倒的に多いことを知る
でもほんの僅かだが(神様からの)プレゼントのように上手くいくことがあると
その体験は高揚感を覚えて印象に残り、再度同じような思いをしたいと思うようになる
こうして上手く行ったときとか、成功体験は前向きな生き方へのきっかけとなる
小学生に鉄棒の逆上がりの授業があるのは、子どもたちに努力すればできるようになる
との成功体験を持たせるためだそうだ
ただし、ラッキー(うまくいくこと)はそれなりの頻度で現れないと
前に進む意欲などは覚えないかもしれない
それを暗示させる変な実験がある
小さな魚とそれを捕食する大きな魚を一緒の水槽に入れて
真ん中に透明なアクリル板を設置しておくと
最初のうちは大きな魚は小魚を食べようとするが
しばらくするとアクリル板のせいで上手く行かないことを学習する
そこで、次にアクリル板を取り払って観察すると
大きな魚は小魚を捕食できるにも関わらず
アクリル板で仕切られた時に染み付いた感覚のせいで
本能を発揮することはないという
(これは収容所に隔離されたユダヤ人は、なぜ数の少ないドイツ人に対して
暴動をおこさなかったのかとの疑問をつい思い出してしまう)
つまりは、それなりの好ましい結果はある程度の頻度であることが
次のためにも必要ということだ
ところで、人とか社会が時間をかけて身につけた実感(知恵)には
長期政権は独裁に繋がり、結果的に腐るというものがある
どんなに素晴らしい人間でも支配者の立場に長くいると
そのポジションが持つ全能感の快感から逃れられず
結局は独裁につながるというもので
これは社会の知恵として書物に書かれ、制度としても長期は避けるようになっている
だが、こうした例があるにも関わらず日本の現在はこのようになっていないのではないか
依然として少数の人たちの長期の運営に任せている
日本は経験に基づく知恵とか、社会が多大な犠牲を払った後に得た知識を
現実世界に上手く活かせていない様に思えてしまう
社会を上手く回すには、庶民が無理にでも違う支配層に任せてみるのも
1つの知恵かもしれないと思ったりする
経験のない人々に任すのは心配の声が挙がるのは当然だが
行政の連続性は現場の人々によってある程度確保されるだろうから
さほど心配はいらないとも思える
(明治維新も現実は幕府の多くの官僚の活用によって
問題解決がなされたところもあるようだ)
また取って代わられた旧支配層は挽回するために必死に工夫をし
有効な政策を考え、支配層に批判を行い自力をつけるべき行動をする
つまりは「案ずるより産むが易し」というのも人々が手にした実感
のんきに盲信してはいけないが、それでもそれにかける気持ちとか
覚悟も必要と思われる
ところで、いい歳をした大人は思い描く理想の結果を求めるにも時間がかかる
と諦めにも似た感情を持ちながら、今できることをする(それしかできない)
だが経験の少ない若者は、すぐに理想は達成されるべきと焦ってしまう
そこには人間の持つ弱さとか情けないところは考慮されず
理想化された人物像がイメージされているからと思われる
急激な変化は是か非か?
は年齢によってその判断は変わってくる気がする
(一体何が言いたいのか混乱してきたぞ!)
混乱してきたのでこの話は一旦休憩
今回伝えたかったのは、人が時間をかけて身につけた知恵は
もっと有効に使えたら良いな!と思ったということ
まとまらない話
6時少し前
あと5分!
