パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

敬愛なるベートーヴェン

2006年12月31日 16時51分52秒 | Weblog
この映画、全くベートーヴェンのトリビュートものだ
(当たり前?)
楽しみ方と言えば、バックに流れている曲は
何だろうと想像することだが
改めてベートーヴェンの音楽はただ事ではないと思われた

特にそんなに滅多に経験することの出来ないくらいの大音量で
カルッテットやオーケストラ曲を聴くと
その密度や良さが深く感じられた

映画の冒頭に流れ、中心的な意味のある
大フーガは今でも自分にとっても難曲だ
後期のカルテットが渋いのは分かっていても
14番や15番にはおいしいところが
少しはあるのに、この曲はひたすら渋い!
フーガが難しいと言うのではなく
言わんとするところが難しいのだ

同じ変ロ長調のハンマークラビィーアソナタの
フーガの楽章も、ものすごいエネルギーに
あふれているにはわかっても
(その作曲技法の凄さはわかっても)
楽しむとか、分かった、と実感できない感じがする

それから第9の初演のシーン
不意に昨年ラ・フォルジュルネ・オ・ジャポンの
ミサソレムニスを聞いたときのことが思い出された

確かに第9は、ミサソレムニスとトーンが似ている
(多分精神的な)
とにかく音に意味が詰まっている
音にそんな風に意味をこめることが音楽の全て
とは思わないがベートーヴェンはそのようなタイプの
作曲家だったようだ

そのような作曲家に対する
普通の感覚の多少技術のある女性作曲家が
写譜係りをして、その二人の間に起きる
出来事を甥カール、彼女の恋人との
エピソードを交えながら描いていったものだったが
見終わって残ったものはやはりベートーヴェンの
音楽だけだった

そう言えば昔見た
「眺めの良い部屋」と言う映画にも
ベートヴェンに関する話が出てきた

主人公の女性がベートーヴェンのピアノソナタを
弾いていると
「ベートーヴェンを弾くような子は、、、」と
すこし離れたところから彼女を見ようとする人たちがいた
それが何を意味するかは分からないが
「ベートーヴェンを弾くような子は、、、」の台詞だけは
印象深く残っている

だから話は変わるが
児玉麻里がベートヴェンピアノソナタ全曲演奏の
やってるのを聞いたとき
この人もベートーヴェンを弾くような人なので
大変な世界に引き込まれてしまった人(?)と思ってしまった

ずいぶん話は逸れてしまったが
いずれにせよ年末だからだったり
のだめでトレンディーだからと言うのではなく
ベートーヴェンはその残したものが
その時代も、後世も、そして今にも影響を
与えているのが分かるような気がする

この映画の主役はベートーヴェンでもアンナでもなく
ベートーヴェンの音楽だった
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気が緩んだら体調が、、、

2006年12月30日 18時51分22秒 | Weblog
今日から仕事は休み!
だから早起きの?自分もゆっくり寝床にいたのだが
貧乏性はいつもの習慣は抜けがたく
いつまでも寝ていることは苦痛だった

ところが起きたものの何もする気が起きない
大掃除は今年は訳あって
そんなに必死にならなくていいのだが
だからといって買い物や遊びに行く気のもならない
それどころか少しすると横になっている自分を
度々思い浮かべてしまった

そういえば昨日夕方から脚や肩、腕の関節が
緩んでいるような、、、

恐れていたことが来てしまった?
ホッとしたから今までの疲れが一気に出て
風邪をひいたのかもしれない

何年か前もそうだった
年末から新年にかけてお腹の調子が悪くて
おいしいものも食べられず
ベッドとトイレの往復ばかりして
休みを終えたことがあった

そのことが頭をよぎった

仕方ない、体の欲することをするとしますか!
(つまり、ひたすら寝るとしますか!)
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餅つき

2006年12月29日 21時37分21秒 | Weblog
昔、この辺りでは30日になると
ペッタン、ペッタンと餅をつく音が聞こえたり
米を蒸す匂いが漂っていたりした

そんなことを急に思い出したのは姉が母に
餅つきの仕方、お米の蒸し方を聞きに
電話してきたからだ

孫に餅つきの経験をさせてあげたいと
我が家にあった小さな臼と杵を持っていったのだが
残念ながら具体的な方法が分からずに電話してきたのだ

餅つきは当事者である母や祖母にとっては
面倒で厄介なものだったかもしれない
だが子供だった自分や妹は
年中行事の中でも楽しいものの一つだった

よく練ってつき始めると順番に
少しだけつかせてもらっていた
そして最後の臼になると
生餅を大根おろしとか
大根おろしに納豆を混ぜたものを
我先にと食べたものだった