温かい布団の中でそう思う
同居人が早起きし、使命感をもって決まった作業をする音が聞こえる
5分では眠ることもできないが、それでも目を瞑って寝ようとする
それは無理だと思うと今度は何かを考えようとする
人と話すことは多くなくても、自分と話すことは多い
生活は日常の作業とか、何かに反応することの他に内面の生活がある
大げさな難しいことを考えるのではなく、ただ感じるというのも
内面生活の一部だ
布団の中で見たフォローしている人のツイッターが気になった
「「心穏やか」でいたいから政治には関わりたくない
発言したくない、見たくもないという人が多い。
そういう人たちにとって、政治に関して問題提起したり
文句を言ったり批判をする人たちは「意地が悪い」人物に見えるらしい。
こういう人たちは、基本的に「心穏やか」でいたいから権力側に味方する。」
なるほど、これは言えるかもしれない
「善人の沈黙」という言葉とかハンナ・アーレントの「全体主義の起源」の
こうした無関心層が全体主義を支持した形になってしまうとする分析にあるように
自分らが経験する現実社会でも、なにか問題提起をする人は意地が悪いと思われる傾向にある
ただ無闇に文句を言っているのではなく、詳しく説明すれば分かってもらえることは多いが
それには1対1での説明が必要になる
1対多では話の仕方が雑になる
1対1、あるいは1対3くらいまでは丁寧な説明ができるが、それ以上になると
どこか単純化してわかりやすさだけを求めてしまう
(あるいは誰々が悪いと結論づけることが多くなる)
どうやって丁寧に個人に説明していくかなどと考えていると、起きる時間が来た
睡眠時間は8時間ほど
寝不足はありえない生活だ
記憶が定かではないが、なんとなく覚えていることに勇気の国別の違いがある
あまり褒められた話ではないが、自爆兵器、回天の任務を命じられた人間の反応を
日本人、ドイツ人、イタリア人を取り上げている
日本人は命令される前に自ら志願する(ようなものだったかな)
ドイツ人は上官の命令は守るべきとの秩序に沿って恐るべき兵器に乗る
ところがイタリア人はこの命令を発した上官を殴る
「こんなことできるか、馬鹿野郎!」
そしてこうつぶやく
「どうだ、イタリア人は勇気があるだろう」と
時々考えるのは、日本は何故戦争に邁進してしまったのだろうということ
年上の知人の奥さんが親に「何故、戦争反対と言わなかったのか」
と聞くと、親御さんは「そんなこと言える雰囲気ではなかった」
と答えたそうだ
その時代を体感していない後の人間が、当時の人間を批判するのは
少しばかり公平ではないが、それでも親御さんの方便はよろしくないと思いたい
だたそのようなことはあっただろうとは想像できる
イタリア人の勇気と日本人の勇気
どちらが本当の勇気なのか
深刻な事態になればなるほど、イタリア人的な勇気は発揮できなくなる
きっと勇気は発揮しやすい時に発揮した方がいいと思われる
デモをしたことのある人は、デモ行進を眺める人を観察できる
その時に感じるのはこのテンションの違いはなんだろう?ということ
デモで反対の意志を示すことがとて重要なことと思っているが
眺める人はそうした問題意識は全く無関係と感じているどころか
変わった人たちくらいの感覚で見ているようだ
勇気はちょっとしたことから発揮しやすい
聞いたところによるとフランスのデモはゆるいものらしい
途中から参加して、ダラダラと歩いて、適当に抜ける
彼らの目的は方向転換を求めるだけでなく
進めようとしている方針に反対する人がこれだけいる
ということを視覚的に示すのが目的らしい
そのくらいの気持ちの表現のかわりなら、おとなしい日本人もできそうな気がする
それこそ勇気を振り絞らなくても、ちょっとした恥ずかしさを我慢すれば、、
ということで、ことが大きくなる前に些細な行動(デモ行進)から
始めると良いな、、と思ったりする
ところでこの地区では上映されないが「ヤジと民主主義」という映画があるそうだ
北海道で選挙演説に来た安倍さんらに対して政権批判のヤジをした人たちが
警察に排除された様子を描いているようだ