また、のし餅にするばかりではなく
あんころ餅を女性陣が、ままごとするみたいに?
ペチャクチャしゃべりながら丸めていた

楽しかったなあ
こんな感想は同時代の人間はみんな口にする
確かに今でもあの時の雰囲気は
匂い、音までもが浮かぶようだ

とすると、餅つきは実用的な
餅を作るというだけではなく
むしろ家族共通の思い出を作る
行事となっていたようだ

面倒だから餅は買ってきて済ませてしまうのではなく
面倒だけれどワイワイ言いながら
みんなで参加するような餅つき

商店街やスーパーのイベントではなく
家族で旅行するのと同じレベルで
思い出作りに餅つきは
今のようなコミュニケーションが希薄な時代には
良いキッカケになるような気がするのだが、、、

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ヒッチハイクはどちらも不安!

2006年12月28日 20時36分34秒 | Weblog
昨日は朝に、今日は帰宅途中にめったに見ることのない
ヒッチハイカーを見かけた
ところが意地悪いわけではないが
乗せてあげようとは正直なところ思えなかった

この年末の時期お金に関する犯罪が多く発生する
引ったくりどころか強引な強盗まで!

そのことが頭をよぎった

ヒッチハイカーは運転手が悪い人だったら
などと考えないのだろうか?
また、運転手は自分(ヒッチハイカー)が
悪い人だったらと不安になることを想像しないのだろうか?

そんな風に考えるとヒッチハイクが
(学生たちの足として)当たり前のように
出来ていた時は平和な時代だったのだと思う

今は人の善意が素直に発揮できなかったり
受け取ったり出来ない時代なのだろうか
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美空ひばりは歌が上手い?

2006年12月26日 21時08分26秒 | Weblog
ずっと昔、祖父母も二人の叔父もいて
10人家族だった頃、
祖母が多分紅白歌合戦を見ていて
「ひばりは歌が上手い」
と突然に言い出した

その後でやはり多くの人が同じようなことを言うのを
聞いたりしたのだが
いったい歌が上手いってどういうことかな?

音程、リズムががしっかりしている?
音量、音色のコントロールが自由自在?
感情表現が優れている?
曲(詞)の解釈に説得力がある?

美空ひばりはいったいそのどれに該当するのだろう
もしかして、全部?
別にそんなことを考えてどうって事ないのだが
美空ひばりの歌を聞くとき、自分はいつも
その「集中力」「歌の濃さ」に
他人と違うなと感じている

「りんご追分」「佐渡情話」「悲しい酒」などは
その例で、結構好きな歌だが
「お祭りマンボ」などは
リズムの乗りがいいのに感心してしまう

ところで、今の上手い歌手って誰だろう?



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たくましさに欠ける今どきの子。

2006年12月25日 21時14分29秒 | Weblog
昨日は幸いにしてサッカーのゲームで
怪我をする子がいなかったが
そういえばこの頃の子は、、、と思う事が
練習中にはしばしばある

一つはチョットした傷にやたら神経質になっている事!
ゲームをすれば(まして小学校のグランドで)
たまには転ばされてしまう事もあるのだが
その時、膝や肘に擦り傷をつけてしまうと
それがほんの少しで、僅かにほんのり赤くなっている程度でも
「コーチ、ここがこんなになってる」
と不安げに言い寄ってくる
「痛いのかい?」と聞くと
「ううん」と答える
「だったら我慢してごらん」と諭して練習を続けさせるのだが
これが一人や二人の話ではなく頻度が高いのだ

自分たちの子供時代は擦り傷、切り傷なんてものは
万度だったような気がする
今でも自分の右肘には薄く傷跡が残っている
しかし、それを痛がったり恐れていた記憶等はない

比較だけで問題視するつもりはないのだが
事実として、ひ弱になっている印象は否めない

それは今の子が怪我をするような遊びをしなくなった所為だろう
外に出て走り回ったり、木に上ったり(したとしても、木登りは本当にへたくそだ)
相撲をしたり、鉄棒遊びをしてる子を見かける事は少ない

だから怪我という滅多にない体の異変にショックを受けるのだ
つまり慣れていないだけの話だ
彼らは痛いというより、体の変化に不安を感じているだけではないのか

自分はなるべく意図的に我慢しなさいという事にしている
「ゲーム中に怪我で欠けてしまうと負けてしまうかもしれないよ、
 我慢できるなら頑張った方がいいのじゃないのかな
 でも、どうしても痛かったら、その痛さはコーチには分らないので
 自分で判断して続けるか休むか決めなさい」と

そういえば今の子は、前転の下手な子も多い
わざと土のグランドでアップの段階で前転をさせるのだが
柔道を習っている子以外の子は嫌がってなかなかやらない

ゲームの終わった後に
「どうだった、試合の最中は夢中になって転ばされたりする事が
 たくさんあるだろう!だから始めに前転でけがしない様に
 転ぶ練習をしてるんだよ」と言うと納得の顔で次からは
渋々ながら勢いよく前転する様になった

なんだかな、
どうにも野性味に欠けるというか
たくましさに欠けるというか
もしかしたら、子供らしさに欠けるというか
何か違っているような気がしてならない

子供たちにとって今必要なのは
自然児としての野性味ではないだろうか
(感覚も運動神経も)
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勝ったことよりも嬉しかったこと

2006年12月24日 19時41分08秒 | Weblog
子供たちのほてった顔
力を出し切った充実感のある顔
そして自然とにじみ出るうれしそうな顔

今日は恒例地元のチーム同士でサッカー交流戦
おおよそ学年ごとに別れ
1年生から6年生までみんなが試合を経験できる大会で
今年の2回目

自分の担当は上から2番目のチーム
しかし6年が少なく5年生が6年のチームに
入ることになってチームは4年生が
5年生、4年生の混合チームと戦わなければならなくなった

今年の4年生は不思議なくらい粒が揃っていて
一人ひとりが結構ボール扱いが上手く
多分同じ学年なら相当なことは出来るだろうと思っていた

しかし体力差はいかんともしがたく
善戦はしても勝つまではきついかなと思っていた

おまけにこの交流戦はいつも試合に出られない子に
チャンスを与える大会で
勝つためだけのスタメンはしなかった

だから子供たちにも不安や
コーチは勝つ気があるのかと疑問だったかもしれない

しかし自分はいつも選手を選ぶとき(この大会の)
一人ひとりがもう一歩がんばらないと上手くいかないような
選手起用をしている

勝つだけだったらいつものように
点取り屋と前の数人でゲームをしてしまう
メンバー構成にするのだが
今日は前に女の子、少し自信を失いかけのやさしい子
そして前にいくスピードはあるのだが
最後の一歩でミスる子を置いて
中盤にキープ力のある子を揃え
バックは読みの良いミスの少ない子に
(彼らは前をやりたいやりたいと言っていたが)
我慢してやってもらった
(しかし自分はバックスの攻撃参加は
決して禁止しないどころか
自分の判断でやっていいことにしている)

2試合行ったが最初の試合は
最初点を取られたが3点とって逆転
もう少し楽に勝てるかなというゲームだった

次の試合は
ゲーム慣れしているボールの動かし方をするチームで
学年差のことと練習量の差もあって(我々は週1、相手は週2)
チョッときついかなと思っていた
反面、今までの自分の指導方法がどのくらい効果的であったかが
見られることもあって楽しみでもあった

自分の指導方法?
4年3年の25,6人をまとめてみる練習は
子供たちの大好きなゲームをするときも
フォーメーションは全然決めない

子供たちは好きなところを自分勝手に
ボールを追いかけても良いとしているのだ
だからこの学年でよく見られる
ゴチャゴチャになっても広がれとは言わない
自分で打開する力をつけさせるため
体の使い方、当たりに、1対1に強い子供を作るために!