これは当時話題になったが、そのうちの一人は警察にコンビニまで
しつこくつきまとわられたとの声も耳にした
こうして少しづつ勇気の発露ができなくなっていく
過度に深刻にならず、自然法に基づく倫理観とか正義感で自らの考えを
人に示すのは良いことだし、もっと気楽にできればいいと思うのだが、、
※映画『ヤジと民主主義 劇場拡大版』公式サイト (yajimin.jp)
夜のテレビ番組はクイズ番組が多い
たいして見たくもないが同居人と一緒の番組を見るのは
残された時間を思うと大切にしたい気持ちもある
どのクイズ番組も出場者が似かよっているので
番組によってわかるはずの曜日が混乱している
何故、どの局も同じような番組ばかりを作り続けるのだろう
と不満はさておき、番組を見てつくづく実感することがある
それは年齢を重ねたゆえの仕方ないことかもしれないが
クイズの答えに対する反応に瞬発力がないことだ
この問の答えはわかる!と内心思っても
その答えが出てくるスピードが鈍い
出演者の反応の速さにはついていけない
もう一つは、最近の情報に全く疎いとうこと
芸能人情報を始めとして最近流行っている音楽も知らない
現役世代では当たり前になっているような情報も頭に入っていない
そしてもう一つ、関東地区(東京)の情報はほとんどわからないということ
自分は愛知県の人間で関東に出かけることはめったにないので
関東地区の地名を聞いてもその場所がどこかイメージできない
愛知、岐阜、三重、長野県ならば地名も観光地も寺社仏閣も
なんとなくわかるが、山手線の駅だとかビルの名前を聞いてもさっぱりだ
(その他、栃木県、群馬県、千葉県、茨城県についてはほとんど何も知らない)
結局のところ、番組は関東の人中心で作られていて
そこに住んでいないとすぐにはわからない問題ばかりだ
と自分ができなかったことに対する言い訳を思いつく
ということで、老化を少しづつ感じるのだが
先日、自分の感じ方の変化に驚きを覚えたことがあった
それは久しぶりにマーラーの交響曲3番をレコードで聞いた時のことで
(レヴァイン指揮 シカゴ交響楽団)
長い第1楽章を聞いていた時、不意にこんなにスカスカの曲だったのか?
と思えてしまったことだった
スカスカというのは中身がないということで
読後感とか聴いたあとに何も残らない、、という意味合いだ
最近はバッハの緻密な音楽とか
モーツァルトのひらめきと完成度の高い音楽とか
ベートーヴェンのモチーフを徹底的に使い尽くした濃密な音楽を
聴いてばかりいるので、その反動としてちょいとイージーな音楽は
物足りなくなっているのだろうと自分でかってに結論づけた
マーラーは全人格的に戦っている姿を音楽に反映させている
と語るひとも少なくないし、かつて自分が若いときは
そんな気持ちで彼の音楽を聞いていた
ところが、最近は全く縁遠くなった
感情の直接的な発露はちょいと恥ずかしい、、と思えるのだ
(京都人の傾向もそうらしい?)
縁遠くなったのはチャイコフスキーもそうで
あんなにメロディ中心主義はちょいと恥ずかしくてついていけないのだ
ということで、年齢の変化による反応速度の違いとか
感じ方の違いはあるもので、それらを受け入れていけないとあかんな!
と思うこの頃
昨日は新城市議会最終日で議案の議決が行われた
提出された議案に賛成か反対かを多数決で決める重要な日だ
といっても提出された議案は考えるまでもなく認めるしかない
ようなものが多く、手続き上の儀式みたいなものだ
採決を要する議案のなかに市民からの請願がいくつかあって
その請願について議会として採択か不採択か、それとも別の判断かを
決定する採決があり、少し前から一部の仲間内では盛り上がっていたので
傍聴に出かけた
傍聴するには氏名・住所等を記入して許可書をもらうことになっている
一般質問のときは途中から傍聴しても2番目とか3番目(もう少し多いときもある)
予算決算委員会はもっと少なくて1番か2番
ところが昨日の本会議は開始から少し遅れただけだが
手渡された番号札は24番だった
多い!何故なんだろう?