そして最優先事項はボールを前に運ぶこと
必ずしも綺麗なパスではなく
いけるところまでドリブルで行くようにしている
多くの人は持ちすぎることを良くは思っていないが
この学年では自分は持ちすぎるくらいでいいのでは
と思ってしまう

どうせ、規則、決まりの多いサッカーは
大きくなってからやらざるを得ないので、
この時代くらいは好き勝手やらせてあげたいと思うし
実際のところドリブルはたいした武器になるのだ

パスゲームを主体に練習しているチームには
ゴリゴリみんながみんなドリブルで来るチームは
やりにくいのかもしれない
どうしてもドリブルをとめに一人だけじゃなく
人数をかけなくてはならなくなってしまう
すると必然的にどこかスペースが出来てしまう
我々のチームはそこをつくように出来ればいいのだが
残念ながらそこまではまだいってなく
ドリブルのトライを繰り返している

そして、もうひとつの方法
フォーメーションを決めない方法は
ボールに対する寄せがみんなで行くので
相手のチームはボールを自由に持つ時間がなくなってしまう
サイドチェンジすればいいのだが
その時間を与えないくらいに後から後から
人間が出てくる

こんなことが今日の2試合目には出来ていた

試合前は勝てたら奇跡だよね、などと言っていたのが
前半にエースストライカーを出さずに(じゃんけんで負けたので)
みんな必死になってやって0対0で終えられたので
ハーフタイムの表情は集中しきっていた

そして後半、いつもなら絶対不可欠のエースの登場で
またも気分も盛り上がり
走ること走ること!
女の子も、ミスしがちな子も諦めず
1対1に負けずに対応
そしてやはりエースの得点

一緒にサイドで見ていた6年生、5年生、大人も
このチームの試合は面白いと言っていた

攻められる時間もあったが
このゲーム展開では容易に負けはないと
思っていた

時間稼ぎをする余裕はなかったが
結局1点を守りきって勝ち

その時の表情が冒頭の文章で
「どうだった、楽しかった?
 なんだかみんなが一つになってたみたいな気がしない?」
と聞くと
「ほんとに一つになったみたいな感じがした」

試合に勝つ経験は今まで何回もしたかもしれない
しかし、今日のような一体感は
やった者しかわからない貴重な経験で
それをさせてあげられたのは
勝ったことよりも嬉しかった

一人ひとりがみんな必死でサボらず集中してやったので
最後に今日の感想を自分が言う時も
素直に聞いているように見えた

本当に楽しいことは苦しみの後に(大げさ?)
あるのだと知ってもらえたら、さらに嬉しいのだが!

子供たちにとっては
良いクリスマスプレゼントになった一日だった
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まずは愚痴から始めよう

2006年12月22日 21時07分34秒 | Weblog
酒の上の話と言えば昔から上司、
会社の悪口と決まっていた?

確かに、おおきな声で愚痴ってるのを
居酒屋で聞いたり
自らも言ったりしたものだ

だがこの愚痴るのは考えようによっては
かなり現実に効果的だ

第一にストレス発散になる

しかし、こんなに変になってしまった日本の社会を愚痴ることは
上司、会社を愚痴るより少ないのではないだろうか

この場合は愚痴ってみたところで
なんら世の中は変わらない
と諦めてしまっているのかもしれない

自分ひとりが、小市民が、天下国家を語ったところで
どうなるものでもない
と思っているのかもしれない

だが、まずは愚痴ることから始めたらいいのじゃないのかな

まず愚痴る、何度も愚痴る
そうするうちに愚痴る人も増えてくる
次に愚痴ってもどうにもならないと気がついて
何か行動を起こそうとする
こんなことが何分の一くらいの確率でおきるかもしれない

物事は閾値を超えると
一気に変化が起きるらしい
(芋を洗う猿が、ある地域であるパーセント以上になると
 遠く離れた地区でも芋を洗う猿が出現するらしい?)

とにかくまずは、変なことは変、悪いことは悪いと
心情に素直にしたがって
愚痴ってみることが大事だと思うのだが、、、

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ビートルズの新アルバム?「love」

2006年12月20日 20時46分47秒 | Weblog
買うべきか、買わざるべきか
ハムレットではないが悩んでしまっていた
ビートルズ?の「love」

サー・ジョージ・マーティンが息子ジャイルズ・マーティンとともに
プロデュースし、ザ・ビートルズのすべての
トラックを聴き直し、楽器やヴォーカルなどのトラックごとに解体し、
別の曲を組み合わせて新たなサウンドを生み出したアルバム、
と広告にはあるがチョッとゲテモノじゃないか心配で買うのを
ためらっていたわけだ

だから、誰か買わないかな、買ったら貸してもらおう
と思っていたのだが、昨日身近に購入した人がいて
早速貸してもらって今日の通勤の車の中で聞いてみた

まず感想は、
ゲテモノどころじゃなく、結構楽しめた。
いや、むしろ楽しませてもらった、
と言うほうが正確かもしれない
これなら自分用に購入してもいいかもしれない

ビートルズはいいコーラスグループなのだろう
最初のBecause でその実力が発揮されているが
この曲のフレーズとフレーズの間の休止(無音)は
わざとなのか、それともテープ自体がそうなっていたのか
いずれにしてもそれなりの効果はあって
少々まどろっこしいが刺激的ではあった

確かにいろんな曲のいろんな音が
全然別の曲にくっつけられているが
それは無理やりの受け狙いと言うより
こんなもあり、と音楽的で前衛的でもある

Octpus's Garden にGood Nightのバックを使ってみたり
Get Back にSbt Pepper's Lonely Hearts Club Bandと
A Hard Days Nightnの一部を使っていたり
いったいどこからこの音を持ってきたのかと
探す楽しみもある

しかし、改めて感じるのはビートルズは
やはり凄いまでの音楽性を持ったバンドであったことだ
久しぶりにまじめに聞いてみると
音が詰まっているし、アイデアに富んでいる
そして何よりも楽しんで聞くことが出来る

改めて感じたことのもうひとつ
ポールのベースは音の動きがきれいだな、ということ
SomethingやHey Jude のあのコーラス部分の
背後に演奏される音自分は好きだな
(ここにはないが、With Little Help From My Friendや
 Dont Let Me Downのベースラインも好きだが)

このアルバムの印象的な曲のひとつに
While My Guiter Gently Weeps があるが
途中からオーケストラで盛り上げていったが
出だしのようにアコースティックで通したほうが
良かったのではないかと思ってしまった

まだ聞き流しただけだが
どうやら何度も聞いても楽しめるアルバムであったようだ


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孤独になっていく子供たち

2006年12月19日 21時37分45秒 | Weblog
「日本人はなぜここまでこわれたのか」
  マークス寿子著  草思社刊

しばらく急ブレーキがかかっていた読書だが
この本は一気に読んでしまった
この人の本は確か前に一度読んだ事もあったはずだが
その時もイギリスの社会と日本との比較が興味深く解説されていたが
改めてよその国の状況を知ると
如何にこの国が変な方向に向かっているかがわかる

(1)ゆとりのない社会
(2)東京の郊外化する地方都市
(3)なぜ犯罪は広がったのか
(4)少子化対策はお笑い草
(5)増え続ける、男のように生きたい女
(6)金がすべての世の中に
(7)何より見かけが大事
(8)大学で何を教えるか
(9)怒れ 高齢者
(10)ふるさとがなくて愛国心が育つか
(11)遅れている国 進んでいる国
以上の11章にわたって述べられているが
実は、そこに記述されている事は何ら新しい事ではない

というより、おそらく多くの人が薄々感じている事なのだ
つまり、明らかによくない方向に向かっている、と

ひとつひとつには様々な意見があるだろう
特にフェミニズム、少子化対策のあたりは全面的に
この人の意見に賛成できない人がいるだろう

話は変わって
自分は20年程少年サッカーのコーチをやってきて感ずる事が一つある
それは確かに昔の子供と今の子供とは明らかに違うという事だ

一言で言えば今の子供は孤独だ
無邪気に人懐っこいというより
どこか自分を抑えている子が多いように見える

自由で何でも勝手にやって、我慢が足りないといわれるが
本当のところでやりたい事が出来なくなっているのではないか
と思ってしまう

子供時代にやりたいこと、
実は思いっきり遊ぶ事、が大事なのではないのかな
遊んでいるように見えても、大事な経験を彼らはしているのだ
そこで友達、先輩との付き合い方も知らず知らず覚えていく

その大事な時間を塾、勉強に割かれてしまっている

ドイツ人だったかが、今の日本人の勉強漬けの子供を見て
これでは大きくなってからの伸びしろがないだろうから
しばらくは日本に負ける事はないだろう
と言ってたのを覚えている

もう一つの子供っぽさ、感情の発露、爆発
それを単にキレると片付けてしまうのではなく
むしろそのような経験も必要なのだと
おおらかに見守る事も必要なのではないか
(もちろん時と場合によるが)

それが出来ないという今の世の中が
少し余裕がなくなっている気がする

子供にとってよくない世界は
多分大人にとってもよくない世界だろう

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