最初に思ったのはこのことだが、すぐにその理由はわかった
大半の傍聴者は作手地区の人で、作手に計画されている風力発電に対して
健康・騒音等の心配があり反対の考えを持っている人々だ
(彼らは反対の署名活動もしている)
再生エネルギーの活用は必要なことだが、人間のすることはどこか抜けている
風力発電に関しては低周波の健康被害、騒音被害も現実に各所で見られ
国会でもその問題について何年か前から問題視されている
請願は作手地区の区長さんが20名連名で、地元出身の議員さん2名が
紹介議員という形で議会に提出され、この案件いついては
本会議に先立つ委員会で全会一致で採択すべきものとして可決された
ただし委員会で議決されたものは議員全員が出席する本会議で議決されることで
その請願は効力を持つ
問題は全員の議員さんが請願の採択に賛成するか?という一点に絞られた
現実世界は人には個人の歴史や生き様や価値観があり
みんなが同じ考えを持つことは難しい
また、そうでなくても理屈をこねればどんな意見も存在する
こうあって欲しいと望んでも、それが全員で合意を得るのは難しい
この重要な請願は趣旨採択4名、採択13名(議長は多数決に参加せず)で
採択されることになった
採択が正しい選択かどうかは別問題として、きのう強く感じたのは
傍聴席が多いと議場の雰囲気は随分変るという事実だ
採決の前には討論というものが行われる
予め発言する手続きをした議員さんが、議案に賛成する理由はこれこれだとか
反対するのはこうした理由があるからだと自説を述べる
この時、傍聴者が少ないときとは全く違う緊張感が会場に満たされた
大半の作手から傍聴に来た方々は、請願の採択を願っているので
それ以外の判断をする討論(趣旨採択)には不満を覚える
この趣旨採択への討論が説得力のあるものであれば
いろんな考え方があるものだ!で落ちつくところだが
請願者側から見れば事実誤認とか議員の勉強不足としか思えないようだ
昨日の議会で一番良かったのは請願が採択されたことではなくて
傍聴に来た人たちが議員さんのキャラクターとか思考傾向、
知力を理解することができたことと自分は思う
風力発電の請願以外にも議案に対する賛成・反対の討論があって
そこでは全く会話が成り立たない(としか思えない)理屈が
数人の議員の口から表にでたが、そのときは傍聴者からは失笑が出た
それらを含めて傍聴者に現在の市議会の実態を自分の目と耳で実感できたこと
これは今後にも生きる経験だと思いたい
政治に無関心な人はいても、無関係な人はいないといわれる
しかし、政治に係るのは面倒で一歩間違うと諍いも生じてしまう
だから本当は関心を持つべきことにも自らはタッチせずに
誰かにお任せするということは多い
実際のところ、自分が現状の問題点を知人にお知らせに行くと
自分らのような活動をしている人がいることはありがたいと思うし
大切なことだと思うが、申し訳ないが自分は同じように行動できない
とこぼす
そう言う彼はやる気のない無責任な人物か?といえばそうではなくて
おそらく大半の人々は同じだと思う
自分の尻に火が点いたときだけ必死になる
残念ながらこれが実態だと思われる
自分の尻に火がついた時に立ち上がるのは遅すぎるので
本当は前もって想像力を働かして動くべきが正論であったとしても
現実は誰か(議員や首長)にお任せし、それ以上の何かをしない
というのが今の世の中のように思える
ただ何事にも「きっかけ」は必要で、今回の傍聴した人々の中に感じられた
違和感とか不信感とか不満は、彼らの今後の市政に関する行動へのきっかけになって
何らかの影響を与えるものと思われる
自分以外の誰かにやってもらうのではなく、自分たちで何かをしようとする
それをするために現行制度を把握する、、、
そんなことができたのではないか!と期待を込めて考えた次第
これが持続するものであってくれれば良いのだが